2018年4月11日

【オールジャパン(笑)】異次元おカルト政府「大本営」の持続可能性

暴走異次元施策とバラマキ戦線の拡大…今また「大本営発表」の時代そのもの。国家総動員体制ふたたび・・・

マスゴミ衆の手放しの喜びようときたら、もう・・・。時代錯誤(アナクロ)な異次元国家の面目躍如というほかない。日本の国家財政、2020年五輪開催までもつのか?


今でも悪夢を見ますよ、1930年代に国家権力を盾に間違った学説を強要し続けたロシアのルイセンコ的な全体主義が、日本にもまた来よるんではないか、と。当時、ロシアでは有能な科学者がシベリアに追放されたりした。日本でも、私の知人で、ルイセンコ説に反対した若い植物学の研究者が自殺したりしました。日本人は全体主義が好きですから、心配しています。
(MESSAGE/脱科学者の科学論 岡田節人 京都大学名誉教授)
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/news/2008/apr/index.html
http://www.iza.ne.jp/bookmark/37947/





オールジャパンの検索結果




オールジャパン検索結果(つれづれすくらっぷ )







(書きかけ)





《平時のごたごたは、私たちに精神の自主性を要求する。それに反して戦争となると、それをいっさい抛擲してしまふことができる。つまり最も激しい我の主張の場である戦場では、我を捨て去ることが出来る。自我の曖昧な日本の民衆は、とかくそういうふうに傾きやすい
(福田恒存『福田恒存全集3 平和論にたいする疑問』 麗澤大学出版会)
http://koibito.iza.ne.jp/blog/entry/586746




目の前にかざされた人参を追う馬のように、熱中する何かを常に目の前に提示され続け、正常で冷静な思考をたえず奪われ続ける、それが今の異次元国家ニッポンの民衆のすがたではないのか…。





「東京五輪」の検索結果



「2020年 東京五輪へ」特集
http://www.iza.ne.jp/news/feature/8430/
>2020年夏季五輪の開催都市が「東京」に決まった。東京はアジア初の五輪となった1964年大会以来、56年ぶりの開催となる。




オリンピック招致に成功し開催することができさえすれば、被災地の人たちはもちろん日本国民全体が、かつてそうだったように、必ずや元気と自信を取り戻せるようになるというお花畑全開脳内主観のルーピーな夢想や、それに便乗して政府や東京都はもちろんのこと熱病に浮かされたアホアホなスポンサーどもからたんまり金を巻き上げることができるとたくらんでいるようなヒトビト…

7年後には、東京五輪の開催が復興のスピードを速めたと、胸を張っていえるだろうか…
http://www.iza.ne.jp/bookmark/1544267/






(2013年9月13日)


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http://koibito.iza.ne.jp/blog/entry/3183936/


ためしにコピペしてみた。

(9/14)
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[昭和時代 第3部 戦前・戦中期]<33>
統制経済…国家総動員へ 体制づくり
2013年10月19日3時1分 読売新聞

premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131018-118-OYTPT01151

>日中戦争の勃発は日本経済にも強い衝撃を与えた。大規模な軍事支出をまかないつつ、インフレ抑制を図るため、近衛文麿内閣は、「国家総動員法」などを成立させ、経済の統制に乗り出した。規制は国民生活にも及び、その影響は暮らしの中に、ジワリジワリと広がった。(文中敬称略)


東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の勃発は日本経済に計り知れないダメージを与えた。大規模な復興再生支出をまかないつつ、デフレ脱却を図るため、安倍晋三内閣は、「アベノミクス 三本の矢政策」異次元金融緩和などを実施し、計画経済の中央コントロールに乗り出した。消費税増税は国民生活の隅々に及び、その影響は暮らしの中に、ジワリジワリと広がった(笑)。



外務省:日中韓三国間協力ビジョン2020(骨子)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jck/summit2010/vision2020.html



(追記10/19)(追記3/5 2015)

166 件のコメント:

  1. 「ips細胞 オールジャパン」(笑)。
    https://www.google.co.jp/search?q=ips%E7%B4%B0%E8%83%9E+%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3

