2024年1月5日

【訃報】梅原猛、橋本治、堺屋太一、竹村健一…

平成の向こう側、昭和は遠くなりにけり…

2024年1月5日 8時22分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240105/k10014309761000.html

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231201/k10014274241000.html

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230406/k10014030461000.html

2023年3月13日 20時40分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230313/k10014006861000.html

2023年2月20日 14時34分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230220/k10013985711000.html

2022年8月30日 19時04分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220830/k10013794461000.html

2021年11月10日 17時06分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211110/k10013342331000.html

2021年11月5日 20時46分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211105/k10013336591000.html

2021年6月29日 13時15分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210629/k10013109461000.html

2021年6月23日 3時13分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210623/k10013098951000.html

2020年10月12日 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201012/k10012659581000.html

作曲家 服部克久さん死去 テレビ番組や映画などのテーマ曲多数
2020年6月11日 20時37分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200611/k10012467241000.html

漫画家 ジョージ秋山さん死去 「銭ゲバ」「浮浪雲」など
2020年6月1日 15時46分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200601/k10012453531000.html

C.W.ニコルさん死去 環境保護活動に尽力 79歳
2020年4月4日 19時28分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200404/k10012368701000.html

SF作家 眉村卓さん死去 「ねらわれた学園」
2019年11月3日 14時45分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191103/k10012162841000.html

評論家の竹村健一さん死去 独特な語り口で人気
2019年7月11日 19時43分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190711/k10011990571000.html

作家の堺屋太一さん死去 小説「団塊の世代」
2019年2月10日 12時41分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190210/k10011810291000.html

作家の橋本治さん 死去
2019年01月29日 19時23分 NHK首都圏 NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20190129/0024708.html

哲学者 梅原猛さん死去 93歳
2019年1月14日 8時06分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190114/k10011777211000.html


(書きかけ)


(№385 2019年2月11日)

207 件のコメント:

  1. 作家の堺屋太一さん死去 小説「団塊の世代」
    2019年2月10日 12時41分

    「団塊の世代」などの小説で知られ、平成10年から2年間、経済企画庁長官も務めるなど、政治や経済、文芸など、幅広い分野で活躍した堺屋太一さんが、8日多臓器不全のため亡くなりました。83歳でした。

    堺屋さんは大阪市の出身で、東京大学経済学部を卒業後、昭和35年に当時の通産省に入り、昭和45年の大阪万博やその後の沖縄海洋博の開催に携わりました。

    在職中の昭和50年に、石油危機を描いた小説、「油断!」で作家としてデビューし、よくとしには1940年代後半に生まれた第1次ベビーブーム世代が将来の日本にもたらす影響を予測した小説、「団塊の世代」がベストセラーになりました。

    また、歴史小説も数多く手がけ、忠臣蔵を題材にした「峠の群像」や、豊臣秀吉の生涯を描いた「秀吉夢を超えた男」は、NHK大河ドラマの原作にもなりました。

    そして、平成10年から2年間、民間人の閣僚として経済企画庁長官を務めたほか、平成25年には安倍内閣の内閣官房参与に任命されるなど、政治や経済、それに文芸など幅広い分野で活躍してきました。

    さらに、歴史を、経済から捉える新たな視点を提示したことなどで平成16年にNHK放送文化賞を受賞したほか、平成24年には旭日大綬章を受章しました。堺屋さんは先月、体調を崩して入院し、治療を受けていましたが、おととい8日、多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなったいうことです。83歳でした。

    経済企画庁長官としても手腕を発揮

    堺屋太一さんは、小渕内閣や森内閣で、2年余りにわたって経済企画庁長官を務め、金融危機で景気が低迷する中、経済対策の取りまとめなどに手腕を発揮しました。

    在任中の平成11年度の経済白書では、みずから執筆した序文の中で、右肩上がりの日本経済を支えてきた前提条件が崩れていることを鋭く指摘したうえで、企業が抱える雇用と設備、それに債務の「三つの過剰」を処理する必要性を強調しました。

    また、平成12年の年末から開かれたインターネット上の博覧会、「インパク」の開催準備にあたったほか、景気の実態をより的確に把握するため、スーパーの店員やタクシーの運転手といった現場で働く人たちに実感を聞く「景気ウォッチャー調査」も考案しました。

    「大阪・関西万博」の誘致にも尽力

    また、堺屋さんは、2025年に開催が決まった「大阪・関西万博」の誘致にも力を尽くしてきました。

    堺屋さんは、昭和35年に当時の通産省に入省し、昭和45年の大阪万博では万国博覧会準備室などの担当として、企画や開催に携わりました。2025年の「大阪・関西万博」でも、万博誘致に向けて大阪府にアドバイスをしていたほか、去年は、東京 新宿区にある自身の自宅を改築した美術館で万博の歴史をテーマにした展示会を開くなど、国内での機運の盛り上げにも努めていました。

    堺屋さん女子プロレス好きな一面も

    堺屋さんは生前、女子プロレスの試合を観戦するのがとても好きだったということで、多い時には、毎月のように試合会場を訪れていたということです。また、14年前の平成17年には、東京・新宿に格闘技のイベントも開催できるプロレスのリングを備えたイベントホールの建設にも尽力したということです。

    その東京・新宿のイベントホール「新宿FACE」の小川愉可支配人は「堺屋さんは女子プロレスを広めたいという強い思いを持っていらっしゃって、イベントホール建設の時にも、お客さんに楽しんでもらうためにはどういった環境を整えたらよいかなど、多くのアドバイスをくださいました」と話していました。そのうえで、「プロレスの試合を見に来られた時は、一般のお客さんに混じって前のめりになって応援していて、1年ほど前にも元気に観戦されていたので、とても驚いたとともに残念です。ご冥福をお祈りします」と話していました。

    田原総一朗さん「豊富なビジョンを率直に話した」

    堺屋さんが通産省の官僚だったころから親交があったジャーナリストの田原総一朗さんは、「大阪万博を企画し、大成功に導いた官僚がいると知り、初めて会いに行った。彼には豊富なビジョンがあり、官僚っぽくなくて、極めて率直に何でも話をしてくれる人だった」と当時を振り返りました。

    田原さんは、「油断!」や「団塊の世代」など堺屋さんの著作は欠かさず読んできたということで、このうち、堺屋さんが官僚時代に執筆した「油断!」は、日本のオイルショックを描いた作品で、「いかに日本に主体性がなくて、オイルメジャーに石油を頼っていたか、まさに『油断』を迫力を持って描いていて、大変大きな衝撃を受けた」と話しました。

    また、歴史を通じて、現代社会へのメッセージを発する作風が好きで、関ヶ原の合戦を題材にした「巨いなる企て」は、「豊臣家の一武将だった石田光成が、全国の大名を集める優れた企画力・戦術を描いていて、関ヶ原の合戦を通じて今の社会を描いている」と語りました。

    田原さんは、堺屋さんの先見性を信頼していたということで、IT時代の到来を予言した「知価革命」は、「ものづくりの時代ではなく、インテリジェンスが大きな経済の要素になるというIT時代の到来を、80年代の後半に予言した。それにもかかわらず、日本は意識改革が進まず、結局、IT時代に遅れに遅れてしまった。非常に悔しい思いをしただろう」と話していました。

    堺屋さんは、組織を縦割りから水平にすることで、意志決定や情報の流通を早める「水平指向」ということばも、早くから提言していたということで、田原さんは、「日本はいまだに縦割り社会で、水平指向にはなれていない。厚生労働省の統計問題など、縦割りの弊害が今も続いている」と指摘しました。

    田原さんが最後に堺屋さんに会ったのは、去年の夏、2人が共に参加する「万年野党」というNPOの、政府を監視し、モノを言おうという集まりだったということです。そこでは、人工知能の台頭による社会の変化について話し、堺屋さんは、「仕事というものの質が変わるだろう。今までは仕事は与えられるものだったがこれからは自分で作っていくものになる」と話していたとのことで、田原さんは、「われわれは彼のようなビジョンを持っていない。惜しい人を亡くした」と堺屋さんをしのんでいました。

    三田誠広さん「アイデアと行動力 特異な才能の人」

    堺屋さんへの数年間にわたる取材をもとに、大阪万博への関わりなどその半生をまとめた「堺屋太一の青春と70年万博」の著者で、芥川賞作家の三田誠広さんは、「“万博”ということばを誰も知らない時期から、ふるさと大阪の経済的な地盤沈下を食い止めるため、役人としてプランを立て実現にまで至ったことには驚かされます。また、『団塊の世代』など、問題意識をすぐに作品化するという、アイデアと行動力が結び付いた特異な才能をお持ちの方でした。新たな大阪万博に向けてこれからもお忙しくなるだろうと思っていたので、突然の訃報に驚いています」とコメントしています。

    自民 岸田政務調査会長「本当にさみしい」

    自民党の岸田政務調査会長は、記者団に対し、「私の父が、旧通産省出身ということもあり、公私にわたって大変親しくさせてもらい、私自身、いろいろなところで、ご指導をいただいた。本当にさみしいものを感じている。ご冥福をお祈りするとともに、さまざまなご指導に改めて心から感謝を申し上げたい」と述べました。

    立民 枝野代表「昭和は遠くなりにけりを実感」

    立憲民主党の枝野代表は、長崎県大村市で記者団に対し、「直接には深い接点があったわけではないが、ニュースを聞いて文字どおり、『昭和は遠くなりにけり』ということを実感した。謹んで哀悼の意を表したい」と述べました。

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    1. 堺屋太一さんを惜しむ声 東京新橋

      堺屋太一さんが亡くなったことについて、東京の新橋駅前では、惜しむ声が聞かれました。

      東京の51歳の男性は、「時代を的確にとらえた鋭い批評は参考になっていたので、非常に惜しいです。これからも混迷を深める時代のなかで、堺屋さんにご助言をいただきたかったです」と話していました。

      鎌倉市の66歳の男性は、「何冊か本を読んでいてファンだったんですが、残念です。いろいろな分野に詳しくて、論点がはっきりしていて分かりやすかった印象があります。一つの時代が終わった感じがします」と話していました。

      また、東京の76歳の男性は、「大阪の万博や、役人で活躍したのが印象に残っていますが、残念です。あと10年くらいは生きてもらいたかったです」と話していました。

      金沢市の女性は、「惜しい方を亡くしたと思います。団塊の世代ということばは、時代をうまく言い当てたことばだったと思います」と話していました。

      大阪 吉村市長「遺志を継ぎ大阪を成長させたい」

      堺屋太一さんは、生前、大阪府や大阪市の特別顧問を務めました。大阪市の吉村市長は「突然の訃報に驚いている。東京一極集中ではなく、大阪がもっと頑張らなくてはいけないといろいろなご指導をいただき、2025年の大阪・関西万博の誘致においても支えていただいた。先生の遺志を継いで、大阪を成長させたい。ご冥福を心からお祈りします」と述べました。

      関経連 松本会長「関西の発展に多大な功績」

      堺屋太一さんが亡くなったことについて、関西経済連合会の松本正義会長は、「堺屋氏は1970年万博の成功に尽力されるとともに、歴史街道構想を提唱するなど、関西の歴史・文化の発展に多大な功績を残された。これから2025年大阪・関西万博の準備を進める中で、数多くの万博に携わってこられた堺屋氏の知見を得たいと考えていたところであり、ご逝去は残念でならない。心よりご冥福をお祈り申し上げる」という談話を出しました。
      街の声「大阪にとって惜しい人」
      JR大阪駅前では、大阪市出身の堺屋太一さんを惜しむ声が聞かれました。

      75歳の男性は「昭和45年の大阪万博で活躍した人なので、2025年の大阪・関西万博でもアドバイスをくれたのではないかと思う。大阪にとって惜しい人を亡くした」と話していました。

      71歳の男性は「経済に関して幅広く発言し、私たちにとっても参考になることを数多く執筆していた」と話していました。

      83歳の男性は「役人の出身ながら、庶民の感覚で話すことができる物事のバランスをよく分かった人だった。今はあのような人はいない。昭和や平成ではなく、『堺屋太一時代』が終わったという印象だ」と話していました。

      “海洋博が観光地沖縄の発展につながった”

      沖縄県浦添市に住む仲里嘉彦さん(80)は地元で経済誌などを発行し、沖縄が本土復帰した翌年の昭和48年に初めてインタビューして以来、堺屋さんの講演を開くなど、親交を深めてきました。

      仲里さんは「大阪万博の経験がある堺屋さんが海洋博に関わるということで、沖縄として期待していた。観光の素材が沖縄の伝統文化や地域文化の中に多くあり、これを発掘して世界に売り出すという発想を持っていた」と話し、堺屋さんが携わった昭和50年の国際海洋博覧会がのちの沖縄の観光地としての発展につながったと強調しました。

      そのうえで、「もう一度お会いして沖縄がどうすればさらによくなるのか教えを請いたいと思っていたので、亡くなられたと聞いて大変、驚きました。天国から『沖縄の観光は成長している、どうですか、私の言ったとおりでしょ』と言いながら見守ってくれているように感じます」と話していました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190210/k10011810291000.html

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    2. 「堺屋太一」のニュース
      https://www.2nn.jp/word/%E5%A0%BA%E5%B1%8B%E5%A4%AA%E4%B8%80

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    3. 作家の堺屋太一さん死去 小説「団塊の世代」
      2019年2月10日 12時41分

      「団塊の世代」などの小説で知られ、平成10年から2年間、経済企画庁長官も務めるなど、政治や経済、文芸など、幅広い分野で活躍した堺屋太一さんが、8日多臓器不全のため亡くなりました。83歳でした。

      堺屋さんは大阪市の出身で、東京大学経済学部を卒業後、昭和35年に当時の通産省に入り、昭和45年の大阪万博やその後の沖縄海洋博の開催に携わりました。

      在職中の昭和50年に、石油危機を描いた小説、「油断!」で作家としてデビューし、よくとしには1940年代後半に生まれた第1次ベビーブーム世代が将来の日本にもたらす影響を予測した小説、「団塊の世代」がベストセラーになりました。

      また、歴史小説も数多く手がけ、忠臣蔵を題材にした「峠の群像」や、豊臣秀吉の生涯を描いた「秀吉夢を超えた男」は、NHK大河ドラマの原作にもなりました。

      そして、平成10年から2年間、民間人の閣僚として経済企画庁長官を務めたほか、平成25年には安倍内閣の内閣官房参与に任命されるなど、政治や経済、それに文芸など幅広い分野で活躍してきました。

      さらに、歴史を、経済から捉える新たな視点を提示したことなどで平成16年にNHK放送文化賞を受賞したほか、平成24年には旭日大綬章を受章しました。堺屋さんは先月、体調を崩して入院し、治療を受けていましたが、おととい8日、多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなったいうことです。83歳でした。

      経済企画庁長官としても手腕を発揮

      堺屋太一さんは、小渕内閣や森内閣で、2年余りにわたって経済企画庁長官を務め、金融危機で景気が低迷する中、経済対策の取りまとめなどに手腕を発揮しました。

      在任中の平成11年度の経済白書では、みずから執筆した序文の中で、右肩上がりの日本経済を支えてきた前提条件が崩れていることを鋭く指摘したうえで、企業が抱える雇用と設備、それに債務の「三つの過剰」を処理する必要性を強調しました。

      また、平成12年の年末から開かれたインターネット上の博覧会、「インパク」の開催準備にあたったほか、景気の実態をより的確に把握するため、スーパーの店員やタクシーの運転手といった現場で働く人たちに実感を聞く「景気ウォッチャー調査」も考案しました。

      「大阪・関西万博」の誘致にも尽力

      また、堺屋さんは、2025年に開催が決まった「大阪・関西万博」の誘致にも力を尽くしてきました。

      堺屋さんは、昭和35年に当時の通産省に入省し、昭和45年の大阪万博では万国博覧会準備室などの担当として、企画や開催に携わりました。2025年の「大阪・関西万博」でも、万博誘致に向けて大阪府にアドバイスをしていたほか、去年は、東京 新宿区にある自身の自宅を改築した美術館で万博の歴史をテーマにした展示会を開くなど、国内での機運の盛り上げにも努めていました。

      堺屋さん女子プロレス好きな一面も

      堺屋さんは生前、女子プロレスの試合を観戦するのがとても好きだったということで、多い時には、毎月のように試合会場を訪れていたということです。また、14年前の平成17年には、東京・新宿に格闘技のイベントも開催できるプロレスのリングを備えたイベントホールの建設にも尽力したということです。

      その東京・新宿のイベントホール「新宿FACE」の小川愉可支配人は「堺屋さんは女子プロレスを広めたいという強い思いを持っていらっしゃって、イベントホール建設の時にも、お客さんに楽しんでもらうためにはどういった環境を整えたらよいかなど、多くのアドバイスをくださいました」と話していました。そのうえで、「プロレスの試合を見に来られた時は、一般のお客さんに混じって前のめりになって応援していて、1年ほど前にも元気に観戦されていたので、とても驚いたとともに残念です。ご冥福をお祈りします」と話していました。

      田原総一朗さん「豊富なビジョンを率直に話した」

      堺屋さんが通産省の官僚だったころから親交があったジャーナリストの田原総一朗さんは、「大阪万博を企画し、大成功に導いた官僚がいると知り、初めて会いに行った。彼には豊富なビジョンがあり、官僚っぽくなくて、極めて率直に何でも話をしてくれる人だった」と当時を振り返りました。

      田原さんは、「油断!」や「団塊の世代」など堺屋さんの著作は欠かさず読んできたということで、このうち、堺屋さんが官僚時代に執筆した「油断!」は、日本のオイルショックを描いた作品で、「いかに日本に主体性がなくて、オイルメジャーに石油を頼っていたか、まさに『油断』を迫力を持って描いていて、大変大きな衝撃を受けた」と話しました。

      また、歴史を通じて、現代社会へのメッセージを発する作風が好きで、関ヶ原の合戦を題材にした「巨いなる企て」は、「豊臣家の一武将だった石田光成が、全国の大名を集める優れた企画力・戦術を描いていて、関ヶ原の合戦を通じて今の社会を描いている」と語りました。

      田原さんは、堺屋さんの先見性を信頼していたということで、IT時代の到来を予言した「知価革命」は、「ものづくりの時代ではなく、インテリジェンスが大きな経済の要素になるというIT時代の到来を、80年代の後半に予言した。それにもかかわらず、日本は意識改革が進まず、結局、IT時代に遅れに遅れてしまった。非常に悔しい思いをしただろう」と話していました。

      堺屋さんは、組織を縦割りから水平にすることで、意志決定や情報の流通を早める「水平指向」ということばも、早くから提言していたということで、田原さんは、「日本はいまだに縦割り社会で、水平指向にはなれていない。厚生労働省の統計問題など、縦割りの弊害が今も続いている」と指摘しました。

      田原さんが最後に堺屋さんに会ったのは、去年の夏、2人が共に参加する「万年野党」というNPOの、政府を監視し、モノを言おうという集まりだったということです。そこでは、人工知能の台頭による社会の変化について話し、堺屋さんは、「仕事というものの質が変わるだろう。今までは仕事は与えられるものだったがこれからは自分で作っていくものになる」と話していたとのことで、田原さんは、「われわれは彼のようなビジョンを持っていない。惜しい人を亡くした」と堺屋さんをしのんでいました。

      三田誠広さん「アイデアと行動力 特異な才能の人」

      堺屋さんへの数年間にわたる取材をもとに、大阪万博への関わりなどその半生をまとめた「堺屋太一の青春と70年万博」の著者で、芥川賞作家の三田誠広さんは、「“万博”ということばを誰も知らない時期から、ふるさと大阪の経済的な地盤沈下を食い止めるため、役人としてプランを立て実現にまで至ったことには驚かされます。また、『団塊の世代』など、問題意識をすぐに作品化するという、アイデアと行動力が結び付いた特異な才能をお持ちの方でした。新たな大阪万博に向けてこれからもお忙しくなるだろうと思っていたので、突然の訃報に驚いています」とコメントしています。

      自民 岸田政務調査会長「本当にさみしい」

      自民党の岸田政務調査会長は、記者団に対し、「私の父が、旧通産省出身ということもあり、公私にわたって大変親しくさせてもらい、私自身、いろいろなところで、ご指導をいただいた。本当にさみしいものを感じている。ご冥福をお祈りするとともに、さまざまなご指導に改めて心から感謝を申し上げたい」と述べました。

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    4. 立民 枝野代表「昭和は遠くなりにけりを実感」

      立憲民主党の枝野代表は、長崎県大村市で記者団に対し、「直接には深い接点があったわけではないが、ニュースを聞いて文字どおり、『昭和は遠くなりにけり』ということを実感した。謹んで哀悼の意を表したい」と述べました。

      堺屋太一さんを惜しむ声 東京新橋

      堺屋太一さんが亡くなったことについて、東京の新橋駅前では、惜しむ声が聞かれました。

      東京の51歳の男性は、「時代を的確にとらえた鋭い批評は参考になっていたので、非常に惜しいです。これからも混迷を深める時代のなかで、堺屋さんにご助言をいただきたかったです」と話していました。

      鎌倉市の66歳の男性は、「何冊か本を読んでいてファンだったんですが、残念です。いろいろな分野に詳しくて、論点がはっきりしていて分かりやすかった印象があります。一つの時代が終わった感じがします」と話していました。

      また、東京の76歳の男性は、「大阪の万博や、役人で活躍したのが印象に残っていますが、残念です。あと10年くらいは生きてもらいたかったです」と話していました。

      金沢市の女性は、「惜しい方を亡くしたと思います。団塊の世代ということばは、時代をうまく言い当てたことばだったと思います」と話していました。

      大阪 吉村市長「遺志を継ぎ大阪を成長させたい」

      堺屋太一さんは、生前、大阪府や大阪市の特別顧問を務めました。大阪市の吉村市長は「突然の訃報に驚いている。東京一極集中ではなく、大阪がもっと頑張らなくてはいけないといろいろなご指導をいただき、2025年の大阪・関西万博の誘致においても支えていただいた。先生の遺志を継いで、大阪を成長させたい。ご冥福を心からお祈りします」と述べました。

      関経連 松本会長「関西の発展に多大な功績」

      堺屋太一さんが亡くなったことについて、関西経済連合会の松本正義会長は、「堺屋氏は1970年万博の成功に尽力されるとともに、歴史街道構想を提唱するなど、関西の歴史・文化の発展に多大な功績を残された。これから2025年大阪・関西万博の準備を進める中で、数多くの万博に携わってこられた堺屋氏の知見を得たいと考えていたところであり、ご逝去は残念でならない。心よりご冥福をお祈り申し上げる」という談話を出しました。

      街の声「大阪にとって惜しい人」

      JR大阪駅前では、大阪市出身の堺屋太一さんを惜しむ声が聞かれました。

      75歳の男性は「昭和45年の大阪万博で活躍した人なので、2025年の大阪・関西万博でもアドバイスをくれたのではないかと思う。大阪にとって惜しい人を亡くした」と話していました。

      71歳の男性は「経済に関して幅広く発言し、私たちにとっても参考になることを数多く執筆していた」と話していました。

      83歳の男性は「役人の出身ながら、庶民の感覚で話すことができる物事のバランスをよく分かった人だった。今はあのような人はいない。昭和や平成ではなく、『堺屋太一時代』が終わったという印象だ」と話していました。

      “海洋博が観光地沖縄の発展につながった”

      沖縄県浦添市に住む仲里嘉彦さん(80)は地元で経済誌などを発行し、沖縄が本土復帰した翌年の昭和48年に初めてインタビューして以来、堺屋さんの講演を開くなど、親交を深めてきました。

      仲里さんは「大阪万博の経験がある堺屋さんが海洋博に関わるということで、沖縄として期待していた。観光の素材が沖縄の伝統文化や地域文化の中に多くあり、これを発掘して世界に売り出すという発想を持っていた」と話し、堺屋さんが携わった昭和50年の国際海洋博覧会がのちの沖縄の観光地としての発展につながったと強調しました。

      そのうえで、「もう一度お会いして沖縄がどうすればさらによくなるのか教えを請いたいと思っていたので、亡くなられたと聞いて大変、驚きました。天国から『沖縄の観光は成長している、どうですか、私の言ったとおりでしょ』と言いながら見守ってくれているように感じます」と話していました。

      オリックス 宮内氏「もっと多くを語りたかった」

      堺屋さんと親交の深かったオリックスの宮内義彦シニア・チェアマンは「突然の訃報に接し、大変驚いております。堺屋氏は広範な興味と旺盛な探究心で、未来の予測や、社会の動きについて鋭い観察と先見性を示してきました。若い世代の育成にも熱意を持ち、多くの経営者を育ててきました。最後の未来予測、あるいは日本社会に対する願いは『楽しい社会づくり』だったのではないでしょうか。もっと多くを語り合い、ご一緒したかった」というコメントを出しました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190210/k10011810291000.html

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  2. 造語「団塊の世代」…作家・堺屋太一さん死去
    2019.2.11

    本紙のインタビューに答える堺屋太一さん(2018年11月、東京都新宿区で)

     「団塊の世代」という言葉の生みの親として知られる作家・経済評論家で、経済企画庁(現内閣府)長官も務めた堺屋太一(さかいや・たいち、本名・池口小太郎=いけぐち・こたろう)さんが8日、多臓器不全のため死去した。83歳だった。告別式は17日午後1時から、東京都港区南青山2の33の20青山葬儀所。喪主は妻で洋画家の池口史子(いけぐち・ちかこ)さん。

     大阪市生まれ。東大卒業後、1960年に通商産業省(現経済産業省)に入省し、大阪万博や沖縄海洋博の企画を手がけた。執筆を担当した62年版通商白書では、工業国同士が貿易を活発化させることで互いに発展する「水平分業論」を発表し、世界的に注目を浴びた。75年に石油を断たれた日本を描いた小説「油断!」で作家としてデビュー、ベストセラーとなった。76年の小説「団塊の世代」の題名は、戦後のベビーブーム世代を示す用語として定着した。

     78年に退官後は、作家・評論家に専念。「知価革命」(85年)などの経済評論のほか、「峠の群像」「秀吉」といった歴史小説も発表した。

     98年には小渕内閣の経済企画庁長官に民間から登用され、2000年の森内閣まで務めた。タクシー運転手らに景況感を尋ねて実態を探る「景気ウォッチャー調査」を発案するなど、ユニークな政策を導入した。

     大阪府知事や大阪市長を歴任した橋下徹氏の政策ブレーンとして、大阪都構想などを後押しした。12年に旭日大綬章。25年国際博覧会(大阪・関西万博)の誘致活動でも、開催機運を高めるPR役を担った。

     関係者によると、堺屋さんは1月上旬に体調を崩して東京都内の病院に入院し、心臓の手術を受けたという。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190210-OYT1T50151/

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    1. 堺屋太一さんを悼む
      2019.2.11

      「水平思考」空気を破る…田原総一朗

      8日、多臓器不全のため83歳で死去(写真は昨年11月撮影。手前は1970年の大阪万博を再現した模型)

       大阪万博が終わった直後の1971年頃、初めて堺屋さんにお会いした。誰も思いつかなかったような大阪万博を企画し、成功させた人に会いたかったからだ。ざっくばらんで官僚らしくない面白い人だと思った。

       とにかく構想力があり、ものすごい先見性やビジョンを持っていた。その後に携わった沖縄海洋博では、沖縄は観光資源も豊富で大いに発展できるのだという可能性を示した。

       書籍では、『団塊の世代』(76年)で、その世代が後に大きな問題になることを予見していたが、日本が石油を断たれたらどうなるかを描いた『油断!』(75年)も衝撃的だった。『知価革命』(85年)では、80年代の段階でITの時代が来ると予言し、対応を訴えていた。だが、日本社会は変わらず、IT化が遅れてしまった。悔しい思いをしたのではないか。

       日本社会の縦割りの弊害を感じていた人だからか、水平思考という言葉をよく使っていた。バランスや、組織を横断することの重要性を言いたかったのだろう。一方で万博や海洋博を企画したことを考えても、空気を破ることを何とも思っていなかった、希有けうな存在だ。

       才能だけでなく非常に勉強熱心で、話題も豊富だった。堺屋さんとカナダや中国、アメリカを旅行で回ったことがあるが、奥さんも一緒でとても仲が良かったのが印象に残っている。

       改革をしない日本の帰結を、97~98年に新聞連載した近未来小説『平成三十年』で描いたように、彼は平成の日本には期待していなかった。実際に今、その通りになったが、それでも経済の問題などをどうすればいいかを必死に考え、日本人の意識革命を促していた。政府にもの申す政策NPO「万年野党」で一緒に活動していたから分かる。今年の夏も、シンポジウムで色々な議論をするつもりだった。もっと警鐘を鳴らしたかったはずで、非常に残念だ。(ジャーナリスト、談)

       
      「万博の衝撃」50年の縁…コシノジュンコ

       堺屋さんとの出会いは、大阪万博が開幕する前年の1969年です。それから50年ほどの付き合いですが、私と会うと、決まって当時の衝撃を思い出すみたい。

       大阪万博では、三つのパビリオンで、コンパニオンのユニホームのデザインを手がけました。その一つが生活産業館。パビリオンを担当した建築家から依頼されたのですが、デザインを見せると、堺屋さんらから猛反発を食らいました。彼は当時、通商産業省(現・経済産業省)の役人で、生活産業館の責任者を務めていたのです。

       私は既にこの頃、グループサウンズのステージ衣装を手がけていたけれど、お堅い職業の人には知られていなかった。しかも、提案したのは超ミニスカートに地下足袋風のロングブーツ。堺屋さんらは「こんなの、着させられない」と。私は納得がいかず、新幹線に乗って何度大阪に説明に行ったことか。

       万博では若い芸術家が多く起用され、一斉に文化が花開いた。堺屋さんだって、そこで文化に触れたからこそ、作家になったのだと思いますよ。その後はよく話をするようになりました。話し好きで、物知りで、大阪人っぽい人。

       70年頃のことです。東京・青山の外苑西通り近くにブティックを移転しました。この通りは64年の東京五輪に向けて着工された新しい通りなのに、いい呼び名がない。堺屋さんに相談したら、「あなたみたいな人が好きに付ければいいんだよ」と背中を押してくれました。

       その気になって、ピンキーとキラーズが人気だったことなどから「キラー通り」と名付けたら、定着した。それが2020年東京五輪で2度目のオリンピック通りになるのだから感慨深いですね。

       私は、25年の大阪万博の誘致特使を務めました。今後も万博に関わる予定で、堺屋さんからアドバイスをもらいたかった。残念ですが、「昔を振り返るのではなく、新しいことをどんどんやりなさい」と言われるように思います。(デザイナー、談)

       
      話上手 冗談好き…養老孟司

       突然のことで驚いた。話が上手で冗談が好きな明るい人だった。堺屋さんのご自宅で一緒に食事をしたりお茶を飲んだりして、色んなことを語り合った。経済や政治の話になると、官僚時代の経験を交えながら楽しそうに話す姿が忘れられない。(解剖学者、談)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190210-OYT8T50106/

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    2. 堺屋さん 「予測小説」日本に警鐘…官僚、作家 多彩な才能
      2019.2.11

      大阪市に寄贈した連作びょうぶ「秀吉 天下取り物語」を紹介する堺屋太一さん(2006年12月、大阪市で)

       8日に83歳で亡くなった堺屋太一氏は、日本社会の先行きを見通し、警鐘を鳴らし続けた。

       1975年に小説家としてデビューすると、自らの小説を「予測小説」と呼び、近未来の日本を予言するかのように描いた。「風と炎と」(92~93年、全4部)では工業社会の後に情報社会が来ることを言い当てた。

       98年から約2年半務めた経済企画庁(現内閣府)長官時代には、公表文書などの難解な「官僚言葉」を分かりやすく見直すよう、号令をかけ続けた。政府が毎月公表する月例経済報告の文言も、自ら推敲すいこうして書き換えたという。堺屋氏の指導をきっかけに、月例報告の文体は簡潔・平易になり、現在に至っている。

       アイデアマンとしても知られた。経企庁長官時代の2000年には、パソコンの講習費の一部を公費助成する「IT(情報技術)受講カード」構想を提唱した。当時の日本は欧米などに比べてインターネットの普及率が低く、お年寄りや主婦層なども含め、多くの国民が電子メールなどの使い方を身につけることが不可欠と判断したためだ。

       この構想は「公費のばらまき」との批判が出て実現しなかったが、ネットや電子メールが生活に大きな役割を占めることに、いち早く気づいた堺屋氏ならではのエピソードだった。

       
      [評伝]斬新に時代プロデュース

      「堺屋太一とは何者かと(よく)言われる。原点は全部、想像力。夢を見ようということ」。2013年、新刊の取材で話を聞いた。ほおを紅潮させ立て板に水とばかりに、社会政策や自身の半生を語り出す。さまざまな顔を持ち、時代をプロデュースしてきた、異能ぶりを見せつけられた。

       ペンネームは、豊臣時代に堺から大坂に移った先祖の名から。「商家の血筋を引く家庭に育ち、『自分で切った手形は、自分で落とせ』という教育を受けた」という。

       通商産業省(現・経済産業省)の若手官僚時代から柔軟に発想し、流行語「巨人、大鵬、卵焼き」も堺屋さんの発言から生まれたともいわれる。通商白書などを書く中で執筆の面白さに目覚めた。1975年のデビュー小説「油断!」は、73年の石油ショック直前に原型ができていたという。

       未来を予測し時代をキャッチーな言葉でとらえる才能は、続く「団塊の世代」でも生きた。戦後のベビーブーム世代を、鉱物学の学術用語ノジュール(団塊)にちなみ命名。人口構成の不均衡による将来的な課題を予見したことについては、「当時の役所は、人口爆発に備え干拓などで食糧増産をしようとの発想だった。私は、この人口の塊が、流行と過剰施設を残して老いてゆくことに恐ろしさを感じた」と振り返っていた。

       退官後も活躍の幅を広げ文明批評のほか、忠臣蔵を経済ドラマの視点で描きNHK大河ドラマの原作にもなった「峠の群像」など、斬新な歴史小説でも人気だった。「小説の中でいろいろな人物を生み出したけど、自分ほど面白いやつはいない」。けれん味たっぷりに語り、女子プロレスも愛した。

       最近も2025年の大阪・関西万博に期待を寄せ、「中央公論」誌2月号の対談では、明治以降の「強い日本」、戦後の「豊かな日本」に次ぐ目標として「楽しい日本」を挙げた。夢見る時代の名プロデューサーが、平成の終わりに残した「遺言」だ。(文化部 川村律文)
       

      努力惜しまぬ姿に感心

       キッコーマン取締役名誉会長の茂木友三郎さんのコメント「堺屋さんとは同じ年(1935年)の生まれで、『昭和10年生まれの会』のメンバー同士、家族ぐるみで親しくさせていただいた。1~2か月前の会合で隣の席になり、お元気にされていたので、訃報ふほうに接し驚きました。堺屋さんにいつ原稿を書いているのかと聞いたことがあります。『原稿は夜中の12時過ぎから書きます。それまでは他の人が書いたものを読みます。眠くなったら立って読みます』と話していました。一流の作家でもそれほどの努力をされているのかと、大変感心したことが思い出されます」

      万博実現の行動力 伝説

       2009年に評伝「堺屋太一の青春と70年万博」を刊行した、作家の三田誠広さんの話「非常に気さくで前向きな、声の大きい人だった。一介の役人にすぎなかったのに、地盤沈下の進む故郷の大阪を何とかして救わなければという思いで、万博を実現させた行動力は伝説的。鋭い着眼点で問題を見つけ、対応するという、希有けうな才能を持つ人だった。自身がルーツとする関西の商人のような前向きさと行動力を、持ち合わせてもいた」
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190211-OYT1T50055/

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  3. ロック歌手 内田裕也さん 肺炎のため死去 79歳
    2019年3月18日 8時37分

    日本のロックの黎明期に歌手として活躍し、去年亡くなった樹木希林さんの夫としても知られる内田裕也さんが17日、東京都内の病院で肺炎のため亡くなりました。79歳でした。

    内田裕也さんは兵庫県西宮市出身で、高校時代、エルビス・プレスリーに憧れてロック歌手を志しました。

    高校を中退後、昭和33年にロックンロールにこだわった「ブルージーン・バップス」を結成して本格的にバンド活動を始め、昭和41年のザ・ビートルズの来日では、前座としてステージに立ちました。

    歌手としての活動のほか、音楽プロデューサーとしても日本のロックの黎明期をけん引する活動を続け、年末恒例のロックフェスティバルを40年以上続けるなど、若手の育成にも力を入れてきました。

    また、俳優として数々の映画にも出演し、中でも昭和61年に公開された滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」では、過激なテレビリポーターを主演して人気を集め、国際的にも評価を受けました。

    その後、平成3年に東京都知事選挙に立候補して落選したのをはじめ、民主党政権が行った「事業仕分け」の会場を訪れるなど、自由で奇抜な言動が注目されていました。

    妻は俳優の樹木希林さんで、長く別居生活を送りながらも離婚せず、去年9月に樹木さんが亡くなった際には「今までありがとう。安らかに眠ってください。見事な女性でした」などと感謝の気持ちをつづっていました。

    内田さんは最近は車いすでの生活を送っていて、所属事務所によりますと、17日午前5時半ごろ東京都内の病院で肺炎のため亡くなったということです。

    所属事務所「Rock人生を全う」

    内田裕也さんが亡くなったことについて、所属事務所は「この数年、闘病の日々でした。それでもユーモア、ウイットを忘れず、時には世の中を憂い、怒り、常に自分の出来る事を模索しておりました。多くの友人知人、家族に支えられて、Rock‘n’Roll人生を全うすることが出来ました事をここに心よりお礼申し上げます」とコメントしています。

    反骨精神と型破りな行動力

    ミュージシャンとしての内田さんを代表するバンド、「フラワー・トラベリン・バンド」が結成されたのは昭和44年。ビートルズやクリーム、ジミ・ヘンドリックスといった欧米のミュージシャンの影響を強く受け、「ANYWHERE」、「Satori」、「MakeUp」といった数々のアルバムを発表します。

    当時は、日本のロックの黎明期。日本のバンドは日本語で歌うべきか英語で歌うべきかという論争が持ち上がる中、内田さんは英語を選択します。

    ジョー山中さんの日本人離れしたボーカルと、メンバーの高い演奏力は、海外でも高い評価を受け、日本のバンドによる海外進出の先駆けとなりました。商業的には大きな成功を収めることはできませんでしたが、日本のロックの記念碑的な作品として、今も語り継がれています。

    その後、映画にも活動の場を広げ、「コミック雑誌なんかいらない!」「エロティックな関係」などの作品では脚本も担当したほか、昭和60年に放送されたパルコのテレビコマーシャルで、アメリカ・ニューヨークのハドソン川をスーツ姿で泳ぐ姿は、当時のコマーシャルの常識を打ち破る作品として衝撃をもって受け止められました。

    こうした内田さんの反骨精神あふれる姿勢と型破りな行動力は、時として問題となる一方、日本のロックの先駆者として、その後のミュージシャンに大きな影響を与え続けています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190318/k10011851931000.html

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  4. 4月24日 編集手帳
    2019/04/24 05:00

     セブンイレブンのCMといえば、忌野清志郎さんの『デイ・ドリーム・ビリーバー』がおなじみだろう。<♪ずっと夢を見て 安心してた~>という歌声が耳になじむ◆米国のバンド「ザ・モンキーズ」のカバーだが、歌詞は原曲をそのまま訳したものではない。タイトルにもなる「デイ・ドリーム・ビリーバー(夢うつつ)」などいくつかの語を残しつつ、大部分は清志郎さん自身が創作している◆一番はこう始まる。<もう今は 彼女はどこにもいない 朝早くめざましがなっても そういつも 彼女と暮らしてきたよ ケンカしたり 仲直りしたり>◆恋人と思わせておいて、じつは母をしのんだ歌といわれる。清志郎さんは3歳で母と死別し、母の姉夫婦に引き取られた。養父からいきさつを明かされたのは育ての母が他界したときだったという。「彼女」はどちらの母か、両方か。そんなことを思いながら聴いていると、♪ずっと夢~のところでうるっとしてしまう◆つぎの5月2日はがんで58歳の若さで旅立ってから10回目の命日となる。ファンは名字をしゃれて「忌野忌」と呼んでいる。母の日も近い。
    https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20190424-OYT8T50001/

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  5. 年下の男の子、ひと夏の経験…作詞家の千家和也さん死去
    2 時間前

     キャンディーズの「年下の男の子」や山口百恵さんの「ひと夏の経験」など1970年代に数々のヒット曲を手がけた作詞家の千家和也(せんけ・かずや、本名・村越英文=むらこし・ひでふみ)さんが13日、食道がんで死去した。73歳だった。葬儀は近親者で済ませた。


     歌謡曲の世界で活躍し、聴き手の想像力を刺激する鮮やかな描写で知られる。72年、奥村チヨさんの「終着駅」で日本レコード大賞作詩賞を受賞。ほかの代表曲は、麻丘めぐみさんの「芽ばえ」、麻生よう子さんの「逃避行」、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」、殿さまキングスの「なみだの操」、三善英史さんの「雨」、アニメ「魔女っ子メグちゃん」のオープニング曲など。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190626-OYT1T50269/

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    1. 作詞家の千家和也さんが死去 「終着駅」「ひと夏の経験」など
      6/26(水) 15:35配信 共同通信

       「終着駅」や「ひと夏の経験」など数多くのヒット曲の歌詞を手掛け、1970年代の歌謡界をリードした作詞家の千家和也(せんけ・かずや、本名村越英文=むらこし・ひでふみ)さんが13日に死去したことが26日、分かった。73歳。葬儀・告別式は近親者で行った。

       なかにし礼さんに師事。72年、奥村チヨさんの「終着駅」で日本レコード大賞作詩賞を受賞した。「ひと夏の経験」をはじめ山口百恵さんのヒット曲を多数手掛けた他、麻丘めぐみさんには「わたしの彼は左きき」などを提供し、アイドル歌謡の一時代を支えた。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190626-00000133-kyodonews-cul

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    2. 作詞家の千家和也さん死去=「ひと夏の経験」「わたしの彼は左きき」
      6/26(水) 17:39配信 時事通信

       千家 和也さん(せんけ・かずや、本名村越英文=むらこし・ひでふみ=作詞家)13日死去、73歳。

       千葉県出身。葬儀は近親者で行った。

       山口百恵さんが歌った「としごろ」「ひと夏の経験」をはじめ、麻丘めぐみさんの「わたしの彼は左きき」、キャンディーズの「年下の男の子」、奥村チヨさんの「終着駅」、殿さまキングスの「なみだの操」など70年代のヒット歌謡曲を多数作詞した。アニメ「魔女っ子メグちゃん」の主題歌なども手掛けた。 
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190626-00000112-jij-soci

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    3. 人の命は儚いが、作品は永遠に不滅…

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  6. 評論家の竹村健一さん死去 独特な語り口で人気
    2019年7月11日 19時43分

    パイプをくわえたスタイルや独特な語り口で人気を集めた評論家の竹村健一さんが今月8日、多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなりました。89歳でした。

    竹村健一さんは大阪の出身で京都大学を卒業後、新聞記者や民間企業の社員を経て評論活動を始めました。

    政治・経済や自己啓発など幅広い分野で評論家として活躍し、ニュース番組のコメンテーターなども務めました。

    「デリーシヤス」などの流行語を生み出したほか、パイプをくわえたスタイルや「だいたいやねえ」という語り口で人気を集めました。

    家族によりますと竹村さんは80歳で現役を引退したあと、旅行や趣味のテニスを楽しんでいましたが、この2年ほどは入退院を繰り返していたということで今月8日の夜、多臓器不全のため東京都内の病院で89歳で亡くなりました。

    告別式は家族葬で行い、お別れの会などの予定はないということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190711/k10011990571000.html

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    1. パイプを片手に「だいたいやね」…評論家の竹村健一さん死去
      2019/07/11 21:46

       文筆、テレビで活躍した評論家の竹村健一(たけむら・けんいち)さんが8日午後7時38分、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。告別式は家族で済ませた。喪主は、長男で京都造形芸術大教授の文化人類学者、真一氏。

       大阪府出身。京都大卒業後、フルブライト留学生として、米国の大学で学んだ。英字紙記者を経て、追手門学院大学助教授。1960年代後半、メディア論で知られるカナダの研究者マーシャル・マクルーハンを紹介し、テレビの台頭などの世相に合致したことで大きな反響を呼んだ。

       同大退職後も、政治、経済、外交など幅広い分野で発言。フジテレビの時事討論番組「世相を斬る」では、政治家や財界人と丁々発止のやり取りを繰り広げ、後継番組の「報道2001」なども含め、視聴者に長く親しまれた。ラジオや雑誌などでも活躍していたが、80歳を機に現役を引退、この2年ほどは入退院を繰り返していたという。

       パイプを片手に、関西弁でゆったりと話す個性的なスタイル。「だいたいやね」の口癖で知られた。テレビではピアノもよく披露した。「マクルーハンの世界」「自分の会社を持ちなさい」など、著書多数。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190711-OYT1T50232/

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  7. SF作家 眉村卓さん死去 「ねらわれた学園」
    2019年11月3日 14時45分

    「ねらわれた学園」などのSF小説で知られる作家の眉村卓さんが誤えん性肺炎のため、3日朝、亡くなりました。85歳でした。

    眉村卓さん、本名 村上卓児さんは昭和9年、大阪市に生まれ、大阪大学経済学部を卒業後、コピーライターを経て作家としてデビューしました。

    眉村さんは「まぼろしのペンフレンド」や「ねらわれた学園」など、少年少女向けのいわゆる「ジュヴナイルSF」を数多く発表し、昭和54年には人類が宇宙に進出した未来に植民地の惑星で展開される人間模様を描いた「消滅の光輪」で泉鏡花文学賞を受賞しました。

    また、がんで闘病中だった妻の悦子さんを励ますため、毎日一話ずつ書き続けた作品は話題になり、「妻に捧(ささ)げた1778話」として出版され、映画にもなりました。

    家族によりますと、眉村さんは数年前からがんを患い、先月8日から体調を崩し入院していました。

    亡くなる直前までベッドの上で執筆活動を続けていたということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191103/k10012162841000.html

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    1. SF小説の名手、眉村卓さん死去 作品に「ねらわれた学園」
      11/3(日) 12:02配信共同通信

       SF小説の名手として知られた作家眉村卓(まゆむら・たく、本名村上卓児=むらかみ・たくじ)さんが3日午前4時1分、誤嚥性肺炎のため大阪市阿倍野区の大阪鉄道病院で死去した。85歳。大阪市出身。葬儀・告別式は9日午後0時半から、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115、やすらぎ天空館で。喪主は長女知子(ともこ)さん。

       大阪大卒。「下級アイデアマン」がSF小説のコンテストに入選しデビュー。サラリーマン社会をSFのかたちで描くようになった。主な作品に「準B級市民」の他、「消滅の光輪」(泉鏡花文学賞)や「ねらわれた学園」「なぞの転校生」などがある。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000038-kyodonews-cul

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    2. 作家、眉村卓さん死去 85歳 「ねらわれた学園」「妻に捧げた1778話」、本紙「朝晴れエッセー」選考委員も
      11/3(日) 12:11配信産経新聞

      朝晴れエッセー9月月間賞を選考する作家の眉村卓さん=大阪市浪速区の産経新聞大阪本社(南雲都撮影)

       SF小説「ねらわれた学園」や短編集「妻に捧(ささ)げた1778話」などで知られる作家で、本紙朝刊1面の読者投稿「朝晴れエッセー」の選考委員を務める眉村卓(まゆむら・たく、本名・村上卓児=むらかみ・たくじ)さんが3日午前4時1分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため大阪市内の病院で死去した。85歳だった。通夜は8日午後6時、葬儀・告別式は9日午後0時半、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115、やすらぎ天空館で。喪主は長女、知子(ともこ)さん。

       昭和9年、大阪市出身。大阪大学経済学部を卒業後、会社員として勤務する傍らSF同人誌「宇宙塵(じん)」に参加、36年に「下級アイデアマン」が「SFマガジン」の「空想科学小説コンテスト(現ハヤカワSFコンテスト)」に佳作入選し、デビュー。40年から専業作家となり、54年に「消滅の光輪」で泉鏡花文学賞と星雲賞を受賞した。

       SF作品にとどまらず、短編やエッセー、中学生向けのジュブナイル小説など多数の作品を発表。「なぞの転校生」「ねらわれた学園」はテレビドラマや映画にもなった。平成16年にはがんで闘病中だった妻にむけて書いた短編集を「妻に捧げた1778話」として出版。ベストセラーとなり、映画化もされた。

       18年からは、夕刊1面(大阪本社発行)の読者投稿「夕焼けエッセー」の選考委員に。今年4月に朝刊掲載に移行してからも、すべての掲載作品に目を通し選考を続けていた。

       眉村さんは24年に食道がんを患い、30年にはリンパ節転移の再発で放射線治療を受けていた。

       家族によると先月8日に体調を崩し入院。入院中も「朝晴れエッセー」を読み、最後までベッドの上で執筆に取り組んでいたという。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000530-san-life

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    3. ねらわれた学園・なぞの転校生…作家・眉村卓さん死去
      11/3(日) 12:39配信読売新聞オンライン

       「ねらわれた学園」「なぞの転校生」などのSF小説で知られ、本紙「人生案内」の回答者を務めた作家の眉村卓(まゆむら・たく=本名・村上卓児、むらかみ・たくじ)さんが3日、誤嚥性(ごえんせい)肺炎のため死去した。85歳だった。告別式は9日午後0時30分、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115やすらぎ天空館。喪主は長女、知子さん。

       大阪市生まれ。大阪大卒業後、会社勤めをしながら星新一や小松左京らが参加した同人誌「宇宙塵(じん)」に参加。1961年、「下級アイデアマン」が「空想科学小説コンテスト」の佳作に選ばれ、本格デビューした。

       超能力を使う少年少女が登場する「なぞの転校生」「ねらわれた学園」はベストセラーとなった。植民地化した惑星を舞台に、組織と個人の葛藤を描いた「司政官」シリーズの「消滅の光輪」で79年、泉鏡花文学賞を受賞した。

       がん闘病中の妻を励ますために、97年から1日1話のショート・ショートを執筆。刊行した短編集「妻に捧げた1778話」(2004年)はベストセラーになり、映画化もされた。

       2009年からは、本紙「人生案内」の回答者を務めた。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00050124-yom-ent

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    4. 作家・眉村卓さん「SF第一世代」 小松左京、星新一らと切磋琢磨 最後まで書き続け
      11/3(日) 12:57配信産経新聞

      作家の眉村卓さん=10月2日、大阪市浪速区の産経新聞大阪本社(南雲都撮影)

       3日に死去した作家、眉村卓さんは小松左京さん、筒井康隆さん、星新一さんらとともに「SF第一世代」と呼ばれ、日本のSF小説の黎明(れいめい)期を支えた。鋭く、不思議でユーモラスな“眉村ワールド”はエッセーやジュブナイル小説などにも裾野を広げ、作品は何度も映像化。多くのファンを魅了し続けた。

