2018年4月11日

【オールジャパン(笑)】異次元おカルト政府「大本営」の持続可能性

暴走異次元施策とバラマキ戦線の拡大…今また「大本営発表」の時代そのもの。国家総動員体制ふたたび・・・

マスゴミ衆の手放しの喜びようときたら、もう・・・。時代錯誤(アナクロ)な異次元国家の面目躍如というほかない。日本の国家財政、2020年五輪開催までもつのか?


今でも悪夢を見ますよ、1930年代に国家権力を盾に間違った学説を強要し続けたロシアのルイセンコ的な全体主義が、日本にもまた来よるんではないか、と。当時、ロシアでは有能な科学者がシベリアに追放されたりした。日本でも、私の知人で、ルイセンコ説に反対した若い植物学の研究者が自殺したりしました。日本人は全体主義が好きですから、心配しています。
(MESSAGE/脱科学者の科学論 岡田節人 京都大学名誉教授)
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/news/2008/apr/index.html
http://www.iza.ne.jp/bookmark/37947/





オールジャパンの検索結果




オールジャパン検索結果(つれづれすくらっぷ )







(書きかけ)





《平時のごたごたは、私たちに精神の自主性を要求する。それに反して戦争となると、それをいっさい抛擲してしまふことができる。つまり最も激しい我の主張の場である戦場では、我を捨て去ることが出来る。自我の曖昧な日本の民衆は、とかくそういうふうに傾きやすい
(福田恒存『福田恒存全集3 平和論にたいする疑問』 麗澤大学出版会)
http://koibito.iza.ne.jp/blog/entry/586746




目の前にかざされた人参を追う馬のように、熱中する何かを常に目の前に提示され続け、正常で冷静な思考をたえず奪われ続ける、それが今の異次元国家ニッポンの民衆のすがたではないのか…。





「東京五輪」の検索結果



「2020年 東京五輪へ」特集
http://www.iza.ne.jp/news/feature/8430/
>2020年夏季五輪の開催都市が「東京」に決まった。東京はアジア初の五輪となった1964年大会以来、56年ぶりの開催となる。




オリンピック招致に成功し開催することができさえすれば、被災地の人たちはもちろん日本国民全体が、かつてそうだったように、必ずや元気と自信を取り戻せるようになるというお花畑全開脳内主観のルーピーな夢想や、それに便乗して政府や東京都はもちろんのこと熱病に浮かされたアホアホなスポンサーどもからたんまり金を巻き上げることができるとたくらんでいるようなヒトビト…

7年後には、東京五輪の開催が復興のスピードを速めたと、胸を張っていえるだろうか…
http://www.iza.ne.jp/bookmark/1544267/






(2013年9月13日)


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http://koibito.iza.ne.jp/blog/entry/3183936/


ためしにコピペしてみた。

(9/14)
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[昭和時代 第3部 戦前・戦中期]<33>
統制経済…国家総動員へ 体制づくり
2013年10月19日3時1分 読売新聞

premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131018-118-OYTPT01151

>日中戦争の勃発は日本経済にも強い衝撃を与えた。大規模な軍事支出をまかないつつ、インフレ抑制を図るため、近衛文麿内閣は、「国家総動員法」などを成立させ、経済の統制に乗り出した。規制は国民生活にも及び、その影響は暮らしの中に、ジワリジワリと広がった。(文中敬称略)


東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の勃発は日本経済に計り知れないダメージを与えた。大規模な復興再生支出をまかないつつ、デフレ脱却を図るため、安倍晋三内閣は、「アベノミクス 三本の矢政策」異次元金融緩和などを実施し、計画経済の中央コントロールに乗り出した。消費税増税は国民生活の隅々に及び、その影響は暮らしの中に、ジワリジワリと広がった(笑)。



外務省:日中韓三国間協力ビジョン2020(骨子)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jck/summit2010/vision2020.html



(追記10/19)(追記3/5 2015)

168 件のコメント:

  1. 「ips細胞 オールジャパン」(笑)。
    https://www.google.co.jp/search?q=ips%E7%B4%B0%E8%83%9E+%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3

    「オールジャパン」という掛け声は、すこぶる怪しげなことに大勢の人々をまきこんで抜けられなくするときの常套句みたいなものだろう…。
     

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  2. 【産経抄】9月12日

     山本周五郎の最後の長編小説『ながい坂』に、少年時代の主人公が、師から諭される場面がある。「たとえば阿部の家で祝いの宴をしているとき、どこかでは泣いている者があり、親子心中をしようとしている家族があるかもしれない」▼2020年夏季五輪の東京開催が決まって以来、気分の上ではずっと祝いの宴が続いている。東日本大震災から2年半たったきのう、被災地の現状を伝える記事が、そんな小欄の目を覚まさせてくれた▼「東京は安全という発言は、福島が危険と大声で言っているようなものだ」。今も人通りがほとんどないという南相馬市小高区からは、怒りの声が上がる。福島第1原発の汚染水問題も、解決の決め手が見つかったわけではない。復興のための人手や資材が、東京五輪に取られてしまう不安も理解できる▼東京招致に至るまで、「オールジャパン」体制の活動が強調されてきた。では、復興も「オールジャパン」で進んでいるといえるのか。被災地の農産物を扱う首都圏のスーパーは、食品の放射能検査を徹底している。にもかかわらず、いまだに風評被害がなくならない。震災がれきの受け入れにも、東北以外の一部の住民からは当初激しい反発が起こったものだ▼周五郎は、「曲軒」のあだ名がつくほどヘソ曲がりだった。前回の東京五輪開催が決まったときも浮かれることなく、むしろ戦後復興に取り残された人々を気遣った。当時の随筆で、「オリンピックをやれば文明国のなかま入りができるという稚気や、便乗して金もうけをたくらんでいるような人たち」を批判している▼平成の日本人はどうだろう。7年後には、東京五輪の開催が復興のスピードを速めたと、胸を張っていえるだろうか。

    2013.9.12 03:20
    http://sankei.jp.msn.com/sports/news/130912/oth13091203200000-n1.htm
     

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  3. 9月17日 編集手帳

     近代オリンピックの創設者として知られるクーベルタン男爵(1863~1937)は晩年、1940年に予定されていた東京五輪に特別の思いを抱いていたという◆「古代欧州が生み出した文明とアジアの文化芸術が結び付く」。そんなメッセージを日本に寄せていた。同時開催が決まっていた東京万博のことも、あるいは念頭にあったのかもしれない。しかし、男爵が亡くなった翌年、日本政府は日中戦争の泥沼化などにより五輪と万博の取りやめを決める◆「1940年の夢」は、戦後の高度成長時代に東京五輪と大阪万博の形で、ようやく実現する。奇跡の戦後復興を成し遂げた日本の姿が、世界を驚かせた◆再び東京で開催される2020年夏季五輪では、高度成長時代とも違った、文化の「おもてなし」が期待されるに違いない◆文化庁は2020年を目標に、文化芸術立国中期プランの検討を進めている。地域の伝統芸能を生かした参加・体験型プログラムや五輪選手とほぼ同数の約1万人の芸術家を受け入れる計画などが議論されている。21世紀にふさわしい成熟した多文化の交流を実現させたい。

    2013年9月17日3時3分 読売新聞
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20130917-118-OYTPT00096/
     

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  4. 政府、五輪推進室を設置へ 府省庁調整で

     政府は27日、2020年夏季東京五輪開催に向けて府省庁にまたがる施策を調整するため「2020年オリンピック・パラリンピック東京大会推進室」(仮称)を近く内閣官房に設置する方針を固めた。室長には、日本サッカー協会元専務理事の平田竹男内閣官房参与を充てる方向だ。

     菅義偉官房長官は27日の記者会見で「しっかり五輪を推進できる体制を内閣でつくる。近いうちに組織を発足させたい」と述べた。

     推進室は文部科学省や厚生労働省などの職員を異動させて発足する。

    2013/09/27 13:13 【共同通信】
    http://www.47news.jp/CN/201309/CN2013092701001193.html
     

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  5. 《これは日米開戦の前の状況に似ている。軍部は、日米開戦すれば勝てないことは認識していたが、世論は主戦論に傾き、青年将校のクーデタに100万通を超える助命嘆願が寄せられる「空気」と、それをあおる朝日新聞などのメディアが、近衛文麿のような「心情」に弱い政治家を押し流していった。

    近衛の「心情」が日本を破滅に導いたように、エネルギーのインフラを破壊して産業の空洞化をまねき、日本経済を衰退に導いたのは、安倍政権の「心情の政治」だった――と後代の歴史家は書くかもしれない。》
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51873588.html

    実質、1997年のころが開戦前夜みたいなもので…

    ミレニアム・プロジェクト事業開始が開戦みたいなもの…
     

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  6. 一種の目くらまし言説にしかならない。
     

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  7. 日米開戦時の首相は東條英機…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%96%8B%E6%88%A6%E6%99%82%E3%81%AE%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3

    今の日本でそれにあたるのは…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88+%E5%B0%8F%E6%B8%95%E5%86%85%E9%96%A3
     

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  8. もう敗戦前夜みたいなもの…っていうか、あの3.11東日本大震災直後の天皇陛下のラジオ放送のお言葉はまるで玉音放送…。


    「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(平成23年3月16日)」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%9B%E4%B8%8B%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0
     

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  9. 2020年東京五輪で日本は完結完了してしまうんだろうか…

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  10. ぱっと咲いてぱっと散る、まるで花火のような…

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  11. 「玉砕 散華」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E7%8E%89%E7%A0%95+%E6%95%A3%E8%8F%AF
     

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  12. 太宰治 「散華」 - 青空文庫
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1095_20125.html
     
    >玉砕(ぎょくさい)という題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手(へた)な小説の題などには、もったいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華(さんげ)と改めた。
     

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  13. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<34>紀元二六〇〇年…戦時下で盛大な祝典
    2013年10月26日3時2分 読売新聞

     1940(昭和15)年、「紀元二六〇〇年」を祝う行事が全国的に繰り広げられた。だが、その一環だった万博と東京五輪は、日中戦争の長期化に伴い、中止されていた。統制は芸能にも及び、日常生活は息苦しさを増していたが、国民にとって戦地は遠く、観光・消費ブームも起きていた。(文中敬称略)

    ◇ああ一億の胸は鳴る

     1940(昭和15)年11月10日、宮城(皇居)前広場で、政府主催の紀元二六〇〇年式典が開かれた。神武天皇紀元の節目を祝う最大のイベントには、海外からの招待客を含め約5万人が参加した。昭和天皇が勅語を述べたあと、首相の近衛文麿が「天皇陛下万歳」の声をあげ、これに唱和する参列者の大音声が響きわたった。

     40年の元旦のラジオは、神武天皇を祀(まつ)る橿原(かしはら)神宮の初詣を中継放送し、午前9時、多くの国民は宮城を遥拝(ようはい)した。大阪湾に集合した連合艦隊は「皇礼砲」を発した。1月9日からは東京の七つのデパートで「奉祝展覧会」が始まり、入場者はのべ約500万人に上った。

     2月11日の紀元節には、昭和天皇が特別に詔勅を渙発(かんぱつ)し、恩赦が発令された。全国11万の神社で大祭が行われた。

     紀元は二六〇〇年、ああ一億の胸は鳴る、と歌う奉祝国民歌も作られた。

     橿原神宮の整備には修学旅行生を含む121万人が勤労奉仕した。天孫降臨の伝説の舞台、宮崎県では高さ約36メートルの「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」が建設され、北京神社、南洋神社(サイパン)、建国神廟(びょう)(満州国)など海外の神社も造営された。

    ◇高度成長の夢描く

     紀元二六〇〇年の奉祝行事・事業の計画は、10年前に遡る。

     それは、アジア初のオリンピック東京大会と万国博覧会の招致に始まった。二つの国際的な大イベントを紀元二六〇〇年に開催する構想が、30(昭和5)年に浮上したのだ。

     一方で同じ時期、奈良県を中心に、橿原神宮の参道拡張や陵墓の整備案が打ち出された。いずれも、都市開発や外貨獲得、観光客誘致といった経済効果を狙っていた。

     政府は35(昭和10)年10月、祝典準備委員会を発足させた。36年7月にはオリンピックの東京開催が決まった。

     日本大学の古川隆久教授(日本近現代史)は、「国際政治の場では一等国とされた日本政府は、この記念イベントを契機に、経済的にも一等国の仲間入りをしたいと考えた。国民の間にも、一流国並みの豊かな生活の実現は不可能ではないとの気分が広がっていた」と語る。

     外国人客誘致のため、外国人向けホテルの建設ラッシュが始まった。高島屋や松坂屋などのデパートでは、大規模な改築や増築が相次いだ。37(昭和12)年、商工省に万博担当の課が新設され、東京・月島埋め立て地がメーン会場予定地になった。

     万博計画の財源に充てるため、38(昭和13)年1月、富くじ付き入場券の販売が開始された。同年3月には、万博出展を促す招請状も各国に送付された。

     東京市は、万博会場に隣接した埋め立て地に五輪用の大競技場を計画するなど、経済の高度成長を目指す国家プロジェクトは着々と進んでいた。

    ◇観光ブームに沸く

     この頃、庶民の生活で、注目すべきブームが起きていた。観光旅行である。

     雑誌には「熱海の温泉宿は満室状態」「富士山や富士五湖周辺の観光客が増えて、休日の列車は混雑の極みに達している」といった記事が載っている。

     国内で戦争をしているわけではなかった。すでに多数の戦死者を出していたものの、戦地の悲惨な状況は国民には知らされず、切迫感は乏しかった。

     加えて「厚生」――健康の維持増進と生活の安定、という呼び声も、旅行ブームを後押しした。38(昭和13)年1月、厚生省(現厚生労働省)が設置され、「体力局」や「衛生局」が置かれた。高い結核死亡率と、徴兵検査で判明した青年の体力不足が背景にあった。ハイキングなどを含む観光旅行は、国の「健民政策」の一環とされ、国民はそれを名目に堂々と旅行を楽しむことができたという。

     関西学院大学の高岡裕之教授(社会史)は、観光ブームについて、「戦時下にもかかわらずツーリズムが継続したというよりも、戦時下においてツーリズムが拡大したという見方が妥当だ」と指摘する。

    消えた東京五輪、万博

     37年7月に始まった日中戦争は簡単には終わらなかった。日本政府は38(昭和13)年7月15日、オリンピックの開催返上と万博の延期を決めた。理由は、物心両面の総動員で、長期戦への態勢を固めるためだった。多くの国民が期待した高度成長の夢は、はかなく消える。

     こうして残された形の紀元二六〇〇年の奉祝行事・事業は、国民統合と、戦争遂行のための団結・動員の強化が前面に押し出されていく。

     ただ、観光・消費ブームは、すぐには衰えなかった。デパートの売り上げは、紀元二六〇〇年の40(昭和15)年までうなぎ登りに伸びていた。三越の純利益は、36年の310万円から40年には530万円と激増、戦前期最高益を記録した。

     40年には、奈良、伊勢、宮崎の建国聖地巡礼旅行も、ブームになった。この年1年間に橿原神宮のある奈良県を訪れた人は、約3830万人にも上り、前年比2000万人増という驚異的な数字を残している。

     海を越えて朝鮮や満州(現中国東北部)に観光に出かける人も多かった。とくに満州観光で人気を集めたのは、日清・日露両戦争の戦跡「旅順」だった。

     40年の奉祝行事は、政府に報告があっただけで、全国で1万2000件を超え、参加者はのべ約5000万人に上ったという。政府主催の式典を取材した米紙ニューヨーク・タイムズの特派員は、「神武天皇神話に基づくシンボリズムは、ロマンチックで詩的だが、天皇を絶対化する効果ももつため、軍部の暴走を招いている」と論評した。

    ◇祝いは終わった

     都市も農村も、軍需景気で羽振りがいい人もいれば、出征で働き手を奪われて生活が苦しい人もいた。いわゆる「格差」が生まれていた。

     高峰三枝子のヒット曲、「湖畔の宿」(山の淋(さび)しい湖に――)は、替え歌で「昨日召されたタコ八が タマにあたって 名誉の戦死」と歌われる。

     電車が宮城や明治神宮前にさしかかると、人々は頭を下げねばならなかった。「それがどんなに馬鹿げているかということは誰もが知っていながら、誰もがそれに従わざるを得なかった」(安岡章太郎『僕の昭和史』)。

     国民の間には、苛立(いらだ)ちや不公平感や空(むな)しさが募っていた。

     政府式典後の11月14日までの5日間に限って、禁止されていた旗行列や提灯(ちょうちん)行列、みこしが復活し、東京市内を花電車が走った。そして祭りにピリオドが打たれると、街のポスターは、「祝ひ終つた さあ働かう!」に張り替えられた。日米開戦まであと1年だった。(永峰好美、田中聡、大津和夫)
     

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  14. 芸能にも統制の風圧

    ◇「禁演落語」で自粛

     東京・浅草の本法寺に1941(昭和16)年に建立された「はなし塚」には、このように刻まれている。

     〈昨秋九月、東京落語家全員は、国家新体制に即応し、五十三種の落語禁演を自粛協定して、職域奉公の実を挙げたり〉

     「禁演落語」と言われるこれらの演目は、“戦時下にふさわしくない”艶笑譚(たん)が主だった。「講談落語協会の顧問だった野村無名庵が中心になって選んだ」と、演芸や流行歌に詳しい評論家の保田武宏は話す。

     38(昭和13)年4月の国家総動員法公布以来、芸能文化に対する統制は一層、厳しさを増していた。従来の共産主義のような「個々の思想や著作に対する弾圧の段階から、そうした言論・表現の媒体自体を統制下に置き、これを国策遂行目的のために積極的に利用していこうとする段階」(宮本大人「戦時統制と絵本」)に入った。

     39年には、国民精神総動員の強化に向けて、「早起励行」「報恩感謝」などの国民生活要綱が策定された。40(昭和15)年に入ると、近衛文麿は、「軍官民が一体となって」戦争にあたる「新体制運動」を推進した。

     これを受け、芸能文化も、映画などの検閲が厳しくなり、劇場には検閲官が臨席するための特別席が設けられた。

     歌手、俳優、寄席芸人など芸能を職業とする者は、警視庁の発行する「技芸者之証」を携帯することが義務づけられた。3月には、カタカナの“敵性語芸名”の芸能人に対し、内務省から改名命令が出された。

     8月1日初演の有楽座・吉本爆笑演芸大会では、柳家金語楼主演の「花婿三重奏」が、爆笑大悲劇「倅(せがれ)は生きている」一幕五景に急きょ差し替えられるなど、警視庁保安部によって演目が変更されることも起きた。「禁演落語」は、こうした圧力のもとでの「自粛」だった。

     とはいえ、芸能文化に対する統制は、初めのうちは、大正から昭和初期に流行した「エロ・グロ・ナンセンス」への反動という側面をもっていた。

     芸能文化の低俗化にまゆをひそめる“良質な文化人”も少なくなかった。

     漫画などの児童読み物について、38年10月に決定された「児童読物改善ニ関スル指示要綱」の作成にあたったのは、後にお茶の水女子大学の学長となる波多野完治、作家の山本有三、童話作家の坪田譲治ら9委員だった。

     「問題になったのは、赤本漫画の時代劇や戦争物などだ。敵の首がはねられるような残酷描写や、教育的配慮に欠けた営利優先主義も批判の対象になっていた」と、明治大学の宮本大人准教授は語る。

    ◇のらくろ満州に渡る

     推奨されたのは、科学啓蒙(けいもう)的な読み物や、満州国建国でうたわれた「五族協和」などだ。それが如実に表れたのが、田河水泡(たがわすいほう)の人気漫画「のらくろ」だった。

     31(昭和6)年に連載が始まったこの漫画は、猛犬連隊に入隊した野良犬黒吉の軍隊生活を面白おかしく描いていたが、39年、予備役となった黒吉は、満州(現中国東北部)に渡り、朝鮮生まれの犬の金剛君、羊の蘭君、豚の包君らと鉱山探しの旅を続けるという展開になる。

     音楽の世界では、NHKが36年から「国民歌謡」の放送を始めた。同年に大ヒットした渡辺はま子の「忘れちゃいやヨ」が、内務省から「官能的歌唱」を理由に発売禁止を受けるなど、歌への統制が強まってきた時期でのことだ。

     島崎藤村が作詞し、東海林太郎が歌った「椰子(やし)の実」や「春の唄」(歌・月村光子)などの人気曲が生まれた。だが、37年12月、内閣情報部が「愛国行進曲」を「国民歌謡」の放送に押し込んでから、本来の趣旨から離れた選曲になっていく。「紀元二千六百年」「出せ一億の底力」「興亜行進曲」など、国策宣伝のための曲が増えた。

     象徴的なのが、40(昭和15)年6月から放送された「隣組」だ。トントントンカラリと 隣組――と軽快に歌われ、ヒットしたこの曲は、内務省が訓令によって定めた「隣組制度」を宣伝するものだった。

     40年12月、情報宣伝機能を強めるため、各省庁に分散していた情報関係部局を集めて情報局が誕生する。これで文化芸能に対する圧力も、一層強まる。

     NHKの「国民歌謡」は41年2月に終了、より戦時色の濃い「われらのうた」が始まる。

     「のらくろ」も、「この非常時に、漫画のようなふざけたものを雑誌にのせて、貴重な資源である用紙を費やすことは許さん」という当局の意向で、41年10月、終了に追い込まれた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131025-118-OYTPT01102
     

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  15. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<35>「言論」から「翼賛」の府へ
    2013年11月2日3時1分 読売新聞

     帝国議会や政党は、軍部の台頭によって地盤沈下が進んだ。中には、言論の力によって、軍部や政府批判に気を吐く議員はいたが、1940(昭和15)年、政友会や民政党など既成政党は、新体制運動に雪崩を打って次々と解党し、“無党”時代を迎える。(文中敬称略)

     ◇国家総動員法は「違憲」

     日中戦争が始まって2か月後の1937(昭和12)年9月4日、第72回帝国議会(臨時会)が開かれた。近衛文麿首相は5日、貴衆両院で演説し、「できるだけ速やかに支那軍に対して徹底的打撃を加え、戦意を喪失させる以外にない」と表明した。

     戦火の拡大を受け、20億円にも上る巨額の臨時軍事費予算案が提出された。中身は軍事機密として明示されなかった。予算は会期末の8日、政府の原案通り、成立した。

     戦時とはいえ、スピード審議を嘆く声もあった。「20億を精査もせずに通過した議会、他日国民に会わせる顔がなくなるであろう事を予想せる者、幾人ありや。憲政はサーベルの前に屈しぬ」。外務省東亜局長の石射(いしい)猪太郎はこう日記に記した。

     同年12月に召集された第73回議会(通常会)の焦点は、国家総動員法案だった。

     法案は、議会の議決を経ずに、政府の権限で国民生活全体への統制を実施できるとしていた。政友会も民政党も、議会軽視として強く反発した。

     翌38(昭和13)年2月24日、法案の審議が始まると、民政党の斎藤隆夫、政友会の牧野良三らが質問に立ち、反対の論陣を張った。

     斎藤は、法の必要性は認めつつも、広範な委任立法は、戦時下、憲法上の国民の権利義務に拘束されずに大権を行使できるとした「天皇の非常大権」を干犯し、憲法違反の疑いがあると追及した。政府側は答弁につまって審議は中断した。

     これに対し、社会大衆党は、法案に賛成の立場から、浅沼稲次郎(戦後、社会党委員長)が質問した。社大党は、37(昭和12)年4月の衆院選で、無産政党では戦前最高の37人が当選していた。同党は、戦争に協力するとして右旋回し、国家社会主義的な主張を強めていた。

     結局、国家総動員法は38年3月24日、原案のまま成立した。

     その背景には、右翼勢力や軍部の圧力があった。実際、同月3日の委員会審議の最中、陸軍省軍務局の佐藤賢了中佐が、ヤジを飛ばす政友会の宮脇長吉を「黙れっ」と一喝する一幕もあった(「黙れ事件」)。

     ◇「新党」で揺さぶり

     だが、政友、民政の両党が態度をひょう変させた最大の理由は、近衛首相の発言だった。

     審議が難航し、成立の見通しが立たないことに苛立(いらだ)った近衛が同月11日の会議で、「重大なる危機に陥る場合、閣内結束して法案成立に強固なる決意をもって邁進(まいしん)する」と語ったのだ。

     近衛側近の有馬頼寧(よりやす)=人物抄=によれば、近衛は、法案を通すための最後の手段は、衆院解散しかないが、選挙をしても、2大政党が中心となることは確実なので、「新党を作って選挙に臨むよりほかにない」と語ったという。

     すでに、内相の末次信正は、衆院解散の場合は、緊急勅令によって、既成政党に不利な形で選挙法を改めるよう近衛に進言していた。

     近衛の意向はすぐさま、両党議員に伝わった。国民の人気が高い近衛が党首を務める「新党」によって解散・総選挙を打たれては、既成各党はひとたまりもない。そんな恐怖心に駆られて各党は法案賛成に動いた。

     同法成立の際、衆議院本会議でハプニングがあった。

     社大党の西尾末広(戦後、民社党委員長)が賛成討論で、「ムソリーニのごとく、ヒトラーのごとく、あるいはスターリンのごとく大胆に日本の進むべき道を進むべき」だと、近衛を激励したのだ。

     西尾は議員を除名される。その裏には、まるで「近衛与党」のように振る舞う社大党への2大政党の不満があった。
     

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  16. 「聖戦の美名に隠れて」

     ◇斎藤隆夫の反軍演説

     現在の国会議事堂が完成した翌年の37(昭和12)年、政友会ベテランの浜田国松は、寺内寿一陸相との間で「腹切り問答」を繰り広げた。これは、政党と軍部の正面衝突に発展した。

     「黙れ事件」で一喝された宮脇も、この問答の直後、軍部の政治関与は目に余る、として陸相にかみついている。

     斎藤隆夫も、その前年の36年の衆院本会議で、軍部の政治介入を論難し、他党からも拍手喝采を受け、大反響を呼んだ(「粛軍演説」)。

     とくに陸軍は、同年の2・26事件以降、議会や政党に対する監視の目を強めていた。

     40(昭和15)年2月2日の衆院本会議。演壇に立ったのは、斎藤だった。この日、斎藤は、泥沼化している日中戦争への対応策を厳しく質(ただ)しながら、舌鋒(ぜっぽう)鋭くこう続けた。

     <ただ、いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字をならべ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない>

     これは「反軍演説」と称されるが、内容は、「近衛声明」で混迷するばかりの日中戦争を総括、国家競争の現実を知らぬ近衛元首相らの政治指導を真っ向から糾弾したものだった。

     斎藤は当時、69歳。「五尺(約150センチ)そこそこの小男」で、やせ細った容姿から「ねずみの殿様」と呼ばれていた。演説原稿を棒読みする議員を軽蔑し、自らの言葉で議場に訴えかける雄弁家でもあった。

     ◇斎藤議員は除名に

     約1時間半もの大演説を行った斎藤に、議場からは「もうよろしい」「要点を言え」などの罵声が浴びせられた。

     閉会後、小山松寿衆院議長や民政党幹部は、軍部の怒りを静めようと先回りし、議事録の一部削除と、離党を斎藤に促した。斎藤もやむなくこれに応じ、議事録は3分の2が削除された。

     しかし、政友会中島派、時局同志会、社会大衆党などは飽きたらず、国会からの追放を意味する「除名」を求め、民政党に圧力をかけた。民政党を分裂に追い込み、新党運動の起爆剤にしようという思惑もあった。

     「斎藤隆夫君の言説は一種の援蒋行為である」――斎藤に批判的な議員は「懲罰賛成」の世論を喚起する小冊子を1部10銭で売った。小泉又次郎ら民政党の長老は、これ以上、事態がこじれるのを避けようと、斎藤に自発的な議員辞職を勧めた。

     しかし、斎藤は拒否した。斎藤の元には一般国民から「自発的辞職などする筋合いのものにあらず」と、激励の手紙が多数寄せられていた。

     斎藤の進退は民政党幹部に一任され、総裁の町田忠治は除名を巡る投票での「賛成」を党議決定した。

     斎藤演説から約1か月後の3月7日、衆院本会議で記名投票が行われた。結果は出席者303人のうち賛成296票。議院法に定められた「出席議員の3分の2以上」に達し、斎藤は「言論の府」から追放された。

     反対票を投じたのは芦田均、牧野良三、名川侃市、宮脇長吉、丸山弁三郎、岡崎久次郎、北浦圭太郎のわずか7人(棄権144人)だった。

     除名の旗振り役だった政友会中島派や時局同志会は直後、民政党の一部などと合流し、親軍派の「聖戦貫徹議員連盟」を発足させた。

     斎藤の反軍演説は、政界再編と新党樹立の動きに弾みを与えることになる。
     

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  17. 「新体制」へ雪崩打つ

     ◇聖戦貫徹議員連盟

     5・15事件(32年)の後、政党内閣は途絶えたが、衆院で2大政党が勢力を競い合う構図は変わらなかった。

     岡田内閣の下で行われた36(昭和11)年の衆院選では、民政党が第1党に返り咲き、政友会は半減近い大敗を喫する。林銑十郎内閣による衆院解散・総選挙(37年)では、民政党が議席を減らしたものの、第1党を確保し、政友会が第2党に終わった。二つの選挙では、社大党が躍進している。

     その後内閣は、第1次近衛、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政と非政党内閣が続いた。

     38年、政民両党内に、国家総動員法案を否決して近衛を退陣させ、宇垣一成内閣―新党結成―政党内閣復活の策動もみられたが、現実化しなかった。

     その年夏には、社会大衆党の麻生久や亀井貫一郎らのグループが、近衛新党結成の運動を活発化させている。だが、近衛の態度がはっきりせず、進展しないで終わった。

     40(昭和15)年の政界再編―新党結成の動きは、斎藤除名推進派でつくる聖戦貫徹議員連盟が火を付けた。

     出口のみえない日中戦争の一方で、欧州戦線ではドイツ軍が快進撃を続けていた。国内の閉塞感打破に向け、ナチスなどを念頭に「強力政党」を待望する空気が強まっていた。

     近衛や有馬頼寧、木戸幸一は40(昭和15)年5月、新党樹立のための覚書を作成した。理論面は東大教授の矢部貞治が担当し、近衛側近の風見章が政民両党の有力者に解党への説得工作を続けた。

     社会大衆党は以前から新党に積極的で、近衛も、2大政党と一線を画した議員との連携を望んでいた。陸軍側も、近衛新党・近衛内閣を策していた。

     ◇2か月で相次ぐ解党

     6月24日、近衛は、新党結成に向け、「新体制運動」の推進を図ろうと枢密院議長の辞職を表明した。<余の期する所は、支那事変処理のため、世界情勢に対応するため、強力体制を整えんとするものにして挙国体制の確立にあり。国家の飛躍的発展の使命を認識し、新体制確立の壮挙には欣然(きんぜん)参加せざるを得ずとなすものなり>。

     新体制とは、すべての国民が、国家公益を優先させ、「国家の政治意思を一元化」するものとされ、政治、経済、社会の全面的な変革をめざしていた。

     近衛の決意をみてとった各党は、にわかに動き始めた。39(昭和14)年4月に中島知久平派と、久原房之助派に分裂していた政友会では、40年7月16日に久原派が、30日には中島派がそれぞれ解党に踏み切った。

     解党への慎重論が少なくなかった民政党も、党内から離党者が出るに及んで8月15日、解党する。2大政党の動きに前後して、社大党や中野正剛の東方会、安達謙蔵の国民同盟も相次いで解党した。

     ◇大政翼賛会を結成

     帝国議会開設50周年のこの年、議会から政党がなくなった。

     ところが、肝心の近衛は、一転して新党への意欲を失っていった。右翼からは一国一党の新党の結成は「幕府」の再来であって違憲だ、との批判が出たことをとても気に病んだ。

     近衛は、7月22日の第2次内閣発足直後、政党との関係について、「不即不離」と強調したうえで、一国一党について、「建前として一つしか政党がない、その党の総裁が首相になるというのは我が国の国体に反すると思う。いわゆる幕府的存在になる」と否定した。

     新体制準備委員会が設置され、10月12日、運動の中核組織として大政翼賛会が発足した。近衛は、「綱領は大政翼賛の臣道の実践に尽きる。これ以外には綱領も宣言もなし」とあいさつした。これでは政党といえなかった。参加した議員は翼賛会の一部局の議会局にポストを得たが、重要な決定には加われなかった。

     政界の主導権を奪えなかった2大政党出身議員は、大政翼賛会攻撃を始めた。41年1月25日の国会で、民政党出身の川崎克衆院議員は、大政翼賛会は「憲法の精神に反している」と追及。近衛は「見解の相違である」と答えるにとどまった。川崎は、大政翼賛会は全く法律上の根拠なし、と決めつけた。

     大政翼賛会はその後、事務総長を務めていた有馬らが辞職し、内務官僚らを中心とした組織に改革され、政府の運動組織として終戦直前まで残った。(遠藤剛、東武雄)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131101-118-OYTPT01142
     

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  18. 1940年体制…
    https://www.google.co.jp/search?q=1940%E5%B9%B4%E4%BD%93%E5%88%B6
     

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  19. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<36>植民地統治…兵站基地・皇民化を図る
    2013年11月9日3時1分 読売新聞

     日本の植民地統治下にあった朝鮮や台湾は、1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、人員や食糧、軍事物資を補給する兵站(へいたん)基地としての役割を担うことになった。戦火の拡大とともに動員体制は強化され、「皇国臣民化」が強力に推し進められていく。(文中敬称略)

    ◇南総督の内鮮一体化

     1936(昭和11)年8月、第7代朝鮮総督に南次郎が就任した。総督は、10(明治43)年の日韓併合以来、陸海軍大将の中から任命され、朝鮮の軍務、行政、立法、司法を統括する絶対的権限をもっていた。

     31(昭和6)年の満州事変の時の陸相で、その後、関東軍司令官も務めた南総督の下で、植民地・朝鮮は大きく転換する。

     南は、日中戦争勃発を受け、朝鮮を「大陸前進兵站基地」と位置づけた。将来、内地と大陸を結ぶ航路の安全が脅かされることも想定、内地の物資に頼らずに中国戦線を支援できるよう、朝鮮の産業の多角化や軍需産業の育成を図った。

     日本人と同様に、朝鮮人の戦時動員を可能にするため、「内鮮一体」化策も進めた。皇民化教育、志願兵制度、創氏改名の三つが柱だった。

     この南の「内鮮一体」化と、ある意味で対照的なのは、斎藤実総督(1919~27年、29~31年在任)の「内鮮融和」だった。10年代の強権的な「武断統治」が、19年の3・1独立運動を招いたことへの反省が、融和政策の背景にあった。

     朝鮮資本による朝鮮語の新聞の発刊を認め、日本人学校でも朝鮮語を教えた。総督府主催の朝鮮美術展なども開催。20年代は「文化政治」と呼ばれた。

     満州事変後、朝鮮の戦略的役割が注目され始めるが、宇垣一成総督(31~36年)は、極端な「内鮮一体」化策は取らなかった。つまり南総督は、統治のあり方を大きく見直したのだ。

     南は、腹心の塩原時三郎を学務局長に抜てきした。塩原は東京帝大の学生時代、後に天皇機関説排撃の急先鋒(せんぽう)となった蓑田胸喜らと共に「興国同志会」を結成した国家主義者だった。

     「皇国臣民の誓詞」が制定され、学校で、「我等ハ皇国臣民ナリ 忠誠以テ君国ニ報ゼン」などと生徒たちに唱和させた。神社参拝も頻繁に行われるようになった。

     朝鮮教育令も改正し、「忠良ナル皇国臣民ヲ育成スル」ことを明確に打ち出した。それまでは、主として日本人が通う学校(小中学校、高等女学校)と、朝鮮人が通う学校(普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校)の2系統に区別されていたが、日本式に統一された。

     普通学校で教えられていた朝鮮語は随意科目となり、朝鮮人に対する朝鮮語教育は、やがて廃止される。

    創氏改名と大量動員

     「創氏改名」は、父親を家長とする日本の「家制度」を朝鮮に導入するのが狙いだった。

     40(昭和15)年2月に施行された「改正朝鮮民事令」では、戸主に、6か月以内に、日本式に「氏」を届け出るよう求めた。届け出がない場合、朝鮮式の「姓」が自動的に「氏」として戸籍に登録された。

     朝鮮では従来、朝鮮人が日本風に改名することを、事実上禁止していた。このため、文学界の重鎮だった作家の李光洙は、差別がなくなったのだと歓迎し、創氏改名を呼びかけた。自身も香山光郎と名乗った。だが、創氏改名しても、実際には日本人との戸籍上の区別は残った。

     創氏改名の成績を上げたい地方行政機関は、住民が届け出るよう圧力をかけた。地域代表や巡査が、本人が知らぬ間に改名してしまう例もあったようだ。

     出足は鈍かったが、最終的には全世帯の約80%が届け出をした。ただ、徳川家康、楠木正成などと大書した表札を掲げて、憤りを示した人もいたという。

     韓国の歴史家、池明観は「30年代後半に始まった朝鮮語の抹殺、神社参拝の強要、ひいては『創氏改名』に至る統治政策は、今までの政治的支配、経済的収奪よりも一層耐え難いものであった」と著書に記している。
     

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  20. ◇志願兵から徴兵へ

     38(昭和13)年に国家総動員法を公布した近衛内閣は、労務動員実施計画の策定に着手した。その一つに、朝鮮人労働者の動員計画があった。39年度から終戦までの間に朝鮮から日本本土や樺太、南洋諸島に約70万人の労働者が移住させられた。

     戦時下、日本国内では労働力不足が深刻化し、朝鮮からの動員は重要な意味を持った。当初は、日本政府の許可を得た事業主(鉱山、炭鉱、土木事業など)が朝鮮総督府の許可を得て、割り当てられた人数の「募集」を行って集団渡航させた。

     42(昭和17)年からは「官斡旋(あっせん)」の方式もとられた。事業主から申請を受けた総督府が、動員人数を地域別に割り振り、末端の地方行政機関が、労働者を集めて隊組織に編成した。移送は総督府の外郭団体が行った。「募集」方式では、動員目標の達成が難しく、逃亡者も多かったためだ。

     44(昭和19)年には、39年に制定されていた国民徴用令が朝鮮でも本格的に発動された。

     また、労務動員計画とは別に、陸海軍工場などで働く軍要員(軍属)として約14万人が動員された。

     日本軍は中国や南方などの占領地に兵士の慰安所を設けたが、朝鮮でも民間業者によって、慰安婦の募集が行われた。

     軍部は、朝鮮からの兵力動員も急務と考えていた。しかし、強い民族意識を持つ朝鮮人に武器を持たせることに不安を抱いてもいた。日本の陸軍士官学校を卒業し、任官されるほかは、朝鮮人が軍務に付くことはできない時代が続いていた。

     手始めに38年、陸軍特別志願兵制度が導入された(海軍は43年)。応募者は年々増えて、43年には6300人の募集に対し、50倍近い約30万人が殺到した。背景として、軍の強い働きかけや、貧しい農家が多かったこと、徴兵より待遇がよいと期待されたことなどが指摘されている。

     終戦間際の44(昭和19)年には徴兵制が実施され、約10万人が動員された。

     40(昭和15)年当時の朝鮮の経済状況は、「大正2、3年ごろの内地とほぼ同程度」(松原純一・朝鮮銀行総裁)と言われていた。

     ソウル(漢城)を改称した「京城」の人口は急増し、100万人に近づきつつあった。その約2割は日本人で、日本人が多く居住する地域には、明治町、大和町などの地名が付けられ、三越百貨店京城支店など日本のモダンなデパートがにぎわいを見せていた。

     京城帝国大学の卒業者も既に10期を数えていた。その3分の2が日本人だったが、成績のトップクラスには朝鮮人が多かったという。

     30年代の急速な工業化により、朝鮮の製造業の生産額は、40年には約7億円に達し、10年間で6倍になった。

     30年に操業を始めた日本窒素の系列会社、朝鮮窒素肥料興南工場は、水力発電を利用した最新式の化学工場で、高い実績を上げていた。平壌と鎮南浦を中心とした平南総合工業地区は、京浜、阪神、中京、北九州の4大工業地帯とともに、5大兵站基地と呼ばれた。一方で、京城紡績など、朝鮮資本の企業も、徐々に成長していった。

     しかし、過酷な労働を強いるケースが多く、30年前後をピークに争議が頻発した。

     農村の貧困も続いた。土地を担保に金融機関から融資を受け、借金の返済が出来なくなって土地を手放す農民も多かった。20年代から30年代前半にかけて産米増殖計画が推進されたが、増産以上に対日輸出が増えたために、農村は貧窮化した。

     富裕層やエリート層を中心に、親日派の朝鮮人は徐々に増えていったが、植民地支配への不満や反感は根深くあった。

     36年のベルリン五輪では、日本代表としてマラソンに出場した孫基禎選手が、金メダルを獲得した。朝鮮紙の東亜日報は、孫選手の胸の日の丸を塗りつぶした写真を掲載、無期停刊処分を受けた。

     この時期、朝鮮人の抗日活動は朝鮮の外で続けられた。満州を地盤とした金日成(キムイルソン)の抗日反満運動、中国の重慶政府と連携した金九の韓国光復運動や米国に拠点を置く李承晩の活動は、朝鮮人の間で広く知られていた。
     

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  21. 「南進」で重要度増す

    ◇国防の最前線

     35(昭和10)年10~11月、日本の台湾統治40周年を祝う「台湾博覧会」が、台北で盛大に開かれた。〈興隆日本南進の使命は強く双肩に〉――行進曲「躍進台湾」はレコード化され、広く歌われた。

     この時、各地を巡った中国の視察団は、台湾の成長ぶりに驚嘆している。彼らは、後に報告書に「日本人に(開発が)できて、中国人になぜできなかったのか」と記した。

     30年代半ば、台湾は国防の最前線として重要度を増した。日本は、南洋諸島の委任統治領の扱いや、ワシントン海軍軍縮条約失効に伴う建艦競争の難題を抱えていた。

     36(昭和11)年9月には、総督の中川健蔵が更迭され、17年間の文官総督時代が終わった。新たに就任した海軍予備役大将の小林躋造(せいぞう)は、〈1〉皇民化〈2〉工業化〈3〉南進基地化――を統治の基本政策に掲げた。

     なかでも、皇民化運動は、台湾語による文章表現を禁止し、「国語(日本語)」の常用や、神社への参拝などを台湾人に強いた。40(昭和15)年には、台湾で「日本語を解する者」は、多く見積もれば51%に達したという。

     紀元二六〇〇年の40年、台湾人の姓名を日本式に改めさせる「改姓名」運動も始まった。しかし、朝鮮の「創氏改名」と異なり、国語を常用する家庭などに限って認めるという「許可制」だった。改姓名者は、台湾人総戸数・総人口の約1%にとどまった。

     皇民化は様々な手だてで浸透が図られた。台湾の国民学校の音楽の教科書に載せられた<おばあさん>の歌詞は、日本名「花子」となって日本語が上達した台湾人の孫に、自宅で熱心に日本語を勉強している祖母が「おかへりなさい」と語りかける内容だ。

    ◇勇猛な高砂義勇隊

     戦時下の台湾人の徴用は、37(昭和12)年秋に始まった。42年4月からは「陸軍特別志願兵」の制度が始まり、台湾人が日本兵として戦地に向かった。志願兵が殺到する事態も起きた。43年8月からは、海軍でも特別志願兵が導入された。44年9月、台湾でも徴兵制がしかれた。

     台湾の先住民も兵士となった。フィリピンに従軍した作家の火野葦平(あしへい)は現地で、明瞭な日本語を話す「眉毛や額や顎に刺青をしている者もある」異様な集団に驚く。「高砂(たかさご)義勇隊」として編成された約1800人の部隊は、日本兵の代わりに密林で勇猛果敢に戦った。

     旧厚生省の発表によれば、戦争にかり出された台湾人の軍人は8万433人、軍属・軍夫は12万6750人の計20万7183人。このうち戦死・戦病死は、14・6%にあたる3万304人に上った。

    ◇工業が農業上回る

     36(昭和11)年11月には、半官半民の国策会社「台湾拓殖株式会社」が設立された。台湾の工業化と南洋開発のため、多くの子会社をもち、東南アジアにも進出した。

     米の生産や製糖が基盤だった台湾の産業は、この時期に変貌し、工業生産額は37年の3億6380万円から40年には6億2914万円に倍増し、39年には農業生産額を逆転した。これは38(昭和13)年からの「生産力拡充五カ年計画」によって、化学、金属工業などの軍需部門が飛躍的に伸びた結果だ。

     しかし、これによって台湾人の企業家や労働者が潤ったわけではなかった。製糖業にしても、日本資本が大部分を占め、栽培農家からの買い付け価格も低く抑えられた。

     日本人と台湾人は、同一労働でも報酬は2倍以上の開きが当たり前だった。36(昭和11)年に台湾を訪れたジャーナリストの大宅(おおや)壮一は、「日本人は、土着民よりはるかに高い文化と快適な生活をエンジョイしている」と書いた。
    (天日隆彦、岩城択、上杉洋司)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131108-118-OYTPT01258
     

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  22. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<37>日独伊三国同盟…独軍の勝利 妄信の果て
    2013年11月16日3時1分 読売新聞

     第2次世界大戦でドイツの電撃作戦が奏功し、1940(昭和15)年6月にはパリが陥落した。日本では、「バスに乗り遅れるな」と、ドイツとの提携強化を求める声が強まり、9月、日独伊三国同盟が締結される。しかし、この軍事同盟は日米戦争の要因になる。(文中敬称略)

    ドイツの背信 一度は頓挫

    ◇ナチスへの傾斜

     ヒトラーが率いるドイツへの接近は、1936(昭和11)年11月に締結された日独防共協定に始まる。ナチ党の外交機関長リッベントロップが、陸軍の駐独武官・大島浩=人物抄=に持ちかけ、35(昭和10)年秋から交渉に入った。

     日独両国は、33年に国際連盟を脱退し、ソ連の軍事的圧力とコミンテルンの影響力の排除を必要としていた。大島は、仮想敵・ソ連を日独で挟撃したいと考えていた。

     ドイツの国防省や外務省は、日独提携に反対だった。ドイツでは、第1次大戦で日本が中国・山東省のドイツ権益を奪ったことなどから反日感情が強かった。また、中国侵略を進める日本と連携すれば、英国を敵に回しかねないとの懸念もあった。

     交渉が正式な外交ルートにのせられると、吉田茂・駐英大使(戦後、首相)は、「陸軍はナチスドイツを買いかぶっている」と猛反対した。

     だが、外相の有田八郎は、情勢に応じて修正ができる「薄墨色程度」の協定だとして容認した。実際、協定の内容は、反ソ軍事同盟には遠い「反共産主義」の政治協定にとどまった。

     この間、大島と参謀本部が交わした暗号電報はすべて、ナチの秘密警察に傍受され、ソ連のスパイ網を通じてスターリンに筒抜けになっていた。

    ◇ヒトラーの野望

     ヒトラーは37(昭和12)年11月、国軍首脳らを集めた会議で、東欧侵略の構想を明かした。これに消極的な国防相や外相らを38年2月に解任、ヒトラー自らが最高司令官に就任した。ヒトラーは、同年のオーストリア併合とチェコスロバキアの解体で、野望を具体化していく。

     英仏との衝突を覚悟するヒトラーは、日本が、その海軍力で英国をけん制することを期待し、イタリアも加わった防共協定の強化へと動き出した。

     一方、37(昭和12)年7月から日中戦争が始まると、大島はリッベントロップに、ドイツの対中軍事支援の中止を要請し、さもないと防共協定を離脱せざるを得ない、との考えを伝えた。

     38(昭和13)年2月、外相に起用されたリッベントロップは、独外交の「親中」路線を「親日」へと転換させる。

     ドイツは同年4月以降、中国からの軍事顧問団の引き揚げ、対中武器輸出の中止、満州国承認と、立て続けに対日融和措置を取った。

     38年、日本国内では歌手・東海林(しょうじ)太郎の<日独伊防共トリオ>がヒットしていた。

     <ローマ、ベルリン、東京の防共塁壁、枢軸堅し みよや黎明(れいめい)、三大星座……>。

     長引く日中戦争にあせりを覚えていた陸軍は、「黎明」をみたかのように三国同盟案に飛びついた。外務省でも、駐イタリア大使の白鳥敏夫ら革新派の官僚が同盟締結を強く主張した。

    ◇海軍首脳らが反対

     しかし、英米との関係悪化を心配する外務省主流派や海軍首脳部は、三国同盟に反対だった。海軍の米内(よない)光政海相、山本五十六(いそろく)次官、井上成美(しげよし)軍務局長らが、成立阻止に動いた。

     39年8月の五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相が出席)で、日独伊が英米仏ソを相手に戦争をした場合の勝算を尋ねられた米内は、「勝てる見込みはありません」と答えている。