    「オールジャパン」という掛け声は、すこぶる怪しげなことに大勢の人々をまきこんで抜けられなくするときの常套句みたいなものだろう…。
     

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  2. 【産経抄】9月12日

     山本周五郎の最後の長編小説『ながい坂』に、少年時代の主人公が、師から諭される場面がある。「たとえば阿部の家で祝いの宴をしているとき、どこかでは泣いている者があり、親子心中をしようとしている家族があるかもしれない」▼2020年夏季五輪の東京開催が決まって以来、気分の上ではずっと祝いの宴が続いている。東日本大震災から2年半たったきのう、被災地の現状を伝える記事が、そんな小欄の目を覚まさせてくれた▼「東京は安全という発言は、福島が危険と大声で言っているようなものだ」。今も人通りがほとんどないという南相馬市小高区からは、怒りの声が上がる。福島第1原発の汚染水問題も、解決の決め手が見つかったわけではない。復興のための人手や資材が、東京五輪に取られてしまう不安も理解できる▼東京招致に至るまで、「オールジャパン」体制の活動が強調されてきた。では、復興も「オールジャパン」で進んでいるといえるのか。被災地の農産物を扱う首都圏のスーパーは、食品の放射能検査を徹底している。にもかかわらず、いまだに風評被害がなくならない。震災がれきの受け入れにも、東北以外の一部の住民からは当初激しい反発が起こったものだ▼周五郎は、「曲軒」のあだ名がつくほどヘソ曲がりだった。前回の東京五輪開催が決まったときも浮かれることなく、むしろ戦後復興に取り残された人々を気遣った。当時の随筆で、「オリンピックをやれば文明国のなかま入りができるという稚気や、便乗して金もうけをたくらんでいるような人たち」を批判している▼平成の日本人はどうだろう。7年後には、東京五輪の開催が復興のスピードを速めたと、胸を張っていえるだろうか。

    2013.9.12 03:20
    http://sankei.jp.msn.com/sports/news/130912/oth13091203200000-n1.htm
     

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  3. 9月17日 編集手帳

     近代オリンピックの創設者として知られるクーベルタン男爵(1863~1937)は晩年、1940年に予定されていた東京五輪に特別の思いを抱いていたという◆「古代欧州が生み出した文明とアジアの文化芸術が結び付く」。そんなメッセージを日本に寄せていた。同時開催が決まっていた東京万博のことも、あるいは念頭にあったのかもしれない。しかし、男爵が亡くなった翌年、日本政府は日中戦争の泥沼化などにより五輪と万博の取りやめを決める◆「1940年の夢」は、戦後の高度成長時代に東京五輪と大阪万博の形で、ようやく実現する。奇跡の戦後復興を成し遂げた日本の姿が、世界を驚かせた◆再び東京で開催される2020年夏季五輪では、高度成長時代とも違った、文化の「おもてなし」が期待されるに違いない◆文化庁は2020年を目標に、文化芸術立国中期プランの検討を進めている。地域の伝統芸能を生かした参加・体験型プログラムや五輪選手とほぼ同数の約1万人の芸術家を受け入れる計画などが議論されている。21世紀にふさわしい成熟した多文化の交流を実現させたい。

    2013年9月17日3時3分 読売新聞
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20130917-118-OYTPT00096/
     

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  4. 政府、五輪推進室を設置へ 府省庁調整で

     政府は27日、2020年夏季東京五輪開催に向けて府省庁にまたがる施策を調整するため「2020年オリンピック・パラリンピック東京大会推進室」(仮称)を近く内閣官房に設置する方針を固めた。室長には、日本サッカー協会元専務理事の平田竹男内閣官房参与を充てる方向だ。

     菅義偉官房長官は27日の記者会見で「しっかり五輪を推進できる体制を内閣でつくる。近いうちに組織を発足させたい」と述べた。

     推進室は文部科学省や厚生労働省などの職員を異動させて発足する。

    2013/09/27 13:13 【共同通信】
    http://www.47news.jp/CN/201309/CN2013092701001193.html
     

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  5. 《これは日米開戦の前の状況に似ている。軍部は、日米開戦すれば勝てないことは認識していたが、世論は主戦論に傾き、青年将校のクーデタに100万通を超える助命嘆願が寄せられる「空気」と、それをあおる朝日新聞などのメディアが、近衛文麿のような「心情」に弱い政治家を押し流していった。

    近衛の「心情」が日本を破滅に導いたように、エネルギーのインフラを破壊して産業の空洞化をまねき、日本経済を衰退に導いたのは、安倍政権の「心情の政治」だった――と後代の歴史家は書くかもしれない。》
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51873588.html

    実質、1997年のころが開戦前夜みたいなもので…

    ミレニアム・プロジェクト事業開始が開戦みたいなもの…
     

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  6. 一種の目くらまし言説にしかならない。
     

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  7. 日米開戦時の首相は東條英機…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%96%8B%E6%88%A6%E6%99%82%E3%81%AE%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3