       眉村さんが執筆活動を始めたのは、まだ「SF」が一般には「空想科学小説」と呼ばれていた時代。れんがメーカーに勤めていたとき、「SFマガジン」に作品を投稿したのがきっかけで、筒井さん、星さんらも作品を発表したSF同人誌「宇宙塵」のメンバーとなり、後に作家デビューを果たした。朝方までの執筆で寝坊や欠勤が続いたため会社は6年で辞め、2年間のコピーラーターを経て専業作家に。

       「人類の進歩と調和」をテーマにした昭和45年の大阪万博の盛り上がりもあって、荒唐無稽と思われていたSFに対する世間の見方も変化する。「SFは、未来を見通した作品だと捉えられるようになりましてね」。眉村さんも次々と作品を発表していった。

       書き上げた原稿はまず、高校の同級生だった妻、悦子さんに見せるのが習慣だった。だが平成9年、悦子さんのがんが判明する。悦子さんを励ますため、眉村さんは毎日欠かさず短編を書くことにした。「僕にできることは、それしかなかった。お百度参りのような気持ちもありました」と後に語っている。

       悦子さんが亡くなるまでの5年間につづった短編をまとめた「妻に捧(ささ)げた1778話」(新潮新書)を16年に出版すると、ベストセラーに。23年には草なぎ剛さん主演で「僕と妻の1778の物語」として映画化。大きな話題を呼んだ。

       「年月と体験を重ねれば考え方も変わる。その時々にしか書けない作品がある」と話していた眉村さん。80代に入ってもなお執筆を続け、29年に出版した短編集「夕焼けのかなた」(双葉文庫)には、死にまつわる作品も目立った。

       昨年夏のインタビューでは、衰えることのない執筆意欲について笑いながらこう語った。「妻の闘病中に書くのが習性になって、書いていないとサボっているような気持ちになる。書くことしか能がないんでしょうね」(藤井沙織)
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000531-san-life

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    5. SF作家の眉村卓さん死去 85歳 「ねらわれた学園」
      11/3(日) 13:36配信朝日新聞デジタル

       「ねらわれた学園」などで知られるSF作家の眉村卓(まゆむら・たく、本名村上卓児〈むらかみ・たくじ〉)さんが3日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため大阪市内の病院で死去した。85歳だった。通夜は8日午後6時、葬儀は9日午後0時30分から、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115の市立葬祭場やすらぎ天空館で。喪主は長女知子(ともこ)さん。

       大阪市生まれ。大阪大学経済学部を卒業後、大阪の耐火煉瓦(れんが)メーカーに勤めながらSF同人誌「宇宙塵(じん)」に参加。水星で働く連邦官と異形の生物との遭遇を描いた「下級アイデアマン」が、1961年に第1回空想科学小説コンテストに入選した。63年、初長編「燃える傾斜」の発表を機にコピーライターに転じ、65年に専業作家となった。

       「なぞの転校生」(67年)や「ねらわれた学園」(76年)など、学園を舞台に不思議な登場人物との出会いを描いた少年少女向けのSFは、テレビドラマや映画になった。

       また、組織内での個人の葛藤を一貫したテーマとし、未来社会での植民惑星の統治者である司政官を描くシリーズでは、「消滅の光輪」(79年)が泉鏡花文学賞と星雲賞、大長編「引き潮のとき」(88~95年、全5巻)が星雲賞を受賞。自伝的要素の強い「夕焼けの回転木馬」(86年)で日本文芸大賞を受賞した。

       がんと診断された妻の悦子さんが2002年に亡くなるまで5年間にわたり毎日1編のショートショートを書き続けた実話は、「僕と妻の1778の物語」として映画化された。大阪芸術大学教授も務めた。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000012-asahi-soci

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    6. 作家の眉村卓さん死去=SF作品「ねらわれた学園」など、85歳
      11/3(日) 14:24配信時事通信

       「司政官シリーズ」「ねらわれた学園」などSF作品で知られた作家の眉村卓(まゆむら・たく、本名村上卓児=むらかみ・たくじ=)さんが3日午前4時1分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため大阪市内の病院で死去した。

       85歳だった。大阪市出身。葬儀は9日午後0時30分から同市阿倍野区阿倍野筋4の19の115の市立葬祭場やすらぎ天空館で。喪主は長女村上知子(むらかみ・ともこ)さん。

       1961年に「下級アイデアマン」でデビュー。泉鏡花文学賞などを受賞した「消滅の光輪」など本格SFから短編、エッセーまで幅広く手掛けた。ジュブナイルSFの名手としても知られ、「なぞの転校生」「ねらわれた学園」はテレビドラマや映画になった。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000041-jij-soci

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    7. 日本SF界の第一世代 眉村卓さん死去 85歳 「なぞの転校生」「妻に捧げた1778話」
      11/3(日) 17:07配信毎日新聞

       テレビドラマにもなったSF学園小説「なぞの転校生」などで知られ、小松左京(故人)、筒井康隆さんらと共に「日本SF界の第一世代」として活躍した作家、眉村卓(まゆむら・たく、本名・村上卓児=むらかみ・たくじ)さんが、3日午前4時1分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため大阪市内の病院で死去した。85歳。通夜は8日午後6時、葬儀は9日午後0時半、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115のやすらぎ天空館。喪主は長女知子(ともこ)さん。

       大阪市生まれ。大阪大経済学部卒後、サラリーマン生活を経て、1961年、第1回空想科学小説コンテスト(現ハヤカワSFコンテスト)で佳作になった「下級アイデアマン」でデビュー。63年、初の長編「燃える傾斜」を発表して専業作家になった。以来、宇宙もの、未来もの、異世界ものなどの短編を始め、幅広いジャンルの作品を次々と発表。79年、本格SFの代表作、司政官シリーズに連なる長編「消滅の光輪」で泉鏡花文学賞とSF界で権威ある星雲賞を受賞。87年に「夕焼けの回転木馬」で日本文芸大賞、96年に「引き潮のとき」で再び星雲賞を受賞した。

       希代のストーリーテラーとして知られ、特にジュニア向けSF小説(ジュブナイル)の分野では遺憾なく力を発揮した。絶大な人気を得た、NHKの少年ドラマ「なぞの転校生」や、アニメ映画になった「ねらわれた学園」「時空(とき)の旅人」(「とらえられたスクールバス」改題)などが有名。

       高校時代から俳句に親しみ、09年に初の句集「霧を行く」を刊行した。

       02年に妻悦子さんをがんで亡くした。闘病中、毎日1話ずつ妻にささげたショートショート1778話は、「妻に捧(ささ)げた1778話」として出版、映画化され話題を呼んだ。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000056-mai-cul

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    8. >眉村卓 - Wikipedia
      https://www.google.co.jp/search?q=%E7%9C%89%E6%9D%91%E5%8D%93

      >外部リンク
      『消滅の光輪』創元SF文庫版あとがき
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%89%E6%9D%91%E5%8D%93

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    9. >世の中には、それほど本気にはならず適当にその場その場をしのいでいる、それでいて結構有能と見做されている――という人間がしばしばいるようだ。
      http://www.webmysteries.jp/sf/mayumura0807.html

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    10. >いい加減、あるいは、まことに無責任な司政官――などというものが、存在し得るのだろうか。

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    11. いまどきの役人なんて、無責任で無関心で他人事感覚なくしてはとてもじゃないがやってられないだろ。

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    12. そしてまったく「虚構」のようなお話がまさに「現実」のものとなっている。

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    13. 評伝 眉村卓さん 日常にこそ物語がある SFの名手が愛した「朝晴れエッセー」
      11/3(日) 19:30配信産経新聞

       眉村さんは平成18年から「朝晴れエッセー」の前身「夕焼けエッセー」の月間賞選考委員に加わった。

       初回の選考会となった18年12月。大阪本社を訪れた眉村さんの手には、丁寧に切り抜かれた「夕焼けエッセー」の束があった。「毎日、切り抜いているんです。このほうが読みやすいでしょ。エッセーの味わいが違う」。その真摯な姿勢に、胸を打たれた。

       毎月の選考会では、温かく、厳しく、掲載作に向き合っていた。「プロでも書けないなあ」と感心したり「最後の文はいらないのにな」と注文をつけたり。

       特に、エッセーに作為がある、と感じると評価は厳しかった。SFの名手である眉村さんが、エッセーで大切にしていたのは、何より「日常」だった。「日常の中にこそ考えさせる出来事があるはず。日常に沿った豊かな作品を書いてほしい」。読者の実生活から紡ぎ出される「夕焼けエッセー」は、人々の心を伴った大事な記録だからね、とも話していた。

       眉村さん自身が80歳を過ぎてなお現役作家だったから、「書くこと」には人一倍の思いがあったのかもしれない。カバンには手のひらサイズの黒い手帳をしのばせ、アイデアを思いつくと書き付けた。選考会の合間のおしゃべりでは、あと1冊出版したいんだよ、と熱っぽく語っていた。

       昨年、選考は負担ではないかと体調を尋ねると、絞り出すように「体が動く限りエッセーの選考は続けたい」と話していた。先月8日に入院すると、毎日病室で長女の知子さんが切り抜いた「朝晴れエッセー」を読み、○や△の印をつけていた。その印は23日分まで書き込まれていたという。

       そして「最後は長編を書きたい」と原稿に向かい、亡くなる4、5日前まで、ペンが持てなくなっても長女の知子さんの口述筆記で執筆を続けていた。入院前から書き続けていた長編は、300枚近くになっていたという。

       眉村さんは最後まで「朝晴れエッセー」を愛し、最後まで、作家でありつづけた。(岸本佳子)
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000565-san-life

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    14. がんの妻へ、書き続けた1778話 故・眉村卓さん
      11/3(日) 20:39配信時事通信

      妻・悦子さんの思い出を語る眉村卓さん=2003年11月、大阪市阿倍野区

      ◇自ら課した1日1作、3枚以上

       SF作家の眉村卓(まゆむら・たく、本名村上卓児=むらかみ・たくじ)さんが3日、亡くなった。85歳だった。テレビドラマや映画になった「なぞの転校生」「ねらわれた学園」などの作品とともに、がんで闘病中の妻のために「1日1話」を自らに課し、ショートショートを書き続けたことでも知られる。最愛の妻が亡くなるまで、その数は1778話に上った。

       第1778話を書いたのは2002年5月28日だった。午前1時前、妻の悦子さんが息を引き取った。「きょうが最終回」。眉村さんはいつものように、短いストーリーを書き上げた。

       悦子さんががんで余命が短いと診断されたのは、1997年6月。医師の話を聞き、頭では現実を理解したつもりで最善の策を立てても、目の前は真っ暗になったままだった。

       他に何か自分にできることはないか。そう考えた時、笑うことが体に良いと聞き、「1日1話」の物語を書いて読んでもらう決意をした。

       原稿用紙3枚以上。「アハハとかニヤリと笑える話」。急用ができることも想定し、朝早いうちに書き上げる。出張先からもファクスで病室や自宅へ送る。それらを自らに課した。アイデアが浮かぶとすぐメモ帳に書き留め、病院近くの喫茶店や移動の車中でも執筆した。

       第1作は当時、2人で習い始めていた囲碁を題材にした。「囲碁の話なら読んでもらえると思った」という。

       面白がってくれると思った話が、受けなかったこともある。「妻のことを分かっているつもりで分かっていなかったと反省したり、作家として読者の求めるものを見誤っていたのではないかと自問したり」。思わぬ発見や思索に行き当たった。

       毎日書くうち、いわゆるショートショートとは異なるものができると、小説の形式やジャンルについても改めて考えさせられた。

       妻のために書く作品だが、作家である以上、「プロの作品として通用するもの」に徹した。周囲から「ぜひ多くの人に」との声が上がり、00年から自費出版で作品集「日課・一日3枚以上」の刊行が始まる。作品集が10巻に達し、作品も1500話を超えた01年9月18日には、日本ペンクラブの仲間たちが夫妻を励ます会を開いた。

       この日は42回目の結婚記念日。闘病中とは思えないほど明るく、大阪人らしいユーモアをたたえた2人にふさわしい会にと、友人たちのスピーチも笑いの連続で、約100人の出席者は大いに湧いた。

       作家の新井満さんとピアニストの森ミドリさんが「3枚以上」に引っ掛けて「三枚目の男」と題した即興のシャンソンを披露すると、盛り上がりは最高潮に。眉村さんは「家内が病気になってから、悪夢を見るような日が続いていましたが、きょうはまた別の意味で夢のよう」と感謝の言葉を述べた。

      ◇妻は「もういいよ」と

       夫妻は高校の同級生。24歳で結婚した時、眉村さんは会社勤めをしながら作家を志していた。夜遅く、持ち帰った仕事をしていると先に寝てしまう悦子さんだが、原稿を書いている時はお茶と菓子を持って来てくれたという。「私を物書きにしたいという妻の気持ちが分かりました」と眉村さん。

       5年近くに及んだ「1日1話」は、そんな気持ちを忘れない思いからでもあったが、書き続ける苦しさを知る悦子さんは生前、「『もういいよ』と言ったこともあるんです。でも『自分で決めたことやから』と…」と穏やかに話していた。作品集は04年、「妻に捧げた1778話」(新潮新書)として出版され、映画にもなっている。

       悦子さんががんと診断された当時は、「インフォームドコンセント」(十分な説明と同意)の考え方が広まり、本人に告知する例が増えていた頃だが、悩んだ末に告知した眉村さんは悦子さんが亡くなった翌年、こう振り返っていた。

       「全てを話して最善の方法を一緒に考え、作戦を立てる方がこちらも楽。本人も『(隠されたら)疑心暗鬼になっていたかもしれへん』と言っていました。でも、その選択が正しかったのか、今でも分かりません」

       後で明かしたことがもう一つ。妻のためでありながら作家として書いた「1日1話」は、個人的感情が抑制されている。書き切れない病床の悦子さんへの思い。眉村さんはそれらを俳句にしていたという。「気持ちや感情がどこかにたまっていたんでしょうね。でもそれは家内に見せられませんでした」

       やがて12年には、眉村さん自身も食道がんの診断を受ける。妻の病とはまた違う、自らの「残り時間」を意識させられたことで、小説の書き方が変わったと語り、その変遷は13年に編まれた短編集「自殺卵」(出版芸術社)からもうかがえた。

       眉村さんが「1日1話」と格闘していた99年当時、日本ペンクラブが梅原猛会長(当時)をはじめ、本人や家族ががんと診断された会員たちの体験集「見慣れた景色が変わるとき」を刊行している。会員で作家の小中陽太郎さんは書評に記した。

       「妻のために一日も休まずショートショートを書き続ける眉村卓、プロとしての作家のメティエと一人の夫の愛の、希有(けう)な合一だ」「全体を通読して胸を打つのは、がんで人生の豊かさを知ったと感謝する人間の大きさと、文学することの事実を見据えるものすごさだ」

       1778話の創作を「神懸かりみたいでした」と述懐し、自らの闘病中は「自分がもうすぐ終わるという感覚の中で、見えてきたものがありました」と語った眉村さん。最愛の妻の、そして自らのがんとともに生き、書き続けた作家の筆が、静かに止まった。(時事通信社・若林哲治)。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191103-00000092-jij-soci

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  8. C.W.ニコルさん死去 環境保護活動に尽力 79歳
    2020年4月4日 19時28分

    イギリス出身の作家で、長野県を拠点に森林や生態系を保護する活動に尽力した環境保護活動家のC.W.ニコルさんが3日、直腸がんのため亡くなりました。79歳でした。

    ニコルさんはイギリス・ウェールズの出身で、カナダ水産調査局の技官として海洋哺乳類の調査研究に携わったあと、1980年代から長野県の黒姫高原に移り住み、執筆活動を続けていました。

    森林が伐採されていくことに危機感を抱き、原生林を買い取ったり、間伐を行ったりして森林の再生に取り組みました。また生態系の保護活動も積極的に行い、環境保護活動家としてテレビ番組やコマーシャルに多数出演し、自然保護の大切さを呼びかけてきました。

    東日本大震災の復興活動にも力をいれ、宮城県では被災した子どもたちが自然の中で学びながら心のケアを行う「森の学校」の建設にも尽力しました。

    2005年には、イギリスから名誉大英勲章が贈られています。

    ニコルさんが理事長を務める財団は、ホームページでニコルさんが3日に亡くなったことを明らかにしました。死因は直腸がんということです。79歳でした。

    ニコルさんは2016年に直腸がんを患い療養していました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200404/k10012368701000.html

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    1. 作家で環境保護活動家のC・W・ニコルさん死去…79歳
      2020/04/04 19:08

       作家で環境保護活動家、探検家などとして知られたC・W・ニコルさんが3日、直腸がんで死去した。79歳だった。告別式は近親者で済ませた。

       英・南ウェールズ生まれ。17歳でカナダに渡り、カナダ水産調査局北極生物研究所の技官として海洋哺乳類の調査研究にあたった。

       1962年、空手修行のため初来日。エチオピアでの生活などの後、69年に再来日し、75年には沖縄海洋博のカナダ館副館長を務めた。78年、捕鯨基地だった和歌山県太地町に滞在した経験を生かし、後に青春冒険小説「勇魚いさな」として発表した。

       80年からは長野県の黒姫山麓に暮らし、森を再生させようと荒れ果てた里山を購入。「アファンの森」と名づけ、森林再生に尽力した。95年には、日本国籍を取得。2005年に、英国のエリザベス女王から名誉大英勲章を受けた。

       著書に「盟約」「風を見た少年」など。

       新型コロナウイルスの感染拡大で延期となった東京五輪聖火リレーで、今月2日に長野市内を走る聖火ランナーに選ばれていた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20200404-OYT1T50159/

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    2. C.W.ニコルさん死去 環境保護活動に尽力 79歳
      2020年4月5日 5時19分

      イギリス出身の作家で、長野県を拠点に森林や生態系を保護する活動に尽力した環境保護活動家のC.W.ニコルさんが3日、直腸がんのため亡くなりました。79歳でした。

      ニコルさんはイギリス・ウェールズの出身で、カナダ水産調査局の技官として海洋哺乳類の調査研究に携わったあと、日本の文化や自然に憧れて、1980年代から長野県の黒姫高原に移り住み執筆活動に入りました。

      そして日本の里山など森林のすばらしさを描いたエッセー「黒姫通信」や捕鯨文化をテーマにした小説「勇魚」などを世に送り出しました。

      また、森林が伐採されていくことに危機感を抱き、原生林を買い取ったり、間伐を行ったりして、森林の再生や生態系の保護にも取り組み、環境保護活動家としてテレビ番組などに多数出演して自然を守ることの大切さを呼びかけてきました。

      東日本大震災が起きた後には、復興活動にも力をいれ、宮城県では被災した子どもたちが自然の中で学びながら心のケアを目指す「森の学校」の建設にも尽力しました。

      2005年にはイギリスから名誉大英勲章が贈られています。ニコルさんは2016年に直腸がんを患って療養していましたが、ニコルさんが理事長を務める財団はホームページで、3日、ニコルさんが直腸がんで亡くなったことを明らかにしました。

      79歳でした。財団では、新型コロナウイルスによる混乱などが収まり次第、お別れの会を開きたいとしています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200405/k10012368871000.html

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  9. 映画監督の大林宣彦さん 肺がんで死去 82歳
    2020年4月11日 3時52分

    映画「転校生」や「時をかける少女」など、若者たちの情感をみずみずしく描いた作品で人気を集め、晩年まで反戦を訴え続けた映画監督の大林宣彦さんが、10日夜、肺がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。82歳でした。

    大林宣彦さんは広島県尾道市出身で、大学を中退したのち、昭和38年に画家の藤野一友さんと発表した初の16ミリ作品「喰べた人」でベルギー国際実験映画祭の審査員特別賞を受賞しました。

    3000本を超えるコマーシャルを手がけて新たな映像表現に挑戦し、昭和52年に独特な映像美の映画「HOUSE」で商業映画の監督としてデビューしました。

    ふるさとの尾道市で撮影した「転校生」「時をかける少女」それに「さびしんぼう」は「尾道三部作」と呼ばれ、若者たちの情感をみずみずしく描いた作品でロケ地を巡る若者が増えるなど、人気を集めました。

    作品の中では若手の俳優を重要な役に抜てきし、小林聡美さんや原田知世さんなどが、一躍、有名になりました。

    また、その華麗で独特な映像使いから「映像の魔術師」との異名で知られる一方、映画作りにおいてはスタッフの団結力の強さから「大林組」と呼ばれ、名作を生み出してきました。

    平成16年に紫綬褒章、平成21年に旭日小綬章を受章し、去年、文化功労者に選ばれています。

    社会派としても知られる大林さんは、作品や講演会で反戦や平和の大切さを訴え続け、特定秘密保護法をめぐって「表現の自由を守り通さなければいけない」などと訴えていました。

    平成28年から製作を始めた「花筐/HANAGATAMI」では、撮影開始直後にがんが見つかりましたが、治療を続けながら作品を完成させ、おととし(平成30年)キネマ旬報ベスト・テンの監督賞を受賞した際には「あと30年は映画を作ります」と意欲を見せていました。

    その後、広島に原爆が投下されるまでの日本の戦争をテーマに描いた「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」が去年秋の東京国際映画祭で公開され、レッドカーペットに登場した大林監督はNHKのインタビューに対し、「皆さんがびっくりするような映画になりました。『これが映画か、映画でこんなことができるのか、すごいな』と驚いてください」と話していました。

    映画会社によりますと、大林監督は10日午後7時23分、肺がんのため東京都内の自宅で亡くなったということです。

    82歳でした。

    「花筐」に見る反戦の思い

    大林宣彦さんは晩年、戦争を色濃く反映した作品を続けて作ってきました。

    このうち、平成29年に公開された「花筐/HANAGATAMI」は太平洋戦争の足音が迫る中、若者たちの青春と戦争の理不尽さに苦しむ様子を映像美とともに描き出した作品です。

    映画で戦争を描く理由について、大林監督は、幼いころの戦争体験と戦争の記憶が忘れられてしまっている危機感にあると、NHKのインタビューで語っていました。

    大林さんは幼少期の戦争体験について、「戦争に賛成も反対もないですよね。あるのは日常で、しかもあしたは死ぬのが当たり前だった時代なんですよ。だから死ぬことも怖くない」と振り返ったうえで、「戦争に負ければ潔く死のうと思っていたのが、日本の大人たちがひょう変しちゃうんです。誰も死なない。誰も反省しない。戦争のことなんか忘れて。僕も間違いだらけの生き方をしてきた。だから自分の間違いを反省してよりいい方向にしようって思って、『すばらしい未来を作ってくれ』と伝えられたらなと思うんです」と話していました。

    また、この作品では、戦争と隣り合わせの感覚を感じてもらうため、何度もことばを選び直したといいます。

    そのことについて大林さんは、「劇中に出てくる『お母さん、この国はまた戦争を始めました。僕たちはまた死にます』というせりふ。人間というのは戦争の消耗品だから、何度も何度も殺されているんですよ。実感がある人間は実感を伝えなきゃいかん」と指摘していました。

    そして、「忘れられた歴史、しかし確かにあった歴史を実感として、わがこととして受け止めることで、もう二度と戦争なんか嫌だということになってくるわけです。死ねないんです、そういうことをちゃんと伝えておかないとね」と、映画作りに対する揺るぎない信念を語っていました。

    遺作は新型コロナの影響で公開延期

    大林宣彦監督の遺作となった「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」は、大林監督が亡くなった10日、全国の映画館で公開される予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で公開が延期されています。

    大林監督は映画の公開に向けて「太平洋戦争の純真な軍国少年であった体験を元に、様々なジャンルの映画にその思いを潜めつつ『厭戦映画』を作り続けて来ました。時代はいつか、個人映画ばかりになり、僕が願った映画作りの世になりました。その個人の自由と権力者の不自由の証を、愉しんで下されば、と。僕の正体が炙り出されれば、愉しいかな」などとコメントを寄せていました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200411/k10012381411000.html

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  10. 西洋音楽史学者の皆川達夫さん死去 92歳 NHKラジオ「音楽の泉」司会31年以上
    4/22(水) 14:59配信スポニチアネックス

     中世・ルネサンス音楽の研究で知られる西洋音楽史学者の皆川達夫(みながわ・たつお)さんが今月19日午後10時42分、老衰のため横浜市内の病院で死去した。92歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で執り行う。今年3月までNHKラジオ第1「音楽の泉」(日曜前8・05)の司会を31年以上にわたって務めた。番組公式サイトも訃報を伝えている。

     NHK―FM「バロック音楽のたのしみ」(1965~85年度)「音楽の泉」(88~2020年)と長年にわたって西洋古楽、クラシック音楽の普及に貢献。「音楽の泉」の番組公式サイトは「今年3月まで31年以上にわたり、この番組の司会を務められました皆川達夫さんが、4月19日に逝去されました。謹んで哀悼の意を表します」としのんだ。

     インターネット上にも「『音楽の泉』を勇退されたばかりでの訃報。ご冥福をお祈りいたします」「驚きました。3月29日『音楽の泉』で最後のお声をお聞きしたばかりですのに」「本当に体力の続くギリギリまで、音楽の素晴らしさを伝えてくださいました。『みなさま、ごきげんよう』がもう聞けない」などと悲しみの声が相次いだ。

     立教大名誉教授。長崎県平戸市・生月島で隠れキリシタンによって口伝えで受け継がれてきた祈りの歌「オラショ」の研究に携わり、ラテン語の聖歌との関わりを明らかにした。著書に「バロック音楽」「洋楽渡来考」などがある。
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200422-00000156-spnannex-ent

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    1. 西洋音楽史家の皆川達夫さん死去 92歳 NHKラジオ「音楽の泉」司会
      4/22(水) 17:01配信毎日新聞

       西洋音楽史家でNHKラジオ「音楽の泉」の司会でも親しまれた皆川達夫(みながわ・たつお)さんが19日、老衰のため死去した。92歳。葬儀は近親者で営む。喪主は長男瑞夫(みつお)さん。

       東京都出身、東京大大学院修了。隠れキリシタンに口承された祈とう「オラショ」から原曲のグレゴリオ聖歌を探り当て、1978年にイタリア政府から功労勲章を受けた。立教大教授として同大学グリークラブを指揮する傍ら、中世音楽合唱団を主宰。今年3月まで三十余年にわたりラジオ番組「音楽の泉」の案内役を務め、西洋古楽の普及に努めた。

       「バロック音楽」「洋楽渡来考」など、著書多数。
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200422-00000048-mai-cul

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  11. ゴダイゴ ギタリストの浅野孝已さん死去
    2020年5月12日 22時35分

    「ガンダーラ」や「モンキー・マジック」などのヒット曲で知られる人気バンド「ゴダイゴ」でギタリストとして活躍した浅野孝已さんが12日、亡くなりました。68歳でした。

    浅野さんは東京都出身で、16歳の時に音楽活動を始め、昭和50年にロックバンド「ゴダイゴ」の前身となるバンドにギタリストとして参加しました。

    「ゴダイゴ」は翌51年にデビューし、テレビドラマの主題歌となった「ガンダーラ」や「モンキー・マジック」、それに「銀河鉄道999」など現在でも親しまれるヒット曲で人気バンドとなりました。

    浅野さんは昭和60年にバンドが解散したあとも音楽活動を続け、自身のバンドと並行して平成18年には「ゴダイゴ」の再結成に加わりました。

    今月9日には自身のフェイスブックを更新し、新型コロナウイルスの感染拡大について、「感染しない感染させないSTAYHOMEおうちにいましょう!そして笑顔で再会しましょう!」などとコメントを寄せていました。

    所属事務所によりますと、浅野さんは12日、東京都内の自宅から病院に救急搬送され、亡くなったということです。

    68歳でした。

    「悲しくてやりきれない」ゴダイゴのメンバーが追悼

    浅野孝已さんが亡くなったことについて、「ゴダイゴ」のリーダー、ミッキー吉野さんは「ゴダイゴのメンバーの中でいちばん長いつきあいでした。悲しいのひと言。悲しくてやりきれません。この時期のこういう別れは、本当につらいです」とコメントしています。

    また、ボーカルのタケカワユキヒデさんは自身のブログを更新し、「僕たちの大切な仲間、ギタリストの浅野さんが亡くなった。つい2週間前に電話で話したばかりだったのに。僕のどんな曲にもすぐにギターを弾いて合わせてくれるオールマイティなギタリストで、愉快な仲間だった。冥福を祈りたい」とつづっています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200512/k10012427451000.html

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  12. 漫画家 ジョージ秋山さん死去 「銭ゲバ」「浮浪雲」など
    2020年6月1日 15時46分

    のちに映画化された話題作「銭ゲバ」や44年にわたって漫画雑誌で連載が続いた「浮浪雲」などで知られる漫画家のジョージ秋山さんが、先月12日に亡くなりました。77歳でした。

    ジョージ秋山さん、本名、秋山勇二さんは、東京出身の栃木県足利市育ちで、昭和41年に「ガイコツくん」で漫画家としてデビューしました。

    昭和43年にギャグ漫画「パットマンX」で講談社児童まんが賞を受賞したほか、昭和45年には、貧しい青年が金や名誉のために殺人を繰り返す「銭ゲバ」を発表し、のちに映画化されるなど、話題作を次々と発表していきました。

    また、昭和48年から漫画雑誌で連載が始まった「浮浪雲」は、幕末の江戸を舞台に人々の日常や人間模様を描き、平成29年まで44年にわたって連載が続く人気作品となりました。

    小学館によりますと、ジョージ秋山さんは次回作の構想を練るなど、漫画家としての活動を続けていましたが、先月12日に亡くなったということです。77歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200601/k10012453531000.html

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    1. 「ジョージ秋山」のニュース
      https://news.yahoo.co.jp/search/?ei=UTF-8&p=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E7%A7%8B%E5%B1%B1

      https://www.2nn.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E7%A7%8B%E5%B1%B1

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    2. 「浮浪雲」「銭ゲバ」漫画家ジョージ秋山さん死去
      6/1(月) 13:10配信 読売新聞オンライン

       「銭ゲバ」「アシュラ」「浮浪(はぐれ)雲(ぐも)」などで知られる漫画家のジョージ秋山(じょーじ・あきやま、本名・秋山勇二=あきやま・ゆうじ)さんが5月12日に死去していたことがわかった。77歳だった。死因は公表していない。告別式は近親者で済ませた。

       東京都生まれ。栃木県足利市育ち。漫画家の森田拳次さんのアシスタントを経て、1966年「ガイコツくん」でデビュー。ほのぼのギャグ漫画「パットマンX」を経て、70年から週刊少年サンデーで「銭ゲバ」、週刊少年マガジンで「アシュラ」と、悪をテーマにした問題作を発表した。過激な描写が議論を呼び、高度成長期の世相に衝撃を与えた。

       73年からは青年漫画誌「ビッグコミックオリジナル」で自然体で生きる幕末の男を描く「浮浪雲」を始め、同作は2017年まで44年続く長期連載となった。「パットマンX」で講談社児童まんが賞、「浮浪雲」で小学館漫画賞を受賞した。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/d8ca7d517503fbcd94ecf85c3134ce9aa7249822

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    3. ジョージ秋山といえば、まず第一に「デロリンマン」を思い浮かべる世代かもしれん…
      https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E7%A7%8B%E5%B1%B1%20%E3%83%87%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3

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    4. 愛の戦士デロリンマン「ひとびとよ、魂のふるさとに帰れ」
      https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%87%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%20%E6%84%9B%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%A3%AB

      ジョージ秋山流のニーチェ「ツァラトゥストラ」のように思えなくもなく…
      https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%20%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9

      かなり皮肉をきかせた、悲劇でもあり喜劇でもあるものに思える。

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    5. 人はまじめに愛を語り善を為そうとすると、まるで嘘くさいヘンテコなコミック(お笑いもの)に成り下がってしまうという教訓の物語として見ておいたほうがようだろう。

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    6. 「デロリンマン」
      https://twitter.com/search?q=%E3%83%87%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3&src=typed_query

      https://search.yahoo.co.jp/realtime/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%87%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3

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    7. >マンガ家、ジョージ秋山が2020年5月12日に逝去いたしました。新型コロナもあるので、告別式は家族にて行いました。創作意欲が満タンの中での出来事に本人が一番無念と思います。これまでの作品を再び、不変のメッセージとして残していきます。引き続きよろしくお願い申し上げます。長男 秋山命
      https://twitter.com/georgeakiyama/status/1267360198290575365

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    8. 6月2日 編集手帳
      2020/06/02 05:00

       漫画家のジョージ秋山さんはある夜、すやすやと眠るわが子の寝顔に「どうもありがとう」と手を合わせて拝んだことがある◆そこを奥さんに見つかった。「何してるの?」。その場では言わなかったが、人を愛することに疑問を持っていた自分を家族愛や道徳に目覚めさせてくれたからという。かつて本紙に語っている。『浮浪はぐれ雲ぐも』の駕籠屋かごやの頭一家は「わが家がモデルです」と◆女性とみれば「あちきと遊ばない」と声をかける一見いいかげんな主人公をこしらえ、そこに小事を気にしない流れる雲のような飄々ひょうひょうとした生き方をあしらった◆といっても、ここ一番には愛と正義を胸に人知れず悪を退治したりする。『浮浪雲』の連載は44年におよんだ。苦しい人生の乗り切り方は悔しさや怒りをバネに頑張るのが一つだが、それだけではないと囁ささやく物語に慰められ、肩の力を抜いた読者は多いことだろう◆秋山さんが77歳で亡くなった。折しも、これほど市井に悲哀が満ち、人生に迷う人が続出する世となって、ふしぎと勇気づけられる主人公の口癖を思い出す。「趣味は生きてることでんす」。ででんでんでん♪
      https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20200602-OYT8T50000/

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    9. Foresight
      追悼「語りえないもの」を描いた天才:ジョージ秋山『捨てがたき人々』 - 2020/6/12
      https://www.fsight.jp/articles/-/47005

      《今回は何度か紹介しようと試みては断念してきた作品、『捨てがたき人々』(小学館、幻冬舎)を取りあげる。

       6月に入り、作者・ジョージ秋山氏が先月亡くなっていたことが明らかになった。この機会に書くしかないだろうと腹を固めた。以下、敬称略で書き進める。

       書くのを諦めてきたのは、この作家の作品に正面から向き合うと、「すごい」の先につなぐ言葉が浮かんでこないからだ。それはジョージ秋山が、村上春樹が言うところの「地下二階」、魂の住む場所まで降りていって物語をつかみ取る稀有な資質の持ち主だったからだろうと思う。》

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  13. 作曲家 服部克久さん死去 テレビ番組や映画などのテーマ曲多数
    2020年6月11日 18時27分

    テレビ番組や映画などのテーマ曲を数多く手がけ、谷村新司さんの「昴」などポップスのアレンジでも活躍した、作曲家・編曲家の服部克久さんが11日、亡くなりました。83歳でした。

    服部克久さんは、日本の歌謡界を代表する作曲家、服部良一さんの長男として昭和11年に東京で生まれて音楽に囲まれた幼少期を過ごし、高校を卒業後、フランスのパリ国立高等音楽院に留学しました。

    帰国後は、草創期のテレビ業界や映画など幅広い分野で作曲活動を行い、人気アニメ「トム・ソーヤーの冒険」や民放の音楽番組「ザ・ベストテン」のテーマ曲、NHKの連続テレビ小説「わかば」の主題歌など、数多くの音楽を手がけました。

    また、テレビ番組「新世界紀行」のテーマ曲にもなった「自由の大地」などのオリジナル曲を集め、オーケストラによる演奏にこだわったアルバム「音楽畑」シリーズをこれまでに20作以上を発表し、コンサートも国内外で精力的に開催してきました。

    編曲家としては、さだまさしさんや山下達郎さん、竹内まりやさんなど、人気アーティストの楽曲の弦楽アレンジを数多く手がけ、谷村新司さんの代表曲「昴」では、ホルンを使った雄大なイントロで名曲を彩りました。

    日本作編曲家協会の会長や東京音楽大学の特別招聘教授も務め、後進の育成など音楽界の発展に貢献したほか、平成17年から宮崎県都城市の総合文化ホールの初代館長も務めました。

    息子の服部隆之さんもNHKの大河ドラマ「真田丸」の音楽などを手がける作曲家で、音楽家一族として知られています。

    関係者によりますと、服部さんは11日、亡くなったということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200611/k10012467241000.html

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    1. 「カノッサの屈辱 服部克久」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE%E5%B1%88%E8%BE%B1+%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%85%8B%E4%B9%85

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    2. 作曲家 服部克久さん死去 テレビ番組や映画などのテーマ曲多数
      2020年6月11日 20時37分

      テレビ番組や映画などのテーマ曲を数多く手がけ、谷村新司さんの「昴」などポップスのアレンジでも活躍した、作曲家・編曲家の服部克久さんが11日、亡くなりました。83歳でした。

      服部克久さんは、日本の歌謡界を代表する作曲家、服部良一さんの長男として昭和11年に東京で生まれて音楽に囲まれた幼少期を過ごし、高校を卒業後、フランスのパリ国立高等音楽院に留学しました。

      帰国後は、草創期のテレビ業界や映画など幅広い分野で作曲活動を行い、人気アニメ「トム・ソーヤーの冒険」や民放の音楽番組「ザ・ベストテン」のテーマ曲、NHKの連続テレビ小説「わかば」の主題歌など、数多くの音楽を手がけました。

      また、テレビ番組「新世界紀行」のテーマ曲にもなった「自由の大地」などのオリジナル曲を集め、オーケストラによる演奏にこだわったアルバム「音楽畑」シリーズをこれまでに20作以上を発表し、コンサートも国内外で精力的に開催してきました。

      編曲家としては、さだまさしさんや山下達郎さん、竹内まりやさんなど、人気アーティストの楽曲の弦楽アレンジを数多く手がけ、谷村新司さんの代表曲「昴」では、ホルンを使った雄大なイントロで名曲を彩りました。

      日本作編曲家協会の会長や東京音楽大学の特別招聘教授も務め、後進の育成など音楽界の発展に貢献したほか、平成17年から宮崎県都城市の総合文化ホールの初代館長も務めました。

      息子の服部隆之さんもNHKの大河ドラマ「真田丸」の音楽などを手がける作曲家で、音楽家一族として知られています。

      関係者によりますと、服部さんは11日、亡くなったということです。

      さだまさしさん「兄貴を失ったよう」

      服部克久さんが亡くなったことについて、「愛について」など数々の楽曲を服部さんとともに作ってきた、歌手のさだまさしさんは、NHKの取材に対し「偉大な音楽家でありながら、明るく楽しい人で私にとって大恩人であり、兄貴を失ったような思いです。『音楽は美しくないといけない』という服部さんのことばに背中を押していただきました。思い出は語り尽くせず、本当に惜しいです」と話していました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200611/k10012467241000.html

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    3. 服部克久さんが死去…「新世界紀行」作曲、「昴」の編曲も
      2020/06/11 20:44

       音楽番組「ザ・ベストテン」やドキュメンタリー番組「新世界紀行」のテーマ曲、CM音楽、映画音楽を幅広く手がけた作・編曲家の服部克久(はっとり・かつひさ)さんが11日、死去した。83歳だった。

       東京都出身。昭和を代表する作曲家の一人、服部良一さんの長男。6歳でピアノを始め、成蹊高校からパリ国立高等音楽院に留学した。クラシックの素養を生かしたオーケストラアレンジを得意とし、壮大なホルンの旋律で始まる谷村新司さんの「昴すばる」や、竹内まりやさんの「駅」など数多くのヒット曲を編曲。音楽番組「ミュージックフェア」の音楽監督を長年務めた。また、NHK連続テレビ小説「わかば」の音楽を担当したほか、映画「連合艦隊」のテーマ曲なども作曲した。

       心地よい自作の器楽曲を集めたアルバム「音楽畑」シリーズがライフワークで、1980年代から発表を続けた。昨秋には第22集を出し、作曲家の長男・隆之さんとともにピアノを弾き、バイオリン奏者の孫・百音もねさんと共演した。

       「東京ポップスオーケストラ」を結成し、米ニューヨークのカーネギーホールでも公演している。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20200611-OYT1T50262/

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  14. 「ノストラダムスの大予言」、作家の五島勉さん死去…90歳
    2020/07/21 21:28

     五島勉氏 90歳(ごとう・べん、本名・後藤力=ごとう・つとむ=作家)6月16日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去。告別式は近親者ですませた。

     雑誌記者などを経て、1973年、16世紀フランスの医師がヒトラーの出現やケネディ暗殺など歴史的大事件を予言していたとする「ノストラダムスの大予言」を刊行。「1999年7の月」に人類が滅亡するのではという予言の解釈が話題となり、250万部のベストセラーに。同書はオカルトブームの火付け役ともなり、74年には映画化。予言研究家として多くの本を著した。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20200721-OYT1T50221/

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    1. あそこまで世の中を炊きつけておいて、何もおこらなかったら、そりゃあとは息を潜めて生きるしかすべはないわな…

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    2. ま、世の中なにも起こらないわけはないし、なにかにこじつけしようと思えばなんにでもこじつけできるというのもあるが。

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  15. 「思考の整理学」外山滋比古さん死去 96歳
    2020年8月6日 18時06分

    若い世代を中心に40年近く読み継がれている「思考の整理学」の著者として知られる英文学者で、お茶の水女子大学名誉教授の外山滋比古さんが先月30日、胆管がんのため東京都内の病院で亡くなりました。96歳でした。

    外山さんは大正12年に愛知県で生まれ、雑誌の編集に携わったあと、お茶の水女子大学や昭和女子大学などで教べんを執りました。

    シェークスピアなど専門のイギリス文学にとどまらず、日本語や教育など幅広い分野で独創的な視点から数多くの評論を残しました。

    中でも昭和58年に刊行した「思考の整理学」は物の見方や考え方、アイデアの生み出し方などをみずからの体験を基に明快に示して、若い世代を中心に40年近く読み継がれ、版元の筑摩書房によりますと、今も大学生協の書籍ランキングに名を連ねるなど、累計の販売部数がおよそ250万部のロングセラーとなっています。

    また、ことばについての優れた見識をもとに放送用語の改善にも力を尽くし、平成7年にはNHK放送文化賞を受賞しています。

    外山さんは90歳をすぎても精力的に執筆活動を続けてきましたが、家族によりますと、ことしに入って入退院を繰り返し、先月30日、胆管がんのため東京都内の病院で亡くなりました。96歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200806/k10012554611000.html

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    1. 8月8日 編集手帳
      2020/08/08 05:00

       「コンプライアンス(法令順守)」という語が広まったのはいつ頃だろうか。外山滋比古さんは十数年前、NHKの新会長がコンプライアンスが大切と話すのを聞くや、「これはいけない」とテレビのスイッチを切った◆随筆集『日本語の作法』の一編にある。標準日本語の普及を使命とするNHKの会長が、<半分わけのわからぬカタカナをふりまわしてはいけない>と◆次に矛先は新聞社を含むマスコミ全体に向く。<こなれないことばをむやみに使用するのは努力不足である>。もうおしかりを受けることがないと思うと、さみしい。外山さんが96歳で亡くなった◆アイデアをどう熟成させるかを平易な筆致で説いたロングセラー『思考の整理学』はおなじみだろう。大学で教えた英文学より社会や生活に目を向けた著書が多い。ときにあいさつ、電話のかけ方など礼儀やマナーにも評論はおよんだ。広く深い視野と知性から小言風に述べるのが外山流だろう◆国語の試験や問題集に文章が頻出する随筆家でもある。はからずも試験用紙の上にその名を知り、人生の何事かに気づかされた人も少なくないのでは。
      https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20200808-OYT8T50001/

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    2. 外山滋比古さん死去…96歳、「思考の整理学」がベストセラーの英文学者
      2020/08/07 00:07

       「思考の整理学」がベストセラーになった英文学者でお茶の水女子大名誉教授の外山滋比古(とやま・しげひこ)さんが7月30日、胆管がんで死去した。96歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、みどりさん。

       愛知県出身。「英語青年」編集長を経て、東京教育大(現・筑波大)やお茶の水女子大などの教壇に立った。専門の英文学のほか日本語論や教育論でも活躍。著書も多く、1983年の著書「思考の整理学」は独自の発想と洞察でアイデアを熟成させる大切さなどをつづり、ロングセラーに。2000年代にも東大生や京大生に読まれる本として話題となり、文庫版は124刷、253万部に達した。ほかの著書に「ことわざの論理」「伝達の整理学」。

       90歳代になっても旺盛に執筆を重ね、新聞を熟読して世の中の情報を得るなど、知的好奇心を失わない生き方でも注目を集めた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20200806-OYT1T50273/

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    3. [あすへの考]<人生100年時代を生きる>未来 わからないから面白い…お茶の水女子大名誉教授 外山滋比古氏 95
      2019/10/27 05:00

      知識って過去。ご用済み。思考こそ新しいものを作っていく力

      遺言は書きません。精いっぱいのことをして死ぬ時は死ぬと

      字を読むのにルーペは必需品。原稿は手書き。「本当はワープロを打った方がいいんだけど、それを怠ったから困ってるんです。はっはっは」(東京都内で)=鈴木竜三撮影

       本は自然にね、別に努力してたくさん書こうと思ったことはないですけどね。面白いと思って書く本はあっという間にできますよ。これまで200か300冊くらいは出したかなあ。中には、前のに手を入れて、同じような内容を蒸し返して出しているのもありますからね。でも3分の2は書き下ろしですけど。

       昔の本でも、本当のことが書いてあれば7割ぐらいは生き残るんですよ。ただし、それには人の言わなかったことを書いている必要があります。人が言ったらどんなにいいことでも繰り返さない。これはずっと心がけていますね。

       「思考の整理学」は思いがけず売れましたね。今まで勉強するということは「知る」ということだった。それに対して「考える」という、もう一つの頭の働かせ方があると。「知る」から「考える」への移り方みたいなものをこの本で書いた。学校は知識を重視するわけです。もちろん知識も大切ですが、知識を詰め込んだだけでは考える力は養われない。先生と教科書に引っ張ってもらうグライダー型でなく、エンジンを積んで自分の頭で考え、自力で飛び回れる飛行機型の人間こそ、これからの時代には必要なんじゃないか。そんなことを書きました。

       考えるということを基本にすると、知識って過去のものなんですよ。もうご用済みなんで。それに対して、思考というのはこれから新しいものを作っていく力ですから。知識より思考力の方が価値があるということをはっきり言った本がなかったから、多くの人に響いたんじゃないかと思います。

       考えるってね、案外難しいですよ。考えたと思っていたことが、実は考えていたつもりにすぎなかったことがよくある。学校でも「AはB」とは教えても、「AはどうしてBになるか」まで教えられることは少ない。考えるためには苦しまなきゃいけない。今の状態から脱ぬけ出すにはどうしたらよいかと。あれこれ苦しんでいる状態が結果的に考えることになる。

       反面、考えるって面白いですよ。まだはっきりしていないものに形を与えるわけですから。絵を描くのと同じ。写生でなく、頭の中に浮かんだイメージを絵にする。落書きですよね。落書きは楽しいでしょう。子供は落書きをしますが、大人になるとしなくなる。ものを考えなくなるからではないでしょうかね。

      とやま・しげひこ 愛知県生まれ。東京文理科大英文科卒。中学教師、英語・英米文学の研究者向け雑誌の編集を経て大学教授に。お茶の水女子大教授時代には付属幼稚園の園長も務めた。英文学のほか、言語論や教育論にも造詣が深い。著書に「修辞的残像」など。

       頭を使うという点では、お金について考えるのも大変、大事です。僕は若い頃から株をやっています。去年、100歳までのお金の整理学というテーマで週刊誌が取材にきた。記事が出た後、お金の話をするのは下品だとか、みっともないとか随分言われた。教育のある人ほど嫌悪感が強かったようです。これって日本が手本にしてきたドイツの影響じゃないですかね。株式はアングロサクソン的な文化で、ドイツ的ではありませんから。最近はドイツもだいぶ変わってきたようですが。日本ではお金のことを口にするのははしたないとか堅実が美徳とかいわれますが、お金や株についてもっと真剣に考え、話す必要があると思いますよ。

       面白いですよ、お金って。とにかく動きますからね。貨幣価値も物の価値や値段も。株も同じです。

       今はあまり株の売買はしませんが、まだかなり持っています。僕はパソコンができないから新聞の株価欄を見ます。頭の刺激にもなる。何より新しい商品が出てくると、何か新しい世界を見たような気がして面白い。こういう産業が出てきたのかと思ったり。ドローンは生活を大きく変える可能性があります。夢を見させてくれるような株ってのもあるんですよ。

       もちろん、損することもあります。でもそれは忘れちゃうの。勝負事に関心を持つのは前向きということだから、失敗しても次はいいことがあるかもしれないと思ってまた続ける。生活が困らない範囲でやるのはいいんじゃないでしょうか、金もうけというより。

       やはり大学教授だった家内が数年前に亡くなり、去年から有料老人ホームに入りました。一人暮らしは面倒とも孤独とも思わないけど、3度の食事に困ってね。僕は、料理は自分でも作るし、面白いと思うけど、あれはしなくてもいいから作りたくなるのであって、毎日しなきゃいけないとなると話は別ですね。

       老人ホームは、思っていたより、いい生活ですよ。もちろん自宅の気ままさを思えば非常にいいとは言えないが、非常に悪くもない。自宅は残しています。でも、介護サービス付きなので最後までここで暮らすと思います。

       遺言は書きません。遺言にあたるものは後に残った人が考えてくれればいいんで、自分は精いっぱいのことをして死ぬ時は死ぬと。所持品もほかの人にはほとんど無意味だからみんな捨ててくれればいい。葬式も子供がしたければしてもいいし、しなくてもいい。認知症になったらそれはその時のこと。死は、死んだことがないからどれぐらい怖いかわからない。人間、必ず死ぬから死について考えた方がいいのでしょうが、考えても仕方がないこともありますから。

       延命は人によって意見がいろいろで、僕はいつまでも延命できるなら努力するけど、そうじゃなければお断り。全体に体が弱ってきたものの、年を取って、むしろ病気が減ってきた気もしますね。

       日本は儒教の影響で、とにかく人の年齢を気にしますね。年のことばかり聞くのはあれ、早く死んでくれと言ってるのと同じなんです。不快かと聞かれれば不快。いや、別にあなたが謝ることないですよ。平気ですよそんなの。全然。

       年を取るとみんな昔話ばかりしますが、僕に言わせたらあれは面白くない。過去はどんなに面白くても、もう変えられないから。面白いのはやっぱり未来ですよ。未来はある程度自分の力で動かすことができる。そして未来が面白いのはわからないからですよ。本当にそうなるのか。とにかくX(未知)だから。わからないから不安、じゃなくて、わからないから面白いと思うのが一番いい。

       少子高齢化が進む令和の日本の未来もみんな知りたがっていますが、それはわからない。神のみぞ知る。もしわかってしまえば、生きる希望を失ったり、面白くなくなったりするでしょう。わからないからそれなりに自分の希望を託して、ひょっとしたらこういうことができるかもしれないと思って生きていく。それで失敗したら、まあそんなものかと割り切ればいいんです。面白がるというのが、人生100年時代には必要なんじゃないでしょうか。

          ◇

       長寿はめでたいが、健康や老後のお金を考えると不安を覚える人も多いだろう。不安を和らげ、希望を持たせてくれるような処方箋はないものか――。訪れた先はお茶の水女子大名誉教授の外山滋比古さん。30年来のベストセラー「思考の整理学」の著者で、95歳の今も新刊を次々出す姿には驚かされる。外山先生、一体、どんな生き方をしていらっしゃいます?