     五相会議は約1年間、数十回にわたって激論を戦わせたが、結論は出なかった。業をにやしたドイツは、イタリアとの間で軍事同盟を締結した。さらに39年8月23日、突如、ソ連と不可侵条約を結び、この問題はあっけない幕切れを迎える。

     同条約の締結は、防共協定の秘密付属協定違反であり、ドイツの背信行為だった。平沼騏一郎(きいちろう)内閣は直ちに総辞職した。
     

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  23. 三国同盟にプラスソ連

    ◇日本の海軍力に期待

     独軍は39(昭和14)年9月1日、ポーランド領内に侵攻した。2日後、英仏両国が対独宣戦を布告、第2次世界大戦が始まった。ソ連は9月17日、ポーランド東部に侵攻した。ドイツとの密約に基づくものだった。

     日独関係は冷却化し、三国同盟締結交渉は頓挫した。だが、ドイツには日本と同盟を組む利点が依然として存在した。特に日本の海軍力への期待は大きく、日本を仲介役にアジアの物資を獲得する思惑もあった。

     ドイツは、「独ソ日の3か国は、英仏を代表とする『旧体制』を打破し、『新秩序』の構築に尽力する勢力である」との論法を用いて独ソ連携を正当化した。ヒトラーは39年9月20日、ポーランド戦線を視察した寺内寿一・陸軍大将に対し、日独ソ3国による反英統一戦線の結成を呼びかけた。

    ◇米内内閣は退陣

     独軍は翌40(昭和15)年4月9日、デンマーク、ノルウェーに侵攻を開始し、5月10日にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに入り、6月14日、パリを陥落させた。

     快進撃に幻惑された日本は、陸軍を中心に三国軍事同盟締結を求める声が再び高まった。

     陸軍は、同盟締結に消極的な米内首相を引きずり下ろすため、畑俊六陸相を辞任させ、後任を出さないことで内閣総辞職に追い込んだ。

     後継の第2次近衛文麿内閣は、40(昭和15)年7月27日の大本営政府連絡会議で、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ポイントは、独伊との政治的結束強化と、対ソ国交の飛躍的な調整だった。

     今回の三国同盟は、ソ連を仮想敵とした防共協定とは、まったくベクトルが異なっていた。外相の松岡洋右は、独ソ不可侵条約や欧州戦局を踏まえ、三国同盟プラス・ソ連の4国連合(協商)を構想していた。

     松岡が書いたと見られる「事変を迅速且(か)つ有利に終熄(しゅうそく)せしむべき方途」という文書(39年7月19日付)には、ソ連を取り込むことが、日中戦争解決の決め手になるとの見方が示されている。それは蒋介石政権を援助している英米とソ連という「二本の支柱」のうち、一本を奪えたなら、戦争は速やかに収束可能としていた。

    ◇自動参戦規定で応酬

     三国同盟交渉は40(昭和15)年9月初め、独外相リッベントロップの特使、ハインリッヒ・シュターマーが来日し、松岡との間で本格化した。シュターマーは松岡に「日ソ親善についてドイツは『正直な仲買人』になる用意がある」と日ソ提携の仲介を約束した。

     交渉の焦点は、盟約国の一国が、欧州戦争ないし日中戦争に参加していない国から攻撃を受けた場合、他の盟約国が自動的に参戦する義務が生じるか否かの問題だった。日独とも米国の軍事介入を意識していた。

     海軍は、参戦について自主的判断の確保を強く主張、「自動参戦規定」を認めなかった。

     三国同盟反対の吉田善吾海相が40年9月、病気辞任し、後任に及川古志郎が就くと、海軍は同盟そのものに反対する立場を放棄し、条件交渉に転換した。

     ドイツ側の条約原案(第1次リッベントロップ案)は、盟約国に対し攻撃が行われた場合の相互援助義務を規定しており、自動参戦規定に等しかった。

     これに対し、日本側は、〈1〉盟約国が攻撃を受けたか否かは、関係各国政府により決定される〈2〉日本が攻撃を受けた場合、独伊は太平洋であらゆる手段で日本を援助する――などの規定を、秘密議定書の中に盛り込むことを提案した。

     だが、ドイツは、独伊にのみ日本への一方的援助を求める提案は受け入れがたいとして修正を求めた。

    ◇「秘密書簡」で処理

     三国同盟の締結に必要な日本政府内の手続きは、この第1次リッベントロップ案を基にしていた。臨時閣議(9月16日)で松岡は、いつものように冗舌だった。「ドイツは石油が豊富だ。フランスの占領により消費した以上の石油をとった。日本は困っているから、半分くらいよこせと言った。ソ連との国交調整も斡旋(あっせん)するというので、北樺太の石油利権も斡旋してくれ、場合によっては全部買収してよいと言っておいた」

     御前会議(9月19日)では、対米関係の悪化や、参戦の主体性確保を心配する声が出た。松岡は、形式的には日本の自動参戦義務を認めるが、参戦の時期や方法は、日本が自主的に決定できると答えた。

     その後、日本に届いた第2次リッベントロップ案も、自動参戦義務の建前は貫かれた。参戦の自主的判断を確保するため、松岡が提案した秘密議定書の作成は、結局、オット駐日ドイツ大使から松岡宛ての秘密書簡という形式に落ち着いた。

     秘密書簡は、盟約国の一国が攻撃を受けたかどうかは、盟約国間の協議で決定するとしていた。松岡が海軍や条約を審査する枢密院に「自動参戦義務は回避された」と説明できるよう、オットに強要して書かせたものだ。だが、オットもシュターマーも、秘密書簡のことをリッベントロップに伝えなかった。

     三国同盟条約は9月27日、ベルリンで調印された。
     

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  24. 日米開戦の伏線に

    ◇米国首脳ら猛反発

     日独伊三国同盟によって、米国の対日不信は強まった。米国務長官ハルは9月27日、「米国は、対英、対中援助を増やし、日本に対する経済的な圧力を強める」との声明を発表した。

     三国同盟は、「対象国」を明確に規定していたわけではなかったが、米陸軍長官スティムソンは「威嚇」であると受け止めた。駐日大使グルーは、「日本は略奪国家のチームに加盟するようになった」と指摘し、ハルは、「日本はヒトラーの同盟国であり、残忍な侵略者」ととらえた。

     ルーズベルト大統領も12月、「日独伊三国同盟が意図する新秩序とは人類を支配し、隷属化しようとするものである。我々は、これに抵抗しようとする国家に対し、援助しなければならない」と語った。

     三国同盟を契機として米国は、日本をドイツと並ぶ米国の敵として位置づける一方、中国を米国の友人として扱い、英国と並ぶ事実上の同盟国と考えるようになった。

     日独両国とも、米国の参戦や米国との戦争を回避するための牽制(けんせい)の意味を三国同盟に込めたが、米国には通じなかった。

    ◇独ソ関係の悪化

     ドイツが西部戦線に没頭する中、ソ連は、ドイツとの密約の範囲を超えて東欧に進出し、ヒトラーの怒りを買った。また、ソ連も、敵対していたフィンランドをドイツが支えたことに反発し、独ソ関係が悪化した。

     40年11月12~13日、ヒトラーとソ連外相モロトフの会談がベルリンで行われたが、事実上決裂した。この時点で、ソ連を含む4国連合構想は、存在の余地がなくなっていた。

     ヒトラーは12月18日、対ソ戦「バルバロッサ作戦」の準備を指令した。日独伊三国同盟の締結から3か月足らずのことだ。

     こうした中、松岡は41年3月から訪欧し、同年4月、ソ連で日ソ中立条約を締結する。

     三国同盟条約案を可決した40年9月26日夜の枢密院本会議で、石井菊次郎顧問官は、「ドイツは最も悪(あ)しき同盟国であり、ドイツと結んだ国はすべて不慮の災難を被っている」としながらも、利害関係のまったく一致した「3国の結合は自然の勢い」であり、「国策として当をえたもの」と述べた。意味深長な賛成発言は、独ソ開戦や日米戦争を暗示したかのようだった。(笹森春樹、関泰晴、岩城択)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131115-118-OYTPT01079
     

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  25. 今回の「三国同盟」ってのは、「日中韓」それとも「日中露」、どっちかな?(笑)。
     

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  26. 外務省「日中韓三国間協力ビジョン」
    http://koibito2.blogspot.jp/2013/10/blog-post_10.html
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81+%E6%97%A5%E4%B8%AD%E9%9F%93%E4%B8%89%E5%9B%BD%E9%96%93%E5%8D%94%E5%8A%9B
     

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  27. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<38>日米開戦(上)「零戦」「大和」栄光と悲惨
    2013年11月23日3時1分 読売新聞

     日本は、日中戦争によって米国との関係を決定的に悪化させ、圧倒的な国力差を顧みない無謀な戦争に突き進んでいく。開戦の前年、日本は、技術の粋を集めて戦闘機・零戦(ゼロ戦)と戦艦大和を誕生させる。それは戦前昭和の栄光と悲惨の象徴でもあった。(文中敬称略)

     ◆零戦 鮮烈なデビュー

     1940(昭和15)年9月13日午後、中国・重慶の上空は快晴だった。爆撃機護衛の任務を終えた13機の零戦隊が、30機ほどの中国軍戦闘機隊を発見した。「ゼロ」の初陣だ。

     零戦は、かつてない加速と鋭い旋回で、ソ連製敵機を照準器にとらえる。20ミリ機銃が火を噴くと、主翼が吹き飛んだ。引き金を引いた搭乗員は、その破壊力に目をみはった。

     その日夕方、三菱重工業・名古屋航空機製作所で、零戦を設計した主任技師・堀越二郎の前に上司が立った。

     「堀越君、大ニュースだよ」

     上司は、重慶での空戦結果を上機嫌で告げた。27機撃墜、零戦の未帰還なし。完全勝利だった。

     堀越は技術者として「チャンスさえあれば、こうした戦果は毎日でも挙げられる」と思った。彼が生んだ戦闘機は、3000キロ以上の航続距離、500キロ超の最高時速、抜群の運動性能を兼ね備え、強力な20ミリ機銃も装備していた。

     「持たざる国」日本が、持てる技術を結集して作り上げた世界最高の戦闘機の正式名称は「零式艦上戦闘機」である。誕生年がちょうど紀元二六〇〇年にあたることから「零」の名が付いた。

     小出力の国産エンジンで高性能を実現するため、これ以上削る余地がないところまで削った。搭乗員を守る座席後部の防弾板さえない。攻撃精神を過度に強調する軍は、それを求めていなかった。零戦は、物心両面から日本の姿を映していた。

     しかし、無敵の零戦もやがて、レーダー管制下、チームプレーで戦う高速・重武装の米戦闘機群に圧倒されるようになる。その苦闘も、総合国力で劣った日本と重なる。

     計1万機以上生産された零戦は、日米開戦前から終戦まで、空の主力として、大陸で、南洋で、本土で戦い続けた。44年10月、フィリピンでの初の特攻作戦では、250キロ爆弾を抱えた零戦が、米空母を撃沈する戦果を挙げた。その後、多数の零戦が米艦船に体当たりする「十死零生」の特攻に使われる。


    技術の粋集め 最新兵器

     ◆世界最大の巨艦

     零戦のデビュー直前の8月8日午前8時、広島県・呉に防空演習のサイレンが鳴り響いた。

     一般人の外出、軍港での船の航行は禁じられた。この日、海軍工廠こうしょうで、世界最大の巨艦の進水式が密ひそかに行われたのだ。

     呉鎮守府長官の日比野正治が艦名を読み上げた。

     「軍艦大和」

     全長263メートル、三連装の46センチ砲塔3基をもつ戦艦は、日本の別称でもある名がつけられた。

     海軍内では、対外強硬派の艦隊派が、国際協調を唱える条約派を圧倒していた。日本の主力艦保有割合を米、英の6割に制限するワシントン条約(1922年発効)は失効し、建艦競争の時代に入っている。

     建造量において、日本は、どうあがいても米国には勝てない。海軍が持とうとしたのは、「他国の追随を許さぬ卓越した戦闘力を備えた戦艦」だった。

     当時、日本を含む世界の海軍では、巨砲を持つ主力艦を最重視する「大艦巨砲主義」が依然として主流だった。

     戦艦同士の決戦において、射程40キロ以上の46センチ砲を持ち、米戦艦の砲弾が届かない遠距離(アウトレンジ)から攻撃できる不沈艦は、理論上、損害を受けることなく、敵を撃破できる切り札だった。

     大和もまた、持たざる国の象徴だったのである。

     大和にとっての不幸は、進水翌年、41(昭和16)年の12月に竣工しゅんこうした時には、決戦兵器が航空機に移っていたことだ。

     四十数キロ先の標的に46センチ砲を撃つと、着弾まで約1分かかるという。移動する敵艦に命中させるのは神業に近く、「アウトレンジ」戦法など机上の空論に過ぎなかった。しかも、敵の制空権下では、射程内に近づくことさえ難しかった。

     開戦後、大和はほとんど戦果を挙げないまま、終戦前の45(昭和20)年4月7日、沖縄への特攻途上、米艦載機群の攻撃によって沈没する。

     ◆「戦艦は無用の長物」

     40年9月の日独伊三国同盟締結の頃、首相の近衛文麿から日米戦の見通しを問われた連合艦隊司令長官・山本五十六=人物抄=は、こう答えている。

     「ぜひやれと言われれば、初め半年や1年の間は、ずいぶん暴れてご覧にいれる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」

     山本の真意は非戦であり、日米戦争回避の努力も近衛に求めた。ただ一方で、山本は、米国といかに戦うかということを考え続けてきた。

     太平洋を西に進んでくる米艦隊に徐々に損害を与え、主力艦隊の決戦に持ち込むという従来の長期作戦計画では、最終的には米国の国力に圧倒される。

     そこでどうするか。30年代後半、海軍航空本部長だった山本は「将来、飛行機の攻撃力はさらに威力を増し、戦艦は無用の長物になる」とみていた。「大和」建造に向かっていた時期にあって常識外れの発想だった。

     だが、零戦が開発されたように、航空機は日進月歩である。40年3月の洋上演習で、山本の着想の正しさが証明される。航空隊が雷撃で、戦艦、空母を次々に「撃沈」したのだ。戦艦長門の艦橋で演習を見守っていた山本は、こう漏らしたという。

     「飛行機で、ハワイ(米太平洋艦隊基地)をたたけないものかな」

     22(大正11)年、世界初の空母「鳳翔」が建造されたあと、20年近くがたった41年時点の、日本の保有空母数は、9隻に達していた。米国の空母は7隻だったが、太平洋と大西洋に振り分けられるため、太平洋には3隻しかいない勘定だった。

     赤城、加賀、蒼竜、飛竜、翔鶴、瑞鶴……日本の空母機動部隊は強烈な打撃力を備えていた。しかも、その艦上には、日中戦争で経験を積んだ搭乗員が乗る最強の零戦がある。

     山本は、日米戦争で第一になすべきは、「開戦劈頭へきとう、主力艦隊を猛攻、撃破し、米国海軍および米国民の士気を救いようのないほどに阻喪させる」ことと考えていた。

     開戦した瞬間の強烈な一撃で米国の戦意を砕く。機動部隊が真珠湾攻撃を敢行するのは、41年12月8日のことである。

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  28. 日米の国力差 直視せず

     ◆対米石油依存経済

     日米両国の国力の差。誰もが知る厳然たる事実は、開戦論に対する歯止めになっていた。

     だが、零戦が初陣を飾り、大和が進水した40(昭和15)年、海軍は対米開戦に傾斜。この年の12月に設置された第一委員会の石川信吾・軍務局第2課長=写真=らが、同委員会を拠点に開戦論をリードしていく。

     当時の海軍には、「今なら対米比約7割の戦力がある。この機を逃せば、米国と戦えるチャンスは二度と来ない」という認識があった。

     開戦派は、軍事バランスの一時的接近に戦機を見いだし、国家の命運をかけようとした。手には、零戦や大和という切り札を握りしめていた。

     日米の海軍戦力を41年の開戦時でみると、合計トン数は、日本の1に対して米1・46で、対米比率は68・5%だった。

     しかし、冷静に考えれば、日本は石油をはじめ戦争遂行に必要な資源の大半を、米英ブロックからの輸入に頼っていた。

     米国は、世界最大の産油国であり、日本はその大半を米国から輸入していた。39年時点での対米石油輸入量は445万キロ・リットル。全輸入量の9割を占めた。

     さらに日米の経済力を比較すると、米国との差は歴然。41年の日本の国民総生産(GNP)が1660億ドルに対し、米国は約7倍の1兆940億ドルだった。

     工業力を象徴する自動車産業をみると、開戦時の米国の生産台数は、年間約484万台で、日本の105倍に相当した。均一な製品を大量生産する製造ラインが稼働していた。

     開戦後、こうした製造ラインは、軍用機や戦車などの軍需に転用された。日本も兵器増産を進めたが、日米の生産力格差は開く一方だった。

     ◆強まる米の経済制裁

     米政府は、日中戦争拡大を受け、39(昭和14)年7月、日米通商航海条約の破棄を通告し、半年後の40年1月、条約は失効した。米国は条約上の義務を解かれ、対日経済制裁にフリーハンドを得た。米国は同年9月には、「くず鉄」の対日輸出禁止を発表した。日本軍が北部仏印に進駐した際の措置だった。

     こうした中、開戦の可否を左右する日本の「物的国力」が問題になる。

     41(昭和16)年3月、陸軍省戦備課が報告した国力判断の結論は、「対米英長期戦の遂行に対し、不安あるを免れない」だった。石油やゴム、ボーキサイトなどを産出する東南アジアの資源地帯への武力行使論は、これでいったん後退する。

     国力判断にあたっての大きなポイントが船舶消耗率だ。南方と日本を結ぶシーレーン確保の問題である。

     敵の攻撃によって、船が沈没したりすれば、石油を獲得しても持ち帰ることができず、戦争の遂行どころか、国民生活の存立さえ危うくなってしまう。

     同年6月、海軍の第一委員会が海軍首脳に出した意見書は、船舶消耗率「約10%」という数字を示し、その程度なら「補充は可能」との大胆な見解を打ち出した。燃料についても「相当の自信を以て対処し得べき結論に達せり」としていた。

     しかし、これらの判断は、米軍の海軍力を過小評価し、あえて損害を小さく見積もった無責任な数字、とみられても仕方がなかった。

     日本軍は41(昭和16)年7月、資源確保を念頭に南部仏印に進駐する。これに米国は、在米日本資産の凍結と、対日石油輸出の全面的禁止で対抗する。

     ◆あやふや船舶消耗率

     国力判断は最後まで揺れ続ける。10月に内閣を発足させた東条英機首相は、開戦の場合の国力の再検討を指示した。

     これを受け、企画院(戦時経済体制の調査・立案機関)総裁の鈴木貞一は、11月5日の御前会議で、常時300万トンの船舶があれば、南方からの物資はだいたい入手できる旨報告した。しかし、この通りに船を確保できるという保証はなかった。

     当時、官僚や民間の若手俊秀を集めた内閣直属の「総力戦研究所」の担当者は、御前会議で確認された船舶消耗量に比べて20~50%も多い数値をはじき出していた(猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』)。

     結局、鈴木報告は、確かな根拠のない数字を羅列して開戦を後押しした。実際、快進撃を続けた戦争初期こそ、日本の輸送船団の損害は開戦前の予想を下回っていたが、42年のガダルカナル島の戦いから一変する。

     開戦2年目から3年目にかけての輸送船損失は、戦前予想の実に3~5倍程度に達したとされる。シーレーンの喪失は、日本の崩壊を意味していた。

     (杉山祐之、隅谷真)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131122-118-OYTPT01058
     

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  29. 【テレ朝メルマガ 報道ブーメラン第708号】「益荒男ぶり」抑えた安定政権 二年目に問われる真価

    ■02■編集後記

      忘れていた。電光掲示板のある辺りからバックスタンドにかけては、
      「西日」がきついことを。風がないから体感温度も上がる。
      マフラーをとり、コートを脱ぎ、さらにセーターを膝の上に置いた。
      まるで「北風と太陽」だ。千駄ヶ谷の駅前で受け取った
      「明大スポーツ」を額にあてて日差しを避け、そういえば、
      「雪の早明戦」も、ここにいたなぁ、と思い出した。

      「国立で最後の早明戦」「試合後にユーミンがノーサイドを歌う」。
      そんな宣伝文句に、居ても立っても居られず、
      国立競技場に馳せ参じた。「国立」でラクビーを見るのは、
      大学卒業以来、実に20数年ぶり。
      早明ともに対抗戦での優勝は「ない」と分かってはいるし、
      今の大学ラクビーは、帝京大学の“天下”だとも理解している。
      でも「早明戦」なのだ。

      この日、詰めかけた観客は、4万6961人。
      この数年ふるわなかった観客動員数はなんとか格好がついた。
      ただ、「一般席」には、自分のようなオジサン、オバサンばかり。
      それこそ20数年前は、「学生席」だけでなく、
      「一般席」まで、学生でいっぱいだったのに。

      試合のほうは…一生懸命の選手らには、大変申し訳ないが、
      あまり見るべきものはなく、ノーサイドを迎えた。
      今日はこれでいい。「国立」へのお別れをしにきたのだし、
      我々の気持ちを、ユーミンが歌い上げてくれるはずだ。

      ユーミン・松任谷由美さんは、両校のエールの交換の後に登場した。
      ザワザワしていた場内が、一気にヒートアップする。
      ところが彼女が選手への「オマージュ」だとして、
      アルバム「NO SIDE」の最後の曲、
      「ノーサイド・夏~空耳のホイッスル」の朗読を始めると、
      場内は水を打ったように静まり返り、みんなが「ノーサイド」の歌を待った。

      甘く、力強く、そして畏敬が込められた歌声が場内に響き渡る。
      グラウンドに交互に立つ早明の選手。
      こらえきれず涙ぐむ早稲田の選手が電光ボードに映し出された。
      試合中から「早くユーミン出せぇ」と騒いでいたオジさんたちは、
      スクラム並みの前傾姿勢で神妙な視線を向ける。
      あちこちから嗚咽が聞こえてきた。隣にいた妻の目も真っ赤だった。

      ユーミンの歌声と「ノーサイド」の歌詞が醸し出す圧倒的な雰囲気に、
      ラクビーをまともにやったことのない自分でさえ、
      学生時代を終えてから今までの人生を重ね合わせてしまう。
      メインスタンドの向こうに陽が隠れ、
      ほのかに夕焼けが広がっているのに気づいたのは、
      歌が終わってからだった。

      東京五輪のメインスタジアムに生まれ変わるべく解体される
      国立競技場。8万人が収容可能なスタジアムを建設するため、
      巨額な工事費が投入されることに疑問が呈されたのは記憶に新しい。

      「世界に誇れるものを」という考え方も間違っていない。
      だが、こうやって久しぶりにこの地を訪れて、
      拙いながらも思い出に浸ってみると、そんな立派なものはいらず、
      とにかく最低限の施設を整えてくれればいいという気にもなってくる。
      あとはグラウンドの中、試合が、競技が、
      充実するようなバックアップの体制を作り上げていただくだけだ。

      正月2日に行われるラクビー大学選手権の準決勝では、
      まだ「国立」が使える。もう一度だけ、「国立の早明戦」を見たくなった。
      今度は試合を楽しむために、
      いや、新しい「国立」に思いを馳せるためにも。

                               (編集長 中村 直樹)
    http://www.tv-asahi.co.jp/mailmagazine/

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  30. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<40>日米開戦(下)…ハル・ノートで万事休す
    2013年12月7日3時1分 読売新聞

     1941(昭和16)年10月、第3次近衛文麿内閣が退陣し、開戦派の東条英機が陸相兼務のまま首相に就任した。東条は、昭和天皇の意向を受け、「対米戦辞せず」とした御前会議の決定を見直そうとしたが果たせず、米国からの「ハル・ノート」によって万事休した。(文中敬称略)

    海軍「開戦反対」言えず

     ◆避戦派と強硬派

     対米開戦、是か非か――その結論を左右しうる立場にあった海軍には、41(昭和16)年夏、和戦について意見を異にする二つの勢力があった。

     一つは、及川古志郎海相や沢本頼雄次官といった避戦派。もう一方は、石川信吾軍務局第2課長ら中堅層と、その代弁者となっていた永野修身(おさみ)軍令部総長らの強硬派だった。

     7月末、南部仏印進駐報告で昭和天皇に拝謁した永野は、開戦となれば、石油は1年半で消費してしまうので「むしろこの際、こちらから打って出るしかない」と述べた。避戦を望んでいた昭和天皇は、その後、「永野は好戦的で困る。海軍の作戦はステバチ的だ」と侍従武官長に漏らしたという。

     日米交渉が難航する中、大本営政府連絡会議は9月3日、「帝国国策遂行要領」を可決した。それには「帝国は自存自衛を全うする為(ため)、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概(おおむ)ね十月下旬を目途とし、戦争準備を完整す」との文言が盛り込まれた。

     この戦争が主、外交が従の内容を案じた天皇は5日、杉山元(はじめ)参謀総長と永野を呼んだ。天皇に戦争の見通しを問われて、立ち往生する杉山をみかねた永野は、「手術(戦争)をすれば非常な危険があるが、助かる望みもないではない」と助け舟を出した。しかし、永野自身、7月末の天皇への報告では「勝てるかどうかもわからない」と無責任な発言をしていた。

     ◆「四方の海……」

     結局、翌9月6日の御前会議は、この方針を正式決定するが、この時、昭和天皇は突然、明治天皇の御製(ぎょせい)「四方(よも)の海」を読み上げる。

     「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」

     天皇は、日米交渉による平和解決を希望していたのだった。

     海軍は、10月6日の首脳会議で、強硬論の陸軍とは一線を画し、日米交渉の継続を求めていくことを決めた。ところが、席上、「陸海なるべく衝突せぬよう努めますが、喧嘩(けんか)となっても構わぬ覚悟にて交渉してもよろしきや」と発言した及川に対し、永野は「それはどうかね」と水をかけた。

     文人肌の及川には、和戦の決定をリードするだけの腕力はなかった。戦争に成算はないものの、かといって「戦争はできない」と明言すれば、対米戦準備の名目で予算を獲得してきた海軍の存在意義が問われる――及川は結局、国家の命運よりも組織防衛を優先させる。

     同月12日、陸軍軍務局長の武藤章は、内閣書記官長の富田健治を通じて、「もし海軍が戦争するのが嫌なら、はっきりそれを海軍の口からいってもらいたい。そうしたら陸軍部内の主戦論を抑える」とのメッセージを海軍側に伝えた。しかし、これにも確かな反応はなかった。

     その日、近衛の私邸、荻外荘(てきがいそう)に陸・海・外相らが集まって開いた会談でも及川は、「和戦の決定は総理に一任する」と述べる。

     これに近衛が「今ここでどちらかに決めるというならば、外交でやる」「戦争には自信がない」と応じるや、東条陸相が強く反発。東条は、米国が要求する中国からの撤兵は譲れないと、主戦論を強く唱えた。

     近衛はこの夏、日米諒解(りょうかい)案に反対した松岡洋右(ようすけ)外相を更迭するため、いったん内閣総辞職をし、7月18日には第3次内閣を発足させていた。後任には、海軍の豊田貞次郎を起用し、日米交渉を急いだ。しかし、交渉は行き詰まり、陸軍を説得できないまま、10月16日、政権を投げ出した。
     

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  31. 東条首相に避戦の任務

     ◆「虎穴に入らずんば」

     41(昭和16)年10月17日。皇居に参内した陸相の東条英機は、天皇との会談を終えた後、口を一文字にしたまま、車に乗り込んだ。そして車を明治神宮、東郷神社、靖国神社に向かわせるよう秘書官に指示した。

     「大命を拝したのだ。予想もせず、恐懼(きょうく)して奉答もできないでいたら、お上から『暫時猶予を与える』と仰せ出され、この上は神霊のご加護によるほかないと信じて、参拝するわけだ」

     車中で東条は、大命降下の驚きを同乗の秘書官に語った。

     東条は14日夜、近衛のもとに使者を立て、9月6日の御前会議決定を練り直すほかないとすれば、後継は東久邇宮(ひがしくにのみや) 稔彦(なるひこ)王(戦後、首相)が最適任だと提案、近衛も同意していた。

     しかし、天皇の側近、木戸幸一内大臣は、「万一予期の結果を得られざるときは、皇室は国民の怨府(えんぷ)となるのおそれあり」として反対した。

     木戸が代わりに推したのが東条だった。木戸は、東条の「忠臣」ぶりに期待し、開戦を回避させようとした。木戸から人事案を聞いた天皇は、「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と理解を示した。

     東条内閣の登場は、各方面に衝撃を与えた。東久邇宮は日記に、東条が開戦論者であることを知りながら「木戸がなぜ、東条を後継内閣の首班に推せんし、(天皇)陛下がなぜ御採用になったか、その理由が私にはわからない」と書きとめた。

     木戸は、東条に9月6日の決定を白紙に戻すよう求める天皇の指示を伝えた。組閣の際、蔵相入閣の打診を受けた賀屋興宣(かやおきのり)と、外相を要請された東郷茂徳は、ともに、「今後の国政指導は極力外交交渉で進むのか」と東条にただした。

     東条は、御前会議決定が白紙になったことを説明し、「極力日米交渉の打開をしていきたい」と答えた。

     東条内閣の海相には、横須賀鎮守府司令長官の嶋田繁太郎(しげたろう)が就任した。嶋田には、それまで海軍省で勤務した経験が皆無で、戦争を押しとどめるには明らかに力不足だった。

     嶋田は10月27日、かねて関係の深かった前軍令部総長で元帥の伏見宮博恭(ひろやす)王と会見した。開戦論者の伏見宮に「速やかに開戦せざれば勝機を失す」と言われた嶋田は30日、沢本次官、岡敬純(たかずみ)軍務局長に開戦の決意を伝える。海軍は、開戦のため必要な物資の割り当てを要望し、事実上戦争を容認する立場に転じたのだ。

    「ニイタカヤマノボレ」

     ◆乙案と暫定協定案

     国策の再検討を始めた東条内閣の下、41(昭和16)年11月5日の御前会議で、甲案と乙案という二つの対米最終提案が決定された。

     甲案は、中国と仏印からの撤兵を掲げながら、条件を付けて、その引き延ばしを意図していた。乙案は、中国からの撤兵問題を棚上げにして暫定協定を結ぼうという案だった。まず甲案で交渉し、まとまらなかったら乙案を提示し、それでも妥結しなかったら開戦するという手順だった。

     野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル=人物抄=米国務長官との交渉は、11月7日から行われた。ハルは、暗号解読で日本側の最終カードが乙案だと知っていたことから、甲案を全く問題にしなかった。

     米国は40(昭和15)年9月頃、日本の外交電報の暗号解読に成功していた。フリードマンという有能な暗号解読者が作った解読器で読まれた情報は「マジック」と呼ばれ、日本の外交の手の内は、米国にすべて筒抜けとなっていた。

     米側は、乙案の対案として、暫定協定案の作成を進めた。南部仏印からの部分的撤退などと引き換えに、石油の対日輸出を一部解禁し、当面の日米衝突を回避しようというものだった。

     米大統領ルーズベルトは、11月10日の野村との会談で、暫定協定を結ぶ用意を伝えている。

     日本側の乙案と米側の暫定協定案の中身は、援蒋(蒋介石援助)政策停止では対立したが、現状以上の日本の武力進出の中止と、南部仏印進駐からの撤退では共通項があった。

     ◆米 突然の方針変更

     米国は暫定協定案を22、24日、英・中・蘭・豪の4か国に内示して相談した。中国は強く反発し、蒋介石は、在米中の宋子文特使(蒋介石の義兄)や胡適駐米大使を介し、「対日経済封鎖が緩和されれば、中国国民と軍隊の抵抗精神は崩れ去ってしまう」と危機感を露(あら)わにした。蒋の働きかけを受けた英首相チャーチルは、中国に同情する電報をルーズベルトに送った。

     ハルは、妥協的な暫定協定案とは別に、包括解決案(一般協定案)を準備していた。後にハル・ノートと呼ばれるものだ。仏印および中国からの全面撤兵、蒋介石政権(重慶政府)以外の中国政府の否認、三国同盟の形骸化などを求めていた。暫定協定案とハル・ノートをセットで提示しようというのが米側の方針で、暫定協定案は包括解決に向けた基礎の位置づけだった。

     ハル・ノートの原型となったモーゲンソー(米財務長官)案には、満州からの撤兵も含まれていたが、ハル・ノートからは落ちていた。それまでの日米交渉でも、米側の要求は、華北を含む中国本部からの撤兵であって、満州は含まれていない。

     だが、当時の日本陸軍は、満州はもちろん、華北から撤兵する考えもほとんどなかった。共産主義の浸透を防ぐ「防共駐兵」を名目に、長期間にわたり、華北や蒙疆(もうきょう)(内蒙)などに駐兵を継続する意向だった。

     そうした中、ハルは26日、暫定協定案を放棄して、ハル・ノートだけを日本側に手交することを決める。

     ハルは回顧録に、「対日石油供給にたいしてアメリカの世論の広範な反対が起こることは明らかであった。中国は大反対であり、他の国も好感をもたないか微温的であった。日本が暫定協定に同意する微少な見込みは、それを進めることに伴う危険をおかすことを正当づけはしなかった」と記している。

     だが、ハルは前日25日まで、暫定協定案とりまとめに動いていた。なぜ方針を変えたのか。

     スティムソン陸軍長官の下には25日昼、上海に日本の大軍が集結し輸送船30~50隻が出航したとの情報が届いた。翌26日、日本軍の南下情報を聞いたルーズベルトは「日本が休戦撤兵交渉をしながら、遠征軍を仏印に送っているのは背信の証拠だ」と激怒した。ハル・ノートが野村と特派大使の来栖(くるす)三郎に手交されるのは、この日夕方だ。

     米側の暫定協定案放棄の背景には、中国の反対に加えて、交渉の陰で戦争へ駒を進める日本への不信感があったようだ。

     ハル・ノートに東条は興奮し、「残された道は、御前会議で決まった戦争以外にないだろう」と口走った。近年の研究では、日本も米英中各国の暗号を解読しており、暫定協定案を事前に知っていた可能性が指摘されている。とすれば、日本側のショックはそれだけ大きかったことになる。東条らはハル・ノートを「最後通牒(つうちょう)」と受け止めた。

     ◆米英蘭と開戦決定

     27日、大本営政府連絡会議は、対米交渉の不成立を確認した。

     この日、陸軍戦争指導班の機密戦争日誌には、「これにて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり。めでたし、めでたし。これ天佑(てんゆう)ともいうべき」と記された。陸軍の中堅幕僚層は、開戦に向け東条を突き上げていた。

     米側も、ハル・ノートが開戦の引き金になることを自覚していた。ハルは、日本側に手交した翌27日朝、スティムソン陸軍長官からの電話に、「私は問題から手を引いた。問題は、今やあなたとノックス(海軍長官)の手中にある」と伝えている。

     12月1日、日本は御前会議で米英蘭との開戦を決定する。

     連合艦隊の山本五十六司令長官は翌2日、真珠湾攻撃のため11月26日に択捉島・単冠(ひとかっぷ) 湾(わん)を出航していた機動部隊に対し、「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」の暗号電文を発した。12月8日を期して戦闘行動を開始せよという指示だった。

     (笹森春樹、時田英之、遠藤剛、諏訪部敦)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131206-118-OYTPT01096
     

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  32. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<41>太平洋戦争(上)…緒戦勝利に沸く日本
    2013年12月14日3時4分 読売新聞

     1941(昭和16)年12月8日は、日本にとって運命の日となった。空母6隻からなる日本機動部隊がハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲、南方では陸軍がマレー半島で突進を始めた。日本の支配地域は一気に広がり、国民は連戦連勝にすっかり酔うのだが……。(文中敬称略)

    真珠湾攻撃と南方作戦

    ◆ワレ奇襲ニ成功セリ

     朝焼けの空を飛ぶ指揮官機上で淵田美津雄ふちだみつおが、ラジオ方向探知機のスイッチを入れると、軽快なジャズ音楽が聞こえてきた。ハワイ・ホノルルの放送だ。

     現地時間で1941(昭和16)年12月7日の朝7時過ぎ。日本は8日未明になっている。

     ハワイに向かう淵田は、計183機の戦闘機、爆撃機、雷撃機を率いていた。南雲忠一なぐもちゅういちが指揮する機動部隊の空母6隻から発進した第1次攻撃隊だ。

     日曜日の朝。真珠湾には、米戦艦隊が2列で停泊し、甲板に軍楽隊が整列している戦艦もあった。

     午前7時49分、淵田機が全機に突撃を指示した。各編隊が翼を翻し、計画通りに急降下爆撃、水平爆撃、雷撃(魚雷による攻撃)へと移る。主目標は、太平洋艦隊と飛行場だ。

     7時52分、淵田は後部座席の電信員にこう伝えた。「発信せよ。『ワレ奇襲ニ成功セリ』」。電信員が無電機のキーで奇襲成功の略語をたたく。「トラトラトラ……」

     狭く浅い湾で、雷撃機は限界まで降下して魚雷を投下する。魚雷命中の巨大な水柱が上がる。空からは800キロ徹甲爆弾だ。戦艦が次々に炎に包まれ、「アリゾナ」は大爆発し、沈没した。飛行場も燃え、米軍機の大半は地上で撃破された。

     7時58分、ハワイ近海の全米国船舶あてに緊急無電が発信された。「真珠湾が空襲された。これは演習ではない」。

     攻撃が始まって約1時間後、第2次攻撃隊171機が到着し、港の艦隊、飛行場への攻撃を続けた。

     米戦艦8隻を撃沈、撃破し、米太平洋艦隊の主力は一日にして失われた。航空隊は200機以上を失った。戦死者は2400人を上回る。

     日本軍の未帰還は29機。このほか、特殊潜航艇5隻が未帰還となった。

    ◆西太平洋を制圧

     真珠湾攻撃から数時間後の日本時間午前7時、ラジオが臨時ニュースを伝えた。

     「大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

     その朝、台湾・台南の航空基地では、霧が晴れるや、待機していた陸上攻撃機に出撃命令が下った。高雄の陸攻隊も加わり、計50機以上となった。目標は、900キロ以上離れたフィリピンの米空軍基地だ。

     爆撃隊は、地上にある米軍のB17爆撃機、P40戦闘機などを多数破壊し、護衛の零戦隊は迎撃にきた戦闘機を空中戦で撃墜した。米空軍の主力100機余りが撃破され、南方進出への大きな脅威が消えた。

     2日後の12月10日、サイゴン(現ベトナム・ホーチミン)に進出した航空隊が、シンガポール防衛のため派遣された英戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを雷撃で撃沈した。マレー沖海戦だ。

     停泊中の戦艦を沈めた真珠湾と違い、航行し対空砲火を撃ち出す「生きた戦艦」を飛行機が撃沈したのは、史上初めてだ。

     「戦争の全期間を通じてこれ以上の衝撃はなかった」

     英首相チャーチルは、回想録でこう振り返った。

     日本は、西太平洋の空と海をたちまちのうちに制圧した。

    ◆シンガポール攻略

     真珠湾攻撃に先立つこと約2時間、英領マレー半島コタバルに、中将・山下奉文ともゆきを司令官とする陸軍第25軍の部隊が上陸した。現地時間は7日午後11時30分。深夜の奇襲上陸である。午前2時過ぎには、タイ領シンゴラにも上陸した。攻略目標は約1100キロ先のシンガポールだ。

     陸軍にとって、最初の関門は、マレー半島と、英国の一大拠点シンガポールの攻略だった。蘭印(今のインドネシア)の石油資源などを獲得するには、ここの英軍を排除するしかない。

     日本軍は、タイとマレーの国境沿いの英軍防衛線「ジットラライン」をわずか2日間で突破。戦車隊が突撃して英軍陣地を蹂躙じゅうりんする。自転車で快進撃する歩兵部隊は「銀輪部隊」と呼ばれた。

     開戦前、陸軍がシンガポール攻略に要すると見ていた期間は、約100日間。ところが、わずか55日でマレー半島を踏破し、シンガポールの対岸ジョホールバルに到達した。

     要塞にこもる英軍は激しく抵抗したが、ジョホールバルにある水源を押さえられ、食料も尽きかけた英軍が停戦を打診。2月15日に山下とシンガポールの英軍司令官のパーシバルが、直接会見し、降伏が決まった。

    ◆「空の神兵」

     蘭印での最重要攻略目標の一つが、日本の石油年間需要に匹敵する年間400万キロ・リットルの産出量を誇るスマトラ島南部の油田地帯パレンバンだった。

     オランダは、パレンバンが日本の手に落ちる危険がある場合には、施設を爆破する計画も立てていた。どうやって無傷のままパレンバンを占領するか。

     42(昭和17)年2月14日午前11時30分頃、パレンバン上空に多数の落下傘が開いた。「陸軍挺進ていしん団」と呼ばれる空挺部隊の99人が製油所確保、240人が飛行場制圧の作戦を開始したのだ。拳銃と手榴弾しゅりゅうだんだけで奇襲をかけた部隊もあった。激戦の末、翌日までに各目標地点を制圧した。

     この空挺部隊は、2年前に創設されたばかりだ。陸軍航空主任参謀の井戸田勇はその手記に、「挺進団はパレンバン攻略のために作られた」と綴つづっている。現在の用語を使えば、油田確保のための特殊部隊だった。

     相次ぐ勝報に、日本は沸き立った。2月16日付の読売新聞朝刊では、1面に「万歳・シンガポール陥落」という大きな横見出しが躍り、その下に「大東亜に歓呼あがる! 驕おごりし英崩壊の第一歩」と伝えた。次のページは、落下傘部隊の「初陣の殊勲」を大きく報じている。

     空挺部隊は「空の神兵」と呼ばれた。軍歌や映画も作られ、戦意高揚のプロパガンダに使われることになる。
     

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  33. 日本支配地域最大に

     政府は41(昭和16)年12月12日の閣議で、対米英戦は「支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決めた。情報局は同日、大東亜戦争は「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味する」と発表した。

     しかし、この戦争は南方の資源獲得が主な目的で、12月8日の宣戦詔書では、「自存自衛のため」の戦争発動を宣言していた。それが情報局の発表では、大東亜新秩序建設が前面に押し出されていた。

     「自存自衛」の考えが強かった海軍に対して、陸軍は「大東亜新秩序」も強調していた。結局、指導者の間でも、肝心の戦争目的に対する認識や解釈が一致していなかった。

     翌42年2月、首相の東条英機は議会演説で、戦争目標として、欧米の植民地からの東亜各民族の解放を挙げた。

     日本は、南方作戦により、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、英領マレー、蘭印、フィリピンなど東南アジア地域を支配下に置いた。さらに、アリューシャン列島のアッツ島を占領し、中部太平洋からニューギニアまでを押さえた。陸軍の主力は中国大陸で要所を確保している。

     同年夏に、日本の支配地域は、歴史上、最大に広がった。しかし、日本の国力からみて、占領地に物資を補給することは極めて困難であり、占領した諸島の防衛も手薄のままだった。

    通告遅れ、米の結束促す

    ◆外務省の大失態

     外務省は在ワシントン日本大使館に対し、14部からなる対米通告と、真珠湾攻撃予定時刻30分前(ワシントン時間7日午後1時)に米側に手交するよう指示する暗号電報を送っていた。

     しかし、野村吉三郎と来栖くるす三郎の両大使が米国務長官ハルに通告を手交したのは、午後2時20分だった。その時、真珠湾は燃えていた。

     「これほど恥知らずなうそとこじつけに満ちた文書は見たことがない」――ハルは、2人の大使に激しい言葉を浴びせた。

     この大失態に関し、東郷茂徳外相は後に、現地大使館の暗号解読と清書作業などに「怠慢と過失」があったと述べている。

     『真珠湾〈奇襲〉論争』(須藤眞志著)によれば、大使館と本省との意思疎通が不十分で、本省側がこれを最後通告と考えていたのに対して、現地大使館はそれだけの危機意識はなかった。つまり、通告遅延の背景には、重大なコミュニケーション・ギャップがあった。

     皮肉なことに、大使館が通告準備に追われている時、大統領ルーズベルトや国務長官ハルは既に暗号解読により、通告内容も、手交時間が午後1時に指定されていることも知っていた。

     ただ、大使館の混乱の原因については諸説あり、本省側が通告を故意に遅らせたとの説も出ている。

    ◆宣戦布告だったのか

     通告には、別の問題もあった。日米交渉の打ち切りを告げてはいるものの、最後通牒つうちょう、宣戦布告を明示する内容が記されていなかった。

     最も重要な通告文の最後は、このように記されている。

     「合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立しようとする帝国政府の希望はついに失われた。……交渉を継続しても妥結できないと認めるほかにない旨を合衆国政府に通告する」

     真珠湾奇襲を狙う海軍は、開戦通告をあいまいにしたかった。外務省は開戦の意思を明確にしたほうがいいという立場だった。結局、最後通牒の形式をもつ文書も作成されながら使われず、ぼやけた表現の通告文になった。

     一方、ルーズベルトは、仏印からの撤退を求める旨の天皇宛ての親電を6日に発し、その後、通告文の解読部分をみて「これは戦争ということだね」とつぶやいている。軍部の妨害により、親電が天皇の手元に届いたのは、攻撃開始の直前だった。

     ルーズベルトは、真珠湾攻撃を予知しながら、ハワイに伝えなかったという「陰謀説」がある。しかし、真珠湾攻撃を知っていたことを裏付ける歴史的資料はなく、説得力は乏しい。

     真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルトは、上下両院合同会議で演説し、「昨日、1941年12月7日は、屈辱の日として生き続けるだろう」と表明。通告は攻撃開始から1時間後であり、日本は米国を欺いたと強調した。

     演説の後、上院が満場一致、下院は賛成388票、反対1票で対日宣戦布告案を可決した。

    ◆アイ・シャル・リターン

     「火をたかれると、限りない力を作り出す巨大なボイラー」。チャーチルがこう形容した米国は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)!」のスローガンの下、結束して対日戦に立ち上がる。

     真珠湾で日本の機動部隊は反撃を警戒し、米空母や、海軍基地機能を維持する生命線であるドック、燃料貯蔵庫などへの第2撃は見送った。反攻の足場を残した米国は、圧倒的な国力を背景に反撃に転じる。

     真珠湾攻撃のころ、ドイツ軍は真冬のモスクワ目前で、ソ連軍の強烈な反撃に遭った。崩壊だけは免れたものの、勝利は遠のいた。

     42(昭和17)年3月、陥落間際のフィリピンから脱出した米軍司令官マッカーサーは、豪州に到着後、記者団に感想を聞かれた時に、こう答えた。「アイ・シャル・リターン(私は戻ってくる)」。米軍の反攻は、すぐそこまで迫っていた。

     (杉山祐之、遠藤弦、宮崎健雄、上杉洋司)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131213-118-OYTPT01093

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  34. 今年の漢字は「輪」
    12月12日 15時15分

    ことし1年の世相を漢字ひと文字で表す「今年の漢字」が京都の清水寺で発表され、東京オリンピックの開催決定などを理由に「輪」という字が選ばれました。

    「今年の漢字」は、京都に本部がある日本漢字能力検定協会が、その年の世相を表す漢字ひと文字を一般から募集し、最も多かった字を選んでいます。
    ことしは、17万通余りの応募から最も多い9518通を集めた「輪」という漢字が選ばれました。
    京都市東山区の清水寺では、発表場所の「清水の舞台」と呼ばれる本堂で、森清範貫主が立てかけられた和紙に「輪」という文字を一気に書き上げました。
    協会によりますと「輪」という字を選んだ人たちは、東京オリンピックの開催が決定したことや、東北楽天イーグルスが日本シリーズで初優勝し日本中にチームワークの大切さや応援の輪を印象づけたことなどを理由に挙げているということです。
    また、応募があったうち「輪」という文字に続いて、2番目に多かったのは「楽」で8562通、3番目に多かったのは「倍」で7623通でした。

    清水寺貫主「五輪東京誘致が大きい」

    今年の漢字に「輪」が選ばれたことについて、清水寺の森清範貫主は、「オリンピックが東京に誘致されたことがいちばん大きいと思います。『輪(りん)』には、大勢の人が1つになって円滑に回転していくという意味もあります。みんなが譲り合い支えあって、来年も震災からの復興など力を合わせて輪(わ)のつながりを大切にしていきたいです」と話していました。

    安倍首相は「夢」

    安倍総理大臣は総理大臣官邸で、記者団から「ことし1年を振り返って、漢字ひと文字で表すと何になるか」と質問されたのに対し、「『夢』ですね。ことし9月、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの招致が決まり、みんなで頑張れば夢はかなうことをみんなで実感できたのかなと思う」と述べました。
    また、安倍総理大臣は「私たちが進めている3本の矢の経済政策によって、ことしは去年と大きく空気が変わった。株価は上昇し、頑張れば来年はもっとよくなるのではないかという夢をみんなが未来に見ることができるようになった1年ではなかったかと思う」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131212/k10013780211000.html
     

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  35. 「夢見る人」
    http://www.youtube.com/watch?v=bCuVZPhqBcE
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E4%BA%BA+%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