    今の日本でそれにあたるのは…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88+%E5%B0%8F%E6%B8%95%E5%86%85%E9%96%A3
     

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  8. もう敗戦前夜みたいなもの…っていうか、あの3.11東日本大震災直後の天皇陛下のラジオ放送のお言葉はまるで玉音放送…。


    「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(平成23年3月16日)」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%9B%E4%B8%8B%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0
     

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  9. 2020年東京五輪で日本は完結完了してしまうんだろうか…

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  10. ぱっと咲いてぱっと散る、まるで花火のような…

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  11. 「玉砕 散華」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E7%8E%89%E7%A0%95+%E6%95%A3%E8%8F%AF
     

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  12. 太宰治 「散華」 - 青空文庫
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1095_20125.html
     
    >玉砕(ぎょくさい)という題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手(へた)な小説の題などには、もったいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華(さんげ)と改めた。
     

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  13. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<34>紀元二六〇〇年…戦時下で盛大な祝典
    2013年10月26日3時2分 読売新聞

     1940(昭和15)年、「紀元二六〇〇年」を祝う行事が全国的に繰り広げられた。だが、その一環だった万博と東京五輪は、日中戦争の長期化に伴い、中止されていた。統制は芸能にも及び、日常生活は息苦しさを増していたが、国民にとって戦地は遠く、観光・消費ブームも起きていた。(文中敬称略)

    ◇ああ一億の胸は鳴る

     1940(昭和15)年11月10日、宮城(皇居)前広場で、政府主催の紀元二六〇〇年式典が開かれた。神武天皇紀元の節目を祝う最大のイベントには、海外からの招待客を含め約5万人が参加した。昭和天皇が勅語を述べたあと、首相の近衛文麿が「天皇陛下万歳」の声をあげ、これに唱和する参列者の大音声が響きわたった。

     40年の元旦のラジオは、神武天皇を祀(まつ)る橿原(かしはら)神宮の初詣を中継放送し、午前9時、多くの国民は宮城を遥拝(ようはい)した。大阪湾に集合した連合艦隊は「皇礼砲」を発した。1月9日からは東京の七つのデパートで「奉祝展覧会」が始まり、入場者はのべ約500万人に上った。

     2月11日の紀元節には、昭和天皇が特別に詔勅を渙発(かんぱつ)し、恩赦が発令された。全国11万の神社で大祭が行われた。

     紀元は二六〇〇年、ああ一億の胸は鳴る、と歌う奉祝国民歌も作られた。

     橿原神宮の整備には修学旅行生を含む121万人が勤労奉仕した。天孫降臨の伝説の舞台、宮崎県では高さ約36メートルの「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」が建設され、北京神社、南洋神社(サイパン)、建国神廟(びょう)(満州国)など海外の神社も造営された。

    ◇高度成長の夢描く

     紀元二六〇〇年の奉祝行事・事業の計画は、10年前に遡る。

     それは、アジア初のオリンピック東京大会と万国博覧会の招致に始まった。二つの国際的な大イベントを紀元二六〇〇年に開催する構想が、30(昭和5)年に浮上したのだ。

     一方で同じ時期、奈良県を中心に、橿原神宮の参道拡張や陵墓の整備案が打ち出された。いずれも、都市開発や外貨獲得、観光客誘致といった経済効果を狙っていた。

     政府は35(昭和10)年10月、祝典準備委員会を発足させた。36年7月にはオリンピックの東京開催が決まった。

     日本大学の古川隆久教授(日本近現代史)は、「国際政治の場では一等国とされた日本政府は、この記念イベントを契機に、経済的にも一等国の仲間入りをしたいと考えた。国民の間にも、一流国並みの豊かな生活の実現は不可能ではないとの気分が広がっていた」と語る。

     外国人客誘致のため、外国人向けホテルの建設ラッシュが始まった。高島屋や松坂屋などのデパートでは、大規模な改築や増築が相次いだ。37(昭和12)年、商工省に万博担当の課が新設され、東京・月島埋め立て地がメーン会場予定地になった。