      (編集委員 猪熊律子)

       [メモ] 「思考の整理学」は1983年、筑摩書房刊。独自の発想と洞察のもと、「ものを考えるとはどういうことか」を明快につづった。文庫版(86年刊)は120刷、240万部を超え、今や大学生・社会人の必読書といわれる。東大・京大生協の文庫売り上げランキングで、2008年以降、たびたび1位を獲得している。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20191026-OYT8T50157/

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  16. 「死生学」提唱 アルフォンス・デーケン氏 死去
    2020年9月7日 14時54分

    死と向き合う「死生学」を提唱し、長年、日本の終末期医療やグリーフケアの普及に取り組んだ、上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケンさんが、6日、肺炎のため亡くなりました。88歳でした。

    アルフォンス・デーケンさんはドイツで生まれ、1952年にカトリック教会の修道会「イエズス会」に入って修道士となり、1959年(昭和34年)に来日しました。

    その後、上智大学で教べんをとり、当時、日本ではタブー視されていた、死と向き合う「死生学」を提唱しました。

    末期のがん患者などへの終末期医療や、肉親や大切な友人を失った悲しみを癒やす、いわゆる「グリーフケア」の普及に熱心に取り組み、考えに賛同した人たちによる「生と死を考える会」の運動は全国に広がりました。

    1991年(平成3年)には日本に初めて死生学を定着させたとして、菊池寛賞を受賞しています。

    デーケンさんは、その後も積極的に講演や執筆活動を行い、よりよい人生のためにいかに死を迎えるかを考えることの大切さを広く呼びかけました。

    上智大学によりますと、デーケンさんは6日、肺炎のため東京都内の修道院で亡くなりました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200907/k10012605241000.html

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  17. 「KENZO」立ち上げ デザイナーの高田賢三さんコロナ感染で死去
    2020年10月5日 1時37分

    パリを拠点に活躍し、世界的なファッションブランド「KENZO」を立ち上げた、デザイナーの高田賢三さんが4日、新型コロナウイルスへの感染により、パリ近郊の病院で亡くなりました。81歳でした。

    高田賢三さんは昭和14年、兵庫県姫路市で生まれ、東京の文化服装学院で洋裁を学び、新人の登竜門とも言われる「装苑賞」を受賞してデザイナーとしてデビューしました。文化服装学院では同期生に世界的に活躍するデザイナー、コシノジュンコさんなどがいて「花の九期生」と呼ばれました。

    昭和40年、25歳でパリに渡り、民族衣装をアレンジした斬新なデザインを発表したほか、当時ブティックで行うのが常識だったファッションショーをパブや映画館で開催し、一躍脚光を浴びました。

    高田さんが立ち上げた「KENZO」は世界的に有名なファッションブランドとなりました。

    高田さんはフランスの芸術文化勲章を受章したほか、平成11年には紫綬褒章を受章しています。

    また、平成16年に開催されたアテネオリンピックの日本選手団の公式服装もデザインしました。

    高田さんの日本の事務所によりますと、高田さんはことしの9月中旬、新型コロナウイルスに感染し、パリ近郊の病院に入院していましたが、今月に入って体調が悪化し、4日午後4時ごろ(日本時間4日午後11時ごろ)亡くなったということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201005/k10012648301000.html

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  18. 作曲家 筒美京平さん死去 80歳 昭和を代表する歌謡曲を作曲
    2020年10月12日 15時50分

    「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また逢う日まで」など昭和の歌謡界を代表するヒット曲を生み出した作曲家の筒美京平さんが、今月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。80歳でした。

    筒美さんは昭和15年に東京で生まれ、青山学院大学在学中にジャズに親しみ、その後、大手レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら作曲活動を始めました。

    昭和42年、グループサウンズのヴィレッジ・シンガーズが歌う「バラ色の雲」がヒットして名を挙げ、翌43年には、いしだあゆみさんが歌った「ブルー・ライト・ヨコハマ」が大ヒットし、さらには、いずれもレコード大賞を受賞した尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」やジュディ・オングさんの「魅せられて」など、昭和の歌謡界を代表する名曲を世に送り出しました。

    1970年代以降はアイドル歌謡も多く手がけ、南沙織さんの「17才」、近藤真彦さんの「ギンギラギンにさりげなく」、小泉今日子さんの「なんてったってアイドル」など、黄金期を彩る数々の曲を生みました。

    その後も世代を超えた人気楽曲を手がけて、これまでに作曲した作品数は3000曲近くにのぼり、平成15年には紫綬褒章を受章しています。

    家族などによりますと、筒美さんは、自宅で病気療養を続けていたということですが、今月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。
    80歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201012/k10012659581000.html

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    1. 作曲家 筒美京平さん死去 80歳 昭和を代表する歌謡曲を作曲
      2020年10月12日 20時40分

      「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また逢う日まで」など昭和の歌謡界を代表するヒット曲を生み出した作曲家の筒美京平さんが今月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。80歳でした。

      筒美さんは昭和15年に東京で生まれ、青山学院大学在学中にジャズに親しみ、その後、大手レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら作曲活動を始めました。
      昭和42年、グループサウンズのヴィレッジ・シンガーズが歌う「バラ色の雲」がヒットして名を挙げ、翌43年には、いしだあゆみさんが歌った「ブルー・ライト・ヨコハマ」が大ヒットし、作曲家としての地位を不動のものにしました。

      大学時代の先輩だった橋本淳さんをはじめ、阿久悠さん、松本隆さんら著名な作詞家とペアを組み、いずれもレコード大賞を受賞した尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」やジュディ・オングさんの「魅せられて」など、昭和の歌謡界を代表する名曲を世に送り出しました。

      1970年代以降はアイドル歌謡も多く手がけ、南沙織さんの「17才」、近藤真彦さんの「スニーカーぶる~す」や「ギンギラギンにさりげなく」、松本伊代さんの「センチメンタル・ジャーニー」、小泉今日子さんの「なんてったってアイドル」など、黄金期を彩る数々の曲を生みました。

      さらに、のちの「JーPOP」にも大きな影響を与え、1990年代には小沢健二さんの「強い気持ち・強い愛」などを、2000年代にはTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」など世代を超えた人気楽曲を手がけ、これまでに作曲した作品数は3000曲近くにのぼっています。

      このほか、国民的テレビアニメ「サザエさん」のオープニングとエンディングのテーマ曲も手がけています。

      筒美さんは、こうした功績で平成15年に紫綬褒章を受章しています。

      家族などによりますと、筒美さんは、自宅で病気療養を続けていたということですが、今月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。

      80歳でした。

      時代を彩った数々の楽曲

      これまでに3000曲近くにのぼる楽曲を手がけてきた筒美京平さん。それぞれの時代を彩った主な作品をまとめました。

      ▽1967年 ヴィレッジ・シンガーズ「バラ色の雲」
      ▽1968年 いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」
      ▽1969年 宇野ゆう子「サザエさん」
      ▽1971年 尾崎紀世彦「また逢う日まで」/平山三紀「真夏の出来事」/ 南沙織「17才」/
      ▽1972年 郷ひろみ「男の子女の子」
      ▽1973年 麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」
      ▽1974年 野口五郎「甘い生活」
      ▽1975年 岩崎宏美「ロマンス」/太田裕美「木綿のハンカチーフ」
      ▽1978年 庄野真代「飛んでイスタンブール」/野口五郎「グッド・ラック」
      ▽1979年 ジュディ・オング「魅せられて」/桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」
      ▽1980年 近藤真彦「スニーカーぶる~す」
      ▽1981年 近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」/松本伊代「センチメンタル・ジャーニー」
      ▽1985年 C-C-B「Romanticが止まらない」/斉藤由貴「卒業」/小泉今日子「なんてったってアイドル」/少年隊「仮面舞踏会」
      ▽1986年 中山美穂「ツイてるねノッてるね」
      ▽1994年 NOKKO「人魚」
      ▽1995年 小沢健二「強い気持ち・強い愛/それはちょっと」
      ▽2003年 TOKIO「AMBITIOUS JAPAN!」

      ジュディ・オングさんや太田裕美さん 近藤真彦さんも追悼

      筒美さんが作曲した「魅せられて」を歌った歌手のジュディ・オングさんは「ショックでまだ信じられません。筒美先生は歌手としての私を目覚めさせてくれた恩人です。そして、『魅せられて』は私に大きなパワーを与えてくれました。これからも、いただいた曲を大切に、心を込めて歌い続けていきます。ご冥福を心よりお祈りいたします」というコメントを出しました。

      筒美さんが作曲した「木綿のハンカチーフ」を歌った歌手の太田裕美さんは、自身のツイッターで「筒美先生が亡くなられた…哀しくて哀しくて…涙が止まらない…」とつづっています。

      筒美さんが作曲した「ロマンス」を歌った歌手の岩崎宏美さんは「切なくて、悲しい気持ちでいっぱいです。筒美先生の優しい笑顔が今も目にうかびます。昨年、筒美先生のトリビュートアルバムを作り、先生に聴いていただけたこと、そしてとても喜んでいただけたことが、大切な思い出となりました。私はたくさんの作品をいただいているので、これからも大切に歌い続けたいと思います。それが先生への何よりのご供養になると信じて頑張ります。ご冥福をお祈り申し上げます」というコメントを出しました。

      音楽プロデューサーのつんく♂さんも自身のツイッターで「憧れに憧れた作曲家先生。ご冥福をお祈りいたします。先生の曲に歌詞をのせたかったです」などとつづっています。

      筒美京平さんが作曲した「スニーカーぶる~す」や「ギンギラギンにさりげなく」などを歌った歌手の近藤真彦さんは「京平先生のご自宅で、先生のピアノの音に合わせて発声練習をしたのが僕の歌手の始まりでした。数々のヒット曲を頂き、今、僕がこうして歌い続けていられるのは、紛れもなく京平先生のおかげです。10年以上前になりますが、よくジムのロッカールームで声を掛けて頂きました。その時の優しい笑顔は今でも忘れられません。京平先生が残してくださった名曲は、これからも歌い続けていかれるでしょう。心からご冥福をお祈りいたします」とコメントを出しました。

      シングル売り上げ枚数 作曲家で国内最多

      筒美京平さんはミリオンセラーのヒット曲を複数生み出し、シングル曲の国内での総売り上げ枚数は、作曲家の中で最も多くなっています。

      筒美さんは50年以上にわたる活動の中で3000曲近くの楽曲を生み、オリコンの調べによりますと、作曲したシングル曲の国内での総売り上げ枚数は7560万枚を超えていて、歴代の作曲家の中でも最も多い記録となっています。

      作曲家別では、1位の筒美さんに次いで、
      ▽2位が小室哲哉さんの7184万枚、
      ▽3位が織田哲郎さんの4180万枚、
      ▽4位が桑田佳祐さんの3901万枚、
      ▽5位がつんく♂さんの3825万枚などとなっています。

      また、筒美さんが作曲した歴代のシングル曲では、
      ▽最も売り上げたのがジュディ・オングさんの「魅せられて」で123万枚、
      ▽2位が近藤真彦さんの「スニーカーぶる~す」で104万枚、
      ▽3位がいしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」で100万枚、
      ▽4位が尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」で95万枚、
      ▽5位が岩崎宏美さんの「ロマンス」で88万枚などとなっています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201012/k10012659581000.html

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    2. 10月13日 編集手帳
      2020/10/13 05:00

       ♪恋人よ ぼくは旅立つ~。太田裕美『木綿のハンカチーフ』は、都会に旅立つ男の子と住み慣れた街に残った女の子が心の声で会話する◆筒美京平さんはこの小説風の詞を受け取るや、こんな長い詞に曲が付けられるかと思った。すぐにレコード会社に電話する。しかし担当者と連絡がつかず、しかたなく作曲にとりかかった。すると…◆じつは作詞をした松本隆さん自身、だれも曲を付けられないだろうと半分あきらめていたという。ところがそうして生まれた曲は、日本中どこを歩いても街角に響きわたる歌となった◆昭和歌謡のヒットメーカー筒美さんが80歳で亡くなった。『ブルー・ライト・ヨコハマ』『また逢う日まで』『魅せられて』…と手がけた名曲は数知れない。華やかな世界に身を置きながら裏方意識が強く、頑固なまでに表に出ないことを徹底していたらしい。そのためか自伝やインタビューの類いが見つからない◆『木綿――』の秘話にしても、松本さんがかつてラジオで一端を明かしたのをかろうじて覚えていた次第である。レコード店に通う人々を恋人に、メロディーで語った人だろう。
      https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20201013-OYT8T50001/

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    3. 追悼 筒美京平さん 日本のポップス 作曲の最高峰…なかにし礼
      2020/10/13 05:00

      洋楽巧みに取り入れ編曲

      インタビューに答える筒美京平さん(1997年)

       日本のポップスの作曲家として間違いなく最高峰にいた筒美京平さんが亡くなった。いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を初めて聞いた時、これまでの日本の歌謡曲にはなかった起伏に富み洗練された旋律に感動したのを克明に思い出す。

       僕が駆け出しの作詩家としてレコード会社に出入りするようになった1960年代半ば、2歳年少の筒美さんは日本グラモフォン(現ユニバーサル・ミュージック)の若手ディレクターだった。よくレッスン室で歌手を指導しているのを見かけたが、時々ひとりでピアノを弾いている姿に、「曲でも作るのかな」と思っていた。間もなく退社し、数年後には飛ぶ鳥を落とす勢いの作曲家として脚光を浴びていた。

       珠玉の旋律を生む才に加え、米国ポップス、ロック、ディスコなど、その時々に流行した洋楽のサウンドを巧みに取り入れた編曲のセンスも光っていた。特にアップテンポでリズミカルな曲を作らせると抜群で、京平節としか言いようのない、独自の世界観を持っていた。

       朝丘雪路さんの「雨がやんだら」や坂本スミ子さんの「夜が明けて」をはじめ数十曲一緒に作っている。「なかにしさん、仕事のしすぎじゃない」なんて言いながら、常にこちらの期待を上回る曲を作ってくれた。いしだあゆみさんの曲を依頼された時、「少しは悩んでもらおう」とたくらみ、「あなたならどうする」という長い8行詩を書いて渡したところ、哀感を帯びた叙情的な旋律をつけてきて、「さすが」とうならされてしまった。

       近年では2003年にTOKIOが歌った「AMBITIOUS JAPAN!」が思い出深い。JR東海から「現代の鉄道唱歌を作ってほしい」という依頼を受け、「新幹線のぞみの疾走感を表現したい」と思い、筒美さんに声をかけた。例によって、「本当にやるの?」と気のない返事だったが、僕が歌詞の一部を渡すと、「サビはこう展開したい」とその先まで曲が出来てきた。そこに僕が歌詞を書き足すという、詞先でも曲先でもないキャッチボールで完成させた。「こういうのをあうんの呼吸と言うんだな」と思ったものだ。オリコンチャート1位という結果を残せたのもうれしかった。

       内気で口数が少なく、人前に出ることも群れるのも嫌いという方だった。私が逗子に引っ越した直後に、同じ逗子在住の筒美さんの家に招かれたことがあったが、たくさん仕事をしたわりには、私的な交流は限られていた。まさに孤高の人だった。先に旅立ってしまったのが残念でならないが、冥福めいふくを祈りたい。(作詩家、談)

      プロが憧れる洗練ぶり…川原伸司

       レコード会社の制作者として40年以上、お付き合いさせていただいたが、仕事ぶりも人柄もあれほど洗練されている人は他に見たことがない。プロが憧れる作曲家だった。はっぴいえんどのメンバーも、井上陽水さんも好きだと言っていた。

       照れ屋だからじゃなく、名誉欲を抑えきって裏方に徹していた。僕なども「表に出て歌う人が全てなんだから、出ちゃダメだよ」と言われていた。それがプロとしての作法、立ち振る舞いと認識していたのだろう。

       曲作りも洗練されており、15分ぐらいで一気に作っていたと思う。常に研究熱心で、新しい音楽が流れたら、すぐに頭の中で曲の構造が解析できている。時代の半歩先を歩き、みんなに新しい感動を与えようと考えていた。

       海外のヒット曲をモチーフにしていたとよく言われるが、格好いいからとそのまま出しているわけではなく、和のアレンジにする技術がすごかった。「カツ丼理論」と言っていた。オシャレで複雑なコードを、耳に優しいお茶の間レベルまで落とし込むのが巧みだった。本人は歌謡曲を嫌いと言いながら、それができていたからまたすごい。歌謡の父が古賀政男、ポップスの父が服部良一とすれば、筒美さんはJ―POPの父だと思います。(音楽プロデューサー・作曲家、談)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201012-OYT8T50185/

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    4. [評伝]生涯3000曲 裏方に徹する…筒美京平さん死去
      2020/10/13 05:00

       生涯に3000曲弱を作曲。オリコンによると、作曲家別のシングル総売上枚数は歴代1位の約7560万枚(2位は小室哲哉さんで約7185万枚)。オリコンシングルランキング1位獲得作品数は39に上る。

       2003年の読売新聞の取材に、「僕がずっと大切にしてきたのは、ヒットメーカーという呼称。これからもヒットにこだわっていく」と語っていた。裏方に徹する意識が強く、あまりメディアに姿を現さなかった。

       洋楽の薫りを取り込んだしゃれた作風が持ち味。編曲も筒美さんが担当した「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、メロディーは歌謡曲風だが、管楽器を使ったアレンジは華麗でアメリカの流行音楽を思わせる。テレビアニメ「サザエさん」のオープニング曲も、親しみやすい旋律だが、リズムが前面に出て、ソウルの影響を感じさせる。「例えば、(フランスの作曲家、指揮者)ポール・モーリアが出てきたら、どうして売れたかを考える。その中で日本の土壌や自分との接点を見つけた」と語っていた。日本的な叙情性と洋楽の洒脱しゃだつさを見事に融合させた作曲家だった。(文化部次長 桜井学)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201013-OYT1T50061/

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    5. 「ブルー・ライト・ヨコハマ」「木綿のハンカチーフ」一晩で名曲書いてしまう天才…筒美京平さん評伝
      2020/10/13 07:05

      太田裕美「木綿のハンカチーフ」

       昭和の歌謡曲黄金期を支えた作曲家の筒美京平(つつみ・きょうへい、本名・渡辺栄吉=わたなべ・えいきち)さんが7日午後3時頃、誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の自宅で死去したことが12日、分かった。80歳だった。グループサウンズやアイドルなどに提供した作品は3000曲とも言われる。近年はパーキンソン病を患い、自宅療養を続けていた。葬儀は近親者のみ(喪主=妻・善子さん)で執り行い、お別れの会の予定は、現時点でない。(売上枚数はオリコン調べ)

       一晩あれば、何十年も歌い継がれる曲を書いてしまう天才だった。

       1968年のある日、青学大時代からの盟友だった作詞家・橋本淳さんから電話があった。「今、横浜にいる。いしだあゆみの新曲の詞ができたんだけど、曲を書いてくれないか」。了解。ちなみに期日は? 「明日がレコーディングなんだ…。今、詞を言うよ。『街の灯りがとてもきれいねヨコハマ…』」。翌日に「出来たよ」と持ってきた曲は、昭和歌謡を代表するミリオンセラーになった。

       75年、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」の詞を松本隆さんから託された。またしても締め切りは翌日。メロディーを重ねるのが難しい詞だったが、一夜明けると、完成した楽譜を笑顔で手渡した。

       音楽的素養は米国大使館の近くで生まれ育った少年期から培われた。4歳からピアノに没頭し、バート・バカラックらのアメリカンポップスを聴き込んだ。大学時代はジャズに傾倒し、あらゆる音感とコード進行が体内に育まれた。「ブルー・ライト・ヨコハマ」に代表されるように、歌謡曲の王道をゆくメロディーに洋楽的サウンドを融合させるスタイルが真骨頂だった。

       技術だけでなく、存在としても職人として生き続けた。「『売れないけど心にしみる歌』はいらない。僕はヒットメーカーという呼び名にこだわりたい」。プロとして結果のみを追求した。

       人前に出ることを嫌い、若い頃は取材も受けなかった。「筒美京平」は存在せず、合作のカムフラージュとうわさされた時期もある。ある年、サプライズでレコード大賞授賞式のステージに立たされると、終了後に舞台裏で激怒した。主役は歌手であり、歌。終生貫いた信念だった。

       もともと考えていたペンネームは「鼓響平」。力強さと気品が重なる鼓の音を理想とした作曲家は戦後日本人の胸に鼓動を響かせ続け、生涯を閉じた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/hochi/20201013064-OHT1T50009/

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    6. 10月13日 よみうり寸評
      2020/10/13 15:00

       大学時代、ジャズバンドで鳴らした筒美京平さんは歌謡曲を嫌っていたらしい。レコード会社への就職に際しても「洋楽部以外はできません」と言明したとの逸話が残る◆ディレクターとなってひたすら洋楽を聞き込み、どんな曲がヒットするかを探りつづけた。大学の先輩でもある作詞家の誘いもあって作曲の世界に転じてから、その素養が生きたという(『筒美京平の世界』)◆確かに『ブルー・ライト・ヨコハマ』も『真夏の出来事』も『また逢う日まで』も洋楽の薫りを漂わせつつ、哀愁を帯びて心に残る◆ポップスという欧米からの風を吹き込んで歌謡曲の様相を変えていったのだろう。7560万枚という日本の作曲家で歴代最多のシングル曲総売上枚数が、時代を映した楽曲の力を物語る◆〈ヒット曲を作り出すことは、夢を追いかけるのに似ている。はかなくも、神秘的かつロマンチックなものだ〉。そう述懐している希代の作曲家が80年の生涯を閉じた。追いかける夢にあふれた昭和の時代がいまはまぶしい。
      https://www.yomiuri.co.jp/note/yomiuri-sunpyo/20201013-OYT8T50042/

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  19. 「北酒場」「喝采」など作曲 中村泰士さん死去 81歳
    2020年12月24日 15時22分

    ちあきなおみさんの「喝采」や細川たかしさんの「北酒場」を作曲するなど、多くの歌謡曲をヒットさせた作詞家で作曲家の中村泰士さんが、今月20日、肝臓がんのため大阪市内の病院で亡くなりました。81歳でした。

    中村さんは奈良県出身で、美川鯛二という名前で歌手として活動したあと、昭和43年に発表された佐川満男さんの「今は幸せかい」で作曲家デビューしました。

    昭和を代表する歌手の楽曲を多く手がけ、昭和47年に発表された、ちあきなおみさんの「喝采」と昭和57年の細川たかしさんの「北酒場」は日本レコード大賞を受賞しました。

    作詞も手がけたほか、平成9年からはライブコンサートを始め、平成14年には近畿各地をめぐるツアーを開くなど、幅広く活躍しました。

    所属事務所によりますと、中村さんはことし9月末に体調不良を訴え、その後、病院で検査を行ったところ肝臓がんが見つかりました。治療を受けながら、今月5日までライブ出演などの仕事を続けていましたが、今月20日、大阪市内の病院で亡くなりました。

    葬儀は親族のみで執り行ったということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201224/k10012781781000.html

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  20. なかにし礼さん死去、82歳…「北酒場」「今日でお別れ」などヒット曲
    2020/12/25 10:52

     「北酒場」「石狩挽歌」など数多くのヒット曲を手がけた作詩家で直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい、本名・中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが、23日午前4時24分、東京都内の病院で心筋梗塞こうそくのため亡くなった。82歳だった。告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は妻、中西由利子さん。

     中国・牡丹江市生まれ。立教大在学中にシャンソンの訳詞を手がけ、1965年に菅原洋一さんが歌った「知りたくないの」で歌謡界に進出した。以後、黛ジュンさんの「天使の誘惑」、菅原さんの「今日でお別れ」、細川たかしさんの「北酒場」と、3曲の日本レコード大賞受賞曲を含む数多くのヒットを飛ばし、ヒットメーカーとして一世を風靡ふうびした。ほかにも、北原ミレイさんの「石狩挽歌」、北島三郎さんの「まつり」など手がけた作品は、約4000曲に上る。

     小説の執筆、オペラや演劇など舞台作品の制作でも才能を発揮。小説では、兄との愛憎劇を描いた実質的なデビュー作「兄弟」で直木賞候補となり、次作「長崎ぶらぶら節」で、2000年に直木賞に輝いた。

     1994~95年には、日本音楽著作権協会理事長を務めた。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201225-OYT1T50101/

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    1. 作詞家 なかにし礼さん死去 82歳「北酒場」「石狩挽歌」など
      2020年12月25日 16時47分

      「北酒場」や「石狩挽歌」など、昭和を代表するヒット曲の作詞家で、直木賞作家のなかにし礼さんが、23日、心筋梗塞のため東京都内の病院で亡くなりました。82歳でした。

      なかにし礼さんは、昭和13年に旧満州、今の中国東北部に生まれ、終戦後、日本に引き揚げました。

      東京の大学に入学してからシャンソンの翻訳を始め、大学卒業後に作詞家となり、由紀さおりさんの「手紙」や、いしだあゆみさんの「あなたならどうする」など、男女の複雑な恋愛感情を情感豊かにつづった作詞で数々のヒット曲を生み出しました。

      このほかにも、北原ミレイさんの「石狩挽歌」や、菅原洋一さんの「今日でお別れ」、細川たかしさんの「北酒場」など、なかにしさんが作詞した歌は4000曲以上に上ります。

      昭和60年代に入り本格的に小説やエッセーなどを書き始め、明治から昭和初期の長崎の花街を舞台にした「長崎ぶらぶら節」で、平成12年に直木賞を受賞しました。

      また、みずからの戦争体験をもとに旧満州からの引き揚げをテーマに描いた小説「赤い月」は、のちに映画やテレビドラマにもなりました。

      さらに、妻の石田ゆりさんの家族をモデルにした小説「てるてる坊主の照子さん」は、平成15年に放送されたNHKの連続テレビ小説「てるてる家族」の原作になりました。

      文筆活動のかたわら、なかにしさんはテレビやラジオの出演のほか、みずからの体験を踏まえて、平和の大切さを語る活動を続けていました。

      なかにしさんは平成24年に食道がんであることを公表し、同じ年に復帰しましたが、その後、がんが再発し、その治療の経過を書いたエッセーを出版するなど、仕事を続けていました。

      親族によりますと、なかにしさんは先月から体調を崩し入院していたということで、23日、東京都内の病院で心筋梗塞のため亡くなりました。82歳でした。

      葬儀や告別式は親族のみで執り行うということです。

      細川たかしさん「また1人 昭和の偉人が 残念でなりません」

      「心のこり」や「北酒場」など、なかにし礼さんが作詞を手がけた楽曲を数多く歌った歌手の細川たかしさんは、「心のこり」と「北酒場」を作曲した中村泰士さんも今月20日に亡くなったことを踏まえて、「また1人昭和の偉人が亡くなってしまい残念でなりません。長い間闘病されていたと聞いていたので、今は天国でゆっくりとお休みくださいと祈るばかりです。私のデビュー曲『心のこり』を作詞していただいたのが最初の出会いでした。『私バカよね、おバカさんよね』冒頭の歌詞があまりにインパクトが強く、よくキャンペーンなどで子どもに『あっおバカさんが歩いている』などと言われるほどでした。もともとタイトルが『私バカよね』でしたがデビュー曲でこのタイトルはかわいそうだと、先生が『心のこり』とつけてくれたんです。その7年後『北酒場』も先生の作品で私にとっての代表曲です。先生本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りしております」とコメントを出しました。

      由紀さおりさん「これからも大切に歌っていきます」

      なかにし礼さんが作詞した「手紙」を歌った歌手の由紀さおりさんは、「本当にびっくりしました。ご病気を発表されてから、いつかはこういう日が来るとは覚悟しておりましたがやはり現実となるとショックです。1970年に『手紙』という曲を頂いて、大阪万博の会場で初めて歌った時に、これで歌い手人生を続けられると感じました。それから52年、この手紙という曲とともに生きてきました。これからも大切に歌っていきます。先生、ありがとうございました」とコメントを出しました。

      なかにしさんの長男「伝えたい事 まだまだあった」

      なかにし礼さんが亡くなったことについて、所属事務所が長男のコメントを発表しました。

      この中で、「やりたい事や伝えたい事は、まだまだあったと思うので残念でなりません。父の作品には、いつも父が伝えたい事が深く書かれていました。その思いを感じて頂きながらもこれからも父の作品と親しんで頂けましたら幸いです」としています。

      そして「父は最期まで格好良く色気があっていい男でした。激動の昭和から現代まで生き抜いてきた人です。最期は家族だけで静かに見送らせて下さいますようよろしくお願い申し上げます」とつづっています。

      事務所によりますと、葬儀は家族のみで執り行うということですが、後日、「お別れの会」を開く予定だということです。

      北原ミレイさん「はだしになって歌え」

      なかにし礼さんが作詞した「石狩挽歌」を歌った歌手の北原ミレイさんは、「突然の知らせに悲しすぎてことばが出ません。45年前にお会いして本当に思い出であふれています。石狩挽歌のレコーディングでは『ハイヒールなんか脱いではだしになって歌え』と叱られ、うまく歌えず悩んでいたら『一度歌の舞台を見たほうがいい』と北海道に連れて行って下さったり、ついこのあいだの事の様です。もう悲しすぎて悲しすぎてまだまだ礼先生との思い出話は尽きませんが、ことしも春先に番組でご一緒するはずでしたがコロナで中止になりお電話で『久しぶりにお前の生の歌を聴きたかったよまたそのうちにな!』これが先生との最後の会話でした。クリスマスに逝っちゃうなんて本当に最後までダンディーでカッコいい礼先生、長い間お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。『石狩挽歌は、私の宝物!』そして『なかにし礼は、私の永遠の憧れ!』心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントを出しました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201225/k10012783321000.html

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    2. なかにし礼さん死去 交流あった評論家「史上最高の作詞家」
      2020年12月25日 20時29分

      亡くなったなかにし礼さんと交流があった音楽評論家の富澤一誠さんは、なかにしさんを「『史上最高の作詞家』だ」と評価しています。富澤さんになかにしさんの作詞家、表現者としての魅力について聞きました。

      「文学的な要素が強い」

      大衆受けするヒット曲の作詞を数多く手がけたなかにしさんですが、富澤さんはその作詞の特徴を、「極めて文学的な要素が強い」と表現し、「作詞を俳句や短歌と並ぶ日本文学にまで昇華させた」と評価しました。

      「なかにしさんは、もともと大学でフランス文学を学び、シャンソンの翻訳をしていたこともあり、文学志向の青年だったことが大きく関わっていると思います。有名なエピソードですけど、石原裕次郎さんに出会って、『おまえ何やっている』と声をかけられ、シャンソンの訳詩をやっているというと、『それで食えるのか、だったら日本の歌謡曲を書きなさい、書いたらもってこい』と言われて石原裕次郎さんに曲を持っていったことがデビューのきっかけとなった。根底に流れる文学的要素を作詞に取り入れ、それを見事にヒット曲として完成させた」。

      「詩の概念を越えている」

      そして前例にとらわれないなかにしさんの歌詞の表現力は「詩の概念を越えている」と話しました。

      「『石狩挽歌』は実話をもとに、兄が破綻していくというドキュメンタリーソングでありながら、男女の恋愛の機微を描いた大人のラブソングでもある。また『北酒場』は演歌の枠組みを超えたファンキーさを兼ね備えていて、ほかの誰もまねできない作詞の幅の広さがあった」。

      また作詞家としてだけでなく、小説家やテレビのコメンテーターとしても活躍したなかにしさんを、昭和という時代が生み出したヒーロー的な存在で、オピニオンリーダーの役割も担っていたと話しました。

      「言いたいことが山ほどあった。引き揚げの経験や反戦の思いが歌に込められているし、歌にできないところは小説にしている。昭和という時代が生み出したヒーロー的な存在であり、なかにしさんはかっこいいという若者が当時たくさんいた。1970年、安保闘争や学生運動の時期に活躍し始めたなかにしさんを、当時学生だった私もかっこいいと思った。言いたいことを言い切っている姿がかっこよかった」。

      昭和の歌謡界 支えた存在が相次いで失われる

      ことしは10月に作曲家の筒美京平さんが亡くなり、今月20日には作詞家で作曲家の中村泰士さんが亡くなるなど、昭和の歌謡界を支えた存在が相次いで失われました。

      富澤さんは「なかにしさんのように自分の信念を曲げない、昭和を代表する作詞家や作曲家が次々に亡くなっていくことは寂しいかぎりだ。なかにしさんの背中を見て触発されてきた音楽関係者はたくさんいると思うので、1つの道しるべが失われたという意味でも影響は大きいと思う」と話し、なかにしさんの死を惜しんでいました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201225/k10012785151000.html

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    3. なかにし礼さん死去 82歳…「今日でお別れ」「北酒場」 昭和思い4000曲
      2020/12/26 05:00

       細川たかしさんが歌った「北酒場」など多くのヒット曲を生んだ作詩家で直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい、本名・中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが、23日午前4時24分、東京都内の病院で心筋梗塞こうそくで死去した。82歳だった。告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は妻、中西由利子さん。

      なかにしさん(左)と美空ひばりさん(中央)、作曲家の三木たかしさん(1988年頃)

       なかにしさんは今年に入り、持病の心臓疾患が悪化し、入退院を繰り返していた。11月に4回目の入院をしてからは、快方に向かうことなく、亡くなった。

       中国・牡丹江市生まれ。立教大在学中にシャンソンの訳詞を手がけ、1960年代後半から、歌謡曲の作詩家としてヒット曲を連発した。黛ジュンさんの「天使の誘惑」、菅原洋一さんの「今日でお別れ」、「北酒場」と3曲の日本レコード大賞受賞曲を生み出した。手がけた作品は、約4000曲に上るという。

       平成に入ってからは、小説家としての活動に力を入れた。「僕は昭和という時代への思いを歌に託していた。その時代が終わり、歌を作る土台を失った」と語っていた。2000年に直木賞を受けた「長崎ぶらぶら節」、NHK連続テレビ小説「てるてる家族」の原作となった「てるてる坊主の照子さん」などが代表作だ。また、オペラなどの舞台作品の作・演出やテレビ番組のコメンテーターなども務め、幅広く活動した。

      [評伝]戦争体験 創作の原点

       「恋のフーガ」「恋の奴隷」などしゃれた味わいの恋の歌に鮮烈なイメージを生む言葉を乗せ、一世を風靡ふうびしたなかにし礼さん。表現者としての原点は、1年余の満州(現中国東北部)での過酷な逃避行にあった。

       避難列車ではソ連軍の機銃掃射を受け、終戦後に過ごしたハルビンではソ連兵の蛮行や日本人の公開処刑を目にする。使役のため連行された父は戻ってくると肺を病み、ほどなくして亡くなった。6~7歳の少年にとって、あまりにむごく悲しい経験だったろう。

       10代の頃から、小説家になって戦争体験を書き残そうと思っていたという。作詩家生活は、なかにしさんにとって寄り道だったのかもしれない。その作詩にも満州での経験が基になった作品が少なからずあった。

       例えば、愛する人との別離の悲しみを「埃(ほこり)にまみれた人形みたい」と表現した「人形の家」は、あかやシラミにまみれた満州の収容所での父との別れの情景を思って書いた。「恋のハレルヤ」は、日本への引き揚げ船に乗り込む時の喜びが基調になった。ヒットにつながった描写は、壮絶な体験から生まれた。

       小説家となり、様々な作品で戦争体験を赤裸々につづった。満州での1年間を題材にした「赤い月」はその集大成だ。劇的な展開に「かなり脚色したのですか」と尋ねると、「生々しい出来事はすべて事実。人生の原体験を書くのに嘘(うそ)は許されません」と語った。

       最後にお会いしたのは今年6月。本紙終戦企画のためのインタビューだった。「戦争の記憶を次代に引き継ぐため、これからも自らの戦争体験を発信したい」と話していた。それがかなわぬことが、残念でならない。(編集委員 西田浩)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201226-OYT1T50087/

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    4. 境界線にじませる表現者…追悼・私の中のなかにし礼
      2020/12/26 05:00

      村松友視

      2018年、長野県軽井沢町で

       黛ジュン「恋のハレルヤ」の新鮮さとノスタルジアが溶け合った不思議なテイストに惹ひかれたのが、私なりの接点だった。歌詞から汲くみ取る表面上の絵柄と、その奥や裏に張りついたたくらみの感触が、他の作詞家と一線を画するなかにし礼の詞の特徴だった。「詞」と「詩」の野暮やぼな区別などは、手品のごとく掻かき消されてしまうのだった。

       この人が小説を書いたら面白そうだ……文芸編集者時代の後遺症をまとったまま作家になっていた私は、ふとそんなことを考え共通の知人を通して当人に伝えた。

       そんな私の気軽な物腰の期待に対して、なかにし礼は意外にも、兄との確執を自らの内臓からえぐり出す作品「兄弟」を書いて、センセーショナルなデビューを果はたした。どんな歌もヒットしなければ駄目……という矜持きょうじをもつ作詞家らしく、「兄弟」は直木賞受賞にはいたらなかったがベストセラーとなり、なかにし礼らしい文壇への賑々にぎにぎしいお披露目ぶりとなった。

       直木賞受賞作「長崎ぶらぶら節」は、地道な取材と資料の精査にもとづき、しかも粋なテイストの作品だったが、力を抜いたボールのスピードと切れ味が増した効果の、余力を残してのストライクという趣おもむきだった。

       受賞後の「赤い月」で、なかにし礼は一気にギアをあげた感があった。「兄弟」で書き尽つくせなかった、性をからめた母への視線に、私は凄味すごみを感じたものだったが、満州(現中国東北部)からの引揚ひきあげ者とは何か……という、次なるなかにし礼の軸とも言えるテーマを、この大ベストセラーははらんでいた。作詞からも小説からも、次のステップへの予感を汲み取ることができるのが、なかにし礼の一大特徴であったのかもしれない。

       やがてなかにし礼は、そのゆたかな観劇体験によって身につけた演劇的センスを駆使した舞台空間での表現に取り組んでゆき、これもまたイベントとして大いなる成果を上げ評価を得た。その舞台空間での表現にさいしては、作詞家時代あるいは「兄弟」や「赤い月」の裏や奥に張りついていた表現者としての思惑が生かされていた。

       そんな時間の中で、満州への郷愁と国家権力への敵愾てきがい心、前衛的世界の追求と古典の原点への回帰、個人的過去の咀嚼そしゃくと神話や伝説など、本来は溶け合うはずのない領域の境界線を次々と滲にじませてゆく、なかにし礼ならではの表現による展開を、私は呆然ぼうぜんたる心持こころもちで遠望するばかりだった。

       このところの激烈な闘病の時間の中でも、自分流の癌がんへの立ち向かい方の編み出しから、ついにその仇敵きゅうてきたる癌を宿命の友とも見立てる心境にいたるまでの、鬼気迫るエネルギーを裏打ちとする発言の数々は、多くの人々を励ましたはずである。ただ、今の私の目に強く灼やきついているのは、歩行を支えるためのステッキを、お洒落しゃれのごとくあやつって相図あいずする、なかにし礼一流のいたずらっぽいダンディぶりなのである。

       (むらまつ・ともみ、作家)


      歌い手の気持ちも理解…歌手 菅原洋一

       私たちの出会いの曲であり、お互いの出世作となった「知りたくないの」は、見事に女心をつかんだ歌でした。ホテルのラウンジで毎日歌っていると、いつの日からか満席。有線を聴いた銀座のホステスさんが押しかけてくれたのでした。

       彼は「あなたの過去など知りたくないの」というそれまでの歌にはない言葉を発見した。流れるメロディーに「過去」という言葉は歌いにくかったけれど、「歌手なんだからしっかり歌え」と譲らなかった。その信念がヒットにつながった。

       シャンソンやタンゴの訳詞から始めた彼が、「北酒場」や「まつり」に至るまで、どんなジャンルも自在に手がけるとは想像がつかなかった。小説を書いた時は僕も喜んだ。彼はずっと思いを抱いていたからです。元々、「知りたくないの」のA面曲だった「恋心」は実に文学的なのです。

       歌をあまり書かなくなってからも、長年の付き合いから特別に提供してくれました。2003年の「シンガーそは歌人」は、歌い手としての僕に改めて教訓を与えてくれた。10年の「ビューティフルメモリー」には優しさあふれる手紙を添えて、息子の英介が作った曲も褒めてくれました。聴き手の心をつかみ、歌い手の気持ちも理解する素晴らしい作詩家でした。(談)

      歌手・氷川きよしさんの話

       「私のような若い人間の話を真剣に聞いてくださり、心をくんで、『母』という詩を書いてくださいました。今年、こんな大変な世の中で、価値観や人生観が大きく変わっていくときに、自分の根幹、原点を見つめ直すためにも、本当に意味のあることだと思いながら、今年一年、歌ってきました。先生からいただいた『櫻』『出発』『母』は、先生からの人生のメッセージです。魂の作品をこれからも大切に歌わせていただきます」
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201225-OYT8T50134/

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    5. なかにし礼さんが死去…「北酒場」「石狩挽歌」「天使の誘惑」「今日でお別れ」など4000曲残す
      2020/12/26 06:00

      なかにし礼さん

       「北酒場」「石狩挽歌(ばんか)」などのヒット曲で知られ、直木賞作家の作詞家・なかにし礼(本名・中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが23日午前4時24分、心筋梗塞(こうそく)のため、都内の病院で亡くなった。82歳だった。11月に体調を崩し、入院していた。故人の遺志により、葬儀・告別式は25日、家族葬で執り行った。後日お別れの会を開く予定。喪主は妻・中西由利子さん。

       昭和を代表する作詞家がまたひとり、天国へと旅立った。関係者によると、なかにしさんは11月に体調を崩して都内の病院に入院。同中旬頃から持病がある心臓の状態が悪化したため、集中治療室で治療を続けていた。コロナ禍のため、家族や親族も十分に面会ができない状態だった。22日夜に家族が呼ばれ、いったん持ち直したが、23日未明になって急変し、静かに息を引き取った。

       なかにしさんは1938年に旧満州に生まれ、終戦後に帰国。立大在学中からシャンソンの訳詞に取り組み、石原裕次郎さんの勧めで菅原洋一のヒット曲「知りたくないの」(65年)の訳詞をきっかけに作詞家になった。1960年代後半から80年代にかけ、黛ジュンの「天使の誘惑」、北原ミレイ「石狩挽歌」、細川たかしの「北酒場」など多くのヒット曲を出し、日本レコード大賞を3度受賞。手掛けた歌詞は約4000曲に上る。

       その後は作家活動に軸足を移し、2000年に「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞した。妻の由利子(元歌手・石田ゆり)さん、女優のいしだあゆみら4姉妹を描いた小説「てるてる坊主の照子さん」は、NHK連続テレビ小説「てるてる家族」(03年)の原作になった。クラシックにも造詣が深く、オペラ「静と義経」では台本や演出を担当し、ミュージカルの作詞も手掛けた。

       近年は病との闘いだった。12年に食道がんを告白。15年に食道につながるリンパ節にがんが再発、手術を受けた。16年にはペースメーカーを埋め込む手術を受け、闘病を続けながら精力的に著書を執筆していた。葬儀・告別式はこの日、家族葬で執り行われた。お別れの会は執り行う予定だが、新型コロナの感染状況を見極めて検討する。

       ◆なかにし 礼(なかにし・れい)本名・中西禮三。1938年9月2日、中国黒竜江省牡丹江市生まれ。63年に学生結婚し、68年離婚。71年由利子さんと結婚、1男1女をもうけた。「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で日本レコード大賞。2001年11月から14年3月までテレビ朝日系「ワイド!スクランブル」にコメンテーターとしてレギュラー出演。日本音楽著作権協会(JASRAC)の理事長などを務めた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/hochi/20201226064-OHT1T50042/

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  21. 終わらぬ夏<7>天国の満州、1日で地獄…作詩家・なかにし礼さん(81)
    2020/08/07 07:11

    なかにし・れい 本名・中西礼三。作詩家、作家。1938年、満州・牡丹江市生まれ。「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」の3曲のレコード大賞受賞曲に加え、「恋のフーガ」「心のこり」「まつり」など多くのヒット曲を手がけた。直木賞受賞作「長崎ぶらぶら節」などの小説でも高く評価されている。

     満州(現中国東北部)の牡丹江ぼたんこうで造り酒屋を営む両親の下、1938年に生を受けました。3歳の時、太平洋戦争が始まったが、満州では次第に悪化する戦況とは無縁で、ぜいたく三昧の生活が続きました。あの日までは……。(聞き手 西田 浩、写真 鈴木竜三)

     45年8月9日、ソ連軍が満州に進撃。2日後、無数の飛行機が牡丹江を爆撃しました。この時、父は新京(現長春)に出張中。しかし、「逃げる」と決断した母はつてを頼り、その晩、ハルビン行きの軍用列車に乗せてもらうことに。「これは遠足みたいなもの。またここに帰ってくるんだ」。そう思っていました。

     翌朝、列車は突然止まり、誰かが「敵機来襲」と叫びました。皆われ先に外へ飛び出し、私はとっさに座席の下にもぐりました。ソ連機は機銃掃射を繰り返しました。それが終わり、我に返ると、目の前には頭を射抜かれ血を流している軍服姿の男が倒れていました。数十センチ銃弾がずれていたら私が死んでいたのです。

     おびただしい死体は外に放り出されました。死体が原野に落ちると、現地人が集まり、服や金歯などをはぎ取る。天国だった満州は1日で地獄に変わったのです。先行した軍用列車も同じ目に遭ったのでしょう。線路脇には行けども行けども丸裸の死体がころがっていました。

     ハルビンに到着したのは、15日昼頃。そこで、満州兵たちから日本の敗戦を知らされました。列車の中にはすすり泣きの声が広がりました。母も姉も泣いていました。

    悲鳴、銃声 転がる死体…やっと引き揚げ 今度は差別

    闘いの始まり

     1945年8月15日、終戦。しかし、私たち家族にとっては、長く苦しい闘いのほんのはじまりでした。

    小学校に入学した頃、満州の自宅玄関前で(1945年撮影)

     軍用列車でハルビンに着いた私たち家族は手荷物を没収されました。ただ、母の策略で避難前、帯に包み私の体にまきつけた現金は無事でした。その晩から、市街地のホテルで仮住まい。ある朝、武装した者たちが部屋に踏み込み、通訳が「我々はソ連兵だ。男を出せ。金品も出せ。うそをついたら殺す」とまくし立てました。ソ連兵は部屋を物色。紙幣を巻き付けた私は生きた心地がしませんでした。その間も部屋の外では怒号や悲鳴、銃声……。

     かり集められた男たちは労役に回されたのです。ソ連兵が去ったホテルは、日本人の血まみれの死体が転がり、凄惨せいさんな光景でした。その日のうちに、ホテルを出て、日本人避難民収容所に移りました。

     9月に入った頃、「中西政太郎の家族はいませんか」という大声が、私たちのいた収容所に響き渡りました。父でした。父の存在は心強く、「もう大丈夫だ」と確信したのでした。しかし、数日後、父は収容所の男たちとともに、使役のためソ連軍に連行されたのです。

     その後、収容所には伝染病が蔓延まんえんし、人がバタバタ死んでいきました。母はここにいると命が危ないと考え、私たちは市街地の安アパートに移り住みました。私が身に着けた所持金も減り、母と姉は、大福やたばこを仕入れ、ソ連兵に売る商いを始めました。

     11月のある朝、父が帰って来ました。劣悪な環境下、過酷な荷役に当たったことで、衰弱し骸骨のようにやせ衰えた姿でした。間もなく父は肺壊疽えそを患い、12月17日亡くなりました。

     公開処刑

     年が明けると、ハルビンからソ連軍が撤退し、中国共産党の軍隊が入ってきました。すると、日本人に対する公開の人民裁判や処刑が行われるようになりました。罪に問われた日本人たちが大きな穴の前に立たされ、頭を銃で射抜かれ、そのまま穴の中に崩れ落ちる。そんなむごい光景を何度も目にしました。

     46年10月、ようやく私たち家族は日本に引き揚げました。葫蘆ころ島(現・遼寧省)から引き揚げ船に乗り込む時、「いつ死ぬかわからぬ日はこれで終わったんだ」と、歌い出したくなるような気持ちになったことは今も克明に覚えています。

     北海道の小樽、青森、東京と、つてを頼り転々としました。小中学生の時に激しいいじめを受けるなど、引き揚げ者に対する差別を味わいました。その理不尽は最近の新型コロナの感染者や医療従事者への差別にも通じていると思えます。満州での心の傷は癒えず、後年まで自分の出自を明らかにしませんでした。

     悲しみを歌に

     大学時代にシャンソンの訳詩を手がけたのを機に、作詩家の道を歩むことになりました。創作を通し内面と向き合うことで、トラウマを少しずつ解消することができた気がします。私の作るいくつかの歌には満州時代の悲しみ、苦しみ、絶望などの心情が投影されています。例えば弘田三枝子さんが歌った「人形の家」。愛する人との別れの悲しみを「ほこりにまみれた人形みたい」と表現したが、それはあかやシラミにまみれた満州の収容所で、使役に引っ張られた父との別れの情景を思いながら書いたのです。周囲から、「なかにしさんの書く別れはあまりに重い」と言われたものです。

     一方、私は少年時代から「小説家になりたい」と思っていました。長じるにつれ、満州での戦争最末期から引き揚げまでの1年2か月のことは、何が何でも書き残し、後世に伝えたいと考えるようになりました。1997年に「兄弟」で本格的に作家デビュー。その4年後に母を主人公に戦争体験を描いた「赤い月」を完成させた時、自分がこの時代に生きた証しを形にできたと思ったのです。

     戦争から75年が経過し、その惨禍を知る者はごく少数になっています。だからこそ、若い世代が自らの意思で、戦争の実態と向き合い、学び、何かをつかみ取らなくては、戦争の記憶を次代に引き継げません。その一助となるため、これからも自らの戦争体験を発信していきたいと思います。

     戦争体験残す 創作の源

     なかにしさんの歩んだ道は帰国してからも平坦へいたんではなかった。生活苦の中いじめを受けた少年時代。成功してからも、終戦時に出征していた兄の度重なる事業失敗に伴う借金苦、死線をさまようことになった心臓病とがん闘病……。波乱万丈、まさに小説のようだ。しかし、強靱きょうじんな精神力で、そして運も味方につけ、ことごとく乗り越えてきた。

     詩と小説、さらにミュージカルやオペラに至るまで、なかにしさんの創作意欲はとどまるところを知らない。それは自らの戦争体験を残すことに収束しているのだと、改めて気づかされた。(西田)
    https://www.yomiuri.co.jp/national/20200807-OYT1T50090/

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  22. 『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』藤澤志穂子著
    2021/01/17 05:00

      昨年11月に亡くなったマンガ家、矢口高雄さんの評伝。地方銀行を30歳で辞め、マンガ家を目指して上京したドラマチックな人生が、本人や関係者へのインタビューから浮かび上がる。『釣りキチ三平』などの原画の写真も収録し、矢口さんの画力の高さを肌で感じられる。(世界文化社、1600円)
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/briefcomment/20210116-OYT8T50098/

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    1. 「釣りキチ三平」作者の矢口高雄さん死去…81歳
      2020/11/25 13:42