    《1864年に作曲された歌曲だが、晩年のフォスターはニューヨークのアパートに一人で住み、貧困を極めた。妻のジェーンと別居し、アルコール依存症で酒に溺れる荒んだ生活だったという。1864年の正月のある朝、アパートでめまいを起こし、酔ったはずみで転倒し、身体を拭くための水を入れたガラス容器に頭をぶつけて大怪我をした。病院に担ぎ込まれたが、3日後にそのまま37歳の若さで死去した。
    この歌曲は1864年にボンド社から出版された楽譜には、「最後の歌曲で、死の数日前に作曲された」と書かれており、「白鳥の歌」ともいうべき美しいセレナードで、フォスター晩年の傑作とされている。》
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E4%BA%BA
     
    豆腐の角に頭をぶつけて生死の淵を彷徨い、闇の深淵から覗かれておいでおいでをされている、いまの日本の姿にまことに相応しい楽曲かも…(笑)。
     

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  36. カーリング女子 ソチ五輪出場決定
    12月16日 7時9分

    ドイツで行われたカーリングのソチオリンピック最終予選で、女子の日本代表はプレーオフでノルウェーに10対4で勝ち、5大会連続のオリンピック出場を決めました。

    カーリングの最終予選は、15日、女子の最後のオリンピック代表を決めるプレーオフが行われ、世界ランキング10位の日本は13位のノルウェーと対戦しました。
    ノルウェーは、日本が予選で9対5で勝った相手ですが、2006年のトリノオリンピックで4位の実績を持つ選手2人が率いる経験豊富なチームです。
    日本は、序盤、ノルウェーにリードされますが、第5エンドで3人目の船山弓枝選手が円の中心にピタリと止める見事なショットを見せると、このストーンを守って1点を取り3対3の同点に追いつきました。
    そして1点をリードされて迎えた第8エンド、日本は3人の選手がショットをつないで円の中にストーンをため、最後に司令塔の小笠原歩選手が相手のストーンをはじき出すと一気に6点を奪って逆転しました。
    日本は、10対4で勝ち、1998年の長野オリンピック以来、5大会連続のオリンピック出場を決めました。

    五輪出場決定に喜びの声

    チームで1人目に投げるリードの苫米地美智子選手は「きょうの試合はチャンスは必ず来ると思って我慢して戦いました。内面は冷静ではなかったのですが練習を思い出して、もうやるしかないと思っていました。地元の岩手にもよい報告ができます」と話していました。
    チーム最年少の22歳で2人目のセカンドを務めた小野寺佳歩選手は「夢のようです。本当にまだ現実味がなくてただただうれしいだけです。およそ2か月後にオリンピックがあるので恥じないプレーをしたいです」と意気込みを話しました。
    3人目のサードとしてチームを引っ張ったベテランの船山弓枝選手は「連続してオリンピックに出ているので、それを絶やしたくないと思っていました。やっとオリンピックの舞台に立てるので、これまで出場した2大会のオリンピックでやり残したことを成し遂げたいです」と話していました。
    また、結婚と出産を経てチームを新たに結成し、3年目でオリンピックの出場権を獲得するまでに成長させた司令塔の小笠原歩選手は、「毎日毎日、きょうここで勝つと言うことを考えない日はないくらい自分を追い込んできました。本当は、辛かったです。やっと今、うれし涙を流せるので本当に私の人生は恵まれているなと思います。オリンピックではチームのみんなによい経験をさせてあげたいです」と話しました。
    そして、控えのリザーブとしてチームを支えた吉田知那美選手は「チームを結成した当時は半信半疑でやってきましたが、小さいことの積み重ねで夢はかなうんだと思いました。ここまで来たら出場するだけのオリンピックではだめなのでしっかりと勝ちたいです」と話していました。

    同僚が総立ちで声援 札幌

    札幌市中央区にある北海道銀行の本店では、日本時間の15日夕方に行われた中国戦に続いて会議室に応援会場が設けられ、未明からの試合にもかかわらず、選手の同僚などおよそ40人が集まりました。
    会場には、大型のテレビが2台設置され、集まった人たちは栄養ドリンクを飲みながら試合の様子を固唾を飲んで見守りました。
    そして、日本代表チームが試合終盤に一挙6点を奪って逆転すると、全員が総立ちになり、試合に勝ってオリンピック出場が決まったときには万歳をして勝利を祝いました。
    同僚の男性は「勝ってくれると信じていました。選手たちに力をもらったので仕事も頑張れそうです」と話していました。
    また、別の男性は「カーリングの本場・北海道から代表を送り出せることを誇りに思います。選手たちは本当に頑張ってくれました」と涙を浮かべて話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131216/k10013853311000.html
     

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  37. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<41>太平洋戦争(下)…開戦から1年 勝機失う
    2013年12月21日3時2分 読売新聞

     ◇ミッドウェーで暗転 「餓島」ガダルカナル

     米太平洋艦隊の主力を撃破し、南方資源を確保するという第1段作戦の目的を、日本軍は首尾よく達成した。しかし、勝利は慢心を生み、ミッドウェー海戦での敗北に続いて、ガダルカナル島でも、撤退を余儀なくされる。戦局は暗転し、日本は勝機を失っていく。(文中敬称略)

     ◆真珠湾の成功で慢心

     第1段作戦の勝利を受け、陸海軍とも次の作戦構想を練った。真珠湾の奇襲に成功した連合艦隊司令部は、ミッドウェー島攻撃を主張した。同島は、ハワイの米太平洋艦隊が日本本土を攻略する際の重要拠点。司令部は、同島を攻略すると共に、真珠湾で取り逃した米空母を誘い出し、一挙に撃滅することを考えていた。

     これに対し、大本営は、南方資源の輸送を重視し、米豪連携を遮断するためフィジー、サモアを先に攻略するよう唱えたが、結局、連合艦隊司令長官の山本五十六の発言力が勝った。

     軍令部総長の永野修身おさみは1942(昭和17)年5月5日、「ミッドウェー島を攻略し、敵国艦隊の機動を封止し、我が作戦基地を推進する」との作戦を発令。4月18日には米空母から発進した十数機の爆撃機が東京や名古屋などを奇襲攻撃した。これも攻略作戦を後押しした。

     だが、真珠湾作戦が秘密保持を徹底し、用意周到に準備されたのに比べ、ミッドウェー作戦は、出撃前から噂うわさが広がり、準備期間も極めて短かった。

     しかも、作戦発令直前に実施された旗艦「大和」での図上演習では、ミッドウェー島攻略の最中に米空母が出現し、米艦載機による攻撃で空母「赤城」が沈没、作戦続行が困難となった。ところが、連合艦隊参謀長の宇垣纏まとめは、独断で命中弾を減らすなど損害を過小に見積もった。

     真珠湾作戦に勝利した慢心の表れだった。連合艦隊参謀・三和義勇よしたけの日誌には、「今は唯ただよき敵に逢あはしめ給へと神に祈るのみ」などと記されている。

     一方、真珠湾の責任を問われて更迭されたキンメルに代わって、米太平洋艦隊司令長官に就任したニミッツは、連合艦隊によるミッドウェー島攻略の可能性が高いとみていた。米側は、日本海軍の暗号解読にも成功し、「赤城」「加賀」など4隻の空母機動部隊が、6月3日から5日の間にミッドウェー島を攻撃すると確信するに至る。

     ◆大敗を隠した海軍

     南雲忠一を司令官とする空母機動部隊は5月27日、広島・柱島から出撃した。司令長官の山本が座乗する旗艦「大和」など主力部隊は、その後方500キロに続いた。緊急時の対応を想定していない間延びした艦隊は、日米の形勢を逆転させる6月5日を迎える。

     戦闘では、米空母の位置を探る索敵が粗雑で、偵察機の発進は遅れ、潜水艦による水中偵察も間に合わないなどのミスが相次いだ。ミッドウェー島攻略と、空母部隊撃滅のどちらを優先するのか、の意思統一も不十分で、戦闘は後手後手に回った。午前4時28分、機動部隊に「敵空母発見」の一報が届く。が、米軍は1時間以上も前に連合艦隊を発見し、米艦載機は急降下爆撃の奇襲に成功した。同7時23分、「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻の空母は大火災を起こして航行不能となった。

     残った空母「飛龍」が孤軍奮闘、米空母1隻を撃沈したが、午後2時過ぎ、米軍機の猛爆撃で炎上し、座乗していた山口多聞たもん・第2航空戦隊司令官=人物抄=は、艦とともに最期を遂げた。連合艦隊は戦闘開始から半日で、保有する大型正規空母6隻のうち4隻を失った。

     しかし、大本営が6月10日に発表した内容は、「米航空母艦エンタープライズ型1隻及びホーネット型1隻撃沈、(中略)我方損害、空母1隻喪失、同1隻大破、巡洋艦1隻大破、未帰還飛行機35機」というものだった。海軍は、こうして虚偽の報告をしただけでなく、生き残った将兵には口止めをし、遺族にも真相を明かさなかった。

     ◆兵力の逐次投入

     日本のはるか南方に浮かぶソロモン諸島のガダルカナル島(ガ島)とその西方のニューギニア島。開戦当初、日本軍はこんな遠方で戦うことなど夢想だにしていなかった。

     だが、42(昭和17)年1月、海軍が、対日反抗を強める豪州軍の基地ラバウルを攻略、航空基地として占領したことでこれが現実となる。

     ラバウルは、占領直後からニューギニア島東南端のポートモレスビーから飛来する豪州軍機の攻撃にさらされた。海軍は、ガ島をポートモレスビー攻略の前線基地とするため、42年7月、海軍設営隊約2600人と海軍陸戦隊約250人を上陸させ、飛行場建設に従事させた。

     ところが、8月7日早朝、艦砲射撃と激しい空爆を伴って1万人を超す米軍第1海兵師団が押し寄せてきた。日本軍の大半は軍属の労働者で、米軍はたやすく上陸に成功した。

     「米軍上陸」の一報を受け、海軍のラバウル航空隊は、直ちに零戦と一式陸上攻撃機による反撃を試みたが、成果は上がらなかった。ガ島奪回という半年に及ぶ攻防戦はここに始まった。

     大本営は当時、米軍の本格的な反攻は、43年中期以降と考えていた。『南東方面作戦記録』(第1復員局作成)によると、「ガ島に対する敵の来攻は偵察上陸の程度と思われる。(中略)我が陸海軍部隊をもってガ島を奪回することは、さして難事ではない」と、米軍を過小評価していた。

     ガ島奪回を託されたのはミッドウェー島上陸のために編成されていた精鋭の一木支隊(歩兵28連隊を基幹とする部隊)だった。8月18日、連隊長の一木清直率いる先遣隊約900人は、駆逐艦に分乗してガ島に上陸。本隊の到着を待たずに20日夜、日本陸軍の伝統的戦法である夜襲による銃剣突撃を敢行した。

     だが、日米の戦力の差はいかんともし難く、米軍の戦車、機関銃、迫撃砲など圧倒的な火力の前に、翌21日早朝までにほぼ全滅した。

     一木支隊に続き、川口清健率いる歩兵35旅団(川口支隊)約6000人がガ島に投入された。9月12日、部隊はジャングルを迂回うかいして米軍の背後から夜襲突撃したが、失敗した。さらに、陸軍は10月24日、約1万人の兵力の第2師団で3度目の攻撃に臨んだが、米軍の重砲火力の前にはね返された。

     第2師団長の副官は戦闘日誌の中で、失敗の原因として「攻撃準備極めて不十分」「敵の膨大なる火力の軽視」「制空権なき無茶なる戦闘」「唯々銃剣のみによる夜襲。教育の悪習」を挙げ、最後に「敵情軽視せる大本営の責任大ならん」と結んでいる。

     「兵力の逐次投入」は、惨憺さんたんたる結果をもたらした。ミッドウェー海戦に敗北した海軍に、制海・制空権を取り戻す力はなく、兵員や武器弾薬、食料などを積んだ日本の輸送船団は、米空母機動部隊やガ島から発進する航空機の餌食となった。

     ◆過酷な飢餓との戦い

     ジャングルに残された日本兵を待っていたのは、ガ島が「餓」島と呼ばれるに至る過酷な飢えとの闘いだった。第2師団の兵長だった金泉潤子郎(大正8年生まれ)が、今語る体験談は、以下のようだ。

     <駆逐艦に乗せられ、10月にガダルカナルに上陸した。急いで資材を陸揚げしたが、その間に1週間分の食料を入れた背嚢はいのうを、敗走中の日本兵に奪われた。軍隊は階級が全て。死んでいる他の部隊の上官の階級章を自分の制服に縫いつけ、階級を偽って食料を奪う兵隊もいた>

     <食べられる物は何でも食べた。マラリアにも赤痢にもなった。デング熱にもかかったが、焼いた枝で作った炭を食べて持ちこたえた>

     <クリスマスの時、米軍は、白い天幕の中で音楽をかけ、ダンスをしていた。6人で忍び寄り、外にあった米軍の背嚢を奪って逃げた。飛行場周囲の鉄条網は電気が通り、触れると集中砲火を受ける。何人かがやられた。腹を撃たれた仲間は、『水をくれ』と叫ぶ。だが、水を飲むと途端に出血が多くなる。もう助からないという人だけに水筒を投げてやった>

     <上陸から4か月後、「2時間で撤退を終えろ」と命令された。だが、全員が栄養失調で、浜辺に着いて船に乗る前に力尽きた兵士もいた。『迷惑かけるから行ってくれ』と言い残して銃口をノドに当て、足で小銃の引き金を引いて命を絶った兵士も目の当たりにした>

     ◆撤退を「転進」と偽る

     大本営は43(昭和18)年2月9日、ガ島作戦部隊について、「目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」と発表。ガ島奪回という目的を果たすことなく、ここでも「撤退」を「転進」と言い換えて国民を欺いた。

     ガ島に上陸した総兵力約3万1000人のうち、撤退できたのは1万人余り。死者・行方不明者は約2万1000人。このうち戦闘で亡くなったのは5000~6000人と推定され、残りの1万5000人は飢えと病気に倒れた。

     海軍の戦力消耗も激しかった。ラバウルからガ島までは1000キロも離れ、いくら航続距離の長い零戦でも、ガ島上空で戦闘に割けるのは15分程度だった。敵機の攻撃に備えた長時間の緊張のために、兵士の戦闘能力は低下し、約2300人を超す熟練搭乗員が愛機と運命を共にした。
     

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  38.  ◇生きて帰れぬニューギニア

     ◆兵力15万、犠牲13万余

     ミッドウェーとガダルカナル――。日米が激突した二つの戦闘で、米軍は制海権と制空権を完全に掌握し、日本軍は戦争を続けるために最も重要な補給(兵員や武器弾薬、食料の輸送)を確保する道を絶たれた。

     だが、この時、「生きて帰れぬニューギニア」とも言われた、東部ニューギニアでの戦いが始まっていた。

     42(昭和17)年4月に入り、米豪軍機のラバウル基地への来襲が激化し、連合艦隊は海上からポートモレスビーを攻略するMO作戦を策定した。

     翌5月、空母2隻の機動部隊が、ソロモン諸島の珊瑚海で米空母機動部隊と激突した。世界初の空母対空母の海戦で、連合艦隊は米空母1隻を撃沈したものの、空母1隻を喪失、1隻が大破した。この被害で、大本営は7月、陸軍南海支隊と海軍陸戦隊などを上陸させ、陸路からポートモレスビーを攻略する作戦を発令した。

     翌8月、陸海軍計約1万1400人の部隊は、標高3000メートル級の山々が連なるオーエンスタンレー山脈を、武器弾薬、食料などを担いで踏破、9月中旬にはポートモレスビーを眼下に望む高地まで到達した。

     だが、ミッドウェー作戦に勝利した米海軍は、ソロモン海で日本の輸送船団を次々と撃沈。補給を絶たれた陸海軍部隊は、食料の欠乏と難行軍の末に撤退せざるを得なかった。ガ島奪回を放棄した大本営は42年末、ポートモレスビー攻略をあきらめ、東部ニューギニアに兵力をつぎ込み、マッカーサー連合軍の反撃を阻止する作戦に変更した。

     東部ニューギニアでの作戦は45(昭和20)年8月の終戦まで続けられ、投入された総兵力は約15万に上る。だが、猛烈な米軍の攻撃にさらされ、しかも一切の補給は途絶え、部隊は次第に孤立していった。

     終戦時の生存者は約1万3000人。13万人余りが犠牲となったが、戦闘で死亡した兵士は約35%で、残りは病気と餓死だった。芥川賞作家の野呂邦暢くにのぶは、『失われた兵士たち』の中で、東部ニューギニア作戦について「戦争の惨苦を圧縮して見せてくれる戦場」と記している。

     42年のミッドウェー海戦とガ島、そして、東部ニューギニアでの敗北は、太平洋戦争の大きな“転機”となった。(勝股秀通、前田遼太郎)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131220-118-OYTPT01341

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  39. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<43>銃後(上)…「欲しがりません勝つまでは」
    2014年1月11日3時1分 読売新聞

     日米開戦後、戦場後方の「銃後」では、生活必需品に事欠くようになる。戦況の悪化とともに、物不足は深刻化し、国民生活は破綻寸前に追い込まれていく。「欲しがりません勝つまでは」「産めよ殖ふやせよ」――こんなスローガンが叫ばれていた。
    (文中敬称略)

    ◆配給維持も難しく

     多くの国民が日米開戦に不安を抱いたが、ことの重大性に気づく人は少なかった。物資窮乏とインフレに苦しみながらも、市民はよく働き、「欲しがりません勝つまでは」のかけ声に従順にこたえていた。

     当時、女学校に通っていた作家の田辺聖子は、著書で「ひとことで、その頃の印象をいうと『欲しがりません勝つまでは』につきる」とし、このスローガンは、「おなかを空すかせた子供たち」への「むなしい叱咤しった激励のことば」だったと書いている。

     敗色が濃くなり始めた43(昭和18)年、政府は、繊維産業や中小企業など平和的な産業を整理し、軍需工場に転用したり、設備をくず鉄にして鉄鋼生産に使ったりした。また、国家総動員法に基づく徴用も強化され、強制的に転業させられる労働者が相次いだ。

     この結果、軍需の中心だった金属機械工業の就業者数は、40年の280万人から44年には510万人に急増した。

     逆に、紡績業は160万人から80万人に、商業は360万人から160万人に激減したと推計されている。

     こうした中で、生活必需品の生産力は低下し、国が物を割り当てて販売する配給制が維持できなくなる。市民は、配給不足を補うために、行列買いや闇売り、都市近郊農村への買い出しに走る。物価上昇も顕著で、闇価格を考慮した小売物価指数は、1930年代半ばから45年までに7倍に上昇した。

     皮肉なことに、食糧不足は都市と農村との格差を縮めたが、買い出し先や疎開先で意地悪をされ、人間不信に陥る人も少なくなかった。

     ただ、買い出しに行くにしても、43(昭和18)年10月から、列車は貨物優先となり、一般人の乗車は大幅に制限された。特急列車、寝台車などは次々と廃止され、45年3月からは、東海道線に急行列車を残すなどしたほかは、ほぼ全廃された。

     その一方で、軍や統制団体の関係者の中には、不正を行っている者もあり、「世の中は、星(陸軍)に錨いかり(海軍)に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」と皮肉られた。

    ◆すいとんや雑炊

     43年、衣生活の簡素化が閣議決定され、決戦下での男女の服装として、国民服やもんぺなどを着用する人が増えた。婦人雑誌では既製服を国民服やもんぺに「リフォーム」する特集が相次いだ。

     料理記事は、太平洋戦争開始後の42(昭和17)年ごろから、「配給食料の使い方工夫」などの特集が組まれている。配給肉を煮込んでスープをとったり、ひき肉にして野菜と混ぜてかさを増やしたり。やがて粉を水でこねて団子状にし、汁で煮る「すいとん」を紹介。実際に試されたかどうかは不明だが、「小便から塩をとる」方法を紹介した新聞もあった。

     コメの収穫量は、42年の990万トンから45年は580万トンに激減した。

     軍隊や軍需工場への動員などによる農業労働力の減少や、農機具や肥料の不足など、生産条件の悪化が原因だった。

     一人(11歳から60歳まで)一日2合3勺しゃくだったコメの配給基準は、1945(昭和20)年7月には2合1勺に減った。七分搗づきに制限されていた精米も、42年秋から五分搗き、その後、二分搗きになった。代わりに、押し麦、コウリャン、トウモロコシなどの雑穀が混入され、馬鈴薯ばれいしょ、うどん、乾パンなどを含めた「総合配給」になる。

     44(昭和19)年3月の東京では、1人当たり5日に魚1切れで、野菜も筋だけの大根など粗悪な品ばかりになった。4月からは、東京など大都市で「雑炊食堂」がオープンした。玄米の粥かゆに野菜や魚肉などが申し訳程度に浮かんだ雑炊だったが、外食券がなくても食べられ、たくさんの客が押しかけた。人々の栄養摂取量の大幅ダウンは免れなかった。

     家庭菜園が流行し、東京都は「何がなんでもカボチャを作れ」などと、野菜の栽培を奨励した。ジャーナリストの清沢洌きよしは、友人からもらった馬鈴薯の種と堆肥を大八車に積んで帰路、途中に落ちていた「馬糞ばふんを一々拾う」と書き残している。

    ◆金属供出と灯火管制

     41(昭和16)年、政府は兵器増産のために金属類回収令を施行、全国各地で寺の鐘、街灯、看板、鉄製ポストなどが回収された。「自発的に」が建前だったが、協力しなければ「非国民」扱いされた。

     43年には、貨幣も金属類回収令の対象となり、貴金属やダイヤモンドも供出させ、安い公定価格で買い上げた。ダイヤモンドは研磨や切削加工に使用されるため、工業製品に不可欠な物資だった。またプラチナ(白金)は、電気式爆管ばっかん(薬きょうの点火装置)や航空機器の部品に使われた。終戦後に残されたダイヤモンドだけでも16万1000カラット、約150万個にのぼった。

     B29による本格的な本土空襲が始まった44(昭和19)年から、東京など都市部が破壊され始め、窓からもれるあかりが敵機への目印になるとして「灯火管制」が敷かれた。夜は電灯に黒い布や笠かさをかぶせなければならなかった。

     警防団や婦人会、隣組など銃後を守る組織によって「防空演習」も盛んに実施された。消火訓練、退避訓練、非常用炊き出し訓練なども徹底して行われるようになった。しかし、焼夷しょうい弾の空襲に対してはほとんど無力だった。
     

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  40. 「産めよ殖やせよ」

    ◆出生数は平均5児に

     政府は41(昭和16)年、「人口政策確立要綱」を閣議決定し、国を挙げての人口増強政策に乗り出した。

     内容は、〈1〉今後10年間に結婚年齢をおよそ3年早めて出生数を平均5児にする〈2〉積極的に結婚を紹介、斡旋あっせんする〈3〉貸付制度を創設して結婚費用の軽減を図る〈4〉多子家族に物資を優先配給し、表彰する――。「産めよ殖やせよ」という強いメッセージだった。

     要綱は「『東亜共栄圏』を建設して悠久にして健全なる発展を図ることは皇国の使命なり」としたうえで、「高度国防国家における兵力、労力」や「東亜諸民族に対する指導力の確保」などを目標に掲げていた。

     人類学者で「人口問題研究所」(厚生省の付属機関)の元所長・篠崎信男は、東京帝大助手だった43年、機関誌に「民族混血の研究」と題する論文を発表した。南洋諸島で行った欧米白人と現地島民の「混血」150人の調査を下敷きに「民族を強くするには、異民族との結婚が有効と思われる」と結論づけた。

     篠崎は後年、読売新聞のインタビュー(98年)で、この論文について「グローバルな発想で百年単位で、混合民族論を唱えていたのだが、朝鮮・台湾支配など植民地拡張政策を正当化したという印象だけに終わってしまった」と語った。

     健康な子どもを産むためにと、優生学に基づく断種法(民族衛生法)制定の動きが強まり、40年、「国民優生法」が公布された。また、産児制限が禁止され、結核や妊娠中毒症などで母胎が危険な場合でさえ、人工妊娠中絶はできなかったという。

    ◆結婚「十訓」で奨励

     41(昭和16)年7月1日付読売新聞には、厚生省優生結婚相談所がまとめたといわれる「結婚十訓」が掲載されている。

     〈1〉一生の伴侶として信頼できる人を選べ

     〈2〉心身共に健康な人を選べ

     〈3〉お互いに健康証明書を交換せよ

     〈4〉悪い遺伝のない人を選べ

     〈5〉近親結婚はなるべく避けよ

     〈6〉なるべく早く結婚せよ

     〈7〉迷信や因習にとらわれるな

     〈8〉父母長上の意見を尊重せよ

     〈9〉式は簡素に届けは当日

     〈10〉生めよ育てよ国のため

     結婚奨励会など民間団体の動きも活発化した。40年、満6歳以上の健康な子女10人以上を育て、かつ夫婦が品行方正である家庭を「優良多子家庭」として表彰する制度ができ、同年11月、1万622件が選ばれた。

     ただ、厚生省の資料によると、要綱が制定された41年の出生数は約227万人、42年223万人、43年225万人とほぼ横ばい(44年から46年までの3年分は資料がない)で、人口増に貢献したとはいえないようだ。

     厚生省は、会長に首相、副会長に厚相と企画院総裁をあてる「人口対策審議会」の設置を検討したが、たなざらしになった。元日本人口学会会長の山口喜一は、「政府の政策に同調する言論や運動も展開されたが、政府内の十分な予算措置も得られず、鳴り物入りの人口増強政策は貧相なものになり、そして終わったといえる」と語る。
     

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  41. 米、日系人を強制収容

    ◆砂漠の中に収容所

     日本の真珠湾攻撃から約2か月後の42(昭和17)年2月19日、ルーズベルト米大統領は、大統領令9066号に署名した。

     特定地域から住民を立ち退かせることのできる、この法令に基づき、米国本土の西海岸に住む日系人約12万人が、10か所の収容所に強制的に収容された。持ち出しが許されたのはスーツケース一つだけ。家財や土地は二束三文で買いたたかれるか、放棄せざるを得なかった。

     枢軸国のドイツ系、イタリア系米人も、一部で強制収容されたが、本国との結びつきが強い者以外は短期で釈放された。その裏に人種的偏見があったのは明らかだった。

     米国以外でも、ブラジル、メキシコ、カナダなどで、日系人の強制収容が行われた。ペルーなどからは計2000人以上が米国に強制連行され、米国内の収容所に入れられた。

     ハワイ州では、収容されたのは日系人組織のリーダー的存在に限られ、大部分は免れた。人数が多すぎたため、ハワイの経済、社会が混乱しかねなかったためだ。

     収容所は、カリフォルニア州、アリゾナ州などの内陸部の砂漠地帯に作られた。逃亡者を防ぐため、有刺鉄線のフェンスで囲まれ、銃を持った米軍兵が監視所で警備に当たった。夏は気温40度以上、冬は零下20度にもなる厳しい気候の所もあり、建物は急ごしらえで造られた粗末な木造だった。トイレには仕切り板すらなかった。

     この強制収容の根拠とされた大統領令は、76(昭和51)年にようやく廃止されるが、元収容者に対する賠償の決定と謝罪は、88年まで待たなければならなかった。

    ◆日系人部隊を編成

     収容者たちは、米国への忠誠を誓うかどうかを答えさせられた。イエスと答えた「親米派」とノーの「親日派」が激しく対立。死者が出る事件も起きた。『442 日系部隊』など日系アメリカ人に関するドキュメンタリー映画を撮った、すずきじゅんいち監督は、「日系人が二つに分かれたことは、大きなしこりを残し、今もそれは払拭されていない」と語る。

     ハワイでは、日米開戦当初、米軍兵だった日系人たちは武器を取り上げられて雑務をさせられた。その後米本土に送られ、日系兵だけで構成する「100大隊」が結成された。彼らの軍事訓練での優秀さに驚いた米軍は、日系志願兵による部隊「442連隊」を結成し、100大隊はその中核部隊となる。

     米国で生まれた2世、3世の中からは、米国への忠誠心を示すことで不当な差別をはね返そうという動きも出て、特にハワイから多数の志願兵が集まった。その中には後に日系人初の上院議員となるダニエル・イノウエもいた。

     442連隊はヨーロッパ戦線に投入された。決して退かない激しさで知られ、米軍内でも飛び抜けて高い死傷率を記録。その勇猛ぶりは米国でも大きく報道され、日系人に対する見方を変えるきっかけになった。

     一方、米陸軍は、日系人を集めた秘密情報機関(MIS、ミリタリー・インテリジェンス・サービス)を極秘に設立して日本軍の情報収集にあたらせた。

     第2次大戦終結直前に急死したルーズベルト大統領の後を継いだトルーマン大統領は、彼らを「人間秘密兵器」と呼び、戦後、連合国軍参謀第2部部長を務めたウィロビー少将は、「MISの日系兵士のおかげで戦争を2年早く終結できた」と述べている。

     終戦後も日本の復興に大きな役割を果たした彼らの存在は長く秘密にされていたが、72年、機密扱いが解除されて明らかになった。

     (永峰好美、福永聖二、鳥越恭、大津和夫)
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  42. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<44>銃後(中)…教育の場も戦争一色
    2014年1月18日3時1分 読売新聞

     戦況の悪化に伴い、学校も戦時体制に組み込まれていった。学業半ばの若者を軍需工場で働かせる一方、徴兵猶予を停止して学徒動員を開始した。都市部では、空襲被害を避けようと学童疎開が進められるなど、教育の場も、戦争一色になる。(文中敬称略)

    学徒出陣「生還を期せず」

    ◆徴兵猶予を停止

     1927(昭和2)年に制定された兵役法は、満20歳の男子に、陸軍なら2年、海軍なら3年の兵役を義務付けていた。一方で、中学校以上の学生・生徒には、27歳になるまで徴兵猶予の特典があった。

     しかし、日米開戦が迫った41(昭和16)年10月、勅令によって兵役法が改正され、猶予は大学生で24歳(医学部のみ25歳)に短縮された。卒業時期も、41年度には12月、42年度以降は9月に繰り上げとなった。

     43(昭和18)年10月からは兵力の補強策として、学生・生徒の徴兵猶予が停止された。いわゆる「学徒出陣」である。停止の閣議決定は9月21日。翌日には首相の東条英機がラジオで発表し、12月には入営するという慌ただしさだった。

     10月21日には文部省主催の出陣学徒壮行会が、東京の明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で開かれた。学生らは、雨でぬれたグラウンドを、銃を持って行進。東条は、「敵米英においても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っている。諸君は彼等らと戦場に相対し、気迫においても戦闘力においても、必ずや彼等を圧倒すべきことを深く信じて疑わぬ」と鼓舞した。

     学生を代表して東京大文学部2年の江橋慎四郎が、「生せい等(学生である我々)もとより生還を期せず。在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍しかばねを乗り越え……」と、勇ましくも悲壮な答辞を述べた。観客席では女子生徒らが見送り、競技場には「海ゆかば」の合唱がこだました。

     この日、NHKラジオは、「征ゆく学徒、東京帝国大学以下77校○○(まるまる)名、これを送る学徒96校、実に5万名」と実況放送した。○○名としたのは、出陣学徒の数も軍事機密だったからだが、行進したのは約2万5000人(推定)だった。

     ただ、その勇ましさとは裏腹に、徴兵検査で帰郷している学生もいて参加人数が足りず、徴兵検査を受けるだけで入営を延期する措置が取られた理工系の学生たちが、隊列に加わっていたと言われる。

    ◆運命の分かれ道

     また、壮行会に出なかった学生も少なからずおり、それぞれ複雑な思いでこの一日を過ごしていた。

     海軍の特攻隊員として沖縄近海で戦死することになる早稲田大生の市島保男は、「(壮行会には)行きたい気持ちだった。感激に浸り、涙を流したかった。(中略)然しかし僕は行かなかった。何故学生のみがこれほど騒がれるのだ」(早大所蔵の「市島保男遺稿集」)と、友人に手紙で疑問を投げかけた。

     陸軍に入隊するも、内地で終戦を迎えることになる慶応大生の神代こうしろ忠男は、「ゲートルを巻き、学校から借りた銃を持って出ようと思ったら仲のいい友人が2人訪ねてきた。『兵隊に行くのに、雨でびしょ濡ぬれになって風邪をひいたらまずいし、東条の偉そうな演説を聴きたくない』というので、『それもそうだ』と銀座の日劇に出かけた」と振り返る。神代の同期生約1400人のうち約200人が帰らぬ人となった。

     各大学などでも相次いで壮行会が開かれ、10月16日には、早慶両校野球部による壮行試合も行われた。当時、圧倒的な人気を誇った両校の試合は、最後の早慶戦として知られている。

     学徒兵の多くが特攻隊員として戦死するなど悲劇は数多い。その一方で、海軍兵学校の国史の教官や主計科士官、陸軍の経理部将校というコースもあるなど入隊後の運命は大きく分かれ、それが生死の分かれ目にもなった。

     43(昭和18)年12月に入隊した学徒は、全国で9万人~13万人と言われている。翌年は、徴兵年齢が19歳に引き下げられて入隊者は2倍になった。結局、学徒動員の総数については、繰り上げ卒業などもあって明確になっていない。

     また、戦没者数についても、卒業生を含めるかなど大学ごとに数え方がまちまちだが、白井厚・慶大名誉教授の調査では、早大が4561人、慶大が2225人、東大が1652人などとなっている。

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  43. 空襲を避け学童疎開

    ◆小学校は国民学校に

     41(昭和16)年4月からは、明治以来、約70年間続いた「小学校」の名称が、初等科6年、高等科2年の「国民学校」に改められた。最大の狙いは皇国民教育の徹底だった。

     教科は、国民(修身、国語、国史、地理)、理数(算数、理科)、体錬(体操、武道)、芸能(音楽、習字、図画、工作など)の4科と、実業科(高等科のみ)に再編された。

     特に国民科では、天皇への忠誠や日本精神などが徹底的に教えられた。改定された教科書も、初等科国語4年で「マストに仰ぐ 天皇旗、ああ、天皇旗」という詩が新たに掲載されるなど、軍国調と忠君愛国主義が一層強まった。

     紀元節などの「四大節しだいせつ」の式の前には、必ず予行演習があり、登校後の朝礼では、国旗掲揚と、皇居の方向に向かって最敬礼する「宮城遥拝ようはい」が日課になった。こうした国民学校での生活を通じて、軍国主義などが刷り込まれた「少国民」が育っていった。

    ◆始まりは縁故疎開

     都市部では米軍機による空襲の影が忍び寄っていた。

     子供たちを集団疎開させるか、否か。当初、政府の判断は揺れた。日米開戦直前、防衛総司令部などは、「全国民が国土防衛の戦士」として、子供も空襲から町を守る戦力の一員と見なしていた。

     終戦後に極東軍事裁判の検察側証人となった田中隆吉の手記によると、首相の東条も、学童疎開に否定的だった。陸軍省兵務局長だった田中は42(昭和17)年、東条に「都市に働く男子の足手まといにならぬよう、学童らの疎開を」と進言したが、「わが日本は家族制度の国である。疎開は家族制度の美風を破壊する」と一蹴されたという。

     だが、戦況が悪化してきた44(昭和19)年3月、京浜地域の学童について、地方の親戚や知人宅に行く「縁故疎開」を行うことを決定。同年6月には、縁故疎開を原則とするが、それが困難な初等科3~6年の学童に対しては、集団疎開を勧奨することを決めた。

     集団疎開では、保護者が疎開費用の4分の1程度(1人月10円)を出し、残りを国や疎開を行う自治体が負担した。

    ◆長期化でストレス

     「集団疎開雄々しき出陣」「車中に歡聲かんせいはわく」――読売報知新聞(44年8月5日付)=写真=は、集団疎開に出発した東京からの第1陣の様子を大きく報じている。

     大勢の人に見送られ、汽車から身を乗り出して手を振っていた子供たちは、上野駅を出発すると、目的地の群馬県へ。翌日朝刊では、疎開先での元気な生活ぶりを伝え、少年の「南方にゐるお父さんに、私の喜びを早く知らせてください。家にゐるときより勉強もできます」という声も載せた。

     集団疎開する児童数はその後拡大し、2か月後の44年9月末には、大阪、名古屋、神戸市など約10都市からの40万人に。子供たちは、旅館や寺院で寝泊まりし、勉強や清掃、食事をする集団生活を送った。

     だが、疎開生活が長くなるにつれて、食料事情は悪化。子供たちは空腹に耐えながら自ら農作業をし、先生や保護者らも食料確保に奔走した。長期間にわたる集団生活によるストレスからいじめが起き、疎開生活に耐えられず、逃げ出す子供もいた。

     同年8月には、沖縄を出発した「対馬丸」が米軍潜水艦に撃沈され、疎開中だった学童780人が死亡。45(昭和20)年3月には、卒業を控えて、東京に戻ってきた多くの6年生が東京大空襲の犠牲となる悲劇もあった。終戦前には、米軍の日本本土上陸作戦に備え、千葉、静岡などの沿岸部から再疎開する例もあった。

     政府は45年1月、集団疎開の期限を1年間延長し、翌年3月までとすることを決定したが、45年8月、子供たちは疎開先で「終戦の日」を迎え、多くは、期限を待たずにふるさとへ戻ることになった。
     

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  44. 風船爆弾に女学生動員

    ◆学校に「報国隊」

     43(昭和18)年に入ると、銃後の生産活動を支える労働力は一段と不足した。政府に残された唯一の選択肢は、学生や生徒を積極的に動員することだった。

     東条内閣は6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、〈1〉食糧増産〈2〉国防施設建設〈3〉緊要物資増産〈4〉輸送力増強――の4事業に重点を置いて、中学校以上の学生や生徒の勤労動員を行うことを決めた。

     人的・物的資源を統制する国家総動員法は、38(昭和13)年に公布済みで、若年層の勤労奉仕も行われていたが、43年以降は勤労作業が授業として扱われ、戦争遂行のための若年労働力の提供が一気に進むことになった。

     全国の学校で「報国隊」が結成され、農作業や軍需工場での兵器製造などにあたった。当初は1人あたり年間30日以内と規定されていた。ところが、44(昭和19)年3月には通年になり、学徒らは授業そっちのけで働かされた。

     動員対象も、やがて国民学校高等科まで広がり、中学校以上は、男女を問わず深夜業を課すなど、労働も強化された。45(昭和20)年3月末の文部省の集計によると、対象となった生徒の約7割にあたる約310万人が動員されていたと言われる。

     こうした中で、動員学徒のうち約9000人が広島、長崎への原爆の犠牲になったほか、約2000人が空襲などに巻き込まれて命を落としたという。

    ◆女子挺身隊も組織

     学徒動員の象徴的な例として、米国に向けて飛ばした「風船爆弾」の製造があった。陸軍登戸研究所で開発され、約1万発が製造された。

     女性の方が手先が器用だという理由で、44(昭和19)年7月、全国の女学校に通知が出された。女学生らは、各地の工場や学校などで、全国の産地から提供された和紙を、こんにゃくのりで貼り合わせて気球を作る作業を続けた。

     東京の私立東洋高等女学校3年生だった小岩昌子は、同年の後半、東京・王子にあった第2造兵廠しょうでの作業をこう振り返る。

     「2人から4人で1班となり、作業時間は午前7時から午後7時までびっしり。班ごとの達成度合いを示す棒グラフを作って競い合った。こんにゃくのりには薬品が入っていて手が荒れ、着ているモンペもすぐに傷んだため、繕う母親からよく小言を言われた」

     小岩は、「自分たちの作っているものが、風船爆弾の一部であることはおおむね気づいていたが、作業の内容は家族にも秘密と言われ、母にも何をしているのかは言えなかった」と語る。

     また、現役の学生や生徒以外でも、女学校などを卒業した未婚女性が労働力としてかり出され、「女子挺身ていしん隊」として勤労奉仕にあたった。

     埼玉県立小川高等女学校を44年3月に卒業した宮沢千枝子は、挺身隊に入り、大宮の片倉工業大宮航機製作所の寮に住み込みで働いた。担当したのは戦闘機「隼はやぶさ」の胴体部分のリベット打ちだった。危険な作業ではなかったが、胴体の中と外で向かい合って作業をするため、呼吸が合わないとうまくゆかず、検査でやり直しを命ぜられることもあったという。

     家を守るはずの女子の徴用は、旧家族制度の下では好ましくないと先延ばしにされてきた。だが、政府は43(昭和18)年5月、女子の勤労動員促進を閣議決定。44年に入ると、女子挺身隊が地域、職域、学校別に組織された。8月の女子挺身勤労令で、12歳以上、40歳未満の女子の参加が義務付けられたが、家庭の中心にあるものは除かれた。終戦時の隊員数は47万人とされる。

     (中西茂、中村宏之、諏訪部敦)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140117-118-OYTPT01056
     

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  45. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<45>銃後(下)…大本営発表 国民を欺く
    2014年1月25日3時1分 読売新聞

     新聞、出版、放送などのメディアは、「総力戦」の下、政府と軍部によって厳しい情報統制を強いられた。各メディアとも、これに抗えず、国民に届くのは、「大本営発表」に代表される“作られた”情報のみになる。戦争の真実の姿は、人々にまったく伝わらなかった。(文中敬称略)

    日米戦争中に846回

     1941(昭和16)年12月8日朝、日米開戦を告げるニュースが、東京・内幸町の東京放送会館から全国に向けてラジオ放送された。アナウンサーは、日本放送協会(NHK)の館野守男。それが、日米戦争中、846回にわたって行われた大本営発表のはじまりだった。

     大本営発表の業務は、大本営陸軍報道部と大本営海軍報道部が担った。まず、各地の戦闘情報から国民に伝えるべき情報を大本営定例部長会がセレクトする。これを受けて、報道部員が大本営作戦部と発表文を練り、参謀総長と軍令部総長の了解を得たうえで、陸海軍省の記者クラブで発表。新聞やラジオを通じて国民に伝達される仕組みになっていた。

     開戦時、国内の情報統制を担当していた内閣直属の情報局は、戦況報道に関して、「大本営の許可したるもの以外は一切掲載禁止」という示達を出した。このため、一般国民は、大本営発表以外に公式の戦況情報を得られなくなった。

     大本営発表の滑り出しは順調だった。41年から翌年にかけて日本軍が快進撃していた時期には、ほぼ正確な発表がなされた。真珠湾攻撃では、戦艦に関しては4隻沈没、3隻大破、1隻中破の戦果を挙げたが、12月8日の夜には「戦艦二隻轟ごう沈、戦艦四隻大破、大型巡洋艦約四隻大破、以上確実」と発表。確認の取れた情報を伝えようという姿勢がみられた。

     しかし、戦況が悪化するにつれて事実が歪曲わいきょくされ、国民を欺くようになる。

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  46. 新聞「唯々諾々」と従う 

    事実の歪曲重ねる

     42(昭和17)年6月のミッドウェー海戦は、「加賀」「赤城」など虎の子の空母4隻が失われる大敗北となったが、報道部の当初の発表案「空母2隻喪失、1隻大破、1隻小破」に対し、作戦部は「国民の士気に顧慮する」として強硬に反対。最終的に損失は「空母1隻喪失・1隻大破」と過小に発表された。

     42~43年にかけてのガダルカナル攻防戦でも、日本軍は最終的に撤退を余儀なくされたが、43年2月9日の発表では、目的を達成したとして同島から「転進」と文飾した。

     最悪のケースは、44(昭和19)年10月の台湾沖航空戦だった。発表では、航空機部隊により米空母の轟撃沈11隻、撃破8隻という戦果を上げたものとしたが、現実には撃沈、撃破、大破ともゼロ。実際は大失敗だったにもかかわらず、昭和天皇にも真相を伝えなかったことから「お褒め」の勅語が出てしまう。

     さらに真相は大本営陸軍部にも伝達されなかったため、「米機動部隊の脅威は去った」と判断した陸軍は、レイテ島での決戦に進み、大敗を喫する悲劇も生まれた。

     大本営発表のラジオ放送では、陸軍関連であれば「抜刀隊の歌(分列行進曲)」、海軍関連なら「軍艦マーチ」で気勢を上げ、玉砕などの場合は「海ゆかば」を流した。

     もちろん戦時下では敵を利する情報は公にできないから、事実すべてを開示する必要はなかった。また、台湾沖航空戦のように夜間攻撃で、かつ経験の浅い者が最前線に出ていた場合は戦果確認が難しく、結果的に希望的観測が入り込んだケースもある。しかし、大本営には、事実検証軽視の姿勢が否めなかった。
    日常の紙面検閲

     一方、報道する立場にあった新聞記者は、大本営発表の欺瞞ぎまんを追及できなかった。

     中外商業新報(現在の日本経済新聞)の記者として海軍省記者クラブに所属していた岡田聡の回想によれば、「戦局が悪化すると、都合のいいことだけを発表して、不利なことは知らせないようにし、こちらが外電などで戦況悪化のニュースを知り、報道部に問いあわせると、そういう事実はない、と否定してそのニュースの掲載を禁止」したという。

     「一面で扱え」「見出しはこうしろ」といった注文が出ることもたびたび。その仕事は「極端にいえば、ただ報道部の大本営発表を機械的に右から左へ国民に知らせるだけ」。43(昭和18)年後半からは「私たちも憂うつな気分にひたりがち」だったと、岡田は振り返っている。

     報道部では、日常の紙面に対する検閲も行った。それは本来、新兵器など軍事機密に属するものに限られていたが、次第にそれ以外の言論統制に類したところにまで広がっていく。報道の自由を失っていた新聞は唯々諾々と報道部に従った。

     そればかりか、理不尽な軍部に反論するのではなく、ご機嫌をとって懐柔しようという空気さえあった。

     43年3月、大本営海軍報道部に着任したばかりの高戸顕隆は、記者たちから接待攻勢を受ける同僚の姿をこのように記録している。

     「ある部員は、夕方になると、ソワソワして、あるいは新聞社の、あるいは雑誌社の誘いに乗って料亭に繰り込み、ときにはこちらから誘いをかけているようにも見えた」

         ◇

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  47. 二重三重の法令で縛る 

    差抑えや発売禁止

     メディア規制は、戦争の拡大とともに強まった。政府・軍部は、総力戦の中でメディアを国策「宣伝」に使うとともに、「国益」との衝突もある「報道や表現の自由」の制限に乗り出す。ちょうど時代は、大衆社会の発展期で、出版は読者層を拡大し、新聞も部数を伸ばし、ラジオも人気を博していた=表=。

     37(昭和12)年7月の日中戦争勃発は、情報統制の大きな節目になった。開戦直後、政府は、在京の新聞通信社の幹部約40人を集めて戦争への協力を要請。軍機保護法(軍事秘密の探知・収集・漏洩ろうえいを取り締まる法律)の規制を強化する一方、新聞紙法27条(陸、海、外相による軍事・外交に関する記事掲載の差し止め権)も発動した。

     38年4月公布の国家総動員法にも、「新聞紙その他出版物の掲載制限・禁止」を可能とする条項が盛り込まれた。

     戦時中、毎日新聞の編集幹部だった高田元三郎は、後年、「整理部長になって第一に驚いたのは、言論取締りの法令が余りにも多いこと」と書いている。治安維持法や軍用資源秘密保護法、新聞紙等掲載制限令などもあり、結局、十指にあまる法令によって紙面制作は縛られていたのだ。

     中でも41(昭和16)年3月に公布された国防保安法は、国家機密の保護を目的とし、それを外国や他人に漏洩した者は、死刑または無期もしくは3年以上の懲役に処すと規定。重要な国家機密として、御前会議や閣議の議事などを挙げていた。

     高田によれば、新聞記事は「各版毎に納本と称して」関係部局の検閲を受ける必要があり、「法規、命令に違反した記事を出した場合は、差抑えといって駅や販売店で抑えられるか、発売頒布禁止処分を受け、場合によっては新聞の発行停止というような重い処分も」あったという。

    「1県1紙」体制に

     しかし、これらの言論取締法規に対する新聞側の抵抗は弱かった。結局、43年度では、約9万件の新聞検閲が行われ、1万2000件の記事が不許可処分になっていたという。

     当局が新聞社の企業統制の武器としたのが、用紙・資材の供給制限だ。戦時下、各種物資の供給困難は、紙も例外ではなかった。まず38(昭和13)年9月、大手新聞社51社に対し、一律12%の使用制限が課せられた。

     このため、各新聞社は減ページを余儀なくされ、用紙の確保が死活問題になった。日中戦争発生時に朝夕刊で20ページだった読売新聞も、41年11月には朝夕刊で6ページ、終戦時には朝刊のみ2ページになる。

     新聞用紙を掌握した政府は、新聞界を一元化する機関を求め、自主的な統制協力組織として日本新聞連盟が設立された。中央紙、地方紙の統合がはかられ、38年には700以上あった日刊紙を、42年10月までに「1県1紙」を目標に整理。10以上あった中央紙も、「朝日」「毎日」「読売」「日経」「産経」「東京」の6紙になり、最終的には全国紙、ブロック紙、府県紙の55紙に整理統合された。