     万博計画の財源に充てるため、38(昭和13)年1月、富くじ付き入場券の販売が開始された。同年3月には、万博出展を促す招請状も各国に送付された。

     東京市は、万博会場に隣接した埋め立て地に五輪用の大競技場を計画するなど、経済の高度成長を目指す国家プロジェクトは着々と進んでいた。

    ◇観光ブームに沸く

     この頃、庶民の生活で、注目すべきブームが起きていた。観光旅行である。

     雑誌には「熱海の温泉宿は満室状態」「富士山や富士五湖周辺の観光客が増えて、休日の列車は混雑の極みに達している」といった記事が載っている。

     国内で戦争をしているわけではなかった。すでに多数の戦死者を出していたものの、戦地の悲惨な状況は国民には知らされず、切迫感は乏しかった。

     加えて「厚生」――健康の維持増進と生活の安定、という呼び声も、旅行ブームを後押しした。38(昭和13)年1月、厚生省(現厚生労働省)が設置され、「体力局」や「衛生局」が置かれた。高い結核死亡率と、徴兵検査で判明した青年の体力不足が背景にあった。ハイキングなどを含む観光旅行は、国の「健民政策」の一環とされ、国民はそれを名目に堂々と旅行を楽しむことができたという。

     関西学院大学の高岡裕之教授(社会史)は、観光ブームについて、「戦時下にもかかわらずツーリズムが継続したというよりも、戦時下においてツーリズムが拡大したという見方が妥当だ」と指摘する。

    消えた東京五輪、万博

     37年7月に始まった日中戦争は簡単には終わらなかった。日本政府は38(昭和13)年7月15日、オリンピックの開催返上と万博の延期を決めた。理由は、物心両面の総動員で、長期戦への態勢を固めるためだった。多くの国民が期待した高度成長の夢は、はかなく消える。

     こうして残された形の紀元二六〇〇年の奉祝行事・事業は、国民統合と、戦争遂行のための団結・動員の強化が前面に押し出されていく。

     ただ、観光・消費ブームは、すぐには衰えなかった。デパートの売り上げは、紀元二六〇〇年の40(昭和15)年までうなぎ登りに伸びていた。三越の純利益は、36年の310万円から40年には530万円と激増、戦前期最高益を記録した。

     40年には、奈良、伊勢、宮崎の建国聖地巡礼旅行も、ブームになった。この年1年間に橿原神宮のある奈良県を訪れた人は、約3830万人にも上り、前年比2000万人増という驚異的な数字を残している。

     海を越えて朝鮮や満州(現中国東北部)に観光に出かける人も多かった。とくに満州観光で人気を集めたのは、日清・日露両戦争の戦跡「旅順」だった。

     40年の奉祝行事は、政府に報告があっただけで、全国で1万2000件を超え、参加者はのべ約5000万人に上ったという。政府主催の式典を取材した米紙ニューヨーク・タイムズの特派員は、「神武天皇神話に基づくシンボリズムは、ロマンチックで詩的だが、天皇を絶対化する効果ももつため、軍部の暴走を招いている」と論評した。

    ◇祝いは終わった

     都市も農村も、軍需景気で羽振りがいい人もいれば、出征で働き手を奪われて生活が苦しい人もいた。いわゆる「格差」が生まれていた。

     高峰三枝子のヒット曲、「湖畔の宿」(山の淋(さび)しい湖に――)は、替え歌で「昨日召されたタコ八が タマにあたって 名誉の戦死」と歌われる。

     電車が宮城や明治神宮前にさしかかると、人々は頭を下げねばならなかった。「それがどんなに馬鹿げているかということは誰もが知っていながら、誰もがそれに従わざるを得なかった」(安岡章太郎『僕の昭和史』)。

     国民の間には、苛立(いらだ)ちや不公平感や空(むな)しさが募っていた。

     政府式典後の11月14日までの5日間に限って、禁止されていた旗行列や提灯(ちょうちん)行列、みこしが復活し、東京市内を花電車が走った。そして祭りにピリオドが打たれると、街のポスターは、「祝ひ終つた さあ働かう!」に張り替えられた。日米開戦まであと1年だった。(永峰好美、田中聡、大津和夫)
     

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  14. 芸能にも統制の風圧

    ◇「禁演落語」で自粛

     東京・浅草の本法寺に1941(昭和16)年に建立された「はなし塚」には、このように刻まれている。

     〈昨秋九月、東京落語家全員は、国家新体制に即応し、五十三種の落語禁演を自粛協定して、職域奉公の実を挙げたり〉

     「禁演落語」と言われるこれらの演目は、“戦時下にふさわしくない”艶笑譚(たん)が主だった。「講談落語協会の顧問だった野村無名庵が中心になって選んだ」と、演芸や流行歌に詳しい評論家の保田武宏は話す。

     38(昭和13)年4月の国家総動員法公布以来、芸能文化に対する統制は一層、厳しさを増していた。従来の共産主義のような「個々の思想や著作に対する弾圧の段階から、そうした言論・表現の媒体自体を統制下に置き、これを国策遂行目的のために積極的に利用していこうとする段階」(宮本大人「戦時統制と絵本」)に入った。