       漫画「釣りキチ三平」などで自然の豊かさを描いた漫画家、矢口高雄(やぐち・たかお、本名・高橋高雄=たかはし・たかお)さんが20日、膵臓すいぞうがんのため死去した。81歳だった。告別式は近親者で済ませた。

      漫画家の矢口高雄さん。2006年11月27日撮影

       秋田県生まれ。1973~83年に「週刊少年マガジン」で山村に育った釣り好きの少年を主人公にした「釣りキチ三平」を連載し、子どもたちの間に釣りブームを起こした。同作などで講談社出版文化賞を受賞した。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20201125-OYT1T50220/

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    2. 自分にしか描けないマンガ、それは自然豊かな故郷…矢口さん「釣りキチ三平」
      2020/11/25 17:09

       漫画家・矢口高雄さんの訃報を受け、名作「釣りキチ三平」を取り上げた2016年9月26日付夕刊の書評を再掲します。

      釣りキチ三平(1973~83年、講談社) 矢口高雄

       東京都大田区の6畳一間のアパート。1970年6月、30歳で秋田から上京したばかりの矢口高雄さんは夜、タオルケットをかぶって寂しさに泣いていた。

       子供の頃からあこがれたマンガ家になろうと、決死の覚悟で12年勤めた地方銀行を辞め、郷里に妻と3歳と1歳の娘を残しての一人暮らし。「ペンで食っていけるのか。この年で大変なことをやっちまった……」

      プロデビュー当時を振り返る漫画家の矢口高雄さん。1973年に始まった『釣りキチ三平』の主人公・三平はどこへ行っても、秋田の言葉で話す。「自分の得意な言葉で語りあえるのがステキだと思う」と語る矢口さん(2016年9月12日撮影)

       梅雨の最中だったが、ある朝、からりと晴れた。窓を開けると風が運ぶ初夏の香りに、故郷で夢中になっていた鮎あゆ(あゆ)釣りの記憶が蘇よみがえる。「道具を焼いて東京に出てきたけれど、埋められない釣りへの思いがわきあがった」。そして生まれたのが、地方の銀行員が鮎釣りにはまる姿を描く青春ドラマの短編「鮎」。『釣りキチ三平』の原点になったプロデビュー作だった。

       だが、デビュー後、すぐ成功したわけではない。梶原一騎や小池一夫さんという一流原作者と組んで連載した任侠にんきょうものや戦争ものは不発に。「マンガ家を目指すきっかけになった手塚治虫さんたちと肩を並べていくために、僕には何があるのか」。そう考えて思い至ったのが、「釣りや山菜採りなどに親しんだ山里の暮らしが、僕には深く身についていること」。

       生まれ育った狙半内さるはんない中村地区(現秋田県横手市)は奥羽山脈に分け入った豪雪地。正月を迎えた東京で日本海側の豪雪のニュースを聞くと、雪のない場所にいることが妙に落ち着かなかった。恨み、呪ったはずの雪なのに。自分にしか描けないマンガは、自然豊かな故郷だと悟った。

       青年誌で大人向けの釣りマンガを始めると、このテーマの新しさに着目した「少年マガジン」の編集部から、連載の声がかかった。

       秋田の山村で、釣り竿ざお職人の祖父と暮らす陽気な少年三平は、ライバルと腕を競い、釣りの道を究めてゆく。73年に始まった『釣りキチ三平』で最初のテーマに選んだのは、やはり鮎。「読者は子供でも、本格的な釣りの世界に引き込みたくて、高度な技法を用いる鮎釣りの話から始めた。鮎の解禁のニュースを聞くとずっと触ってない、鮎竿が恋しかったしね」と笑う。

       三平の活躍の舞台は、渓流や湖沼から海外へも広がる。少年たちの間に釣りブームを巻き起こし、破壊が進む自然との付き合い方を考えさせる作品ともなった。「釣りマンガで一番大切なのは、魚がいそうなポイントをいかに描けるか。秋田の自然のたたずまいを熟知していたのが僕は良かったんでしょう」(佐藤憲一)

      〈ツチノコブーム〉
       『釣りキチ三平』が始まる直前、「少年マガジン」に矢口さんが1話目を発表した『幻の怪蛇バチヘビ』は、矢口さんが探索隊に加わり、ツチノコとも呼ばれる幻の蛇を秋田の山中で探すルポ形式のマンガ。矢口さんの人気を押し上げ、日本中を巻き込むツチノコブームのきっかけともなった。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20201125-OYT1T50238/

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    3. 矢口高雄さん死去、81歳…漫画家 「釣りキチ三平」
      2020/11/26 05:00

      「釣りキチ三平」への思いを語る矢口高雄さん(2006年撮影)

       「釣りキチ三平」などで知られる漫画家、矢口高雄(やぐち・たかお、本名・高橋高雄=たかはし・たかお)さんが20日、膵臓すいぞうがんのため死去した。81歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は妻、勝美(かつみ)さん。

       秋田県横手市生まれ。地元の羽後銀行(現・北都銀行)に12年勤務した後、漫画家を目指して30歳で上京し、1970年「鮎あゆ」でプロデビュー。奥羽山脈の雪深く自然豊かな山里で育った経験を基に、73年から83年、「週刊少年マガジン」で釣り漫画の先駆け「釣りキチ三平」を連載。純真な少年が全国の渓流や荒磯で放浪の釣り師らと腕を競う物語や、釣りの本格的な描写が評判となり、子供たちの間に釣りブームを起こした。

       74年に同作と「幻の怪蛇バチヘビ」で講談社出版文化賞、76年、「マタギ」で日本漫画家協会賞大賞。その後も「釣りキチ三平 平成版」、エッセー「ボクの学校は山と川」など、自然と人間をテーマに創作を続けた。

       漫画家・ちばてつやさんの話「日本の美しい山や川、魚たちを描かせたら右に出るものなし。秋田のふる里を心から愛した人でした。故郷の横手市増田まんが美術館の名誉館長も務め、どんどん散逸していく多くのマンガ家たちの原画や資料を保護するために、頑張ってくれていましたので、訃報ふほうが残念でなりません」
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20201126-OYT1T50059/

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  23. その果てを知らず 眉村卓著
    2021/01/17 05:00

    講談社 1500円

    別の世界で生きる

    評・飯間浩明(国語辞典 編纂へんさん 者)

     大学生の頃、眉村さんの講演会に行きました。内容は、自身の経歴を踏まえた文章論や、未来論などについて。質疑応答の時、私は思わず手を挙げ、文学的文章と科学的文章の違いについて尋ねました。丁寧に答えてもらえてうれしかったことを、今でも覚えています。

     その眉村さんが老年を迎え、妻を送り、自らも病を得て、死を身近に感じながら書いたのがこの小説です。実は私は、眉村さんの代表作を何冊か読んだきりで、熱心な読者とは言えません。でも、なぜか最後にまたじっくり話を聞きたくなって、ページを開きました。

     冒頭、作者を思わせる主人公は、大阪の家から近い病院に入院しています。肥大した腫瘍を抗がん剤と放射線で治療する毎日。退院しても<先はそう長くないはずである>と、彼は観念しています。

     残された時間を静かに過ごして終わるのかと思いきや、そうはいかない。主人公はリアルな幻覚に襲われるようになります。病室の天井から透明な膜がはがれ落ちてきたり、窓の外に昔の町が見えたり。

     退院を許され、新幹線で東京に向かう途上で、主人公は自分の過去を振り返り始めます。これも一種の幻覚かもしれない。会社をやめて作家になる決断をした頃。SF草創期を作った作家仲間との日々。脱線話を含む主人公の体験談は、人生訓としても、雑談としても楽しめます。

     主人公が折々に執筆するSF短編作品の数々も、小説中に挿入されます。どの作品も奇妙で、主人公の幻覚と一続きになっているかのよう。やがて、幻覚と主人公の日常はだんだん混ざり合っていきます。

     独り暮らしで、死を目前にした主人公は、はたして寂しかったのでしょうか。どうもそうは思えません。彼は一生かかって、無数の妄想、幻想、虚構の世界を生み出しました。この世を去った後も、彼は自分の生み出した別の世界の中で生き続けているのに違いありません。

     ◇まゆむら・たく=1934~2019年。日本SF第一世代の作家。代表作に『なぞの転校生』『ねらわれた学園』。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20210116-OYT8T50126/

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  24. 河合雅雄さん死去 ニホンザルなど霊長類研究で世界をリード
    2021年5月15日 21時28分

    ニホンザルやヒヒなどの霊長類の研究で世界をリードし、自然をテーマにした児童文学でも知られる、京都大学名誉教授の河合雅雄さんが14日、老衰のため、兵庫県丹波篠山市の自宅で亡くなりました。97歳でした。

    河合雅雄さんは大正13年に兵庫県で生まれ、京都大学理学部の動物学科に在学中、日本の霊長類研究の草分けとして知られる今西錦司さんの研究グループに参加しました。

    河合さんは宮崎県の幸島で行った調査で、ニホンザルがイモを食べる時に海水で洗ってきれいにするとともに塩味をつけることを学び、その学習成果がほかのサルにも伝わっていくことを発見し、サルの文化的行動として国際的に大きな注目を集めました。

    河合さんは財団法人・日本モンキーセンターの所長や京都大学霊長類研究所の教授や所長を歴任し、アフリカでゴリラやヒヒなどの野外調査を重ねました。

    一方、草山万兎のペンネームで「ゲラダヒヒの紋章」などの児童文学作品も著し、特に心理学者で文化庁長官も務めた実弟の河合隼雄さんらと故郷の丹波篠山の自然の中で遊びまわった日々をつづった「少年動物誌」は、ロングセラーとなっています。

    河合さんはテレビの自然科学番組にも数多く出演し、わかりやすい解説で人類の進化や野生生物の生態について紹介し、平成2年には放送文化賞を受賞しています。

    山極壽一さん「人間以外にも文化社会 証明して見せた」

    亡くなった河合雅雄さんと同じ霊長類の研究者で、京都大学の前学長の山極壽一さんはことしの3月に河合さんの自宅に見舞いに訪れていて、14日、河合さんの家族から連絡を受けて亡くなったことを知ったということです。

    河合さんについて「1940年代に始まった日本の霊長類研究の草創期を、今西錦司さんらとともに支えた1人だ。言葉を持たない動物には文化がないと思われていた時代に、ニホンザルの行動を観察して社会構造があることを明らかにし、人間以外にも文化社会があることを証明してみせた」と述べました。

    そのうえで「その後も世界で初めて野生のマウンテンゴリラの撮影に成功したほか、テレメトリーと呼ばれる方法でオナガザルの行動を調べ、発信器を使った動物の行動調査の先駆けとなり、霊長類学の発展に大きく貢献された方だった」と話していました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210515/k10013032691000.html

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  25. 「京都大学 霊長類研究所」
    https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%20%E9%9C%8A%E9%95%B7%E9%A1%9E%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80&ei=UTF-8

    いつのまにか「不正」の温床になっていたという…

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  26. 作曲家の小林亜星さん死去 88歳 「北の宿から」など作曲
    2021年6月14日 18時40分

    「この木なんの木」の歌いだしで知られるCMソングやアニメの主題歌、都はるみさんの「北の宿から」などを手がけた作曲家で、俳優としても活躍した小林亜星さんが先月30日に心不全のため亡くなりました。88歳でした。

    小林さんは東京都の出身で、大学時代にジャズバンドで活動し、卒業後に本格的に作曲を学びました。

    テレビコマーシャルの黎明期だった頃にCMソング「ワンサカ娘」を手がけ注目を集め、その後も「この木なんの木」の歌いだしで知られるCMソングのほか「魔法使いサリー」や「ひみつのアッコちゃん」などのアニメの主題歌を手がけ、軽快な音楽で人気を集めました。

    また、昭和51年には都はるみさんが歌った「北の宿から」が大ヒットし、日本レコード大賞を受賞しました。

    俳優やタレントとしても活躍し、向田邦子さんが脚本を担当した昭和49年のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」で頑固な父親の役を演じて人気を集めたほか、平成14年にはNHKの連続テレビ小説「さくら」で主人公の祖父の役を演じました。

    関係者によりますと、小林さんは先月30日に都内の自宅で倒れ、病院に搬送されましたが、心不全のため亡くなりました。

    88歳でした。

    葬儀や告別式は親族のみで執り行われたということです。

    俳優 中村メイコさん「一番いい時代にお仕事をなさった」

    小林亜星さんが亡くなったことについて、2002年に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説『さくら』で、小林さんと夫婦役を演じた俳優の中村メイコさんは
    「亜星先生は、何度も何度も大きな病気になってもお元気になられました。病気になるたびに心配していましたが、ついに力尽きてしまわれたのかなと思いました。『さくら』の撮影は本当に楽しくて、スタッフの人によく『本当のご夫婦みたいですね』と言われるくらいでした。亜星先生が作曲されていたのはメロディーラインがあって音楽にも一つ筋が通っていた時代で、一番いい時代にお仕事をなさったと思います。お医者さまの言いつけに背いて食べたいものを食べて、お酒も飲んでいましたが、そういう方がいてもいいんじゃないかなと思えるような方でした」と話していました。

    俳優 浅田美代子さん「本当の家族のよう」

    民放のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」で共演した、俳優の浅田美代子さんは
    「寺内貫太郎一家で御一緒させて頂き、本当の家族のように過ごさせて頂きました。その貫太郎一家もおばあちゃん、おかみさん、ヒデキさん、イワさん、タメさん、久世さん、そして旦那さんまでいなくなってしまい本当に淋しい…。米寿での旅立ち。旦那さんどうか安らかに…御冥福をお祈り致します。今頃あちらでみんなと会って想い出話に花が咲いているかな…」というコメントを出しました。

    榊原広子さん「小林先生の曲は どんな人でも歌いやすい」

    小林亜星さんが作曲した「野に咲く花のように」などのヒット曲で知られるフォークソング・デュオ「ダ・カーポ」の榊原広子さん(70)は
    「『野に咲く花のように』を含め小林先生の曲はどれもシンプルで覚えやすく、どんな人でも歌いやすい。よけいなものをそぎ落として簡単な曲を作ることは実はとても難しく、まねをしたくてもできない。そうした曲を作ることが先生のポリシーだったのではないか」と話しました。

    そのうえで、小林さんの人柄について「歌手に対して『こう歌って』と言うようなタイプではなく、いつも静かでおおらかな人だった。これまでにずいぶんたくさんの曲を作っているが、たくさん働かれたと思うのでどうかゆっくり休んでくださいと伝えたい」と話しました。

    水森亜土さん「曲はいつでも新鮮で永遠です」

    小林亜星さんが亡くなったことについて、楽曲の提供を受けたほか、舞台でも共演したイラストレーターで歌手、俳優の水森亜土さんは
    「とても頭のいい方で、舞台でもせりふを一番早く覚えていたことや、一緒に出たクイズ番組で答えを教えてくれたことが印象に残っています。また、亜星さんはとにかく体が大きく汗っかきだったので、衣装は必ず2枚ずつ用意していました」などと小林さんとの思い出を振り返りました。

    そして「亜星さんの曲は、いつでも新鮮で永遠です。最高」と小林さんをしのんでいました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210614/k10013084331000.html

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    1. コロナワクチンは打ったのかな?

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    2. ギタリスト寺内タケシさん死去 エレキの神様の愛称で人気に
      2021年6月19日 18時03分

      昭和40年代のエレキギターブームで人気を集め、「エレキの神様」の愛称で親しまれたギタリストの寺内タケシさんが、18日夜、横浜市内の病院で肺炎のため亡くなりました。82歳でした。

      寺内さんは茨城県出身で、昭和37年に結成したバンド、「寺内タケシとブルージーンズ」を率いて、エレキギター奏者として活躍しました。

      昭和40年には、ザ・ベンチャーズの来日公演をきっかけにエレキギターブームが起こり、寺内さんは、いわゆる「テケテケ奏法」と呼ばれる特徴のあるギターテクニックを披露してファンを魅了しました。

      この年に公開された加山雄三さん主演の映画、「エレキの若大将」にも出演しています。
      寺内さんは、その後、エレキギターの音楽が子どもたちの非行を招くという誤解を解こうと全国の高校などを回ってコンサートを行う活動を続け、平成12年に文部大臣から感謝状を贈られるなど、教育の分野でも高い評価を受けてきました。

      寺内さんは、結成から50年以上にわたってバンド活動を続け、マネージメント会社によりますと去年までライブ活動を行っていましたが、ことし2月からは誤えん性肺炎のため入院していたということです。

      その後、回復傾向にあったということですが、18日、状態が急変して午後8時ごろ横浜市内の病院で肺炎のため亡くなったということです。

      82歳でした。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210619/k10013093571000.html

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  27. サックス奏者 原信夫さん死去 ジャズのビッグバンドで活躍
    2021年6月22日 12時40分

    日本を代表するジャズのビッグバンドを戦後、半世紀余りにわたって率いたサックス奏者の原信夫さんが、21日に肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。94歳でした。

    原信夫さんは富山市の出身で、旧日本海軍の軍楽隊に入ったあと、戦後、昭和26年にジャズのビッグバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」を結成しました。

    バンドは、テナーサックスを演奏する原さんがリーダーを務め、アメリカを代表する「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」への出演を果たすなど、世界各国で公演を重ねて、日本を代表するビッグバンドとして活躍しました。

    昭和30年代から40年代には、NHKの紅白歌合戦でも出場歌手の演奏を担当しました。

    原さんは作曲家としても活動し、昭和42年には美空ひばりさんが歌った「真赤な太陽」などのヒット曲を生み出したほか、江利チエミさんなどのバックバンドとしても活躍しました。

    昭和63年に紫綬褒章、平成10年には旭日小綬章を受章し、70歳をすぎても演奏活動を続けていましたが、その後、バンドを解散して現役を引退していました。

    家族によりますと、原さんは21日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなったということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210622/k10013097191000.html

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    1. ジャズのサックス奏者・原信夫さん死去、94歳…「シャープス&フラッツ」リーダー
      2021/06/22 00:38

       ジャズのビッグバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」のリーダーとして活躍したサックス奏者の原信夫(はら・のぶお、本名・塚原信夫=つかはら・のぶお)さんが21日夜、肺炎のため東京都内の病院で死去した。94歳だった。告別式は近親者で行う。

       富山市出身。海軍軍楽隊に入隊し、終戦後は進駐軍相手にクラブで演奏、1951年にシャープス&フラッツを結成した。カウント・ベイシーやデューク・エリントンらの米国の一流楽団の演奏スタイルを吸収。躍動感のある演奏が海外の音楽家からも注目され、60年代にはアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズやベイシー楽団と共演。ナット・キング・コールらの来日公演時には、バックバンドを務めた。

       その一方で、「日本人ならではのジャズ」の確立を目指した。67年には、米国ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演。「ソーラン節」などを演奏し、高い評価を得た。江利チエミさんや美空ひばりさんと共演し、原さんが作曲したひばりさんの「 真赤まっか な太陽」も大ヒット。60~70年代にかけ、NHK紅白歌合戦で紅組の伴奏を務めるなど、歌謡曲の世界にも貢献した。

       バンドは2006年に結成55周年記念コンサートを成功させ、10年にグランドフィナーレ公演を行った。1988年に紫綬褒章、98年に旭日小綬章を受けた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210621-OYT1T50229/

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    2. 美空ひばりさん長男・加藤和也氏、原信夫さんを追悼「天国でセッションしている」
      2021/06/22 11:36

       ジャズのビッグバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」を率いたサックス奏者・原信夫(はら・のぶお、本名=塚原信夫)さんが21日、肺炎による呼吸不全のため都内の病院で亡くなった。94歳だった。原さんがバックバンドを務めた美空ひばりさんの長男でひばりプロ社長・加藤和也氏が22日、コメントを発表した。

       加藤氏は「母が演歌歌謡曲だけではなく、ジャズやポップスにも精力的に取り組む事ができたのは、原信夫さんのお陰によるものです」と感謝。ひばりさんの33回忌にあたる6月24日には、ひばりさんと原信夫とシャープス&フラッツとの最初の名盤「ひばりとシャープ」、「ひばりジャズを歌う~ナット・キング・コールをしのんで~」が復刻される予定だったため「このタイミングで訃報に際し、残念でなりません」とコメントした。

       また、ひばりさんがロックに挑戦した楽曲が原さん作曲の「真赤な太陽」だったと振り返り「晩年、最後にまた原さんの演奏で歌いたいと口にしていた母ですから、きっと天国でセッションしていることだと思います」としのんだ。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/hochi/20210622064-OHT1T51053/

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    3. [追悼抄]ビッグバンドに和の魅力…原信夫さん ジャズ・サックス奏者 6月21日、肺炎で死去、94歳
      2021/08/31 15:00

      「軍楽隊時代のスパルタ教育が結果的に自分の身になった」と語っていた(2006年撮影)

       「ジャズなんて知らないのに、見よう見まねで演奏している。それが僕のジャズ人生のスタートでした」

       日本を代表するビッグバンド、シャープス&フラッツを率いた大御所の言葉に驚いたのは、2017年秋に取材した時だった。

       1943年に海軍軍楽隊に入隊したが、終戦。職を求めて帝国劇場専属オーケストラの入団試験を受けたが、その帰り道に軍楽隊時代の友人とばったり会った。「これからはジャズだ。進駐軍の仕事はもうかるぞ」と誘われ、そのまま友人の楽団に合流し、進駐軍クラブ回りの演奏を始めた。

       「最初は独特のリズムについていけなかった」と四苦八苦したが、またたく間に頭角を現していく。51年にはシャープス&フラッツを結成し、鑑賞に値するジャズを演奏すると、高く評価されるようになった。

       常々「カウント・ベイシーやデューク・エリントンなど米国の名門バンドの持ち味を兼ね備えることが目標」と語り、日本の聴衆に正統的なビッグバンド・サウンドを伝え続けた。

       一方で、日本人ならではのジャズも目指し、67年に米ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した時は、和旋律を取り入れた自作曲「古都」や民謡「ソーラン節」を披露し、喝采を浴びた。その時のことをこう振り返っていた。

       「普通だったら、スタンダードを持っていく。その方が無難だし、僕らも楽。でも米国はオリジナリティー重視の国。自分たちの音楽で勝負しようと決めました。冒険ですよ。でも、『ソーラン節』は大受けで、会場はすごく盛り上がりました。現地の新聞には『新しいサウンドを打ち出してくれた』といった評論が出て、うれしかったなあ」

       歌謡界への貢献も見逃せない。NHK紅白歌合戦をはじめ歌謡曲の伴奏に引っ張りだこ。大御所、美空ひばりの代表曲「真赤な太陽」を作曲している。

       そんな姿を見て、長男の原とも也さんもジャズに引き寄せられる。カナダでジャズギターを学び、83年に帰国した直後に、父のコンサートをのぞくと、舞台に上げられ、演奏することに。「僕が音楽の道に進んだのがうれしかったのでしょう。いつのまにか父のバンドに加わることになっていました」と話す。84年から9年間在籍。「今日のソロはなっていない」など、よくしかられた。「頑固で一度決めたことは曲げない。リーダー 気質かたぎ の塊でしたね」

       6月21日朝、信夫さんの容体悪化の知らせに、とも也さんは病院に駆けつけた。スマートフォンで父が大好きだった曲を耳元で流すと、混濁した意識の中、首を振り、足でリズムを取り始めたという。亡くなったのはその晩だった。かつてなじめなかったジャズのリズムが、最後は体の隅々に染みこんでいたのだ。(東京本社編集委員 西田浩)
      https://www.yomiuri.co.jp/national/20210831-OYT1T50211/

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    4. カウント・ベイシー(楽団)、デューク・エリントン(楽団)をお手本にしつつ、やがて定型を放たれて独自の色で染め上げた音を奏でる…

      ベースにできる巨人たちの偉大さよ。

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  28. ノンフィクション作家 立花隆さん死去 幅広いテーマ取材
    2021年6月23日 3時13分

    田中内閣退陣のきっかけになったと言われる「田中角栄研究」をはじめ、政治や科学、医療など幅広いテーマで取材や評論活動を行ってきたジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆さんが、ことし4月、急性冠症候群のため亡くなりました。80歳でした。

    立花隆さんは昭和15年に長崎市で生まれ、東京大学を卒業したあと出版社の文藝春秋に入社しました。

    入社から2年あまりで出版社を離れたあとも取材活動や記事の執筆を続け、昭和49年に現職の総理大臣だった田中角栄氏の金脈問題を膨大な資料を検証して追及した『田中角栄研究』を発表して大きな反響を呼び、田中内閣が退陣するきっかけになったと言われています。

    その後も鋭い着眼点と徹底した取材をもとにしたルポルタージュを次々と発表し、扱うテーマも政治だけでなく、最先端の科学や医療、宇宙や脳死など多岐にわたり、「知の巨人」と称されました。

    平成7年からは東京大学の客員教授を務めてユニークな講義で多くの学生たちに学びの大切さを伝え、各地の大学でも講演するなど若い世代の育成にも力を注いできました。

    平成19年にはぼうこうがんが見つかったことを公表し、病気や死をテーマにした作品の執筆やドキュメンタリー番組の制作にも携わってきました。

    家族によりますと、立花さんは4月30日、急性冠症候群のため入院先の病院で80歳で亡くなったということで、詳細についてホームページで公表するとしています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210623/k10013098951000.html

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    1. ジャーナリスト・作家 立花隆さん死去 幅広いテーマ取材
      2021年6月23日 7時40分

      田中内閣退陣のきっかけになったと言われる「田中角栄研究」をはじめ、政治や科学、医療など幅広いテーマで取材や評論活動を行ってきたジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆さんが、ことし4月、急性冠症候群のため亡くなりました。80歳でした。

      立花隆さんは昭和15年に長崎市で生まれ、東京大学を卒業したあと出版社の文藝春秋に入社しました。

      入社から2年あまりで出版社を離れたあとも取材活動や記事の執筆を続け、昭和49年に現職の総理大臣だった田中角栄氏の金脈問題を膨大な資料を検証して追及した「田中角栄研究」を発表して大きな反響を呼び、田中内閣が退陣するきっかけになったと言われています。

      その後も鋭い着眼点と徹底した取材をもとにしたルポルタージュを次々と発表し、扱うテーマも政治だけでなく、最先端の科学や医療、宇宙や脳死など多岐にわたり、「知の巨人」と称されました。

      平成7年からは東京大学の客員教授を務めてユニークな講義で多くの学生たちに学びの大切さを伝え、各地の大学でも講演するなど若い世代の育成にも力を注いできました。

      平成19年にはぼうこうがんが見つかったことを公表し、病気や死をテーマにした作品の執筆やドキュメンタリー番組の制作にも携わってきました。

      家族によりますと、立花さんは糖尿病や心臓病などを抱えて入退院を繰り返したあと旧知の病院で入院を続け、4月30日、急性冠症候群のため亡くなったということです。

      80歳でした。

      家族がHPで詳細を公表

      立花隆さんが亡くなったことについて、家族が23日朝、立花さんの教え子が運営するサイトに詳細を公表しました。

      それによりますと、立花さんはことし4月30日の午後11時38分、急性冠症候群のため亡くなりました。

      亡くなるまでのいきさつについては、「長年 痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気をかかえ、入退院を繰り返してまいりました。一年前大学病院に再度入院しましたが、本人が検査、治療、リハビリ等を拒否したため、旧知の病院に転院しました」と説明しています。

      この病院で立花さんは「病状の回復を積極的な治療でめざすのではなく、少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という院長の考えのもとで入院を続け、4月30日の夜に看護師が異常を感じて院長に連絡をとったものの、到着を待たずに急逝したということです。

      葬儀は家族のみで執り行ったということです。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210623/k10013098951000.html

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    2. 立花隆さん 「人間とは」探究の生涯 
      2021/06/23 15:00

      大量の本や資料が置かれた事務所で話をする評論家の立花隆さん(2010年5月)

      脳、宇宙…多分野に迫る

       「人間はみんな本能的に知識欲を持っている」。脳科学から宇宙、臨死体験、サル学まで――。旺盛な探求心で数多くのノンフィクション作品や評論などを発表し続けた立花隆さんが亡くなった。まさしく「知の巨人」というべき80年の生涯だった。

       兄の橘弘道さんが出したコメントによると、立花さんは長年、糖尿病や高血圧、がんなどの病気を抱え、入退院を繰り返していた。1年ほど前、大学病院に入院したが、検査や治療、リハビリなどを拒否し、旧知の病院に転院。「少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」との方針で入院を続けたという。

       執筆の傍ら、「根源的なものに強い志向がある」などと、多彩なジャンルに挑戦する理由を語った。根底にあったのは、「人間とは何か」という問いだった。

       中でも、「田中角栄研究――その金脈と人脈」は、調査報道の先駆けとも言える手法を用い、金権政治の実態にメスを入れた。首相退陣、そして、ロッキード疑惑にまでつながった。1974年に発表された当初は、政界関係者の間では、「すべてすでに知られていること」と見る向きもあった。しかし、立花さんは“公然の事実”についても裏付け取材を進め、互いを関連づけることで、全体像を浮き上がらせて見せた。

       自宅近くの3階建ての仕事場には、黒いビルの曲面いっぱいにネコが描かれ、通称ネコビルと呼ばれるほどの愛猫家だった。95年には、スタジオジブリのアニメーション映画「耳をすませば」で声優デビューし、「初めて子どもたちから尊敬された」と苦笑いをしていた。

       ジャーナリスト・森健さんは、「『田中角栄研究』を20代の後半に読み、ライターの仕事の本当の面白さを知った。ほとんど全作品を読んできたが、社会正義から取材するというより、知的好奇心や興味を掘り下げていくスタイルが貫かれていたように感じる。世の中の複雑さを、冷静に面白がっていた。これほど幅の広い人はもう出てこないだろう」と故人をしのんだ。

      [評伝]飽くなき好奇心の実践

       飽くなき好奇心の人だった。東京・小石川のネコビルは、まさに本に埋もれていた。地下から3階までの正確な冊数は分からず、だいぶ減った後だというが、それでも2020年1月の取材時には3万冊ではきかないと笑っていた。

       取材場所となった3階は、天井まである本棚で四方を囲まれ、その中にちょこんと収まっているようにも見えた。食べかけの総菜やお弁当、飲料も散乱し、雑然とする部屋から、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を迷わずに取り出したことには驚いた。頭の中は整然としていたのだ。

       「本は古いものを遡るとすごいね。本当に色々なものがある。いくつになっても読むのは面白い」と力説したかと思えば、「実体験は本に勝る。本を捨てて街に出るのも正しい」。1969年の学園紛争時、学生が立てこもる東大・安田講堂の内部で見た落書きや、機動隊突入前夜のたき火、連行されていく学生の様子などを、臨場感あふれる語り口で話してくれた。

       左右どちらの思想にも偏らず、物事を 俯瞰ふかん して見る姿勢は、引き揚げ体験に起因していた。5歳で終戦を迎え、中国・北京から山ほどの荷物を背負って日本に引き揚げてきたという。だから、根無し草のような、ノマド(遊牧民)的生き方になったのだ、と。実際、入社した文芸春秋は2年半で退社し、東大哲学科に学士入学。その後はフリーで活動した。「ほかの人たちと違う見方を常にしてきた」

       田中角栄に関する一連の報道は、事実を丹念に積み上げ、雑誌ジャーナリズムの可能性を切りひらいた。それは反骨精神に基づき、政治家や日本社会の根源を探るという、彼にとっての一つの好奇心の実践だった。ただ、知への欲求は、そこでとどまることがなく最新の科学や精神の問題へと広がっていった。「人間はどこからきてどこへ行こうとしているか。哲学的命題が常に頭にあった」と語っていた。

       年齢的に近づいてきた死についても、「面白いかもしれない」と笑みを浮かべた。「息が切れる寸前の頭の中に何が去来するか、その時にならないと分からないからぜひ知りたい」と平然と語った。死の瞬間もまた、好奇心の対象にしようとしていた。(文化部 小林佑基)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210623-OYT1T50162/

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    3. 『宇宙からの帰還』とか『臨死体験』とか…
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%9A%86#%E8%91%97%E4%BD%9C

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    4. 「脳」や「環境ホルモン」のあたりから、胡散臭く感じてダメになったように思う。

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    5. 東大官学閥(コネクション)にうまくまるめこまれてしまったのかな…

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  29. 寄生虫研究者 藤田紘一郎さん死去 81歳 微生物との共生訴え
    2021年6月29日 13時15分

    寄生虫の研究者として数多くの著書を執筆し、微生物との共生を訴えた東京医科歯科大学名誉教授の藤田紘一郎さんが亡くなりました。81歳でした。

    藤田紘一郎さんは昭和14年に旧満州で生まれ、東京医科歯科大学医学部を卒業後、奄美地方の寄生虫によって引き起こされる病気の調査団に同行したことをきっかけに、ヒトやイヌなどの寄生虫、「フィラリア」などの研究を始めました。

    昭和62年には東京医科歯科大学の教授に就任して寄生虫研究を行う一方で、一般向けの著書の執筆やテレビ出演などを通じて寄生虫を研究することのおもしろさを伝え、過剰な清潔志向は免疫の働きを弱めるとして「微生物との共生」を訴えました。

    藤田さんはことし4月に体調を崩して入院中でしたが、先月14日、東京都内の病院で誤えん性肺炎のため亡くなりました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210629/k10013109461000.html

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    1. 【独自】「寄生虫博士」藤田紘一郎さん死去、81歳…「笑うカイチュウ」「清潔はビョーキだ」
      2021/06/28 05:00

       「寄生虫博士」として知られる東京医科歯科大名誉教授の藤田紘一郎(ふじた・こういちろう)さんが、5月14日、 誤嚥ごえん 性肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は妻、芳子さん。

       旧満州(現中国東北部)で生まれ、東京医科歯科大に進学。奄美・沖縄への医療調査団に同行したことがきっかけで寄生虫学の道に進み、フィラリア対策に没頭した。同大などで教べんを執りながらメディアでも盛んに発言。日本人の過剰な清潔志向が免疫力を低下させると警鐘を鳴らし、寄生虫や細菌と共生する大切さを訴えた。

       講談社科学出版賞を受賞した「笑うカイチュウ」のほか、「空飛ぶ寄生虫」、「清潔はビョーキだ」など多数の著書がある。
      https://www.yomiuri.co.jp/national/20210627-OYT1T50250/

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    2. 「清潔はビョーキだ」は名著だと思う。

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  30. 音楽プロデューサー 酒井政利さん死去 昭和歌謡界で楽曲ヒット
    2021年7月19日 15時43分

    山口百恵さんや郷ひろみさん、南沙織さんなど、昭和の歌謡界で数多くのアイドルの楽曲をヒットさせた音楽プロデューサーの酒井政利さんが、今月16日、心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。85歳でした。

    酒井さんは、昭和10年に和歌山県で生まれ、立教大学卒業後、日本コロムビアに入社して、歌謡曲のプロデューサーとして昭和39年に手がけた青山和子さんの「愛と死をみつめて」が日本レコード大賞を受賞するなど、早くから頭角を現しました。

    昭和43年に、創立にも関わったCBS・ソニーレコードに入社し、1960年代から70年代にかけては、南沙織さんの「17才」や郷ひろみさんの「男の子女の子」、山口百恵さんの「プレイバック part2」や「いい日旅立ち」、キャンディーズの「年下の男の子」や「春一番」など、数多くの才能を育てヒット曲を次々と手がけ、当時の歌謡界でアイドル路線を確立させて、一時代を築きました。

    このほかにも、ジュディ・オングさんや、矢沢永吉さんなど、多くの人気アーティストの楽曲のプロデュースを手がけました。

    酒井さんの公式サイトによりますと、これまでに350人余りのアーティストを世に送り出したということです。

    こうした功績で、令和2年には文化功労者に選ばれています。

    所属事務所によりますと、酒井さんはことし5月に体調不良のため東京都内の大学病院に入院していましたが、体調が悪化し、今月16日に心不全のため亡くなったということです。

    85歳でした。

    ジュディ・オングさん「『魅せられて』は私の宝物」

    酒井政利さんがプロデュースした「魅せられて」を歌った歌手のジュディ・オングさんは「どれだけ泣いても、涙が止まりません。私の大好きな酒井さんが、もういらっしゃらないなんて。歌手としての私を信じて制作してくださった『魅せられて』は私の宝物です。残された者が輝いて歌うことが一番の供養であり喜んでいただけると思い、歌い続けていくつもりです。いつまでもずっと空から見ていてくださいご冥福をお祈り申し上げます」というコメントを出しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210719/k10013147241000.html

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    1. 音楽プロデューサー・酒井政利さん死去…アイドル歌謡曲の全盛期リード
      2021/07/19 19:22

       山口百恵さんや南沙織さんらアイドル歌手の作品を数多く手がけた音楽プロデューサーで、文化功労者の酒井政利(さかい・まさとし)さんが16日、心不全で死去した。85歳だった。告別式は近親者で済ませた。

       和歌山県出身。1961年に日本コロムビアに入社し、プロデュースした青山和子さんの「愛と死をみつめて」が64年の日本レコード大賞を受賞。68年にCBS・ソニーレコード(当時)に移ってからは、南さんの「17才」や山口さんの「プレイバック part2」「いい日旅立ち」のほか、郷ひろみ「男の子女の子」、キャンディーズ「年下の男の子」などをヒットさせ、アイドル歌謡曲の全盛期を先導した。南さんの清廉さや山口さんの大人びた雰囲気など、歌手の個性を生かした楽曲制作などで手腕を発揮した。

       ほかに、矢沢永吉「時間よ止まれ」、久保田早紀「異邦人」、日本レコード大賞受賞曲のジュディ・オング「魅せられて」などを担当。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍し、柔和な語り口で知られた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20210719-OYT1T50103/

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    2. 山口百恵さん、南沙織さん、郷ひろみ育てた 音楽プロデューサー酒井政利さん死去
      2021/07/20 06:00

       日本のアイドル文化の礎を築いた音楽プロデューサーの酒井政利(さかい・まさとし)さんが16日午後7時5分、心不全のため都内の病院で死去した。85歳だった。手掛けたアーティストは引退した山口百恵さん、南沙織さん、郷ひろみら350人以上。5月に知人らに元気な姿を見せたが、月末になってアレルギー反応が出たため、検査を兼ねて治療入院していた。葬儀・告別式は、すでに近親者のみで執り行った。

       昭和の歌謡界を支えた名プロデューサーが安らかに旅立った。

       所属事務所によると、酒井さんは5月下旬にアレルギー反応が出たため、検査と治療を兼ねて入院。5月9日には音楽関係者の葬儀に参列。友人らと昼食をとるなど元気な姿を見せていたが、事務所関係者は「食欲も減退していたので、1、2か月かけてゆっくりと治療しようということになりました」と語った。

       その後は順調に回復し、7月からリハビリをスタート。自らが楽曲タイトルを提案した歌手のレコーディングが22日に予定されていたため、そこに立ち会うことを目標にしていたが、16日になって容体が急変。関係者に見守られる中、息を引き取った。突然の別れに、関係者は「静かに、苦しまずに逝きました。本の出版の話や校歌の依頼の話もあったんです」と惜しんだ。

       酒井さんは立大卒業後、映画プロデューサーを志して松竹に入社したが、すぐに退社。その後、日本コロムビアに入社し、青山和子の「愛と死をみつめて」が64年の日本レコード大賞を受賞した。68年にCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に移籍。米国旅行でフランク・シナトラに使われたのが始まりという「アイドル」という言葉を知り、「いつか日本でアイドルを作りたい」と一念発起し、“アイドル路線”第1号として南沙織さんを手掛け、デビュー曲「17才」は54・2万枚の大ヒット。アイドル時代の華々しい幕開けを演出した。

       日本テレビ系「スター誕生!」から芸能界入りした百恵さんとは、73年のデビューから80年の引退まで二人三脚で歩んだ。刺激的な歌詞を取り入れた2作目の「青い果実」で人気に火が付くと、「プレイバックPart2」「秋桜」「いい日旅立ち」などが大ヒット。百恵さんを時代の寵児(ちょうじ)に押し上げた。

       男性アイドルのトップに立ったのは郷。中性的な魅力を引き出したデビュー曲「男の子女の子」で注目を集めると、「よろしく哀愁」「お嫁サンバ」「2億4千万の瞳」などで大人のエンターテイナーへと成長。アイドル以外でも手腕を発揮し、ジュディ・オング「魅せられて」は123・5万枚を記録。矢沢永吉、宮沢りえも手掛け、プロデュースした楽曲の売り上げ累計は約8700億円とも言われる。2005年に音楽業界初の文化庁長官表彰を受け、昨年文化功労者に選ばれた。

       ◆酒井 政利(さかい・まさとし)1935年11月17日、和歌山県生まれ。立大卒業後の61年に日本コロムビアに入社。日本レコード大賞を受賞した青山和子「愛と死をみつめて」などを手掛け、68年にCBS・ソニーに移籍。南沙織さん、フォーリーブス、山口百恵さん、郷ひろみ、松田聖子らをプロデュース。96年に独立。2019年に和歌山県文化功労賞を受賞、20年に文化功労者に選ばれた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/hochi/20210719064-OHT1T51218/

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  31. 劇画家のさいとう・たかをさん死去 84歳 ゴルゴ13などで人気
    2021年9月29日 19時01分

    寡黙なスナイパーが活躍する「ゴルゴ13」などで、大人の鑑賞に堪えうる「劇画」の分野を確立した、さいとう・たかをさんが、9月24日にすい臓がんのため亡くなりました。84歳でした。

    和歌山県で生まれたさいとうさんは、家業の理髪店を手伝いながら映画や手塚治虫などの影響で漫画を描き始め、1955年に「空気男爵」で漫画家としてデビューします。

    登場人物や背景をリアルに描くことにこだわって、当時の漫画とは一線を画した「劇画」という新たなジャンルを確立し、みずからを「劇画家」と名乗って、大地震後の世界を生き抜く少年の姿を描いた「サバイバル」や、池波正太郎の小説を原作とする「鬼平犯科帳」といった作品を生み出しました。

    また、国籍、年齢、本名、すべてが不明で「デューク東郷」と呼ばれることもある寡黙なスナイパーの活躍を描いた「ゴルゴ13」は、1968年から半世紀以上にわたって雑誌の連載を続けてきました。

    「ゴルゴ13」には、東西冷戦をはじめ、テロや民族紛争など、最新の国際情勢がテーマとして取り入れられ、ビジネスマンや政治家などからも、大きな人気を集めました。

    そして、ことし7月には単行本の201巻が刊行され「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の記録を上回り、世界で最も発行巻数が多い漫画のシリーズとして「ギネス世界記録」に認定されました。
    さいとうさんは、いち早くプロダクションを設立して、脚本や作画を分業する仕組みを作るなど、新しい劇画制作の仕組みを確立し、こうした取り組みが半世紀以上にわたって古びることのない作品づくりにつながりました。

    長年の功績が評価され、2003年には紫綬褒章を、2010年には旭日小綬章を受章しています。

    小学館によりますと、さいとうさんは、9月24日に東京都内で、すい臓がんのため亡くなったということです。

    葬儀は親族のみで執り行われたということで、お別れの会の開催は、今後の状況を踏まえて検討するということです。

    ちばてつやさん「日本の漫画劇画文化を育んだのは彼の功績」

    親交のあった漫画家のちばてつやさんは「『劇画』というマンガの一(いち)ジャンルを創生し、日本の漫画劇画文化をここまで大きく育んだのは、疑う余地なく彼の功績です。これほどの作家を失った漫画界の喪失感は計り知れませんが『たかをちゃん』が心から信頼して制作を共にしてきた、さいとうプロの優秀なスタッフさんたちが『さいとう・たかをの世界』をこれからも引き継いでくれると信じています」などとコメントしました。

    松本零士さん「大きな、揺るぎない存在」

    漫画家の松本零士さんは「さいとうたかを氏の突然のご訃報に接し、たいへん驚き、悲しんでおります。さいとう氏は私の漫画人生にとって、大きな、揺るぎない存在でした。ジャンルは違えど、長い年月、同じ時代を共に漫画を描いてきた同志であります。遠く時の輪の接するところで、また逢えることを信じて。謹んでお悔やみを申し上げますと共に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。まずはゆっくり休んでください」というコメントを寄せています。

    少年時代を過ごした大阪 堺との絆

    さいとう・たかをさんは大阪 堺市で少年時代を過ごし、ゴルゴ13に登場する「デューク東郷」の名前の由来について、堺市の広報のインタビューの中で中学校で、担任だった先生の名前を借りたと明かしていました。

    2012年からは「堺名誉大使」を務め、市はさいとうさんの協力を得て、新型コロナウイルスの感染拡大防止などを市民に呼びかけるのぼり旗やポスターを制作しました。

    ことし5月につくられたポスターでは、マスクを着用した「デューク東郷」が「ウイルスを封じ込めたければとにかくマスクをつけることだ…」と鋭い目で語りかけています。

    また、さいとうさんは堺市立中央図書館に「ゴルゴ13」や「サバイバル」など、みずからの作品およそ300冊を寄贈しました。

    図書館では新しい作品も買い足して所蔵しているほか、さいとうさん直筆の色紙も保管しています。

    堺市立中央図書館総務課の白川咲子さんは「訃報を知って大変驚きました。さいとうさんの作品は幅広い年代に人気があるので、大変残念です」と話していました。

    堺市立中央図書館では今後、さいとうさんの作品や直筆の色紙を展示することなどを検討しています。

    堺市の永藤英機市長は「さいとうさんは堺市にとても熱い思いを持ち、堺の魅力発信に多大な尽力を頂きました。私自身も大ファンで、悲しく、残念でなりません」というコメントを出しました。

    “ゴルゴ教授”土岐氏「ゴルゴは不死身」

    ゴルゴ13の大ファンで、その魅力を分析した著作などから「ゴルゴ教授」とも呼ばれる、大東文化大学の土岐寛名誉教授は、さいとうさんの死去について「最近までテレビで元気な姿を見ていただけに、驚きました。これだけの長い間、作品を提供してくれたことに、お疲れさまでしたと言いたい」と話しました。

    また、ゴルゴ13の魅力については「準備を万端に整え、仕事を完璧にこなしながらも多くを語らないというキャラクター設定が、武士道精神にも通じ、とても魅力的でした。さいとう先生は亡くなりましたが、ゴルゴは不死身です。連載は続くということなので、これからも期待しています」と話しています。

    麻生副総理「惜しい人が亡くなった」

    ゴルゴ13を愛読している麻生副総理兼財務大臣は、29日夜、財務省内で記者団に対し「1989年に冷戦が終わったあと、ゴルゴ13は終わると思ったがずっと続いている。別のインターナショナルな話題を続けているのは、なかなかなものだ。惜しい人が亡くなったというのが正直なところだ。残念な気がする」と述べました。

    加藤官房長官「政府広報などにもお力添えいただいた」

    加藤官房長官は午後の記者会見で「写実的で緊張感のある描写で劇画というジャンルを作り上げた功績は大だ。政府としても、いろいろとご協力をいただき、直近では、新型コロナウイルスのワクチン接種を促すため『ゴルゴ13』の一場面のパネルを作成し、東京と大阪の大規模接種センターの入り口にも貼らせていただいた。漫画家として、すぐれた功績を残され、政府広報を含め、国民の安全安心のためにも、いろいろとお力添えをいただいてきた。心から哀悼の意を表したい」と述べました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210929/k10013282151000.html

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  32. 漫画家の白土三平さん死去 89歳 「サスケ」や「カムイ伝」など
    2021年10月26日 18時03分

    「忍者武芸帳」や「サスケ」「カムイ伝」などの作品で知られる漫画家の白土三平さんが、今月8日、誤えん性肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。89歳でした。

    東京出身の白土さんは、紙芝居の原画の創作活動を経て、1957年に「こがらし剣士」で漫画家としてデビューします。

    1959年に発表した「忍者武芸帳ー影丸伝ー」で一躍、人気漫画家となり、1964年には漫画雑誌「ガロ」の創刊に関わるとともに、漫画「カムイ伝」の連載を始めました。

    「カムイ伝」は、忍者の「カムイ」を主人公に、江戸時代を生きるさまざまな身分の人たちの姿を通して近世日本社会の差別の問題を描き、高い評価を受けました。

    また、少年忍者の活躍と成長を描いた「サスケ」や、「シートン動物記」を漫画化した作品で講談社児童まんが賞を受賞しています。

    白土さんは2000年に「カムイ伝第二部」の連載を終え、その後、第三部の構想もありましたが、ここ数年は執筆活動から遠ざかっていたということです。

    小学館によりますと、白土さんは今月8日、誤えん性肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。

    89歳でした。

    弟で漫画家の岡本鉄二さんも12日に死去

    小学館によりますと、白土さんの弟で、長年にわたり「カムイ伝」など多くの作品で作画を手がけた、漫画家の岡本鉄二さんも今月12日に間質性肺炎のため東京都内の病院で亡くなったということです。

    88歳でした。

    小学館ビッグコミック編集部は「お二方の生前の功績には畏敬の念を禁じ得ません。『カムイ伝』等の作品が切りひらいた漫画表現の可能性を、さらに広げていけるよう弊誌は今後も尽力して参りたいと思います」とコメントを発表しました。

    また、遺族の希望によりお別れの会などを開く予定はないということです。

    交流あった田中優子法大名誉教授「自然を愛する方だった」

    漫画家の白土三平さんが亡くなったことを受けて、白土さんと交流があった法政大学の田中優子名誉教授は、NHKの取材に対して「白土三平さんが亡くなられたと聞いて、たいへん悲しく思っています。私は大学生のころに『カムイ伝』に接し、それから36年後に『カムイ伝』を使って法政大学社会学部で江戸時代についての講義をしました。『カムイ伝』を使うことで、江戸時代の下級武士、農民、被差別民それぞれの立場にいる少年たちの、異なる生き方と生活環境が劇画の絵を通して詳細に伝わってきました。それぞれの職能の高さ、生き方の見事さ、苦しみや悲しみはもちろんのことですが、農業とはどういうものか、皮革の仕事とはいかなる過程をたどるのか、武士の矛盾を彼らはどう思ったかなどを、そのまま学生に伝えるのではなく、事実との違いも述べながら『現場』にいるようにリアルに伝えることができました。チャンバラではない『生活の江戸時代』をしっかり伝えることができました」と語りました。

    そのうえで「白土さんの仕事場にもお邪魔し、お酒を酌み交わしたこともあります。仕事場は千葉の海岸沿いにあり、それは白土さんが海と釣りと、海の生き物が大好きだったからです。『カムイ伝』には漁師たちの世界も見事に描かれていますが、日々の釣りは劇画の素材にするためではなく、本当に嬉しそうに魚をさばき、魚を愛し、語りました。自然をたいへん愛する方でしたので、自然と一体になって、喜びながら逝かれたと思っています。心よりご冥福をお祈りします」としています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211026/k10013322081000.html

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    1. 漫画家の白土三平さん死去 89歳 「サスケ」や「カムイ伝」など
      2021年10月26日 23時15分

      「忍者武芸帳」や「サスケ」「カムイ伝」などの作品で知られる漫画家の白土三平さんが、今月8日、誤えん性肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。89歳でした。