     用紙・資材の制限は、出版界にも及び、39(昭和14)年には、「不急」の定期刊行物の創刊は許されなくなった。40年12月に当局肝いりで作られた日本出版文化協会は紙の配給を握り、ここで行われる事前の審査に通った企画だけが出版を許された。

     その後、印刷から配給まで、すべてが統制下に置かれた結果、3664社あった出版社は203社にまで減った。

    出版、放送も統制

     統制は、自由主義思想や娯楽作品にも及んだ。40(昭和15)年2月には津田左右吉の『神代史の研究』など4著作が「国体の観念を破壊する」という理由で発禁になっている。

     「中央公論社は、たゞいまからでもぶっつぶしてみせる!」

     出版の言論統制を担当していた情報局第2部第2課の鈴木庫三少佐は41年2月、軍部の意向に反論しようとした中央公論社幹部に、こんなせりふを投げつけたという。

     軍部の強硬姿勢は、口先だけのことではなかった。42~43年の「横浜事件」では、「改造」「中央公論」の両雑誌が廃刊に追い込まれる。

     開局当時から、無線通信法、放送用私設無線電話規則に基づく逓信省の指導監督下で、事実上国営放送化していたNHKは、開戦後、東京からの放送のみに一元化され、報道だけでなく娯楽、音楽番組まで早々と統制下に入った。〈放送には独自の論評どころか、判断も許されなかった〉(竹山昭子『太平洋戦争下 その時ラジオは』)。

     「1県1紙」と「6大紙」の体制は戦後も引き継がれ、統制時に生まれた「記者クラブ」制度とともに、現在の新聞界のシステムの原型となった。メディア界の“再編成”は、各社の経営改善に寄与した。

     戦争末期の44(昭和19)年7月、小磯国昭内閣で、東京朝日新聞の主筆だった緒方竹虎が情報局総裁に就任。「言論暢達ちょうたつ」をモットーにするなど、厳しい統制を揺り戻す動きもみられたが、陸軍省の反発にあい、実効は上がらなかった。

         ◇

    言論の責務果たさず

     こうしてメディアは、大本営発表や情報局発表を強いられ、報道・言論の責務を果たさぬまま、結果的に国民を長期の戦争に駆り立てることになった。

     もっとも、大本営発表が繰り返されるうち、国民の間には、次第にその内容に対する懐疑の念が広がり始めていた。当時医学生で、のちに作家となる山田風太郎の日記からは、指導者を信頼したいと願いつつも一抹の不安をぬぐいきることのできない、複雑な心境がうかがえる。

     <五時のニュースで、サイパンの戦況に関する大本営発表。敵軍次第にわが陣地に侵入し来り、わが軍は白兵を以てこれと戦い、目下紛戦状態なりと。(中略)もしや――連合艦隊は――もはや太平洋から永遠に消えているのではあるまいか? そんなはずはない>(44年7月5日)

     <すでに狂瀾きょうらんを既倒に反かえす(注・悪くなった形勢を立て直す、の意)の道まったくふさがれし土壇場に到りて、初めて真相を打明けたればとて、時遅し、国民の憤激は敵に向わずして指導者に向うの虞おそれなしとせざるを知るや否や>(45年2月4日)

     広島に原爆が落とされたあとの45(昭和20)年8月8日、作家の大佛次郎は、日記にこう書いている。

     <広島爆撃に関する大本営発表が朝刊に出ている。例の如く簡略のもので『損害若干』である。(中略)革命的新兵器の出現だということは国民は不明のまま置かれるのである>

     戦時中に陸軍報道部員だった平櫛孝は戦後、著書に反省の弁を記している。「事実にもとづいた多少の増幅なら、国内放送にも用いてよいのではないか、という甚だ身勝手な屁理屈へりくつ」が、結局は、「報道や宣伝に対する国民の信頼を失わせ、やがて自分たちの首をしめることになるのに気づかなかった」。
    (時田英之、田中聡)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140124-118-OYTPT01060
     

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  48. 「悪の凡庸さ」「アイヒマン」・・・
    http://koibito2.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
     

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  49. 【社説】東京五輪組織委 オールジャパンで祭典準備を

     2020年東京五輪・パラリンピックの運営母体となる大会組織委員会が発足した。

     今後、国際オリンピック委員会(IOC)と調整を図りながら、開催準備を進めていくことになる。

     政府、東京都、日本オリンピック委員会(JOC)、経済界が一体となったオールジャパンの準備体制を築き、大会を成功に導かねばならない。

     組織委の会長には、森元首相が就任した。森氏は、日本体育協会、日本ラグビー協会の会長を務めるなど、スポーツ界全般にも幅広い人脈を持つ。それをフルに生かし、組織委内の意思疎通を図ってもらいたい。

     組織委は来年2月までに開催基本計画をまとめ、計画遂行の指揮を執る。PR活動も展開する。

     6年後の大会終了までに必要な運営費3000億円を確保するため、多くの企業からスポンサー料や寄付金を募る必要がある。副会長に内定した豊田章男トヨタ自動車社長の手腕に期待がかかる。

     実務を取り仕切る事務総長には、元財務次官の武藤敏郎氏が就いた。限られた財源の有効活用に留意することが肝要だ。

     国費を投入する新国立競技場の建設費は当初、1300億円とされたが、デザイン通りに建設すると3000億円にまで膨らむことが分かった。巨大過ぎるとの批判も高まり、延べ床面積の縮小などで1700億円に圧縮した。

     こうした甘い見積もりを繰り返せば、開催計画全体への不信感が広がるだろう。

     大会組織委については、2月初めまでに発足させることが、IOCとの契約で決まっていた。

     ぎりぎりのスタートとなったのは、猪瀬直樹・前都知事の不祥事が影響したためだ。都知事は組織委会長の人選を協議する役割を担っていたが、不在のまま会長が決まる想定外の事態となった。

     組織委においても、都知事の責任は重い。2月9日投票の都知事選で選ばれる新知事は、森会長、下村五輪相、竹田恒和・JOC会長らとともに、「調整会議」のメンバーとして、大会運営に関わる重要事項の調整にあたる。

     競技場建設のために都が保有している4000億円の基金の使途にも、責任を持つ必要がある。パラリンピックに備え、都心のバリアフリー化の推進も課題だ。

     大会の円滑な運営のためには、開催都市のトップとして、安価な電力の安定的な確保に努めることも、重要な責務である。

    2014年1月25日1時45分 読売新聞
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140124-118-OYT1T01422/list_EDITORIAL%255fEDITORIAL
     

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  50. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<46>東条英機…議会を軽視 一国一党に
    2014年2月1日3時1分 読売新聞

     日米開戦直前から2年9か月、首相の座にあったのは、陸軍の東条英機だった。緒戦大勝利で政権の座を固めた東条は、露骨な選挙干渉によって「翼賛議会」を確立するが、まもなく戦局は悪化。それに伴い、憲兵を使って反対勢力を弾圧する「憲兵政治」に陥るなど、戦争指導で失敗を重ねていく。(文中敬称略)

    東条首相の絶頂期

     東条首相は、1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃に始まる日本軍の快進撃で、圧倒的賛辞を受け、人生の絶頂期を迎えた。

     東条はもとより、陸大卒のエリート軍人だが、同期と比べ、陸軍中枢の出世コースを歩んできたわけではなかった。統制派のリーダー・永田鉄山に傾倒していた東条は、皇道派の中心人物、真崎甚三郎まさきじんざぶろうから疎まれ、34(昭和9)年8月、福岡・久留米の歩兵第24旅団長に左遷された。

     予備役入りを免れた東条は、満州に渡り、関東憲兵隊司令官に就任。36(昭和11)年に「2・26事件」が起きると、陸軍中央に反乱部隊の鎮圧を求めた。同時に、満州への影響を未然に防ぐため、「不純分子をすべて逮捕せよ」と命じ、皇道派将校を兵営に軟禁し、民間人を監房に拘束した。その数は数百人に上った。

     この初動対応が、反乱部隊の「断固鎮圧」を主張した昭和天皇などの意向にも沿い、その後の粛軍人事により、東条の陸軍での序列が一気に上昇する。

     37(昭和12)年には関東軍参謀長に、38年には陸軍次官に起用され、40年7月の第2次近衛文麿内閣で陸相の座にのぼりつめる。41年には「生きて虜囚の辱はずかしめを受けず」の<戦陣訓>を全軍に下した。

     こうした東条の憲兵隊司令官としての経験や、2・26事件のような内乱への強い警戒感は、首相・東条の政治に濃い影を落としていった。

    翼賛体制確立狙う

     41(昭和16)年暮れ、東条は、衆院選実施を決断した。

     前首相・近衛文麿は、日米関係悪化に伴い、法改正により議員任期を1年延長していた。このため、衆院議員は5年近く選挙の洗礼を受けていなかった。

     東条の狙いは、政府・軍部に全面協力する「翼賛議会」の確立にあった。東条は、上司の命令に絶対服従する軍人と違い、何かと政府に注文を付ける国会議員を疎んじていた。

     東条は、首相秘書官の赤松貞雄らに「自分は『政治家』と言われることが大嫌いだ」「政治家というのは利害でしか動かん」などと漏らしていた。

     政府は42(昭和17)年2月18日、「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定し、併せて発表した首相談話で、「大東亜戦争完遂のため、有為の人材が一人でも多く選出されることを熱望する」と呼びかけた。

     東条に批判的な会派「同交会」に所属する鳩山一郎は、翌日の日記に「陸軍一部の陰謀には、ただあきれる他なし」と記した。

     2月23日、衆院選候補を選別して「推薦」するための翼賛政治体制協議会(翼協)が誕生した。東条に近い元首相・阿部信行が会長に就任するなど、東条支持の親軍派議員らが事実上、推薦可否の実権を握った。内務省も全面協力し、現職議員の中で誰が政府に従順か、のリストを作って翼協に示した。

     リストは、甲=率先して国策に協力、乙=積極的ではないが国策を支持、丙=反政府的、反国家的不適格者の3段階に色分けされた。

     推薦候補は、大物弁士の派遣や宣伝物配布など物心両面で手厚い支援を受け、陸軍から1人5000円の選挙資金が与えられた。

    非推薦候補に圧力

     一方、「丙」の議員は推薦から漏れ、選挙区には対立候補として著名な新人らが送り込まれた。選挙期間中は憲兵や警察が目を光らせ、演説会が中止に追い込まれることも少なくなかったという。

     当時、83歳で21度目の当選を目指した同交会の尾崎行雄=人物抄=は、東条に公開質問状を突きつけ、選挙の不公正さを世に問うた。東条は質問状を無視し、尾崎への弾圧を強めた。尾崎は直後、友人の田川大吉郎を応援した選挙演説が、天皇を侮辱する「不敬罪」にあたるとして起訴される。

     問題視されたのは、家を売るのは往々にして道楽好きの三代目だ――という意味の川柳『売家と唐様で書く三代目』だった。〈明治、大正を経た昭和の今、不公正な選挙が行われているのは、憲法を制定した明治天皇の意向に背く行為だ〉という比喩だったが、検察は、昭和天皇の治世を揶揄やゆするものだと決めつけた。尾崎の選挙運動は中止され、「尾崎に投票する者は非国民だ」との宣伝工作も行われた。

     4月30日の投票で、推薦候補の当選者は381人(約82%)に達した。政府の手厚い支援を受けて当選した議員たちは5月20日、翼賛政治会(総裁・阿部信行)を結成した。東条は、政治活動が許される政事結社は翼賛政治会ただ一つにするとし、他の政事結社には解散を命じた。

     一方、非推薦候補では鳩山一郎、芦田均、中野正剛せいごうらが当選し、尾崎も定数4の三重2区で3位に入り、現職に踏みとどまった。ただ、翼賛政治会に所属しない限り、議会活動が不可能となったため、尾崎らごく少数を除き、ほぼ全ての衆院議員が翼賛政治会に加入した。

     「言論の府」は東条の目算通り、骨抜きの一国一党体制となった。

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  51. 憲兵政治で反対派弾圧
    中野正剛を標的に

     43(昭和18)年1月1日、衆院議員・中野正剛が寄せた<戦時宰相論>の原稿が朝日新聞に掲載された。

     「戦時宰相たる第一の資格は、絶対に強きことにある。闘争において弱きは罪悪である。国は経済によりて滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨きすうに迷うことによりて滅びるのである」

     名指しはしていなかった。だが東条は、自分を批判したものだと激怒し、傍らの電話機を取り上げると情報局に発売禁止を命じた。翼賛選挙以降、「打倒東条」に燃える中野への監視は、これで一層強化される。

     東条は、同年10月25日、首相官邸に内相・安藤紀三郎、検事総長・松阪広政、東京憲兵隊長・四方諒二らを集め、目障りな中野の議会出席を阻む方法を議論した。警視庁特高課は、中野が主宰する東方同志会の一斉検挙の際、中野の身柄も検束していた。しかし、翌日は帝国議会開会日で、立件できなければ釈放せざるを得なかった。

     東条は、先の寄稿などを挙げて、「平時ならともかく、戦時においては、利敵罪を構成すると思う。起訴し、社会から葬るべきだ」と主張した。松阪らは立件に必要な証拠がないとしたが、四方が東条の意を体して「私の方でやりましょう」と応じた。

     中野の身柄は警視庁から憲兵隊に移送された。10月26日の夜、自宅に戻った中野は割腹自殺した。中野と無二の親友だったジャーナリスト・緒方竹虎は回想記で、中野自刃と聞いた瞬間、「遂に東条によって殺されたなと思った」と書いている。

    政権批判召集で報復

     憲兵を使って圧力をかける東条の手法は「憲兵政治」と呼ばれた。反東条の動きを見せる重臣らも、護衛の名のもと動向を監視された。

     政権に批判的な者は、「懲罰召集」という形で報復された。

     44(昭和19)年7月、42歳の逓信官僚、松前重義(戦後、衆院議員)が召集された。松前は、高松宮や重臣らに「東条内閣打倒」の必要性を訴えていた。

     毎日新聞記者の新名丈夫は、38歳で「赤紙」を受け取った。新名は、「竹槍たけやりでは間に合わぬ」と政権を批判する記事を書いていた。新名が入隊した丸亀連隊には、新名と同年代の250人も入隊した。新名の入隊が目立たぬようにするための巻き添えだった。新名は後に除隊したが、丸亀連隊は激戦地、硫黄島に送られて、全滅している。

     東条は、天皇の信任を得て働いている自らに対する批判は、天皇への反抗とみなしていた。

     昭和天皇は終戦直後、「元来東条は、話せばよくわかる、それが圧政家の様に評判が立ったのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持ちが下に伝わらなかったことと憲兵を余りに使い過ぎた」(『昭和天皇独白録』)と語っている。

     一方、東条には、戦争の勝敗を決するのは戦争遂行に対する意志の強弱だとの考えが強かった。ガダルカナルからの撤退など戦況が悪化すると、戦争完遂の意志を貫けば、戦局は打開できるという精神論にますます傾斜した。

     東条が飛行学校を視察した際、学生に「敵の飛行機を何で撃墜するか」と尋ねている。学生が機関銃や高射砲を挙げると、東条は首を振った。ある少年が「自分の気迫によって落とします」と答えると、東条は初めて笑みを浮かべたという。

    大東亜共栄圏に執着

     東条は、大東亜共栄圏にこだわった。42(昭和17)年2月16日の議会演説で、<大東亜戦争>の目的について、「大東亜の各国家、各民族をして、皇国を核心として、道義に基づく共存共栄の新秩序を確立する」と強調、「自存自衛」より、大東亜共栄圏を前面に押し出した。

     日本の占領地が増えるにつれ、占領地行政を司る機関が必要だと考えた東条は、大東亜省設置に動き出す。

     しかし、外相の東郷茂徳は、「外交が二元化される」と、強く反対した。既に外交関係があるのは、独伊やソ連など数少ない国々に限られており、東亜各国を所管外とされてしまえば、外務省は存在理由を失いかねなかった。

     9月1日、東条は大東亜省設置を強行する。その日、東条は東郷を官邸に呼び、「どうしても不賛成の場合は、午後4時までに辞表を提出してほしい」と告げた。東郷はやむなく辞表を書いた。

     大東亜省は11月1日に発足し、東条は、側近の青木一男国務相を大東亜相にあてた。

     大東亜共栄圏に実質的な意味を持たせようと取り組んだのが、外交官の重光葵しげみつまもるだった。42年初頭、駐華大使として南京に赴任した重光は、「対支新政策」を推進する。

     その精神は、重光著『昭和の動乱』によれば、戦争の進行につれて必要がなくなるときは、日本は完全に中国から撤兵して、一切の利権を中国に返還しよう――というもので、大きな政策転換だった。

     これによって汪兆銘の南京政府の政治力を強め、重慶の蒋介石にあたる考えだったとされる。中国が重荷になる中、東条もこれを支持した。

    大東亜会議を開催

     重光は、この新政策をアジア全域に及ぼし、これによって日本の戦争目的が「東亜の解放」「アジアの復興」であることを明確にしようとした。

     東条は43(昭和18)年4月、重光を外相に起用した。5月31日に決定された「大東亜政略指導大綱」では、ビルマ、フィリピンの早期独立が盛り込まれた。しかし一方で、マレー、スマトラ、ジャワなどは、「重要資源の供給源」として軍政を継続するとしていた。

     日本政府は11月5、6日、大東亜各国の指導者を東京に集めて大東亜会議を開催した。中華民国国民政府行政院長・汪兆銘、満州国首相・張景恵、フィリピン大統領のホセ・ラウレル、ビルマ首相のウー・バー・モウ、自由インド仮政府のチャンドラ・ボースが出席した。タイはワンワイタヤコーン親王が代理出席した。

     東条は、「米英の唱道する国際正義の確立と世界平和の保障は、アジアにおける植民地的搾取の永続化による利己的秩序の維持にほかならない」と演説し、アジア解放が戦争目的であると強調。6日には「大東亜共同宣言」を採択して閉幕した。

     ただ当時、東南アジアを視察した元中央公論編集長の黒田秀俊は、のちに自著『軍政』に、「アジアの解放とかいうことを、耳にたこのできるほど聞かされていた。しかし、現地の軍政にはそんなものはひとかけらもみられなかった」と書いている。

     実際、「大東亜」地域では、戦況の悪化につれて生活物資は不足し、地域内貿易も進まず、インフレで経済は大混乱していた。「アジア解放」という美名に程遠いのが現実だった。

     (遠藤弦、遠藤剛、岩城択、東武雄)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140131-118-OYTPT01128
     

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  52. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<47>東条退陣…「絶対国防圏」瓦解 窮地に
    2014年2月8日3時1分 読売新聞

     1944(昭和19)年7月、日本は南洋の最重要拠点・サイパン島を失った。それは、首相の東条英機が敷いた「絶対国防圏」の喪失を意味した。同時期、インド侵攻を図ったインパール作戦も、多数の戦死者を出した。東条は、重臣らの包囲網の中、ついに退陣に追い込まれる。(文中敬称略)

     米「飛び石」作戦奏功

     米軍の攻勢に危機感を深めていた日本は、43(昭和18)年9月25日、新たな戦略を打ち出す。大本営政府連絡会議が決定した「今後採るべき戦争指導の大綱」で示された<絶対国防圏>構想である。

     海軍は当時、中部太平洋のマーシャル諸島、ギルバート諸島にまで進出していたが、補給線が伸びきった状態だった。そこをついた米軍の侵攻作戦が開始され、守勢に回っていた。

     そこで、千島から小笠原、マリアナ諸島、西カロリン諸島、ニューギニア西部へといたるラインを引き、その内側を絶対国防圏と設定する。この最終ラインに戦力を集中して、そこに米軍を引き込み、44年中期を目途に一気に迎撃、反転攻勢に出る――というのが絶対国防圏構想の狙いだった。

     それは、戦況の悪化に追い込まれた東条首相にとっても、一気に事態を好転させるための勝負手というべきものだった。

     しかし、実際には、このアイデアは陸軍主導で、当時連合艦隊司令長官だった古賀峯一、海軍軍令部総長の永野修身らはマーシャル諸島海域での艦隊決戦を志向していた。結果的に絶対国防圏での迎撃態勢は、43年中にはほとんど進まなかった。

     一方の米軍は、同年以降、チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官の指揮の下、日本軍の強固な要塞があったラバウル島などの奪取には拘泥せず、戦闘機の行動圏内で「飛び石」のように島々を占領していく戦略を取った。

     この作戦が奏功する。

     太平洋で日本軍が守備隊を配置した25島のうち、最終的に米軍が上陸・占領したのは8島にとどまったが、これは補給の途絶えた孤島の日本軍は放置しても脅威にならないと見切った上での作戦だった。

     43年11月にはギルバート諸島のタラワ島、翌44(昭和19)年2月にはマーシャル諸島のクェゼリン島を奪取。絶対国防圏の要衝となるマリアナ諸島にいよいよ肉薄しつつあった。

     マリアナ沖海戦敗北

     こうした事態を前に、日本軍もようやく水際での戦備に力を入れ始める。2月にマリアナ諸島など中部太平洋を担当する陸軍第31軍を編成する一方、4月にはマリアナ諸島のサイパン島に陸軍第43師団を投入することも決定した。

     5月2日、参謀総長を兼任した東条が参加した「国軍反撃作戦に関する御前兵棋へいぎ」では、陸軍側が「第43師団を上陸せしめ得たる場合においては、敵の攻略企図に対し自信を有す」と発言した。

     同19日に同師団の第1陣がサイパンに到着すると、東条は、同日の政府大本営連絡会議で「サイパンの防衛はこれで安泰である」と語り、敵上陸後も飛行場を1週間確保してほしいとの海軍の要請に「一週間や一〇日は問題ではない。何か月でも大丈夫である。けっして占領されることはない」と豪語した。

     6月11日、米軍のサイパン島攻撃が始まったのちも、参謀本部作戦部長の真田穣一郎は、「中部太平洋方面で一番堅固な正面に敵はぶつかったのだから、これは敵の過失だ」と語っていたという。

     しかし、それはあまりに甘い見通しだった。日本守備隊は1か月足らずで全滅。海上のマリアナ沖海戦でも、海軍は大敗北を喫する。

     6月20日の『大本営機密日誌』はこう書いている。

     「われわれの考えた絶対国防圏の思想は、遂にこの時をもって瓦解せざるを得なくなった」

     サイパン失陥しっかんは、戦争指導者としての東条に致命的なダメージを与えるものだった。
     

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  53. インパール作戦も失敗

     東条が作戦を後押し

     ビルマ(現ミャンマー)駐屯中の陸軍は、44(昭和19)年3月~7月、インパール作戦を実施した。

     インパールは、インド北東部のビルマ国境にある平地で、英軍の反攻拠点だった。英軍の攻撃にさらされていた日本軍は、インパールへの侵攻で、ビルマ防衛を図ろうとした。

     作戦を実施したのは、第15軍司令官の牟田口廉也むたぐちれんや中将=人物抄=。だが、作戦は失敗し、約10万の参加兵力のうち、戦死者約3万人、戦傷や戦病死を合わせた損耗率は70~80%という悲惨な結末を招いた。

     インド東部に侵攻する作戦は、対米英開戦翌年の42(昭和17)年、ビルマ攻略が成功した直後にも計画された。しかし、この時は、牟田口(当時、第18師団長)が消極意見を述べたほか、南洋のガダルカナル島の争奪戦が始まったことから、無期延期になった。

     ところが、牟田口はその後、第15軍司令官に昇進すると、インド侵攻の急先鋒せんぽうになり、作戦を主導した。

     英国支配下のインド攻略は、首相兼陸相の東条が望んだものだった。インド独立運動の指導者、チャンドラ・ボースから働きかけを受けており、ボース率いるインド国民軍もインパール作戦に参加した。東条は、作戦実施に先立つ44年2月、参謀総長を兼任し、陸軍の作戦全体の最高責任者になっていた。

     作戦は、第15軍傘下の3個師団が、雨期(5月末~9月)入り前、3週間以内にインパールを占拠することが目標だった。だが、ビルマ・インド国境地帯の、2000~3000メートル級のアラカン山系を越えて急襲する「鵯越ひよどりごえ戦法」には、地形や気象条件の難しさと補給の困難が予想された。

     死屍累々の白骨街道

     第15軍内では、小畑信良参謀長ら幕僚全員がインパール作戦に反対したが、牟田口は参謀長を更迭して計画を推進。牟田口の上官にあたる河辺正三・ビルマ方面軍司令官が後押しした。

     作戦発動から3週間、おおむね順調に進み、第31師団の宮崎支隊(宮崎繁三郎少将)が4月5日、インパール北方のコヒマを占拠し、英軍を包囲した。だが、英軍は空中補給を受け、火力を強化し、戦勢を逆転した。

     牟田口は、各師団の窮状を聞き入れず、4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)前にインパールに突入せよ、と督戦したが、勝算はほとんどなかった。食糧が欠乏する中、撤退の決断が急務なことは明らかだった。

     そんな中、大本営の秦彦三郎参謀次長が4月末に戦況を視察。帰京後の5月15日、陸軍の省部首脳会議で「インパール作戦の前途は極めて困難である」と報告した。同行した参謀は「全く見込みなし」と説明した。

     だが、東条は、すさまじい剣幕で「戦は最後までやって見なければ分からぬ。そんな気の弱いことでどうするか」と叱責した。会議後、東条は「困ったことになった」と頭を抱えたが、翌16日、天皇には「一応大なる不安がない状況で、……剛毅ごうき不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する」と上奏した。

     東条の積極論の表明は、現地軍の撤退時期を失する結果を招く。現地では、第31師団の佐藤幸徳師団長が命令を拒否する「抗命事件」も起き、3人の師団長全員が解任・更迭される異常事態に陥った。

     南方軍の命令でインパール作戦が中止されたのは7月2日。海軍がマリアナ沖海戦に大敗し、大本営がサイパン放棄を決定していた。作戦中止後も、日本の将兵は飢餓状態に置かれ、アラカン山系の退路は死屍しし累々の「白骨街道」と呼ばれた。

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  54. 重臣らの包囲網で総辞職

     軍政と軍令一元化

     東条内閣の最初の危機は、「大東亜省」の創設(42年11月)をめぐる閣内不一致だった。だが、昭和天皇が、米軍の反転攻勢を前にして「総辞職は絶対に避けたい」との意向を示し、政権は維持された。

     しかし、戦局は好転せず、43(昭和18)年夏には、東条内閣の行き詰まりが見えてきた。とはいえ、東条は、天皇にこと細かに内奏し、天皇から「彼(東条)程朕ちんの意見を直ちに実行に移したものはない」(木下道雄『側近日誌』)などと信頼を得ていた。さらに「憲兵政治」で反対派を締め付けており、倒閣は簡単ではなかった。

     44(昭和19)年2月21日、首相と陸相などを兼務し、権力の集中を図ってきた東条は突如、参謀総長も兼任する異例の人事を断行した。東条に恭順する海相の嶋田繁太郎しげたろうに軍令部総長を兼ねさせた。

     東条には、戦局の挽回に向け、軍政と軍令の一元化を図る狙いがあった。しかし、東条への従属度が強まることになる海軍を中心に不満が一気に高まった。

     参謀総長だった杉山元はじめも、「伝統の鉄則」を破るものと抵抗し、昭和天皇も、統帥権の確立に問題が生じないかと懸念を示した。これに対して、東条は、兼務でなければ、戦争完遂の自信がないとして辞職の意向をちらつかせ、「(兼務は)違憲であると思うが、毀誉褒貶きよほうへんは後世史家に任せる」と開き直った。

     こうした首相の態度に「反東条」の動きは加速し、「東条を元帥伯爵にして引退させる」といった具体策も議論された。ただ、天皇や宮中は、東条内閣の継続を望んでいた。

     一方、近衛文麿も、国体護持のためには、「ヒットラーと共に世界の憎まれ者になっている」東条にしばらくは首相を続けさせ、責任をすべて負わせることが得策とみていた。

     東条の戦争指導に不安を感じ、倒閣に動いたのが、元首相の岡田啓介だった。岡田は43年夏頃から、戦争終結のために「まず東条内閣を倒すのが第一歩だ」と考えていた。自ら仲介者となり、近衛、若槻礼次郎、平沼騏一郎、米内光政らの重臣と謀り、ひそかに反東条の動きを強めた。

     東条をかばってきた内大臣の木戸幸一も、44(昭和19)年4月には、東条のことを「非常に悪く」言うようになっていた。

     岡田たちは、東条打倒の突破口を嶋田の更迭に求め、米軍がサイパンに上陸した翌日の6月16日、嶋田に辞職を勧告した。東条は巻き返しを図り、17日、岡田に対し、「おつつしみにならないと、お困りになるような結果を見ますよ」と、憲兵隊に拘引する脅しをかけ、倒閣の企ては失敗する。やがて「東条首相暗殺」の噂うわさがささやかれるようになった。

     しかし、マリアナ沖海戦で壊滅的な打撃を受け、東条も同月20日、「自信を失って来たので、誰か適当な人があれば辞めたい」と、東ひがし 久邇宮稔彦くにのみやなるひこ王に漏らした。7月6日の翼賛政治会の定例代議士会でも、「東条総理の猛省を促さんと欲する」などの発言が相次いだ。

     「ご信任は去った」

     東条は、失地回復のため、13日に木戸を訪ね、米内、阿部信行の重臣2人の入閣による内閣改造や、大本営強化などの構想を上奏しようとする。

     これに対し、木戸は、〈1〉大臣と総長の兼任制の廃止〈2〉海相の嶋田の更迭〈3〉重臣の入閣――の3条件を天皇の内意として伝えた。驚いた東条は「私に詰め腹を切らそうとするものだ。(天皇の)ご信任は去った」と辞意を固めた。

     しかし、軍務局長の佐藤賢了らが取りなし、東条は3条件を履行して内閣改造を強行する延命工作に走った。17日に海相を交代させ、参謀総長に梅津美治郎よしじろうを起用することを決めた。

     さらに、東条は、米内を入閣させる空きポストを作るため、国務相の岸信介を辞職させようとする。

     重臣が入閣してしまえば、内閣改造が成功してしまうため、近衛と岡田は急きゅう 遽きょ、重臣会議を招集し、「重臣は一致して入閣しない」ことを申し合わせた。東条の要求に対して、重臣と気脈を通じていた岸は、単独辞任を拒み、米内も「あくまで軍人として戦いたい」と拒否した。東条は万策尽き、総辞職に追い込まれた。

     44(昭和19)年7月22日、小磯国昭内閣が発足する。

     (笹森春樹、時田英之、岩城択)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140207-118-OYTPT01131
     

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  55. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<48>玉砕・特攻…全滅、「十死零生」の悲劇
    2014年2月15日3時1分 読売新聞

     1944(昭和19)年7月、中部太平洋のサイパン島で、日本の守備部隊が<玉砕>した。敗色が濃厚になる中、日本軍は、人間もろとも敵に体当たりし、生還をまったく期待できない「十死零生」の<特攻>に突き進む。(文中敬称略)

    サイパン 民間人道連れ

    最後の一兵まで突撃

     「玉砕」という言葉が初めて用いられたのは、1943(昭和18)年5月のアッツ島の戦闘だ。それ以来、日本が占領、委任統治してきたマキンとタラワ両島、クエゼリン環礁、そしてサイパン島など、中部太平洋の島々では、圧倒的な米軍の砲撃火力に対し、最後の一兵となっても銃剣突撃する、日本独自の玉砕戦法が繰り返された。

     中でも44年6月に始まったサイパン島の戦闘は、大本営の米軍に対する認識の甘さと準備不足が、現場部隊と多くの民間人を玉砕へと駆り立てた。

     サイパン島は、大本営が43年9月に設定した「絶対国防圏」の中核をなしていた。ところが、陸軍が守備隊の主力として名古屋の第43師団に動員を命じたのは44年4月、国防圏の設定から半年以上も後だった。

     当時、陸軍の作戦課長だった服部卓四郎は、参謀総長の東条英機に「マリアナ(サイパンとテニアン島)は絶対確信がある」と回答し、作戦計画を立てた主務参謀の晴気誠はるけまことは、「海軍航空がゼロになっても、43師団が到着すれば、絶対、敵をたたき出してみせる」と豪語していた。

     43師団約1万6000人は、5月以降2回に分けて派遣されたが、第2次部隊は、米潜水艦の魚雷で次々に撃沈された。6月7日、サイパン島に展開できたのは約1万3000人、しかも、約1000人の兵士は、砲や銃を失って丸腰だった。

     その4日後から米空母艦載機による爆撃が始まり、13日からは戦艦8隻を含む米海軍艦隊がサイパン島を包囲。飛行場や司令部などの主要建築物は艦砲射撃で焼失、破壊された。

     大本営情報部は、米戦艦1隻が保有する砲弾量の半分が撃ち込まれたとして、殺傷力と破壊力は5個師団分と見積もっていた。サイパン島は米軍上陸前に、40個師団分にも相当する猛烈な砲撃を浴びたことになる。

     15日朝、米軍は、海兵隊と陸軍合わせて3個師団約6万3000人が一斉に上陸、水際で防御する日本軍は、「夜襲に次ぐ夜襲で、刀を振りかざして突撃を繰り返し……」(『戦史叢書』)て奮戦したが、43師団は、わずか2日で崩壊した。

     7月5日、43師団長の斎藤義次らは、連名で「皇国ノ繁栄ヲ祈念シツツ諸士ト共ニ玉砕ス」との玉砕命令を下し、日本軍は7日、最後の攻撃を敢行し、ほぼ全滅した。日本軍の戦死者は、海軍の守備部隊などを含め約4万3500人のうち、約4万1200人に上った。

     「将来の作戦に制空権なきところ勝利なし」――中部太平洋地域を統括する陸軍第31軍参謀長の井桁敬治いげたけいじが、玉砕を前に大本営に宛てた決別電こそ、無謀な作戦への警句だった。

     戦闘では多くの民間人も犠牲となった。委任統治領として、戦前は沖縄出身者を中心に約3万人の日本人が居住していた。戦況の悪化で内地に引き揚げる者もいたが、米軍が上陸する時点では、まだ約2万人の民間人が残留していた。

     動員遅れが象徴するように、大本営作戦課は、サイパン島が戦場になるという認識に乏しかった。その揚げ句が、部隊を数日の戦闘で玉砕させ、多数の民間人を死地に追いやった。

     日本軍を圧倒した米軍は、6月下旬以降、山岳地帯などに潜む日本兵に向かって、何度も「皆さんの任務は終わりました。もう敵ではありません。無駄に死んではいけません」などと投降を呼びかけた。だが、自発的に降伏し、捕虜となることを禁じられた日本兵には、玉砕するしか残された道はなかった。

     頼るべき存在の日本兵を失った民間人は絶望し、毒薬を飲んだり、手榴弾しゅりゅうだんで自爆したりした。追い詰められた女性や子どもたちは、島北端のマッピ岬などから次々と身を投げていった。サイパン島での戦闘で犠牲となった民間人は、8000人から1万人と推定されている。

    軍人勅諭と戦陣訓

     「玉砕」は「決死の戦法」であって、「特攻」のように、死を前提とした「十死零生」の戦法ではない。しかし、日露戦争後の日本は、教育勅語と軍人勅諭によって、「降伏を忌み、捕虜を恥じる」観念が広がり、41(昭和16)年1月発令の「戦陣訓」でこれを教化した。

     捕虜となることを厳に戒めた「生きて虜囚の辱めを受けず」の文言で知られるが、規範だけでは処罰できない。軍部は、陸軍刑法の「抗命の罪」と「逃亡の罪」を強調し、敵前において、上官の命令に背いた者、勝手に持ち場を離れた者を「死刑に処す」ことを兵士にたたき込んだ。命令への絶対的服従は徹底され、国家に命を捧ささげるという思想は、こうして形作られた。

     日本軍はサイパン島を失い、絶対国防圏は崩壊した。その後のペリリュー島や、栗林忠道ただみち中将=人物抄=率いる守備部隊が激闘した硫黄島、さらに沖縄での戦闘では、米軍の戦い方を詳細に研究し、上陸する米軍に向かってむやみに突撃するような戦法は影を潜めた。だが、降伏せず、最後は玉砕して果てるという日本軍の戦い方は、変わらなかった。

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  56. 特攻兵器、回天と桜花

    人間が魚雷を操縦

     43(昭和18)年10月頃、海軍の軍令部や軍務局などに宛てて「血書」が作られた。そこには、人間が魚雷を操縦して敵艦に突っ込む、新兵器の採用が訴えられていた。

     作成したのは、海軍中尉の黒木博司ほか若手将校。提出後、一度は却下されたものの、44年2月に一転、試作命令が出る。

     ベースとなったのは、「93式」酸素魚雷だった。操縦席が取り付けられた「人間魚雷」の全長は14・75メートル、先端部に1・55トンの火薬を装填そうてんし、命中すれば、空母、戦艦をも撃沈できる威力があった。

     新兵器は、サイパン玉砕直後の44年8月に採用され、「回天」と命名された。搭乗員の多くは、航空兵を目指す海軍飛行予科練習生だった。元・回天搭乗員の著書によると、土浦海軍航空隊では、同月のある朝、練習生が一堂に集められた。

     生還が望めない新兵器の搭乗員を募ると伝えられ、全員に紙が配られた。司令は「希望者は二重丸を、どちらでも良いものは丸を。行きたくない者は用紙を捨ててよろしい」と述べ、一晩考えるよう言った。94%が二重丸、5%が丸、無記入は1%だったという。

     9月、山口県大津島の基地で、回天「生みの親」の黒木が、訓練中の事故で死亡。以後、「黒木に続け」が合言葉となった。

    「いかに死ぬか」

     将校を養成する海軍兵学校などの出身者で、回天基地に配属された人も130人いる。神奈川県鎌倉市に住む上野三郎(大正14年生まれ)もその一人だ。

     45(昭和20)年7月上旬、石川県七尾市で勤務していた時に「特別攻撃隊ヲ命ズ」との電報が届いた。「やっと死に場所が定まった」と思ったという。当時の心境を、「生きるか死ぬかではなく、いつ、どう死ぬかが問題だった」と振り返る。

     上野が大津島に着任したのは7月末頃。基地には約150人の搭乗員がいた。出撃には1時間ほどの実地訓練を20~25回こなす必要があった。だが、訓練に使える回天は1日に3機程度。日本には回天を大量生産する力も残っていなかった。

     上野によれば、ハッチから乗り込み、畳1枚の幅さえない空間に指導教官と向かい合って座る。天井は頭のすぐ上。潜水すると、たまらなく暑かった。

     2回目の訓練では、エンジン不調で海底に沈没。機体がほぼ垂直になったまま、1時間ほど救助を待った。こうした故障は珍しくなかった。

     毎日午後、机上訓練があった。敵艦の速度、進行方向、距離から、自分がどの方向、速さで進めばいいかを計算するのだ。

     3回目の実地訓練を終えて間もなく終戦を迎えた。

     出撃命令を受けながら、終戦を迎えた搭乗員のうち2人は、自分が乗るはずだった回天の前で、自ら命を絶った。回天の訓練を受けた搭乗員は1375人。訓練中の事故死を含め、計106人が死亡した。平均年齢は21・1歳だった。

     回天の出撃回数は29回、その戦果は、撃沈3隻、撃破5隻とされる。

    新兵器、続々と開発

     特攻は、人間の生命と引き換えにした「必中」の兵器によって、戦力の劣勢を補おうという、戦史上、類例のない作戦だった。

     日本海軍は、44(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦に惨敗した後、正攻法はもはや成立せず、「奇襲」に頼るしかない所に追いつめられていた。

     特攻は軍上層部の意志となり、9月には海軍省内に「特攻部」が設置された。人間爆弾と言われる「桜花」も採用された。陸上攻撃機(陸攻)につり下げられて運ばれ、敵艦を見つけると、切り離されて体当たりに向かった。このほか、先端部に炸薬さくやくを積んだ体当たり用のモーターボート「震洋」、特殊小型潜航艇の「蛟龍こうりゅう」などもあった。

    神風特攻隊と命名

     米軍は44(昭和19)年10月、フィリピンのレイテ島に迫った。本土と南方の資源地帯の間にあるフィリピンを失えば、日本は立ち枯れするしかない。

     連合艦隊は、戦艦大和以下、残存する艦艇のほぼ全力を投入してレイテ湾に集結した米軍の殲滅せんめつをねらった。日米両艦隊が激突し、史上最大の海戦と言われるレイテ沖海戦の火ぶたが切って落とされる。

     すでに特攻に踏み出していた海軍は、天王山となるフィリピンでの特攻作戦を決めた。

     「零戦に250キロ爆弾を抱かせて、体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思う。どんなもんだろう」

     10月19日、マニラ郊外の海軍航空基地で、第1航空艦隊司令長官・大西滝治郎は、現場指揮官らに静かに告げた。

     特攻隊長に選ばれたのは、艦上爆撃機搭乗員から戦闘機に転じたばかりの大尉・関行男。

     「一晩、考えさせてください」

     上官に指名された関は、そう答え、時間がない旨伝えられると「承知しました」と応じた。

     新婚間もない関は、妻あての遺書に「何もしてやる事も出来ず、散り行く事はお前に対して誠に済まぬと思って居る」と書いた。

     翌20日、関率いる「敷島隊」5機をはじめ4隊が編成され、全体で「神風しんぷう特攻隊」と命名された。敷島隊が米護衛空母群を発見したのは、25日だった。

     午前10時45分、突入。護衛空母「セント・ロー」を撃沈したほか、複数の艦艇に損害を与えた。大本営の予想を大きく上回る成果だった。

     『戦史叢書』によると、それまで「爆弾命中」「魚雷命中」だった戦果報告が、「一機命中」「二機命中」となり、その言葉が持つ響きに大本営海軍部は異様な「衝動」を受けたという。

    「統率の外道だよ」

     これが全軍特攻の口火となった。沖縄戦を中心に、これから何千人もの若者が、組織が作り出した特攻システムに組み込まれ、戦場に散ることになる。しかし、その多くは目標にたどり着けなかった。

     「統率の外道だよ」

     特攻隊を生み出す役割を担った大西自身、特攻をそう評していた。大西は、敗戦翌日の45(昭和20)年8月16日、特攻隊員とその遺族への感謝をしたためたうえで、割腹自決する。

     (勝股秀通、杉山祐之、上杉洋司、宮崎健雄、前田遼太郎)(第3部終わり)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140214-118-OYTPT01416
     

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  57. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<1>東京大空襲…焼夷弾攻撃 死者10万人
    2014年2月22日3時1分 読売新聞

     1945(昭和20)年3月10日未明、米軍の大型爆撃機B29が東京を襲い、焼夷弾しょういだんを大量に投下、浅草、深川、江戸川などの市街地を焼き尽くした。この一夜の「東京大空襲」で、10万人以上の市民が死亡した。非人道的な空爆は、終戦まで全国各地で繰り返され、日本に未曽有の被害をもたらす。(文中敬称略)

    史上最多の被害者

     1944(昭和19)年7月、サイパン失陥によって日本本土は、B29爆撃機の行動範囲に入った。11月1日から東京上空に姿をみせていたB29は、11月24日、85機の編隊で襲来、中島飛行機武蔵製作所を爆撃した。B29による本格的空襲の始まりだった。

     東京は、以来約100回、区部だけでも約60回もの空襲を受ける。中でも45(昭和20)年3月10日は、通常兵器の攻撃としては史上最多の被害者を記録した。このため、一般に東京大空襲というと、この日の空襲を指すことが多い。

     この日、空襲は午前0時8分に始まり、警報が発令されたのは7分後だった。279機のB29は、2時間半の間に、1665トンという大量の油脂焼夷弾を、東京・下町地区に集中的に投下した。爆撃された地域に、軍の施設や軍需工場はなく、市場や東京駅、上野駅などが目標とされた。冬型の気圧配置で強風が吹いており、火災は瞬く間に広がった。

     被害が大きかったのは、本所区、深川区、浅草区、日本橋区、城東区などで、これらの地域の住宅のほとんどが焼失し、人々は狭い道路を逃げまどった。猛烈な火勢に防空壕ごうは役に立たず、逃げ込んだ人たちはそのまま焼死した。

     避難場所にされた鉄筋コンクリート造りの学校も内部が焼失、公園なども熱風や煙で多数の死者が出た。川を目指した人たちも、両岸から炎が橋を襲い、身動きがとれないまま多くが焼死。飛び込んでも溺れたり凍死したりする人が多かった。

     当時の警視庁の調査によると、死者8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸だが、多数の行方不明者がおり、死者・行方不明者の合計は10万人以上と推定される。

     政府は37(昭和12)年4月に防空法(空襲対策法)を制定した。国民は空襲の際の消火活動を義務づけられており、これを守って多数の人が逃げ遅れた。

     45年2月までの空襲で、米軍は、高高度から主に軍需工場を狙っていた。使用爆弾も、焼夷弾ではなく、通常爆弾が中心だった。ただ、これだと命中精度が低く、当初の目標をはずした機が、第2目標として市街地を爆撃することも度々あった。

     米第21爆撃機集団の司令官にカーチス・ルメイが着任すると、低空飛行で焼夷弾を使い、広範囲の市街地を焼失させる方針に変更した。地上からの攻撃を少しでも避けるため、出撃も夜間にした。3月10日の大空襲では、低高度の夜間焼夷弾攻撃という新戦術が初めて本格的に採用された。

     これ以降も東京への爆撃は、止まらなかった。4月13日は348機、5月24日は558機、同25日は498機など、3月10日を上回る数のB29爆撃機が出撃する日もあり、終戦当日の8月15日まで攻撃は続いた。東京には計1万3000トン以上の焼夷弾が降り注ぎ、76万6800戸もの家屋が焼失した。

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  58. 米国 B29を開発、量産

    日本家屋作って実験

     米軍が初めて日本本土を空襲したのは42(昭和17)年4月18日。米空母から飛び立ったB25爆撃機が、東京、横浜を中心に名古屋、神戸などを爆撃し、計45人の死者を出した。指揮官の名にちなみ、「ドーリットル空襲」と呼ばれる。日本海軍へのけん制と真珠湾攻撃に対する復讐ふくしゅうの意味があったという。

     44(昭和19)年11月から本格化する日本本土空襲までの間、米軍が取り組んだのが、〈1〉航続距離が長く、爆弾をより多く搭載できる新鋭爆撃機の開発と量産〈2〉新型機が日本を射程にとらえられる飛行場の確保〈3〉被害を大きくするために有効な兵器の開発――の3点だった。

     このうちまず、新鋭爆撃機では、B29の開発に成功。44年になってインド、次いで中国に配備され、満州(現中国東北部)から東南アジアまでの日本の占領区域、北九州地域などの軍事拠点への攻撃を開始した。

     さらに、44年夏以降、サイパンなどマリアナ諸島に大規模な航空基地を建設することで、北海道を除く日本各地への爆撃が可能になった。

     一方で、43(昭和18)年3月、焼夷弾実験を行うため、ユタ州ダグウェイに日本家屋の街並みを再現、新型のM69の開発に成功した。米軍は、日本住宅が非常に燃えやすいことに着目し、焼夷弾による都市攻撃計画を練り上げていく。

    戦略目標に6都市

     米軍は44年4月、軍需工場と並ぶ戦略目標である都市工業地域として、東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸の6都市を列挙。さらに45年3月の総攻撃開始を決め、B29や焼夷弾の大量生産を始めた。

     陸軍航空隊司令官のヘンリー・アーノルドは44年8月、新たに組織した第21爆撃機集団の司令官にヘイウッド・ハンセルを任命。B29による攻撃力発揮を期待したが、十分な成果がみられず、45年1月、カーチス・ルメイに司令官を交代した。

     3月10日の東京大空襲の直後、アーノルド司令官は、ルメイに対し「おめでとう! この任務で君の部下たちはどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」と電報を打った。

     ルメイは戦後、「当時日本人を殺すことについて、たいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」と述べている。

     戦争中、米軍では航空兵力は陸軍に属していた。それを独立した空軍にすることがアーノルドの念願だったという。そのためには、原爆を開発したマンハッタン計画以上の多額の開発費をかけ、鳴り物入りで大量生産したB29で軍事的成果を上げ、「空軍力」を誇示する必要があった。これは思惑通りに進み、47年の空軍発足につながる。

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  59. 空襲の惨禍 全国各地で

     「東京大空襲・戦災資料センター」の調査によると、全国の空襲被害地域は、現在の行政区画で東京23区と518市町村に及び、そこで合計20万2712人(原爆は除く)の民間人が死亡している。

     別図・別表のように、47都道府県のすべてで犠牲者が出ており、都道府県別では東京都が最も多く、日本全体の死者の半数以上を占める。次いで大阪府、兵庫県、愛知県の順。

     45(昭和20)年3月10日の東京大空襲を手始めに、大都市の市街地への空襲が始まり、6月までに名古屋、大阪、神戸、川崎、横浜が次々と襲われた。作家の早乙女勝元・同センター館長は、「町工場の破壊が目的とされたが、実際は、民間人の住む市街地を丸ごと焼き払い、国民の戦意を奪うことが目的だった」と話す。