     39年には、国民精神総動員の強化に向けて、「早起励行」「報恩感謝」などの国民生活要綱が策定された。40(昭和15)年に入ると、近衛文麿は、「軍官民が一体となって」戦争にあたる「新体制運動」を推進した。

     これを受け、芸能文化も、映画などの検閲が厳しくなり、劇場には検閲官が臨席するための特別席が設けられた。

     歌手、俳優、寄席芸人など芸能を職業とする者は、警視庁の発行する「技芸者之証」を携帯することが義務づけられた。3月には、カタカナの“敵性語芸名”の芸能人に対し、内務省から改名命令が出された。

     8月1日初演の有楽座・吉本爆笑演芸大会では、柳家金語楼主演の「花婿三重奏」が、爆笑大悲劇「倅(せがれ)は生きている」一幕五景に急きょ差し替えられるなど、警視庁保安部によって演目が変更されることも起きた。「禁演落語」は、こうした圧力のもとでの「自粛」だった。

     とはいえ、芸能文化に対する統制は、初めのうちは、大正から昭和初期に流行した「エロ・グロ・ナンセンス」への反動という側面をもっていた。

     芸能文化の低俗化にまゆをひそめる“良質な文化人”も少なくなかった。

     漫画などの児童読み物について、38年10月に決定された「児童読物改善ニ関スル指示要綱」の作成にあたったのは、後にお茶の水女子大学の学長となる波多野完治、作家の山本有三、童話作家の坪田譲治ら9委員だった。

     「問題になったのは、赤本漫画の時代劇や戦争物などだ。敵の首がはねられるような残酷描写や、教育的配慮に欠けた営利優先主義も批判の対象になっていた」と、明治大学の宮本大人准教授は語る。

    ◇のらくろ満州に渡る

     推奨されたのは、科学啓蒙(けいもう)的な読み物や、満州国建国でうたわれた「五族協和」などだ。それが如実に表れたのが、田河水泡(たがわすいほう)の人気漫画「のらくろ」だった。

     31(昭和6)年に連載が始まったこの漫画は、猛犬連隊に入隊した野良犬黒吉の軍隊生活を面白おかしく描いていたが、39年、予備役となった黒吉は、満州(現中国東北部)に渡り、朝鮮生まれの犬の金剛君、羊の蘭君、豚の包君らと鉱山探しの旅を続けるという展開になる。

     音楽の世界では、NHKが36年から「国民歌謡」の放送を始めた。同年に大ヒットした渡辺はま子の「忘れちゃいやヨ」が、内務省から「官能的歌唱」を理由に発売禁止を受けるなど、歌への統制が強まってきた時期でのことだ。

     島崎藤村が作詞し、東海林太郎が歌った「椰子(やし)の実」や「春の唄」(歌・月村光子)などの人気曲が生まれた。だが、37年12月、内閣情報部が「愛国行進曲」を「国民歌謡」の放送に押し込んでから、本来の趣旨から離れた選曲になっていく。「紀元二千六百年」「出せ一億の底力」「興亜行進曲」など、国策宣伝のための曲が増えた。

     象徴的なのが、40(昭和15)年6月から放送された「隣組」だ。トントントンカラリと 隣組――と軽快に歌われ、ヒットしたこの曲は、内務省が訓令によって定めた「隣組制度」を宣伝するものだった。

     40年12月、情報宣伝機能を強めるため、各省庁に分散していた情報関係部局を集めて情報局が誕生する。これで文化芸能に対する圧力も、一層強まる。

     NHKの「国民歌謡」は41年2月に終了、より戦時色の濃い「われらのうた」が始まる。

     「のらくろ」も、「この非常時に、漫画のようなふざけたものを雑誌にのせて、貴重な資源である用紙を費やすことは許さん」という当局の意向で、41年10月、終了に追い込まれた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131025-118-OYTPT01102
     

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  15. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<35>「言論」から「翼賛」の府へ
    2013年11月2日3時1分 読売新聞

     帝国議会や政党は、軍部の台頭によって地盤沈下が進んだ。中には、言論の力によって、軍部や政府批判に気を吐く議員はいたが、1940(昭和15)年、政友会や民政党など既成政党は、新体制運動に雪崩を打って次々と解党し、“無党”時代を迎える。(文中敬称略)