      東京出身の白土さんは、紙芝居の原画の創作活動を経て、1957年に「こがらし剣士」で漫画家としてデビューします。

      1959年に発表した「忍者武芸帳ー影丸伝ー」で一躍、人気漫画家となり、1964年には漫画雑誌「ガロ」の創刊に関わるとともに、漫画「カムイ伝」の連載を始めました。

      「カムイ伝」は、忍者の「カムイ」を主人公に、江戸時代を生きるさまざまな身分の人たちの姿を通して近世日本社会の差別の問題を描き、高い評価を受けました。

      また、少年忍者の活躍と成長を描いた「サスケ」や、「シートン動物記」を漫画化した作品で講談社児童まんが賞を受賞しています。

      白土さんは2000年に「カムイ伝第二部」の連載を終え、その後、第三部の構想もありましたが、ここ数年は執筆活動から遠ざかっていたということです。

      小学館によりますと、白土さんは今月8日、誤えん性肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。

      89歳でした。

      弟で漫画家の岡本鉄二さんも12日に死去

      小学館によりますと、白土さんの弟で、長年にわたり「カムイ伝」など多くの作品で作画を手がけた、漫画家の岡本鉄二さんも今月12日に間質性肺炎のため東京都内の病院で亡くなったということです。

      88歳でした。

      小学館ビッグコミック編集部は「お二方の生前の功績には畏敬の念を禁じ得ません。『カムイ伝』等の作品が切りひらいた漫画表現の可能性を、さらに広げていけるよう弊誌は今後も尽力して参りたいと思います」とコメントを発表しました。

      また、遺族の希望によりお別れの会などを開く予定はないということです。

      交流あった田中優子法大名誉教授「自然を愛する方だった」

      漫画家の白土三平さんが亡くなったことを受けて、白土さんと交流があった法政大学の田中優子名誉教授は、NHKの取材に対して「白土三平さんが亡くなられたと聞いて、大変、悲しく思っています。私は大学生のころに『カムイ伝』に接し、それから36年後に『カムイ伝』を使って法政大学社会学部で江戸時代についての講義をしました。『カムイ伝』を使うことで、江戸時代の下級武士、農民、被差別民それぞれの立場にいる少年たちの、異なる生き方と生活環境が劇画の絵を通して詳細に伝わってきました。それぞれの職能の高さ、生き方の見事さ、苦しみや悲しみはもちろんのことですが、農業とはどういうものか、皮革の仕事とはいかなる過程をたどるのか、武士の矛盾を彼らはどう思ったかなどを、そのまま学生に伝えるのではなく、事実との違いも述べながら『現場』にいるようにリアルに伝えることができました。チャンバラではない『生活の江戸時代』をしっかり伝えることができました」と語りました。

      そのうえで「白土さんの仕事場にもお邪魔し、お酒を酌み交わしたこともあります。仕事場は千葉の海岸沿いにあり、それは白土さんが海と釣りと、海の生き物が大好きだったからです。『カムイ伝』には漁師たちの世界も見事に描かれていますが、日々の釣りは劇画の素材にするためではなく、本当にうれしそうに魚をさばき、魚を愛し、語りました。自然を大変、愛する方でしたので、自然と一体になって、喜びながら逝かれたと思っています。心よりご冥福をお祈りします」としています。

      映画 カムイ外伝 崔監督「狭い世界にワールドワイドな広がり」

      漫画家の白土三平さんが亡くなったことを受けて、「カムイ外伝」を映画化した監督の崔洋一さんは「時代の変わり目を強く感じます。僕が子どものころは貸本屋時代の真っ盛りで、『忍者武芸帳』との出会いはカルチャーショックでした。貧しい民を描くときの食べ物や服装などのリアリズムがすごく、激しい権力闘争と暴力の中でかよわい階層の人たちが忍者になっていくという歴史に埋もれた背景が現実感を持って迫ってきた。違う世界に出会えるわくわく感があり、白土さんの漫画は狭い世界を描きながら、ワールドワイドな広がりを持っていたと思います」と話していました。

      白土さんに「カムイ外伝」の映画化を相談した際は「好きなようにやって」ということばをかけてもらったということで「白土さんの作品を通じて、歴史の生々しい部分を描きたかった」と製作の動機を語りました。

      映画の撮影が終わったあと、千葉県にある白土さんの邸宅を訪れて酒を酌み交わしたことが思い出だということで「大きなボトルの焼酎を飲み、見た目は生活感のあるご老人でしたが、目の奥底には社会とは別の生き方を選んだ人間が持つ光がありました。誰かが白土さんの作品の解説じみたことをしゃべるとそっぽを向いてしまって、知的な会話は好まない。そこが格好よかったです。僕が“カムイ伝の続きはどうなるんですか?”と聞いたら、笑ってごまかされてしまいました」と振り返っていました。

      漫画家 ちばてつやさん「偉大なる先導者」

      漫画家の白土三平さんが亡くなったことについて、漫画家のちばてつやさんは「手塚さんが日本のマンガを『広げた』とすれば白土さんは『深めた』と言える作家です。人間の有り様をリアルに、時には残酷なまでに描ききって、子供よりはむしろ大人が読む漫画を開拓した第一人者であり、雑誌『ガロ』の創刊で多くの漫画家が育つ表現の土台を築いた、偉大なる先導者でした。心からご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211026/k10013322081000.html

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  33. 社会人類学者 中根千枝さん死去 94歳
    2021年11月5日 20時46分

    日本の社会構造を分析した「タテ社会の人間関係」などの著書で知られる社会人類学者の中根千枝さんが、先月12日に老衰のため東京都内の高齢者施設で亡くなりました。94歳でした。

    中根さんは、東京都生まれ。インドなどで、現地に長期間住み込んで調査を行い、地域社会の構造や特徴を明らかにする、社会人類学の手法を発展させました。

    1967年に出版した「タテ社会の人間関係」は、日本の社会構造をムラ意識、派閥抗争、年功序列といった独自の視点で分析し、日本社会論の代表的な著作として海外にも広く紹介され、息の長いベストセラーとして読み継がれました。

    このほかにも、アジアのさまざまな家族や親族の関係を比較して社会構造の解明を進め「家族の構造」や「社会人類学」といった著書を発表しました。

    中根さんは、母校の東京大学で、女性として初めて教授となるなど、日本の学術界での女性の進出をリードする役割を果たし、2001年には文化勲章を受章しています。

    家族によりますと、中根さんは、2年前ほどから都内の高齢者施設に入所し、施設でも論文を読むなど、執筆活動の準備を進めていたということですが、先月12日、老衰のため亡くなったということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211105/k10013336591000.html

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    1. 「タテ社会の人間関係」がベストセラー…社会人類学者の中根千枝さん死去、94歳
      2021/11/05 21:10

       「タテ社会」をキーワードに比較文化的な視点から日本の社会や人間関係を分析した社会人類学者で東京大名誉教授の中根千枝(なかね・ちえ)さんが、10月12日、老衰で死去した。94歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は妹、松井淳子さん。

       東京都生まれ。東大卒業後、女性研究者の草分けとして活躍、1970年、女性初の東大教授となった。80年に同大東洋文化研究所の所長に就任。87年に退官した後は、帝京大教授や財団法人民族学振興会理事長などを務めた。2001年、文化勲章を受章。日本学士院会員。

       研究者としての行動力には定評があった。アジアの諸社会における家族・親族関係の比較調査など、先駆的な研究に精力的に取り組み、日本の文化・社会人類学の確立に尽力した。そうした学術的な研究をベースに、インドや欧米とも比較しつつ、「タテ社会」を軸に、年功序列や一家意識などを分析。「タテ社会の人間関係」(1967年刊行)では職業などよりも「場」の共有を重視する日本社会の特質を浮かび上がらせ、ベストセラーとなった。同書は海外でも翻訳され、国内外での日本論ブームのきっかけをつくった。

       他の著書に「未開の顔・文明の顔」「家族の構造 社会人類学的分析」「社会人類学 アジア諸社会の考察」などがある。

       欧米の大学でも教えたほか、日本ユネスコ国内委員会会長や国際人類学民族学連合副会長なども務め、国際的な学術交流の面にも力を注いでいた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211105-OYT1T50229/

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    2. 1人奥地へ 行動力と決断と優しさと…追悼 中根千枝さん
      2021/11/09 05:00

      文化人類学者・元文化庁長官 青木保

      中根千枝さんは10月12日、老衰で死去。94歳(2014年12月撮影)

       何よりも行動力と決断の人でした。院生の頃、先生のゼミの実習指導で信州の村へ皆で行ったことがありました。我々は宿舎に借りた村からかなり離れた森の奥の寺にいたのですが、先生はお忙しく夜遅く一人で暗い道をこられ、しかも驚いたことに荷物を置くと、ちょっとお湯を浴びてくるわと、また一人で夜道を村の共同浴場へと行かれました。男の院生たちでも、あの道を一人でとなると気が引けました。

       1950年代に一人でインドのアッサムの奥地に入られ、調査された先生のすごさを垣間見た気がしたものです。私はその後、東大東洋文化研究所の助手となり、先生は助教授で指導を受けました。先生が言うには、欧米の大学に留学するのは良いけれど、その前に自分のフィールドへ行って調査をなさい、そうすれば向こうの人類学者と対等に話ができると。先生もまずインドへ行かれ、その調査の成果をもってイギリスへ行かれ、当時の 錚々そうそう たる人類学者たちにそれが認められて、高く評価されたことが、後の世界的な活躍に結びついた経験があったからでしょう。それにならって、私もタイに行き、僧修行などもして異文化の調査研究をしてから米国・ハーバード大学に行きましたが、そこの人たちも私のことに強い関心を示してくれて、後々まで良い関係が築けたと思っています。

       先生の素晴らしいところは、学問研究や大学・学会内部にとどまらず、研究によって発見したことを広く社会に通じる言葉で発信されたことです。1960年代後半から高度経済成長の波に乗った日本社会の組織原理を「タテ社会」と呼び、特に経済成長を支えた企業社会などの特徴を、場を重んじ集団的合意の下で物事を決め、タテ型の組織運営で活動すると分析したことが肯定的に受け取られ、タテ社会は内外で日本社会を捉えるキーワードとなりました。従来の欧米対日本という図式ではなく、インド社会との対比において捉えたことも斬新な視点でした。

       今、先生の訃報に接し、その厳しさとともに優しさ、特にタイで一人でフィールドワークをしていた時に、何か問題があると先生に手紙を書きましたが、先生はすぐさま返事を下さり、貴重な助言をして励ましてくださったことを胸いっぱいに思い出します。(談)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211108-OYT8T50205/

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  34. もうとっくにあの世の人かと思っていた。最近なくなったというのがむしろ驚きである。

    戦後の「社会学」「文化人類学」の象徴的女性学者のパイオニアとしてのイメージだが、けっきょく、人文学の「文学」的叙述方法の域を出るものでなく、学問のすがたをとりながら、それは「現実」のすがたを借りた「文学」創作創造の営みを出るものではなかったなということを教えてくれたように思う(思った)。

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  35. 「六星占術」の細木数子さん 死去 83歳
    2021年11月10日 17時06分

    みずから提唱した占いでブームを巻き起こし、タレントとしても活動した細木数子さんが、8日、呼吸不全のため、東京都内の自宅で亡くなりました。83歳でした。

    細木数子さんは東京都の出身で、飲食店経営など実業家として活動したあと、中国古来の統計学をもとに編み出したとする「六星占術」と呼ばれる占いを提唱して人気を集め、1985年に出版した「運命を読む六星占術入門」はベストセラーになりました。

    また、タレントとしても活動し、多くのテレビ番組に出演して、占いをもとにした歯に衣着せぬ物言いが人気を博しました。

    事務所などによりますと、細木さんは、最近はテレビの出演は控え、各地で講演会を開いたり、インターネットの番組に出演したりしていましたが、8日、呼吸不全のため、東京都内の自宅で亡くなったということです。

    83歳でした。

    娘のかおりさんが投稿「今ある幸せはばあばのお陰」

    細木数子さんが亡くなったことについて、娘のかおりさんが自分のインスタグラムを更新し、2人が一緒に写った画像を投稿しました。

    かおりさんは「悲しい出来事がありました。母・細木数子が呼吸不全で8日に満83歳で永眠しました。突然のことでした」とコメントに記したうえで「数日前には鰻が食べたいと言って、美味しそうに食べていたのに。ケーキを持って帰ると喜んでいたから、母の分のクリスマスケーキも予約していたのに。いつかは訪れることだと分かっているけど、いざ直面すると想像以上に悲しいです。幼い頃からたくさんの愛情を注いでくれて、今ある幸せは、ばあばのお陰と痛感しております。ばあば、お疲れ様でした。そしてありがとうございました」としています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211110/k10013342331000.html

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    1. 占い界隈では、もっとも売れた人じゃないかなあ…

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    2. 占い師の細木数子さん死去…歯に衣着せぬ物言いでテレビでも人気
      2021/11/10 20:23

       占い師の細木数子(ほそき・かずこ)さんが8日、呼吸不全で死去した。83歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は娘のかおりさん。14日午後6時から東京都港区南青山2の26の38の梅窓院でお別れ会を開く。

       東京都出身。「六星占術」と呼ばれる占いを提唱し、書籍はベストセラーになった。テレビ番組にも多数出演し、歯に 衣きぬ 着せぬ物言いで人気を集めた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211110-OYT1T50186/

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  36. 瀬戸内寂聴さん死去 99歳 恋愛や歴史など題材に数々の小説発表
    2021年11月11日 18時03分

    恋愛や歴史、そして老いなどをテーマに数々の小説を発表し、法話を通じて多くの人たちに生き方を説いた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、心不全のため京都市内の病院で亡くなりました。99歳でした。

    瀬戸内寂聴さん、本名、瀬戸内晴美さんは徳島市出身で、大学を卒業後、本格的に小説の執筆をはじめ1957年に「女子大生・曲愛玲」で文芸雑誌の賞を受賞して文壇デビューしました。

    1963年にはみずからの波乱万丈な恋愛経験をつづった私小説「夏の終り」で女流文学賞を受賞するなど、恋愛小説や伝記小説を次々と発表し、経済的にも精神的にも自立する新たな女性の生き方を生き生きと描いて多くの女性の読者から支持を受けました。

    1973年、51歳のときに作家として新しい生き方を模索したいと岩手県の中尊寺で得度し「寂聴」を名乗りました。

    その後も、愛や芸術に生きる女性や信仰の道を求める人などの姿を通じて「性」や「老い」など人間の本質を鋭く描き出す作品を数多く執筆し、1992年には※一遍を描いた「花に問え」で谷崎潤一郎賞を受賞しました。

    また、「源氏物語」の現代語訳は、当時、ブームの火付け役となり、光源氏を取り巻く女性に焦点を当てた新しい視点と読みやすい表現で高い評価を受けました。

    1997年には文化功労者に選ばれ、2006年には文化勲章を受章しています。

    瀬戸内さんは作家としての執筆活動の一方、僧侶としても30年以上にわたって各地で法話を続け、多くの人々の悩みや苦しみに耳を傾け、みずからの思いをことばにして伝えてきました。

    また、東日本大震災のあとには、東北の被災地を回って多くの被災者を励ましました。

    2012年には関西電力大飯原子力発電所運転再開に反対するハンガーストライキに参加したほか、2015年には安全保障関連法に反対する国会前のデモに京都から駆けつけてマイクを握るなど、社会的な活動にも積極的に参加していました。

    瀬戸内さんは、90歳をすぎていた2014年5月に背骨を圧迫骨折して入院したほか、同じ年には胆のうがんでも手術を受けましたが、療養後、執筆や講話の活動を再開していました。2017年には、小説家としての自身の生涯と闘病の体験を題材にした長編小説『いのち』を95歳で刊行し、体力的にもこれが「最後の長編小説になる」と語っていました。

    出版社などによりますと、瀬戸内さんは先月から体調を崩して病院に入院していたということで、瀬戸内さんは9日、心不全のため京都市内の病院で亡くなりました。99歳でした。

    葬儀は近親者で執り行われ、後日、都内でお別れの会を開く予定だということです。

    インスタグラムが更新 葬儀は近親者のみで

    瀬戸内寂聴さんが亡くなったことを受けて、瀬戸内さんのインスタグラムが更新されました。

    インスタグラムには、瀬戸内さんが京都市に開いた寺院「寂庵」にある「寂」の文字が刻まれた庭石の写真とともに、メッセージが添えられています。

    メッセージには「みなさま作家・僧侶の瀬戸内寂聴は、2021年11月9日、永眠いたしました。享年99。先月より体調不良のため、入院、加療しておりました。葬儀は近親者のみで執り行います。みなさまにおかれましても、静かに瀬戸内を見送りくださいますよう、何卒お願い申し上げます。恐縮ながら、お香典・お花はご辞退させていただきます。生前のご厚誼に感謝し、謹んでお知らせ申しあげます。誠に勝手ながら、来庵はお控えくださいますよう、どうかよろしくお願い申し上げます。曼荼羅山 寂庵」と記載されています。

    ※ この記事を当初掲載した際、瀬戸内寂聴さんの作品「花に問え」を「西行」の生涯を描いたと記載しましたが、正しくは「一遍」でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211111/k10013343661000.html

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    1. 瀬戸内寂聴さん 小説にささげた “いのち”
      2021年11月11日 14時32分

      99年の生涯で、120以上もの小説を発表してきた瀬戸内寂聴さん。
      2017年、当時95歳の時、最後の長編小説となる『いのち』を書き上げていました。
      これに合わせて行ったNHKのインタビューでは、小説家として生きた生涯を振り返り、その思いを語っていました。

      生きることとは“書くこと”

      最後の長編小説『いのち』は、作家としての半生を寂聴さん自身の視点で回顧する、自伝的な作品です。

      およそ2年半かけて書き上げました。

      執筆を始めた時点で、すでに90歳を過ぎていた寂聴さん。

      「書き上がらないかもしれない」と感じながら書き進め、体力的にもこれが最後の長編小説になると考えていたといいます。

      (瀬戸内寂聴さん)
      「『いのち』なんて題をつけたのはね、もう本当に、死ぬかと思っていたんです。年も年だしね。それから、病気はあまりしたことがなかったのに大病をしたでしょ。それで『ああ、もう先も短いな』と思って、それでなんとなく『いのち』って題にしたの」。

      寂聴さんを執筆に駆り立てたきっかけの1つが、2014年に「胆のうがん」が見つかったことでした。

      小説では、みずからの「いのち」を強く意識したという、この時の医師とのやり取りを、次のようにつづっています。

      「『胆のうにガンがありました、……どうします?』。『取って下さい』。とっさに鸚鵡返しに口をついて出た言葉は、自分の声なのに、自分の中の誰かが勝手に喋っているようだった(中略)まだ私は死ねないと思った」(『いのち』より)

      その後、闘病を経て、がんを乗り越えた寂聴さん。

      小説を書き進めながらたどりついたのは「自分にとって、生きることとは、書くことだ」という思いだったといいます。

      (瀬戸内寂聴さん)
      「私はね、出家していますから、命そのものには未練もないんです。でもね、自分としてはやっぱり小説を書かなければ自分じゃないような気がするの。病気の時にペンを持てなかったでしょう。その時、病気の痛みよりも、小説が書けない自分なら、もう生きていてもしかたがないって思ったもん。だからやっぱり、私にとって小説は“命”なのね」。

      “好き” には理屈がない

      取材時、すでに95歳だった寂聴さん。

      小説を書くことへの思いは、年を重ねても変わることがないと話していました。

      (瀬戸内寂聴さん)
      「95歳でこんなに書いた人はきっと初めてね。皆さん90歳ちょっとまででやめますけど、かっこ悪いと思うんでしょうね、いつまでも書くことが。でも私はかっこ悪いと思いません。思う人は思っておけと。私は書く。書きたいんだから。喜びなんだから。自分の何かを表現する。それを誰かが読んでくれる。やっぱりそこでしょうね。自分1人で書いて、ただ置いておくんだったら別にどうってことないの。それを誰かに読んでもらって、自分を知ってもらいたいんでしょうね。つつましそうにしているけど、小説家は自己顕示欲ですね。ただ“好き”なんですね。人間みんな『どうしてこんな人を?』っていう人を好きになることってあるじゃない。だけど理由は説明できないのね。“好き”には理屈がないの。だって、いまだに書きながら徹夜するんですよ。笑 ふーふー言いながら『なんでこんなことしなきゃいけないの』って、ちらっとは思うけどね。でも、やめようとは思わない。読むことも好きだし、今でも若い人の小説が出るとたいてい読んでいますよ。やっぱり若い人もライバルですから」

      「生れ変わっても小説家でありたい」

      この日、京都の自宅で行ったインタビュー。

      寂聴さんは時折冗談を交えながら、いつもの朗らかな明るい表情で語りかけました。

      そして取材の最後、みずからが望む人生の“終わり方”についても尋ねると、笑顔でこう話していました。

      (瀬戸内寂聴さん)
      「ペンを持ってね、こうやって仕事していて、疲れてね、ガクって。そういう死に方がしたいの。朝になって秘書たちがやってきて、書斎に入ったら私は死んでいたっていう、それが理想なの。そしてまたいつか生まれてくると思うんです。その時には、やっぱりまた小説家になって、売れないところから始めたいと思うの。こつこつと」。

      書くことに命をささげてきた寂聴さん。

      小説『いのち』の最後の1ページを、次のことばで締めくくっています。

      「生れ変っても、私はまた小説家でありたい。それも女の」。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211111/k10013343741000.html

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    2. 瀬戸内寂聴さん死去 交流のあった人たちからは追悼などの声
      2021年11月11日 17時17分

      作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなったことを受けて、これまで交流のあった人たちからの追悼などの声をまとめました。

      実家の仏具店経営の親類「来ないと願っていた日が来てしまった」

      出身地の徳島市にある寂聴さんの実家の仏具店を経営している親類の宮本祥子さんは「いつまでも来ないと願っていたこの日が来てしまった。およそ40年にわたってかわいがってもらった。私たち家族を愛してくれてありがとう」とコメントしています。

      徳島県立文学書道館の館長「『徳島の顔』失った」

      2014年までの10年間、瀬戸内寂聴さんが館長を務めた出身地の徳島市にある徳島県立文学書道館の現在の館長で、40年にわたって親交があった富永正志さんは「最近はかぜをこじらせて入院していたと聞いていたので、心配していました。来年は生誕100年を迎える予定だったのでとても残念です。徳島県の出身者で最も有名な人のひとりだと思うので、『徳島の顔』を失ったという思いです」と話していました。

      そのうえで「非常に快活で、気さくな人でした。自分の信念に従って自由奔放に生き、人の何倍も生きて何倍も本を書いたと思います。小説を書くことが本当に好きでしたが、瀬戸内さんと同世代の作家たちは亡くなっている人も多いので、その人たちとの再会を喜んでいるかもしれません。『長い間お疲れさまでした、ゆっくりとお休みください』と伝えたいです」と話していました。

      ノンフィクション作家 澤地久江さん「ひとりの存在として見事」

      雑誌の元編集者として60年以上前からつきあいがあったというノンフィクション作家の澤地久江さんは「100歳をすぎても生きてほしいと願っていました。寂聴さんは作家としての仕事や、恋に熱心に打ち込んだほか、子どもや孫などの家族と親しくにぎやかに過ごされていました。『人生の答え』とも言えるものを手にされたように思います」と話していました。

      そのうえで「晩年は憲法改正の議論について国会議事堂の前に立ち演説を行うなど、仏門に入ったあとも臆することなく、一貫して政治的発言を繰り返していました。ひとりの存在として見事だったと思います」と述べていました。

      作家 桐野夏生さん「思いを引き継ぐ」

      雑誌で対談を行うなど交流があった、作家で日本ペンクラブの会長の桐野夏生さんは「謹んで哀悼の意を表します。瀬戸内寂聴さんには日本ペンクラブの会員として、平和のため、そして表現の自由を守るため、様々な場でご発言をいただきました。あらためて寂聴さんの思いを引き継ぎ、活動を続ける決意です」と、日本ペンクラブとしてのコメントを発表しました。

      SNSには多くの追悼のことば

      SNSには、多くの追悼のことばや、これまでの活動に対する感謝のコメントが投稿されています。

      ツイッターに寄せられた投稿は「寂聴さんの話は最高に楽しい。もう元気なお声は聴けないのか……」とか「自分の人生を自分の思うように生ききった様は称賛に値するし尊敬する」「源氏(物語)を読むきっかけになった人」「毎朝ラジオで寂聴さんのお言葉いただいていたのに残念」などの寂聴さんの死を悼むコメントのほかに「瀬戸内寂聴さんの著書を読み言葉に支えられてきました。これからも私の中に残ります」「私高校のときもうやだ死にたいってなったとき瀬戸内寂聴さんの新聞のコラムに助けられたんだよね。ありがとうございました」「毎朝の元気になるお言葉が聞けなくなり、とても寂しいですが、お言葉を胸に頑張ります!今までありがとうございました」「1度法話を聞きにいかせてもらいました。凄くあたたかくてためになって心が安らいだのを 今でも覚えています」といった、寂聴さんのことばや活動への多くの感謝のコメントが寄せられています。

      黒柳徹子さん「もうお会い出来ないと思うと悲しい」

      自身が司会を務めるインタビュー番組への出演などで交流があった黒柳徹子さんは「みんなの味方が、亡くなった。こんなことまで書いちゃうんだ!という小説家が、尼さんになった。尼さんになっても『書いちゃおうかな』と言って書いていらした。100歳近くまで尼さんで、説法しながら恋愛小説を書く。日本は面白い国だと思う。でも、もうお会い出来ないと思うと悲しい」とコメントしています。

      芥川賞作家 玄侑宗久さん「不死身でなかったのかという思い」

      瀬戸内寂聴さんと20年近く交流がある、福島県三春町の寺の住職で、芥川賞作家の玄侑宗久さんは「とにかく元気で『明るく元気なお坊さん』としての姿が多くの人を励ましたのではないか。いろいろなことを考え、意欲を持って晩年まで創作し続けたのはすごいことだ。その寂聴さんでも不死身ではなかったのかという思いだ」と話していました。

      そのうえで「瀬戸内晴美さんの時代から、出家して瀬戸内寂聴さんとなったことで『過去が変わる』体験をされたと思う。『過去の事実』は変わらないが『過去の思い出のベール』は変わっていく。出家されたことで、人生はいつからでもやり直せるということを身をもって示したのではないか。多くの人の前で『死んだらどうなるのか、私が行って確かめて知らせる』と話していたので『そちらの様子はどうですか?』と聞いてみたい」と話していました。

      法話を行った福島県飯舘村の人は

      瀬戸内寂聴さんは、東日本大震災から6か月後の2011年9月、東京電力福島第一原子力発電所の事故で全村避難となった福島県飯舘村の人たちを前に、避難先の福島市で法話を行いました。

      このとき法話を聞いた飯舘村の菅野允子さん(76)は「避難したばかりで、みな不安ばかりでしたが『人生いろんなことがあるけれど悪いことは続かない。いいことが来るのを待ちましょう』と穏やかに語りかけていただき、私も含め皆さん涙を流して聞きました」と話していました。

      菅野さんは法話のあと寂聴さんからブレスレットを贈られたということで、「とてもうれしく、きっといいことがあるなと思ってきました」と話していました。

      そのうえで「避難をしていたころも今も、寂聴さんの存在が、心の支えになっていて、いらっしゃるだけで力をもらえていました。100歳まで生きてくださると思っていたので非常に残念です」と話していました。

      京都市 門川市長「とても寂しい」

      瀬戸内寂聴さんは、平成19年に京都市の名誉市民に選ばれました。

      毎年、寂聴さんの誕生日に合わせて訪ねていたという京都市の門川市長は「ことしはお会いできず、代わりに花を贈ると、『寂聴』と書いたお酒をくださいました。お酒が大好きで、人との出会いや京都の魅力を話していただき特に源氏物語の話になると止まらなくなるなど、とても魅力的な方でした。いつまでも生きていらっしゃるような雰囲気があり、厳しい病も克服されていたのでとても寂しいです」と別れを惜しんでいました。

      美輪明宏さん「生きたいように生きた人生 満足しているのでは」

      長年の親交があった、歌手で俳優の美輪明宏さんは、NHKの取材に対し「瀬戸内さんは大正時代から理不尽な戦争、そして戦後の変容など同じ時代を一緒にくぐり抜けた仲間で、そういった存在がまた1人いなくなってしまったことに複雑な思いです」と心境を述べました。

      そのうえで「本当に無邪気で烈女の生き残りのような方でした。私にとっては身の上のことも含めて何でも包み隠さずに話ができる存在でした。人の手助けをするのが大好きで、だからこそ多くの方々が相談に訪れたのだと思います。縦横無尽に、生きたいように生きた人生で、十分満足しているのではないかと思います」と話していました。

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    3. 松野官房長官「日本文化に多大な貢献」

      松野官房長官は、臨時閣議のあとの記者会見で「瀬戸内さんは、女性の生き方を真正面から問う小説家として、文筆活動で大きな功績をあげられるとともに、流れるような文体で源氏物語の現代語訳を完成させるなど日本文化に多大な貢献をなされた」と述べました。

      そして「51歳で出家されたあとには僧侶として、講話などを通じ、悩む方々の思いに広く耳を傾けられるとともに、社会的な活動にも力を注がれた。心から哀悼の意を表したい」と述べました。

      比叡山延暦寺「作家やテレビ出演で仏の教え 広めていただいた」

      瀬戸内寂聴さんは、僧侶として天台宗の総本山、比叡山延暦寺で修業し、平成18年に比叡山にある寺院の住職に女性として初めて就任しました。

      交流があった比叡山延暦寺の小鴨覚俊副執行総務部長は「会うと『いつもありがとうね』と優しく声をかけてくれたのがよい思い出です。作家やテレビ出演といった得意なやり方で仏の教えを広めていただけました。女性を中心にファンも多かったので皆さん悲しまれていると思いますが、瀬戸内さんはよく『私はいつ死んでもいいのよ』と話していました。誰かに頼るのではなく、自分自身の中にある仏の教えを大切にしなさいと、私たちに新たな道を諭しているのではないかと思います」と話していました。

      小説家 井上荒野さん「覚悟と自由さ 持っていたことが魅力」

      瀬戸内寂聴さんが亡くなったことについて、親交があった小説家の井上荒野さんは、「大往生だが、寂聴さんは亡くならないのではないかとみんな思っていたと思う。頻繁に会っていたというわけではないのに、不思議とすごく寂しい」と語りました。

      井上さんは、自身の父親で小説家だった井上光晴さんが、寂聴さんと不倫関係にあったにもかかわらず家族ぐるみでの交流が長年続き、両親と寂聴さんの3人の関係をモデルにした小説も執筆しています。

      井上さんは「私たちのことを不思議に思われるかもしれませんが、私の母は、父と寂聴さんの関係を知ったうえで、彼女を悪く言ったことはありませんでした。寂聴さんは、お目にかかったときも、父の話を楽しそうにしてくれて、そんなに好きだったんだなと感動しました。私がこの恋愛を書き留めておかないと消えてしまうと思い、3人について小説を書きました」と語りました。

      寂聴さんの魅力については「無邪気な人で、私たちが知らないうちに守っている世間のルールや、普通はこうするという認識から自由でした。なかなかできることではなく、責任を伴うことだと思います。批判もされましたが、それを受け止める覚悟と自由さを両方持っていたことがいちばんの魅力だと思います」と話していました。

      また、同じ小説家としては「ことばへの意識が高く、感情を表すことばから色を表すことばまで、すべて“これしかありえない”ということばを使っています。男女の色っぽいことも書いていますが、その瞬間を表すことばが選ばれているので、汚らしい感じはしません。自身の覚悟や世間に対するスタンスが作品にあらわれていて、小説家として憧れます」と話していました。

      真言宗僧侶 添田隆昭さん「非常に立派な人生を送られた」

      真言宗の僧侶で和歌山県高野町にある高野山大学学長の添田隆昭さんは、同居する101歳の母親が瀬戸内寂聴さんの大学の先輩だった縁で、親交を深めてきました。

      添田さんは「寂聴さんは生家が仏具店ということもあり、真言宗には親近感があったようで、高野山の私の寺に泊まりに来られ、母とよく話をしていて私も同席させてもらいました。作家としてだけでなく僧侶としても悩める人たちを自分の寺に招き導くなど、非常に立派な人生を送られた方でしたので、亡くなって残念に思います」と話していました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211111/k10013343931000.html

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    4. 作家 平野啓一郎さん「寂聴さんは弱い立場の人の味方だった」
      2021年11月12日 18時54分

      今月9日、作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。50以上の年齢差を超えて親交のあった作家の平野啓一郎さんは「なんと言っても弱い立場の人の味方だった。非常に尊敬しているし、そうありたいと思う」と述べ、その死を悼みました。

      23歳のときに芥川賞を受賞した平野さんは、新聞社の対談企画で50歳以上、年の離れた瀬戸内さんと知り合い、およそ20年にわたって交流を続けてきました。

      瀬戸内さんの死去を受けて平野さんは「100歳に至らずに亡くなるとは、全く想像していなかった。とても明るい存在が世界、そして自分の中から消えてしまった」と寂しそうに話しました。

      そして「奔放に自由に生きる女性を描いて文壇に登場し、今、見れば、非常に注目すべき新鮮な作品を書いた。社会における女性や文学、あるいは私自身と社会の関係というような、非常に大きく多岐にわたる仕事をしたと思う」と、瀬戸内さんが文学の世界に残した足跡に思いをはせました。

      そのうえで「瀬戸内さんは、なんと言っても弱い立場の人の味方だった。権力者が間違ったことをしているときには非常に強く批判し、その姿勢や根本的な思想は、文学的にも、宗教家としての活動でも一貫していた。そういう姿を非常に尊敬しているし、自分自身も、そうありたいと思う」と述べて、かけがえのない人物の死を悼んでいました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211112/k10013345921000.html

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  37. 石原慎太郎氏が死去 89歳 東京都知事や運輸相など歴任
    2022年2月1日 13時51分

    東京都知事や運輸大臣などを務め、芥川賞作家としても知られる石原慎太郎氏が、1日午前、東京都内の自宅で亡くなりました。89歳でした。

    石原慎太郎氏は、昭和7年に神戸市で生まれ、一橋大学在学中に小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞しました。
    「太陽族」という流行語も生まれ一躍、文壇の寵児(ちょうじ)となりました。

    弟は俳優や歌手として活躍した昭和の大スター、石原裕次郎さん。
    自民党幹事長を務めた伸晃氏と衆議院議員の宏高氏、俳優で気象予報士の良純氏の父親です。

    石原氏は、執筆活動を続けながら昭和43年の参議院選挙で自民党から初当選し、4年後には衆議院議員に転身して通算9回の当選を果たしました。
    歯に衣着せぬ発言で知られ、環境庁長官や運輸大臣などを務めたほか、自民党の派閥横断的な政策集団、「青嵐会」の主要メンバーとしても注目されました。

    平成元年には、自民党総裁選挙に立候補し、敗れました。

    平成7年に勤続25年の表彰を受けた直後に衆議院議員を辞職しました。

    このころ『「NO」と言える日本』を共同で執筆し、日米関係に対する考え方を鮮明にしたほか、裕次郎さんの生涯をつづった『弟』などを出し、話題となりました。

    その後、平成11年の東京都知事選挙に挑戦した石原氏。
    「石原軍団」も参加する選挙戦を展開して初当選しました。

    在任中、▽有害物質を出すディーゼル車の規制、▽「新銀行東京」の設立、▽大手銀行への外形標準課税の導入など、独自の政策を次々と打ち出したほか、▽東京マラソンの実現を主導し、オリンピック誘致にも取り組みました。

    また、中国に対する強硬姿勢を貫き、沖縄県の尖閣諸島を都が購入する考えを表明するなど国の外交問題にも影響を与えました。

    平成24年10月、4期目の任期途中、突然知事を辞職して新党を結成。

    当時、大阪市長で日本維新の会を率いていた橋下徹氏と手を結び国政に復帰し、2年後に引退しました。

    引退後も石原氏は、執筆や講演などを精力的に行いました。

    かつて痛烈に批判していた田中角栄元総理大臣を評価し、その生涯を一人称で記した『天才』は平成28年のベストセラーになりました。

    また、平成27年の春の叙勲では「旭日大綬章」を受章しました。
    家族によりますと、石原氏はすい臓がんを患っていて、執筆活動を続けながら闘病していましたが、1日午前、東京都内の自宅で亡くなったということです。

    89歳でした。

    長男の伸晃氏によりますと、葬儀は家族のみで執り行い、その後、改めて「送る会」などの開催を調整するということです。

    小説 戦後日本社会に大きな影響

    石原慎太郎さんは、作家としても活躍し、作品は、戦後の日本社会に大きな影響を与えてきました。

    石原慎太郎さんは、終戦から10年後の1955年、一橋大学在学中に発表した短編小説「太陽の季節」で作家としてデビューしました。

    湘南の陽光の下でヨット遊びに興じ、女性を求めてナイトクラブに繰り出す若者たちの享楽的な日々を赤裸々に描いたこの作品は、当時の文壇に強烈なインパクトを与え、翌年、当時としては最年少の23歳で芥川賞を受賞して、一躍、脚光を浴びます。

    当時の文学界では、「第三の新人」と呼ばれる作家たちによる内向的な私小説などが多く発表されていましたが、「太陽の季節」はそうした作品とは全く異なる新たな感性を提示するものでした。

    一方で、既存の倫理観や文学的潮流に反抗するかのような作風には強い反感もあり、重鎮の作家や批評家たちが支持と批判に分かれて論争が起きるなど、異例の反響を呼びました。

    「太陽の季節」は、弟の裕次郎さんの俳優デビュー作として映画化もされ、スクリーンの中の若者たちの自由奔放な生き方は同世代の憧れの対象になり、大ヒットを記録します。

    映画の登場人物のファッションをまねたアロハシャツとサングラス姿で、「慎太郎刈り」と呼ばれた髪型の若者が急増し、そうした人々を指す「太陽族」という言葉が流行語になりました。

    石原さんの小説は、その後、「処刑の部屋」や「狂った果実」などが次々と映画化され、戦後の復興を経て活気づく社会を背景に、石原さんは時代の寵児(ちょうじ)となります。

    また、作家の大江健三郎さんや評論家の江藤淳さんら同世代の文化人と「若い日本の会」を結成して、1960年の安保闘争で、日米安全保障条約の改定に反対するなど、政治的な活動にも関わりました。

    石原さんは政治家となったあとも作品の発表を続け、1995年から務めた芥川賞の選考委員は東京都知事になってからも継続し、候補作への辛口な批評で知られました。

    また1996年には裕次郎さんについて書いた『弟』を発表したほか、2016年には田中角栄元総理大臣の生涯を一人称で書いた『天才』がベストセラーになるなど、最晩年まで筆を置くことなく創作を続けていました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220201/k10013460691000.html

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    1. 「太陽族」とか「なんクリ」とかって、作家として後世にその業績を残したと言われることになるだろうか…

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    2. 「作家」あるいは「政治家」としての限界は、はからずも、東日本大震災の時に露呈させてしまったな。

      「津波をうまく利用して我欲を洗い落とす必要があるね。積年たまった心の垢をね。これはやっぱり天罰だと思う。」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E7%9F%B3%E5%8E%9F+%E5%A4%A9%E7%BD%B0+%E6%B4%A5%E6%B3%A2+%E6%88%91%E6%AC%B2

      もうね、これはもうダメポと思ったね。

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    3. 胸中の人 石原慎太郎氏を悼む…西村賢太
      2022/02/02 05:00

      現代人への「生」の檄文 開口一番「インテリヤクザ同志」

      政界引退後、小説や回顧録などを精力的に書き続けた石原慎太郎さん(東京都港区の事務所で)=2015年7月14日撮影

      谷崎潤一郎(右)と談笑する若き日の石原慎太郎さん(中央公論新社提供)

      1988年の座談会。左から大江健三郎、石原慎太郎、開高健、江藤淳の4氏 (c)新潮社

       石原慎太郎氏の 訃報ふほう に接し、虚脱の状態に陥っている。

       私ごとき五流の私小説書きが、かような状況下にあることを語るなど痴愚の沙汰だ。実におこがましい限りの話でもある。しかし十代の頃から愛読していた小説家の逝去は、やはり衝撃の度合が違う。これでもう、私が好んだ存命作家は 唯ただ の一人もいなくなってしまった。

       十六、七歳の頃の、日雇い労働後の娯楽はもっぱら読書であった。古本屋の均一台でカバーの取れた文庫本を四冊百円で購入し読み 耽ふけ るのが、最も金のかからぬ消閑法だった。

       当時、各社文庫には石原氏の作が数多く入っていた。背表紙にその名があれば、積極的につまんでいた。

       『太陽の季節』や『完全な遊戯』、『亀裂』、『行為と死』 或ある いは『化石の森』等の代表的作品は 云い うに及ばず、氏はミステリ系統にも出色の傑作が多かった。

       殊に『汚れた夜』は氏が二十八歳のときに発表した長 篇へん だが、麻薬に政治の腐敗を絡めたストーリーの展開はやや通俗的ながらも、乾いたスピーディーな文体によって他に類のない上質なハードボイルド作に仕上がっている。この時代――一九六〇年代にはいかにも頭と小手先で書いただけの“ 物真似ものまね ハードボイルド小説”が横行したが、氏のそれは大藪春彦同様に決してその種のまがい物ではない、いわゆる“身体性”を伴った 真物ほんもの だとの印象があった。 即すなわ ち、自分にとっての信用できる作家であったわけである。戯曲『狼生きろ豚は死ね』でもその観を強くした。

       そして初期の随筆『価値 紊乱びんらん 者の光栄』を読むに至って、愛読の中に敬意の念が色濃くなっていった。

       坂口安吾の『堕落論』(一九四六年)から 恰度ちょうど 十年後に発表されたその一篇は、まさに十年後の復興安定した世相に再度投げつけられた現代人への“生”の 檄文げきぶん であり、この示唆が往時の太陽族としての氏のスター性の影に隠れる格好となったのは、まこと不幸であった。

       石原氏の政治家としての面には 毫ごう も興味を持てなかった。しかし六十を過ぎても七十を過ぎても、氏の作や政治発言に、かの『価値紊乱者の光栄』中の主張が一貫している点に、私としては小説家としての氏への敬意も変ずることはなかった。

       それだけに、後年芥川賞の選考委員としての氏が、落選を繰り返す拙作をその都度文中の“身体性”に着目して唯一人推し続けて下すっていたことは、忘れられぬ徳である。が、もう一つ――念願 叶かな って初めてお会いした際に、開口一番向けられた「お互い、インテリヤクザ同志だな」との言葉も、常に胸中に掲げている。その真意は分からない。以降、お会いするたびにお聞きしようと思いつつ、 結句けっく野暮やぼ なこととして控えていた。

       今はそれで良かったと、虚脱状態の中で得心している。(作家)

      行為の作家 政治も表現の一つ

        関東学院大教授で文芸評論家の富岡幸一郎さんの話  1956年(昭和31年)に『太陽の季節』で石原慎太郎さんが芥川賞を受賞して文壇に登場するまで、戦後の日本文学は、実際に戦場を体験した野間宏や武田泰淳など、暗く、重いものが中心にあった。

       だが、当時大学生だった石原さんの登場により、一気に若い世代が注目された。中でも、作家の三島由紀夫は、デビュー直後から石原さんに注目した。それは、彼が肉体を書ける作家だったからだ。石原さんに『行為と死』という初期作品がある。石原さんは、まさしく行為の作家だった。

       文学と肉体への志向と同時に、13歳になる年に終戦を迎えた石原さんは、敗戦による大きな喪失感も抱えていた。この相反する二面を抱えたことが、石原さんを作家にしたと思う。後には政治家として活動したが、石原さんには、政治も表現の一つであるように見えた。

       人生の決定的な瞬間を切り取った1990年の短編集『わが人生の時の時』のような優れた作品もあり、石原さんは生涯、書くことを手放さなかった。自分は何より表現者だという意識があったと思う。多くの作品が残されており、読み直すことを通して石原文学の再評価だけでなく、戦後日本を見つめ直す機運も高まるはずだ。

      ヨットに乗せてくれた

        詩人の谷川俊太郎さんの話  『太陽の季節』が世に出た後、詩人を通じて知り合った。時々、電話をかけてきて、ヨットに乗せてくれたり、クレー射撃に誘ってくれたり。文学について語り合う友人というより、僕が年上だけれど、いろんな男の趣味を教えてくれる“先輩”みたいに思っていた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220201-OYT8T50129/

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    4. 「苦役列車」で芥川賞、西村賢太さん死去…54歳
      2022/02/05 13:31

       作家の西村賢太さんが5日、死去した。54歳だった。

       東京都江戸川区出身。中学卒業後、肉体労働などをしながら、同人誌に小説を発表。藤澤清造の「没後弟子」を自称し、暴力や恋愛のトラブルなどを私小説一筋で人気を博した。

      第144回芥川賞・直木賞授賞式 芥川賞の贈呈式後、石原都知事と言葉を交わし、笑顔を見せる西村賢太さん。東京・千代田区で。2011年2月18日撮影。

      第144回芥川賞・直木賞授賞式 芥川賞の贈呈式を終え、記念写真に納まる西村賢太さんと朝吹真理子さん。東京・千代田区で。2011年2月18日撮影。

      連載[私小説はいま](1)/書店で平積みされた西村賢太さんの「苦役列車」(3日、大阪市北区で)2011年3月3日撮影 =2011年3月8日朝刊文化面掲載=

       2011年に「苦役列車」で芥川賞を受賞した。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220205-OYT1T50163/

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    5. 新型コロナワクチン接種による「突然死」じゃなきゃいいけれど…
      https://twitter.com/search?q=%E7%AA%81%E7%84%B6%E6%AD%BB%20%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3&src=typed_query

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    6. 元々、生活習慣がアレってるぽい。肝臓も悪そう。自分で自分の命を縮めるようなことをやっているような…

      中上健次と勝谷誠彦を足して二で割った感じか?