     6月15日までに目標とされた6大都市の工業地域は焼き払われ、それ以降、標的は地方の中小都市に移り、鹿児島市、浜松市、静岡市などが被害を受けた。

     北海道は、マリアナ諸島を飛び立つB29の航続圏外だったことから、空母艦載機が攻撃した。7月14日から15日にかけて、青森市と、北海道の根室市、釧路市、函館市などが空襲を受けた。青函連絡船も攻撃され、51人が死亡している。7月25日には、大分県の津久見湾に浮かぶ保戸島の国民学校(小学校)が空襲に遭い、児童124人を含む127人が死亡した。軍事施設と見誤ったとされている。

     死者が10人以下の市町村も多数ある。小規模な空襲の多くは、B29よりも小型の戦闘機による機銃掃射だったとみられる。

     8月14日夜から15日未明にかけて、秋田市、群馬県伊勢崎市、神奈川県小田原市などに空襲があり、埼玉県熊谷市では266人の死者が出ている。
     

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  60. 市民を無差別爆撃

    欧州でも犠牲者

     第2次世界大戦下の43(昭和18)年7月から8月にかけ、米英空軍は合同でドイツのハンブルクを襲い、焼夷弾の雨を降らせ、4万2000人が死亡した。さらに大戦末期の45年2月、文化都市のドレスデンを空襲し、3万5000~4万5000人もの犠牲者を出した。

     空爆は、第1次世界大戦時に始まった。大戦で敗北したドイツは、その後空軍を再建し、スペイン内戦に介入。37(昭和12)年4月、イタリア軍とともにスペイン・バスク地方の古都、ゲルニカを集中爆撃した。

     焼夷弾が大量に投下され、市街地の70%が炎上、死者は1600人を超えたとされる。ゲルニカの猛爆撃に怒った画家、パブロ・ピカソが超大作「ゲルニカ」を世に出している。

     一方、日本軍も、日中戦争下の38(昭和13)年12月、中国・重慶を無差別爆撃して甚大な被害を与え、その後も長期間、空爆を実施した。

    「空戦規則」に違反

     空襲による無差別攻撃をめぐる法の不備に関して23年、各国の専門家たちがオランダのハーグで協議し、「空戦規則」が作られた。規則では「一般の人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊、毀損きそんし、または非戦闘員を損傷することを目的とする空爆は禁止する」などと規定している。

     空爆そのものは禁止していないものの、一般市民への空襲を禁止しており、空爆にあたっては、戦闘員と非戦闘員、軍事目標と民用物を厳しく分け、爆撃は、その対象を戦闘員と軍事目標に限定すべきだとする原則を確立した。

     この原則に基づけば、東京大空襲のような無差別爆撃は規則違反であり、「空からの大量殺戮さつりく行為」だといえる。

     実際、44(昭和19)年10月の那覇無差別爆撃について、日本政府は、スペイン駐在公使を通じて米政府に国際法違反であると抗議し、米政府に国際法違反として認めるかどうか見解まで求めた。しかし、米側は黙殺し、その後も日本への大規模爆撃を継続した。ただ、日本の主張には、重慶などでの無差別攻撃は正当化しつつ、自らの被害を抗議するという矛盾があった。

     一方、陸軍第13方面軍司令官の岡田資たすく中将は、45(昭和20)年5月の名古屋空襲の際に捕虜となった米軍飛行士を、司令官の判断で処刑したかどで、軍事裁判にかけられた。岡田は、空襲は「無差別爆撃」だったとの主張を展開。結局、有罪判決を受け、処刑されるが、裁判の中で名古屋空襲は無差別爆撃であったことが認められた。

     (福永聖二、中村宏之、森谷直子)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140221-118-OYTPT01337
     

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  61. 「ドレスデン爆撃」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E7%88%86%E6%92%83

    https://www.google.co.jp/search?hl=ja&site=imghp&tbm=isch&source=hp&q=%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E7%88%86%E6%92%83
     

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  62. 「悪の凡庸さ アイヒマン」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%87%A1%E5%BA%B8%E3%81%95+%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3

    それはいたるところにある。
     

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  63. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<2>終戦工作…戦争終結に踏み出せず
    2014年3月1日3時1分 読売新聞

     「絶対国防圏」の喪失と空襲の激化で、戦局も国民生活も悪化し続けた。しかし、東条内閣が退陣しても、小磯国昭内閣による終戦工作は一向に進まず、日米双方に本土決戦の機運が高まる。1945(昭和20)年2月、連合国首脳によるヤルタ会談では、ソ連の「対日参戦」の密約が交わされた。(文中敬称略)

    「一撃講和」にこだわる

     「捷号作戦」始まる

     1944(昭和19)年7月に絶対国防圏が崩壊し、小磯内閣が発足すると、大本営は「戦いに勝つ」を意味する「捷号しょうごう作戦」を立案する。作戦地域は、フィリピン(1号)、台湾・沖縄など南西諸島(2号)、本土(3号)、北海道(4号)と区分された。

     フィリピンの捷1号作戦は、ダグラス・マッカーサー率いる米軍のレイテ島上陸を阻止することなどを狙いに、44年10月18日に発令された。しかし、日本海軍の栗田健男中将率いる第1遊撃部隊(栗田艦隊)は、米軍機の猛襲を受け、レイテ湾突入を前に反転・退却し、米軍の上陸を阻むことができなかった。

     一方、陸軍は、当初のルソン島での持久戦計画を急遽きゅうきょレイテ決戦に切り替え、精鋭兵力を投入したが、米軍に補給路を断たれ、日本軍は孤立化した。

     レイテ沖海戦で連合艦隊は大打撃を受け、艦隊としての戦闘能力を失った。また、零戦による特攻作戦が初めて採用され、絶望的な戦いが本格化する。

     45(昭和20)年2月、米軍は硫黄島上陸作戦を開始し、陸軍は本土決戦の準備を急いだ。8、9月頃の米軍の本土進攻を予想し、40個師団を急造しようと根こそぎの大動員を図った。

     小磯・米内連立内閣

     小磯は予備役の陸軍大将で朝鮮総督だった。内閣発足を前に、小磯に不安を感じた元首相の近衛文麿の主張で、小磯と副首相格の米内光政海相(元首相)による「連立」内閣になった。昭和天皇は、2人を呼んで「卿等協力して内閣を組織せよ。大東亜戦争完遂のためソ連を刺激しないようにせよ」と命じた。

     小磯はまず、従来の大本営政府連絡会議に代えて最高戦争指導会議を設置。44年8月19日の御前会議で新たな戦争指導大綱を決定した。大綱は「あくまでも戦争の完遂を期する」とし、太平洋方面で米国に決戦を挑むことを志向していた。

     小磯や陸軍主流は、英米に一度大きな打撃を与えたあと、有利な条件で終戦交渉に臨む「一撃講和」の立場に立っていた。その舞台が、捷1号作戦(レイテ決戦)だった。

     一方、同大綱には、同盟国ドイツが敗れ単独講和をした場合、「機を失せずして『ソ』を利用して情勢の好転に務む」とし、ソ連を仲介役とした終戦工作にも触れていた。

     不調の対ソ、繆斌工作

     対ソ工作の中心は重光葵まもる外相で、重光は43~44年にかけ、独ソ間の和平を日本が斡旋あっせんすることを名目に、ソ連に特使派遣を計3回申し入れた。だが、ソ連からは「休戦や講和の可能性は全くない」と断られている。

     仮にドイツが敗まければ、それは日本の終戦判断の契機になり得た。天皇の側近、木戸幸一・内大臣は、44年1月6日の日記に、ドイツが無条件降伏した時は、日本も同時に戦争終結を考えねばならぬと書いていた。

     ソ連頼みの本国に対し、佐藤尚武・駐ソ大使は、重光宛て電報(44年11月13日)で、「日本が中立以上のものを望むとすれば、ソ連にとっては米英に背く結果になるから、いかに利をもって誘うとしても、彼の態度を逆転させることはできない」と悲観的な見方を伝えた。

     一方、小磯は、情報局総裁の緒方竹虎らとともに、繆斌みょうひん工作と呼ばれる和平工作を進めた。蒋介石の重慶政府と講和し、戦争終結させるのが狙いだった。繆斌は、南京政府(汪兆銘政権)側の政治家で、かつ蒋とつながりがあり、小磯は、繆を介して重慶側に接近しようとした。

     だが重慶側に足元を見られるような工作に、重光外相らから強い反対が出た。繆は45(昭和20)年3月、小磯の招きで来日したが、工作に乗り気でなかった天皇は打ち切りを指示した。この工作の挫折などから小磯は退陣に追い込まれる。

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  64. 米国 無条件降伏を要求

     戦後にらむ連合国

     日本の終戦工作が遅れる中、連合国側は首脳会談を度々開いて、戦争協力を確認するとともに、勝利を前提にした戦後国際秩序づくりを進めていた。

     米大統領のフランクリン・ルーズベルト=人物抄=は43(昭和18)年1月、カサブランカでチャーチル英首相と会談し、枢軸国に対して「無条件降伏」を要求する考えを示した。ドイツ、イタリア、日本とは取引せず、たたきつぶして無力化する方針の表明だった。

     独軍はその年2月、ソ連西部の激戦地スターリングラードで敗北し、緒戦以来の快進撃に陰りがみえた。とはいえ、独軍の圧力を欧州東部で一手に受けているソ連は、米英軍が欧州西部に上陸して第2戦線を開くように求めた。

     ルーズベルト、チャーチルは当初、要請を受け流していたが、余りに引き延ばすと、「独軍との戦闘でソ連が弱体化するのを狙っている」と、ソ連首相のスターリンが疑心を募らせる恐れがあった。そこで米英首脳は同年8月、ケベックでの会談で、第2戦線を開設することで合意する。

     第2戦線の開設で意思統一を図るため、ルーズベルトは、中国国民政府主席の蒋介石も交え、米英中ソ4か国会談を模索した。しかし、ソ連は中国が「大国」の一員として名を連ねることに猛反対した。そこでルーズベルトは、同年11月22~26日、カイロで、チャーチルとともに蒋と会談した。

     カイロ宣言に調印

     11月27日、米英中3首脳は、対日戦後処理の基本方針「カイロ宣言」に調印した。宣言には、「日本国が清国人より盗取した」満州、台湾、澎湖諸島を中華民国に返還することに加え、朝鮮の独立の回復、太平洋諸島の放棄も盛り込まれた。

     米英ソ3首脳は、同年11月28日~12月1日には、テヘランで初会談に臨み、「第2戦線の開設で米英が仏北部に上陸作戦を行い、ソ連軍は東部戦線で攻撃を行う」「ドイツを分割し、再び軍事国家となるのを防ぐ」ことなどで一致した。

     独降伏後、ソ連が対日参戦するという合意も交わされた。スターリンは、カイロ、テヘラン会談の前にモスクワで開かれた米英ソ3国外相会談の夕食会で、ハル米国務長官に対し、参戦の意向を示していた。

     44(昭和19)年6月6日、連合国軍は仏ノルマンディーで上陸作戦を敢行して欧州の第2戦線を開き、8月にパリを解放した。一方、ソ連軍は同年4月にウクライナを解放。その後、バルト地方、白ロシアで独軍を破り、7月までに戦前の領土を回復した。さらに10月までにポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビアで独軍を追い出した。11月にスターリンは、日本を「侵略国」と非難する演説を行った。

    ヤルタで「ソ連参戦」密約

     ルーズベルトの独断

     米英ソ軍がドイツを追いつめている最中の45(昭和20)年2月4~11日、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3首脳が、クリミア半島のヤルタで会談した。

     まず、ドイツ問題で、「独領土を4分割し、フランスにも配分」「独軍の武装解除」「ナチス党の解散」「戦争犯罪者の裁判」などで合意。国際連合の設置をめぐっては、「米英ソ中仏5か国が常任理事国、これに7理事国を加える安全保障理事会の設置」で一致した。

     それだけではなかった。ルーズベルトとスターリンは2月11日、ソ連の対日参戦を含む極東問題を非公式に協議。わずか15分間に、スターリンは、事前に米側に提示ずみの、対日参戦の「見返り」を口頭で繰り返し、ルーズベルトも同意、ヤルタ秘密協定が交わされた。

     この密約では、「独軍降伏後2、3か月以内にソ連が参戦する」とし、その条件として、「外モンゴルの現状維持」「樺太南部とそれに付属する諸島をソ連に返還」「大連を国際化し、ソ連の優先権を守る。旅順を海軍基地としてソ連に租借する」「東清鉄道、南満州鉄道はソ連・中国の合弁企業となる」「千島列島はソ連に引き渡される」ことが盛り込まれた。

     ルーズベルトは、日本本土上陸作戦で米軍の犠牲を最小限にとどめたいと考えていた。米統合参謀本部も、ソ連軍が満州に侵攻し、日本軍を釘くぎ付けにすることを求めた。結局、ルーズベルトは、ソ連軍の早期参戦が必要だと考え、いとも簡単にスターリンの要求を受け入れた。

     ルーズベルトは米国務省に密約内容を伝えなかった。チャーチルも、密約後に承認を求められただけだった。スターリンは、対日参戦の意向をちらつかせるだけで、最大限の「見返り」を得ることに成功したのである。

     密約は、中国の承諾も得ずに権益をソ連に譲る内容だった。しかも、「中国に密約の内容を知らせれば、秘密が日本に漏れてしまう」と、スターリンが適当な時期が来たと判断した時、ルーズベルトが蒋に通知することを決めていた。

     ルーズベルトは、密約が中国の主権を侵すほか、日ソ中立条約に違反する恐れがあることも無視していた。

     だが、蒋も、早々と密約の存在に気づき、「中国は売られてしまったのだろうか」と憂慮の念を深めた。45年4月5日、ソ連は日ソ中立条約の不延長を日本に通告する。これを受けて開かれた軍事会議で蒋は、「ソ連は近い将来、日本攻撃を名目に我が東北を占領してくることは確実だ」との見方を示した。

     健康悪化をおして度重なる重要な交渉に臨んでいたルーズベルトは4月12日、脳出血のため、死去した。ドイツ軍は5月7日、無条件降伏した。

     (笹森春樹、関康晴、舟槻格致)

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  65. 「敗戦は最早必至なり」

     近衛上奏文

     45(昭和20)年に入ると、昭和天皇は、木戸幸一に「重臣の意見を聞きたい」と漏らすようになった。

     2月7日から、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿=写真=、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条英機の7人がそれぞれ呼ばれた。

     2月14日、近衛の番が巡ってきた。近衛の天皇への拝謁は、「実に3年振り」(近衛文麿『失はれし政治』)のことだったという。首相在任時に日中戦争を収拾できなかった近衛は、天皇から遠ざけられていた。

     近衛は、早期和平・国体護持論に立って、和紙8枚に自筆で上奏文をしたため、周到な準備をして臨んだ。

     上奏文は、「敗戦は最早必至なり」とし、この際、天皇制を維持するためには、勝利の見込みのない今の戦争を早期に終結させ、対米英の和平を実現して共産化を防ぐしかない――と訴えていた。

     だが結局、近衛の上奏文は昭和天皇の採用するところとはならなかった。天皇は、近衛に対して、「軍部は、米国はわが国体の変革までも考えおる様、観測しおるが、その点は如何」と疑問を呈し、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しい」と難色を示した。

     近衛は天皇との会見の際、真崎甚三郎らの起用を天皇に進言したが、2・26事件に関与した皇道派の軍人たちに不信感を抱く天皇が受け入れるわけもなかった。

     近衛上奏文は吉田茂(戦後、首相)らの協力によって作成されており、吉田の意向が色濃く反映されていた。実際、吉田は上奏文が問題視され、のちに憲兵隊に逮捕された。

     和平のための対ソ接近論が強い中で、近衛上奏文は異彩を放っていた。しかし、政府が、本格的な対ソ終戦工作を進める過程で、皮肉なことに、その近衛にソ連特使の役が回ってくることになる。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140228-118-OYTPT01095
     

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  66. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<3>沖縄戦…本土決戦前の「捨て石」
    2014年3月8日3時1分 読売新聞

     米軍の本土侵攻の可能性が高まる中、1945(昭和20)年3月末から、沖縄戦が始まった。硫黄島に続く「国土戦」だが、日本軍は、沖縄を本土決戦準備のための時間稼ぎの戦場、いわゆる“捨て石”と位置づけ、戦闘に多くの住民を巻き込んだ。この結果、県民の4人に1人が犠牲となった。(文中敬称略)

    県民4人に1人が犠牲

     時間稼ぎの戦場

     大本営は、米軍侵攻を想定して1945(昭和20)年1月、本土決戦に備えた「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定した。作戦目的は、「皇土特に帝国本土」の確保だった。小笠原諸島や沖縄本島以南の南西諸島を、作戦を遂行するための「前縁」と位置づけ、やむを得ず米軍の上陸を許した場合は、米軍に「出血」を強要し、戦争継続の意思をくじく狙いがあった。

     戦後に作られた連合国軍総司令部(GHQ)の陳述録によると、「沖縄は、米軍に出血を強要する一持久作戦で、国軍総力の大決戦は本土で遂行するのが本旨か」と問われた元大本営陸軍部作戦課長・服部卓四郎は、「然しかり」と答え、「沖縄も局部出血を強要する一要域」と語った。

     つまり、軍部にとって沖縄は、「本土」ではなく、本土防衛を図るために必要な時間を作り出す戦場と扱われていた。

     だが、持久戦とは裏腹に、大本営作戦課は、沖縄本島を防衛する第32軍(3個師団と1個旅団編成)から、1個師団を台湾防衛のために引き抜き、戦力を大きく弱体化させた。

     作戦を主導する32軍高級参謀の八原博通は、「今や天 幸いせず、最悪の場面に遭遇した」と悲痛な声を漏らした。現地の部隊は作戦準備を根底から覆されたまま、決戦の日を迎えることとなった。

     米軍は無血上陸

     45年3月26日、米軍は沖縄本島上陸作戦に先立って、弾薬や食料などの物資を備蓄するため、本島西方の慶良間けらま諸島に侵攻した。日米両軍による沖縄戦の事実上の始まりだった。

     同諸島を占領した米軍は、4月1日早朝、沖縄本島中部の上陸予定地点をめがけ、英軍を含めて219隻の戦艦と巡洋艦から艦砲射撃を開始。太平洋戦線では最多となる18万人を超す部隊が一斉に上陸を始めた。米軍の圧倒的な火力攻撃は、「鉄の暴風」と表現された。

     迎え撃つ日本軍は約11万人、このうち2万人余りは、地元から急いで動員された防衛隊員だった。32軍が各部隊に示した「戦闘指針」は、戦力を温存して、中南部の首里周辺の主陣地で持久戦を展開することだった。このため、上陸する米軍への攻撃は行われず、無血上陸を果たした米軍は、その日のうちに、北飛行場と中飛行場(今の米軍嘉手納基地)を制圧した。

     大本営作戦部長の宮崎周一は、沖縄戦の見通しを「結局、敵に占領せられ、本土来寇らいこうは必至」との認識を示していた。しかし、飛行場陥落の知らせは各方面に衝撃を与えた。

     大本営は持久方針を批判し、「現地軍はなぜ攻勢に出ぬか」という天皇陛下の憂慮も現地軍に伝えられた。32軍は総攻撃を決断するが、攻勢作戦は、ことごとく失敗、兵力は半減した。

     南部撤退、惨劇招く

     5月16日、32軍司令官の牛島満は、「まさに戦力持久は終焉しゅうえんせんとす」との電報を大本営に発した。だが、持久作戦を主導してきた八原は、「沖縄戦の目的は本土決戦を準備するための時間稼ぎ。持久することが最優先」と主張した。結局、この意見が通り、牛島は22日、首里戦線を放棄して、南部の喜屋武きやん半島への撤退を決定した。

     撤退作戦は悲惨を極めた。大本営は、将兵、県民を問わず、重傷者には自決用の手榴弾しゅりゅうだんを配ることなどを指示した。南部に退いた軍は約3万人で、10万を超す住民が軍と行動をともにする。しかし一部の日本兵は、避難住民からガマと呼ばれる洞穴(壕ごう)を取り上げた。米軍はガマの頂上部に穴をあけ、石油を流し込んで残存兵を焼き殺した。

     沖縄戦は6月23日、司令官の牛島らが自決し、日本軍の組織的な戦闘は終わった。沖縄県によると、日本兵の戦死者は約9万4000人に上った。また、島内に残った約40万の県民の4人に1人が死亡した。県民の死者のうち約6万人は南部撤退後の犠牲だった。

     「作戦が間違っていた」

     沖縄戦について、歩兵第32連隊第1大隊長(大尉)だった伊東孝一(大正9年生まれ)は次のように回想する。

     <約1000人の兵を率いて44(昭和19)年8月、沖縄配属となった。毎日、銃をツルハシに持ち替えて陣地を構築。本島周囲のリーフ(サンゴ礁の浅瀬)を見れば、米軍の上陸地点は見当がついたのに、上級司令部は、その判断が付かず、最初から持久一辺倒だった>

     <米軍の艦砲射撃はすさまじかった。それでも上陸する時は、味方の部隊を撃たないよう米軍は2、3時間だけ艦砲射撃を中断する。上陸地点には遮蔽物もなく、そこが日本軍が攻撃できる唯一の好機だった>

     伊東は大隊を率いて、小波津、前田、棚原、国吉台などで激戦を続けた。『戦史叢書』には、伊東大隊と激突した米海兵隊は「戦車21両が破壊され、死傷者は1150人に上った」と記録されている。伊東大隊も、日本の敗戦を知った8月18日までに、約1000人いた部下は、負傷者を除いて135人にまで減ってしまった。

     「最後は弾も銃もなかった。沖縄を守ることもできず、多くの部下を死なせてしまった」と、伊東は述懐する。軍が首里から南部に撤退したことで、住民被害が増大したことについては、「持久すると言いながら、米軍と戦う前に沖縄から1個師団を引き抜いた。最初から作戦が間違っていた」と語る。

     ただ、硫黄島に次ぐ沖縄での日本兵士たちの奮戦が、米軍の日本本土への侵攻をためらわせることになる。

     大和の「一億総特攻」

     沖縄戦は、空と海でも凄惨せいさんな戦いを強いられた。米軍の沖縄侵攻に合わせ、大本営は、特攻攻撃を主体とする「天一号」作戦を発令した。鹿屋、知覧など九州各地の基地からは、陸海軍機が、沖縄周辺に群がる米英軍の艦船を目指して出撃した。

     『特別攻撃隊』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編)によると、4月6日には222機が突入、340人が戦死、7日は90機、140人、12日は109機、193人……。終戦までに、沖縄方面の航空特攻による戦死者は3002人に達した。学徒動員された大学生も多かった。

     航空特攻に合わせ、連合艦隊は4月5日、戦艦「大和」と軽巡洋艦「矢矧やはぎ」など、海軍で残存する10隻の第2艦隊に対し、海上特攻として沖縄に突入することを命じた。

     当初、勝算のない無謀な作戦に、第2艦隊司令長官の伊藤整一は首を縦に振らなかった。だが、「一億総特攻のさきがけになっていただきたい」という、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介の説得を受け入れた。

     6日午後、瀬戸内海を出撃した第2艦隊は、7日午前、東シナ海に進出した途端、米軍機386機による魚雷攻撃にさらされ、大和以下の6隻は、沖縄のはるか北方で海の藻くずとなった。「大和が残れば、無用の長物だったと言われる」という海軍幹部の情緒的な判断が、3700人を超す将兵の命を奪った。
     

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  67. 住民保護に手抜かり

     集団自決の悲劇

     ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んだ住民たちが、もはや助かるすべはない、と絶望して自決する。それも肉親同士が手をかけあって――そんな悲劇が沖縄戦下で相次いだ。

     45(昭和20)年4月2日、米軍の上陸地点にほど近い読谷村よみたんそんのチビチリガマでは83人が死亡した。うち51人までが20歳以下の子供たち。『読谷村史』はこう記す。

     <奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった>

     具志川市の具志川城跡壕、慶良間諸島、伊江島――地上戦闘下、同様な集団自決は、決して例外的な出来事ではなかった。

     むろん、米軍の火力による猛攻の中で死んだ人々もいる。しかし、なぜ、多くの住民たちが戦場のただ中に取り残されてしまったのか。

     そもそも、当局が沖縄での地上戦を想定し、住民対策に乗り出したのは、44(昭和19)年6月の米軍サイパン上陸を受けてのことだ。その眼目は、県外への疎開だった。沖縄守備隊の32軍参謀長となる長勇の上申を受け、政府は7月7日の緊急閣議で疎開促進の方針を決めた。

     その直後、沖縄県は、60歳以上15歳未満の者・女性・病者を対象として、沖縄本島、宮古島、石垣島、西表島から希望者10万人を本土、台湾に送り出すことを決定。7月21日には第1次疎開者が鹿児島に向け出発した。一方、県は「国民学校初等科第三学年より第六学年までの男児希望者」の学童疎開も決めた。

     疎開は順調ではなかった。8月22日、鹿児島に向かった「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、疎開学童780人を含む1400人以上が犠牲になった。10月10日、那覇が米軍機による大空襲を受ける。沖縄戦が始まる翌45年3月末までには、県外疎開者は、約8万人(台湾への2万人含む)に達した。

     疎開計画進まず

     しかし、県外疎開だけで住民の安全を守りきれるわけはなかった。

     このため32軍は、60歳以上の老人、国民学校以下の児童たちを、主戦場となる公算の大きい本島中央部から、国頭くにがみなど本島北部へ避難させる計画をまとめ、12月中旬、県側に説明した。

     県は、翌45年2月9日、10万人避難計画を初めて県民に知らせ、島内疎開がようやく緒に就く。だが、住民は生活物資を荷車に載せて山道を避難せざるを得ず、急造の計画は明らかに無理があった。

     結局、3月24日に米軍が艦砲射撃を開始するまでに北部に避難できたのは、計画の3分の1の3万人に過ぎなかった。4月3日、米軍が、東海岸に達して本島が分断されると、北部への避難は不可能になった。

     一方で住民たちは、敵は残虐な「鬼畜米英」で、捕まった女性は暴行されて殺されるなどと教えられていた。それは集団自決を引き起こす一因になったばかりでなく、日本軍から離れて行動するのは危険だという認識につながった。

     多くの住民は、軍とともに激戦の喜屋武半島に南下し、戦闘に巻き込まれることになった。

    「防衛召集」で総動員

     この間、沖縄県民は軍への直接的な奉仕を求められてもいた。沖縄では再三の「防衛召集」で計2万数千人が召集され、最終的には召集対象になっていなかった16歳や、45歳以上の者までかき集められた。

     45年3月には、師範学校や中等学校の男子生徒たちを「志願」というかたちで集めて「鉄血勤皇隊」を組織した。

     師範学校と高等女学校の女生徒たちも、女子学徒隊として「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などに編成されて看護などにあたった。鉄血勤皇隊は約1800人のほぼ半数が亡くなったとされる。根こそぎ動員は10代の若者にさえ犠牲を強いるものだった。

     十分な住民保護策がないまま、徹底動員を求められた裏には、本土の日本人による沖縄県民への差別意識があったという指摘もある。軍もその例外ではなかった。沖縄史研究の大城将保によれば、「帝国陸軍は沖縄県民を、国家と天皇にたいする忠誠心がとぼしい、という理由で、潜在的なスパイ容疑者として警戒していた」(『改訂版沖縄戦』)。

     実際、44年4月9日、32軍が各部隊に発した命令書「球軍会報」は、「爾今、軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」と記している。

     そんな中、住民に報いることのできなかった悔恨を胸に逝った軍人もいた。海軍の沖縄方面根拠地隊司令官として45年6月に戦死した大田實みのる中将=人物抄=は、最期の時を前に、悲痛な思いを込めた一通の電報を軍中央に送った。

     「沖縄県民斯かク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

     その言葉は、「なぜ日本人は沖縄を見捨ててしまったのか」という重い問いを今もなお突きつけている。

     (勝股秀通、時田英之、遠藤弦)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140307-118-OYTPT01124
     

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  68. 博報堂「地球温暖化防止」国民運動
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96+%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95+%E5%8D%9A%E5%A0%B1%E5%A0%82

    電通「食料自給率」国民運動
    https://www.google.co.jp/search?q=%E9%A3%9F%E6%96%99%E8%87%AA%E7%B5%A6%E7%8E%87+%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95+%E9%9B%BB%E9%80%9A

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  69. 内閣府「国民運動の推進」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95+%E5%86%85%E9%96%A3%E5%BA%9C

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  70. 「国民運動 国家総動員 大政翼賛会」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95+%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1+%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A

    リアル戦争から、バーチャル「見えない敵」との戦いへ…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E6%95%B5

    パンデミック・ウイルス、地球温暖化温室効果ガス…
     

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  71. 3月27日 編集手帳

     胸を打つ文章は書物のなかにあるとは限らない。その銅板はJR東京駅の東海道新幹線ホームを下りた壁にある。〈東海道新幹線 この鉄道は日本国民の 叡智えいち と努力によって完成された〉◆普通ならばここに、開業当時の運輸大臣か国鉄総裁の名前がつづくところだろう。個人名はない。ほかには運行距離と起工・営業開始の年月日が刻まれているだけである。誰の起草か、真っ 直す ぐで純粋で、目にするたびに鼻の奥がくすぐったくなる◆2020年東京五輪の組織委員会はきのう、理事全員が一堂に会しての理事会を開いた。準備が動き出す。森喜朗会長は「オールジャパンで」と挨拶した◆言い換えれば、主語を「この鉄道」から「この震災復興、この東京五輪」に置き換えた銅板を未来に用意する、ということだろう。〈…は日本国民の叡智と努力によって完成された〉と◆1964年(昭和39年)の東京五輪と新幹線開業から今年で満50年になる。〈もの持たずすずやかに飢ゑてありし日の鋭心いかに保ちゆくべき〉(島田修二)。“鋭心”の修繕に、乗る用事もない新幹線の改札をくぐりたいときがある。

    2014年3月27日3時0分 読売新聞
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140327-118-OYTPT50003

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  72. 2020年へ本格始動 女性7人「細やかさ生かす」 東京五輪理事会
    2014年3月27日3時0分 読売新聞

     2020年開催に向けて東京五輪・パラリンピックが26日、本格始動した。女性メダリスト、障害者アスリート、財界人に芸術家――。この日、都内で開かれた大会組織委員会(森喜朗会長)で初めて一堂に会した理事34人の顔ぶれからは、「オールジャパン」の体制で大会を成功に導くという世界へのメッセージが強く打ち出された。

     女性が前面に

     34人の理事のうち女性理事は7人。国際オリンピック委員会(IOC※)が掲げる「女性比率20%」の指標を満たした。

     理事会後、女性理事がそれぞれ抱負を語った。体操のロンドン五輪代表の田中理恵さん(26)は「ロンドンで五輪のすばらしさを肌で感じた。同じ思いをしていただけるようしっかりお手伝いできれば」。柔道の五輪金メダリスト、谷本歩実さん(32)は「現場の声を出していきたい」とそれぞれ決意表明した。

     バレーボール米国代表で五輪出場経験のあるヨーコ・ゼッターランドさん(45)は、「女性の良さである細やかさと大胆さをいろいろな面で生かしたい」。パラリンピック金メダリストの成田真由美さん(43)は、「(選手村の)食堂で手巻きずしを作るとか折り紙を作ってみるとか、日本ならではの『おもてなし』ができれば」と女性らしいアイデアを披露した。

     
    財界も芸能界も

     財界人、文化人の理事もそれぞれ意気込みを語った。人気アイドルグループ「AKB48」のプロデュースも手がける作詞家の秋元康さん(55)は「スポーツは自分でするのも応援するのも楽しい。夢を追いかけるということと、応援することを、どれだけ黒子に徹してお手伝いできるかと思う」。写真家の蜷川実花さん(41)は、子を持つ母の視点から、「子供たちが希望を持てるよう頑張りたい」と語った。

     組織委副会長に就任したトヨタ自動車の豊田章男社長は、「心を一つに、日本がここまで復興したということを世界に発信できるよう努力したい」と語り、東日本大震災からの復興を強調。組織委名誉会長のキヤノンの御手洗冨士夫・会長兼社長は「20年までに経済を完全に再生させ、新しい日本の姿を世界に示さなければ」と意気込みを示した。

     
    パラリンピックも一体

     東京大会では、パラリンピックへの取り組みも一気に強化される。組織委の武藤敏郎事務総長は「五輪とパラリンピックを区別することなく、同じ目線で準備を考えていく」と語った。

     組織委には、日本パラリンピック委員会(JPC※)からも理事を迎えた。国の取り組みも大幅に変わり、これまで厚生労働省の担当だった障害者スポーツを、五輪と同じ文部科学省に移管。国のスポーツ行政を一元化する「スポーツ庁」の設置準備が進む。森会長は「五輪とパラリンピックは一体」と力強く語った。

     ※IOC=International Olympic Committee

     ※JPC=Japan Paralympic Committee
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140327-118-OYTPT50158

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  73. 世の中をうまくまるめこむ(だます、あざむく)には、「女性を前面に」…
     

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  74. 競技経験者も五輪へ力 東京五輪理事会 橋本さんら決意
    2014年3月27日3時0分 読売新聞

     2020年東京五輪・パラリンピックの意思決定機関である理事会には、計8人の五輪、パラリンピック経験者が名を連ねた。

     1月に発表された6人の理事は、日本オリンピック委員会(JOC)会長の竹田恒和理事以外は、行政や国の関係者ばかりだったが、国際オリンピック委員会の強い要望もあり、多くの若手や女性の登用が実現した。政、財、文化、スポーツ界からの多様なメンバーには、多様な価値観を反映させた大会実現が期待される。

     その中で、夏冬7度の五輪に出場した橋本聖子理事は、「20年以降の人材教育をスポーツ界が担えるよう頑張りたい」と語り、米国代表で五輪出場経験のあるヨーコ・ゼッターランド理事は、「アスリートが自分の言葉で、スポーツの意義、社会へのメッセージを発信できるような育成もしたい」と、それぞれ心に持つ理想を掲げた。

     きっかけは外圧ながら、多くの選手出身者が世界最大のスポーツイベント作りに関わるのは、98年長野五輪にはなかった。この好機に、元首相や財界トップが居並ぶ中で、存在感を発揮し、国内外へ、スポーツ界の力を示してほしい。(近藤雄二)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140327-118-OYTPT50006

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  75. 2014年6月3日
    「アナ雪」に影響受け、ありのままに突き進む高齢者

    (本当は「Let it go」は「あきらめる」という意味なんですが…)

     いくら私でも、今、ディズニー映画「アナと雪の女王」の主題歌に人気が集まっているぐらい知っています。「Let it go」は「もういいの、ありのまま」と訳されて、日本人の女優さんなどが歌ってヒットしていることを。

     先日、心療内科の患者さんが、この歌の「Let it go」の意味を誤解していることにはっとしました。

     その患者さんは、元競泳選手だったのですが、筋肉痛で泳げなくなり、周囲に水泳をやめろと言われ続け、主婦としてずっとがまんしていた。でも、なんとかして昔の力を取り戻して、自由に泳ぎたいと心療内科に通われて7年目になります。先週、ドクターが「そろそろ、ありのままで生きられてもよろしいお年なのでは?」とおっしゃるとすぐ、「Let it goですね、先生」とうれしそうにおっしゃるのです。すかさずドクターが、「Let it goじゃ、あきらめろでしょ。私はありのままで無理をしないでと申し上げているんです」とお答えになった。すると「え? ありのままでしょ? だから水泳に没頭していいんですよね?」と彼女。ドクターは「は?」となり、首をかしげる。私が「今、はやっているディズニーアニメの主題歌『Let it go』です」と助け舟を出したのですが、さらにドクターは「アニメ? 全く知りません」と問題解決にならないお答え……。

     その患者さんは、ドクターの「ありのまま」を、「Let it go」の日本語詞の「ありのまま」と誤解していらっしゃいました。確かに、私が知っている英語の「Let it go」も、「ありのままで」はなくて、ドクターと同じ「あきらめろ」です。ありのままは、「be yourself」で、「let it go」ではありません。

     私が水産庁に勤務していたころ、腐敗した魚を漁船から海に捨てることを「レッコ」と言っていました。Let it goは「レッコ」に聞えます。腐っているなら「あきらめて捨てろ」という意味のレッコなのです。

     でも、あのアニメのレッコ「Let it go」は「もういいの、ありのまま」と訳されていますので、どちらかというと、過去をかなぐり捨て自由ですばらしい人生を手に入れるんだ!と言っているように聞こえます。その言葉の通り、ディズニーの物語では、触れたものを凍らせてしまう秘密の力を持った女王エルサが、その能力のせいで南の国を氷の世界にしてしまったことを悩み、孤独に生きてきた過去を、この歌を歌いながら、「いっそ私は雪の女王になる!」と決心していく力強い歌です。そこで「レリゴー、レリゴー」と繰り返し、主人公の気持ちを表現する英語のフレーズが、あまりにも感動的で、しかも覚えやすいので、映画館の観客が合唱をするぐらい人気があると聞いています。

     でも、若い人が爆発的に人生の何かを発見し、まい進することを決意するのと、高齢者が昔あったはずのパワーを取り戻すため、がむしゃらに再挑戦する決心との間には、かなりの開きがあります。そこを誤解しないで、あの歌を聴いてほしいと思います。

     「Let it go」には、「居直る」という意味もあるのです。ある種の危険性もおびている言葉です。押し殺していた自分の感情を思いっきりほとばしり出させ、何もかもかなぐり捨ててと、「そろそろ、ありのままのご自分で」とは全く違います。おそらく患者さんは、ドクターから「どうぞ居直って」と言われたと誤解されたのだと思います。

     「Let it go 」とばかりに熟年離婚をされる妻も増えているそうです。がまんし続けていた夫から離れたいと思う気持ちを振りしぼる衝動でしょう。たしかに「Let it go」には「離れろ!」という意味もありますから、間違った解釈ではありません。エルサはLet it goの歌で、「正しいことも、間違ったことも、ルールもないわ。私は自由よ!」と胸を張って言い放ちます。

     歌自体は、すばらしい歌です。歌は人に夢を与えるものですから、何も問題ありません。でも、やりたいことを貫き通すばかりが、ありのままではないとも思っていただきたい。立ち止まって考える必要もあるでしょう。特に高齢者はそうしなければいけないと思います。「Let it go」イコール「ありのまま」、「ありのまま」イコール「むき出しの感情のまま」と受け取るのは、間違った解釈です。

     がまんすることも「ありのまま」の自分を受け入れる生き方も、大切な健康法だと私は思います。
    http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=99378

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  76. 現実の姿を思い知ってあきらめなきゃいけない「ありのまま」が、いつのまにか、まだまだチャレンジする勇気と元気をもちつづける(ぶっこわれて暴走する希望願望の)「ありのまま」に変換されてしまう異次元おカルト国家の実相…

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  77. 暴走「大本営」は、まだまだあきらめないっ!(笑)。

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  78. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<14>復員・引き揚げ…故国へ 帰路に明暗
    2014年6月7日3時0分 読売新聞

     敗戦時、海外には、軍人・軍属と民間人を合わせ、約660万(厚生省監修『援護五十年史』)の日本人がいた。終戦とともに、故国日本へ復員、引き揚げをしてくるが、帰国の途次、多くの人々が貴重な命を落とした。(文中敬称略)

      連合国軍の管理下に

     戦争が終わった時、「外地」と呼ばれた海外には、約330万人の軍人・軍属と、ほぼ同数の一般邦人がいたという。本土の「内地」人口は当時、約7200万人なので、1割近い数の人々が大挙、帰国の途につく。

     帰国事業は、民間人の「引き揚げ」は厚生省が主管し、軍人の「復員」は陸海軍省の後身、第一、第二復員省が取り組んだ。連合国軍総司令部(GHQ)は、ポツダム宣言に基づいて将兵を家庭に戻し、日本を戦時体制から早く解除するよう力を注いだ。

     GHQは1945(昭和20)年9月2日、海外の日本人を地域ごとに各連合国軍の管理下に置いた。フィリピン、北緯38度以南の朝鮮、太平洋諸島などにおいては米軍、満州(現中国東北部)を除く中国、台湾などでは中国軍、満州や北緯38度以北の朝鮮、樺太、千島列島はソ連軍――などとなっていた。

     しかし、地域によって復員・引き揚げの状況は大きく異なっていた。

     米軍管理地域では、飢えに苦しむ中部太平洋の島からの帰還が優先された。日本が膨大な兵力を投入し、最後まで戦闘が続いたフィリピンからの復員は、困難を伴ったという。

     ただ、米軍管理下では、比較的順調に復員が進み、日本軍の将兵は、45年9月から翌46年5月までにおおむね帰国を果たした。次いで中国軍、豪州軍、さらには英国軍各管理下の地域を含め、48(昭和23)年1月までに復員は一応完了する。

     これに対して、ソ連軍管理下の満州や樺太、千島では、8月15日の玉音放送後も戦闘が続けられ、その後、将兵らはシベリアに連行、抑留される。

     一方、一般邦人の場合も、米軍管理か、ソ連軍管理かによって、明暗が分かれた。

     北緯38度線で南北に管理区域が分かれた朝鮮半島では、米軍が進駐した「南」での引き揚げは、45年10月には本格化し、翌46年春までには40万人の邦人のほとんどが帰国した。

     これに対して、「北」では、在留邦人と満州から逃れてきた日本人が、侵攻したソ連軍兵士による略奪と暴行の恐怖にさらされた。邦人たちは、引き揚げのめども立たないまま、 凄惨せいさん な避難生活を強いられた。

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  79. 敗軍の将兵 戻れぬ不運も

      「以徳報怨」の声明

     『援護五十年史』が、「100万人を超える大部隊の本土帰還も予想外に順調に行われた」と記す地域がある。

     日中が全面戦争に突入した37(昭和12)年以来、泥沼の戦いが続き、大兵力が投入されていた中国だ。

     「予想外」の順調な復員に大きな役割を果たしたのは、重慶で抗日を指導してきた国民政府主席・蒋介石だった。

     日本で昭和天皇の玉音放送が流れた45(昭和20)年8月15日。蒋も、重慶の放送局で声明を読み上げている。蒋は、「過去の罪をとがめないこと、人のために善をなすことは、中国人の伝統的な徳性である」と述べ、こう続けた。

     「報復を企ててはならない。ことに、敵国の罪なき人を侮辱してはならない。敵の暴行に対して暴行で応じ、彼らの従来の誤った優越感に対して侮辱で応じるならば、 怨うら みをもって怨みに報いることになり、永遠に終わることがない」

     徳をもって怨みに報いるという「以徳 報怨ほうえん 」声明は、寛容の精神を体現したものと受け取られた。声明には政治的な思惑も指摘されているが、敗戦後の報復を恐れていた多くの日本人を感動させている。

     もちろん、これは、復員史の一面に過ぎない。武装解除された一線兵士の多くが、各地で苦難の道を歩んだのも事実だ。

     英軍は、日本兵の一部を長期間、現地にとどめ、労働に従事させていた。豪軍などが管理する収容所では、日本人に対する虐待行為が相次いだという。

     朝鮮半島出身の軍人・軍属約24万人、台湾出身の同約21万人は、日本国籍を離れ、日本への居住希望者を除き、それぞれの出身地に送還された。

      外地に残った兵士

     帰国の喜びの裏側で、戦争犯罪の容疑者が次々と現地で逮捕された。彼らは、連合軍捕虜を虐待したなどとの罪状により、「BC級戦犯」として裁かれた。国内外で起訴されたBC級戦犯は約5700人に上る。

     中には、戦犯として東京・巣鴨プリズンに収監されながら、自らの意思で、部下がいる南洋の収容所に戻った陸軍大将・今村 均ひとし =人物抄=の例もあった。

     戦犯とは別に、戦後、外地に残った日本兵もいた。林英一著『残留日本兵』は、その総数について、「約1万人」との仮説を立てている。

     全体でみれば、「予想外に順調」な帰還作業が進んだ中国でも、北部内陸の山西省には、推定5600人もの兵が残留し、国民党と共産党の内戦に加わったという。このうち国民党側に身を投じた約2600人の多くは、「上からの命令」あるいは、組織的な圧力によって中国にとどまったとみられている。

     自らの意思で外地に残り、インドシナや、オランダ領東インド(現インドネシア)の独立闘争に参加した兵士も多い。現地女性と結婚した人が、残留を選ぶケースもあった。

     終戦を知らないまま、密林で長い年月を過ごした兵士もいた。戦後27年がたった72(昭和47)年、グアム島で発見された横井庄一が帰国した。2年後には、フィリピン・ルバング島で、元少尉の小野田寛郎が発見されている。

      ナホトカから舞鶴へ

     ソ連は戦後、交通、通信を遮断したため、日本人将兵の情報はほとんど入らなかった。

     しかし、45(昭和20)年9月に、ソ連の共産党機関紙プラウダが59万4000人の捕虜の存在を明かす記事を掲載すると、国内で捕虜の帰国を求める声が高まった。引き揚げに向けた米ソ協定が締結され、48年中には引き揚げは完了する予定だった。

     だが、日本政府が6000人の収容能力を持つ大型船を送っても、ナホトカ港でソ連が乗船させる抑留者はいつも2000人ほどで、帰還は遅々として進まなかった。

     満州に出兵し、終戦後にソ連軍の捕虜として抑留生活を送った歌手の三波春夫は49年9月、ナホトカから舞鶴港(京都府)へと向かう時の心境について、「祖国を慕いつつ、シベリアの土の中に消えて行った多くの仲間たちのことを考えれば、ただ喜びだけにひたっていられないと胸の苦しみをおぼえるのでした」と著書でつづっている。

     引き揚げ船の入港が相次いだ舞鶴港では、息子や夫の帰還を待ちわびる多くの母親や妻の姿があった。歌謡曲「岸壁の母」のモデルといわれる端野いせも、その一人で、息子の帰りを待ち続けた。

     50(昭和25)年4月、ソ連のタス通信は「日本人捕虜の送還完了」と報じたが、「戦犯」とされた抑留者ら約2500人が残されていて、最後の引き揚げ船が舞鶴港に入港したのは56(昭和31)年12月だった。

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  80. 荷物一つ 命からがら

      ソ連、邦人保護せず

     在留の日本人が最も多かったのは満州だった。その数、約155万人と見込まれた。

     日本政府は45(昭和20)年8月14日、満州をはじめとする在外機関に訓令を出し、在留邦人は「出来る限り定着」させるとの方針を示した。ソ連軍の蛮行が続き、満州の危機的な状況が伝えられても、「早期引き揚げ」へと方向転換できなかった。

     満州を占領したソ連は、在満日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護には一向に目を向けなかった。日本人の頼みの綱だった関東軍も、満州国も、満鉄も、9月末までには消滅した。関東軍の幕僚や満州国の首脳陣はシベリアに連行された。

     住民たちは、寄る辺を失って取り残された。とくに奥地にいた開拓団員たちは、ソ連軍に追われて南満州の都市部を目指した。飲まず食わずの逃避行の途中で、邦人たちは何人もの肉親や、大半の財産を失った。収容所に入ってからも、栄養失調などで亡くなる人が相次いだ。

     邦人たちは、自衛組織として日本人会を各地で結成し、不安と恐怖と貧困と飢えの中、引き揚げの時を待つことになる。

     風向きが変わるのは、45年末から46年春にかけてだ。ソ連軍撤退が現実味を帯びるにつれ、中国共産党軍が勢力を伸長させた。ソ連軍は46年3月、ようやく撤退を開始するが、その後に現れたのは、共産党軍と 対峙たいじ する国民政府軍だった。

     米国が国民政府に対して輸送用船舶を貸与するなどの支援活動を行い、引き揚げが始まった。邦人を乗せた第1陣の船が 葫蘆ころ 島を出航したのは46(昭和21)年5月のことだ。

     35(昭和10)年、満州で生まれた漫画家・赤塚不二夫の自叙伝『これでいいのだ』によれば、赤塚は46年6月初め、奉天駅から無蓋貨車で葫蘆島に向かう。

     警察官だった父親は、シベリアに連行されていた。奉天駅では、背中に大きな荷物を背負った母親を先頭に赤塚が続き、<そのぼくにつかまるのが妹の寿満子で、その背中には生後5か月の綾子がいた。最後に4歳の宣洋が寿満子の服につかまって歩いた>。

     駅には、中国人が大勢集まっていて「その子供売れ!」。<かあちゃんが4人に向かって絶叫する。「しっかりつかまるんだよ。離しちゃダメだよ!」>

     葫蘆島から米国の上陸用舟艇に乗った赤塚一家が、佐世保に上陸したのは6月15日だった。

     満州の邦人は、46年中には約100万人が引き揚げを終えたが、引き揚げにあたっては、約17万6000人が犠牲になったといわれている。

      引き揚げ後も多難

     リュックサックやズダ袋一つに大事なものを収めて、命からがら本土にたどり着いた引き揚げ者たちの中には、帰国した後、新たな苦労に直面した人も多かった。

     長野県阿智村の野中章(昭和11年生まれ)一家は45年5月、村長に懇願されて満州に入植した。章は9歳だった。3か月後にソ連侵攻に巻き込まれ、飢えと寒さで母や弟を亡くした。翌年10月、姉と2人で帰国。47年に父がシベリアから戻ったのを機に、故郷で無一文から畑を開墾した。野中はこう振り返る。