     ◇国家総動員法は「違憲」

     日中戦争が始まって2か月後の1937(昭和12)年9月4日、第72回帝国議会(臨時会)が開かれた。近衛文麿首相は5日、貴衆両院で演説し、「できるだけ速やかに支那軍に対して徹底的打撃を加え、戦意を喪失させる以外にない」と表明した。

     戦火の拡大を受け、20億円にも上る巨額の臨時軍事費予算案が提出された。中身は軍事機密として明示されなかった。予算は会期末の8日、政府の原案通り、成立した。

     戦時とはいえ、スピード審議を嘆く声もあった。「20億を精査もせずに通過した議会、他日国民に会わせる顔がなくなるであろう事を予想せる者、幾人ありや。憲政はサーベルの前に屈しぬ」。外務省東亜局長の石射(いしい)猪太郎はこう日記に記した。

     同年12月に召集された第73回議会(通常会)の焦点は、国家総動員法案だった。

     法案は、議会の議決を経ずに、政府の権限で国民生活全体への統制を実施できるとしていた。政友会も民政党も、議会軽視として強く反発した。

     翌38(昭和13)年2月24日、法案の審議が始まると、民政党の斎藤隆夫、政友会の牧野良三らが質問に立ち、反対の論陣を張った。

     斎藤は、法の必要性は認めつつも、広範な委任立法は、戦時下、憲法上の国民の権利義務に拘束されずに大権を行使できるとした「天皇の非常大権」を干犯し、憲法違反の疑いがあると追及した。政府側は答弁につまって審議は中断した。

     これに対し、社会大衆党は、法案に賛成の立場から、浅沼稲次郎(戦後、社会党委員長)が質問した。社大党は、37(昭和12)年4月の衆院選で、無産政党では戦前最高の37人が当選していた。同党は、戦争に協力するとして右旋回し、国家社会主義的な主張を強めていた。

     結局、国家総動員法は38年3月24日、原案のまま成立した。

     その背景には、右翼勢力や軍部の圧力があった。実際、同月3日の委員会審議の最中、陸軍省軍務局の佐藤賢了中佐が、ヤジを飛ばす政友会の宮脇長吉を「黙れっ」と一喝する一幕もあった(「黙れ事件」)。

     ◇「新党」で揺さぶり

     だが、政友、民政の両党が態度をひょう変させた最大の理由は、近衛首相の発言だった。

     審議が難航し、成立の見通しが立たないことに苛立(いらだ)った近衛が同月11日の会議で、「重大なる危機に陥る場合、閣内結束して法案成立に強固なる決意をもって邁進(まいしん)する」と語ったのだ。

     近衛側近の有馬頼寧(よりやす)=人物抄=によれば、近衛は、法案を通すための最後の手段は、衆院解散しかないが、選挙をしても、2大政党が中心となることは確実なので、「新党を作って選挙に臨むよりほかにない」と語ったという。

     すでに、内相の末次信正は、衆院解散の場合は、緊急勅令によって、既成政党に不利な形で選挙法を改めるよう近衛に進言していた。

     近衛の意向はすぐさま、両党議員に伝わった。国民の人気が高い近衛が党首を務める「新党」によって解散・総選挙を打たれては、既成各党はひとたまりもない。そんな恐怖心に駆られて各党は法案賛成に動いた。

     同法成立の際、衆議院本会議でハプニングがあった。

     社大党の西尾末広(戦後、民社党委員長)が賛成討論で、「ムソリーニのごとく、ヒトラーのごとく、あるいはスターリンのごとく大胆に日本の進むべき道を進むべき」だと、近衛を激励したのだ。

     西尾は議員を除名される。その裏には、まるで「近衛与党」のように振る舞う社大党への2大政党の不満があった。
     

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  16. 「聖戦の美名に隠れて」

     ◇斎藤隆夫の反軍演説

     現在の国会議事堂が完成した翌年の37(昭和12)年、政友会ベテランの浜田国松は、寺内寿一陸相との間で「腹切り問答」を繰り広げた。これは、政党と軍部の正面衝突に発展した。

     「黙れ事件」で一喝された宮脇も、この問答の直後、軍部の政治関与は目に余る、として陸相にかみついている。

     斎藤隆夫も、その前年の36年の衆院本会議で、軍部の政治介入を論難し、他党からも拍手喝采を受け、大反響を呼んだ(「粛軍演説」)。

     とくに陸軍は、同年の2・26事件以降、議会や政党に対する監視の目を強めていた。

     40(昭和15)年2月2日の衆院本会議。演壇に立ったのは、斎藤だった。この日、斎藤は、泥沼化している日中戦争への対応策を厳しく質(ただ)しながら、舌鋒(ぜっぽう)鋭くこう続けた。