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    7. 芥川賞作家 西村賢太さん死去
      2022年2月5日 16時44分

      自身の体験をもとにした私小説で知られ、「苦役列車」で芥川賞を受賞した作家の西村賢太さんが5日、東京都内の病院で亡くなりました。54歳でした。

      西村さんは東京都出身で、中学校を卒業後、アルバイトをしながら生活していましたが、大正時代の私小説作家、藤澤※清造の作品に出会ったことをきっかけに執筆活動を始め、2004年に作家としてデビューしました。

      私小説にこだわって、自身の生い立ちや心情をユーモアを交えながら率直に投影した作品を書き続け、2007年には「暗渠の宿」で野間文芸新人賞を受賞しました。

      そして2011年に、人生の目標を失った若い男性が孤独や劣等感にさいなまれる姿をリアルに描写した作品、「苦役列車」で芥川賞を受賞し、その際の記者会見での気負わない言動も話題となりました。

      その後、テレビやラジオでも活躍し、執筆活動では最近まで小説やエッセーなどを発表していました。

      出版関係者によりますと、西村さんは4日の夜、タクシーに乗っていた際に体調不良を訴えて東京都内の病院に運ばれましたが、5日、亡くなりました。54歳でした。
      ※「清」は月の部分が円
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220205/k10013468331000.html

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    8. 西村賢太さんとの最後のやり取り…石原氏追悼原稿に「動揺もあって汚くなって申し訳ありません」
      2022/02/05 19:17

       世間に顧みられず、貧困の中で死んだ戦前の作家、藤澤清造の「没後弟子」を自称した西村さんは、「無頼派作家」と言われた。だが、書くことには真面目で頼りになる人だった。

      芥川賞の贈呈式後、石原都知事と言葉を交わし、笑顔を見せる西村賢太さん(東京・千代田区で。2011年2月18日)

       最後のやり取りは、西村さんが尊敬する石原慎太郎さんの追悼文をお願いした1日だ。午後3時、1200字の原稿を5時半締め切りで頼んだ。「15分待ってくれ」。5時半に携帯電話があった後、1分と遅れず、ファクスで届いた。「動揺もあって汚くなって申し訳ありません」。原稿の表紙に手書きされていた。

       西村さんは小学5年の時、父が事件を起こして家族は夜逃げ同然の状態となった。不安定な生活を送った頃の唯一の楽しみは読書だった。「面白い純文学を書きたい」とよく語った。読み、書くことが自分の全てで、それらが生活の手段でもあると骨身に染みていた。

       2日朝刊の紙面を作り終え、お礼のファクスを送ると、急に不通になった。寂しがりなのに、一人になりたがるところがあった。(文化部次長 待田晋哉)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220205-OYT1T50204/

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    9. 異なる世界を生きた同時代人 同じ日に生まれた石原慎太郎氏のこと…五木寛之
      2022/03/01 05:00

       石原さんが亡くなった後、あらためてこの二十年あまりの間に発表された 短篇たんぺん を読んでみた。『石原慎太郎短編全集』という上下二巻のシリーズである。

       『青木ヶ原』など、印象に残る作品がいくつもあったが、全篇を通して、死の匂いが通底していることにあらためて感慨をおぼえた。

      「わたくしの道徳論」という1958年2月のインタビューで、後進の道徳観への期待を語った石原慎太郎さん
       石原慎太郎といえば『太陽の季節』以来、強烈な生のエネルギーを描いた作家のような、月並みなイメージを抱いていたからである。

       ふり返ってみると、私は石原さんの活動と、ほとんど無縁な世界を生きてきたような気がしないでもない。

       たまたま生年月日が重なっていること以外に、石原慎太郎という作家と私との間には、まったく通底するものがなかったのである。

       一九五〇年代の若き学生作家の登場は、たしかに大きな事件ではあった。その後の活動もそうだ。一世を 風靡ふうび したといえば古風だが、時代を 震撼しんかん させた出来事ではあった。

       しかし、当時の私は『太陽の季節』とは、あまりにかけ離れた世界に生きていた。日雇いの仕事にさえあぶれて、京成電車で製薬会社に売血に通う最低の生活だったのである。

       二〇〇cc抜くところをダブルで四〇〇cc抜いて、やっと一週間を食いつなぐといった日々の中で、『太陽の季節』の風俗はメルヘンの世界か 蜃気楼しんきろう のようにはるかに遠く感じられたものだった。

       富裕層を嫉視し羨望するのは中産階級である。異次元の世界に住んでいる者は、かけ離れた世界に 驚愕きょうがく したりはしない。

       一九五〇年代の私の立ち位置は、『太陽の季節』とはほとんど交錯するところがなかった。『新日本文学』『人民文学』『美術批評』などの雑誌が私たちグループの論争の舞台だった。

       青臭いガチガチの公式主義が、当時の私たちを浸していた。そんな密室の中で小野十三郎を読み、中野重治を読み、魯迅を読み、埴谷雄高を読み、やがてスターリン批判の嵐に立ちすくむのである。

       勃起した男根で障子を突き破った? それがどうしたというのだ。たかが薄紙一枚破ったことに大騒ぎするジャーナリズムが、いっそ純情に見えた、というのが実感だ。当時の私たちはまさしく幼稚で 傲慢ごうまん だったと思う。

       そんな出会いから幾星霜、あらためて晩年の石原さんの仕事にふれて思うのは、生の 謳歌おうか から死への思念への一作家の 変貌へんぼう に関する分析などではなく、ああ、この人はじつに孤独だったんだな、という素朴な感慨だった。

       石原さんとは以前、自力と他力について雑誌の対談を終えたあと、長時間にわたって論争をくりひろげたことがあった。

       宮本武蔵が一乗寺下り松での吉岡一門との決闘に 向むか う途中、とある神社の前を通りかかって武運を祈ろうとしたが、神仏の加護を頼るようではだめだ、あくまで自力で戦わなくては、と心に 閃ひらめ くものがあって祈るのをやめ、決闘の場へおもむき勝利した、という話を引いて、「やはり自力が大事なんだ」と主張する石原さんに、「その閃きこそが他力の声じゃないですか」と反論したら、「またまた五木さんは、そんなことを言って人を 欺だま そうとする」

       と、苦笑しながら 呟つぶや いた石原さんの、どこかさびしげな表情が今もくっきりと記憶に残っている。文学に対する 憧憬しょうけい を最後まで抱きしめて逝った青年、というのが彼が残した自画像だったと思う。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220228-OYT8T50243/

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  38. 漫画家 藤子不二雄Aさん死去 88歳
    2022年4月7日 14時25分

    日本を代表する漫画家で「忍者ハットリくん」や「怪物くん」など数々の人気作品を手がけた、藤子不二雄Aさんが亡くなりました。88歳でした。

    藤子不二雄Aさん、本名、安孫子素雄さんは、富山県の出身で、小学校の同級生だった故・藤本弘さんと2人で漫画家としての活動を始め、高校生のときに新聞に4コマ漫画が掲載され、デビューしました。

    1954年に2人で上京し、藤本さんと共同の「藤子不二雄」のペンネームで「海の王子」や「オバケのQ太郎」などの人気作を手がけました。
    さらに、藤子不二雄Aさんは「忍者ハットリくん」や「怪物くん」、それに「プロゴルファー猿」など、個性豊かなキャラクターで数々のヒット作を生み出しました。

    藤本さんとは1987年にコンビを解消し、その後は「藤子不二雄A」として作品の発表を続けました。
    夢と笑いにあふれた作品だけでなく「魔太郎がくる!!」や「笑ゥせぇるすまん」など社会の闇を描いた作品でも人気を博しました。

    こうした功績で2008年には旭日小綬章を受章しています。

    藤子不二雄Aさんは、7日午前8時40分ごろ、川崎市の自宅で亡くなっているのが見つかったということです。

    88歳でした。

    ・藤子不二雄Aさんの「A」は、○の中にAです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220407/k10013571061000.html

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    1. トキワ荘で同級生と「まんが道」…藤子不二雄(A)さん、自宅敷地で死去
      2022/04/07 23:02

       「オバケのQ太郎」「忍者ハットリくん」などで少年漫画の黄金時代を作った漫画家の藤子不二雄(A)(ふじこ・ふじおえー、本名・安孫子素雄=あびこ・もとお)さんが川崎市の自宅で死去したことが7日、分かった。88歳だった。

      藤子不二雄(A)さん(2018年11月12日撮影)

       神奈川県警多摩署によると、7日午前8時40分頃、関係者から「安孫子先生の自宅敷地内で男性が倒れている」と同署に通報があった。同署員が駆けつけた際、藤子さんはすでに死亡していたとみられるという。

       富山県生まれ。手塚治虫にあこがれて漫画家を目指し、小学校の同級生、藤本弘とコンビを組み1951年、「天使の玉ちゃん」でデビュー。地方新聞社を経て上京後、若手漫画家が集ったトキワ荘に入居。2人の名前から字を選ぶなどして「藤子不二雄」名義で64年、少年サンデーに連載を始めた「オバケのQ太郎」などユーモアと不思議な感覚を交えた少年漫画で一躍、人気漫画家になった。

       その後、2人は創作を分けるようになり、児童漫画一筋の道を歩んだ藤本に対し、「怪物くん」や「忍者ハットリくん」に加え、「魔太郎がくる!!」などホラー色のある作品や、「プロゴルファー猿」などを発表。87年に正式に合作コンビを解消した。

       「ドーン」の流行語を生んだ大人向け作品「笑ゥせぇるすまん」、自伝作品「まんが道」などでも知られ、2005年、全作品に対して日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受けた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220407-OYT1T50271/

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  39. 社会学者の見田宗介さん死去 84歳 「現代社会の理論」など執筆
    2022年4月10日 13時54分

    社会学者で東京大学名誉教授の見田宗介さんが亡くなりました。84歳でした。

    見田さんは東京都の出身で、東京大学を卒業したあと、母校で教授などを務め、その後、共立女子大学でも教べんをとりました。

    真木悠介のペンネームも使いながら幅広い視点で執筆を続け、犯行当時、少年だった永山則夫元死刑囚をもとに考察を深めた「まなざしの地獄」や、現代社会と情報化、消費化を扱った「現代社会の理論」などが多くの人たちに影響を与えました。

    「樹の塾」として市民とも交流する場を設けて精力的に研究活動を行いましたが、2017年には目の病気が進行したとしてこの活動を休止したということです。

    関係者によりますと、見田さんは今月1日に亡くなったということです。

    84歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220410/k10013575471000.html

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    1. 論考「まなざしの地獄」…社会学者の見田宗介さん死去、84歳
      2022/04/10 11:12

       社会学者で東大名誉教授の見田宗介(みた・むねすけ)さんが1日、敗血症で死去した。84歳だった。葬儀は近親者で済ませた。

       東京都生まれ。東大卒業後、同大で教壇に立ちながら、1960年代から言論活動を展開した。

       新聞の人生相談や意識調査などを素材に高度経済成長期の社会のありようなどを探った「現代日本の精神構造」などを刊行した。その後、真木悠介の筆名で、近代社会の時間意識がどのように形成されたかを解明しようとした「時間の比較社会学」などの著作を発表する。生物学や民俗学の成果を取り入れたり、個人の確立を前提とする開かれたコミューン(共同体)を追求したりした。

       連続射殺犯の永山則夫・元死刑囚を素材に、社会構造を考察した論考「まなざしの地獄」や、情報化・消費化社会を肯定的に捉えながら自由な社会の将来を考えた「現代社会の理論」などでも知られる。

       退官後は、共立女子大教授を務めた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220410-OYT1T50124/

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    2. 見田宗介さん死去 社会学者 「現代日本の精神構造」 84歳
      2022/04/12 05:00

       学問の壁を越え、時に生物学や民俗学の見地も取り入れて社会を見つめ続けた社会学者で東大名誉教授の見田宗介(みた・むねすけ)さんが1日、敗血症で死去した。84歳だった。葬儀は近親者で済ませた。

       東京生まれ。東大卒業後に同大で教え始め、1982年に教授就任。退官後は共立女子大教授を務めた。

       65年に出版した「現代日本の精神構造」では、読売新聞の「人生案内」などを素材に、高度経済成長期の社会のありようを探った。その後、 真木悠介まきゆうすけ の筆名で、近代社会の時間意識がどう形成されたかを探究した「時間の比較社会学」などの著作を刊行する。

       73年には、永山則夫・元死刑囚の連続射殺事件と向き合い、当時の社会構造を考察した論考「まなざしの地獄」を発表。96年には、情報化・消費化する社会を解明しようとした「現代社会の理論」を出版し、その幅広い研究は「見田社会学」とも称された。

       教え子で、社会学者の大澤真幸さんの話「一つの学問を越え、独自の理論を構築する見田先生の能力はずば抜けていた。どうすれば世の中が良くなるかを学問的な深さをもって問い続け、それを文学的で無駄のない文章で書いた。科学と詩が一体となったようだった」
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220412-OYT1T50022/

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    3. 見田宗介さんを悼む 私たちは震え、手がかりとし、解き放たれた…吉見俊哉
      2022/04/13 05:00

      見田宗介さんは1日、敗血症で死去。84歳だった

       東京・八王子にある大学セミナーハウス。吉阪隆正設計のアジアの離散型集落のような研修施設で「見田ゼミ」はよく合宿をした。見田先生は、合宿開始によく数時間は遅れて来られ、時折、ゼミ中に消えることもあった。野山を散策に行かれたのだ。今日、現代社会分析の第一線で活躍する 錚々そうそう たるメンバーが、まだ学生としてそこにいたが、私たちは先生が眼前にいなくても、はっきりいるのを実感して議論を続けていた。

       使命預言と模範預言ということを、見田先生は言われたことがある。マックス・ウェーバーの言葉で、前者は「真理」に信徒を従わせ、後者は身をもって示すわけだが、見田先生は、明らかに模範預言の人だった。「~~をしなさい」と言うのではなく、その面白がる姿から学生は勝手に学んでいく。

       私たちの世代の社会学者は、誰しも『気流の鳴る音』に震え、『現代社会の存立構造』に無数の傍線を引き、『時間の比較社会学』で「社会学」から(へ)解き放たれた。また私は、「新しい望郷の歌」を手がかりに資料を読み、「まなざしの地獄」をモデルに都市論を出発させた。私たちにとって、見田宗介=真木悠介は巨大な座標軸だった。

       実際、かつての著書には、壮大な執筆計画が登場する。『時間の比較社会学』の末尾には、「共同性と個体性」から「解放の比較社会学」までの10項目の主題リストが掲げられ、「わたしと共に、あるいは独自に、これらの課題のいくつかを完成してくれる若い研究者たちのあらわれることを、願っている」とある。私たちの世代は、「完成」は無理でも、この座標軸の一部に自分の知的軌跡を設定してきた。

       見田先生は近年、人類が壮大な歴史の曲がり角にいると確信していた。近代という爆発する時代が地球の有限性において飽和し、「高原の見晴らし」の中で緩やかに終わっていく。その 彼方かなた の風景を、森羅万象への(との)エロスを漂わせながら透視していた。その彼方の風景へと、私たちは再び師の主題リストを引き継ぐ。ガウディの教会建築のように、見田宗介=真木悠介の主題リストの完成に向けてブロックを積み続けるはずだ。(社会学者)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220412-OYT8T50239/

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    4. 何冊か新刊を購読してはみたものの、結局、ほとんど引き込まれる何かを感じたことはなかったなあ…

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  40. 宗教評論家、ひろさちやさん死去 仏教の教え分かりやすく説く
    4/12(火) 21:33配信 共同通信

     仏教の教えを分かりやすく説いた著作で知られる宗教評論家ひろさちや(本名増原良彦=ますはら・よしひこ)さんが7日、肝臓がんのため東京都の自宅で死去した。85歳。大阪市出身。葬儀は故人の遺志で行わない。

     東京大大学院でインド哲学を学んだ。仏教思想に軸足を置きながら、人生をより楽に生きるこつを読者に説いた「『狂い』のすすめ」がベストセラーとなった。「仏教に学ぶ老い方・死に方」「捨てちゃえ、捨てちゃえ」「釈迦物語」など多くの著作で仏教を易しい言葉で伝えた。

     気象大学校教授、宗教文化研究所の所長を務め、幅広く講演活動も行った。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/51c1f5404561ec7faf9f217292d307759b8eabae

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    1. 宗教評論家のひろさちやさん死去
      4/12(火) 22:21配信 時事通信

       ひろ さちやさん(本名増原良彦=ますはら・よしひこ=宗教評論家)7日、自宅で死去、85歳。

       大阪市出身。

       東京大大学院でインド哲学を専攻。気象大学校教授を経て、本格的な執筆活動に入った。仏教の教えを分かりやすいユーモラスな言葉で紹介し、雑学や人生論など幅広いテーマも手掛けた。著書に「ひろさちやの般若心経88講」「仏教に学ぶ『がんばらない思想』」など多数。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/fbfbd82470219456ac2287d553238b4cd7518efa

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    2. 仏教をやさしい言葉で説く、宗教評論家のひろさちやさんが死去…85歳
      4/12(火) 20:46配信 読売新聞オンライン

       仏教をやさしい言葉で説いた宗教評論家のひろさちや(本名・増原良彦=ますはら・よしひこ)さんが7日、死去した。85歳だった。故人の遺志で告別式は行わない。

       大阪府生まれ。東大でインド哲学を学んだ後、気象大学校教授として哲学を教えた。その傍らで宗教の評論やエッセーの執筆活動を展開。「仏教原理主義者」を自称し、仏教には世俗の価値観に縛られない「仏の物差し」があると説くなど、わかりやすい言葉で伝えた。ペンネームの「ひろ」はギリシャ語の「愛する」、「さちや」はサンスクリット語の「真理」に由来するという。

       1987年から93年まで、本紙で「まんだら人生論」を連載、後に書籍化された。他に「仏教の歴史」(全10巻)、「釈迦」など約600冊の著書がある。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/ecf698854d9afa442a0c947894791188172418f3

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  41. 出井伸之氏死去 84歳 ソニーの社長や会長を10年にわたり務める
    2022年6月7日 14時19分

    ソニーの社長や会長を10年にわたって務め、IT時代を先取りして国際派の経営者として知られた出井伸之氏が6月2日、肝不全のため亡くなりました。84歳でした。

    1960年にソニーに入社した出井氏は、1995年に大賀典雄氏のあとを受けて異例の14人抜きで社長に就任しました。

    インターネットの可能性に早くから着目した出井氏は「デジタル・ドリーム・キッズ」というキーワードを掲げ、ITをビジネスの中核にする経営戦略にかじを切りました。

    テレビなどのハードウエアと映画や音楽などのソフトウエアを融合させたほか、「VAIO」ブランドでパソコン事業に再参入するなど、デジタル関連の事業を積極的に推し進め、10年にわたって社長やCEO、会長としてソニーの経営を担いました。

    しかし、テレビ事業ではブラウン管から薄型テレビへの転換が遅れたほか、ウォークマンのブランドで人気を集めた携帯音楽プレーヤーの分野は、アメリカのアップルにリードを許すなど主力事業で苦戦が続きました。

    2003年の業績の悪化による株価急落は、ソニーショックとも呼ばれました。

    その後も業績が低迷し、出井氏は2005年に会長を退きました。

    一方、出井氏は国際派の経営者としても知られ、各国の政治や経済界のリーダーが一堂に会するいわゆる「ダボス会議」などを通じて欧米の経営者らの幅広い人脈をつくったほか、アメリカの自動車大手のGM=ゼネラル・モーターズの社外取締役も務めました。

    また、政府のIT戦略会議の議長を務めたほか、最近はコンサルティング会社を経営し、日本のベンチャー企業や若手経営者の育成に力を尽くしました。

    ソニーグループ 吉田社長 “ソニーのデジタル化を積極的に推進”

    出井伸之氏が亡くなったことについて、ソニーグループの吉田憲一郎社長は「出井さんは、グローバル企業としての成長に多大なる貢献をされました。特にインターネットがもたらすインパクトをいち早く予見し、ソニーにおけるデジタル化を積極的に推進されたその先見性には今でも驚かされます。私自身、1998年から2年間、出井さんのもとで社長室室長を務めましたが、そこでの経験と学びは、自分の人生の転機ともなり、現在のソニーの経営にもつながっています。出井さんの多大な貢献と功績に心から感謝し、ここに謹んでご冥福をお祈りいたします」というコメントを発表しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220607/k10013661201000.html

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    1. 世間の毀誉褒貶がここまで著しい人も滅多にいないような…

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    2. ソニー元会長兼CEOの出井伸之氏が死去、84歳…映画や音楽などソフト部門強化に注力
      2022/06/07 13:18

      出井伸之氏(2019年撮影)

       ソニー(現ソニーグループ)の社長、会長を歴任した出井伸之(いでい・のぶゆき)氏が2日、肝不全のため死去した。84歳だった。近親者で密葬を済ませた。後日、 偲しの ぶ会を開く予定。

       東京都出身。1960年にソニーに入社し、音響事業本部オーディオ事業部長、広告宣伝本部長などを経て、95年に異例の14人抜きで6代目の社長に就任した。「ハードとソフトの融合」を掲げ、映画や音楽などソフト部門の強化に力を注いだ。一方、薄型テレビをはじめとするエレクトロニクス部門では不振が続き、2005年に会長兼グループ最高経営責任者(CEO)を退任した。

       社外活動にも尽力した。00年に森内閣に設置されたIT戦略会議で議長を、03年から4年間は経団連副会長を務めた。06年には新興企業の育成支援などを手がける「クオンタムリープ」を設立し、国内外の企業間の連携を後押しした。
      https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220607-OYT1T50148/

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    3. ソニーグループの営業利益、初の1兆円超え…オンラインゲームやサブスク好調
      2022/05/10 15:57

       ソニーグループが10日発表した2022年3月期連結決算(国際会計基準)は、売上高が前期比10・3%増の9兆9215億円、営業利益が25・9%増の1兆2023億円と、いずれも過去最高を更新した。

       営業利益が1兆円を超えたのは初めて。オンラインゲームや音楽の定額配信、映画事業といったエンターテインメント関連事業が大きく伸びた。

       23年3月期の連結売上高の予想は14・9%増の11兆4000億円と、10兆円の大台を超える見通し。
      https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220510-OYT1T50154/

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    4. ソニーGの出井伸之元会長、肝不全で死去 「ソニーの成長と改革に大きく貢献」
      6/7(火) 15:49配信 ITmedia ビジネスオンライン

       ソニーグループ(ソニーG)は6月7日、出井伸之(いでい・のぶゆき)元会長が肝不全で亡くなったと発表した。84歳だった。葬儀は既に親族のみで行ったが、同社は後日、「偲ぶ会」を開催する方針。

      【画像】出井伸之氏の顔写真とマイナビの23卒向けの就職人気企業ランキング(全2枚)

       出井氏は1937年東京都生まれ。早稲田大学卒業後の60年にソニーに入社し、主に欧州での海外事業に従事。オーディオ事業部長やコンピュータ事業部長、ホームビデオ事業部長などを歴任し、95年に同社の第6代社長に就任した。98年にCEO(最高経営責任者)、2000年から05年まで会長兼CEOをそれぞれ務めた。

       特に社長就任以来の10年間で、出井氏が注力したのが事業の多角化だ。「デジタル・ドリーム・キッズ」というキーワードを掲げ、同社のデジタル・ネットワーク事業やエンタテインメント事業など事業を拡大するとともにグローバル化も加速させた。

       加えて、経営面での監督と執行を分離しようと出井氏主導で「執行役員制」の導入や「委員会等設置会社」にも移行したことから、同社は「グローバルなグループ経営体制の構築とコーポレートガバナンスの確立を推進し、ソニーの成長と改革に大きく貢献した」としている。

       ソニーという日本屈指の巨大企業の経営トップを務める傍ら、00年には日本政府からの要請に応じて、IT戦略会議の議長に就任。日本全体のブロードバンド構想をリードし、日本のブロードバンドインターネット接続環境が世界に先駆けて整備されるきっかけを作った。経営トップからの退任後の06年9月には、ソニー時代の同僚らとクオンタムリープを設立。大企業変革支援やベンチャー企業の育成支援活動に従事していた。

       同社は一時、厳しい経営状況に陥っていた時期もあったが、マイナビが発表した「就職人気企業ランキング」(23年卒対象)では、文系で2位、理系では1位に選ばれている。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/919e8576ec096eeb620c8b0bd2f0fe7c10dacb1a

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  42. SONYって、昔は、テープレコーダーやテレビの有力メーカだったが、今はゲーム機とデジカメとスマホの有力メーカのイメージ…

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  43. 京セラ 稲盛和夫名誉会長が死去 90歳 一代で世界的な企業に
    2022年8月30日 19時04分

    京セラを一代で世界的な企業に成長させ、経営破綻した日本航空の会長として再建に尽力した京セラの稲盛和夫名誉会長が今月24日京都市内の自宅で老衰のため亡くなりました。90歳でした。

    稲盛和夫氏は鹿児島市で生まれ、鹿児島大学工学部を卒業後、京都のがいしメーカーに就職し、1959年(昭和34年)に知人から出資を受けて、資本金300万円で京都セラミック、今の京セラを設立しました。

    みずから開発した工業製品向けのファインセラミックスの技術をもとに事業を拡大し、一代で世界的な企業に成長させました。

    現在の京セラは、電子部品や半導体部品などを製造し、年間1兆8000億円の売り上げがあります。

    稲盛氏は、独特の経営手法として会社の組織を「アメーバ」と呼ぶ数人ずつの集団に分け、それぞれが事業の計画や目標を立てることで部門ごとの採算を高めたり、社員のやる気を引き出したりする「アメーバ経営」という手法を生み出しました。

    また1984年には(昭和59年)通信の自由化の流れを受けて電電公社、今のNTTに対抗するため第二電電=DDIを設立し、2000年にKDDなどと合併して今のKDDIになりました。
    さらに、2010年には(平成22年)経営破綻した日本航空の会長に当時の民主党政権から求められて就任し、赤字路線からの撤退や1万6000人に上る人員削減などに踏み切りました。

    そして、社員に対して採算性の意識を徹底して持たせることで再建を実現し、破綻から2年8か月という異例の早さで東京証券取引所への株式の再上場につなげるなど、経営手腕を発揮しました。

    故・松下幸之助と並び「経営の神様」と評する声も多くその人生哲学や経営哲学を学ぶための勉強会「盛和塾」は、国内だけでなくブラジルやアメリカ、中国など海外にも支部が設置されおよそ1万5000人の塾生が参加するまでになっていました。

    ただ、盛和塾の活動は稲盛氏の高齢を理由に、2019年に終了していました。

    稲盛氏は今月24日京都市内の自宅で老衰のため亡くなりました。

    90歳でした。

    稲盛氏の経営哲学とは

    稲盛氏は、少人数の集団を組織して採算の向上を図る「アメーバ経営」を提唱したことでも知られています。

    「アメーバ経営」は、稲盛氏の実体験から生まれた経営管理の手法で、社内の組織をアメーバと呼ばれる数人ずつの小集団に分け独立採算で運営するものです。

    それぞれの小集団で事業の計画や目標を立てることで部門ごとの採算を高めたり、活動の成果を分かりやすく示したりすることで、社員のやる気を引き出し考え方です。

    また、こうした経営や組織運営を行うベースとなる考え方が稲盛氏の経験則から生まれた「フィロソフィ」と呼ばれる哲学=考え方です。

    「人間として何が正しいか」を判断基準に、人として当然、持つべき根源的な倫理観や道徳観、それに社会的規範にしたがって誰に対しても恥じることのない公正明大な経営や組織運営を行っていく重要性を説いたものです。

    こうした稲盛氏の経営哲学は、京セラやKDDIのほか、日本航空の経営再建にも生かされました。

    さらに、稲盛氏から教えを請いたいと京都の若手経営者が立ち上げた勉強会「盛和塾」には、国内外の経営者などおよそ1万5000人が塾生として参加し、稲盛氏の経営哲学などを学びました。

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    1. KDDI 会長と社長がコメント

      稲盛氏は通信の自由化の流れを受けて電電公社、今のNTTに対抗するため1984年に第二電電=DDIを設立。

      DDIは2000年にKDDなどと合併して今のKDDIが誕生しました。

      稲盛氏は、2001年にKDDIの最高顧問となりました。

      KDDIの田中孝司会長は「2000年の3社合併は、小異を捨て大同団結することで、かつてない歴史的な業界再編に至りました。これは稲盛和夫最高顧問の『真に国民のための通信サービスを提供しよう』という新たな大きな志が導いたものと思っています。稲盛和夫最高顧問の多大なる貢献と功績にあらためて感謝申し上げます」とコメントしています。

      また、DDIの設立と同時に京セラから移った高橋誠社長は「稲盛和夫最高顧問の経営哲学がしたためられた『KDDIフィロソフィ』は現在も弊社の礎になっています。稲盛和夫最高顧問の遺志を継承する全社員が一丸となって経営理念にもうたっている『豊かなコミュニケーション社会の発展に貢献』できるよう、邁進していく所存です。ここにご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

      日本電産 永守重信会長「兄貴のような存在 目標失い寂しい」

      日本電産の永守重信会長はNHKの電話インタビューに対し「非常にびっくりした。長いつきあいだが、稲盛さんは兄貴のような存在だった。日本電産のビルから京セラのビルが見えて負けないよう頑張ってきた。目標を失ったようで寂しいです」と話していました。

      そして「まっすぐに会社のことを考えていた方で、いわば経営者のかがみのような存在だった。近くにいて教えを請うこともあったが、みずから考えるよう叱咤激励もしてもらった。京都から世界に向かって稲盛さんの教えがあったからこそという会社を作っていくことが使命だと考えている」と話していました。

      日本航空 格納庫には当時のことばが

      採算性への意識を徹底させながら、安全を第1に日本航空の再建に取り組んだ稲盛和夫氏の思いは今も現場に息づいています。

      羽田空港にある日本航空の格納庫には、稲盛氏が会長就任のあいさつの際に社員に向けて送った「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にありさらばひたむきにただ想え気高く強く一筋に」という明治生まれの思想家のことばが現在も掲げられています。

      当時、整備士として働いていて今は羽田空港で整備の責任者を務める川添猛さん(50)は、経営破綻による不安が大きい中、稲盛氏のことばでもう1度、会社を立て直そうという思いになったと振り返ります。

      整備の現場でも、機体の汚れを拭く布1つ取っても、採算性の意識が徹底されるようになったということで、川添さんは「もちろん安全が第1ですが、その中でも、採算性の意識というのは今も現場で意識されています。稲盛氏のことばを軸に社員の一体感がより深くなったと感じますし、今も仕事に迷った時にはそのときの原点に立ち返って作業しています」と話していました。

      日本航空「卓越したリーダーシップにより構造改革と意識改革」

      稲盛氏が亡くなったことについて、日本航空は「稲盛名誉顧問のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。2010年の経営破綻の際に弊社に会長としてお越しいただき、その卓越したリーダーシップによって構造改革と意識改革を進められて、再生へと導いていただきました。多大な貢献と功績に改めて感謝申し上げ、心からの哀悼の意を表します」とコメントを発表しました。

      稲盛氏とゆかりのある京都では悲しむ声

      稲盛氏は、平成7年に京都商工会議所の会頭に就任。

      会頭の職を6年間務めるなど、京都の経済界で存在感を示してきました。

      また、科学や芸術の振興のため、私財を投じる形で「稲盛財団」を設立しました。

      さらに、国際的に貢献した人に対する「京都賞」も創設し、京都賞の受賞者からはノーベル賞の受賞者も多数、出ています。

      このほか「京セラ」として、サッカー・Jリーグの「京都サンガ」に出資し、スポーツの振興にも努めました。

      稲盛氏とゆかりのある京都市では悲しむ声が聞かれました。

      京都市に住む40代の会社員の男性は「稲盛さんの経営手法はどんな会社でも通用するすばらしいものだったので、私も参考にさせてもらっていました。亡くなったのは悲しいですし、大きな損失だと思います」と話していました。

      また、京都市に住む80代の女性は「京都にとって誇るべき人だったので、亡くなったと聞いて、本当に残念です」と話していました。

      京都府向日市に住む20代の女性は「事業を行っているのですが稲盛さんが書かれた本を読んでたくさん勉強させてもらいました。すばらしい経営者を失ったのは残念ですが、稲盛さんが残していかれたものを参考に、私もがんばっていきたいです」と話していました。

      京都府 西脇知事「人材育成し 京都の将来につなげていく」

      京都府の西脇知事は30日午後、記者団の取材に応じ「経営者としてはもちろんのこと、京都の経済や科学、芸術、スポーツ、教育など幅広い分野の発展に大きく貢献され、まだまだこれからもご指導をいただきたかっただけに、残念でたまりません」と述べました。

      そのうえで「稲盛さんが今まで取り組んでこられた精神や実績を後世に伝え、そして人材を育成し、京都の将来につなげていくことがわれわれの役目だと思っています。今の京都経済をめぐる状況も非常に厳しいので、稲盛さんの志を継ぎ、ご功績に応えるためにも一日も早い回復に向けて努力していきたい」と述べました。

      京都市 門川市長「子どもの教育に非常に熱心だった 寂しい」

      京都市の門川市長は、教育長を務めていた時から稲盛氏と交流があり、科学や芸術に貢献した人への「京都賞」の創設や「京都市京セラ美術館」への支援など、幅広い分野で市に貢献していたとして、急な別れを惜しんでいました。

      門川市長は30日夕方、記者団に対し「尊敬する稲盛さんがご逝去されたと聞いて寂しいかぎりです。子どもの教育に非常に熱心で、とくに家庭環境に恵まれていない人や障害のある人の支援に取り組んでいました。世のため、人のために尽くすことが人間として最も尊いとおっしゃっていて、1人の人間として教えていただいたことを実行していきたいです」と話していました。

      京都サンガ 伊藤社長「心に穴があいたような感じ」

      稲盛氏はサッカーJ1の京都サンガの熱心なサポーターとしても知られ、クラブの設立に中心的に関わったほか、クラブの名誉会長も務めていました。

      稲盛氏が亡くなったことについて京都サンガの伊藤雅章社長は「サンガの礎を築いた稲盛氏が亡くなったことは心に穴があいたような感じです。クラブハウスにひとりで来たこともありました。稲盛氏は地域の人を喜ばせることがチームの発展につながるという考えをもっていたほか、結果的にうまくいかなくても挑戦することを大事にしていたので、その考え方をクラブに残していきたいです」と話していました。

      出身の鹿児島市では新聞の号外も

      稲盛さんは1932年、現在の鹿児島市城西で生まれました。

      鹿児島市にある西田小学校を卒業し、戦時中の1945年には空襲で実家を焼失します。

      その後、現在の鹿児島玉龍高校を経て1955年に鹿児島大学工学部を卒業し、1959年に京都セラミック、今の京セラを設立しました。

      活動の中心を京都へ移したあとも、故郷・鹿児島との関わりを持ち続けます。

      1969年には鹿児島川内工場を1972年には鹿児島国分工場を作りました。

      1999年に、鹿児島大学の名誉博士になると、2004年には成績が優秀な学生を表彰する「稲盛賞」が設けられ、卒業式で賞状や薩摩切子のちょこを受賞した18人に贈りました。

      また、2005年には、西田小学校の創立130周年に合わせて講演し、児童と一緒に給食も食べました。

      2015年に鹿児島県の県民栄誉表彰と鹿児島市から市民栄誉賞が贈られ、2017年には鹿児島大学に銅像が建てられました。

      私財をなげうって人材育成にも取り組みました。

      2018年に鹿児島大学へ稲盛記念館を寄付したほか、2020年には、かごしま国際交流センター建設のため県と鹿児島市に20億円を寄付します。

      常に、故郷・鹿児島に貢献するための活動を続けた稲盛さんは、2019年、87歳の時に社会の発展にこの上ない功績を残し、県民が誇りとして敬愛する人に県が贈る初の名誉県民となりました。

      鹿児島市の天文館では、稲盛会長が亡くなったことを知らせる新聞の号外が配られ、買い物客が驚いた様子で受け取っていました。

      70代の男性会社員は「鹿児島にとっては大きな存在で惜しい人が亡くなったと思います。やすらかにお眠りください、とだけ言いたいです」と話していました。

      80代の女性は「経済面などいろいろな方面で、鹿児島の有名な立派な方だったので残念です。昔の人は辛抱強いからこれだけ成功したのだと思います」と話していました。

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    2. 鹿児島県 塩田知事「雇用の創出に多大な尽力いただいた」

      鹿児島県の塩田知事は、京セラの稲盛和夫名誉会長が亡くなったことを受けて県庁で取材に応じ「県内での工場立地で鹿児島県の雇用の創出に多大な尽力をいただいたほか、国際交流の発展のために多額の寄付もいただき、いろんな形で貢献いただいた。このたびの訃報は大変残念ですが、生前のご功績に敬意を表し、心からご冥福をお祈りしたい」と述べました。

      鹿児島市 森 前市長「郷土愛にあふれた方」

      親交のあった鹿児島市の森博幸前市長は「まだまだ長生きされて、世界のために活躍されると思っていたので、お亡くなりになったことが信じられない。県民にとっても大きな財産を失うことになる」と述べ、突然の死を惜しんでいました。

      また、市長在任時のおととし、国際交流の拠点となる「かごしま国際交流センター」が稲盛さんの寄付を受けて完成したことに触れ「稲盛さんが『県民のために役に立てることがあれば協力したい』とおっしゃったので『国際交流会館をつくりたい』と言ったら、20億円の寄付をいただいた。大学や高校にも私財をなげうってくださって、郷土愛にあふれた方でした。温かい志に感謝申し上げ、心からご冥福をお祈り申し上げたい」と話していました。

      稲盛氏が好きだったことばは「敬天愛人」

      稲盛和夫氏は一代で電子部品メーカーの京セラを世界的な企業に成長させました。

      その稲盛氏が好きだったということばが「敬天愛人」です。

      「天を敬い、人を愛す」という意味のこのことばは、同じ鹿児島出身の西郷隆盛がよく使っていたものです。

      資金も実績もない町工場でもみずからの技術と仲間を信じれば道がひらけるという稲盛氏の経験から私利私欲のためでなく、一緒に働く仲間を信じることの大切さを説いていて京セラの社是にもなっています。

      稲盛氏は、2014年のNHKのインタビューで「人間として何が正しいのかを座標軸に、そこから物事をすべて経営判断することが大切だ。成功した経営者が『俺は社長だ、専務だ』と威張っているのをかいま見るが、そんなんじゃいかんと思う。上に上がれば上がるほど責任は重くなって、これでいいのだろうかと常に自戒して、努力をしていく、そんな生真面目な経営者であってほしい」とみずからの経営哲学を話していました。

      勉強会「盛和塾」の塾生は

      稲盛氏の経営哲学は、京都の若手経営者が立ち上げた勉強会「盛和塾」の活動によって国内外の経営者などおよそ1万5000人が塾生として学びました。

      その経営哲学の根底にあるのが「フィロソフィ」と呼ばれる哲学=考え方です。

      「人間として何が正しいか」「人は何のために生きるのか」という問いに向き合う考え方で、人として当然、持つべき根源的な倫理観や道徳観、それに社会的規範にしたがって誰に対しても恥じることのない公正明大な経営や組織運営を行っていく重要性を説いたものです。

      その塾生の1人で、東京・中野区でスポーツ施設の設計施工や運営を手がける会社「日本体育施設」の奥裕之会長は2011年12月に「盛和塾」に入塾してから稲盛氏が出席するほぼすべての勉強会に参加していたということです。

      奥会長は「体の力が抜けました。メールが届いていて亡くなられていたと。お年ですし、限りある命ですから、いつかはとは思っていましたが、もう少し頑張ってほしかった」と話していました。

      そのうえで、稲盛氏を振り返り「世界中がおかしくなっていますし、市場原理主義がいきすぎている。人の幸せがなんなのか、事業をなんのためにやるのか、常に本質ということをなげかけてくださった。確かに経営は甘くないですし、塾生にも厳しいおことばをたくさんいただいたが、その裏側に大きな愛がある。私は厳しさよりもそれを感じました」と話していました。

      中国でも多くのメディアが大きく伝える

      京セラの稲盛和夫名誉会長は中国でも企業経営者やビジネスマンの間で高い人気があったことから、多くの中国メディアが亡くなったことについて大きく伝えています。

      稲盛氏の経営哲学などを学ぶ勉強会「盛和塾」を中国で開催する会社によりますと、勉強会は2007年から中国各地で開かれていて、日本で活動が終了した今も中国では継続され、およそ1万7000人が参加しているということです。

      また、ネット通販最大手、アリババグループの創業者、ジャック・マー氏や、中国の通信機器大手、ファーウェイの創業者など、中国を代表する経営者らが稲盛氏を尊敬していたことで知られています。

      中国のSNS上では、30日午後、稲盛氏の死去について伝えるニュースが一時、検索ランキングの1位になりました。

      コメント欄には「偉大な経営者いい旅立ちを」といった投稿や「尊敬すべき日本人だった」などと、稲盛氏の死去を悼む声が多く寄せられていました。

      立民 泉代表「私心なき政治を説かれた」

      立憲民主党の泉代表は記者団に「常に、私心なく政治の運営をすることは経営と同じだとわれわれに説いていただいた。『もう一度政権交代可能な政治を』という思いを持ち続けていたと思うので、われわれも諦めず、競争や切磋琢磨(せっさたくま)のある政治環境をつくっていくため、努力したい」と述べました。

      立民 安住国対委員長「二大政党制の必要性 志の体現を」

      立憲民主党の安住国会対策委員長は記者団に対し「経済界の中で二大政党制の必要性を唱え、与党と分け隔てなく野党の応援もしてくれた。『権力は二大政党で緊張感を持ってやったほうがいい』という稲盛氏の志を体現すべく、頑張っていきたい」と述べました。

      立民 小沢一郎氏「見識と人間力に助けられた」

      民主党政権で党の幹事長などとして政権運営の中枢を担った立憲民主党の小沢一郎氏は、ツイッターにメッセージを投稿しました。

      この中で、小沢氏は「稲盛氏は、早くから、日本には政権交代可能な成熟した民主主義が必要であると認識され、民主党と自由党の合併と、その後の政権交代に強力な支援をいただいた。先を見据える見識と全てを包み込む人間力にどれほど助けられてきたか、わからない」としています。

      そのうえで「元気なうちに、もう一度、政権交代をして、何とか恩返しができればと思っていた。本当に残念でならず、心からご冥福をお祈り申し上げる」としています。

      公明 竹内政調会長「ぬきんでた たぐいまれな経営者」

      地元が京都で稲盛氏と親交があった、公明党の竹内政務調査会長は、記者団に対し「戦後日本経済の一時代を作った偉大な経済人であり、亡くなったことは非常に残念だ。利益だけを追い求めるのではなく、経済社会の在り方を説き、多くの若手経営者を育て、大きな功績がある。ぬきんでた、たぐいまれな経営者であり、心から冥福を祈りたい」と述べました。

      国民 前原代表代行「日本を救っていただいた」

      京都が地元の国民民主党の前原代表代行は記者団に対し、民主党政権の国土交通大臣として稲盛氏に日本航空の経営トップへの就任を要請したときのことを振り返り「この人しか日本航空を立て直す方はいないということで、お願いにあがり、三顧の礼というのはよく言ったもので、2回断られて、3回目にお引き受けをいただいた。極めて短期間でV字回復を遂げ日本を救っていただいた。やりきれるのは稲盛氏しかいなかったし、感謝してもしきれない。本当に大事な方を亡くした」と述べました。

      そのうえで「『1社独占や1党独裁はだめで、競争が必要だ』と何度も話をいただいた。自民党に代わりうる強い政党をもう1回つくって政権交代を実現することを、稲盛氏に誓いたい」と述べました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220830/k10013794461000.html

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  44. 熊楠ブームの火付け役…歴史作家の神坂次郎さん死去、95歳
    2022/09/13 23:30

     歴史作家の神坂次郎(こうさか・じろう、本名・中西久夫=なかにし・ひさお)さんが6日、老衰で死去した。95歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は次女、歩(あゆみ)さん。

     和歌山市生まれ。1984年、「元禄 御畳おたたみ 奉行の日記」がベストセラーになった。87年の評伝「縛られた巨人――南方熊楠の生涯」で“熊楠ブーム”の火付け役となった。戦時中、特攻隊の若者たちを見送った経験からその記録にも力を入れ、「今日われ生きてあり」シリーズに結実させた。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220913-OYT1T50095/

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  45. 「東電OL殺人事件」のノンフィクション作家 佐野眞一さん死去
    2022年9月27日 15時42分

    著名人や事件などさまざまなテーマを取材し、多くの作品を発表したノンフィクション作家の佐野眞一さんが、26日肺がんのため千葉県内の病院で亡くなりました。75歳でした。

    佐野さんは東京都葛飾区出身で早稲田大学を卒業後、出版社での勤務を経て作家となり、1997年に「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。

    その後、1997年に起きた事件とその後の裁判をめぐる「東電OL殺人事件」や、「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」など、さまざまなテーマで取材を続け、数多くの作品を発表してきましたが、出版社によりますとことし6月から入院していたということで26日、肺がんのため千葉県内の病院で亡くなりました。

    75歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220927/k10013839101000.html

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  46. 一柳慧さん死去…89歳 作曲家、文化勲章
    2022/10/09 05:00

     現代音楽のパイオニアとして世界的に知られた作曲家で文化勲章受章者の一柳慧(いちやなぎ・とし)さんが7日、死去した。89歳だった。告別式は近親者で行う。

     兵庫県生まれ。16歳で日本音楽コンクールで1位となり、ニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ。1950年代後半に「不確定性の音楽」を提唱した作曲家ジョン・ケージと出会い、その影響を受けた作品を次々と発表した。61年に帰国後、図形楽譜などを用いた斬新な作風で反響を呼び、前衛音楽の旗手としての評価を確立した。

     70年代以降はミニマル・ミュージック(反復音楽)の手法を取り入れ、時間と空間を意識した重層的な音楽表現を開拓するなど創作の幅を広げた。近年も精力的に作品を発表し、25日に読売日本交響楽団で初演される「バイオリンと三味線のための二重協奏曲」を完成させたばかりだった。

     代表作に11曲の交響曲、6曲のピアノ協奏曲、オペラ「光」「愛の白夜」など。神奈川芸術文化財団の芸術総監督を長く務め、2018年に文化勲章を受章した。

     1950年代後半から一時期、芸術家のオノ・ヨーコさんと結婚していた。

     作曲家の池辺晋一郎さんの話「兄貴のような存在で畏敬の念を抱いていた。ピアノの腕前も一流で80歳を過ぎてなお若々しく、最後まで現役を貫いた」
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20221009-OYT1T50058/

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    1. 現代音楽界をリード、作曲家の一柳慧さん89歳で死去…オノ・ヨーコさんと一時期結婚
      2022/10/08 13:23

       日本の現代音楽界をリードし、独自の作風で知られた文化勲章受章者で作曲家の一柳慧(いちやなぎ・とし)さんが7日、死去した。89歳だった。告別式は近親者で行う。

       兵庫県出身。10代で日本音楽コンクールで1位になった後、米ジュリアード音楽院で作曲を学んだ。1950年代後半にニューヨークで「不確定性の音楽」を提唱した作曲家ジョン・ケージさんと出会い、その影響を受けた作品を次々と発表、注目された。61年に帰国後、図形楽譜などを用いた斬新な作風で大きな反響を呼び、前衛音楽の旗手としての地位を確立した。

       70年代以降はミニマル・ミュージック(反復音楽)の手法も取り入れつつ、時間と空間を意識した重層的な音楽表現を新たに開拓。近年も2020年に交響曲第11番を発表するなど精力的な活動を続け、25日に読売日本交響楽団で初演される最新作「バイオリンと三味線のための二重協奏曲」を完成させたばかりだった。

       代表作に「ライフ・ミュージック」「ピアノ・メディア」、11曲の交響曲、6曲のピアノ協奏曲、オペラ「光」「愛の白夜」など。神奈川芸術文化財団芸術総監督を長く務め、18年に文化勲章を受章した。

       1950年代後半から一時期、芸術家のオノ・ヨーコさんと結婚していた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20221008-OYT1T50187/

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    2. 現代音楽の作曲家 一柳慧さん死去 前衛的作曲で世界的に評価
      2022年10月8日 16時42分

      現代音楽の作曲家として数々の前衛的な作品を発表し世界的にも高い評価を受けた一柳慧さんが、7日、東京都内の病院で亡くなりました。89歳でした。

      一柳さんは神戸市の出身で、高校生のときに毎日音楽コンクールの作曲部門で2度、1位を獲得して、10代で作曲家として鮮烈なデビューを飾りました。

      その後、19歳で渡米してアメリカの実験音楽の第一人者、ジョン・ケージに師事し、帰国後は五線譜ではなく、図形を用いた楽譜による作曲法を用いて創造性にあふれた作品を発表したほか、雅楽や伝統的な邦楽の楽器を独自の視点で捉え直して新たな可能性を開くなど、前衛的な作曲家の1人として活躍を続け、国際的にも評価を高めました。
      また、「光」や「愛の白夜」などオペラの作曲でも知られ、優れた現代音楽に贈られる「尾高賞」を5回、受賞しているほか、神奈川芸術文化財団の芸術総監督などを務めて現代音楽の普及にも力を注ぎ、2018年には文化勲章を受章しています。
      所属事務所によりますと、一柳さんは7日午後、東京都内の病院で亡くなったということです。89歳でした。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221008/k10013852951000.html

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  47. 名前は有名だが、曲がまったく頭に思い浮かばない、何も残っていない…

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  48. 漫画家 松本零士さん死去 85歳 「宇宙戦艦ヤマト」などの作品
    2023年2月20日 14時34分

    「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」など宇宙や冒険をテーマにした壮大なSF作品で知られる漫画家の松本零士さんが、今月13日、急性心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。85歳でした。

    松本零士さんは福岡県出身で、15歳のときに雑誌に投稿した漫画が掲載されてデビューし、その後、上京して本格的に漫画家の活動を始めました。
    1971年に雑誌に連載した「男おいどん」が人気を博すと、1974年にテレビアニメとして放送された「宇宙戦艦ヤマト」の制作に関わり、映画化もされるなど若者を中心に爆発的な人気を集めました。

    また、少年が列車に乗って宇宙を旅する「銀河鉄道999」や「宇宙海賊キャプテンハーロック」などはテレビアニメとしても放送され、松本アニメのブームを巻き起こしました。

    宇宙を舞台にしたロマンあふれる冒険活劇を独特の幻想的な絵柄で描く一方で、豊富な科学知識と取材にもとづいた宇宙船などの緻密な描写でも知られ、コックピットに整然と並ぶ計器類は「零士メーター」と呼ばれるなどその後のSF作品に大きな影響を与えました。
    また、陸軍のパイロットだった父親の戦争体験などをもとに「戦場漫画」と呼ばれるシリーズも半世紀にわたって書き続け、命の尊さを漫画を通じて訴えました。

    こうした功績で2001年に紫綬褒章を受章したほか、2010年には旭日小綬章を受章しています。

    また、海外でも高く評価され、2012年にはフランス芸術文化勲章を受章しています。
    松本さんは2019年11月に、イタリアを訪れていた際に体調を崩して病院に搬送され一時、集中治療室で治療を受けましたが、その後回復して日本に帰国していました。

    松本さんは今月13日、急性心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。

    85歳でした。

    【NHK「戦跡」特設サイト】松本零士さんが「戦場漫画」に託したこと
    【NHK 人物録】松本零士さん
    【NHK 戦争証言アーカイブス】「偉大なる先輩 手塚治虫との出会いと別れ」

    零時社「『遠く時の輪の接する処で、また巡り会える』と信じる」

    松本零士さんの漫画制作スタジオ、零時社はTwitterで「漫画家松本零士が星の海に旅立ちました 漫画家として物語を描き続けることに思いを馳せ駆け抜けた幸せな人生だったと思います 『遠く時の輪の接する処で、また巡り会える』と松本は常々申しておりました 私たちもその言葉を信じその日を楽しみにしています」などとするコメントを発表しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230220/k10013985711000.html

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    1. 【松本零士さん死去】ちばてつやさん「体中の力が抜けていく」
      2023年2月20日 18時26分

      「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」など宇宙や冒険をテーマにした壮大なSF作品で知られる漫画家の松本零士さんが今月13日、急性心不全のため亡くなりました。85歳でした。

      親交のあった漫画家などから惜しむ声が相次いでいます。

      ちばてつやさん「体中の力が抜けていくよ」

      松本零士さんと長年親交のあった漫画家のちばてつやさんは、公式ホームページに追悼メッセージを掲載しました。

      (メッセージ全文)
      「松本零士さんが高校を卒業して北九州の小倉から上京したばかりのツメエリ姿、当時19歳の彼と出会って60年以上が経ちました。ワシもデビューした翌年の18歳。同じマンガ家の卵、トシが近いせいもあって意気投合、本郷三丁目にあった西陽差し込む4畳半の彼の下宿にはよく遊びに行ったものです。二人ともまだ稼ぎも少なく満足に食べられなくてね。松本さんはよく『座布団のようなビフテキを食べたい!』なんて言いながらマンガを描いていました。二人そろって締め切りに追われ、同じ旅館にカンヅメにされて一緒に机を並べて仕事をしたものです。当時からワシは遅筆だったので、先に原稿を終わらせた彼に手伝ってもらうこともありました。忙しい盛りの40歳の頃に、一緒に世界旅行にも行きました。その時に訪れたアマゾン川やマチュピチュの遺跡などはいちばんの思い出です。海外で体調を崩し、中々調子が戻らないとは聞いていて、ずっと心配していたのですがまさか…言葉もありません。ここ数年、親しいマンガ家仲間が次々と旅立って淋しい思いをしていたのに、君も逝ってしまったのか。もう…体中の力が抜けていくよ」

      声優 野沢雅子さん「楽しい旅を続けてください」

      アニメ「銀河鉄道999」で主人公・星野鉄郎の声を演じた声優の野沢雅子さんは「松本先生とは銀河鉄道999の全国縦断イベントで本当にいろいろなところにご一緒させて頂きました。気さくでお話が上手、山口では車掌さんの制服を着てとても喜んでいらっしゃったお姿を昨日のことのように思い出します。劇場版を録る時にはスタジオにいらして下さって、いいですね~と仰って下さるので私たちもとても演りやすくて・・優しい方でした。お会いするといつも『そのうち999で何かやりましょうね』と仰られていて、またご一緒出来るのを楽しみにしていたのですが、叶わなくなってしまい寂しい気持ちでいっぱいです。既に車掌さんが999号で待ってると思いますので、どうか一緒に楽しい旅を続けてください」とコメントを出しました。

      声優 池田昌子さん「私の一生の宝物」

      アニメ「銀河鉄道999」でメーテルの声を演じた声優の池田昌子さんは「あまりにも突然のことで何と言っていいものか、言葉が出てまいりません。松本先生にはただただ感謝を申し上げるしかありません。先生と一緒に旅ができたことは私の一生の宝物です。出来ることならもう一度お会いしたかった。心よりお悔やみを申し上げます」とコメントを出しました。

      歌手 ささきいさおさん「作品の心を大切に歌っていく」

      「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」などのテレビアニメで主題歌を歌った歌手のささきいさおさんは、松本零士さんが亡くなったことを受けてコメントを出し、「果てしない夢をいだきながら、宇宙に旅立たれたことと思います。ご存命中は、色々とご指導いただき、有難うございました。これからも作品の心を大切に歌っていきます」などと死を悼んでいました。

      漫画家 里中満智子さん「大きな柱の1本でした」

      松本零士さんと長年親交があった漫画家の里中満智子さんは「漫画家にとって大切なことを形で示してくれた大きな柱の1本でした」と語りました。

      里中さんは中学生のころから松本さんの作品を読んでいたということで、「私がこの道に進もうというきっかけのひとつでした。すばらしい作品のひとつひとつが自分を育ててくれました。改めて、ありがとうございましたと伝えたいです」と振り返りました。

      そして、里中さんは「漫画家は、自分だけのものを描かなければいけないと強く意識することが大切で松本先生はそれを形で示してくれた本当に大きな柱の1本でした。松本先生自身がすごくロマンチストで、夢みる少年みたいな感じで、それがそのままキャラクターに反映されていました。国境や民族を超えて感じるロマンみたいなものでだからこそ色あせないし、これからも廃れないと思います」と話していました。

      そして、「松本先生の作品をどう生かしていくのか、どう残していくのかは、私たち世界全体の使命だと思うので、きっちりと守っていきたいと思っています」と話していました。

      元宇宙飛行士 山崎直子さん「これからも見守ってください」

      「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」など、松本零士さんの作品が最初に宇宙に興味をもつきっかけとなったという元宇宙飛行士の山崎直子さんはNHKの取材に対し、「とても残念で、悲しい気持ちでいっぱいです。松本さんはいつも未来の少年少女への教育に力をいれておられた。私もその遺志を引き継いで次世代につなげていきたいと思う。宇宙に帰られた松本さんに祈りをささげたい。これからも宇宙から私たちを見守ってください」と話していました。