     <おやじは土地も家も売って満州に出かけたから、故郷には何一つ残っていなかった。国から1坪35円の開拓地を20年ローンで 斡旋あっせん された。水利権もなく、ぼろぼろの陸稲やアワしか作れないひどい土地だった。水田にするまでに10年以上かかった>

     45年11月、政府は「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定し、新たな食糧増産を図るため、引き揚げ者向けに帰農地を設けた。三里塚のような皇室御料地や、全国各地にあった軍用地の農地転用による開放が進んだ。

     しかし、対象となった農地は、農業に適さない荒地がほとんど。 惨憺さんたん たる状況に 呆然ぼうぜん とする人は少なくなかった。

     こうした戦後開拓に失敗した引き揚げ者らに対して、政府はドミニカへの移民を斡旋する。しかし、このドミニカ移民は、外務省のずさんな調査に基づいた計画であったため、移民は悲惨な結果に終わる。

     その一方、引き揚げの渦中に、現地に残された中国残留孤児の肉親捜しは、72(昭和47)年の日中国交正常化を機に、ようやく始まることになる。

    (永峰好美、杉山祐之、諏訪部敦)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140606-118-OYTPT50431

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  81. 《世の中に、始末の悪いものは数々あるが、飛び抜けて始末に負えないというものが一つある。 それは、「 やる気のある馬鹿 」 の存在だ。

    馬鹿は馬鹿らしく、世間の片隅で惰眠をむさぼっている分には大した被害は生じない。 が、やる気のある馬鹿というのは、不始末と迷惑をアッチコッチにまき散らかす極めて始末の悪いものである。

    やる気のある馬鹿の一人に、安倍晋三内閣総理大臣がいる。 この人が馬鹿であるのは、世間衆にご案内の通りなのだが、本人と一部の近習たちには分からない。
    本気で 「 美しい国 」 と 「 正しい政治 」 に向かって邁進しようと頑張るのである。

    最も現実的であらねばならないのが政治の世界。
    そこに美しいとか、正しいとか、小学生向けの様な標語を並べ、訳の分からないカタカナ語を散りばめるのが安倍政権の特色だ。 馬鹿という現実を、装飾語で塗布しようとする魂胆が丸見えなのである。》
    http://www.rondan.co.jp/html/mail/0701/070124-17.html

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  82. 「目安箱 山本恵子」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E7%9B%AE%E5%AE%89%E7%AE%B1+%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%81%B5%E5%AD%90

    site:rondan.co.jp 山本恵子
    https://www.google.co.jp/search?q=site:rondan.co.jp+%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%81%B5%E5%AD%90

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  83. 《馬鹿ほど始末が悪いはないと、昔の人はそう言った。
    たしかに馬鹿ほど始末が悪いものはない。
    一般社会もさることながら、権力を牛耳る政治の世界では殊更だ。

    娘の七光りで参院議員になったゴルフ自慢の極道崩れや、性欲過剰の岡山の姫婆。
    政治資金を一途に集め、不動産を買い占める野党党首も相当な馬鹿だ。
    野党党首の場合は、己のことを偉大なる利口者と錯誤しているようなのだが・・・・・

    が、そんな馬鹿の中でも、群を抜いた馬鹿と言えば、安倍晋三が古今無双と言えるだろう。
    最悪なのは馬鹿の上に恥知らずということ。》

    《こんにちの政治無惨の大因は、一にも二にも安倍晋三にある。
    空前絶後とも言える参院選の大惨敗、その後における政権放り出し。
    普通の人間なら、恥ずかしくて生きていけないと思うのだが、安倍晋三は大いに違う。

    恥という概念を持ち合わせていないからだ。
    よくて蟄居閉門、悪くすれば切腹ほどの大罪を犯しながら、安倍晋三は意気揚々と政界を遊泳する。

    そして、その安倍晋三の跋扈を許すのが現在の自民党。
    と言うことは、安部同様の人間が土民部落を構築しているからに他ならない。
    目くそは鼻くそに、極めて寛容なものなのだ。》
    http://www.rondan.co.jp/html/mail/0809/080912-04.html

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  84. 目安箱:【安倍晋三奇談】
    http://www.rondan.co.jp/html/mail/0612/061213-18.html
    https://www.google.co.jp/search?q=site:rondan.co.jp+%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%81%B5%E5%AD%90+%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89

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  85. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<15>焼け跡・闇市…空腹、バラック、物価高騰
    2014年6月14日3時0分 読売新聞

     戦争は終わっても、飢えとの戦いは終わらなかった。焼け跡の街は住宅難が深刻で、物不足から猛烈なインフレが起きた。都市の駅前には、生活必需品をそろえ、 空す きっ腹も満たしてくれる「闇市」が、続々と誕生、生活難にあえぐ人々でごった返した。(文中敬称略)

      「食」求め買い出し

     終戦直後の1945(昭和20)年秋、国民の衣・食・住は、ないない尽くしだった。

     この年は、天候不順で米は大凶作。旧植民地からの輸入も断たれ、「来年は1000万人餓死」とのうわさも流れた。街は大量の失業者であふれ、膨大な数の軍人や一般邦人の復員・引き揚げも始まった。

     戦災で焼失した家屋は全国で210万戸(戦前の総家屋数の約15%)に上り、延焼防止の取り壊しなどを加えると420万世帯が住む家を失っていた。

     冬を前に、政府は簡易住宅の建設に着手した。多くは20平方メートルほどの狭さで「豚小屋」と酷評された。焼け残ったビルや工場、校舎、バスなども住宅に転用された。一定基準以上の大規模住宅には、緊急措置として同居人を置くことも義務づけられた。他の世帯との同居も珍しくなかった。

     家のない人の多くは、焼け跡から材木やトタンを集めて「バラック」を建てたり、防空 壕ごう にトタンを敷いただけの「壕舎」に住んだりした。

     食べ物の不足は、もっと深刻だった。

     米やイモなど主食の配給量は1人1日わずか約300グラム。生存に必要なカロリーの半分にも届かず、<餓死線上>をさまよう人も少なくなかった。

     慶応大医学部教授の大森憲太は読売報知(10月29日付)の紙上で、「このまま冬に向かえば、都民だけで30万~70万が栄養失調の犠牲になる」と警告した。

     こうした中、食料を手に入れるため、農村に「買い出し」にでかける人が激増した。違法だったが、東京では、11月3~4日の連休に、その数は100万人に上ったという。

     読売報知のルポによれば、3日早朝の千葉駅ホームは、10両連結の銚子行きがたちまち超満員。駅員が屋根によじ登った人に「架線に触れると死にます」と、メガホンで叫ぶが、群衆は、屋根はおろか列車の連結器にもしがみつく。網棚には子供。車内はトイレまでぎっしり……。

     食料不足は、食料品の闇値をつり上げた。10月の米の闇価格は公定価格の105倍、砂糖は229倍になった。

     日銀券の増発と、生産力の悪化に伴う絶対的な物不足が爆発的なインフレを呼んでいた。国民は、異常な物価高の中で、預貯金を食いつぶし、衣類を食料に換えるなど、皮を1枚1枚はぐような「タケノコ生活」を強いられた。

      政府の対策は不発

     政府のインフレ対策は、国民生活を改善するどころではなかった。11月20日には魚や野菜の流通を円滑化しようと、生鮮食料品の統制を撤廃した。結果は単に物価をつり上げただけに終わり、翌46年3月には再び統制下に置かれる。

     政府は2月に緊急措置を発表し、市民の頼みの綱だった預金を封鎖した。3月2日限りで旧円を回収して新円に切り替え、毎月の給与引き出し額も1世帯500円までに制限した。インフレ抑制が名目だったが、物価高は変わらなかった。

     食糧政策も迷走した。価値の高まる米を農家が供出せず、2月になっても供出量は目標の4割台にとどまっていた。春には配給自体が滞る「遅配」が拡大した。政府は、強制的に供出させたり、米の買い入れ価格を2倍に引き上げたりしたが、いずれも効果がなかった。

     結局、食糧危機の回避は、米国からの輸入によるところが大きかった。

     日本政府は45年10月、連合国軍総司令部(GHQ)に約435万トンの食料輸入を要請。46年初頭から輸入食料の緊急放出が数回行われ、6月中には安定的な輸入が始まった。カリフォルニア米、小麦粉、缶詰など、都民の7~8月の配給は輸入物資が9割を超えた。

     物価は、49(昭和24)年の財政金融引き締め策「ドッジ・ライン」まで上がり続ける。44年から49年までの間、卸売物価は約90倍、小売物価は約60倍になった。

     この間、47(昭和22)年2月には、買い出しの人々で超満員だった八高線の列車が転覆し、184人が死亡する事故が起きた。同じ年には、判事の山口良忠が配給以外の食事を拒んで死亡した。

     48(昭和23)年になっても住宅に住んでいない世帯数は全国で約14万。1人当たり1・5畳以下の超過密居住状態の世帯数は約47万あった。窮乏生活はしばらく終わらなかった。

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  86. マーケットを命の綱に

      日用品の大量販売

     東京は焼け野原だった。

     〈秋晴レニ見ル焼跡ノ美シサ、焼ケトタンノ赤色、舗装路ノ黒色、焼木ノ黒色、雑草ノ緑、ビルの 骸骨がいこつ ノ白ナド、明ルキ風景〉

     話芸の達人といわれた徳川夢声は『夢声戦争日記』で、敗戦直後の風景をそう描写している。

     その東京・新宿駅の東口に「尾津組マーケット」が生まれたのは、終戦からわずか5日後、45(昭和20)年8月20日のことだ。キャッチフレーズは<光は新宿より>。東京の闇市の先駆けだった。

     戦前から新宿で露天商を統率していた“テキ屋”の集団である尾津組。その親分だった尾津喜之助は、終戦翌日から露店再開の準備を始めた。

     尾津は、「あらゆる日用品の大量適正販売」のため、「日用品製造に 邁進まいしん せんとする工場経営者は至急御来談あれ」と、新聞広告=読売報知より=で呼びかけた。

     それとともに、新宿通りの南側、果物店の「高野」から百貨店の「三越」までの間の焼け跡を整理し、よしず張りの小屋などで商売を始めた。

     これは厳密に言えば不法占拠だが、空襲で焼け野原になった土地の所有権や地上権が問題にされる時代ではなかった。

     小屋の前には、インクや化粧品、洗面器、フライパン、靴や草履など日常生活に必要な品物が並べられた。

     「尾津組マーケット」と同様の闇市は、新宿のほか、渋谷、池袋、新橋、上野など、東京の主要な鉄道駅前に次々と誕生した。

     さらに大阪、名古屋、京都、広島など、全国至る所に同様のマーケットが開設された。はじめは露天の青空市場から次第に柱や屋根もついた長屋型の“街頭百貨店”に変わり、飲んだり食べたり出来る店もある盛り場になっていく。

     闇市で空腹を満たそうとする人も多かった。商人たちも様々な「代用食」を工夫した。トロの代わりに鯨のベーコンを使い、しゃりの代わりにおからを使った 寿司すし 、コンニャクの粉の 滓かす に脱脂大豆と雑穀をまぜたソバ。カルメ焼きや乾燥芋など甘いものにも人気が集まった。

     アルコールを提供する店も多かった。47(昭和22)年6月、池袋の東口では285軒の店舗のうち、123軒が飲み屋だったという。そこで提供されていたのがカストリとバクダン。味はともかく、「取りあえず酔えればいい」という代物だ。しばしば工業用のメチルアルコールが売られ、飲んだ人間が失明したり、死亡したりした。

     最盛期の46(昭和21)年前半には6万人を超す闇業者が東京都内で活動していた。

     軍需工場の民需転換によって解雇された失業者。戦災で店舗や工場を失った商店主や下請け業者。復員はできたものの仕事のない軍人。彼らが、闇市で露店を開いたり、そこに物資を運ぶ「はこび屋」になったりした。引き揚げ者たちが力を合わせて経営する露店もあった。

     闇市は、生活物資を提供してくれる命の綱であり、働く人の心の糧にもなっていた。

      赤いリンゴ、青い空

     当時、大ヒットした歌が並木路子の「リンゴの唄」(作詞・サトウハチロー、作曲・万城目正)だった。GHQの検閲を経て、45(昭和20)年10月に封切られた映画「そよかぜ」の主題歌だった。

     ♪赤いリンゴに唇よせて だまって見ている青い空……

     並木の澄んだ伸びやかな歌声に多くの人が、未来への希望を託していた。

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  87. 浮浪児の群れ、餓死者も

      格差と不公平感

     <鉄兜敗れた日から仰向けに 永田暁風>

     町工場は、軍隊の鉄 兜かぶと を鍋に作り変え、闇市で売って繁盛した。占領軍の残飯を煮込んだ“シチュー”を食べて飢えをしのぐ人もいた。誰もが食うこと、生きることに必死だった。

     各地のターミナル駅では、ボロ布のような服を着て、うつろな目をしてしゃがみこむ「浮浪児」や「浮浪者」の姿が目立った。親兄弟を失った戦災孤児の多くは、行き場を失い、靴磨き、たばこ売りなどで、わずかな収入を得ていた。

     厚生省の統計では、浮浪児は、46(昭和21)年8月段階で、全国で推定4000人といわれたが、実数は、はるかに多いとされている。政府は、「狩り込み」と言われる浮浪児狩りをして施設などに収容した。

     「死の行進」として餓死のニュースも伝えられた。朝日新聞(45年11月18日付)によると、<上野駅で処理された浮浪者の餓死体は、先月(10月)の平均で1日2・5人>、<名古屋市役所が敗戦以来(11月)14日までに仮埋葬した餓死者は72名>、大阪市内では<8月60名、9月67名、10月69名>と、増加の一途をたどっていたという。

     その一方で、<飢餓の街をよそ目 高級料亭・近ごろの繁盛ぶり 許されぬ闇>(46年2月14日、読売報知)のように、闇太りする者もいた。戦災を受けた者、受けなかった者などの間での格差は甚だしく、社会の不公平感は高まっていた。

     46年3月には、歌舞伎の女形、片岡仁左衛門一家の惨殺事件が発生した。犯人は、見習いとして同居していた22歳の男で、動機は「食物の 鬱憤うっぷん 」だった。一家は1日3食だが、本人は1日に2食で、しかも1食は 粥かゆ 、たまりかねて近所でもらい食いすると、夫人に手ひどく叱られ、反感を抱いていた。

      占領軍の慰安施設

     銀座には「Oasis of Ginza」と書かれた大看板があった。それは特殊慰安施設協会(RAA)が経営する占領軍専用のキャバレーだった。

     「婦女子を性に飢えた米兵から守る」として、政府は、終戦直後の45年8月、占領軍兵士相手の慰安施設の設置準備に入っている。民間の待合業組合などに協力を要請、RAAを設立した。新聞で「特別女子従業員募集」と告知して女性を集め、11月末までに、慰安所、接待所は都内で25か所を数えた。

     最盛期には多数の女性がいたが、わずか7か月間で廃止された。理由は性病の 蔓延まんえん だった。何の保障もなく女性たちは放り出された。行き場のないまま、「パンパン」と呼ばれる 街娼がいしょう の仲間入りをする女性も少なくなかった。

     ♪泣けて涙もかれはてた こんな女に誰がした……。47(昭和22)年に発売された菊池章子の「星の流れに」(作詞・清水みのる、作曲・利根一郎)が、そんな「夜の女」に身を落とした女性の嘆きと 哀かな しみの歌として大ヒットする。

      闇市のたそがれ

     やがて本格的な復興が始まると、闇市の価値も徐々に薄れていった。

     GHQの指導による規制も強化され、46(昭和21)年8月1日には全国一斉摘発が行われた。9月28日には新規露店の設立と既得営業権の譲渡を禁止する「露店営業取締規則」が発令された。

     さらに内務省は、46年9月に「暴力団」の一斉取り締まりを指示。翌47年にかけて多数の摘発を行った。47年7月には東京露店商組合が解散。闇市が占拠していた土地の返還を、地主から求められるようにもなった。

     都民の生活がどん底から抜け出すのは、48年の秋だったという。主食の「遅配」は解消され、徐々に各種の生産活動が再開されるようになった。鉄道などを使った貨物輸送も回復した。

     49(昭和24)年8月、GHQは翌年3月末までに、三多摩地区と 島嶼とうしょ 部をのぞく都内の公道上の露店の撤去命令を出した。また50年、都は新宿や池袋、渋谷などの国鉄駅前の区画整理事業に着手。13地区17か所、1122平方キロ・メートルの土地整理が始まる。

     根強い反対もあった露店の撤去だが、最終的には期限を延ばした上で51(昭和26)年12月末に作業を完了。闇市の時代はピリオドを打った。

    (鵜飼哲夫、田中聡、植松邦明)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140613-118-OYTPT50494

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  88. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<17>戦争責任 日本人自ら 究明できず
    2014年6月28日3時0分 読売新聞

    国際軍事裁判で処罰へ

     1945(昭和20)年9月11日、連合国最高司令官マッカーサーは、戦犯容疑者らの逮捕令を発した。ポツダム宣言に明記された戦犯追及の幕開けだった。日本側に自主裁判を模索する動きは出たものの、実現せず、結局、東京裁判の場に委ねられる。(文中敬称略)

    「東条を逮捕しろ」

     マッカーサーは1945年8月30日、対敵情報部長エリオット・ソープ准将に対し、「日本で最初の命令を与える。東条将軍を逮捕しろ。できるだけ早く同種の者のリストを作ってほしい」と指示した。

     ソープは、横浜税関の一室にスタッフを集めリスト作りを始める。しかし、日本の事情に疎い米国人ばかりで作業は難航した。ソープは、東条内閣の閣僚を中心に東郷茂徳(外相)、嶋田繁太郎(海相)ら39人の第1次戦犯容疑者リストを作った。

     逮捕令が出た9月11日の夕、東京・用賀にあった東条英機・元首相の私邸で、「ズドン」という音が響いた。米軍の到着を確かめた東条が、軍用ピストルで自らの左胸を撃ったのだ。致命傷にはならず、医師団の救命措置で未遂に終わった。

     東条は8月下旬、部下の大佐に自決を示唆し、それを知った下村定さだむ陸相からは翻意を促されていた。東条の胸には、医師から教えてもらった心臓の位置に墨で印が付けられていた。

     東条が用意していた遺書には、「英米諸国人」に向けて、「諸君ノ勝利ハ力ノ勝利ニシテ、正理公道ノ勝利ニアラズ」「力ノ強弱ハ決シテ正邪善悪ノ標準トナス可キモノニアラズ」などと書かれていた。自決を果たせなかった東条を、世間は「往生際が悪い」などと酷評した。

    自決した軍人たち

     東条の自殺未遂の翌12日、日米開戦時に陸軍参謀総長だった杉山元はじめが、第1総軍司令官室でピストル自殺。夫人はその報を聞き、都内の自宅で自刃した。

     『世紀の自決―日本帝国の終焉に散った人びと―』(75年改訂版)によると、終戦とともに自決した軍人・軍属らは、8月15日に自殺した阿南惟幾これちか陸相をはじめ599人に及ぶ。

     50~60代の軍幹部から、10代、20代の若者まで様々で、階級も大将から二等兵まで多岐にわたる。敗戦責任を取っての自決もあれば、戦犯として処断されるのを避けるものもあった。

     第1航空艦隊司令長官として特攻を指揮した大西滝治郎は、8月16日未明、死を以て特攻隊員と遺族に謝すとの遺書を残して割腹した。

     満州事変時、関東軍司令官だった本庄繁は、遺族や傷痍しょうい軍人の援護に当たる輔導ほどう会の理事長となっていたが、「敵国の裁判は受けたくない」として、11月20日に理事長室で自決した。

     東条内閣の閣僚では、厚相を務めた小泉親彦が9月13日、文相だった橋田邦彦がその翌日に自殺した。

    「共同謀議罪」適用

     日本が受諾したポツダム宣言は、「我らの俘虜ふりょを虐待したものを含む一切の戦争犯罪人に厳重な処罰が加えられる」と、日本の戦争責任を直接問う一文を盛り込んでいた。

     ポツダム宣言が発出(45年7月)される同時期、米英仏ソの連合国は、ドイツなど枢軸国の戦争指導者を裁くにあたり、国際軍事裁判方式を採用することで合意した。

     英国は当初、裁判ではなく即時処刑を主張していた。裁判にすると審理が長期化し、法廷がナチスのプロパガンダの場となることを懸念したためだ。

     これに対し、ヘンリー・スティムソン米陸軍長官らは、懲罰の法的・道義的正当性が保障されるとして裁判方式を訴えた。ソ連、フランスも賛成した。

     スティムソンらは、時間がかかり、犯罪行為の立証が難しいとされる国際裁判方式の問題点を踏まえ、「共同謀議罪」を提案する。

     結局、英国も裁判方式に歩み寄り、国際軍事裁判では、通例の戦争犯罪に加えて、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」を適用することも決まった。

     45(昭和20)年11月には、ナチス指導者を対象としたニュルンベルク裁判が始まる。

     一方、米政府は、日本での裁判は、ニュルンベルク裁判に準拠しつつも、米国主導とするため、裁判の設置、運営などの権限を連合国最高司令官に集中させることにした。

     しかし、マッカーサー自身は国際裁判に否定的だった。マッカーサーは、東条らを、宣戦布告なしに真珠湾を攻撃した首謀者として、米単独の軍事裁判で、通例の戦争犯罪によって裁きたいと考えていた。同年10月には、その旨、本国に要請した。

     しかし、米政府は受け入れず、マッカーサーは46(昭和21)年1月19日、極東国際軍事裁判所の設置を命じるとともに、裁判の構成や運営方法などを定めた同裁判所憲章を公布した。

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  89. 近衛元首相が自決

     法廷の枠組みづくりと並行して、戦犯容疑者の拘束が続いた。

     45(昭和20)年12月2日には、59人の逮捕命令が出た。衝撃的だったのは、中に梨本宮なしもとのみや守正元帥の名前が含まれていたことだ。「皇族も例外扱いされない」という悲観的な見方が広がった。しかし、天皇の責任問題については、本国から事実上決定権を与えられたマッカーサーは、免責の方向に大きく傾いていた。

     12月6日、元首相・近衛文麿に逮捕命令が下る。

     近衛自身は、自らが訴追されるとは予想しておらず、10月4日のマッカーサーとの会談でも、「軍閥と極端なる国家主義者が世界の平和を破り、日本を今日の破局に陥れた」と述べて、すべての責任を軍閥などにかぶせる発言をしていた。

     近衛は、マッカーサーの示唆により、憲法改正問題に取り組んだ。しかし、国内外から批判が強まり、GHQも11月1日、「近衛を憲法改正のために選任したわけではない」と声明し、近衛は梯子はしごを外された。

    「裁判は堪え難い」

     12月16日、近衛は東京・荻窪の邸宅で服毒自殺した。

     遺書には、「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じているが、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於いて裁判をうける事は堪え難い事である」とつづられていた。

     マッカーサー直属の国際検察局(IPS)は、局長のジョセフ・キーナン検事をはじめ多くが米国人だった。12月末からは拘禁した100人超の容疑者の中から誰を起訴するかの検討に入った。この詰めの作業は、日本の政府や軍の中枢にいた人物の中に協力者を得たことで一気に進展する。

    「木戸日記」提出

     その代表格が、天皇の側近で内大臣を務めた木戸幸一。12月16日に収監された木戸は尋問に積極的に応じ、対米強硬派だった佐藤賢了や武藤章(いずれも元陸軍省軍務局長)らの名を挙げ、責任の多くは軍部にあると主張した。

     さらに、30年から45年までの出来事を記した、いわゆる「木戸日記」を提出した。木戸は後に、「陛下も私も終始好戦的態度ではなかった」証拠として日記を提出したと説明した。天皇の無辜むこを主張したい木戸と、戦争犯罪の構図を築き上げたい検察局の利害は、期せずして一致。被告選定の過程では、尋問担当者から「木戸は被告にするより、証人として活用すべきだ」との意見が出たほどだった。

     もう一人、東京裁判(極東国際軍事裁判)で検察側証人になった元陸軍省兵務局長の田中隆吉も、検察局の尋問に協力した。田中は張作霖爆殺事件の首謀者として河本大作、満州事変の立案者として板垣征四郎、石原莞爾の名を挙げるなどした。戦争に深く関わった陸軍軍人らを指弾した証言は、検察側のストーリーを下支えした。

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  90. 自主裁判構想は消える

     45(昭和20)年9月10日、マッカーサーの副官、シドニー・マッシバーは、横浜終戦連絡委員会の鈴木九萬ただかつ委員長に、「日本側が自主的に特別の裁判を始めれば、マッカーサー元帥の立場も大変容易になる」と、非公式に日本の自主裁判を勧めた。

     一方的な勝者の裁きを懸念する日本側としても、自主裁判は望ましかった。東久邇宮ひがしくにのみや内閣は9月12日、「国際法規・戦争法規に違反せる行為をなせる者に対し、厳重かつ公正なる裁判を行うの決意あり」とする「政府声明案」を閣議決定した。だが、昭和天皇が、自らの名で裁くことに慎重姿勢を示したため、声明発表は見送られている。

     一方、重光葵まもる外相は13日、リチャード・サザランド参謀長に対し、米側の戦犯引き渡し要求の中止を求めた。しかし、「日本の裁判所に引き渡すことは困難」と拒否された。

     自主裁判が成立する余地は、ほとんどなくなった。

     それでも、幣原しではら内閣の下で、自主裁判への模索が続いた。同内閣の書記官長・次田大三郎の11月5日の日記によると、芦田均厚相に促され、「戦争責任裁判法」について岩田宙造ちゅうぞう司法相と協議したという。

     検討された同法案は、「天皇の命令無くして兵を動かし、妄みだりに軍事行動を惹起し、侵略的行動を指揮し、満州事変、支那事変、大東亜戦争を不可避ならしめたる者」らを反逆罪として、死刑または無期謹慎に処するとし、裁判形式は、大審院による1審制と規定していた。だが、日の目を見ることはなかった。GHQによる戦犯逮捕と国際軍事裁判設置の動きを考えれば、最初から実現性は乏しかった。

     一方、9月4、5日開催の第88帝国議会では、衆院議員の芦田均が、敗戦責任の所在の明確化を求める質問主意書を政府に提出。これには、東久邇宮首相の「一億総懺悔ざんげ」論への批判が読み取れたが、政府答弁書は「戦争遂行上、各方面にわたり組織、施策等に幾多遺憾の点あり」とするにとどまった。

    戦争調査会も廃止

     10月、東久邇宮の後継首相になった幣原喜重郎=写真左=は、「敗戦ノ原因及実相調査ノ件」を閣議決定し、11月24日、「戦争調査会」を設置した。

     27日に始まった第89帝国議会では、「粛軍演説」で知られる斎藤隆夫が、「今日戦争の根本責任を負う者は東条大将と近衛(文麿)公爵、この2人であると私は思う」と表明。「支那事変がなければ大東亜戦争はない。大東亜戦争を起こした東条大将に戦争の責任があるとするならば、支那事変を起こした近衛公爵にもまた戦争の責任がなくてはならぬ」と訴えた。

     これに対し、首相の幣原は、「戦争責任者の追及については、国民の間に血で血を洗うがごとき結果となるような方法は好ましくない」と答弁。敗戦原因の調査に取り組もうとしていた幣原も、戦争責任の追及には慎重だった。

     自由党は、戦時議会の指導者の退陣を求める「議員の戦争責任に関する決議案」を提出したが、否決。翼賛議員を多く抱える進歩党が対抗して提出した「戦争責任に関する決議案」が可決された。

     それは、戦争責任の対象を、開戦責任と国際法規違反の残虐行為にとどめ、一般国民には責任がない、としていた。議会指導者に対する責任追及をかわすものといえた。

     戦争調査会の初総会は、46(昭和21)年3月27日に開かれた。開催が遅れたのは、牧野伸顕・元内大臣や若槻礼次郎・元首相に調査会の総裁を委嘱したものの固辞されたためで、幣原首相が自ら総裁に就任した。

     初総会で幣原は、調査の目的は、戦争犯罪者の追及や次の戦争で勝利することではなく、このような苦境に陥った原因を探求して、再び失敗を繰り返させないことだと強調した。第2回総会では、「失敗」とは「敗戦」ではなく「開戦」だと考えているとも述べた。

     ところが、ソ連やオーストラリアから「戦争原因の調査などは東京裁判に属するものだ」などとの異論が相次ぎ、マッカーサーの決定により、政府(吉田茂内閣)は9月末、調査会を廃止した。東京裁判はすでに5月3日に開廷していた。

     だが、戦争調査会の廃止は、日本人自身による戦争責任の究明を断念するものでもあった。(笹森春樹、時田英之、舟槻格致、宮崎健雄)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140627-118-OYTPT50554

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  91. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<18>天皇の人間宣言 「象徴天皇」への第一歩
    2014年7月5日3時0分 読売新聞

    昭和天皇は「不訴追」へ

     1946(昭和21)年元日、昭和天皇は、いわゆる「人間宣言」を発表し、天皇の神格化を否定した。翌月から天皇は、地方巡幸を開始し、国民の大歓迎を受ける。天皇を不訴追とする方向も固まり、戦後の「象徴天皇」への第一歩が踏み出される。(文中敬称略)

     46年1月1日の新聞各紙に、「新日本建設に関する詔書」が載った=右は読売報知=。この詔書が後に「天皇の人間宣言」と呼ばれるものだ。

     天皇と国民の「紐帯ちゅうたい」は、「相互ノ信頼ト敬愛」によるのであって、「単ナル神話ト伝説」によって生じるものではない。天皇をもって「現御神あきつみかみ」とするのは「架空ノ観念」と明言した。

     「天皇は神という考えを除去するには勅語が必要」と、連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)が発案した。日本研究者の英国人、レジナルド・H・ブライスを通じて、日本側に伝えられた。

     金沢の旧制四高の元英語教師だったブライスは、戦後、学習院に教職を得て、宮中とGHQの連絡役を引き受けていた。CIEが練り、連合国最高司令官マッカーサーも承認した詔書の草案は、ブライスから学習院長の山梨勝之進(元海軍大将)に渡された。山梨は、宮中ルートで天皇に伝えた。天皇は「それは結構なことと思う」と応じた。戦前の天皇機関説事件の際に、天皇は「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない」とも述べていた。

    五箇条ノ御誓文

     草案は山梨の秘書官から吉田茂外相を経て、幣原しではら喜重郎首相にも極秘裏に渡された。

     詔書には、昭和天皇の強い意向により<五箇条ノ御誓文>が盛り込まれ、その趣旨に則のっとり、「旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ(略)新日本ヲ建設スベシ」と記された。

     昭和天皇は、77(昭和52)年8月に那須御用邸で行われた記者会見で、人間宣言について、五箇条ノ御誓文を入れることが「一番の目的」であり、「神格とかそういうことは二の(次の)問題であった。……民主主義を採用したのは明治大帝の思し召しであって、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあった」と語っている。

    天皇の処遇問題

     宣言発表後、マッカーサーは直ちに「(天皇は)日本国民の民主化に指導的役割を果たさんとしている」との声明を出した。

     45(昭和20)年8月29日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一に、戦争責任者を連合国に引き渡すのは忍び難く、「自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」と述べた。木戸は、皇室廃止に結びつく可能性があると反対した。

     9月から、米国務省、陸軍省、海軍省の3省調整委員会(SWNCC)で、昭和天皇の処遇をめぐる議論が始まった。そこでは、昭和天皇を退位させ、戦犯として訴追すべきだという意見と、それでは混乱が生じるとの意見が拮抗きっこうしていた。

     SWNCCは、昭和天皇について厳密な秘密保持の下で証拠収集すべきだ――などと結論づけ、統合参謀本部は11月29日、マッカーサー宛てに「(天皇に関する)貴官の意見はこの上なく貴重」とする極秘通達を送った。

     事実上、マッカーサーに判断を委ねた形だったが、マッカーサーは、9月27日の天皇との会見以来、天皇を極めて重視するようになっていた。

     10月2日、マッカーサーは、腹心のボナー・フェラーズ准将=人物抄=から、天皇制の扱いに関する覚書を受け取った。

     それには、〈もし、天皇が戦争犯罪に問われれば、政府の機構は崩壊し、大規模な暴動が避けられない。占領期間は長引き、我々は日本人の信頼を失う〉と記されていた。

     46(昭和21)年1月25日、マッカーサーは、米陸軍参謀総長のアイゼンハワーに返信した。その内容はフェラーズの覚書にほぼ沿っていた。

     天皇が政治上の諸決定に関与したことを示す明白な証拠は発見されていないこと、天皇を告発すれば大騒乱が起き、これを抑えるには100万人の軍隊が必要なことも併せて伝えた。

     これにより、昭和天皇を裁判にかけないというマッカーサーの方針は明確になる。

     だが一方で、オーストラリア政府が1月9日、連合国戦争犯罪委員会に提出した戦犯リストには昭和天皇も含まれていた。

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  92. 「独白録」を作成

     フェラーズは、他の連合国を納得させるためには、天皇の無罪を日本側に立証させなければならないと考えた。とりわけ、戦争を終結させた天皇が、なぜ開戦を阻止出来なかったのか、説明が求められていた。

     こうした中、46(昭和21)年3月18日から4月8日まで、計4日間に及ぶ天皇からの聞き取りが行われた。90(平成2)年、「昭和天皇独白録」として明るみに出た記録だった。

     宮内大臣の松平慶民や宮内省御用掛の寺崎英成=写真・文藝春秋提供=らが聞き手を務めた。寺崎は日米開戦直前、ワシントンの日本大使館1等書記官だった知米派。フェラーズの要請で動いたとの見方が有力だ。

     昭和天皇は、日米開戦に反対できなかったことについて、「独白録」で次のように述べている。

     日米開戦の裁可は〈立憲君主として已むを得ぬ事である〉。開戦の閣議決定を私が拒否していたなら、〈国内は必ず大反乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない……日本は亡びる事になつ(た)であらうと思ふ〉。終戦の際は、首相が裁断を求めたので、〈国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いた〉。

     この聞き取り記録は東京裁判で使用されず、長く公表されることもなかった。

     オーストラリアの天皇訴追の主張は米国が抑え込む形となり、極東委員会は46年4月3日、昭和天皇不訴追を決定した。

    地方巡幸、国民は大歓迎 46都道府県を訪問

     46(昭和21)年1月中旬、侍従次長の木下道雄のもとに、ブライスがGHQ民間情報教育局から聞き取ったメモが回された。メモには、「天皇は親しく国民に接せられ、(中略)国民の誇りと愛国心とを鼓舞激励せらるべき」などと書かれていた。

     昭和天皇は、戦争で傷ついた国民を励まそうと、「地方巡幸」への思いを、側近に漏らしていた。天皇は、さっそく巡幸の検討を指示した。

     だが、政府内には、東京裁判も控えており、「じっとしておられるほうがいい」などと反対論が強かった。もっとも、元侍従長(46~48年)の大金益次郎の証言によれば、「マッカーサーは、むしろ積極的に応援」してくれたという。

     結局、天皇の強い意志と、天皇の素顔を国民に広く見せたいというGHQの思惑が合致し、2月19日、神奈川県から巡幸がスタートした。以来、昭和天皇は沖縄を除く46都道府県を巡幸する。

     最初の訪問先、昭和電工川崎工場(川崎市)で、天皇は、社長から説明を受けると、のちに評判になる口癖「あ、そう」を繰り返した。近くの花瓶にマイクが備え付けられていて、NHKは3日後、その肉声を全国放送で流した。

     天皇は当初、巡幸先では、県庁や学校に泊まった。天皇の民間施設への宿泊は「畏れ多い」と考えられていたためだ。47(昭和22)年8月、山形県を訪れた天皇は、初めて民間の旅館に宿泊した。物珍しさから館内を歩き回り、一夜明けると侍従に、「旅館というものは、人が泊まるのに便利にできてるね」と語った。

    爆発的ブームに

     天皇は行く先々で熱狂的な歓迎を受けた。連合国側は、天皇と国民の結びつきの強さを目の当たりにし、新憲法で言う「国民の総意」に基づく象徴天皇の姿が鮮明になっていく。

     12月に被爆地・広島市を訪れた際も、広場に5万人の市民が集まり、君が代の大合唱が起きた。天皇はマイクに向かって、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。この犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して、世界平和に貢献しなければならない」と異例の演説をした。

     しかし、この爆発的ブームに、GHQ内で巡幸に反対だった民政局(GS)が口を挟み出す。中国地方の巡幸の際には、GSの係官がお目付け役として同行し、「日の丸を掲げて出迎えをさせるな」などと注文をつけた。

     GSは政府に対し、宮内府の機構改革や幹部更迭の指示を出した。その人事問題がこじれた上に、東京裁判の判決時期が重なったため、巡幸は中断される。

     ところが、天皇の未訪問地から再開を求める声が殺到した。49(昭和24)年5月に約1年5か月ぶりに再開される。それは「天皇が自らマッカーサーと交渉し、賛同をとりつけた」との証言もある。

     全国3万3000キロに及んだ巡幸は、54(昭和29)年8月、北海道の地で締めくくられる。

    11宮家が皇籍を離脱

     GHQ改革は、終戦時に14あった宮家にも及んだ。

     昭和天皇の弟に当たる秩父宮、高松宮、三笠宮の3直宮家を除く11宮家の51人が、47(昭和22)年10月に皇籍を離脱した。

     終戦直後に首相を務めた東久邇宮ひがしくにのみや稔彦が、「臣下としての責任感から臣籍降下の決意を固めた」と申し出るなど、自発的に離脱の意向を示す皇族もいた。

     これに対し、閑院宮かんいんのみや春仁が「皇族には皇族としての使命も役割もある」「(皇籍離脱は)その使命を軽んじ自ら卑下して、時勢におもねるもの」(『私の自叙伝』)と反対するなど、皇族全体としては離脱には消極的だった。

     だが、GHQは、皇族たちの扶助のため、国民が納めた多額の税金が支出されている事態を重く見て、3直宮家以外の存続を認めなかった。

     46年11月、各宮家を集めた昭和天皇は、「諸般の情勢上、三宮を除き、他の皇族は全員臣籍に降下することが妥当であるような事情に立ちいたった。まことに遺憾であるが、了承せよ」と説明。「諸般の情勢」がGHQの命令だとわかっていた閑院宮も、「陛下のおことばもある以上は、虚心に事態に従う」と思いを新たにした。

     皇族への経済的特権を認めないGHQの意向をくんで、政府は47(昭和22)年2月、皇族に対して財産税を課す。離脱する宮家には一時金が支給されたが、財産の6~8割に及ぶ高額の財産税が課され、各家とも土地や邸宅を手放してしのいだ。

     現在、各所にある「プリンスホテル」の名は、この時に売却された旧宮家の土地を活用したことに由来する。一時金をもとに新宿で乾物店を始めたり、趣味を生かしてダンス教室を開いたりと、離脱後の旧宮家は様々な人生を送る。

     昭和天皇の勧めもあってスポーツの道に進んだ竹田宮(竹田)恒徳は、日本オリンピック委員会(JOC)委員長となって64(昭和39)年の東京五輪招致に尽力。竹田宮の離脱直後に生まれた三男の恒和も父に続いてJOC会長となり、2020年の東京五輪の招致に成功している。

    「熊沢天皇」の出現

     一方で、終戦直後は自ら天皇を名乗る者が相次いだ。その先駆けとなったのが、「熊沢天皇」こと熊沢寛道だった。

     名古屋市で洋品店を営んでいた熊沢は、自らを南朝最後の天皇・後亀山天皇の子孫だと称し、「後亀山天皇は三種の神器を北朝の後小松天皇に余儀なく譲り、今日に及んでいる。後小松天皇の皇位継承は正しいものではない」などと主張。45(昭和20)年秋、自分こそが正当な皇位継承者だと文書にしたため、GHQに訴えた。

     その文書をもとに米誌が翌46年に大々的に取り上げたことを契機に、熊沢は一躍時の人に。南朝正統論者たちの後押しを受けながら全国を講演して回った。だが、国民は単なる物珍しさで騒いだだけで、昭和天皇の巡幸への熱狂などに伴って熊沢は忘れ去られていった。

     昭和史家の保阪正康の著作によると、昭和20~30年代に天皇を自称した者は熊沢を含めて19人。熊沢のように南朝の末裔まつえいと称するものが大半で、中には壇ノ浦の戦いで海に消えた安徳天皇の子孫だと名乗る者もいたが、いずれの主張も、明確な根拠は乏しかったという。 (天日隆彦、諏訪部敦、土方慎二)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140704-118-OYTPT50410

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  93. 5年後に「月面着陸」…政府が研究開発本格化へ
    2014年7月15日14時30分 読売新聞

     政府は、無人探査機による月面着陸・調査に向けた研究開発を本格化させる。

     月の地質調査などを行い、資源利用の可能性を探る計画だ。2019年度の打ち上げを目指し、文部科学省が15年度の概算要求に関連予算を盛り込む方向だ。

     人類の月探査は、米国と旧ソ連が1960~70年代に競って探査機を送り込んだ後、80年代以降は停滞していたが、近年、再び活発化している。中国は昨年12月、無人探査機「嫦娥(じょうが)3号」を打ち上げ、同国初の月面着陸に成功。インドも16~17年を目標に探査機を打ち上げる計画を進めている。月に水や鉄、核融合発電の燃料に使えるヘリウム3などの資源があることが分かっており、各国とも、将来的な資源獲得に向けて発言権を確保する狙いがある。

     今後は、〈1〉狙い定めた位置にピンポイントで降り立つ能力を持つ着陸機〈2〉くぼみの多い月面をスムーズに走行できる探査車〈3〉昼と夜が地球の時間で2週間ずつ続くため、長時間の蓄電が可能なバッテリー――などの開発が技術的な課題となる。

     宇宙航空研究開発機構(JAXAジャクサ)が、米航空宇宙局(NASA)の技術協力を受けつつ、民間企業も交えて開発を進める方針だ。

     日本は07年、大型月探査機「かぐや」で、月上空から月面の様子を詳しく観測することに成功した。その成果を踏まえ、月面着陸についても、JAXAが構想を温めていた。自民党内では、「実際に月に探査機を着陸させることは国民に夢を与える」「中国に後れを取るな」といった声も出ていた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140715-118-OYT1T50122

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  94. 発信「主体」を消し去る「政府は」ニュース…

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  95. 日中韓 円滑で環境配慮の物流実現で一致
    8月25日 16時20分

    日本と中国、韓国の物流担当の大臣会合が横浜市で開かれ、円滑な物流や環境に配慮した物流の実現に向けて、関係を強化していくことで一致しました。

    今回で5回目となる日中韓3カ国の物流担当大臣会合には、太田国土交通大臣のほか、韓国のイ・ジュヨン海洋水産部長官や中国の周海涛交通運輸部総工程師が出席しました。
    会合では、トレーラーがけん引する荷台にコンテナを積んだまま、国をまたいで輸送できる日韓の間の試験的な事業を拡大し、自動車部品の輸出入が盛んなプサンと下関に加えて、プサンと博多の間でも始めることで合意しました。
    また、3か国の主要な港で今月から始まったコンテナの位置情報などを示すネットワークの機能を強化し、対象の港を今後増やすほか、ことし4月に起きた韓国の旅客船セウォル号の沈没事故を受けて、各国で海上輸送の安全確保に取り組むことでも合意しました。
    そして、太田大臣ら3か国の代表が、円滑な物流や温室効果ガスの削減など、環境に配慮した物流の実現に向けて、関係を強化するという共同声明に署名しました。
    会合のあとの記者会見で、太田大臣は「日中韓の連携した取り組みが物流の効率化や高度化につながり、経済成長に大きく寄与すると考えている」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140825/k10014062401000.html

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  96. 特亜三国同盟という、ネオ東アジア共同体構想…

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  97. 福田元首相 日中首脳会談実現を
    8月27日 17時38分

    福田元総理大臣は講演し、先月、中国の習近平国家主席と日中関係の改善を巡って会談したことを認め、ことし11月に北京で開かれるAPEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議に合わせて、日中首脳会談を実現すべきだという考えを示しました。

    この中で、福田元総理大臣は日中関係の現状について、「欧米からは東アジアは紛争地域とみられているが、両国が戦わなければいけない状況をつくってはいけない」と指摘しました。
    そして、福田氏は「私は習近平国家主席に分かるように言ったし、習主席も異存はなく、危機感は同じようなものを持っている。習主席は日本の悪口は言っていない。習主席も日中関係を打開したい気持ちがあるから、私と会ったと思う」と述べ、先月下旬に中国を訪れて、習主席と会談したことを公の場で初めて認めました。
    そのうえで、福田氏は「日中首脳会談を行うかどうかは、両国のリーダーが考えることだが、私と同じ危機感を持っているなら、会わなければならない。秋に首脳会談ができなかったときには、かなり難しい状況になる」と述べ、11月に北京で開かれるAPECの首脳会議に合わせて、日中首脳会談を実現すべきだという考えを示しました。
    また、福田氏は今後のエネルギー政策について、「原発をやめては環境問題が解決しないし、『環境問題後進国』になってしまう」と述べ、原発を運転再開する必要があるという認識を示しました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140827/k10014130721000.html

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  98. 昔「東亜新秩序建設」、今「特亜三国同盟~東アジア共同体構想」…

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  99. クニウリセブン2号「福田康夫」(笑)。
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3+%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB

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  100. 高村副総裁 経済再生で消費税率引き上げを
    9月10日 11時49分

    自民党の高村副総裁は記者団に対し、来年10月に予定されている消費税率の10%への引き上げについて、予定どおりに引き上げる環境を整えるため、女性の活躍の推進などを行い、経済の再生に全力で取り組む必要があるという考えを示しました。

    この中で自民党の高村副総裁は、来年10月に予定されている消費税率の10%への引き上げについて、「予定どおりに引き上げないことで国債の暴落や金利の高騰につながれば、政府・日銀としても打つ手がほとんどない。また、社会保障費を借金で賄う事態が続き、少子化対策などができなくなる可能性もある」と述べました。
    そのうえで、高村氏は「消費税率を引き上げられる環境が整うことがベストだ。女性の活躍の推進や地方創生などの政策を進め、経済環境を整えるよう政府は一体となって頑張ってもらいたいし、与党としてもこうした取り組みを全力で支えていく」と述べ、消費税率を10%に引き上げる環境を整えるため、経済の再生に全力で取り組む必要があるという考えを示しました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140910/k10014487941000.html

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  101. 「売国戦隊・クニウリセブン」7号(笑)。
    http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=45126&pg=20060402

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  102. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<28>東京裁判(上)…「A級戦犯」28人起訴
    2014年9月27日3時0分 読売新聞

     1946(昭和21)年5月3日、戦前日本の政治・軍事指導者28人を被告とする極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した。以後2年半、「侵略戦争」や「戦争犯罪」などをめぐって、検察・弁護側双方の攻防が展開される。(文中敬称略)

     ◆重光、梅津を追加

     東京裁判の検事団は、米英ソ中豪など関係11か国から各1人という構成で、首席検事に、連合国軍総司令部(GHQ)の国際検察局長ジョセフ・キーナンが就任した。

     46年3月2日に各国検事らによる執行委員会が設置され、被告の選定作業が本格化。「早急な裁判開始のために被告は最大20人に絞るべきだ」という英国検事の意見も踏まえ、多数決で被告を順次決定していった。

     4月4日、いったん名前の挙げられた29人のうち、8日には、石原莞爾かんじ、真崎甚三郎、田村浩(いずれも陸軍軍人)が外れて26人に絞られた。ところが、13日に到着したソ連検事の主張により、元駐ソ大使の重光葵まもる、元陸軍参謀総長の梅津美治郎が追加される。これで「A級戦犯」被告28人が確定した。

     被告は、海軍3人に対して陸軍が15人、開戦時の東条英機内閣の閣僚は5人。全員、トップエリートたちである。

     訴追期間は、張作霖爆殺事件が起きた年の28(昭和3)年1月1日から、降伏文書調印式が行われた45(昭和20)年9月2日まで。被告に対する訴因は、第1類が「平和に対する罪」(侵略戦争や条約違反の戦争の計画、準備、開始、遂行、またはいずれかの共同謀議)、第2類「殺人」、第3類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の計55項目に達した。

     裁判所憲章に定めがなく、広範な解釈が可能な「殺人」を導入する一方、ニュルンベルク裁判でドイツのホロコーストを念頭に設けられた「人道に対する罪」を「通例の戦争犯罪」と抱き合わせるなど、検察陣の苦心がにじむ。