     <ただ、いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字をならべ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない>

     これは「反軍演説」と称されるが、内容は、「近衛声明」で混迷するばかりの日中戦争を総括、国家競争の現実を知らぬ近衛元首相らの政治指導を真っ向から糾弾したものだった。

     斎藤は当時、69歳。「五尺(約150センチ)そこそこの小男」で、やせ細った容姿から「ねずみの殿様」と呼ばれていた。演説原稿を棒読みする議員を軽蔑し、自らの言葉で議場に訴えかける雄弁家でもあった。

     ◇斎藤議員は除名に

     約1時間半もの大演説を行った斎藤に、議場からは「もうよろしい」「要点を言え」などの罵声が浴びせられた。

     閉会後、小山松寿衆院議長や民政党幹部は、軍部の怒りを静めようと先回りし、議事録の一部削除と、離党を斎藤に促した。斎藤もやむなくこれに応じ、議事録は3分の2が削除された。

     しかし、政友会中島派、時局同志会、社会大衆党などは飽きたらず、国会からの追放を意味する「除名」を求め、民政党に圧力をかけた。民政党を分裂に追い込み、新党運動の起爆剤にしようという思惑もあった。

     「斎藤隆夫君の言説は一種の援蒋行為である」――斎藤に批判的な議員は「懲罰賛成」の世論を喚起する小冊子を1部10銭で売った。小泉又次郎ら民政党の長老は、これ以上、事態がこじれるのを避けようと、斎藤に自発的な議員辞職を勧めた。

     しかし、斎藤は拒否した。斎藤の元には一般国民から「自発的辞職などする筋合いのものにあらず」と、激励の手紙が多数寄せられていた。

     斎藤の進退は民政党幹部に一任され、総裁の町田忠治は除名を巡る投票での「賛成」を党議決定した。

     斎藤演説から約1か月後の3月7日、衆院本会議で記名投票が行われた。結果は出席者303人のうち賛成296票。議院法に定められた「出席議員の3分の2以上」に達し、斎藤は「言論の府」から追放された。

     反対票を投じたのは芦田均、牧野良三、名川侃市、宮脇長吉、丸山弁三郎、岡崎久次郎、北浦圭太郎のわずか7人(棄権144人)だった。

     除名の旗振り役だった政友会中島派や時局同志会は直後、民政党の一部などと合流し、親軍派の「聖戦貫徹議員連盟」を発足させた。

     斎藤の反軍演説は、政界再編と新党樹立の動きに弾みを与えることになる。
     

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  17. 「新体制」へ雪崩打つ

     ◇聖戦貫徹議員連盟

     5・15事件(32年)の後、政党内閣は途絶えたが、衆院で2大政党が勢力を競い合う構図は変わらなかった。

     岡田内閣の下で行われた36(昭和11)年の衆院選では、民政党が第1党に返り咲き、政友会は半減近い大敗を喫する。林銑十郎内閣による衆院解散・総選挙(37年)では、民政党が議席を減らしたものの、第1党を確保し、政友会が第2党に終わった。二つの選挙では、社大党が躍進している。

     その後内閣は、第1次近衛、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政と非政党内閣が続いた。

     38年、政民両党内に、国家総動員法案を否決して近衛を退陣させ、宇垣一成内閣―新党結成―政党内閣復活の策動もみられたが、現実化しなかった。

     その年夏には、社会大衆党の麻生久や亀井貫一郎らのグループが、近衛新党結成の運動を活発化させている。だが、近衛の態度がはっきりせず、進展しないで終わった。

     40(昭和15)年の政界再編―新党結成の動きは、斎藤除名推進派でつくる聖戦貫徹議員連盟が火を付けた。

     出口のみえない日中戦争の一方で、欧州戦線ではドイツ軍が快進撃を続けていた。国内の閉塞感打破に向け、ナチスなどを念頭に「強力政党」を待望する空気が強まっていた。

     近衛や有馬頼寧、木戸幸一は40(昭和15)年5月、新党樹立のための覚書を作成した。理論面は東大教授の矢部貞治が担当し、近衛側近の風見章が政民両党の有力者に解党への説得工作を続けた。