      ふるさと 北九州市では

      松本零士さんが育った北九州市の小倉駅には、代表作「銀河鉄道999」のキャラクターの像が設置されていて、駅を利用する人からは松本さんの死を悼む声が聞かれました。

      北九州市を訪れた大阪府に住む50代の女性は「子どもの頃から見ていた作品でした。松本零士先生の描いた女性のキャラクターは強くて憧れでした。昔から知っている作家が亡くなってさみしいですが作品はいろんな形で残っていってほしいです」と話していました。

      横浜市に住む夫婦は「北九州には松本零士先生の作品がラッピングされているモノレールやキャラクターの像があるのが印象的です。大先生と呼ばれる人が亡くなってさみしいですがご冥福をお祈りします」と話していました。

      福岡県行橋市に住む60代の男性は「とても残念です。これからもいい漫画を描いてほしかったです」と話していました。

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    2. 長年活動した東京 練馬区では

      松本零士さんは、故郷の福岡県から上京したあと、東京 練馬区で長く活動し、数多くの作品を生み出してきました。

      平成20年には名誉区民に選ばれ、平成27年には大泉学園駅の前に「銀河鉄道999」に登場するメーテルと鉄郎の銅像が設置されました。

      訃報が伝えられた20日、銅像には、花や松本さんの作品に登場する銃のおもちゃが添えられ、銅像を撮影する人の姿も多く見られました。

      このうち、34歳の男性は「日本のアニメや漫画の礎を築いた地元の偉大な方なので、追悼の意も込めて写真を撮りました。地元のお祭りにも参加してみんなに愛されていました。『本当にお疲れさまでした、ありがとうございました』と伝えたいです」と話していました。

      また、45歳の女性は「子ども心に、美しい絵と壮大なストーリーにひかれました。銅像の除幕式の時に先生の姿を拝見し、練馬区、大泉の希望、星のような素敵な先生でした。どうぞ安らかにゆっくりしてほしいです」と話していました。

      57歳の男性は「訃報に驚き、何も考えずにここに来てしまいました。昔、漫画家を目指していた時に、『弟子入りさせてください』と手紙を書いたら、奥様から返事をいただき、まだ若いということで断られてしまいました。作品から、人生で大事なものをいただいた気がします」と話していました。

      名誉館長務めた「北九州市漫画ミュージアム」では

      松本零士さんは、「北九州市漫画ミュージアム」で2012年の開館当初からおととし6月までの9年間、名誉館長を務めました。

      漫画ミュージアムは漫画やアニメといったサブカルチャーの発信拠点を目指そうと北九州市が整備した施設で、館内には松本さんの作品を特集するコーナーも設けられています。

      北九州市漫画ミュージアムの専門研究員、表智之さんは「松本零士先生には、施設の計画段階から大変お世話になったのでたくさんのご恩と思い出があります。突然の訃報で一同、心を痛めています。作家としての原点が北九州市の小倉にあるということで、小倉の思い出をいつも熱く語っている姿が印象に残っています」と話していました。

      また、松本零士さんの功績について、「SFを題材とした漫画が世界的に人気を博す、その道筋を作ったのは間違いなく松本零士先生です。海外からいらっしゃるお客さんが松本先生を記念するコーナーで非常に感激して涙を流していることもありました。松本先生が残した功績や北九州に対しての熱い思いを受け止めて運営しているので引き続き漫画文化の振興に努めたいです」と話していました。

      松野官房長官「心から哀悼の意を表したい」

      松野官房長官は、20日午後の記者会見で、「戦後日本を代表する漫画家の1人として、海外でも人気を博す優れた作品を生み出した松本さんのご逝去に際し、心から哀悼の意を表したい」と述べました。

      中国からも追悼の声

      中国の一部のメディアも漫画家の松本零士さんが、今月13日に亡くなったことを伝えています。

      このうち、中国のネットメディア「澎湃」は「日本の国宝級漫画家、松本零士さんが病気で亡くなった」とする見出しで、「漫画の創作と同時に、天文学、考古学、武器、戦争史などの方面で、大きな成果をあげた」などと伝えています。

      また、ほかの中国メディアも「日本のSF漫画の先駆者だった」などと伝えています。

      中国版ツイッター「ウェイボー」でも「ご冥福をお祈りします」とか「銀河鉄道999」のキャラクター、メーテルのセリフをもじって中国語で「私はあなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影」などと松本さんの死を悼むコメントが書き込まれています。

      韓国でも大きく報じられる

      漫画家の松本零士さんが亡くなったことは韓国でも大きく報じられています。

      韓国では松本さんの作品のうち、1980年代にテレビアニメとして放送された「銀河鉄道999」が最も知られています。

      当時は日本の大衆文化が開放される前でしたが、テレビアニメは多くの人気を集めました。

      作品の発表から40年がたった2017年には、原画などを紹介する展示会がソウルで開かれ、松本さんも会場を訪れてファンと交流しました。

      通信社の連合ニュースは松本さんについて「1970年代から80年代にかけての韓国と日本のアニメブームを牽引した」と、功績を伝えています。

      「人は生きるために生れて来るのだ」

      松本零士さんは2019年に、旧陸軍の大刀洗飛行場の跡地の近くにある福岡県筑前町の大刀洗平和記念館で講演を行いました。
      松本零士さんの父親は、福岡県にあった旧陸軍の大刀洗飛行場でパイロットとして勤務していました。

      父親は、のちにフィリピンの戦線に派遣。

      教育隊長として若者を特攻に送り出しました。

      そして、終戦の2年後、生きて帰国しました。

      松本さんは、2019年に大刀洗平和記念館で行った講演で「終戦後、父は、『あんたはなぜ生きて帰れて、部下だったせがれを連れて帰ってこなかったんだ』といろいろな人に言われ、父は深々と頭を下げて『すまん』と言っていた。くどいくらい言われたのは、もうこのような戦いを二度とやってはダメなのだということ。なぜこんなに多くの人が死んだのかと、さんざん聞かされました」と話していました。

      そして、父親が語ったという「人は死ぬために生れて来るのではない。生きるために生れて来るのだ」という直筆のメッセージを寄贈しました。

      松本さんが講演した当時のことについて、大刀洗平和記念館の岩下定徳事務長は「人柄は非常に穏やかな方でした。講演会では自分の生い立ちや特に平和や戦争に対する気持ちをとうとうと語られていて、非常に強い思いがあると感じました」と振り返りました。

      そのうえで、「寄贈されたメッセージにあるような思いを発信し続けたかったのだろうと思います。今後は私たちがその思いを語り継いでいかないといけない」と話していました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230220/k10013985851000.html

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  49. ノーベル文学賞 大江健三郎さん 死去 88歳
    2023年3月13日 20時40分

    現代日本を代表する小説家で、日本人として2人目のノーベル文学賞を受賞した、大江健三郎さんが、今月3日、老衰のため亡くなりました。88歳でした。

    大江さんは、1935年、現在の愛媛県内子町で生まれ、東京大学在学中に発表した作品「奇妙な仕事」で注目を集めたあと、1958年には「飼育」で芥川賞を受賞しました。

    そのあとも数々の文学賞を受賞し、新しい世代の作家として、戦後の日本文学界をリードしました。

    そして1994年、川端康成に続いて、日本人としては2人目となるノーベル文学賞を受賞しました。

    核兵器や平和の問題に対しても、文学者の立場から向き合い、広島で取材した被爆者や医師の姿を描いた「ヒロシマ・ノート」は、ベストセラーになりました。

    また、憲法改正に反対する「九条の会」や、脱原発を訴えるデモの呼びかけ人として名を連ねるなど、社会問題に対しても積極的に取り組み、発言を続けてきました。

    講談社によりますと、大江さんは今月3日未明、老衰のため亡くなったということです。88歳でした。

    大江さんの次男「最期は穏やかに」

    大江健三郎さんの次男は「最期は穏やかに息を引き取りました。生前のご厚情に感謝申し上げます」と話していました。

    大江健三郎さん 生前に語った憲法と平和への思い

    大江健三郎さんは、小説を書き始めた20代の頃から、「自分は戦後民主主義者である」として、自分自身の考え方の根底に日本国憲法があると発言してきました。

    戦後70年を迎えた2015年10月のノーベル平和賞の発表日、大江さんは、東京の自宅でNHKのインタビューに応じ、憲法と平和への思いを語りました。

    このうち、2004年に結成された憲法改正に反対する「九条の会」に発起人として加わった理由については、「平和憲法、民主主義の憲法というものを放棄し、改めて別の憲法をつくろうという動きが日本人の中にある。それを押しとどめ続けなければいけないと、その時考えました。それからずっと今現在に至るまで、その考え方を持っています」と語っていました。

    そして、憲法9条がノーベル平和賞の候補として海外からも注目されたことについて、「私たちの憲法9条というものに非常に高い評価を与えてくださること、そして、日本がこの戦後70年、戦争をしなかったことが、どんなに大切かということを、はっきり認めようとする外国からの動きがあるということは、非常に心強いことだと思う。たとえ実際に賞をもらえなくても、人々の関心の中に日本の平和憲法というものがあるということだけでも、自分は非常に励まされることだと考えています」と語っていました。

    谷川俊太郎さん「同じ世代で大きな仕事をした人 寂しいです」

    大江健三郎さんと親交のあった詩人の谷川俊太郎さんは、「私は大江さんのデビュー作から読んでいました。私とは作風が違いますが、すごく勉強家で知識がたくさんある人でした。私と同じ世代の人で、大きな仕事をした人なので寂しいです」と話していました。

    平野啓一郎さん「本当に残念 もっとお話ししたかった」

    大江健三郎さんと親交のあった作家の平野啓一郎さんは、ツイッターに「本当に残念でなりません。大江さんが活躍されていた時代に、小説家としてデビューして、謦咳(けいがい)に接したことは、掛け替えのない経験でした。もっとお話ししたかったです」と投稿し、死を悼みました。

    山田洋次さん「羅針盤を失ったような気持ち」

    大江さんと親交があった映画監督の山田洋次さんは「物事を考える上で正しい指針を与えてくれる人がいなくなってしまった不安と悲しみに包まれています。加藤周一さんと大江健三郎さんの存在が長い間日本人にとってどれほど大切だったかを思いつつ、今大江さんを失うことが、現在のような混沌としたこの国の、さらに世界の状況にとって大きな損失だということを考えます。心ある日本人にとって、羅針盤を失ったような気持ちではないでしょうか」とコメントを出しました。

    芥川賞受賞 佐藤厚志さん「計り知れないものを残してくれた」

    ことし芥川賞を受賞した仙台市出身の書店員、佐藤厚志さんは、大学の入学直後に読んだ大江さんの文学論を読んで、小説家になることを意識するようになったといいます。

    佐藤さんは「『小説のことばは、日常で使うことばとは違う』ということを大江さんの著作で初めて知って、小説を書く側になるということを意識した。事実を伝えるだけでは見過ごされてしまうような感情を、小説ではすくうことができるという自分の作家としての考えは、大江さんの著作がベースになっている」と話していました。

    そのうえで「いつか会いたいと思って小説を書き続けていただけに、ショックで悲しい。大江さんは私たちに計り知れないものを残してくれたと思う。私もこれからも小説を書き続けて、後の世代に作品を残していけたら」と話していました。

    日本被団協 木戸事務局長「被爆者にとっても大きな存在」

    日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の木戸季市事務局長は、NHKの取材に対し、「『ヒロシマ・ノート』に代表されるように、大江さんは消えることはなくむしろ大きくなっていく被爆者の身体や心の苦しみ、悩みに向き合い、本当に理解されていたからこそ被爆をテーマとした作品が書けたのだと思う。被爆者への支援拡充や被爆体験を伝え継ぐ活動にも力を貸していただき、被爆者にとっても大きな存在だった」と話していました。

    広島原爆資料館 原田元館長「広島に思い入れを持っていた」

    原爆資料館の元館長で被爆者の原田浩さんは、館長在任中の1995年に、大江健三郎さんに館内を案内しました。

    大江さんの訃報に接し、原田さんは「ずいぶん広島に対して思い入れを持っていらっしゃったので、残念としか言いようがない」と惜しみました。

    原爆資料館を案内した際の大江さんの様子について、「熱心に展示をご覧になりましたが、それ以上に印象に残っているのは、私の被爆体験をぜひ聞きたいと言われ、お話ししたことです。非常に大きな衝撃を受けられたのではないかと思います。核心に触れる部分を心に受け止めて、お帰りになられたのではないかと思う」と振り返っていました。

    そのうえで原田さんは、「大江先生の残されたいろいろなメッセージを、少なくとも日本は受け止めて、今の世界情勢に向けて取り組む姿勢を持ってほしいという気持ちでいっぱいです」と話していました。

    核兵器廃絶目指す市民団体 森瀧春子さん「存在の大きさ実感」

    核兵器の廃絶を目指す市民団体の顧問を務める森瀧春子さんは、2014年に大江健三郎さんの講演会を開催しました。

    大江さんの訃報に接し、森瀧さんは、「本当に残念というか寂しい思いでいっぱいです。お会いしたのは2度くらいですが、私にとってはもちろん広島や国内外にとって大きな存在だった。失った存在の大きさを実感しています」と話していました。

    大江さんは、森瀧さんの父で核兵器廃絶運動の先頭に立ち続けた森瀧市郎さんとも交流がありました。

    森瀧さんは「大江さんは父のことを、1人の哲学者として被爆者として、父が思っていたことを深く理解してくれていた」と振り返りました。

    そして、「大江さんは、原爆が広島にもたらした人間的悲惨さを心から理解して表現してくれる存在だった。そのような大江さんの立場からもっともっと発信してもらいたかった」と話していました。

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    1. 沖縄タイムス 新川元社長「大きな存在だった人を失った」

      大江健三郎さんが亡くなったことについて、生前親交のあった、沖縄県の主要な地元紙、沖縄タイムスの元社長の新川明さん(91)が、NHKの取材に応じました。

      新川さんは、60年近く前の昭和40年に大江さんと講演会で出会って以来、親交があったということです。

      新川さんは、大江さんについて「沖縄に寄り添い、沖縄のことをヤマトゥの人たちに訴える非常に大切な役割を、『沖縄ノート』をはじめとする文筆活動の中でやってくれた」と話しました。

      そのうえで、「彼を尊敬し、親しみを感じていただけに、その死というものは僕にとって大きな喪失感を覚えさせる大変大きな出来事です。沖縄にとって大変大きな存在だった人を失ってしまった」と述べました。

      そして「本当はもう一度ゆっくり話をしたかったです。安らかにお眠り下さいと伝えたい」と悼みました。

      沖縄 集団自決を生き延びた人「存在が後押しに」

      大江健三郎さんが亡くなったことについて、沖縄県の渡嘉敷島で起きたいわゆる「集団自決」を生き延び、みずからの過酷な体験を語ってきた吉川嘉勝さん(84)は、「ご高齢でしかたがないことかもしれませんが、『集団自決』のことを著書で断じてくださり、全国的に広く知れ渡るきっかけを作ってくれたことに感謝しています」と述べました。

      さらに吉川さんは、「大江先生の著者を読んだり講話などを聞いたりしたことで、自分の戦争体験について記してきたメモが記憶の再生となり、事実として検証されたようで、勇気をもらいました」と述べました。

      また、高校で使われる教科書の検定で『集団自決』に日本軍が関与したとする記述に検定意見がつけられた問題をめぐり、16年前に開かれた県民大会で意見を述べた時のことについて、「11万人の参加者の前で体験を話すことができたのも、先生の存在が後押しになった」と振り返りました。

      そして吉川さんは「先生がしてきたことを受け継ぎ、発信する人が出てきてくれるといいなと思います」と話していました。

      生まれ育った愛媛 内子町 交流ある住民グループの人は

      大江健三郎さんが生まれ育った愛媛県内子町の大瀬地区には、大江さんと30年以上交流がある地元の住民グループ「大瀬・村の会」があります。

      大江さんは、里帰りの際、このグループと食事会を開いたり、大江さんが親交のある音楽家などを招いて演奏会を開いたりして交流を深めてきました。

      グループの代表、折本正範さんは「亡くなったことが信じられず、いまもいつか大瀬に帰ってきてくれるような気がしています」と涙ながらに取材に応えていました。

      そして、「大江さんのおかげでさまざまな人たちと出会い交流することができ、世界を広げてくれました。大瀬の誇りです。本当にありがとうございますと伝えたいです」と話していました。

      松山 大江さんの母校では

      大江健三郎さんが卒業した松山市の松山東高校には、大江さんが在校中に刊行していた文芸部の雑誌が保管されています。

      雑誌は「掌上」(しょうじょう)という名前で、大江さんがみずからの詩や文芸評論などを掲載していたということです。

      学校の資料館には雑誌のほか、大江さんの直筆の原稿も保管されていて、当時の雰囲気が伝わってきます。

      「掌上」は今も高校で刊行が続けられているということです。

      2年生で文芸・俳句部に所属する田邊広大さんは、「大江さんの背中を見てきたので、大きな喪失感があります。人の心に対するアプローチや考え方をリスペクトしていました。今も同じ雑誌を刊行していることに重みを感じています」と話していました。

      また、2年生の野本帆希さんは、「同じ高校に通っていたことを誇りに思って、偉大な先輩を目指して、いつかは超えられるように頑張りたいと思います」と話していました。

      和田真志校長は、「日本にとって大きな財産であり、本校にとっても偉大な先輩を失ったことは非常に残念です。今後も大江さんの考え方や心のありようを、生徒たちには後輩であるからこそ身近に感じて、たどってもらえたらと思います」と話していました。

      「大江健三郎文庫」設立準備進めてきた東京大学でも悼む声

      大江健三郎さんからあわせて1万枚を超える自筆原稿などを寄託され、「大江健三郎文庫」の設立に向け準備を進めてきた東京大学でも悼む声が聞かれました。

      東京大学文学部では、おととし1月、大江さんの自宅や出版社に保管されてきた1万枚を超える自筆原稿や、本の出版過程で校正に使われた「ゲラ」などおよそ50点が寄託されています。

      自筆原稿には初期作から代表作、それに近年の作品まで含まれ、推こうのあとなどをうかがい知ることができる貴重な資料だとして、東京大学ではことしの夏ごろに原稿などをデジタル化した上で大学の構内に「大江健三郎文庫」を設立できるよう準備を進めてきました。

      完成すれば世界中の文学研究者のほか、大江さん自身にも見てもらうことが想定されていたということです。

      準備を進めてきた東京大学文学部の阿部賢一准教授は、「大江さん自身にも見てもらいたかったので、それがかなわず残念な思いです。キャリアが長い作家で、1950年代から21世紀に入っても活躍されていた。長い間、非常にコンスタントに作品を発表されていて、日本だけではなく世界においても限られた存在だった。大江健三郎という作家が書いた原稿は永遠に残るので、次の世代に伝えていくことが大江さんからのメッセージだと考えています」と話しています。

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    2. 大江健三郎の文学と社会的活動

      大江さんは若いときから新たな時代の作家として文壇に注目された存在でした。

      東京大学在学中の1957年、大学新聞に掲載された作品「奇妙な仕事」が文芸評論家の目にとまり、「死者の奢り」や「飼育」を発表。

      1958年に「飼育」で23歳の若さで芥川賞を受賞し、日本の戦後文学界をリードする存在として意欲作を発表し続けてきました。

      大江さんは、自身の人生や経験を投影した作品を生み出してきました。

      出身地の愛媛県内子町の山あいにある小さな集落の風景は、何度も、大江さんの小説の舞台のモデルとなってきました。

      さらに大江さんの文学に大きな影響を与えたのが、生まれつき障害がある長男の光さんでした。

      光さんが生まれた翌年に発表した小説「個人的な体験」では、障害児の父親としての心の葛藤を描き、その後も、障害をモチーフにした作品を書いてきました。

      また、
      ▽安保闘争で挫折した男や障害児を出産した女など、日本の戦後世代を克明に描いた「万延元年のフットボール」や、
      ▽イギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクの詩を交えながら障害児の成長を描いた「新しい人よ眼ざめよ」など、
      魂の救済や障害者との共生をテーマにした作品を次々と発表してきました。

      大江さんの文学は日本だけでなく、世界的にも高く評価され、1994年に川端康成に次いで日本人として2人目となるノーベル文学賞を受賞しました。

      受賞理由は「詩的な言語を使って現実と神話の入り交じる世界を創造し、窮地にある現代人の姿を見る者を当惑させるような絵図に描いた」というものです。

      ノーベル賞受賞の記念講演では、川端の講演のタイトル「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」と題して日本や文学への思いを語り、話題となりました。

      その後も、
      ▽新興宗教をテーマにした「宙返り」や、
      ▽親交のあった映画監督の伊丹十三さんの死をきっかけに執筆した「取り替え子」など、
      次々と話題作を発表し、長年にわたって第一線で活躍してきました。

      また、大江さんは文学者の立場から核兵器や平和の問題に向き合ってきたことでも知られています。

      広島で行った当事者への取材をもとに被爆者や治療にあたる医師の姿を描いたルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」はベストセラーになりました。

      2004年には憲法改正に反対する「九条の会」を井上ひさしさんらと立ち上げたほか、東日本大震災後には脱原発を訴えるデモを呼びかけるなど、社会的な発言も積極的に行っていました。

      海外メディア 功績など伝える

      大江健三郎さんの死去について海外メディアも生前の功績などを伝えています。

      このうち、アメリカのニューヨーク・タイムズの電子版は「大江氏はその強力な小説やエッセイを通して、日本が20世紀の軍国主義の教訓をしっかり学ぶようにと努めた作家であり、戦後の批評家だった」とする記事を配信しました。

      そして「ノーベル文学賞を受賞した大江氏は、現代の日本文化が第2次世界大戦の惨禍を招いたのと同じ思想に危険なほど傾いていると感じ、強烈な文学と挑戦的な政治活動で挑んだ」と指摘し、平和主義を掲げた代表的な論客だったと評しました。

      AFP通信は大江さんについて「権利を奪われた人々を擁護し、現代社会の同調性に異議を唱えた作家が亡くなった」と伝えました。

      そのうえで「平和主義者で反核の思想で知られる大江氏は第2次世界大戦で大きな傷を負ったが、再生への希望に満ちている世代の一員とみずからを位置づけていた」としています。

      ロシア国営のタス通信は「大江氏は現代の巨匠の1人とみなされていて、その作品はロシア語など世界中のいくつもの言語に翻訳されている。『ヒロシマ・ノート』を発表するなど、核兵器に反対し、人権のために闘った人物だった」と伝え、功績をたたえました。

      韓国メディア 速報で伝える

      大江健三郎さんの死去について韓国メディアは日本のメディアの報道を引用して速報で伝えました。

      通信社の連合ニュースは、大江さんが憲法改正に反対する「九条の会」に加わったことを紹介しながら「社会問題に参加する知識人として尊敬されていた」と報じました。

      また、夕刊紙の文化日報は「日本の知識人の象徴であり、平和憲法の守護者として、人間本来の不安やとまどいの中にも絶えず希望を見いだそうとする作家として評価された」と伝えました。

      中国 死を悼むコメントがネット上に

      中国では国内メディアが大江健三郎さんの死去を伝えるとともに、死を悼むコメントがインターネット上に書き込まれています。

      このうち、夕刊紙「新民晩報」は「大江氏の文章は政治や核エネルギーの危機、それに死と再生など、広い視野とヒューマニズムの精神で書かれている」と伝えました。

      そのうえで「大江氏のたくさんの作品が中国語に翻訳された。大江氏は何度も中国を訪れ、2009年には北京にある魯迅の昔の住まいと博物館を参観した」などと中国との関係の深さを紹介しています。

      中国版ツイッター「ウェイボー」には「大江さんは私が最も好きな日本の作家だった」とか「『ヒロシマ・ノート』を読んだときのことをまだ覚えている」などと大江さんの死を悼むコメントが相次いで書き込まれています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230313/k10014006861000.html

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    3. ノーベル賞作家の大江健三郎さん死去、88歳…戦後民主主義世代の旗手
      2023/03/13 15:08

       現代の人間の生きる形を見据え、戦後民主主義世代の旗手として活躍したノーベル文学賞作家の大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)さんが3日、老衰のため病院で死去した。88歳。告別式は近親者で済ませた。喪主は妻、ゆかりさん。

       1935年、愛媛県大瀬村(現・内子町)生まれ。日米開戦の年に国民学校に入学し、9歳で父親を亡くした。幼少期を過ごした森の谷間の村のイメージと、終戦とともに学校教育が軍国主義から民主主義的なものに切り替わった体験が、文学上の原点となった。

       同県立松山東高を卒業後、東京大に入学。仏文科在学中の57年、「奇妙な仕事」で文壇デビューし、翌年、「飼育」で芥川賞を受賞した。「芽むしり 仔こ 撃ち」「性的人間」など話題作を次々と発表し、戦後の新しい世代の文学の担い手として脚光を浴びた。

       60年、映画監督の伊丹万作の長女で、伊丹十三の妹、ゆかりさんと結婚。長男の 光ひかり さんが障害を負って生まれたことをモチーフに64年、「個人的な体験」を刊行した。障害を持つ人との「共生」を模索した。

       67年の「万延元年のフットボール」(谷崎潤一郎賞)や73年の「洪水はわが魂に及び」(野間文芸賞)では、安保闘争や連合赤軍事件など同時代の出来事に触発されながら、文学を通して現代の世相や人間の再生を探った。その後も、現代人の魂の救済を主題とした「『 雨の木レイン・ツリー 』を聴く女たち」(読売文学賞)、「新しい人よ 眼め ざめよ」(大佛次郎賞)などを執筆した。

       「現代の人間の様相を衝撃的に描いた」として94年、川端康成に続き日本人2人目のノーベル文学賞を受賞。「あいまいな日本の私」の題で受賞講演をした。

       社会的な発言を積極的に行い、ルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」などを出版。2004年、憲法9条の堅持を求める「九条の会」の呼びかけ人となった。

       05年には、大江さんが一人で選考をする文学賞「大江健三郎賞」を創設。受賞作の翻訳を進め、現代日本文学の海外紹介に努めた。13年には「 晩年様式集イン・レイト・スタイル 」を刊行した。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230313-OYT1T50135/

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    4. 生き方そのものに裏づけられた大江文学、読者に大きな感動…大江健三郎さん死去
      2023/03/13 16:22

       ノーベル文学賞作家の大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)さんが3日、老衰で死去した。

       日本文学史に残る名作を残した大江健三郎さんは、「書く」ことと同時に何より「読む」ことを大切にした人だった。ただ読むのではない。「真面目な読者とは、『読みなおすこと』をする読者のこと」と語り、決めた本を何度も読んだ。

      ノーベル賞授賞式で賞状を手にする大江さん=1994年12月撮影

       その原点は、愛媛県の田舎で育った子ども時代にある。戦中から戦後の厳しい時代、母が手に入れた「ニルスのふしぎな旅」と「ハックルベリー・フィンの冒険」の2冊を読みふけり、物語の楽しさに目覚めた。

       松山での高校時代、フランスのルネサンス文化を語る渡辺一夫の著作に感銘を受け、著者が教える東大で仏文学を学ぶ決意をした。上京後は国内外の文学作品に浸り、創作を始めた。

       <死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている>

       初期作品「死者の 奢おご り」の一節だ。生硬でイメージ豊か。読んだ言葉が、文学の言葉となり自らの体からあふれ出したかのようだ。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230313-OYT1T50140/

       英国のエリオットやブレイクの詩、ロシアの批評家、バフチンの文芸理論、米国の思想家、サイードの思想書。海外の数多くの書物に影響を受け、時に難解と言われながら執筆を続けた。

       東京・成城の自宅を取材で訪れた2014年。和洋の書が詰まった本棚を背に、大江さんは、「本を読み、書くうちにそれが習慣になり、経験が積み重なって困難を乗り越えさせる。その経験が自分という作家を作り、人間を作ったのです」。刊行したばかりの岩波文庫の自選短編集の本の背を愛おしそうに何度もなでながら振り返った。

       戦争の時代に幼年期を送った大江さんは、戦後の新しい時代を生きる際、武張ったことから最も遠い本を読み、書き、文学に導かれて生きることを自分の生のスタイルとして選んだ。障害を持った長男の誕生と共生、親友で義兄の映画監督の伊丹十三の突然の死、核兵器の恐怖や戦争が絶えない現代への憤り。様々な困難を、読み、書く生活を続けることで乗り越えた。

       「個人的な体験」「万延元年のフットボール」。大江文学が大きな感動を与えるのは、生き方そのものに裏づけられているからだ。その作品群は、次の世代に読み継がれることを待っている。(文化部 待田晋哉)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230313-OYT1T50140/2/

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    5. 長男・光さんとの暮らし「創作の礎」に…大江健三郎さん、人類の倫理と共生を問う作品紡ぐ
      2023/03/13 21:36

      ノーベル賞授賞式のため訪問したストックホルムで、散歩を楽しむ大江健三郎さん(左)と息子の光さん(中央)、ゆかり夫人(1994年12月5日撮影)

       世界の文学の第一線で執筆した日本人2人目のノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが3日、死去した。障害を抱えた長男、 光ひかり さんと暮らし続けた作家は、その一個人の経験をもとに、人類全体の倫理と共生を広く問う作品を紡ぎ続けた。

       23歳で芥川賞を受賞し、華々しく文壇に登場した。若き作家の人生を大きく変えた出来事は1963年、28歳のとき。頭部に異常を抱えた光さんの誕生だった。

       「手術を生き延びうるかどうかわからない」。生後間もなく医者に言い渡された。悩んだ末に、「光に向けての希望」との思いを込めて「光」と名づけた。長男が誕生した年の夏、広島を訪れ、原爆の厳しい被害と核兵器廃絶を願う人々と向き合った。長男との共生、さらには多くの困難を抱えた人類の魂の救済が大江文学の主題となった。

       大江さんに、人生で最も大きな喜びをもたらしたのも光さんだ。幼い光さんを肩車して、林の中に立っていたときのことだ。美しい声で鳥が鳴いた。

       「クイナです」

      ノーベル賞授賞式で賞状を手にする大江さん(1994年12月10日、スウェーデンで撮影)

       鳥のテレビ番組やテープを日課のように聞いていた光さんが答えた。これを機に音楽の才能を見いだされた光さんは、曲を作るようになり、92年にCD「大江光の音楽」を出した。ノーベル文学賞を94年に受賞した際には、授賞式のあるスウェーデンのストックホルムに光さんを伴った。

        訃報ふほう に接した同世代の文学者たちからは、世界的に活躍した作家を悼む声が相次いだ。

       映画評論家の蓮實重彦さん(86)は、「ただひたすら悲しいだけだ。大江さんの死は、日本だけでなく、世界文学にとっての損失。最近のノーベル賞受賞者とは全く質の異なる散文家で、このような作家はもう出てこないだろう」と語った。詩人の谷川俊太郎さん(91)は、「膨大な作品を書くという行為だけで社会や人とつながっている孤独な作家で、時代の雰囲気を作った人だった」と悼んだ。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230313-OYT1T50185/

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    6. 自分のことを棚に上げて、「人類全体の倫理と共生を広く問う」スタイルを貫くのは大層ご立派なことなんだろうな。「地上の楽園」プロパガンダの片棒どころか両天秤をフルに担いで多くの人々を地獄に送り込んでしまった罪は歴史の忘却の彼方に消し去れるわけがないではないか。「脚気菌」感染症の思い込みに引きずられて軍隊に所属する多くの人々を栄養障害であの世に送った森林太郎(森鴎外)の罪に匹敵するだろう。けっして埋もれさせてはいけない史実であり、忘れてはいけない歴史である。

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  50. 「地上の楽園」幻想(プロパガンダ)をふりまいたことに対する悔悟や懺悔、総括をせぬまま、あの世にいってしまった感。

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    1. 「大江健三郎 地上の楽園」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E+%E5%9C%B0%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%A5%BD%E5%9C%92

      大江健三郎「自分には帰るべき朝鮮がない」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E+%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AB%E3%81%AF%E5%B8%B0%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84

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  51. イトーヨーカ堂創業者 伊藤雅俊氏死去 セブン&アイの礎築く
    2023年3月13日 19時06分

    大手スーパー「イトーヨーカ堂」の創業者で、総合スーパーやコンビニエンスストアなどを傘下に持つ「セブン&アイ・ホールディングス」の礎を築いた、伊藤雅俊名誉会長が、3月10日に亡くなりました。98歳でした。

    伊藤氏は、昭和33年に家業の洋品店をもとに、イトーヨーカ堂の前身となる衣料品店「ヨーカ堂」を東京 足立区に設立し、社長に就任しました。

    その後、アメリカのスーパーマーケットを参考に、品ぞろえを食品や生活用品にも広げて総合スーパー事業に乗り出し、社名を「イトーヨーカ堂」に改めました。

    また、ファミリーレストランの「デニーズ」やコンビニエンスストアの「セブン‐イレブン」といった幅広い事業展開にも着手し、イトーヨーカ堂が国内有数の流通グループである「セブン&アイ・ホールディングス」となる礎を築きました。

    伊藤氏は平成4年、社員による総会屋への利益供与事件の責任をとって社長を辞任しました。

    平成17年にはセブン&アイ・ホールディングスの名誉会長になり、経営の一線から退いていました。

    会社によりますと、伊藤氏は老衰のため3月10日に亡くなりました。98歳でした。

    巨大流通グループの礎として

    今や国内有数の流通グループとなったセブン&アイ・ホールディングス。
    その礎を築いたのが伊藤雅俊氏です。
    洋品店から総合スーパーへ
    伊藤雅俊氏は、1958年に今のイトーヨーカ堂の前身となる「ヨーカ堂」を設立しました。

    その発祥は、伊藤氏の叔父が1920年に開業した洋服を扱う洋品店です。

    その後、事業を引き継いだ伊藤氏は、アメリカのスーパーマーケットを参考に総合スーパーの運営に乗り出します。

    1961年からはチェーン展開を進め、品ぞろえを食品や生活用品にも広げます。

    1970年には社名を現在の「イトーヨーカ堂」に改めて出店を拡大。

    最も多い時には182店舗を展開しました。
    商売の道は「最悪を考え、信用を第1に」
    戦後を代表する小売業界の経営者として一時代を築いた伊藤氏は、商売人として「信用」を何より大切にしてきたといいます。

    40年以上にわたり伊藤氏と親交があり、イトーヨーカ堂の社長も務めた亀井淳氏(78)は、訃報の一報を受けたあと、取材に対し、伊藤氏の経営哲学について次のように語りました。

    「『お客様は来てくださらないもの。銀行は貸してくださらないもの。取引先は商品を売ってくださらないもの。常に最悪の事態を頭に入れて、だからこそ信用が第一で誠実に行動するように』と教わりました」

    長年、グループの店舗開発を担い、時に数百億円という大きな投資を手がけることもありましたが、伊藤氏からは責任の大きさを十分理解するよう諭されたといいます。

    「『君たちは未来のための大事な投資をしているが、われわれは豆腐1丁、パンツ1枚という小さい商売の積み重ねで稼いだお金を使っていることを忘れないでほしい』と伊藤さんから指摘されました。『俺たちにできない店作りを君が進めてくれていることには感謝している』と励ましてもいただきました」

    スーパーからコンビニ 外食 総合流通グループへ

    伊藤氏は、グループとして新たなビジネスモデルも推し進めました。

    コンビニエンスストア事業の展開です。

    この時期、コンビニ事業を率いた部下の鈴木敏文 現セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問(90)のもと、アメリカで生まれたコンビニを日本に持ち込み、1974年から全国展開を開始。

    その後「セブン‐イレブン」は国内で2万店を超え、グループの中核事業に成長しました。

    現場重視を貫き 変化を

    消費者の変化に対応し、成長を模索し続けてきた伊藤氏。

    そこには、世代の垣根を越えて人の心をつかみ、ニーズをくみ取る人柄も大きく関わっていたといいます。

    スーパーの業界団体のあるベテラン職員は「自分が新人職員だった時に『頑張ってるか?』と声をかけてくれました。当時でも日本で1、2を争うスーパーの経営者にもかかわらず、若い職員に気さくに接してくれるんだと感じてうれしくなりました」と振り返っていました。

    前出の亀井氏も「社員とのコミュニケーションを大切にし、しょっちゅう聞き取りをしてはメモを取り、時代の変化を見ていたようです」と振り返ります。

    名誉会長となり経営の一線を退いたあとも、90代になるまでグループ内外の店を視察し、最新トレンドを吸収しようとするなど、どん欲な姿勢は健在だったと言います。

    かつて日本の小売業の隆盛を築いたイトーヨーカ堂ですが、設立から半世紀余りを経て、いま、大きな転機を迎えています。

    伊藤氏が亡くなる前日の9日には、イトーヨーカ堂をめぐり大幅な店舗の削減や、アパレル事業からの完全撤退など、合理化を一段と進める方針が示されました。

    伊藤氏は、みずからの著書「商いの道」の中で、「会社が大きくなると、経営者も、そこで働く社員も、冒険者たる魂を忘れ、リスクを怖れます。これでは会社に生気がなくなってしまいます。(中略)怖くても冒険心を持とうーそう私は考えるのです」と記しています。

    次の世代に残されたメッセージに映ります。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230313/k10014006761000.html

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  52. 千葉工業大学長の松井孝典氏が死去、77歳…宇宙探査の「ご意見番」
    3/24(金) 17:38配信 読売新聞オンライン

     政府の宇宙政策委員会で委員長代理を務めた千葉工業大学長の松井孝典(まつい・たかふみ)氏が22日、前立腺がんのため亡くなった。77歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は長男の悠氏。後日、同大がお別れの会を開く予定。

     静岡県森町出身。専門は地球物理学や比較惑星学など。東京大教授などを歴任し、1986年には海の誕生の解明に迫る「水惑星の理論」を発表した。2012~22年、宇宙政策委の委員長代理を務め、日本の宇宙探査や宇宙産業の推進に「ご意見番」として携わった。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/04005018c1e414c5545ff8b0bc08a0f66f56a54e

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    1. 松井孝典さん死去 77歳 地球の海の起源=小惑星衝突の理論提唱
      3/24(金) 20:17配信 毎日新聞

      松井孝典さん=東京都武蔵野市で2017年2月17日、北山夏帆撮影

       千葉工業大学長で、東京大名誉教授の松井孝典(まつい・たかふみ)さん(地球物理学専攻)が22日、前立腺がんのため死去した。77歳。葬儀は近親者で営む。千葉工業大は「お別れの会」を後日開く。喪主は長男悠(ゆう)さん。

      【追悼】大江健三郎さん、鮎川誠さん…今年亡くなった方々

       日本の惑星科学の第一人者。1986年、地球の水の起源を巡り、小惑星の衝突によって海が誕生したことを理論的に示した論文を英科学誌ネイチャーに発表した。NHKテレビ「地球大紀行」の制作に企画から携わるなど科学の普及にも力を注いだ。2007年「地球システムの崩壊」で毎日出版文化賞(自然科学部門)受賞。15~18年、本紙連載「読書日記」の執筆を担当した。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/6b5952d1a2c8ad458b8fd9c60d9d079ed0940a7c

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    2. 千葉工大学長の松井孝典氏死去、惑星科学研究の第一人者
      3/24(金) 20:33配信 産経新聞

      松井孝典氏(まつい・たかふみ=千葉工業大学長)22日、前立腺がんのため死去、77歳。葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は長男、悠(ゆう)氏。

      日本の惑星科学研究の第一人者で、海の誕生を解明した論文「水惑星の理論」で世界的な注目を浴びた。米航空宇宙局(NASA)客員研究員や千葉工業大惑星探査研究センター所長などを歴任。令和2年6月に同大学長に就任した。著書に「地球進化論」「地球システムの崩壊」など。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/21ff98b6f5783c4203973a131bc25185857d8cab

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    3. 松井孝典氏死去 惑星科学者、千葉工大学長
      3/24(金) 20:43配信 時事通信

       日本の惑星科学の第一人者として知られる千葉工業大学長の松井孝典(まつい・たかふみ)さんが22日午後9時53分、前立腺がんのため自宅で死去した。

      【写真特集】追悼2023~菅野 昭正さん、陳建一さん、大江健三郎さん他~

       77歳。静岡県出身。葬儀は近親者のみで行う。喪主は長男悠(ゆう)さん。千葉工大が後日、お別れの会を開く。

       1946年生まれ。東京大大学院博士課程修了後、米航空宇宙局(NASA)客員研究員、東大大学院教授などを経て同大名誉教授。2009年4月に千葉工大に移り、20年6月から学長を務めた。専門は地球物理学、比較惑星学、アストロバイオロジー。

       86年、英科学誌「ネイチャー」に海の起源に関する「水惑星の理論」を発表。科学番組の監修や一般向け著書なども多数あり、12年に発足した政府の宇宙政策委員会では、委員長代理も務めた。 
      https://news.yahoo.co.jp/articles/5c26d4c76160f6f5c3edbbcf5863d8c286260782

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  53. 学者という生き物は、大法螺を吹いて大風呂敷を広げられる者ほど、現世では大成功を修めることができるらしい。

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  54. 俳優 団時朗さん死去 74歳「帰ってきたウルトラマン」郷秀樹役
    2023年3月24日 12時48分

    民放の人気特撮番組「帰ってきたウルトラマン」で主人公の郷秀樹役を演じた俳優の団時朗さんが、22日肺がんのため東京都内の病院で亡くなりました。74歳でした。

    団時朗さんは、京都府出身で、1968年に化粧品メーカーのテレビコマーシャルでデビューしたあと、1971年に特撮番組「帰ってきたウルトラマン」でウルトラマンに変身して怪獣と戦う主人公の郷秀樹役を演じて人気を博しました。

    1984年に舞台「ハムレット」に出演してからは舞台俳優としても活躍し、杉村春子さんや森光子さん、森繁久彌さんらと共演するなど数々の舞台に出演してきました。

    その後もシリアスな役からコミカルな役までこなす確かな演技力で、多くのテレビドラマや映画に出演し、NHKでは大河ドラマ「軍師官兵衛」や連続テレビ小説「カーネーション」などのほか、去年BSプレミアムで放送されたドラマ「京都人の密かな愉しみ」にも出演していました。

    所属事務所によりますと団さんは6年前に肺がんと診断され、治療を受けながら仕事を続けていましたが、去年末から体調が悪化し、22日、都内の病院で亡くなりました。

    74歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230324/k10014018441000.html

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  55. このご時世、亡くなると、ぜんぶワクチンの薬害の所為にされかねないな。

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  56. “ムツゴロウさん” 畑正憲さん 心筋梗塞のため死去 87歳
    2023年4月6日 18時45分

    「ムツゴロウ」の愛称で親しまれ、動物とのふれあいをテーマに多くの文学作品を執筆し、テレビ番組などでも活躍した作家の畑正憲さんが5日、心筋梗塞のため亡くなりました。87歳でした。

    畑さんは福岡市生まれで、東京大学大学院を経て、学習研究社で動物記録映画の制作に携わり、退社後、本格的に作家活動を始めました。

    1971年に北海道の無人島に熊や馬を連れて移住し、翌年に北海道の浜中町に人と動物がともに暮らす「動物王国」を作りました。

    「ムツゴロウ」の愛称で親しまれ「ムツゴロウの青春記」や「ムツゴロウの動物交際術」など、人と動物とのふれあいを描いた数々の著作を発表し、1977年には菊池寛賞を受賞するなど、動物文学の第一人者として知られました。

    文筆活動の傍ら、テレビ番組にも出演し、世界各国を旅してさまざまな動物と触れ合う姿が人気を博しました。

    1986年には親とはぐれた子猫が旅をしながら成長していく姿を描いた映画「子猫物語」の監督も務めました。

    関係者によりますと、畑さんは5日に自宅で倒れ、北海道内の病院で心筋梗塞のため亡くなりました。87歳でした。

    漫画家 五十嵐大介さん「自身で体験しながら知を積み上げ」

    「海獣の子供」などの作品で知られ、NHKの番組で畑さんと対談したことがある漫画家の五十嵐大介さんは、NHKの取材に対し、「子どものころから畑さんの番組を見ていました。実際に会うとテレビの印象以上に物事の真理を見つめていて、優しいまなざしもありましたが強いまなざしもあり、緊張感がありました。生物全般に対する深い知識があり、机上の学問でなく自身で体験しながら知を積み上げていると感じました。もっとお話ししたかったですが、残念です」と話していました。

    脳科学者 茂木健一郎さん SNSで悼む声

    SNSのツイッターには畑さんの死を悼む声が寄せられています。

    このうち、脳科学者の茂木健一郎さんは「畑正憲さんと対談させていただいた時、その温かいお人柄と鋭い知性の組み合わせに心ふるえ、感動しました。ムツゴロウさんのお仕事は、これからもたくさんの人の心を動かし、人間が歩むべき道を示してくださることでしょう」などと投稿しました。

    さかなクン 「天国でも楽しくすギョされてください」

    畑さんが亡くなったことを受けて、東京海洋大学名誉博士の「さかなクン」は、追悼のイラストとメッセージを寄せました。

    イラストは笑顔の畑さんを愛称にちなんた魚の「ムツゴロウ」や、象や犬、猫などの動物が囲んでいます。

    そして「ムツゴロウ畑正憲先生からたくさんたくさんいただきました感動は宝物です!ずっとずーっとたいせつに致します。ゆっくりお休みになられてください。私たちをあたたかく見守ってください。ありがとう“ギョ”ざいます」というメッセージが記されています。

    また、さかなクンは「突然の訃報にとてもショックです。さかなクンも畑正憲先生のテレビ番組や本で育ちました!!命の輝きや尊さ。とびきりの元気と笑顔があってこそ自然の中の仲間たちと出会い感動をいただけることを学びました。お会いできました時の感激は、一生の宝物です。“われら動物みな兄弟”の精神をこれからも皆さまと共にずっとずっとたいせつに進んでいきます。畑正憲先生天国でも動物たちと楽しくすギョされてくださいね」とするコメントを出しました。

    漫画家 川崎のぼるさん「動物と人間の距離を縮めてくれた」

    畑正憲さんが原作を担当した自伝的漫画、「ムツゴロウが征く」で、作画を担当したのは「巨人の星」などの作品で知られる漫画家の川崎のぼるさんでした。

    NHKの電話インタビューに応えた川崎さんは畑さんについて「ムツさんは動物と人間の距離を縮めてくれました。その一方で、動物はただかわいいだけではなく、思うようにいかないものだということも教えてくれました。この作品でも、動物と死別する悲しさや危険性など、動物と向き合う厳しさも描くことを意識していました」と話していました。

    作画を担当するにあたって川崎さんは、北海道にある畑さんの自宅を訪ねたということで、そのときの印象について「動物が本当に好きだということが、ちょっとしたしぐさからでも伝わってきて、あれだけ動物の中に入っていけるのは愛情だけではなく、知識もあったからだと思います。とてもフランクで明るく、よく笑う人で、こういう人だから動物をとりこにするんだなとよく分かりました」と話していました。

    また、川崎さんが馬主となっていた競走馬が足を骨折した際には、畑さんが引き取って北海道で育ててくれたということで「畑さんは、その馬がほかの馬と競争するとハンデをあげても勝つんだと喜んで話してくれて、僕もそれを聞いてうれしかったです。感謝しています」と話していました。

    日本プロ麻雀連盟理事「イメージ向上につとめてくれた」

    畑さんはマージャンが得意で、プロの雀士でもあり、日本プロ麻雀連盟の最高顧問も務めていました。

    畑さんとマージャンを通じて40年近くのつきあいがあり、日本プロ麻雀連盟の理事で北海道本部長の喜多清貴さんは、「畑さんはマージャンのイメージ向上につとめてくれた」と話した上で、「マージャンへの愛情だけでマージャン界のために尽力いただいた。本当にありがとうございました、と言いたい」と振り返りました。

    喜多さんは、36年ほど前、動物王国の中で畑さんが参加して行われた48時間、眠らずに行う勝負に記録担当者として同席したということです。

    畑さんのマージャンは根気強さが特徴で、長期戦に強く、最終盤で大逆転して周囲を驚かせることも多かったということで、唇を長時間かみしめながら臨むため、唇から出血する姿もよく見かけたということです。

    動物王国の元従業員「アイデアマンだった」

    畑さんが北海道 浜中町につくった人と動物がともに暮らす「動物王国」の元従業員、石川利昭さんは「畑さんはアイデアマンで、科学者で、そして愛にあふれた人でした」と振り返りました。

    北海道 中標津町に暮らす石川さんは、畑さんとおよそ50年来のつきあいで、20代前半のころから「動物王国」で働きました。

    その時の畑さんについて「研究者として、起きた事象に対してすぐに対処できるアイデアマン」だったと振り返りました。

    当時のエピソードとして「親と離れ離れになったアザラシの赤ちゃんを保護したことがありました。なかなかミルクを飲まない赤ちゃんに対して、畑さんがミルクをシャーベット状にして飲ませるアイデアを出したことで、しっかり成長させて海に帰すことができました。流氷の上で氷をペロペロとなめる別のアザラシの赤ちゃんの様子を参考に思いついたようで、脳にすばらしいコンピューターを持った方でした」と話しました。

    また「畑さんは、麻雀が好きで強かった」となつかしそうに話していました。

    石川さんはその上で「向こうの空の上で再会する方もたくさんいると思うので楽しく麻雀やっていると思います」と話していました。

    旭山動物園 坂東園長「ずっと動物業界をけん引 残念な気持ち」

    北海道旭川市にある「旭山動物園」の坂東元園長は「ずっと動物業界をけん引してきた方だったので、すごく残念な気持ちです。これからも畑さんが愛した生き物たちへの思いをみんなで引き継ぎ、動物園から魅力を伝え続けていきたい」と話していました。

    坂東園長は12年前に旭川市内のホテルで開かれた「環境保全フォーラム」で畑さんと面会し、話をしたことがあるということです。

    坂東園長は畑さんについて「人間として動物を客観的に観察するのではなく、自分が動物になったつもりで、動物の感性や能力などを考えるところにとても魅力を感じていました。私自身も、旭山動物園の施設を考えるときにお客様への見せ方ではなく、動物の感性を目覚めさせるための方法を考えるなど、動物への考え方や関わり方で多くのことを参考にしていました」と話していました。

    むつかけ漁名人 岡本忠好さん「本当にムツゴロウのようだった」

    「ムツゴロウ」の生息地で知られる佐賀県鹿島市では、生前の畑正憲さんを知る「むつかけ漁」の名人、岡本忠好さんが「本当にムツゴロウのようだった」と別れを惜しんでいました。

    鹿島市で干潟に出てきたムツゴロウを針で引っかけて釣る「むつかけ漁」の名人、岡本さんによりますと、畑さんが鹿島市を訪れたのは14、5年前ということです。

    岡本さんは、テレビのロケをしていた畑さんが泥の中に隠れるように干潟に腹ばいになった様子を見て驚いたと言います。

    岡本さんは「子どもが干潟の上で遊ぶのはよく見るが、泥の中に入って楽しそうにしているのを見た大人は畑さんが初めてだ。泥の中に顔を伏せ、1分ほどしてからプハッと顔を出した。本当に干潟の住人、ムツゴロウのようですごいと思った」と話していました。