     ◆石原莞爾不訴追

     昭和天皇の訴追の是非も、争点だった。マッカーサー最高司令官は、46年1月までには天皇不訴追の考えを固めていた。これに対し、連合国の中で天皇訴追に積極的だったのはオーストラリアだった。しかし、4月3日、極東委員会がまとめた政策決定文書には、オーストラリアを含む各国の了解事項として、「戦犯としての起訴から天皇を免除する」との文言が入れられ、国際合意に達する。

     被告選定のボーダーライン上の重要人物として、満州事変を主導した元関東軍参謀・石原莞爾がいた。石原は当時入院中で、検察の尋問は被告選定終了までに実現せず、選定基準でいう「確実に有罪にできる証拠」を得られず起訴は見送られた。

     47(昭和22)年5月には、ニュージーランド判事のノースクロフトらが、石原が闘病中の山形県酒田市に赴いて出張証人尋問を行う一幕もあった。

     だが、当時は満州事変の真相が明確でなかったこともあり、責任は関東軍で石原より高位にあった板垣征四郎が背負う形となった。

     被告が確定していく一方で、判事団、弁護団も態勢を整えていった。46(昭和21)年2月15日、マッカーサーは連合国各国代表の裁判官9人を任命(のちインド、フィリピンから各1人を補充)した。裁判長には、オーストラリア代表判事として来日したウィリアム・ウェッブ=写真=が就任した。

     元首相の東条英機を担当した清瀬一郎ら弁護人も次々と決まった。英米法に慣れない日本人弁護人を補佐するため、米政府派遣の米国人弁護士も各被告につくことになった。

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  103. 「勝者の裁き」「文明の裁き」

     ◆「許されぬ事後法」

     46年5月3日午前11時20分、法廷用に改装された東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で、裁判が始まった。被告らは、巣鴨プリズンから米軍の大型バスで法廷入り。国家主義者の大川周明被告は初日から変調をきたし、4日、病院に送られた。

     起訴状朗読の後、6日の罪状認否では大川を除く全員が「無罪」を主張した。

     13日、弁護人の清瀬が「裁判所管轄権忌避動議」を提出し、最初のヤマ場を迎える。

     清瀬は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、日本が受諾したポツダム宣言が出された時点で国際法上認められておらず、極東裁判所にこれらの罪の管轄権はない、と強調。「事後法」で指導者個人を裁こうとする東京裁判に対する異議申し立てだった。だが、ウェッブ裁判長は「理由は将来宣告する」とした上で動議を却下した。

     この事後法の問題があった上に、東京裁判では、原爆投下など連合国側の行為は不問に付された。連合国側が一方的に敗戦国を断罪する<勝者の裁き>という議論がここに生まれる。

     6月からは検察側が立証を開始。戦争を満州事変、日中戦争、太平洋戦争などに区切って順次審理し、検察側は、いわゆる南京虐殺事件やフィリピンでの残虐行為、真珠湾攻撃などを取り上げて追及した。

     日本国民は、これらを通じて戦時下日本軍の行動や作戦の全容を初めて知ることになる。

     ◆冒頭陳述の応酬

     47(昭和22)年2月には弁護側が反証を開始し、弁護・検事団の対決の構図がはっきりする。それは、双方の冒頭陳述に象徴的に表れた。

     首席検事キーナンは、前年6月の冒頭陳述で、東京裁判は「全世界を破滅から救うため」の「文明の断固たる闘争」の始まりと宣言した。

     連合国を<文明>の側に置き、侵略戦争の犯罪性を強調した<文明の裁き>論。これは後に、独善性や欺瞞ぎまん性が批判されることになる。

     47年2月の冒頭陳述で、清瀬弁護人は、主権国家の行為に個人が責任を負うことは、国際法で認められていなかったと指摘。さらに、日米開戦は「生存のためにやむにやまれぬ事情で自衛権行使に至った」などと自衛戦争論を展開した。

     また、日本の政治システムや実態からみて、英米法特有の共同謀議(2人以上が不法行為をなそうと合意すること)は成立しないと説いた。

     もっとも、弁護側には、一枚岩となって清瀬の主張をもり立てていくことのできない弱みもあった。

     清瀬や弁護団長の鵜沢総明ふさあきらは「戦争は自衛のため」として日本を擁護する<国家弁護>の立場を取ったが、他方には、日本の侵略を認めつつ、自らはそれに反対したと主張する<個人弁護>に立つ被告、弁護人がいた。とりわけ天皇側近の木戸幸一は、終始<個人弁護>を貫き、最後まで弁護団内部の不和は解消されることがなかった。

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  104. 偽証や失言 被告対立も

     ◆皇帝溥儀が出廷

     審理には多くの証人が出廷した。46年8月16日から8日間、満州国の皇帝だった溥儀ふぎが検察側証人として出席し、「すべての者が日本に反抗心を抱いていたが、日本の非常に厳格な圧迫、圧政の下では何もすることができなかった」と日本批判を繰り返した。

     これに対し、弁護団は、溥儀が満州国建国の際、執政を引き受ける意思を示した陸相・南次郎宛ての親書を持ち出して反撃したが、溥儀は「全くの偽造」と色をなして否定した。溥儀はのちに著書『わが半生』で、親書が真筆であることを告白し、裁判での偽証を認めている。

     溥儀にとっては、親書を真筆と認めれば、当時、抑留中のソ連から身柄を中国に引き渡され、死刑になる恐れがあったためとみられている。

     一方、シベリア抑留中だった元関東軍参謀の瀬島龍三が、10月18日、検察側証人として出廷した。ソ連検事が日本陸軍の対ソ侵略の意図を裏付けようとしたのに対し、瀬島は、全体的にソ連寄りの証言をしたが、「政策関係については、私には分かりません」と踏み込んだ証言を避けた。瀬島と同じ証人としてやってきた元関東軍の将校は、東京で自決している。

     裁判を通じ、被告同士の対立も生じた。内大臣だった木戸幸一は、宣誓供述書で「私の生涯は軍国主義者と闘う事に捧ささげられて来た」と記し、自身の克明な日記を元に戦前・戦中の軍部の内幕も暴露した。市ヶ谷と巣鴨を往復するバスの中で、陸軍出身の武藤章、佐藤賢了らが「こんなウソつき野郎はいない」と木戸を面罵したという。

     元外相の東郷茂徳と元海相の嶋田繁太郎も鋭く対立した。

     東郷は対米開戦通告問題を巡り、海軍が奇襲を希望していたとの主張を展開。さらに「(嶋田が東郷と会った際)海軍が奇襲を欲していたという事を言ってくれるな……と脅迫的な事を言った」と証言した。

     激怒した嶋田は、再度証人に立ち、「心の中にやましいところがなければ、私の言った事を脅迫と取るはずがない」と批判、対米通告の遅れは「全く外務官憲の手落ち」と指弾し、泥仕合を演じた。

     ◆東条発言 波乱呼ぶ

     47年12月31日、木戸幸一の担当弁護人が、天皇の平和への希望に反する行動を木戸がとったことがあるかと質ただすと、元首相の東条英機はこう答えた。

     「そういう事例はもちろんありません。(中略)日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということは、あり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや」

     東条の失言だった。国民の行為がすべて天皇の意思なら、戦争も天皇の意思ということになるからだ。ウェッブは、「ただ今の回答がどういうことを示唆するかは、よく理解できるはず」と発言した。

     「天皇の責任は不問」とマッカーサーに指示されていたキーナンは驚き、元陸軍省兵務局長の田中隆吉らを介して裏工作に奔走した。田中は既に証人として出廷し、陸軍の同僚を指弾するなど検察側に協力していた。

     48年1月6日、東条は前年末の発言について「国民感情」を述べただけだと釈明。「天皇の御責任とは別の問題」であり、戦争を決意したのは自分の内閣であって、天皇は「しぶしぶ御同意になった」と述べた。

     東条の法廷での主張は、日本文で220枚に及ぶ宣誓供述書末尾の次の条くだりに凝縮される。

     「私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する」「敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である」

     最後にキーナンから見解を問われた東条は「(首相として)間違った事はないと考える。正しい事を実行したと思う」と述べた。(時田英之、福元竜哉、角谷志保美)

    「言語裁定官」が判定

     裁判は、主に英語と日本語の二言語で進められた。文書の読み上げは、事前に訳文を用意して同時通訳のように行われたが、法廷での生のやりとりはすべて逐次通訳だった。このため、時間がかかり、裁判長期化の一因になった。

     通訳ブースや通訳を聞くためのイヤホンなどの設備は、開廷から1か月以上たってから設置された。当時は訓練を受けたプロの通訳者はおらず、外務省職員など英語が堪能な日本人が通訳を担当した。それを誤訳がないか日系米国人2世軍属の「モニター」が確認。さらに、疑義が生じた際は、白人の米陸軍士官が「言語裁定官」として判定する、というチェック態勢が設けられた。

     一方、ソ連代表の判事は英語も日本語も分からなかったため、非公式に英語からロシア語への同時通訳も行われた。46年7月、最初の中国人証人が出廷した際は、中英通訳が手配できず、混乱が生じた。同年9月にはフランスの検事が「発言は英語で」という「約束事」を無視して仏語で発言を始め、波紋が広がった。最終的には、中国語、仏語、オランダ語、ドイツ語、ロシア語、モンゴル語の通訳が用いられた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140926-118-OYTPT50444

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  105. いつの時代もいちばん姑息で狡猾なスーパークレージーな連中がまんまと逃げおおせる…

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  106. 大川某ってのは、まるであのオウムなんちゃらの教祖みたいなペテン師だったんだな…だまされて心酔した連中が馬鹿としかいいようがない…

    いつの時代もおんなじことを繰り返してる…

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  107. 最後の皇帝「溥儀」もとんだクワセモノだったな…正直にゆって中国共産党に処刑されたら歴史に残る英雄になれたのに…

    結局「傀儡」でしかないというのはそういう品性品格だったからなのだろう…

    所詮はなんちゃって皇帝ってそんなもんなんだろうな。

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  108. 福田元首相 いがみ合うアジアから脱出を
    9月29日 0時34分

    福田元総理大臣は東京都内で開かれた日中関係に関する民間のフォーラムで講演し、「一刻も早くいがみ合うアジアから脱出すべきだ」と述べ、日中首脳会談を早期に実現し、日中関係の改善を図るべきだという考えを重ねて示しました。

    この中で福田元総理大臣は、冷え込んでいる日中関係に関連して、「日中両国は紛争地域だと言われることがあるならば、両国にとって恥ずかしいことであり、両国政府やリーダーたちが大局的、国際的な判断をして解決しなければならない」と述べました。
    そのうえで福田氏は、「私は、安倍総理大臣と習近平国家主席のリーダーシップに大きく期待している。日中両国をはじめとするアジアのリーダーたちが協力して共通の課題に対処することが重要で、何より必要なことは一刻も早くいがみ合うアジアから脱出すべきだ」と述べ、日中首脳会談を早期に実現し、日中関係の改善を図るべきだという考えを重ねて示しました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140929/k10014949611000.html

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    1. 福田元首相 「過去の話はきりがない」
      9月25日 16時16分

      福田元総理大臣は、東京都内で講演し、日本と中国や韓国との関係について、「過去の話をいつまでもしていてはきりがない」と述べたうえで、関係改善を図るため首脳会談を早期に実現すべきだという考えを重ねて示しました。

      この中で福田元総理大臣は、日本と中国や韓国との関係について、「歴史的な問題をどうだこうだと議論して、過去の話をいつまでもしていてはきりがなく、今のままでは前進がない。この状況を一刻も早く解消するため、過去のことは誰かに任せ、政治のリーダーは、前を向いてしっかり歩こうと合意すべきだ」と述べました。
      そのうえで福田氏は、「中国や韓国と、外から見て夫婦げんかのような状態になっていることを恥としなければならない。今の総理大臣は、積極的に平和外交を進めると言っており、首脳どうしが会って握手するということを、世界に一刻も早く示してもらいたい。実際に会うかどうか分からないが、会えば必ずやいい結果が出て、世界中がほっとするだろう」と述べ、日中・日韓関係の改善をはかるため、首脳会談を早期に実現すべきだという考えを重ねて示しました。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140925/k10014870571000.html

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  109. 旧満州引き揚げの記憶を語り継ぐ
    11月2日 15時01分

    終戦直後まで中国の旧満州で暮らし、その後日本に引き揚げた人たちの体験を語り継ごうという講演会が、一橋大学の若手研究者らのグループの主催で東京・国立市で開かれ、体験者が敗戦時の混乱などについて証言しました。

    この講演会は、中国東北部の旧満州から引き揚げた人たちの証言や記録を集めようと、去年研究会を立ち上げた一橋大学の若手研究者や学生のグループが開きました。
    大学の教室には学生からお年寄りまで150人ほどが集まり、終戦直後に旧満州から引き揚げた体験者2人が招かれ、敗戦時の混乱などについて証言しました。
    このうち、当時小学生だった池田雅躬さん(78)は、ソ連兵の侵攻で略奪に遭い恐怖を感じたことや、日本に引き揚げるための貨物船が多くの人で混乱した様子などを語りました。
    会場を訪れた女子大学生は、「敗戦と同時に暮らしが一変する怖さを感じた」と話していました。
    戦後70年を前に戦争を体験した人たちの高齢化が年々進み、2日は体調を崩し講演会に出席できなくなった体験者もいて、事前に撮影したインタビューの映像が流されていました。
    研究会では今後、体験者の証言集を作成することにしていて、講演会を企画した一橋大学の大学院生、菅野智博さんは「体験者の高齢化で資料が失われるケースもあり、話が聞けるうちに証言を集め、後世に残したい」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141102/k10015890491000.html

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  110. 「五族協和」「八紘一宇」理念の負の遺産…

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  111. 持続可能な財政構造を=消費再増税延期で―黒田日銀総裁
    時事通信 11月19日(水)17時0分配信

     日銀の黒田東彦総裁は19日の記者会見で、安倍晋三首相が消費税率10%への再引き上げの延期を発表したことに関連し「持続可能な財政構造を確立するための(政府の)取り組みが進むことを期待している」と語った。「財政規律を保つことが極めて重要」とも強調した。
     黒田総裁はまた、再増税先送りによる悪影響について「無視できるほど小さいとは思わないが、(リスクが現実になる)確率は非常に低い」と指摘した。 
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141119-00000103-jij-bus_all
    http://news.yahoo.co.jp/pickup/6139177

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  112. 松本健一さん死去、68歳…近代日本精神史評論
    2014年11月28日19時45分 読売新聞

     近代の日本やアジアを大きな視点で捉え、政治から思想、宗教まで幅広く論じた評論家で麗沢大教授の松本健一(まつもと・けんいち)さんが27日午前11時40分、がんのため死去した。

     68歳。葬儀は家族で済ませた。年明けにお別れ会を開く予定。喪主は妻、久美子さん。

     群馬県生まれ。東大卒。法政大大学院に在学中、「若き北一輝」を刊行して一躍注目を集めた。穏健な保守の論客として知られ、近代日本精神史やアジア文化論を中心に、評論や評伝などを多数刊行。「昭和維新」の可能性を問い直した「評伝 北一輝」(2004年、毎日出版文化賞)や、黒船来航時、ペリーが日本人に掲げさせるために白旗を持参したという伝説を論じた「白旗伝説」(1995年)が話題を集めた。明治維新を第一の開国、第2次世界大戦敗戦を第二の開国と捉え、現代を「第三の開国」の時代だとして日本の改革を訴えた。

     2005年に司馬遼太郎賞。他の著書に「近代アジア精神史の試み」「日本の近代1 開国・維新」など。仙谷由人元官房長官と大学時代の友人で、10年から菅内閣の内閣官房参与を務めた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20141128-118-OYT1T50113

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  113. [昭和時代]第4部 敗戦・占領・独立<40>国鉄3事件 今も晴れぬ「黒い霧」
    2015年1月10日3時0分 読売新聞

     1949(昭和24)年の夏、国鉄(現在のJR)に絡む怪事件が相次いだ。時あたかも、国鉄の大量人員整理を巡って労使が対立。その一方、共産党系の労働運動に対する米占領軍の姿勢は、冷戦を背景に厳しさを増していた。不穏な時代の空気に覆われた3事件の真相は、いまだ解明されていない。(文中敬称略)

    下山、三鷹、松川

     1949(昭和24)年7月6日午前0時25分、東京都足立区の国鉄常磐線の線路上で、バラバラの轢断れきだん死体が見つかった。身元は、国鉄総裁・下山定則さだのり=人物抄=。前日から行方不明になっていた。

     運転手によると、下山は総裁邸を出た後、国鉄本庁には直行せず、自分名義の貸金庫がある銀行に立ち寄ってから、車を日本橋三越本店に向かわせた。5日午前9時半頃、「結婚の贈り物をするから5分ばかり待て」と言って三越店内に消え、そのまま出てこなかった。

     運転手は本庁には連絡せずに夕方までじっと待ち続け、下山の消息不明を伝えるラジオのニュースを聞いて驚いたという。姿を見せない総裁を案じ、国鉄が捜索願を出したのだ。そして翌日未明。下山は国鉄車両に轢ひかれた形で見つかった。「下山事件」である。

     国鉄を舞台とする不可解な事件は、これに止とどまらなかった。

     下山の失踪から10日後の7月15日夜、東京都三鷹市の国鉄三鷹駅構内で、考えられない惨事が起こった。停車していた無人電車が突然、暴走し、改札口や精算所を突き破って駅前の運送店に突っ込んだ。死者は6人、負傷者は20人に上った。

     この「三鷹事件」から1か月後の8月17日未明、今度は福島県の東北本線金谷川~松川駅間で旅客列車が脱線・転覆し、乗務員3人が死亡した。レールの継ぎ目板やボルト、レールを固定する犬くぎが抜き取られており、明らかに計画的、組織的な犯行だった。最寄り駅が松川駅だったため、「松川事件」と呼ばれた。

    人員整理に直面

     三つの事件が起きた49(昭和24)年、日本は「ドッジ旋風」の真っただ中にあった。第3次吉田内閣は公務員と公共企業体の職員計約16万人を整理すると発表。このうち9万5000人は国鉄における解雇だった。

     運輸省鉄道局が管理していた国鉄は、旧満鉄職員などを受け入れた結果、職員数が戦前の3倍にあたる60万人に膨らみ、赤字体質に陥っていた。

     このため、6月1日からは独立採算制の公共企業体として再スタートし、組織改革を図っていた。

     公社化した国鉄の初代総裁に就いたのが下山だった。新総裁の人事は難航し、運輸次官の下山にお鉢が回った。だが、技術畑一筋の下山には、荷が重いとみられていた。

     下山を待ち受けていたのは、連日の対労組交渉だった。主な相手となる国鉄労組は共産党が主導していた。年初の衆院選で同党は35議席へと躍進し、幹部の徳田球一、野坂参三らは「9月までに吉田内閣を打倒、人民政府を樹立する」とまで公言していた。

     これに対して連合国軍総司令部(GHQ)は、人員整理を進める中で労組のリーダーを排除し、ソ連の影響下にある共産党や、その指導を受ける労働運動の力を弱めようとした。

     総裁就任から1か月。7月2日の組合との交渉で、下山は人員整理の「断固実施」を宣告、4日午後から人員整理の言い渡しを始めた。その翌日に下山は失踪したのである。

    謎は深まり迷宮入り

    他殺か、自殺か

     下山事件は、警視庁の捜査が進むにつれ、ますますミステリーの色を深めていった。

     遺体の解剖所見は、「死後轢断」――つまり、死体の状態で轢かれたというのだ。生前に暴行を受けたと思われる皮下出血が局部などにあった。

     東大法医学教室で解剖に立ち会った主任教授の古畑ふるはた種基たねもとらは、「局部を強打されたショック死」と推定。自殺を偽装した他殺の疑いが浮上した。

     人員整理に反対する労働組合がまず疑われた。国鉄労組の東京支部には「下山が交通事故で死んだ」との怪電話があったが、事件とは結びつかなかった。

     一方では、下山が1人でいるところを見た、という証言が相次ぐ。

     現場に近い東武鉄道・五反野駅の駅員が5日午後1時40分過ぎ、一人の男から「この辺りに旅館はないか」と尋ねられた。そして、駅員が教えた旅館の女将おかみの証言が極めて明確なものだった。

     午後2時頃に昼寝をしに来たという男の服装は下山の失踪時と同じ。靴べらを使わずに3~4分かけて靴を履くという癖も下山と合致した。刑事が見せた写真に、女将は「この人に違いない」と答えた。

     男が下山なら、誘拐されて殺されたとは考えにくい。だが、解剖所見は他殺を指している。自殺か、他殺か。新聞も「毎日」が自殺説、「読売」「朝日」は他殺説と分かれた。

    捜査本部は「自殺」

     捜査本部はあくまで自殺での収拾を図っていた。原因と見たのは神経衰弱だ。失踪前の7月3日未明、国鉄を所管するGHQ民間運輸局の担当官が突然、下山宅を訪れてピストルをさすりながら「早く(人員整理を)やれ」と叱りつけている。

     所持品からは睡眠薬も見つかった。「初老期うつ憂症」だったとの意見書も捜査本部に届けられた。

     7月28日夜には、下山と同じ重さの砂人形を人力で現場に運ぶ実験が行われたが、人目に付かずに遺体を線路に運び込むのは不可能、と捜査本部は結論づけた。他殺説の根拠である「局部の皮下出血」なども、自ら列車に飛び込んで死亡した場合でも起こるという別の鑑定も出た。

     ただ、自殺で説明がつかない事実も数々あった。近視の下山が片時も手放さなかった眼鏡が、現場で見つかっていない。轢断現場付近には17人もの目撃者がいたが、旅館の女将の証言以外は明瞭でなかった。三越周辺では「2~3人の連れがいた」と誘拐を示唆する目撃もあった。

     捜査が膠着こうちゃくする中、50(昭和25)年1月には、月刊誌が「捜査報告書(通称・下山事件白書)を入手」し、「警視庁は自殺と結論づけた」と報じた。

     2月の衆院予算委員会で、白書の真偽を問われた警視庁刑事部長は「捜査記録とは違うものだ」と否定。一方で田中栄一警視総監は、「仮に機密事項が漏洩ろうえいしていたとすれば問題だ」と含みのある答弁をした。

     その後も他殺説が相次ぎ、事件は不可解さを増しながら迷宮に入った。

    「単独犯」は獄死

     三鷹事件では、警察は事件の1か月ほど前のストで国鉄を懲戒免職となった共産党員たちを次々に逮捕し、10人を起訴した。捜査当局は、国鉄の荒廃ぶりを宣伝するため犯行に及んだとして、強引に調べを進めた。

     ところが、50年8月の1審判決で有罪となったのは1人。それは逮捕者の中で唯一、共産党員ではない男だった。彼は罪状認否で「私が単独でやったことです」と言い切っていた。

     だが、男の主張は二転三転する。2審の東京高裁で、量刑を1審の無期懲役から死刑に変更されると、潔白を訴え、共産党系弁護士の口車に引きずり込まれたとも主張した。「共同謀議となると死刑の危険があるが、非党員の発作的単独犯行ならば10年くらいの刑で済む」といった弁護士の暗示にかかったのだという。

     最高裁で死刑が確定した男は67(昭和42)年1月18日、脳腫瘍のため45歳で獄死した。

    戦後最大の冤罪事件

     松川事件も、福島県内が共産党絡みの事件で騒然としているさなかに起こった。東芝松川工場の労組が人員整理反対ストを構えており、警察は国鉄・東芝両労組員による共謀によるものとにらんだ。

     まず、共産党員ではない元線路工の少年(当時19歳)を別件で逮捕。執拗しつような調べに少年は「前日に転覆が起きることを知っていた」とウソの自白をした。

     これを端緒に芋づる式に容疑者が逮捕され、計20人を起訴。法廷では全員が無実を訴えたが、福島地裁判決は全員有罪(死刑5人)。2審の仙台高裁も17人を有罪(死刑4人)とした。

     しかし最高裁の審理で、被告のアリバイを示すメモを検察が隠していたことが判明。61(昭和36)年8月、全員が逆転無罪となった。戦後最大の冤罪えんざい事件とされている。

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  114. GHQによる謀略説

    「思想的潮流は同じ」

     下山事件の真相は不明でも、国鉄労組やこれを支援する共産党に対する国民の目は、厳しいものになった。他殺とすれば、首切りを恨む組合員の犯行ではないかと推理され、自殺とすれば、組合の突き上げが総裁を追いつめた、と囁ささやかれた。

     三鷹事件の翌日、首相の吉田茂が、「あらゆる機会をとらえて大衆をかりたてて暴力行為に出いでしめんとするのが彼らの常用手段である」と声明を出した。

     松川事件でも、官房長官・増田甲子七かねしちは発生翌日、「三鷹事件をはじめ、その他の各種の事件と思想的潮流において同じだ」との談話を発表、共産党関与の見方を広めようとした。

     事件の陰で国鉄は、困難が予想された人員整理をあっさり完了した。ストを構えていた国鉄労組は腰砕けとなり、危機的な状況にあった労使の対立は、下山の怪死により回避される。逆に、共産党は大きな打撃を受けることになった。

    作家・松本清張の推理

     3事件から11年後の60(昭和35)年、一連の出来事の背後にGHQの暗躍があったのではないかとする推理が、月刊「文藝春秋」に連載された。

     作家・松本清張=写真=の「日本の黒い霧」。占領下ではタブーとされたGHQの水面下の動きと、暗部に迫る大胆な推論は話題を集め、「黒い霧」は流行語にもなった。

     「下山国鉄総裁謀殺論」に始まり、「白鳥事件」「ラストヴォロフ事件」など計12のテーマを扱ったこの連載は、小説ではなく、捜査関係資料や取材によって得た材料を駆使、占領下日本の謎に迫った。

     下山事件で清張は、自殺説の不可解な点を次々に挙げたうえで、目撃された総裁は替え玉だったと推論。総裁は、日本の警察権の及ばない占領軍の関係施設に監禁され、殺害された後に轢断されたと推理した。

     共産党勢力の拡大を心配するGHQの参謀第2部(G2)と関係する何らかの謀略機関が、国鉄関係の極左分子の犯行と思わせる事件を起こしたのではないか、というものだった。

     清張がGHQの謀略に注目したのは、その前年に書いた「小説・帝銀事件」の執筆がきっかけだった。この事件で、毒物の入手ルートが特定されないまま死刑判決が出た背後に、細菌戦を研究していた旧陸軍731部隊関係者と、その情報を欲しがったGHQとの間で裏取引があったのでは……。これが清張の推理だった。

     これに対し、作家の大岡昇平は、「悪党共を飽くことなく摘発した努力」を認めながらも、「朝鮮戦争前夜の日本に頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関の陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対する反抗という気分」で書かれた「ロマンチックな推理」と批判した。

     その後に明らかになった事実は、清張の推理を否定するものもある。清張自身も、〈推理は推理、真実の追求は別でなければならない〉と記し、究明を続けた。後に学者の南原繁、団藤重光らと下山事件研究会を発足させ、『資料・下山事件』を出している。

     だが結局、真実は今なお藪やぶの中にあり、「黒い霧」は晴れていない。

     (鵜飼哲夫、保高芳昭、植松邦明、石橋宰)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150109-118-OYTPT50344

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  115. 日中韓の外務次官級協議 11日開催へ
    3月5日 21時15分

    日本、中国、韓国の3か国の外務次官級の協議が来週11日に韓国のソウルで開かれることになり、今月下旬に予定されている3か国の外相会議で取り上げる議題などについて詰めの協議が行われる見通しです。
    外務省は5日、日本、中国、韓国の3か国の外務次官級の協議を来週11日にソウルで開くと発表しました。
    3か国の外務次官級の協議は去年9月に行われて以来で、日本から杉山外務審議官、中国から劉振民外務次官、韓国から外務省のイ・ギョンス(李京秀)次官補が出席する予定です。
    協議では、経済分野での協力の在り方など、今月下旬に予定されている日中韓3か国の外相会議で取り上げる議題について、詰めの協議が行われる見通しで、日本としては、3か国の首脳による「日中韓サミット」の実現に向けた調整も行いたい考えです。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150305/k10010005171000.html

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  116. 日中韓の観光交流拡大を 4年ぶり担当相会合

     日本、中国、韓国の観光担当相会合が11日、東京都内で2日間の日程で始まった。中韓との関係改善の機運を背景に、2011年5月以来ほぼ4年ぶりの開催で7回目となった。旅行客の相互交流拡大が主要議題で、12日午前に3カ国会合を開き、具体策を盛り込んだ共同声明を発表する。

     太田昭宏国土交通相は11日、中国国家観光局の李金早局長との会談で、中国からの訪日客急増に触れ「日本は盛り上がっている。食べ物や買い物を楽しんでもらえるように努力したい」と述べた。一方で、減少が続く中国への日本人客の回復に努める考えを示した。

    2015/04/11 21:32 【共同通信】
    http://www.47news.jp/CN/201504/CN2015041101001793.html

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    1. 日中韓、4年ぶりに大臣会合…観光客増に協力
      2015年4月11日21時34分

       日本と中国、韓国3か国の観光大臣会合が11日、東京都内で開幕した。

       2006年から11年まで毎年行われてきたが、尖閣諸島や竹島を巡る日中、日韓の関係悪化などで中断し、4年ぶりの開催となった。

       初日は日中、日韓、中韓の観光担当大臣が、それぞれ2か国会談に臨んだ。太田国土交通相は、中国の李金早・国家観光局長との会談で「日中韓が一緒に欧米などから人を呼び込むことが大事だ」と述べ、両国の観光面での協力で一致した。

       韓国の金鍾徳・文化体育観光相との会談では、2018年の平昌(ピョンチャン)冬季五輪、20年の東京五輪・パラリンピックへ向け、観光振興のための共同事業を行うことで合意した。

       最終日の12日には3か国が協力して観光客を増やすことなどを盛り込んだ共同声明を採択し、閉幕する。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150411-118-OYT1T50127

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  117. 水資源活用で協力 日中韓が共同宣言
    4月13日 22時06分

    日本、中国、韓国の3か国は、水問題を担当する閣僚級による3年ぶりの会合を韓国で開催し、洪水などの災害の防止や水資源の有効な活用のために政策など情報を共有し、発展途上国にも広めていくことなどで合意して、共同宣言を発表しました。

    3年ぶりとなる日中韓3か国の水問題担当の閣僚級会合は13日、韓国南部キョンジュ(慶州)で開かれ、太田国土交通大臣のほか、中国の矯勇水利省次官と韓国のユ・イルホ(柳一鎬)国土交通相が出席しました。
    会合では、各国が重点的に取り組んでいる政策について、日本が、雨や地下水の利用などを通して水を効率的に循環させるための取り組みを紹介したほか、中国は、国が企業などの水の総使用量を管理する取り組みを、韓国は、水を管理するため情報通信技術を活用する政策を紹介しました。
    そのうえで3か国は、大雨や洪水などによる災害の防止や水資源の有効な活用のために、各国の政策や成果を共有するとともに、発展途上国にも広め、世界全体の水問題の解決に協力して貢献することなどで合意し、太田大臣らが共同宣言に署名しました。
    このあと太田大臣は、韓国のユ国土交通相と2か国の会合も行い、水分野に限らず都市の開発や老朽化対策などについても意見を交換し、さらに協力を進めていくことで一致しました。

    「3か国での意見交換 意義があった」

    会合のあと太田国土交通大臣は記者団に対し、「水を巡り、日中韓3か国は置かれている状況が違うがゆえに、問題解決のため工夫している面があり、互いに参考になる。3か国で意見交換できたのは意義があった」と述べて評価しました。
    一方、韓国との関係については、「ユ国土交通相と率直な意見交換ができた。国土交通の分野で、両国はすでに実務レベルの協力が進んでおり、より強固にしていきたい。それがすべてに渡っていい影響を与えると思う」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150413/k10010047221000.html

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  118. 昔「ブレーン・トラスト」今「科学顧問団」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A7%91%E5%AD%A6%E9%A1%A7%E5%95%8F%E5%9B%A3+%E3%81%A4%E3%82%8C%E3%81%A5%E3%82%8C%E3%81%99%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%A3%E3%81%B7

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    1. “外相のもとに科学技術顧問設置を”
      5月11日 4時58分

      外務省の有識者会議は、地球環境や宇宙分野など、科学的な専門知識を助言する学識経験者を、新たに「科学技術顧問」として、外務大臣のもとに設置することなどを提言する報告書を取りまとめました。

      外務省は、日本が得意とする科学技術を積極的に外交に活用しようと、去年、有識者会議を設置し、有識者会議は、先週、具体的な提言を盛り込んだ報告書を取りまとめました。
      それによりますと、地球環境や宇宙分野など、科学的な専門知識が求められる国際会議が増えていることから、こうした分野での助言を行う学識経験者を、新たに「科学技術顧問」として、外務大臣のもとに設置すべきだとしています。
      また、総理大臣や外務大臣の政策スピーチなどに、科学技術の最新の知見を反映できるよう、関係省庁や専門家、産業界などとの連携を強化することや、科学技術に詳しい職員を、在外公館に多く配置できるよう、職員への研修を拡充すべきだとしています。
      外務省は、可能なものから実施したいとして、今後、検討を進めることにしています。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150511/k10010075211000.html

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  119. 首相「歴史に残る五輪へ開催準備に万全を」
    6月26日 15時59分

    安倍総理大臣は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催準備にあたるため設置された推進本部の事務局の職員に訓示し、「歴史に残るオリンピックにするために、全力を尽くしていきたい」と述べ、開催準備に万全を尽くすよう指示しました。

    政府は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けて、安倍総理大臣を本部長に、すべての閣僚が参加する「東京オリンピック・パラリンピック競技大会推進本部」を設置し、安倍総理大臣は内閣府で、25日に就任した遠藤オリンピック・パラリンピック担当大臣とともに、事務局の看板掛けを行いました。
    このあと安倍総理大臣は、事務局の職員60人余りに訓示し「歴史に残るオリンピックにするために、事務局の皆さんとともに、一丸となって全力を尽くしていきたい。『もう5年しかない』という気持ちで、全力を尽くしてほしい」と述べ、遠藤大臣を中心に開催準備に万全を尽くすよう指示しました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150626/k10010128761000.html

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  120. 「京都が1位で日本全体の評価高まる」
    7月8日 11時24分

    京都市が「世界の魅力的な都市」のランキングで2年連続で1位に選ばれたことを受けて、観光庁長官と京都市長が8日、国土交通省で記者会見しました。

    この中で、久保成人長官は、「日本の顔として京都市が1位になったことで日本全体の評価も高まっていく。京都を訪れた人がそれ以外の町の魅力も発見してもらえるような人の流れを政策的に作り、オールジャパンが観光で評価されるようにしていきたい」と述べました。
    また、京都市の門川大作市長は、「今回は、食事、風景などで高い評価を得たと聞いている。その都市にしかない歴史や文化、人の力に磨きをかけるのが大事だと実感している。観光で安定した雇用が創出され伝統産業が元気になることが大事なので、市民と一緒に努力していきたい」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150708/k10010143041000.html

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    1. 京都市2年連続1位「世界の魅力的な都市」
      7月8日 5時49分

      世界的な影響力があるとされるアメリカの大手旅行雑誌が選ぶ、「世界の魅力的な都市」のことしのランキングで、京都市が去年に続き2年連続で1位に選ばれました。

      アメリカの大手旅行雑誌「TRAVEL+LEISURE」は、発行部数およそ100万部の月刊誌です。アメリカの富裕層が主な読者ですが、世界的に影響力があるとされています。毎年この時期に、読者からの投票で選ばれた「世界の魅力的な都市」を10位までランキングで発表しています。
      7日に発表されたことしのランキングでは、去年に引き続き、京都市が2年連続で1位に選ばれました。その理由について、雑誌のホームページでは「京都は1000年以上の間、天皇が住む都で、京都御所など皇室の歴史が残っている。市内には寺院や神社が2000か所以上も散在している」などと評価しています。
      2位には、アメリカ、サウスカロライナ州で最古の都市チャールストン、3位に世界遺産のアンコールワット遺跡があるカンボジアのシェムリアップ、4位にはイタリアのフィレンツェ、5位はローマとなっています。
      ことしのランキングは、「文化・芸術」や「レストラン・食べ物」など、6つの項目の総合評価で判断されました。
      観光庁によりますと、この雑誌は海外からの観光客の動向に大きな影響を与えるとされ、今回、2年連続で1位に選ばれたことで、京都市が日本への観光のけん引役になることが期待されます。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150708/k10010142671000.html

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    2. なにげに自作自演っぽいな…

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    3. 世界の観光地ランク、京都が2年連続1位…米誌
      2015年07月08日 14時20分

      【ニューヨーク=水野哲也】世界的な影響力を持つとされる米国の観光雑誌「トラベル・アンド・レジャー」が選ぶ世界の人気観光地ランキングが7日に発表され、京都市が2年連続で1位となった。

       同誌は北米を中心に売れている月刊誌で、特に富裕層に購読者が多いという。ランキングは読者投票によるもので、2位は米サウスカロライナ州チャールストン、3位は世界遺産のアンコールワットがあるカンボジア・シエムレアプだった。

       京都は、京都御所など皇室に関する歴史的名所のほか、多数の神社、寺、旅館や伝統料理など観光資源の豊富さが評価された。
      http://www.yomiuri.co.jp/national/20150708-OYT1T50124.html

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    4. >世界的な影響力を持つとされる米国の観光雑誌「トラベル・アンド・レジャー」…

      世界的な影響力を持つとされる英国の科学雑誌「ネイチャー」(笑)。

      と、理研CDB「STAP細胞」インチキ医科様創作捏造論文…

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  121. [戦後70年 あの夏]<1>引き揚げ 本当の戦い…作家 五木寛之さん 82
    2015年8月1日3時0分

     広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦、そして終戦の玉音放送……。70年前、未曽有の惨状にあって人々はどう行動し、何を考えたのか。「あの夏」を語ってもらう。

           ◇

     私が生まれてすぐ、一家は朝鮮半島に渡りました。教師だった父母が新天地を求め、植民地だった半島の学校に赴任したのです。

     子供の頃から「ぼくは軍人大好きよ」など時局の歌を好んで歌い、終戦の年は平壌ピョンヤンの中学1年生。夢は戦闘機乗りになることで、夜になると布団の中で「敵の空母に突っ込む直前になって逃げはしないだろうか」と自問自答し、「最後は目をつむってまっすぐに急降下しよう」と心に決めていました。

     広島・長崎の原爆投下も大きなニュースにはならず、8月9日に侵攻したソ連軍が燎原りょうげんの火のごとく迫っている事実も知りませんでした。終戦の前日、父親が「明日重大発表があり、ソ連が日本と同盟して、米英に宣戦布告するらしい。これでもう大丈夫だ」と話していたぐらいで、負けるとは思っていませんでした。

     15日の終戦の詔書「玉音放送」は校庭で聞きました。この先どうなるのか、予想はつきませんでしたが、「治安は維持される。軽挙妄動を慎め。市民は現住所にとどまれ」というラジオ放送を信じ、上からの次の指示を待っているだけでした。

     軍上層部や官僚、財閥と家族が真っ先に、列車や飛行機で内地に向かっていたことを知ったのは、戦後もだいぶたってからです。

     しばらくすると満州(現中国東北部)からの難民が、平壌にも押し寄せて来ました。女性は暴行されないよう顔を墨で塗り、頭を丸坊主にしている。「あの人たち、かわいそうだな」と思いましたが、間もなく自分も同じ立場になるとは夢にも思いませんでした。8月下旬だったか、ソ連兵に踏み込まれ、私の家は接収されました。「情報難民」だった私たち家族は、本当の難民となったのです。

     そして、生き残るための新しい戦争、引き揚げが始まりました。〈特集面に続く〉
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150801-118-OYTPT50218

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    1. [戦後70年 あの夏]生きて帰った僕は「悪人」 作家 五木寛之さん 82
      2015年8月1日3時0分

       いつき・ひろゆき 作家。1932年福岡県生まれ。早稲田大学露文科中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞。主な小説に『青春の門』『戒厳令の夜』『親鸞』。『風に吹かれて』『大河の一滴』などエッセーも多い。

       お上に盲従 最大の後悔

       (1面の続き)

       戦争体験の継承というけれど、本当に痛みを体験した人は「放っておいてくれ」と思うものです。僕自身、8月下旬だったか、ソ連兵が家に来て、銃を突きつけ、家財を略奪していった日のことはほとんど書いていないんですよ。エッセーでちょっとふれたぐらいで。

       翌日には家を接収され、ひと月ほど前から体調を崩して寝ていた母親をリヤカーに乗せ、幼い妹を背負い、弟の手を引いて、雨露しのげるところを探しました。母親は混乱の中、9月に亡くなりました。

       皇道哲学者でもあった父は、愛妻を亡くし、精神的拠より所も教育界での立身出世の道も全部失い、茫然ぼうぜん自失の状態でした。長男だった僕はソ連軍の宿舎に行き、片言のロシア語で「ラボタ。ダヴァイ(仕事ください)」と叫んだ。まき割りや靴磨きなど雑用をこなし、パンや肉のかけらなどをもらって生き延びました。

       シラミが媒介する発疹チフスがはやり、バタバタ人が死んでいった。冬は零下何十度の極寒。子供だけでも助けたいと、現地の朝鮮人に子供を預け、あるいは売り渡す人もいました。

       収容施設にソ連兵が来て、「女を出せ」ということも多く、結局、水商売風の人が押し出されるようにして連れていかれました。一番こたえたのは、女性がボロ雑巾のようになって帰って来た時、近くにいたある母親が子供に「あの人には近づくんじゃないよ。病気を持っているかもしれない」と叱っていたのを目にしたことです。

       本来ならば土下座して感謝すべきなのでしょうが、あの時は非常事態でしたから、みんな何を見ても無感動で、おかしくなっていたんです。極限状況でも人間性を失わずにいた人の手記を読むと感動するけれど、そうではない現実もあった。

       2回目の冬は越せないと覚悟を決め、終戦翌年の秋頃だったか、平壌ピョンヤンを脱出し、川を渡り、38度線を越え、米軍の難民収容キャンプにたどり着きました。

       「お先にどうぞ」と言っている人は帰ってこられなかった。トラックに最初に乗り込んだ人たちが、後から乗ろうとする人を蹴落とすような日常でした。

       「飢えた子どもの顔は見たくない」と言いますが、収容所でジャガイモをもらい、妹と分けようと思ったら、大人に横取りされたこともあった。「飢えた大人の顔は見たくない」。つくづく思いましたね。

       「善き者は逝く」。だから、僕は、帰って来た自分を「悪人」だと思っている。

       戦後、「さらばモスクワ愚連隊」をはじめエンターテインメント小説を書くようになったのも、当時の体験が影響しているのでしょう。自分はまともな人間ではない。だから、古賀政男の「影を慕いて」の歌詞じゃないけれど、〈せめて傷心いたみのなぐさめに〉に徹して、娯楽を大切に、なぐさめを大事にしてきました。

       戦後70年の今、一番の反省点は、ラジオや新聞の情報、噂うわさ話を漠然と聞きながら、上からの指示を待っていた自分の怠惰さです。

       かつては真実を知らされなかったことにムッとし、自分たちは国に棄すてられた、という意識で「冗談じゃない」と恨んだこともあります。しかし、今は、真剣に事実、真実を知ろうとする執念に欠けていたことを反省しています。父親は師範学校に勤めていて、官舎は空港のすぐ横にありましたから、終戦詔書の前に、飛行場を観察すれば、高級将校らの引き揚げの動きを察知できたはず。当時はまだ列車が動いていましたから、体一つで脱出すれば、あんな目に遭うこともなかった。

       子供の頃から戦意高揚の歌に熱狂し、「神州不滅」を信じていたように、戦前・戦中の教育などで、お上の言い分に盲従する習慣にどっぷりつかっていた。それが「情報難民」を生みました。戦前も戦争も1日にして成らず、それが昭和ヒトケタ派の実感です。

       いつの時代も情報は隠されるものです。だからこそ自分たちで隠されたものを探り当てる熱気がないと、生きていけない。戦争の教訓はそれにつきます。

       (聞き手 編集委員 鵜飼哲夫、撮影 鈴木竜三)

       ◆神州不滅=戦争中は「欲しがりません勝つまでは」や「鬼畜米英」、「撃ちてし止(や)まむ」など様々なスローガンが叫ばれ、国民は戦争に動員された。神の国である日本は不滅とする「神州不滅」もその一つで、「神州不滅の信念の下、敵を粉砕せん」などの記事が新聞に載った。

       「北」ソ連兵の恐怖 運命分けた38度線

       「一人ひとり戦争体験は百人百様だった」と五木さんが語るように、「戦争の体験は、個人にとっては絶対に取り換えることのできないものだが、それは一億国民いればみんな違った」。

       五木さんは先日、ある人が「自分の父親は、戦争は負ける、と早くから言っていた」と話すのを聞き、自分とは全く違う育ち方をした「少国民」(皇国民教育を受けた学童)もいたことを改めて痛感したという。

       戦争が終わった時、外地には、軍人・軍属と民間人が約660万人(厚生省監修『援護五十年史』)いたが、日本への復員・引き揚げの状況も、米軍管理下の地域だったか、それとも1945年8月9日未明に日ソ中立条約を破り、満州(現中国東北部)に侵攻したソ連軍の管理下かによって、運命は大きく分かれた。

       北緯38度線で南北に管理区域が分かれた朝鮮半島でも、米軍の進駐した「南」での引き揚げは、45年10月に本格化し、46年春までに邦人は大半が引き揚げた。

       これに対して五木さんがいた「北」では、在留邦人と満州から逃れてきた日本人が、侵攻したソ連軍兵士による略奪と暴行の恐怖にさらされ、軍人はシベリアに抑留された。(鵜飼)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150731-118-OYTPT50457

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    2. [戦後70年 明日へ]ソフトパワーで国際交流 社会学者 古市憲寿さん 30
      2015年8月1日3時0分

       戦後約70年、平和が続く日本で、安全保障法制が変わると、すぐに大規模な戦争が起きると考えるのは杞憂きゆうだ。「戦前も戦争も1日にして成らず」と先日、五木寛之さんから対談(「中央公論」9月号掲載、8月7日発売)で聞いたが、その通りと思う。

       しかし、五木さんの生まれた年、青年将校が決起した5・15事件の背景に貧困と格差があったように、イスラム過激派組織「イスラム国」の問題もヘイトスピーチも、職のないことが好戦的気分を生んでいる。豊かで安定した社会の実現、漫画・アニメ、音楽などソフトパワーで国際交流することが大切だ。

       若い人は、戦争を知らない世代だからこそ生まれる平和の思想や歴史をつくっていける。そこに希望がある。

       小型無人機「ドローン」の事件やサイバー戦、テロなど「新しい戦争」の脅威が迫っている。それは国家が総力戦で戦った先の戦争とは質が異なる。「古い戦争」の記憶に呪縛じゅばくされない「新しい戦争」への想像力が試されている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150731-118-OYTPT50444

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    3. 「「新しい戦争」への想像力」(笑)。

      語るのはたやすいが、実践が伴わない者のコトバとは…

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  122. 清水 潔『騙されてたまるか―調査報道の裏側―』
    清水 潔/真偽を見抜く力
    http://www.shinchosha.co.jp/nami/backnumber/20150728/

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  123. [戦後70年 あの夏]<10>占領前 文書焼却を指示 元法相 奥野誠亮さん 102
    2015年8月10日3時0分

     「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

     そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

     ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基げんきさんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗しつように迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。

     官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。

     もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

     会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

     問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150810-118-OYTPT50163

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    1. [戦後70年 あの夏]役所一転「上司」はGHQ 占領下の日本 改めて実感 元法相 奥野誠亮さん 102
      2015年8月10日3時0分

       1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷しょうい弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。

       あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。

       5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕ごうへ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。

       焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。

       翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。

       4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。

       「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」

       それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府の官制原案を書いた。

       6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。

       7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。

       15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音ぎょくおん放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾これちか陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。

       15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

       玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城きゅうじょうの前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。

       軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。

       玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。

       名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。

       出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。

       日本が占領下にあることを改めて実感したな。

      地方総監府  連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。

      「日本再起のきっかけに」 天皇の地方巡幸

       内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。

       この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。

       奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

       強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

       「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

       戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。(福元)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150809-118-OYTPT50374

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  124. [時代の証言者]森喜朗 楽苦美(ラグビー)宰相の道<27>2009年教訓 五輪招致へ奔走
    2015年8月19日3時0分

     2009年10月、日本体育協会会長だった私は、コペンハーゲンでの国際オリンピック委員会(IOC)総会から石原慎太郎都知事と同じ飛行機で帰国しました。石原知事は「こんなに情けない話はない」と嘆いていました。

     《09年9月、政権交代で民主党の鳩山由紀夫内閣が発足。鳩山首相は10月のIOC総会で16年夏季五輪東京開催を訴えたが、リオデジャネイロに敗れた。民主党政権は東日本大震災の対応にも失敗し、12年12月、再び政権交代。自民党の安倍晋三氏が首相に返り咲いた》