    また畑さんは、干潟で遊ぶ子どもたちを見て「いいな、いいな」と喜んでいたということです。

    岡本さんは「こんなに干潟を楽しんでくれる人がいるんだと思った。50年以上、干潟に携わっているが、畑さんの様子を見ると干潟への思いは足元にも及ばないと感じた」と振り返っていました。

    そして畑さんが亡くなったことについて「亡くなったのは残念だが、干潟を思う畑さんの気持ちは自分の中に大きく残っている。この干潟を全国の人にもっともっと伝えていきたい。特に子どもたちが畑さん=ムツゴロウさんのように干潟を楽しむ姿を見たいと思う」と話し、別れを惜しんでいました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230406/k10014030461000.html

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    1. イマドキは「心筋梗塞」で亡くなるというと…
      https://twitter.com/search?q=%E5%BF%83%E7%AD%8B%E6%A2%97%E5%A1%9E%20%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3&src=typed_query

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  57. 作家 森村誠一さん死去 90歳 「人間の証明」など
    2023年7月24日 17時23分

    小説「人間の証明」などで知られる作家の森村誠一さんが24日、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。90歳でした。

    森村誠一さんは1933年に埼玉県で生まれ、大学卒業後、東京や大阪のホテルに勤務しながら執筆活動を始めました。

    1969年にホテル勤めの経験を生かしたミステリー作品、「高層の死角」が江戸川乱歩賞を受賞して人気作家となり、1973年には原子力をめぐる研究者や企業による利権争いを題材にした「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受賞しました。

    敗戦後の混乱に端を発した殺人事件を通じて人間の本性を描いた作品「人間の証明」や、自衛隊を題材にした意欲作、「野性の証明」は、映画にもなって大ヒットしました。

    また、ノンフィクション作品「悪魔の飽食」では、細菌兵器の開発にあたった旧日本軍の「731部隊」について描きました。

    出版社の「KADOKAWA」によりますと、森村さんは24日、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。

    90歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230724/k10014140681000.html

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  58. 脚本家 山田太一さん死去 89歳 数多くの名作ドラマ手がける
    2023年12月1日 11時11分

    「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマを手がけた脚本家の山田太一さんが11月29日、老衰のため川崎市内の施設で亡くなりました。89歳でした。

    山田太一さんは東京 浅草生まれ、早稲田大学を卒業後に松竹に入り、木下恵介監督の助監督として映画作りに携わりました。

    そして、1965年には脚本家として独立し、1976年からNHKで放送された「男たちの旅路」は、鶴田浩二さん演じる元特攻隊の警備員と戦後生まれの若者が世代間のギャップから激しくぶつかり合いさまざまな社会問題を浮き彫りにした作品で、大きな反響を呼びました。

    また、学歴や容姿に劣等感を抱く若者たちを描いた「ふぞろいの林檎たち」をはじめ「岸辺のアルバム」、「早春スケッチブック」など数多くの名作ドラマを手がけました。

    山田さんはオリジナルの作品にこだわり、同時代の倉本聰さんや向田邦子さんとともに、それまで地位が低かったシナリオライターの社会的地位を高めました。

    一方、映画化もされた小説「異人たちとの夏」では山本周五郎賞を受賞するなど小説やエッセーでも高い評価を受けています。

    近年、山田さんは、東日本大震災をテーマにしたドラマを手がけるなどしていましたが、6年前に脳出血で倒れたのをきっかけに執筆活動をやめていました。

    その後は、川崎市内の施設で過ごしていましたが、11月29日、老衰のため亡くなりました。

    89歳でした。

    未発表のシナリオ発見などで最近も話題に

    山田さんは、6年前に脳出血で倒れて以来、執筆活動はやめていましたが、最近では「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」などのドラマで、映像化されなかった未発表のシナリオが見つかり、本として刊行されたことが話題となりました。

    このうち「男たちの旅路」の未発表作「オートバイ」は1978年ごろ書かれた作品で、出演していた水谷豊さんがほかの民放のドラマの主演が決まり、お蔵入りとなった経緯があります。

    また、「ふぞろいの林檎たち」の続編は初回では大学生だった主人公たちの40代となった姿が描かれました。

    また、山田さんが30年以上前に発表した小説「異人たちとの夏」が、現代のロンドンを舞台にして海外でも映画化され、来年春には日本で公開されることが話題となっています。

    山田さんの家族がコメント「楽しく優しい父」

    脚本家の山田太一さんが亡くなったことについて山田さんの家族がコメントを発表しました。

    コメントでは「とても安らかで静かな旅立ちでした。山田は仕事に対しては常に厳しく真剣でしたが、私たち家族にはユーモアにあふれ、楽しく優しい父として心に残っています。ファンの皆様、メディアの皆様、長い間、父を支えていただき、誠にありがとうございました。これからも父の作品を楽しんでいただけたら幸いです」などとしています。

    俳優 中井貴一さん「感謝の言葉しか有りません」

    脚本家の山田太一さんが亡くなったことについて、ドラマ「ふぞろいの林檎たち」で主役を務めた俳優の中井貴一さんは1日朝、「感謝の言葉しか有りません」というタイトルで自身のブログを更新しました。

    この中では「まだ、役者として右も左も分からなかった頃、『ふぞろいの林檎たち』の面接でお会いしたのが、今から42年前。その頃、既に大巨匠脚本家だった山田太一さんでしたから、さぞかし怖い方なのだろうと、かなり緊張しておりましたが、実際は、物腰柔らかで、とてもジェントリーにお話をして下さいました。出演が決まり、初日の本読み、顔合わせの時も、物腰柔らか。しかし、本読み終了時、『私の台本は、語尾の一つまで考えて書いておりますので、一字一句変えない様に芝居をして下さい』と、ピシャリ。物腰とは裏腹に、実に辛辣(しんらつ)にお話をされる方でもありました。台本を通して、私に芝居というものを教えてくださっただけでなく、その台本から、人としてのあり方までも教わった様に思います。言い尽くせぬお世話になりました。でも、もう一度、山田さんの台本で芝居がしたかった。心からご冥福を祈ります」と心境をつづっています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231201/k10014274241000.html

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    1. 文筆家 頭木弘樹さん「全作品についてインタビュー 必ず形に」

      文筆家の頭木弘樹さんは6年前から、山田さんに脳出血の後遺症のリハビリをかねて、毎週、一作ずつ自分のドラマの映像を見て台本を読んでもらい、すべての作品についてインタビューを続けてきました。

      頭木さんは「山田先生は仕事のことについてはよく覚えていた。仕事に厳しく、めったに自分の作品をほめることがない人で、あそこが残念だったとかうまく行かなかったという話も多かった」と振り返りました。

      ただその中でも、NHKの『男たちの旅路』シリーズで放送された『車輪の一歩』の回については、「よくできた」と手放しでほめていたことが印象に残っているということです。

      1979年に放送された「車輪の一歩」は、車いすの身体障害者が直面する厳しい現実を正面から描いた作品でバリアフリーが今ほど進んでいなかった当時の社会に大きな反響を巻き起こしました。

      山田さんは、数年にわたり障害者を取材したうえで脚本を書き、鶴田浩二さん演じる主人公の名ぜりふ「人に迷惑をかけることをおそれるな」を生み出しました。

      頭木さんは「山田さんは、常に新しいことに挑戦してきた人でテレビドラマ史としても貴重な話をたくさん聞けた。すべての作品について話を聞き終えたところだったので、必ず、このインタビューを形にしないといけないという責任を感じている」と話しています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231201/k10014274241000.html

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    2. 脚本家 山田太一さん死去 89歳 数多くの名作ドラマ手がける
      2023年12月1日 14時56分

      「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマを手がけた脚本家の山田太一さんが11月29日、老衰のため川崎市内の施設で亡くなりました。89歳でした。

      山田太一さんは東京 浅草生まれ、早稲田大学を卒業後に松竹に入り、木下恵介監督の助監督として映画作りに携わりました。

      そして、1965年には脚本家として独立し、1976年からNHKで放送された「男たちの旅路」は、鶴田浩二さん演じる元特攻隊の警備員と戦後生まれの若者が世代間のギャップから激しくぶつかり合いさまざまな社会問題を浮き彫りにした作品で、大きな反響を呼びました。

      また、学歴や容姿に劣等感を抱く若者たちを描いた「ふぞろいの林檎たち」をはじめ「岸辺のアルバム」、「早春スケッチブック」など数多くの名作ドラマを手がけました。

      山田さんはオリジナルの作品にこだわり、同時代の倉本聰さんや向田邦子さんとともに、それまで地位が低かったシナリオライターの社会的地位を高めました。

      一方、映画化もされた小説「異人たちとの夏」では山本周五郎賞を受賞するなど小説やエッセーでも高い評価を受けています。

      近年、山田さんは、東日本大震災をテーマにしたドラマを手がけるなどしていましたが、6年前に脳出血で倒れたのをきっかけに執筆活動をやめていました。

      その後は、川崎市内の施設で過ごしていましたが、11月29日、老衰のため亡くなりました。

      89歳でした。

      未発表のシナリオ発見などで最近も話題に

      山田さんは、6年前に脳出血で倒れて以来、執筆活動はやめていましたが、最近では「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」などのドラマで、映像化されなかった未発表のシナリオが見つかり、本として刊行されたことが話題となりました。

      このうち「男たちの旅路」の未発表作「オートバイ」は1978年ごろ書かれた作品で、出演していた水谷豊さんがほかの民放のドラマの主演が決まり、お蔵入りとなった経緯があります。

      また、「ふぞろいの林檎たち」の続編は初回では大学生だった主人公たちの40代となった姿が描かれました。

      また、山田さんが30年以上前に発表した小説「異人たちとの夏」が、現代のロンドンを舞台にして海外でも映画化され、来年春には日本で公開されることが話題となっています。

      山田太一さんのNHK作品 『男たちの旅路』のほかにも

      山田太一さんは『男たちの旅路』のほかにも、NHKでは
      ▽朝の連続テレビ小説で1972年から翌年にかけて放送された『藍より青く』や
      ▽1980年に放送された大河ドラマで菅原文太さんらが出演した『獅子の時代』などのシナリオを担当しました。

      近年では
      ▽2012年に東日本大震災をモチーフに、孤独に取り残された都会の老人を山崎努さんが演じた『キルトの家』
      ▽2014年にはファンタジードラマ『ナイフの行方』なども手がけています。

      山田さんの家族がコメント「楽しく優しい父」

      脚本家の山田太一さんが亡くなったことについて山田さんの家族がコメントを発表しました。

      コメントでは「とても安らかで静かな旅立ちでした。山田は仕事に対しては常に厳しく真剣でしたが、私たち家族にはユーモアにあふれ、楽しく優しい父として心に残っています。ファンの皆様、メディアの皆様、長い間、父を支えていただき、誠にありがとうございました。これからも父の作品を楽しんでいただけたら幸いです」などとしています。

      俳優 中井貴一さん「感謝の言葉しか有りません」

      脚本家の山田太一さんが亡くなったことについて、ドラマ「ふぞろいの林檎たち」で主役を務めた俳優の中井貴一さんは1日朝、「感謝の言葉しか有りません」というタイトルで自身のブログを更新しました。

      この中では「まだ、役者として右も左も分からなかった頃、『ふぞろいの林檎たち』の面接でお会いしたのが、今から42年前。その頃、既に大巨匠脚本家だった山田太一さんでしたから、さぞかし怖い方なのだろうと、かなり緊張しておりましたが、実際は、物腰柔らかで、とてもジェントリーにお話をして下さいました。出演が決まり、初日の本読み、顔合わせの時も、物腰柔らか。しかし、本読み終了時、『私の台本は、語尾の一つまで考えて書いておりますので、一字一句変えない様に芝居をして下さい』と、ピシャリ。物腰とは裏腹に、実に辛辣(しんらつ)にお話をされる方でもありました。台本を通して、私に芝居というものを教えてくださっただけでなく、その台本から、人としてのあり方までも教わった様に思います。言い尽くせぬお世話になりました。でも、もう一度、山田さんの台本で芝居がしたかった。心からご冥福を祈ります」と心境をつづっています。

      俳優 水谷豊さん「出会いはとてつもなく大きな思い出」

      山田太一さんの代表作の1つ「男たちの旅路」で、新人警備員の役を務めた俳優の水谷豊さんは、NHKの取材に対し「山田太一さんとの出会いはとてつもなく大きな思い出です。この世にたくさんのことを残して頂きました。尊敬と感謝と共に、心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。

      文筆家 頭木弘樹さん「全作品についてインタビュー 必ず形に」

      文筆家の頭木弘樹さんは6年前から、山田さんに脳出血の後遺症のリハビリをかねて、毎週、一作ずつ自分のドラマの映像を見て台本を読んでもらい、すべての作品についてインタビューを続けてきました。

      頭木さんは「山田先生は仕事のことについてはよく覚えていた。仕事に厳しく、めったに自分の作品をほめることがない人で、あそこが残念だったとかうまく行かなかったという話も多かった」と振り返りました。

      ただその中でも、NHKの『男たちの旅路』シリーズで放送された『車輪の一歩』の回については、「よくできた」と手放しでほめていたことが印象に残っているということです。

      1979年に放送された「車輪の一歩」は、車いすの身体障害者が直面する厳しい現実を正面から描いた作品でバリアフリーが今ほど進んでいなかった当時の社会に大きな反響を巻き起こしました。

      山田さんは、数年にわたり障害者を取材したうえで脚本を書き、鶴田浩二さん演じる主人公の名ぜりふ「人に迷惑をかけることをおそれるな」を生み出しました。

      頭木さんは「山田さんは、常に新しいことに挑戦してきた人でテレビドラマ史としても貴重な話をたくさん聞けた。すべての作品について話を聞き終えたところだったので、必ず、このインタビューを形にしないといけないという責任を感じている」と話しています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231201/k10014274241000.html

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    3. 脚本家・作家の山田太一さん死去、89歳…「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」
      2023/12/01 09:16

       テレビドラマ「岸辺のアルバム」「ふぞろいの 林檎りんご たち」などで知られる脚本家で作家の山田太一(やまだ・たいち、本名・石坂太一=いしざか・たいち)さんが11月29日、老衰のため亡くなった。89歳だった。

      個人の幸せ追求した戦後社会のあり方問う…山田太一さん死去、「家族の現実」描き半世紀
      山田太一さん(2002年12月撮影)

       東京・浅草出身。早大教育学部を卒業後の1958年、松竹に入社。大船撮影所の助監督として木下恵介監督に師事した。65年にフリーとなり、テレビドラマの脚本を書き始めた。

       市井に生きる庶民の姿を描き続け、社会性やテーマ性を重視。76年に始まった「男たちの旅路」シリーズ(NHK)が高く評価された。

       初めて書いた小説を自ら脚本化した77年の連続ドラマ「岸辺のアルバム」(TBS)は、平凡な中流家庭の崩壊を描いて話題を集め、「辛口ホームドラマ」という新たな潮流を作った。また、83年に始まった青春群像劇「ふぞろいの林檎たち」(同)では、就職や恋に悩む若者たちを生き生きと描き、シリーズ化された。

       テレビドラマの脚本にとどまらず、小説、映画、舞台でも活躍。88年に小説「異人たちとの夏」で、第1回山本周五郎賞、91年に映画「少年時代」で日本アカデミー賞最優秀脚本賞、2014年にはエッセー集「月日の残像」で小林秀雄賞を受賞した。



       山田さんの家族は1日、談話を発表した。

       「仕事に対しては常に厳しく真剣でしたが、私たち家族にはユーモアにあふれ、楽しく優しい父として心に残っています。長い間父を支えていただき、誠にありがとうございました。これからも父の作品を楽しんでいただけたら幸いです」
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/tv/20231201-OYT1T50052/

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    4. 脚本家・山田太一さん死去、老衰のため89歳…「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマを手がける
      2023/12/01 10:46

      29日に死去した山田太一さん(遺族提供)

        TBS系「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」、フジテレビ系「早春スケッチブック」など数々の名作ドラマを手がけた脚本家の山田太一(やまだ・たいち、本名・石坂太一=いしざか・たいち)さんが11月29日、神奈川・川崎市内の施設で老衰のため死去した。89歳だった。

       若者や家族の抱える焦燥感や不安、揺らぎを洗練された筆致で作品に残した天才脚本家が天国に旅立った。

       喪主で息子の石坂拓郎氏はフジテレビを通じて書面でコメントを寄せ「突然のご報告となりますが、かねてから療養中でありました山田太一は、令和5年11月29日にお世話になっていた川崎市内の施設にて老衰の為に息を引きとりました。享年89歳。とても安らかで静かな旅立ちでした」と報告。「山田は仕事に対しては常に厳しく真剣でしたが、私たち家族にはユーモアにあふれ、楽しく優しい父として心に残っています。ファンの皆様、メディアの皆様、長い間父を支えていただき、誠にありがとうございました。これからも父の作品を楽しんでいただけたら幸いです」と感謝した。

       また「本人の希望により、葬儀は家族のみで執り行う予定」という。「お別れの会などを開催する予定は、現時点ではございません。どうか静かに見守っていただければ幸いです」とつづった。

       山田さんは2016年、テレビ朝日系スペシャルドラマ「五年目のひとり」を最後に、本格的な執筆活動から遠ざかるように。17年には川崎市内の自宅で脳出血のため倒れ、療養生活を送っていたことを週刊誌のインタビューで告白。19年には一部で、老人ホームに入居していることなどが報じられていた。

       東京・浅草生まれ。早大教育学部卒業後の1958年に松竹の助監督試験に合格し、木下惠介監督に師事。木下監督のもとでシナリオライティングを学び、木下監督がテレビ業界に進出すると、同様に軸足を移し、1965年には松竹から独立し、フリーの脚本家として活動するようになった。「木下惠介劇場」「木下惠介アワー」などで単発の脚本を手がけたのち、68年に木下惠介アワー枠の「3人家族」で初めて単独の連ドラを執筆した。73年のTBS系「それぞれの秋」、76年からシリーズ化されたNHK「男たちの旅路」が高い評価を得て人気脚本家の仲間入りを果たした。

       山田さんの才覚をはっきりと世に知らしめたのは、自らの小説をドラマ化した77年のTBS系「岸辺のアルバム」。実際に東京で起こった水害を題材に、平凡な家庭の崩壊をシニカルに描いた。清純なイメージのあった八千草薫さん(19年死去)が不倫する主婦を演じ話題に。当時ハッピーエンドが主流だったホームドラマ界の定説を覆すような作品で、放送史に残るドラマに。倉本聰氏、向田邦子さん(81年死去)と並び「シナリオライター御三家」のひとりと呼ばれた。

       1983年にはフジ系「早春スケッチブック」、TBS系「ふぞろいの林檎たち」を相次いで発表し話題に。「早春―」は家族のあり方と死生観を、「ふぞろい―」は劣等感を抱える若者が大人になっていく姿を描き、社会現象に。「ふぞろい―」は第4シリーズ(97年)まで制作されるヒット作となり、主人公を演じた中井貴一の代表作となった。88年に発表した小説「異人たちとの夏」は山本周五郎賞を受賞し、大林宣彦監督によって映画化。90年の映画「少年時代」(篠田正浩監督)の脚本も手がけた。

       2009年のフジテレビ系「ありふれた奇跡」で12年ぶりに連ドラ脚本を担当。以降は年に数本のペースでスペシャルドラマを書き下ろし、NHKの「ラジオ深夜便」などに出演し、執筆秘話を語ることもあった。くしくも今年は「ふぞろい―」の放送40周年。10月には「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」の映像化されなかったシナリオが見つかり、未発表シナリオ集として刊行されたばかりだった。シナリオ集には幻の「ふぞろい―」第5シリーズが収録され、ドラマファンを喜ばせていた矢先の訃報となった。

       ◆山田 太一(やまだ・たいち)1934年6月6日、東京都生まれ。早稲田大学卒業後の58年に松竹大船撮影所に入社し、演出部で木下惠介監督の助監督を務める。65年に独立し、フリーの脚本家としての活動をスタート。市井で暮らす庶民にスポットを当てた作品を多く発表した。ドラマ、映画の脚本だけでなく劇作も多く手がけた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/hochi/20231201064-OHT1T51016/

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    5. 個人の幸せ追求した戦後社会のあり方問う…山田太一さん死去、「家族の現実」描き半世紀
      2023/12/01 15:26

       都会に暮らす人々や家族の姿を半世紀以上にわたり、鋭くも温かい視線で描き続けた脚本家の山田太一さんが死去した。「ドラマチックでなくても、大多数の人の現実を書きたい」。日常に潜む不安や危機をあぶり出す数々の名作で、後進にも大きな影響を与えた。

      2013年、インタビューに答える山田太一さん

       商社マンの夫と専業主婦の妻、大学生の長女と受験生の長男。郊外の一軒家に暮らす核家族の崩壊を描く1977年のTBSのドラマ「岸辺のアルバム」は、個人の幸せを追求してきた戦後社会のあり方自体を問い直す作品だった。

       「大家族が登場する当時のホームドラマは、一家が食卓を囲み『メシ食いドラマ』と言われた。だが、現実の家族はばらばらに食事するようになっていた」

       市民の幸せの象徴だった郊外のマイホームが、多摩川の洪水で流される衝撃的な場面は、多くの人の記憶に残った。

       「僕は、欠点を多く抱えた青年が好き。感じやすく、優しさや正義感があるから」。教員を目指したこともある山田さんは語っていた。優等生のレールを外れた子と親たちを描く「沿線地図」、結婚前に自分探しをする20代女性3人を主人公にした「 想おも い出づくり。」など、若い世代を描く名作も多かった。

       「一番嫌なのは、大学名を尋ねられること」

       1983年放送開始のドラマ「ふぞろいの 林檎りんご たち」は、脚本作りの取材で、学生から聞いた言葉に衝撃を受けたことから生まれた。当時若手だった中井貴一さんや時任三郎さん、柳沢慎吾さんや手塚理美さんらによる群像劇の形を取り、「四流」と言われる大学などに通う男女の日々を描いた。偏差値教育に傷つけられた同世代の共感を呼び、10年以上にわたる人気シリーズとなった。

       激しさを増す視聴率競争に嫌気がさし、近年は連続ドラマからは距離を置くようになった。だが、単発のドラマは数多く手掛けた。2016年には東日本大震災の被災地を取材し、震災の心の傷の再生をテーマにした「五年目のひとり」を発表するなど、旺盛な活動を続けたが、17年に脳出血で倒れ、療養を続けていた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/tv/20231201-OYT1T50100/

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    6. 俳優 柳沢慎吾さん「今の自分があるのは先生との出会いと感謝」

      山田さんの代表作の1つの、テレビドラマ「ふぞろいの林檎たち」に出演した俳優でタレントの柳沢慎吾さんは、NHKの取材にコメントを寄せました。

      その中で、山田さんが亡くなったことについて「突然の訃報に驚きを隠せません。本当に悲しいです。今の自分があるのは、山田太一先生との出会い『ふぞろいの林檎たち』であると感謝しております。役者として一から学び、台本を通して人となりまで長い時間をかけて学ばせて貰ったと、年齢を重ねるたび常々痛感しています」と振り返りました。

      また、山田さんの人柄については、「山田先生は厳しい中にも優しさがあふれる、笑顔が素敵な方でした。ただ、台本どおりのせりふ、イコール芝居の間を大切にされる方で、撮影現場に突然お越し頂くだけで、一瞬にしてスタッフ・出演者に緊張感が走ります。リハーサルをとても大事にされ何度も何度もやり直しの数々、放送後に『あのシーン良かったですよ』と言って頂いたほほえみが今でも忘れられません」としのびました。

      そのうえで「厳しくもあったがあの時代が本当に今でも恋しくて、もう一度、山田先生とご一緒したいと、今でもキャストとスタッフで願っておりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と悼みました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231201/k10014274241000.html

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  59. SF作家・豊田有恒さん死去 「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」など名作の脚本手がける
    12/5(火) 13:09配信 スポニチアネックス

     SF作家の豊田有恒さんが11月28日、食道がんのため死去した。85歳。公式X(旧ツイッター)で5日、発表された。

     妻の豊田久子さんが「かねてより療養中のところ令和5年11月28日、食道がんのため85歳にて永眠いたしました。ここに生前のご厚誼を深謝し、謹んでご通知申し上げます」と報告。

     「尚、誠に勝手ではございますが、葬儀は故人の遺志により近親者のみで執り行いました。本来であれば早速申し上げるところ、ご通知が遅れましたこと何卒ご容赦いただきたく存じます。また、生前のご厚誼を深謝し心より御礼申し上げます」と記した。

     豊田有恒さんは1962年、「火星で最後の……」でSF作家デビュー。「ヤマトタケル」シリーズなど多くの作品を残し、アニメの脚本家として「エイトマン」「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」などを手がけた。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/9a3a15c9e7c75268304f370c606615f82481792b

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    1. 「鉄腕アトム」脚本やSF小説「タイムスリップ大戦争」…作家・豊田有恒さん死去、85歳
      2023/12/05 19:04

       歴史を扱ったSF小説やテレビアニメの脚本などで活躍した作家の豊田有恒(とよた・ありつね)さんが11月28日、食道がんで死去した。85歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は妻、久子さん。

      豊田有恒さん(2004年11月28日撮影)

       前橋市出身。「鉄腕アトム」など草創期のテレビアニメの脚本を手がけ、その後、1967年に長編歴史改変SF「モンゴルの残光」を発表。「タイムスリップ大戦争」などのSF小説で人気を集めた。古代史を題材とした「倭王の 末裔まつえい 」や「ヤマトタケル」シリーズなどの小説や、ノンフィクションも手がけた。日本SF作家クラブ会長も務めた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/tv/20231205-OYT1T50179/

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    2. SF作家 豊田有恒さん死去 「鉄腕アトム」の脚本家としても活躍
      2023年12月5日 20時46分

      日本を代表するSF作家の1人で、テレビアニメ「鉄腕アトム」などの脚本家としても活躍した豊田有恒さんが、先月28日、食道がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。85歳でした。

      豊田有恒さんは前橋市生まれで、大学在学中の1961年、「時間砲」で第1回空想科学小説コンテストに入賞し、そのよくとし、「火星で最後の……」でSF作家としてデビューしました。

      その後、モンゴル帝国の支配が続く架空の世界を描いたSF小説「モンゴルの残光」や神話の時代を舞台にした「火の国のヤマトタケル」などの作品で人気を博したほか、歴史小説や社会評論など幅広い分野で活躍しました。

      また、アニメの脚本家として「エイトマン」や「鉄腕アトム」などの人気作品を手がけたほか、「宇宙戦艦ヤマト」の原案にも携わりました。

      2000年からは島根県立大学の総合政策学部で教授を務め、「文章表現論」や「日本文化論」の授業を担当していました。

      家族によりますと豊田さんは、先月28日、食道がんのため東京都内の自宅で85歳で亡くなりました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231205/k10014278981000.html

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  60. NHK元ニュースキャスター 磯村尚徳さん死去 94歳
    2023年12月13日 19時29分

    NHKの元ニュースキャスターで、外交評論家の磯村尚徳さんが今月6日、骨髄異形成症候群のため亡くなりました。94歳でした。

    1929年に東京で生まれた磯村さんは父親の仕事の関係で幼少期を主にトルコで過ごし、帰国後、学習院大学に入学しました。

    大学卒業後はNHKに記者として入局し、中東やヨーロッパなどの特派員を経て、1974年からNHKのニュース番組「ニュースセンター9時」の初代キャスターを務めたうえ、報道局長や特別主幹などを歴任しました。

    1991年にはNHKを退職して東京都知事選挙に立候補しましたが、当時、現職だった候補者に敗れました。

    その後は外交評論家として活動し、日本の文化をヨーロッパ向けに発信する「パリ日本文化会館」の初代館長に就任したほか、1998年の長野オリンピックでは開会式の総合司会も担当しました。

    家族によりますと、磯村さんは入退院を繰り返しながら、最近までフランスとの文化交流活動を続けていましたが、今月6日に骨髄異形成症候群のため、都内のホスピスで亡くなったということです。

    94歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231213/k10014287341000.html

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    1. NHK「ニュースセンター9時」初代キャスター・磯村尚徳さん死去、94歳
      2023/12/13 21:05

       NHK「ニュースセンター9時」(NC9)の初代キャスターを務めたジャーナリストの磯村尚徳(いそむら・ひさのり)さんが6日に骨髄異形成症候群で死去したことが分かった。94歳だった。

      磯村尚徳さん(1995年撮影)

       東京都出身。1953年、学習院大卒業後にNHKに入局。ワシントン支局長などを歴任し、74年に始まった「ニュースセンター9時」の初代キャスターに。豊富な記者経験を生かし、解説やコメントを付け加えるなど、これまでになかったスタイルを打ち出した。

       NHKを退局して91年の東京都知事選に出馬したが、落選。その後は外交評論家として活動し、パリ日本文化会館館長なども務めた。98年の長野五輪開会式では司会を担当した。

       フランス語、英語など外国語に堪能な国際派として知られ、フランス国家功労賞を受賞。著書「ちょっとキザですが」はベストセラーとなった。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/tv/20231213-OYT1T50233/

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  61. 追悼 2023年に亡くなった方々
    2023年12月15日 21時11分

    「死ぬために生まれてくる命などはない」
    「一緒に生きていることを楽しめばいい」
    「光る石、輝く石は、必ずみんな持っている」

    多くの人の心に響くメッセージ。

    今年亡くなった故人がかつて番組の中で語った、人生のエッセンスとも言える一言です。

    2023年も社会や時代にさまざまな影響を与えた人たちが多く亡くなりました。

    その功績や人柄、時流や世相などを振り返ります。

    (以下略)
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231215/k10014279221000.html

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  62. 写真家 篠山紀信さん 死去 83歳 時代を象徴する人物撮り続ける
    2024年1月5日 8時22分

    著名人の肖像など時代を象徴する人物を撮り続けてきた写真家の篠山紀信さんが4日、亡くなりました。83歳でした。

    篠山紀信さんは東京都出身で、日本大学芸術学部の写真学科に在学中に広告制作会社に入社して広告写真を撮影し、その後、フリーのカメラマンとして活動を始めました。

    歌手の山口百恵さんや、ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんの写真、それに、1991年に発表して話題になった宮沢りえさんのヌード写真集など多くの話題作を手がけました。

    「激写」ということばを生み出したほか、俳優の樋口可南子さんを撮影した作品をきっかけに生まれた「ヘアヌード」ということばは流行語にもなりました。

    また、人物だけでなく建築や風景なども対象に、時代を切り取るさまざまなジャンルの写真を撮り続け、東日本大震災のあとは被災地に足を運んで作品を発表したほか、2012年から7年にわたって全国で開催された巡回写真展には100万人を超える人が訪れるなど、60年以上にわたって第一線で活躍していました。

    関係者によりますと、篠山さんは、4日、亡くなったということです。

    83歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240105/k10014309761000.html

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    1. 篠山紀信さん死去、83歳…宮沢りえさんらの写真集が社会現象に
      2024/01/05 09:23

       芸能人から現代の都市まで幅広く撮影し、写真集や雑誌で活躍し続けた写真家の篠山紀信(しのやま・きしん)さんが4日、死去した。83歳だった。妻は歌手として活躍した南沙織さん、次男は俳優の篠山 輝信あきのぶ さん。

      篠山紀信さん「聖女を撮るには聖地で撮るべきだと思って、サンタフェがいいって言ったんです」

      展覧会場で自身の作品を解説する写真家の篠山紀信さん(2021年6月、東京・恵比寿の東京都写真美術館で)

       東京生まれ。日本大芸術学部在学中、広告会社に入社。広告写真で才能をみせ、1968年、フリーに。70年代に入り、未来感覚のヌードを目指した「NUDE」、リオのカーニバルを撮影した「オレレ・オララ」などの写真集で声価を高めた。

      写真家の篠山紀信さん(2019年)

       79年、南さんと結婚した。歌手の山口百恵さんなど時代を体現するスターを撮り続けた。さらに複数のカメラで撮影した現代都市のパノラマ「シノラマ」や、世界の名建築など、幅広い被写体で実力を発揮した。

       「激写」と称して女優やアイドルを精力的に撮影し、雑誌の表紙やグラビアを席巻。91年には、写真集「water fruit」でヘアの写ったヌード作品を発表。さらに人気絶頂の女優、宮沢りえさんを撮った「Santa Fe」が社会現象となった。

       歌舞伎や宝塚、バレエダンサー、相撲の力士、ディズニーランドなど、多彩な被写体に挑み続けた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240105-OYT1T50045/

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    2. 篠山紀信さん「聖女を撮るには聖地で撮るべきだと思って、サンタフェがいいって言ったんです」
      2024/01/05 10:26

       「カメラ小僧」の愛称で親しまれ、山口百恵さんや宮沢りえさん、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻など著名人を撮り続けた写真家の篠山紀信さんは「超陽性」の人だった。

      横浜美術館で開催中の写真展「写真力」について語る写真家の篠山紀信さん。東京都港区の篠山紀信事務所で。2017年1月12日撮影

       「女優の大原麗子さんってきれいでしょう。それでもメイクをして、きれいな洋服を着て、ライティングをして撮る。写真を撮ること自体が、基本的に『うそ』の行為なんです」と語った。

      ジョン・レノンと、妻のオノ・ヨーコさんのアルバム「ダブル・ファンタジー」のジャケット写真も篠山さんが手がけた

       「僕の写真はどんどんうそをつき、その人をもっと美しくしちゃう」

       撮影した有名人たちのエピソードを聞くと、面白おかしく、ユーモアを交えて語り続けた。

       もじゃもじゃ頭がトレードマーク。撮影では「表現者」然とせず、明るく声をかけ、被写体に寄り添った。

       小学生の時、実家近くに住む外国人が飼っていたシェパードを撮影し、写真をあげると、とても喜ばれたことが原体験だった。「写真を見せたら褒められたいんです。それさえあれば僕の表現は完成して、エゴは満たされる」と話した。

       撮影では、その人の長所を強調するような撮り方を追求した。米国ニューメキシコ州で撮った宮沢さんの写真集「Santa Fe」でも、その姿勢は貫かれた。「彼女、18歳になった前後かな。聖女だよね。聖女を撮るには聖地で撮るべきだと思って、サンタフェがいいって言ったんです」

       好奇心が旺盛で、後にはデジタル写真など新たな技術も積極的に取り込んだ。

       大衆を対象とした雑誌や写真集といった印刷メディアを長く、主戦場としてきた。「美術館は作品の死体置き場」と言い、美術館での展示には消極的だった。だが心機一転し、2012年から時代を担った人の肖像写真を集めた「写真力」展を全国で開催した。その来場者は、約7年間で100万人を超えた。

       写真という虚実皮膜の世界に生きた巨星は、「被写体にも、読者にも喜ばれる」最良の仲介者だった。(文化部 森田睦)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240105-OYT1T50060/

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    3. グラビア撮影がデビューのきっかけ、宮崎美子さん「篠山さんと出会わなければ今の私はありません」
      2024/01/05 13:04

       写真家の篠山紀信さんが4日に83歳で死去したことを受け、ゆかりのあった女優らが5日、相次いでコメントを出した。

       デビューのきっかけとなった雑誌のグラビアを撮影してもらった女優の宮崎美子さんは、「篠山さんとの出会いが無ければ今の私はありません。あのくりくりした 茶目ちゃめ っ気あふれる瞳と、笑顔で周りを明るく照らす方でした。4年前のカレンダー撮影の後、『10年後のデビュー50周年の時もお願いします』という私の申し出に、『それは無理でしょ』と大笑いされていたのが楽しい思い出です。感謝の気持ちともうお目にかかれない寂しさでいっぱいです」とコメントした。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240105-OYT1T50093/

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    4. 樋口可南子さん「いちばん綺麗に撮ってくださったのは篠山さん」…写真集「water fruit」
      2024/01/05 13:16

       写真家の篠山紀信さんが4日に83歳で死去したことを受け、写真集「water fruit」で仕事を共にした女優の樋口可南子さんは「篠山さんとの現場は、いつも何かに挑んでいて、とても面白い時間でした。自分をいちばん 綺麗きれい に撮ってくださったのは、篠山さんだと今も思っています。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします」と悼んだ。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240105-OYT1T50126/

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  63. 俳優 中村メイコさん死去 89歳 テレビ放送の草創期から活躍
    2024年1月7日 21時04分

    日本のテレビ放送の草創期から活躍してきた俳優の中村メイコさんが、12月31日に肺塞栓症のため亡くなりました。89歳でした。

    中村メイコさんは、作家、中村正常さんの長女として1934年に東京で生まれ、2歳で子役として映画デビューしました。

    日本のテレビ放送の草創期から活躍し、NHK紅白歌合戦では、紅組の司会を1959年から3年連続で務めたほか、「連想ゲーム」や「お笑いオンステージ」など、NHKのバラエティー番組にも出演してお茶の間の人気を集めました。

    俳優としては、連続テレビ小説「さくら」で、主人公の祖母役、「風のハルカ」では語りを務め、大河ドラマ「篤姫」など、多くの作品に出演しました。

    放送文化の向上に寄与したとして、昭和57年度のNHK放送文化賞を受賞しています。

    所属事務所によりますと、中村さんは、12月25日には番組収録の仕事をしていましたが、その6日後の12月31日に、肺塞栓症のため亡くなったということです。

    中村さんの夫で、作曲家の神津善行さんは「2歳8か月で映画デビューしてから86年という芸能生活を、生涯現役のまま幕をおろすことになりました。長い時間をこの世界に存在させていただいたこと、皆様に深く感謝申し上げます」というコメントを発表しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240107/k10014313091000.html

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  64. 訃報 指揮者の小澤征爾さん死去
    2024年2月9日 19時08分

    海外の名だたるオーケストラで活躍し、「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾さんが、今月6日、都内の自宅で心不全ため亡くなりました。88歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240209/k10014354011000.html

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    1. 社説
      小沢征爾氏死去 情熱のタクトで感動を届けた
      2024/02/10 05:00

       国境を超えて、クラシック音楽の発展に果たした役割は計り知れない。世界に感動や熱狂をもたらした日本人指揮者として、多くのファンの記憶に刻まれるだろう。

       指揮者の小沢征爾さんが死去した。88歳だった。米国の名門ボストン交響楽団、世界最高峰のオペラハウスといわれるウィーン国立歌劇場で音楽監督を務め、ベルリン・フィルなどトップクラスの楽団とも共演を重ねた。

       小沢さんの指揮は、的確な技術と、全身を使った表現が特徴だった。ベルリオーズやマーラーなどの作品を得意とし、深い譜読みと解釈によって、情熱的かつ精妙な響きを引き出した。

       その活躍は、日本をクラシック大国に押し上げただけでなく、欧米の音楽界にも新風を巻き起こした。クラシック音楽をアジアなどの非西洋圏に普及させる役割も果たしたと言えるだろう。

       20歳代で世界への扉を開いたことも、高度経済成長期に入った日本人を勇気づけた。

       単身渡欧した1959年は、海外旅行がまだ一般化していない時代だった。日の丸の国旗を付けたスクーターでパリなどを駆け回りながら、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールなどを制して活躍の舞台を広げていった。

       20世紀を代表する指揮者のカラヤンやバーンスタインのもとで 研鑽けんさん を積んだことが、後に大きな財産となった。誰とでもすぐに親しくなれる気さくな人柄も、成功の原動力となったに違いない。

       特筆すべきは、海外で培った貴重な経験を、惜しみなく日本に還元したことだ。晩年の小沢さんは「僕は天才ではない。努力家です」と語り、「残された時間で、次の音楽家を生み出す」との決意をにじませていた。

       長野県松本市で前身の音楽祭から30年以上続く「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に、その思いが表れていた。小沢さんを慕って、世界から集まった演奏家が生み出した名演は数知れない。

       小沢さんは昨年も車いす姿で舞台に上がった。思いの詰まったフェスティバルだったのだろう。

       日本やスイスでは、若手演奏家向けの教育プログラムを主宰し、深夜まで熱心に指導する姿も見られた。指導を受け、世界を舞台に活躍し始めた若手もいる。

       日本のオーケストラは近年、技量が向上し、演奏を充実させている。後に続く指揮者や演奏家たちには、小沢さんが切り開いた道を一層広げていってもらいたい。
      https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20240209-OYT1T50199/

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    2. 小澤征爾さん死去 88歳「世界のオザワ」の訃報に国内外で追悼
      2024年2月10日 19時01分

      海外の名だたるオーケストラで活躍し、「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾さんが今月6日、都内の自宅で心不全のため亡くなりました。88歳でした。

      訃報は国内外で報じられ、親交のあった人などが哀悼の意を表しています。

      今月6日に心不全のため死去 指揮者として国内外で活躍
      小澤さんは1935年に旧満州、今の中国東北部で生まれました。

      5歳の時に日本に帰国、小学生で初めてピアノに触れ、レッスンを始めます。その後、桐朋学園の音楽科に入学、数多くの指揮者を育てた齋藤秀雄さんから本格的に指揮を学びました。

      23歳で単身、フランスに渡ると、現地で行われた指揮者のコンクールで優勝して飛躍の足がかりをつかみ、世界的な指揮者、カラヤンに師事しました。

      またアメリカの指揮者、バーンスタインにも認められ、25歳でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、その後もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など世界的に有名な数々のオーケストラで指揮者として長年活躍しました。

      レナード・バーンスタインと(1961年)

      このうち、アメリカのボストン交響楽団では1973年から29年間にわたって音楽監督を務めたほか、世界屈指の歌劇場として知られるオーストリアのウィーン国立歌劇場でも音楽監督を務めるなどその活躍によって「世界のオザワ」と評されました。

      国内でも1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の創立に携わったほか、恩師の齋藤秀雄さんをしのんでサイトウ・キネン・オーケストラを結成して音楽祭を開くなど精力的に活動し、戦後日本のクラシック界をけん引してきました。2008年には文化勲章を受章しています。

      小澤さんは2010年に食道がんで手術を受けて以降、活動の再開と休止を繰り返していましたが、去年9月には長野県松本市で開かれたコンサートに姿を見せていました。

      小澤さんは、今月6日都内の自宅で心不全のため亡くなったということです。88歳でした。

      葬儀はすでに近親者のみで執り行い、後日お別れの会を開くことを検討しているということです。

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    3. 闘病で活動休止も そのたびに音楽の舞台に復帰

      小澤征爾さんは2010年、74歳の時に食道がんの治療に専念するため、音楽監督を務めていたウィーン国立歌劇場での公演をはじめ、国内外の公演をキャンセルして活動を休止しました。

      小澤さんは食道を摘出する手術を受けたということですが、同じ年の8月には復帰の会見を開き、若手の演奏家たちを前に力強く指揮をする姿を見せました。

      その後も持病の腰痛や体力の低下などで活動を休止することがありましたが、そのたびに音楽の舞台に復帰してきました。

      2018年、82歳の時には心臓の弁がうまく機能しない「大動脈弁狭さく症」で入院しましたが、同じ年に復帰すると再びオーケストラを指揮する姿を見せ、小学生に音楽の魅力を伝える催しなども開きました。

      そして2022年、自身が総監督を務める「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の30周年特別記念公演を前に長野県松本市で、3年ぶりにオーケストラを指揮する姿を見せ、動画を公開しました。

      この時が、公の場での小澤さんの最後の指揮となりました。

      国内での大きな功績の一つ「サイトウ・キネン・オーケストラ」

      小澤征爾さんの国内のクラシック界における大きな功績の一つが今も続く「サイトウ・キネン・オーケストラ」です。

      これは1984年、小澤さんが師事した音楽家の故・齋藤秀雄さんをしのんだメモリアルコンサートを開いたのが始まりです。

      このとき、特別に編成されたオーケストラには小澤さんらの呼びかけに応えた世界中で活躍する齋藤さんの門下生が集まり、今の「サイトウ・キネン・オーケストラ」の母体となりました。

      このオーケストラはヨーロッパでのツアーも行って海外でも絶賛され、1992年には長野県松本市でも小澤さんみずからが総監督を務める「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を初めて開催しました。

      その後「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は世界水準のオーケストラとオペラに親しむことができる国際的な音楽祭となりました。

      松本市で小澤さんが指揮した「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏を収録したアルバム「ラヴェル:歌劇《こどもと魔法》」は、2016年、アメリカの音楽界で最も権威があるとされる「グラミー賞」の最優秀オペラ・レコーディング賞に選ばれました。

      おととし、松本市で行われた「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏が小澤さんの公の場での最後の指揮となりました。

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    4. 《国内外で追悼》

      約30年間 音楽監督務めた米ボストン交響楽団 公演で追悼

      小澤征爾さんが1973年から2002年まで、およそ30年間にわたって音楽監督を務めたボストン交響楽団では、9日午後の公演の冒頭に演奏と黙とうで小澤さんをしのびました。

      オーケストラのバックには小澤さんが指揮をしている横顔の大きな写真が掲げられ、はじめに楽団のチャド・スミスCEOが「きょうはこのオーケストラを愛する人にとって、そして音楽を愛するすべての人にとってとてもつらい日だ。わたしたちは巨匠を失った」と述べて小澤さんに哀悼の意を示しました。

      また「彼は教師でもあった。その教えは演奏者たちの中に生き続け、この神聖な空間の中で鳴り響き続ける」と述べ、後進の育成にも力を注いだ小澤さんの功績もたたえました。

      このあと、小澤さんが生前、友人が亡くなったときに別れの曲として贈っていたというバッハの「G線上のアリア」が楽団員によって演奏され、そのまま静かに演奏の手をとめて黙とうをささげました。

      また、ボストン交響楽団は、ホームページに追悼文を掲載し「伝説的な指揮者だっただけではなく、次世代の音楽家たちにとって情熱的な指導者でもあった」と功績をたたえました。

      また、その人柄について「心優しく、思慮深く、指揮台ではバレエのような優美さと並外れた記憶力を持ち合わせた音楽の天才だった。ボストンの町と、スポーツチームを深く愛していた」と紹介し、「彼の遺産は私たちの記憶や、レコーディングを通して生き続ける」として、ボストンを愛し、市民にも愛された小澤さんに哀悼の意を表しました。

      ボストン交響楽団スミスCEO「彼は先駆者だった」

      9日、ボストン交響楽団のチャド・スミスCEOがNHKのインタビューに応じ、「けさ、亡くなったことを知りました。病気だったことは知っていましたが、思っていたより衝撃は大きく、世界が少し暗くなった気がします」と心境を語りました。

      その上でボストン交響楽団がいまのような現代的な姿になったのは小澤さんのおかげだとして「彼が採用した音楽家、オーケストラの音やレパートリー、そして観客がこの空間で音楽を体験する方法に大きな影響を与えました」と功績をたたえました。

      そして小澤さんのキャリアについても触れ「彼は先駆者だったと思います。彼はアジア出身の音楽家がプロとしてのキャリアを歩む道を開きました。初めてであることは大きな重荷だったと思いますが、彼がこの音楽の世界で頂点に立ったことは多くの人にインスピレーションを与えたと思います」と話していました。

      ボストン交響楽団が拠点としている音楽ホールでは、建物についた楽団の頭文字の「BSO」という看板の「B」の字の電気を消して、「セイジ・オザワ」を意味する「SO」とすることで小澤さんへの哀悼の気持ちを示しています。

      音楽ホールでは小澤さんの写真がロビーに掲げられ、コンサートのあと、花を手向ける人の姿も見られました。

      コンサートを聞きに来た女性は「彼は黒いネクタイをせず、別の素敵な服を着て指揮をした初めての人でした。若くて、情熱的でした。彼が亡くなってとてもとても悲しい」と話していました。

      また別の男性は「彼は本当に際立っていて、みんなに影響を与えた人物として記憶されるでしょう。彼が指揮する姿、表現や動きを見るだけで本当に面白かった。信じられないほど素晴らしかったよ」と話していました。

      また、この音楽ホールのすぐ近くの駐車場にはオーケストラでの小澤さんの姿を大きく描いた壁画があり、写真を撮る人の姿も見られました。

      写真を撮りに来ていた女性は「けさ小澤さんが亡くなったことを聞いて、地元の新聞に記事を書こうと思い写真を撮りに来ました。残念ながら、わたしはクラシック音楽にあまり詳しくありませんが、彼が音楽の世界でとても有名だったことは知っています」と話していました。

      ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団「偉大な指揮者のひとり」

      小澤征爾さんが死去したことを受けて、小澤さんが指揮者をつとめたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、追悼の声明を発表しました。

      声明では、小澤征爾さんを「最も偉大な現代の指揮者のひとり」とたたえたうえで、「私たちは感謝と愛情を抱きながら、数々のコンサートやオペラなどでの公演、特に日本へのツアーを振り返っています」としています。

      ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 日本語で追悼コメント

      小澤征爾さんが指揮者をつとめたドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、SNSに投稿し、指揮をする小澤さんの写真と共に「ベルリン・フィルはかけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」と日本語で追悼のコメントを投稿しました。

      NYフィルハーモニック かつての写真投稿し功績たたえる

      小澤さんがかつて副指揮者を務めたニューヨーク・フィルハーモニックは、9日、公式のインスタグラムで声明を発表しました。

      この中で小澤さんについて、25歳の時、1961年にニューヨーク・フィルハーモニックでデビューして以降、何度も再演を果たしたとした上で、当時、音楽監督だったレナード・バーンスタイン氏などと一緒に写った写真を投稿しました。

      そして「武満徹やキルヒナーによる世界初演となる作品やレナード・バーンスタインの作品などあわせて124回、コンサートで指揮した」として小澤さんの功績をたたえました。

      その上で「ニューヨーク・フィルハーモニックは、この音楽界の巨匠と豊かな関係を築けたことを光栄に思う」として、哀悼の意を示しました。

      指揮者 佐渡裕さん「ずっと背中追いかけてきた 感謝しかない」

      小澤征爾さんに師事し、現在は小澤さんたちが設立した新日本フィルハーモニー交響楽団で、音楽監督を務めている指揮者の佐渡裕さんはNHKの電話取材に応じ、「小澤先生は子どものころから憧れていた1番の指揮者でした。いつかこんな日が来るとは思っていましたが、突然のことで大きなショックを受けています」と話しました。

      ヨーロッパの指揮者が席けんしていたオーケストラの世界で、日本人の小澤さんが活躍できたことについて佐渡さんは「小澤先生の指揮はすごく正確で誰から見てもはっきりと見えます。精密機械のようなテクニックに加え、ものすごいパッションを持っていることが大きかったと思います」と小澤さんの技術と情熱を高く評価しました。

      また、「日本人としてのバックグラウンドを持ちながら、音楽を共通語として世界で通用することを示したことが、僕ら日本人の後輩にとってものすごく励みになりました。日本だけでなく韓国や中国からも優秀な人が出てきている、そういう時代につながったと思います」と小澤さんの功績の大きさをたたえました。

      そのうえで、「小澤先生の背中をずっと追いかけてきましたが、追いつかない存在でした。26歳のときにタングルウッド音楽祭のオーディションで選んでくれなかったら、僕は海外に出ていなかったかもしれません。ヨーロッパではうまくいく時もいかない時もありましたが、よく食事に誘ってもらいました。そんなとき音楽の話はほとんどしませんでしたが、『頑張れよ』と言われているように感じました。本当に感謝しかありません。ありがとうございました」と話していました。

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