     石原知事は11年4月の都知事選に出馬しないと表明しました。都知事選には神奈川県知事の松沢成文さんを後継にする意向でした。前宮崎県知事でタレントの東国原英夫さんも東京五輪反対を唱え、都知事選に手を挙げました。自民党の世論調査を見ると東国原さんが優勢で松沢さんでは勝てそうにない。五輪招致のためには石原知事が出馬するしかない状況でした。自民党は息子の石原伸晃幹事長が幹事長の名誉にかけて父親を説得しましたが難航し、谷垣禎一総裁と大島理森副総裁が石原知事の説得を強く私に要請して来ました。

     3月10日夜、赤坂プリンスホテルに石原父子と松沢さん、私の4人が集まりました。もともと石原知事に出馬を勧められた松沢さんは「石原さんがやめてくれと言うなら考える。森さんに辞退しろと言われても筋が違う」と強い抵抗を示しました。結局、夜半になって石原父子の声涙倶ともに下るお願いに、松沢さんは出馬辞退を受け入れてくれ、オリンピックのためならと実に潔い態度でした。伸晃幹事長も実に立派な態度で、父親の説得で親子関係が壊れかけるほどでした。最後は私が席を外して親子2人だけで話し、石原知事が出馬を決意してくれたのは明け方でした。私は「オリンピックをやると宣言してください。その後、体調がすぐれないなら辞められてもいい」と申し出ました。石原知事が都議会で出馬表明した3月11日午後、東日本大震災が起きました。

     石原さんを説得したことや松沢さんのすがすがしい態度もあり、私はオリンピック招致から逃げるわけにはいかなくなりました。09年に敗れた原因の一つは国民の支持が非常に低かったことです。日本オリンピック委員会(JOC)が内輪だけでやっている限りだめだと思いました。都議会をはじめ、国会も超党派、経済界やその他の団体も入れてオールジャパンの体制を作らなければと動きました。「EXILE」や秋元康さん、王貞治さんらに参加してもらって国民の関心を高め、全国の商工会議所が自分たちで資金を出して運動してくれたことで招致活動が日本中に広がりました。

     13年9月、ブエノスアイレスでのIOC総会で2020年東京五輪・パラリンピック開催が決まった瞬間、隣の安倍首相と抱き合って喜びながら、これまでのことを振り返り、オリンピック成功のため、さらに努力することになりました。(編集委員 望月公一)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150818-118-OYTPT50435

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    1. この記事で、石原慎太郎が、3.11のあのとき、なぜ大地震津波を「天罰」だといったのか、なんとなくわかる気がしないでもない…

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    2. 【政治】石原都知事「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」 「被災者の方々はかわいそう」
      http://ninja.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1300099606/
      http://www.2nn.jp/search/?q=%E7%9F%B3%E5%8E%9F+%E6%B4%A5%E6%B3%A2+%E5%A4%A9%E7%BD%B0&e=

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    3. 「東京五輪」というカネのなる木(カネになる機)…

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    4. なんかいまの年寄りたちが仕切ってるうちは、日本はいつまでも「発展途上国」なんだなあ…

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  125. WWF 環境配慮の五輪を提言
    10月15日 15時30分 NHK首都圏ニュース

    WWF=世界自然保護基金は、5年後の東京オリンピック・パラリンピックについて環境や資源管理に配慮した大会になるよう、選手村で提供される水産物や施設に用いられる木材などは、国際的なエコラベルの認証を受けたものを優先して使うべきなどとする提言をまとめました。
    WWFは、5年後の東京オリンピック・パラリンピックについて環境や資源管理に配慮した大会にするよう求めた提言書を組織委員会に提出し、15日、都内で公表しました。
    この中では、選手村で提供される水産物や、施設に用いられる木材などは国際的なエコラベルの認証を受けたものを優先して使うべきだとしているほか、大会で使用する自動車は二酸化炭素の排出を抑えるため電気自動車や燃料電池車を採用すべきとしています。
    IOC=国際オリンピック委員会も環境に配慮した大会運営を開催都市に求めていて、現在、組織委員会では食料の調達基準などについて検討を進めているほか、東京都は燃料電池バスを導入するための実証実験などを行っています。
    WWFジャパンの筒井隆司事務局長は「オリンピックは幅広い世代の人たちに環境への関心を持ってもらう絶好の機会なので、国内で意識を高めるうねりを作っていきたい」と話しています。
    http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151015/5661461.html

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  126. 日中韓 共同宣言発表の方向で調整
    10月24日 5時54分

    日本政府は、中国、韓国両政府との間で、来月1日の日中韓3か国の首脳会議を受けて共同宣言を発表する方向で調整に入りました。共同宣言には、北朝鮮に対し核開発を放棄し、非核化を進めるための協議に復帰するよう求めることなどが盛り込まれる見通しです。

    日本政府は、中国、韓国両政府との間で、来月1日に安倍総理大臣、中国の李克強首相、韓国のパク・クネ(朴槿恵)大統領による、日中韓3か国の首脳会議を行ったうえで、3か国の首脳による共同宣言を発表する方向で調整に入りました。
    これまでの調整で、共同宣言には北朝鮮情勢を巡って、朝鮮半島の緊張を高めるあらゆる行為に反対するとともに、北朝鮮に対し核開発を放棄し、非核化を進めるための協議に復帰するよう求めることなどが盛り込まれる見通しです。
    また、2008年に福岡県で開かれた日中韓3か国の首脳会議で発表された共同声明に基づいて、今後も引き続き、首脳会議を定期的に開くことが明記される方向となっているほか、来年、日本で開催することを盛り込むかどうかについても調整が行われています。
    一方、安倍総理大臣と李克強首相との日中首脳会談について、政府は中国政府との間で、3か国の首脳会議に先だって開く方向でほぼ合意に達しました。
    そして、安倍総理大臣とパク大統領との初めての首脳会談については、首脳会議の翌日の2日に開催することも選択肢として調整が進められています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151024/k10010280841000.html

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    1. 日中韓 貿易担当閣僚会合 3年半ぶり開催へ
      10月22日 2時00分

      外交関係が冷え込んだことで、およそ3年半にわたって開催が見送られてきた、日本と中国、韓国の3か国の貿易担当閣僚会合が、今月30日に開催される見通しとなりました。TPP=環太平洋パートナーシップ協定の大筋合意を受けて、3か国の間でどのように貿易の自由化を進めていくかが議題になるものとみられます。

      関係者によりますと、日中韓の貿易担当閣僚会合は、今月30日に韓国・ソウルで開催される見通しとなりました。日本からは林経済産業大臣が出席するほか、中国からは高虎城商務相、韓国からはユン・サンジク産業通商資源相が、それぞれ出席する予定で調整が進められています。
      日中韓の貿易担当閣僚会合は、2002年以降、これまで9回にわたって開かれてきましたが、前回2012年5月に開催されて以降、中国との間で沖縄県の尖閣諸島を巡る問題など外交関係が冷え込んだことなどから、およそ3年半にわたって開催が見送られてきました。
      今回の会合では、TPPの大筋合意のあとに開かれるとあって、今後、日中韓のFTA=自由貿易協定の交渉の進め方など、3か国の間でどのように貿易の自由化を進めていくかが議題になるものとみられます。
      また、TPPの大筋合意について、中国は公式にコメントを出していませんが、韓国は参加を検討していることを表明しており、特に日本と韓国の閣僚会談でTPPの内容について議論になる可能性もあります。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151022/k10010278151000.html

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  127. 社説
    TPP「ルール」 官民で海外戦略を強化しよう
    2015年10月26日3時5分

     新たな貿易や投資のルールを上手に活用し、海外事業を拡大したい。日本にも、ビジネス戦略の再構築が求められる。

     環太平洋経済連携協定(TPP)交渉で大筋合意した「ルール分野」の詳細を、政府が公表した。新興国が金融や小売業などで外国企業の参入規制を緩和するほか、知的財産権の保護体制を強化することが柱だ。

     共通ルールが参加12か国に適用されれば、公正で透明な経済取引が確保される。世界の国内総生産(GDP)の4割に及ぶ巨大市場で、企業が安心して海外に進出できるようになる意義は大きい。

     ベトナムやマレーシアは、外国の銀行やコンビニエンスストアの出店規制を一部撤廃する。堅調な需要の伸びが見込まれる新興国での事業展開に、日本企業がさらに力を注ぐ好機としたい。

     新薬開発のデータ保護期間は実質8年とする。著作権の保護は作者の死後70年に統一する。日本など多くの国は現在、50年だ。

     現在は知財の保護が不十分な新興国に新ルールが導入されれば、日本製の新薬やアニメなどを売り込みやすくなるはずだ。

     協定は、域内各国が、ソフトウェアの機密情報に当たる「ソースコード」の開示を、進出した外国企業に求めることも禁じた。

     中国は、外国企業にソースコードの開示を一方的に強要し、米国などの強い反発を招いている。

     TPPが、進出先国による恣意しい的な外資規制や国有企業優遇策の制限をルール化したことは、TPP交渉に参加していない中国を間接的に牽制けんせいする効果を持とう。

     新ルールの利点を有効活用するには、政府の対応も重要となる。企業の海外進出への実効性ある支援策を講じねばならない。

     特に、外国での事業経験やノウハウに乏しい中小企業を後押しする具体策が問われる。

     参加国が公共事業の入札を外国企業に開放することも、合意に盛り込まれた。鉄道や道路など社会資本(インフラ)整備事業を日本企業が受注するには、政府間交渉で相手国のニーズをつかむなど、官民連携の強化が大切だ。

     国内には一時、TPPに参加すると、外資の参入で国民皆保険制度が崩れたり、安全性に劣る食品が輸入されたりするとの懸念もあった。しかし、合意によって、日本の保険制度や食品安全基準を見直す必要は生じていない。

     政府は、合意内容や交渉経緯を関係者に丁寧に説明し、不安や誤解を解消すべきである。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20151025-118-OYT1T50093
    http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20151025-OYT1T50093.html

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    1. 民をまきこんで国家総ぐるみに仕立てる役人組織ミッションのいつもの手…

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  128. 社説
    日中韓首脳会談 東アジア安定へ対話を重ねよ
    2015年11月2日3時8分

     日本、中国、韓国は、東アジアの平和と繁栄に重い責任を持つ。歴史や領土を巡る対立を乗り越え、対話を重ねて、その役割を果たすべきだ。

     安倍首相と中国の李克強首相、韓国の朴槿恵大統領がソウルで会談し、3か国協力を強化するとの共同宣言を発表した。約3年半ぶりに開かれた日中韓首脳会談を再び定例化し、来年は日本で開催することも確認した。

     安倍首相は共同記者発表で、「3か国の協力プロセスの正常化は大きな成果だ」と指摘した。

     首脳会談が実現した背景には、米国の韓国への働きかけや、中韓両国の経済停滞などがある。

     3首脳は、自由貿易協定(FTA)交渉を加速させることで一致した。日米が主導する環太平洋経済連携協定(TPP)交渉の大筋合意を意識したものだろう。

     会談では、大気汚染対策や防災協力の強化などでも合意した。

     3か国は環境、防災、観光など約20分野で閣僚級会合を開いている。実務的な協力を着実に進展させる中で、日中・日韓関係を改善させることが大切である。

     李氏は会談で、歴史認識に関し「一部の国の間では深い理解が成り立っていない」と語った。日本を牽制けんせいした発言とみられる。

     安倍首相は、戦後70年談話の内容を説明したうえで、「特定の過去にばかり焦点を当てるのは生産的ではない」と強調した。

     共同宣言には「歴史を直視し、未来に向かう」と明記された。この原則を尊重し、未来志向で建設的な関係を構築すべきだ。

     地域情勢では、北朝鮮の核開発を容認しない方針を改めて確認した。安倍首相は、北朝鮮による日本人拉致問題の解決を訴えた。

     北朝鮮は、弾道ミサイル発射や核実験の実施を示唆している。日中韓が連携し、北朝鮮に効果的な圧力をかけねばならない。

     安倍首相はその後、李氏と個別に会談し、日中が戦略的互恵関係を追求することで一致した。

     両国は、様々な懸案を抱えているが、大局的見地から生産的な対話を続けねばならない。

     安倍首相は、中国による南シナ海での人工島造成と軍事拠点化について、懸念を表明している。

     米海軍は「航行の自由」を体現するため、人工島周辺で艦艇を航行させた。中国は反発している。だが、国際法に反し、力による現状変更を試みる中国側に非があるのは明らかである。

     日本は米国と協調し、中国に自制を粘り強く促す必要がある。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20151101-118-OYT1T50073
    http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20151101-OYT1T50073.html

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  129. いまこそ「脱亜論」(笑)。
    https://www.google.co.jp/search?q=%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96

    isa訳 脱亜論
    http://www.chukai.ne.jp/~masago/isa_datuaron.html
    http://www.chukai.ne.jp/~masago/index.html

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  130. 日中韓の教育担当閣僚が初会合 協力拡大で合意
    1月30日 20時16分

    日本と中国、韓国の3か国の教育担当閣僚による初めての会合が韓国で開かれ、3か国は大学の間での交流事業など教育分野での協力を一層拡大することで合意しました。

    日中韓3か国の教育担当閣僚による会合は、去年11月に行われた3か国の首脳会議の共同宣言で開催が決まったもので、30日に韓国ソウルのホテルで初めて開かれました。会合には日本の馳文部科学大臣のほか、中国の袁貴仁教育相、それに韓国のイ・ジュンシク(李俊植)教育相が出席しました。
    冒頭、馳大臣は「今、3か国の協力関係強化の機運が高まっている。子どもたち、教員どうし、行政官どうし、教育に関わる幅広い人々の間で交流を深めていきたい」と述べました。
    30日の会合で3か国は、それぞれの国について理解を深めるために教育の役割が重要だという点で一致し、3人の閣僚が「教育協力のためのソウル宣言」に署名しました。具体的には、提携を結んだ大学間での単位交換を認める交流事業をさらに拡大するとともに、環境や人権などといった問題について、3か国の大学生が一緒に学ぶ新たな交流プログラムを作ること、それに、3か国の間で小中学校の姉妹校提携を増やしていくことなど、教育分野での協力を一層拡大することで合意しました。また、3か国の教育担当閣僚による会合を今後は毎年開催することを決め、来年は日本で開かれることになりました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160130/k10010391841000.html

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    1. 日中韓の教育相、ソウルで初会合…共同宣言も
      2016年01月30日 22時00分

       【ソウル=井上宗典】日中韓教育相会合が30日、ソウルで行われ、会合の定例化や大学間の連携強化などを盛り込んだ共同宣言を発表した。

       日中韓の教育相による会合は初めて。来年は日本で開催される。

       会合には、馳文部科学相、中国の袁貴仁教育相、韓国の李俊植教育相が出席。「日中韓教育協力のためのソウル宣言」では、日中韓の大学で単位を相互に認定する「キャンパス・アジア」事業への財政支援を拡大するほか、3か国の大学の学長会議を今年、韓国で開き、今後継続していくことなどを確認した。
      http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160130-OYT1T50101.html

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  131. 社説
    開発協力白書 オール日本で戦略的な支援に
    2016年3月22日3時2分

     途上国の発展を後押しすることは、日本の国際的な影響力や発言権を高め、国益の確保につながる。官民が連携し、戦略的に取り組むべきだ。

     外務省がまとめた2015年版の開発協力白書は、国連が採択した30年までの「持続可能な開発目標」を特集した。貧困や飢餓の撲滅、気候変動への対処など17分野の目標を定めている。

     すべての人に安全で健康な暮らしを約束し、世界全体の繁栄に貢献することは、各国共通の責務だ。日本も積極的に関与したい。

     安倍首相は、アジア地域の良質なインフラ(社会基盤)整備を支援するため、5年間に政府開発援助(ODA)などで1100億ドルを投じる方針を掲げる。

     対象地域の開発計画に適合した道路や橋、港湾などの整備は、途上国の自立的で持続的な発展に向けて、重要な基盤となる。

     インフラ輸出の拡大は、安倍政権の成長戦略にも資する。安売りも辞さない中国の輸出攻勢に対抗するには、円借款を呼び水に民間資金も取り込み、途上国の要請に柔軟に対応することが大切だ。

     白書は、政府に加え、民間活動団体(NGO)、企業、大学などによる「オールジャパン」の協力推進の必要性も強調している。

     衛生状態の改善や、水資源の確保、産業振興など、途上国が抱える課題は、多岐にわたる。各国の発展段階や優先案件も異なる。

     相手国の事情に合わせた、きめ細かい支援を行うには、政府と民間がそれぞれの知見や得意分野を補完し合って、相乗効果を上げることが欠かせない。

     青年海外協力隊員はこれまで、計88か国に延べ約4万1000人が派遣された。NGOは世界各地で、人道支援や技術指導などの地道な活動を展開している。

     こうした草の根レベルの「顔の見える援助」を強化したい。

     16年度予算案では、政府全体のODA予算は5519億円で、17年ぶりに増加する。「積極的平和主義」にODAを活用しようとする安倍政権の姿勢の表れだろう。

     だが、ピークだった1997年度と比べると、半分の水準に過ぎない。14年の実績では、米英独仏に次ぐ5位で、前年の4位から後退した。世界3位の経済規模と比べて、日本の援助額は少ないとも指摘されている。

     ODAは、相手国との信頼関係を深め、国際社会における日本の存在感を高める重要な外交カードだ。政府は国民の理解を得つつ、予算の増額に努めるべきだ。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160321-118-OYT1T50102

    http://koibito2.blogspot.jp/2015/12/blog-post_17.html?showComment=1458712273265#c1630365508736756

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  132. 日中韓財務相ら、金融面での協力強化へ共同声明
    2016年5月4日11時9分

     【フランクフルト=山内竜介】日本と中国、韓国は3日、財務相・中央銀行総裁会議を開き、金融面で協力強化に向けた共同声明を発表した。

     世界経済の不透明感の強まりを踏まえ、通貨危機に備える国際的な枠組みについて、その効果がより高まるよう連携を強めることを確認した。

     日中韓の財務相・中銀総裁会議は昨年10月以来で、日本からは麻生財務相と日本銀行の黒田東彦はるひこ総裁が出席した。

     共同声明は、世界経済について「成長は引き続き緩やかでばらつきがあり、見通しに対する下方リスクや不確実性が残っている」と指摘した。中国など新興国からの資金流出を念頭に、「資本フローの変動に起因するリスクを注意深く監視し、3か国の協調を強化する」との姿勢を示した。

     具体策として、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓が、通貨危機の際に資金を融通し合う協定「チェンマイ・イニシアチブ」が発動される条件を明確にするなどして、危機に備えることで合意した。

     東南アジア諸国連合と日中韓(ASEANプラス3)の財務相・中央銀行総裁会議も3日、開かれた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160503-118-OYT1T50072

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  133. 経済同友会 持続可能な社会実現で提言取りまとめへ
    7月15日 20時59分

    経済同友会は、長野県軽井沢町で開いた夏季セミナーで、およそ30年後の2045年に向けて、持続可能な社会を実現するため、財政と社会保障制度の改革などを盛り込んだ提言を、ことしの秋に取りまとめることを決めました。

    経済同友会の夏季セミナーには、企業経営者ら38人が参加し、14日から2日間討議を行いました。
    この中で、日本が持続可能な社会の構築に取り組まなければ、グローバル競争のなかで豊かさを享受できなくなるとして、およそ30年後、戦後100年にあたる2045年に向けた提言をことし11月に取りまとめることを決めました。
    提言には厳しい状況にある財政の健全化に向け、年金の支給年齢を引き上げたり、高齢者の医療費の自己負担を増やしたりして、社会保障の給付を抑制すること。日本を「世界で一番ビジネスがしやすい国」にするため、規制改革を断行し労働市場や教育の改革を強力に推進することなどを盛り込み、政府に求めていくとしています。
    経済同友会の小林代表幹事は記者団に対し「案をまとめて終わりにするのではなく、そこから問題提起して将来を担う若い人など幅広い層と議論する場を作っていきたい」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160715/k10010597621000.html

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  134. [戦後71年 父の戦争 母の終戦]<1>爆弾の雨 密林さまよう…腹話術師 いっこく堂さん 53
    2016年7月30日5時0分

      両親の体験 娘に語り継ぐ

     71年前のあの戦争。異国の戦地で父たちは何を見たのか。母たちはどんな思いで銃後を生き抜いたのだろう。悲惨なその体験は今、子や孫の世代にどう伝えられ、語り継がれようとしているのか。

    船撃沈 海へ

     数年前、沖縄育ちの僕は人から沖縄戦について尋ねられ、初めて両親に聞いてみました。それまで、両親は、子供にはわかってもらえないと考えていたようですし、僕は僕で、嫌なことは話したくないだろうなと思い、互いに避けてきた話題でした。幾度か聞くうちに、毎回未知のことが飛び出して驚きます。僕自身、正直、まだ頭の中がきちんと整理できていません。

     父・吉弘は、日本の委任統治領だった南洋群島の一つ、サイパン島で生まれ、3歳でポナペ島(現ポンペイ島)に移りました。祖父・源吉と祖母・ハナは沖縄の名護市出身で、夫婦で島の製糖工場に出稼ぎに行っていたのです。妹3人が生まれた後、源吉は召集されました。44年、8歳の父と妹たちはハナに連れられて、沖縄への引き揚げ船に乗り込みました。ところが、トラック諸島沖で米軍の空襲を受けて船は沈没、海に放り出されて、家族5人はばらばらになりました。1週間後、奇跡的に5人は再会、数か月後に再び沖縄に向かいます。

     沖縄に戻ったら、そこはもう大混乱でした。ヤンバル(沖縄本島北部の緑深い山地)に逃げ込み、避難小屋を転々としつつ、たくさんの人が死んでいくのを間近で見たそうです。それが日常になると、何も感じなくなった……と言います。恐らく、自分が今を生きることだけで精いっぱいだったのでしょう。

     源吉は戦後復員して沖縄に戻り、木こりになりました。トラック諸島の惨事は聞いていたので、家族は全滅と思っていたそうで、再会した時は、もう、涙、涙でした。その後弟4人が誕生し、きょうだい8人全員が今も元気です。

    飢えと病気

     母・京子の戦争の記憶も、生まれ故郷の沖縄ではなく、西太平洋・パラオから始まりました。祖父・助太郎と祖母・ウシは、生まれたばかりの京子を連れてパラオのコロール島に移住、山を開拓して牛や豚を飼い、農業を営んでいました。パラオで3人の弟が生まれました。

     44年、米軍の爆撃を受けた時、7歳の母は、弟たちをかばいながら密林の中を生き延びました。食べるものがなく、防空壕ごうの中で乳飲み子の弟が泣き出すと、「一人の声で1000人の命が奪われるんだ。出て行け」とどなられ、母は弟をおぶって爆弾が雨のように降る中をさまよいました。いっそこのまま死んでしまえば楽になると考えたこともあったと言います。トカゲやバッタ、カタツムリなど何でも食べたそうです。一番下の弟は1歳で、また、一番上の弟はどうしても昆虫類が食べられずに5歳で、共に栄養失調で亡くなりました。

     助太郎は出征し、ウシと母と弟は、パラオで終戦を迎えます。引き揚げ船で沖縄に帰り、名護市の実家に戻ると、戦時の混乱で知らない人が住みついていました。仕方なくヤギ小屋で暮らしたそうです。沖縄には、兄2人、姉2人が残っていましたが、1人の兄がマラリアで、1人の姉が結核で命を落とし、助太郎も帰らぬ人となりました。

    身近に基地

     戦後結婚した僕の両親も、良い条件の仕事を求めて、沖縄から神奈川県のタイヤ工場に、1歳の兄を連れて出稼ぎに行きました。だから僕は、神奈川県生まれです。5歳の時、沖縄に戻り、コザ市(現沖縄市)に住みました。小学校入学の70年春、両親は嘉手納基地近くで「サンドウィッチショップたまき」という食堂をオープンしました。米軍相手の飲み屋への出前で店はとても繁盛しました。ところが、その年の12月、コザ暴動が起こります。

     「いっこく、大変だ! 戦争が始まったよ」。早朝、兄の声で跳び起きた僕は、兄と一緒に基地のゲートを目指して走りました。大勢の人が集まって、石や空き瓶を基地に向かって投げているので、僕もやらなきゃあと思って、見よう見まねで石を投げました。この事件以降、米軍に外出禁止令が出たこともあり、食堂への注文はぱたりとなくなり、閉店に追い込まれました。借金を返済するために、父は外国船タンカーに乗り込み、母も那覇の食堂で夜遅くまで働きました。

     コザ暴動が、基地の米兵に対する沖縄の人々の怒りの爆発だと知ったのは、ずっと後になってからです。不謹慎かもしれませんが、当時僕らのような貧しい沖縄の子供にとって基地はパラダイスでした。周囲の金網をくぐって忍び込むと、青々とした芝生の野球場があり、格好の遊び場でした。年に1度の「嘉手納カーニバル」では、お菓子と交換できるチケットをたくさんくれるので、米兵は皆優しくていい人という印象がありました。

     20歳になる娘には、おじいちゃん、おばあちゃんの体験や沖縄のこと、機会を見つけて話しています。どのくらい伝わっているかわからないけれど、僕が聞いて知ったことは話しておきたいと思うのです。

     聞き手 企画委員 永峰好美 撮影 鈴木竜三

              ◇

     本名・玉城一石(たまき・いっこく)。5歳から沖縄で育つ。劇団民芸を経て、腹話術を独学。2000年にラスベガスのショーで注目されて以降、海外でも活躍。9月まで「芸能生活35年スペシャルライブ」を東京などで公演。

    過酷な運命

     いっこく堂さんは忙しいスケジュールの合間を縫って、ご両親に何度も問い合わせてくれた。「また新しいことが出てきて、わけがわからなくなっちゃう」。戸惑いつつも、彼の口から語られる内容は、時代に翻弄され続けた沖縄の過酷な運命を象徴していた。人形との巧みな話術で人々を笑いの渦に巻き込む芸の陰に、たくさんの悲しみがあることを知った。

     開拓の先兵として南洋の島に送られ、戦渦をくぐり抜け、引き揚げた故郷は本土決戦前の「捨て石」になっていた。戦争を語れる最後の世代の親たちの生の声を伝えるのは、私たちの責務である。(峰)

    ◇知る

    ■南洋群島

     太平洋中西部、赤道以北のパラオ、サイパン島などマリアナ、ポナペ島などカロリン、マーシャル諸島を指す。ドイツ領だったが、第1次大戦後に国際連盟が日本の委任統治領と認め、連盟監督下で植民地経営を託した。南洋庁を置き、沖縄から多数の移民が渡り、最盛期は5万人を超えた。

    ■沖縄戦

     1945年3月26日、米軍が沖縄本島西方の慶良間諸島に上陸、4月1日には沖縄本島に達した。激しい艦砲射撃が続き、多くの住民を巻き込んだ地上戦の末、6月23日、沖縄守備軍最高指揮官である第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が、本島南部の司令壕ごうで自決し、組織的戦闘が終結した。

    ■コザ暴動

     1970年12月20日、米統治下の沖縄のコザ市(現沖縄市)で、米兵が起こした自動車事故処理に沖縄住民が反発。米軍関係者の車両等を焼き打ちした上で嘉手納基地に突入、住民と米軍双方に数十人の負傷者が出た。酒気帯び事故当事者の米兵を米憲兵がそのまま釈放しようとしたことが原因。

    ◇訪ねる

    ■沖縄県平和祈念資料館

     沖縄戦の激戦地、摩文仁の丘にある平和祈念公園内の資料館。「歴史を体験するゾーン」では体験者の証言を集めた映像等で惨劇の実情を紹介。「未来を展望するゾーン」では、紛争下の貧困や環境破壊など、世界の子供たちが抱える問題を伝える展示がある。 (沖縄県糸満市、(電)098・997・3844)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160729-118-OYTPT50494

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  135. トキ保護に取り組む日中韓の研究者が国際会議 新潟
    12月13日 21時09分

    国の特別天然記念物、トキの保護などに取り組む日本と中国、それに韓国の研究者などが集まる国際会議が新潟市で開かれ、生息数が増えていくことに伴う課題などについて今後、意見交換を続けていくことを確認しました。

    4年前から2年に1度開かれている「日中韓トキ国際会議」は、トキの保護と野生復帰に取り組む各国の政府関係者と研究者が集まる会議で、ことし、日本で初めて開催されました。
    会場となった新潟市中央区の「朱鷺メッセ」には、各国から40人余りが出席し、それぞれの活動の報告や、意見交換などを行いました。

    この中で、韓国の研究者からは、来年、初めて行われる予定の飼育しているトキを自然界に放鳥する計画が報告されました。

    一方、トキの野生復帰を続けてきた中国側の研究者からは、絶滅の危機を乗り越えて現在1800羽余りのトキが自然界に生息していて、今後も数が増えるため個体の識別が難しくなるという課題が指摘されました。

    これに対して日本からも、放鳥が進む佐渡市で同じような課題がある点が指摘され、今後、どのような対応が有効なのか意見交換を続けていくことを確認しました。

    また日本の環境省の担当者などは、佐渡で飼育が進むトキは、中国から譲り受けた5羽の子孫のため、近親交配による影響で遺伝的な多様性が失われるおそれがあるとして、今後、3か国間でトキを交換していくことが必要だと報告していました。

    会議は14日、佐渡市で開かれ、トキの飼育状況の視察などが予定されています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161213/k10010805681000.html

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  136. 作られ提示された「国民精神」…森正人・三重大准教授が著書
    2017年7月24日5時0分

    「大和魂」 娯楽を通じて浸透

     「大和魂」や「日本精神」とは何なのか。森正人・三重大准教授(文化地理学)による『展示される大和魂』(新曜社)は、こうした「国民精神」が意図的に作り上げられたものだと指摘し、どう提示されてきたかを明らかにする。「今の時代だからこそ、自分たちの来た道を見定める必要があるのではないか」と森准教授は指摘する。

     本書によると、忠孝や勤勉、勇猛果敢、慈母などのイメージを付される国民精神は、日本人古来のものではない。大和魂や日本精神は江戸末期になって語られ出し、特に1930年代以降の戦時期に強調されたと説く。そこでは、日本文化の創出者としての空海や皇室の忠臣・楠木正成らが、大和魂や日本精神の体現者として、都合のいいように物語が作り出されていった。

     その物語は、書籍や絵画で広まるだけではなく、全国各地に体現者の銅像や史跡が整備され、史跡巡りの旅も提案された。彼らにまつわる展覧会では、(正成の最期となった)湊川の戦いなどのパノラマ展示や、正成をたたえる歌の放送などを通じ娯楽として、大和魂が国民に浸透していった。いずれも国家が無理やり押しつけたのではなく、国民精神の涵養かんようを名目に、百貨店や新聞社などが催したものだ。「色々なところから出てきて絡み合い、国民精神という化け物が出来上がる。上から降ってくるような単純なものではない」

     敗戦後も国民精神は引き継がれた。大和魂や日本精神などといった言葉こそ使われなくなったが、映画やアニメ、小説などを媒介に「根性論」や「単一民族神話」などに形を変えつつ、更新されていった。

     そもそも国民精神とは、為政者が、国民と国民以外、男と女といったような二項対立の図式を作ることで生まれてくるという。他者と一線を画することで、「自分たち」の特徴が際立つというわけだ。そして近年、物事を二分する雰囲気が、再び強まっていると指摘する。自国礼賛の風潮や、それと表裏一体をなす排外主義。その原因には「グローバル化に伴う流動性や多様性への漠然とした不安や、様々な面での余裕のなさ」があるのだという。

     「世界は二分できるものではない。間にあるものを無視して区切り、固定化させることには問題がある」と森准教授は強調。忍耐や手間を要しても、常に自らの立ち位置を確認し続ける必要性を訴えている。(小林佑基)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170723-118-OYTPT50150

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    1. 蒙古襲来、黒船来航、大東亜共栄圏(東亜新秩序建設・大東亜新経済秩序、鬼畜米英)…

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  137. [戦後72年 考える]大艦巨砲とロケット…編集委員 知野恵子
    2017年9月1日5時0分

     思わず息をのんだ。

     日本海軍の軍艦が沈んだ場所に印をつけた、太平洋の地図を見た時だ。

     どれだけ多くの人命が失われたことか。胸が痛む。これほどたくさんの軍艦を造ってきたことにも驚く。

     軍艦のことはほとんど知らずにきた。それが、この夏、初めて解説書のページをめくることになった。

     本紙朝刊に連載した戦後72年企画で、海軍の軍人を取り上げたのがきっかけだ。

     ついつい見入ってしまった。戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、海防艦……。なんとたくさんの種類があるのだろう。

     明治以来日本は、軍艦こそ戦いの基本と考え、精鋭精巧な軍艦を造ってきた。

     しかし、太平洋戦争後、「時代を見誤った」と批判される。軍艦同士の戦いにこだわり、航空機時代を直視しなかった。行き着く先は、大きな主砲と厚い装甲の「大艦巨砲主義」。頂点に立つ戦艦「大和」と「武蔵」は、悲劇的な結末を迎えた。

     気になった。数々の軍艦造りに携わった研究者や技術者は、研究者冥利みょうり、技術者冥利を感じていたのだろうか、と。

             ◎

     1年ほど前、ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英さんにインタビューした。防衛省が大学などに研究資金を提供する制度を巡って、是か非か、議論が始まった頃だった。

     益川さんは、研究者が兵器研究に引き込まれることを懸念しつつ、こう話した。

     「研究者の目で見ると、軍事研究は面白い。パズルを解くようなものだからだ」

     どういうことだろう。

     「戦車の装甲は厚く頑丈にできている。撃ち抜くにはどうしたらいいか。一番効率良くぶち抜けるものを考え、実現する。達成感を味わえる」

     では目的がはっきりしている戦争下は? 戦艦「大和」など日本のモノ造りに詳しいノンフィクション作家・前間孝則さんの著作からは、苦悩する技術者の姿が浮かび上がる。

     「軍の上層部は、技術や生産については疎い場合が多い。そのため、やたら強権的で精神主義を強調し、辻褄つじつまの合わない命令を押しつけてくることも少なくない」(『技術者たちの敗戦』より)

     太平洋戦争末期。物資不足、戦況悪化の中、命令に従ってペラペラのベニヤ板で特攻用艦艇を造る。戦略なき研究や技術開発。達成感など味わえるわけがない。

             ◎

     私は25年以上にわたって、宇宙開発や科学技術分野を取材してきた。軍艦を知るにつれ、ロケットと似ていると感じた。

     技術の粋を集め、ピカピカの機体を造る。どんどん大きくなり、開発費も膨れる。開発を始めると止まらない。需要を気にせず、大中小など様々な種類を造りたがる。どこか、大艦巨砲主義の名残を感じる。

     ある技術者はこう話す。「どの技術者も『あのロケットを造ったのは俺だ』と自負する『ロケット野郎』なんだ」

     誇り高き人々の集まり。だが、10年ほど前から「時代遅れ」と、政治家や政府などから批判を浴びる。

     ロケットは、衛星というお客様を運ぶのが仕事じゃないか。なら、もっと打ち上げ費を安く、もっと腰を低くしてはどうか。そして世界の市場で戦え、と。それが現在へ続く。

     大艦巨砲も困るが、それに対する批判もどれだけ戦略性があるのだろうか。

     軍艦の蓄積は、戦後、モノ作り大国日本の源流となる。だが、技術力を強みにできず、今や中国などに押される。同じことが繰り返されないか。気にかかる。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170831-118-OYTPT50385

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    1. >上層部は、技術や生産については疎い場合が多い。そのため、やたら強権的で精神主義を強調し、辻褄つじつまの合わない命令を押しつけてくる

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    2. いまもまったく同じ、そのまんまチャクチャクと数多のミッション進行中…

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  138. 昭和陸軍 開戦へ導いた論考
    2017年9月13日5時0分

     ◇永田鉄山の史料集 川田稔氏が刊行

     昭和期の陸軍に大きな影響を与えた軍人、永田鉄山の論考を集めた初の史料集『永田鉄山軍事戦略論集』(講談社選書メチエ)が刊行された。編集・解説した日本福祉大の川田稔教授は「昭和陸軍を理解する上で永田の論考は欠かせない」と強調する。

     永田が生前に残した講演録や論文など20を超える論考から、特に重要で永田の考え方が伝わりやすい7編を掲載した。一般に昭和陸軍は理論や合理性を持たず戦争に突入して敗れたとみられがちだが、川田教授は「永田には体系性を持った構想があり、かなり緻密ちみつであることが分かる」という。

     昭和陸軍の理論的支柱だった永田が一貫して主張したのは、人的・物的資源を全面動員する国家総動員体制の構築だ。その発想の原点は、欧州滞在中に第1次世界大戦(1914~18年)を体験したことだった。再び世界大戦が起きた時、日本が生き残るために何をすべきかを考えた。永田は次の世界大戦も長期にわたり、総力戦になると予想し、その備えとして国家総動員体制の確立を目指した。そして陸軍内に自らの派閥を作り、陸軍を動かすことで構想を実現していく。

     日本が米英などと比べ、戦車や飛行機の数が少ないことを問題視。軍備の機械化、高度化を図るためには、高度な科学技術と工業生産力という産業全体の底上げが必要とみていた。川田教授は、「永田は旧来の白兵戦や精神主義に否定的なスタンスで、日本に不足しているのは何か、冷静に考えていた」と話す。

     また、永田は長期戦に耐えるため、資源の自給自足の必要性を訴える。「満蒙問題感懐の一端」と題した論考では、日本の「生存権」確保のためには、近隣諸国の持つ「福利(資源)」を日本の勢力下に置くこともやむを得ないとまで主張する。その思想は、満州事変、中国北部を支配下に置く華北分離工作で実現していく。

     自給自足体制への志向は、永田の死後も陸軍内で受け継がれた。永田の後継者として首相にもなった東条英機らは、中国大陸だけでなく、石油やゴムなどを求めてベトナム南部への進駐も進める。この進駐は米国を刺激し、日米開戦につながっていく。

     川田教授は「太平洋戦争の大きな原因は陸軍にあった。昭和陸軍の源流である永田の論考を読むことで、なぜ日本が戦争へと進んだか知ることができる」としている。(文化部 前田啓介)

         ◆

     【永田鉄山】ながた・てつざん 1884~1935年。国家総動員体制を目指す統制派の中心人物として、自派軍人を陸軍中枢の役職に就けて組織を掌握、政治へも介入した。陸軍省軍務局長時代に、対抗する派閥に属した相沢三郎陸軍中佐に省内で刺殺された。

    (写真)「発言や論文を丹念に追うと、総動員体制を目指す永田の思想の一貫性が分かる」と話す川田教授
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170912-118-OYTPT50336

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  139. 小池知事 「東京五輪はオールジャパンで」
    10月27日 16時24分

    東京都の小池知事は、衆議院選挙後、初めてとなる定例の記者会見で、今回の選挙で安倍政権との対決姿勢を打ち出したことで東京オリンピック・パラリンピックの準備に懸念が出ていることについて、「オールジャパンで取り組むべきもので、国も同じ認識だ」と述べ、懸念を払拭(ふっしょく)していく考えを示しました。

    小池知事は希望の党の代表として衆議院選挙に臨みましたが、選挙前の議席を下回るなど厳しい結果となりました。

    衆議院選挙後、初めてとなる27日の定例記者会見で、小池知事に対し、選挙の結果が都政に与える影響についての質問が相次ぎました。

    このうち、小池知事が今回の選挙で安倍政権との対決姿勢を打ち出したことで東京オリンピック・パラリンピックの準備に懸念が出ていることについて、「言うまでもなくオールジャパンで取り組むべきものかと思っていて、大会を成功に導かなければならないという思いは、国においても同様の認識を有していると考えている」と述べました。
    そのうえで、国や組織委員会、競技会場のある自治体との関係について、「今後も緊密に連携して、大会準備に万全を期したいと考えている」と述べ、懸念を払拭していく考えを示しました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171027/k10011200181000.html

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  140. 11月13日 よみうり寸評
    2017年11月13日15時0分

     職場の仲間との関係は疎おろそかにできない。司馬遼太郎さんが書いている。遠い友よりも近くの仲間のほうが、はるかに日常の重大事なのだ、と◆間合いの難しい関係ではある。反りが合わない相手でも同じ空間で過ごさねばならない。友人なら絶交もできよう。しかし、と司馬さんはいう。〈仲間に対しては仲間たることを拒絶する自由は誰ももたない〉(文春新書『ビジネスエリートの新論語』)◆近隣国との関係が似ていなくもない。領海侵入を繰り返す国にも「絶交だ」と啖呵たんかを切るわけにはいかない◆外遊中の安倍首相が中国の習近平国家主席と会談し、両国の「関係改善」をアピールした。今は言葉が先走っているように思えても、それが地域の安定に不可欠な課題であるのは疑いない◆司馬さんは“仲間道”の第一に裏切らないことを挙げた。「最終的かつ不可逆的な解決」を確認したはずの問題を蒸し返す。韓国の行為が道にもとるのは明らかだが、こちらの関係改善も欠かせない。外交とは根気の要る仕事である。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171113-118-OYTPT50105

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    1. 「日中韓三国間協力ビジョン」って何だったっけ…
      http://koibito2.blogspot.jp/search?q=%E6%97%A5%E4%B8%AD%E9%9F%93%E4%B8%89%E5%9B%BD%E9%96%93%E5%8D%94%E5%8A%9B%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3

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    2. 日中韓首脳会談「12月から1月に」…河野外相
      2017年11月13日22時57分

       河野外相と香田洋二・元海将は13日、BS日テレの「深層NEWS」に出演し、安倍首相と中国の習近平シージンピン国家主席、李克強リークォーチャン首相との会談を受け、今後の日中関係について議論した。

       河野氏は日本で開催予定の日中韓首脳会談の時期について、「12月から1月にかけてやりたいと思っている」と述べた。「日中韓首脳会談、安倍首相訪中、習国家主席来日という歯車を回していきたい」とも述べ、日中首脳による相互訪問実現に意欲を示した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171113-118-OYT1T50092

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  141. 戦艦「山城」「扶桑」などか フィリピン沖海底で発見
    12月7日 12時16分

    フィリピン沖の海底で、太平洋戦争中にアメリカ軍に撃沈された旧日本海軍の戦艦「山城」や「扶桑」などと見られる5隻の艦船が見つかったとアメリカの調査チームが発表しました。

    アメリカのIT企業、マイクロソフトの共同創業者で実業家のポール・アレン氏が率いる民間の調査チームは、フィリピン南部のスリガオ沖の海底で旧日本海軍の艦船と見られる5隻を発見したと、7日、インターネット上で会見し発表しました。

    それによりますと、発見されたのは、船体の形状などから昭和19年10月のレイテ沖の海戦でアメリカ軍に撃沈された戦艦「山城」や「扶桑」のほか駆逐艦の「満潮」と「朝雲」、それに「山雲」と見られるということです。

    この調査チームは、おととし、フィリピン沖のシブヤン海の海底で戦艦「武蔵」を発見し、世界的に注目されました。

    今回の海底調査は先月下旬から今月はじめにかけて行われたということで、チームのフェイスブックのページには、無人探査機で撮影した海底に沈む船体の写真などが順次公開されるということです。

    今後、専門家などによる分析や検証が進むことが期待されます。

    戦艦「山城」「扶桑」とは

    旧日本海軍の戦艦「山城」と「扶桑」は、同型艦で、全長およそ200メートル、幅およそ30メートルあります。

    国立公文書館が運営するアジア歴史資料センターによりますと、昭和19年10月、フィリピンのレイテ島に上陸を始めたアメリカ軍に反撃するためスリガオ海峡の海戦に投入されましたが、待ち伏せしていたアメリカの艦隊の魚雷攻撃などを受け、撃沈されました。

    スリガオ海峡の海戦では乗員4000人余りが死亡し、この海戦を含むレイテ沖の海戦全体で日本海軍の連合艦隊は多くの戦艦や空母を失い、壊滅的な打撃を受けました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171207/k10011249501000.html

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  142. かつての国家的失敗ミッションの痕跡遺物…

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  143. 「TPP 世界経済全体の発展に重要」経済再生相
    5月2日 4時26分

    日本など11か国が参加するTPP=環太平洋パートナーシップ協定をめぐり、日本政府はTPPの新しいルールを広げていくことは世界経済全体にとって重要だとして、協定発効後の参加国の拡大を主導する方針です。

    日本を含む11か国が署名したTPP協定をめぐって、茂木経済再生担当大臣は参加に意欲を示しているタイを訪問していて、1日、ソムキット副首相と会談し、タイが新たに加盟できるよう緊密に連携していくことで一致しました。

    タイは日本の自動車メーカーが多くの工場を構えるなど、東南アジアでの日本の製造業の一大拠点となっているほか、卸売りやサービス業など、非製造業の企業進出も加速していて、日本政府はタイがTPPに加わることによる日本企業への恩恵は大きいと見ています。

    会談のあと、茂木大臣は記者団に対し、「世界で保護主義が台頭する中、TPPの新しいルールを広げていくことは世界経済全体の発展にとって極めて重要だ」と述べ、協定発効後の参加国の拡大を主導する方針を強調しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180502/k10011424671000.html

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  144. 東京五輪の公式映画 監督にカンヌ映画祭の河瀬直美氏
    2018年10月23日 18時11分

    2020年の東京オリンピックを描く公式映画の監督を、映画監督の河瀬直美さんが務めることになりました。

    これは23日、大会組織委員会が発表しました。

    オリンピックでは、IOC=国際オリンピック委員会との取り決めで大会を描く公式映画が製作されることになっていて、1964年の東京オリンピックでは市川崑さんが、1972年冬の札幌オリンピックでは篠田正浩さんが監督を務めました。

    2020年の東京オリンピックの公式映画は、世界3大映画祭の1つカンヌ映画祭で、「萌(もえ)の朱雀」で新人監督賞にあたるカメラドールを、「殯(もがり)の森」で審査員特別賞にあたるグランプリを受賞するなど、海外でも評価が高い河瀬直美さんが監督を務めることになりました。

    組織委員会によりますと、映画の具体的な構想や撮影の手法や時期などは今後詰めることになっていて、映画の完成は、大会のよくとしの2021年春になる予定だということです。

    河瀬監督 カンヌ映画祭で部門グランプリなど

    映画監督の河瀬直美さんは、奈良県出身の49歳。

    平成9年に劇場映画デビュー作「萌の朱雀」で、世界3大映画祭の1つカンヌ映画祭の新人監督賞にあたるカメラドールを日本人で初めて受賞しました。

    そして、平成19年のカンヌ映画祭では、介護や出産の経験を元にみずから脚本を書いた「殯の森」がコンペティション部門で最高賞に次ぐグランプリを受賞しています。

    河瀬監督はドキュメンタリーも撮り続けていて、生き別れた父親を探しながらみずからの出自を問う「につつまれて」や、出産をテーマにした「玄牝ーげんぴんー」など、数々の作品を発表しています。

    河瀬監督「柔軟に心を添わせたい」

    河瀬監督は「大変驚いています。内容はこれからで、ドキュメンタリーは構成が大事だが、起きることに柔軟に心を添わせていきたい。オリンピックに向けての自分の役割は非常に大きなものをいただいているが、いつものごとく等身大で全うしていきたい。単なる記録ではなく今の日本にオリンピックでどのような変化があるのか、物語性をもった作品にすることが、世界の人の心を動かすことになるのではないかと思う」と意気込みを述べました。

    また、河瀬監督は大会本番だけでなく、東日本大震災からの復興やボランティアにも焦点をあてたいとしていて、「今から時間が許す限り、事前にカメラを向けられる場所に足を運んで撮影していきたい。さまざまなところにドラマが始まっていて、そのドラマを見つめ続けることがドキュメンタリーのだいご味と思っている」と述べました。

    オリンピックの公式映画とは

    オリンピックの公式映画は、第5回大会の1912年ストックホルム大会から作られています。公式映画は「記録」だけでなく「芸術」としても注目され、1936年ベルリン大会の「民族の祭典」は、古代ギリシャを意識した肉体美の表現など、監督の演出による芸術性が高く評価された一方、ナチス政権の宣伝だと批判も受けました。

    1964年東京大会の「東京オリンピック」は、映画監督の市川崑さんが監督を務め、冒頭と最後のカットに平和の象徴として太陽を使用し、オリンピックを平和の祭典として描きました。

    この映画は1950万人を動員し、平成13年に「千と千尋の神隠し」に抜かれるまで、観客動員数の日本歴代1位でした。

    また、冬のオリンピックでは、1968年グルノーブル大会の「白い恋人たち」がそのテーマ曲とともに知られていて、2020年東京パラリンピックの式典の責任者でクリエーティブディレクターの佐々木宏さんも影響を受けたということです。

    オリンピックの歴史に詳しい首都大学東京の舛本直文特任教授は「記録を重視するのか物語を重視するのか、監督次第のところがある。テレビの記録性とは違う、映画ならではの表現のしかたがあると思うので後世に残る印象的なものになってほしい」と話しています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181023/k10011682681000.html

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    1. 「レニ・リーフェンシュタール 民族の祭典」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB+%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E7%A5%AD%E5%85%B8

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