     社会大衆党は以前から新党に積極的で、近衛も、2大政党と一線を画した議員との連携を望んでいた。陸軍側も、近衛新党・近衛内閣を策していた。

     ◇2か月で相次ぐ解党

     6月24日、近衛は、新党結成に向け、「新体制運動」の推進を図ろうと枢密院議長の辞職を表明した。<余の期する所は、支那事変処理のため、世界情勢に対応するため、強力体制を整えんとするものにして挙国体制の確立にあり。国家の飛躍的発展の使命を認識し、新体制確立の壮挙には欣然(きんぜん)参加せざるを得ずとなすものなり>。

     新体制とは、すべての国民が、国家公益を優先させ、「国家の政治意思を一元化」するものとされ、政治、経済、社会の全面的な変革をめざしていた。

     近衛の決意をみてとった各党は、にわかに動き始めた。39(昭和14)年4月に中島知久平派と、久原房之助派に分裂していた政友会では、40年7月16日に久原派が、30日には中島派がそれぞれ解党に踏み切った。

     解党への慎重論が少なくなかった民政党も、党内から離党者が出るに及んで8月15日、解党する。2大政党の動きに前後して、社大党や中野正剛の東方会、安達謙蔵の国民同盟も相次いで解党した。

     ◇大政翼賛会を結成

     帝国議会開設50周年のこの年、議会から政党がなくなった。

     ところが、肝心の近衛は、一転して新党への意欲を失っていった。右翼からは一国一党の新党の結成は「幕府」の再来であって違憲だ、との批判が出たことをとても気に病んだ。

     近衛は、7月22日の第2次内閣発足直後、政党との関係について、「不即不離」と強調したうえで、一国一党について、「建前として一つしか政党がない、その党の総裁が首相になるというのは我が国の国体に反すると思う。いわゆる幕府的存在になる」と否定した。

     新体制準備委員会が設置され、10月12日、運動の中核組織として大政翼賛会が発足した。近衛は、「綱領は大政翼賛の臣道の実践に尽きる。これ以外には綱領も宣言もなし」とあいさつした。これでは政党といえなかった。参加した議員は翼賛会の一部局の議会局にポストを得たが、重要な決定には加われなかった。

     政界の主導権を奪えなかった2大政党出身議員は、大政翼賛会攻撃を始めた。41年1月25日の国会で、民政党出身の川崎克衆院議員は、大政翼賛会は「憲法の精神に反している」と追及。近衛は「見解の相違である」と答えるにとどまった。川崎は、大政翼賛会は全く法律上の根拠なし、と決めつけた。

     大政翼賛会はその後、事務総長を務めていた有馬らが辞職し、内務官僚らを中心とした組織に改革され、政府の運動組織として終戦直前まで残った。(遠藤剛、東武雄)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131101-118-OYTPT01142
     

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  18. 1940年体制…
    https://www.google.co.jp/search?q=1940%E5%B9%B4%E4%BD%93%E5%88%B6
     

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  19. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<36>植民地統治…兵站基地・皇民化を図る
    2013年11月9日3時1分 読売新聞

     日本の植民地統治下にあった朝鮮や台湾は、1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、人員や食糧、軍事物資を補給する兵站(へいたん)基地としての役割を担うことになった。戦火の拡大とともに動員体制は強化され、「皇国臣民化」が強力に推し進められていく。(文中敬称略)

    ◇南総督の内鮮一体化

     1936(昭和11)年8月、第7代朝鮮総督に南次郎が就任した。総督は、10(明治43)年の日韓併合以来、陸海軍大将の中から任命され、朝鮮の軍務、行政、立法、司法を統括する絶対的権限をもっていた。

     31(昭和6)年の満州事変の時の陸相で、その後、関東軍司令官も務めた南総督の下で、植民地・朝鮮は大きく転換する。

     南は、日中戦争勃発を受け、朝鮮を「大陸前進兵站基地」と位置づけた。将来、内地と大陸を結ぶ航路の安全が脅かされることも想定、内地の物資に頼らずに中国戦線を支援できるよう、朝鮮の産業の多角化や軍需産業の育成を図った。

     日本人と同様に、朝鮮人の戦時動員を可能にするため、「内鮮一体」化策も進めた。皇民化教育、志願兵制度、創氏改名の三つが柱だった。

     この南の「内鮮一体」化と、ある意味で対照的なのは、斎藤実総督(1919~27年、29~31年在任)の「内鮮融和」だった。10年代の強権的な「武断統治」が、19年の3・1独立運動を招いたことへの反省が、融和政策の背景にあった。

     朝鮮資本による朝鮮語の新聞の発刊を認め、日本人学校でも朝鮮語を教えた。総督府主催の朝鮮美術展なども開催。20年代は「文化政治」と呼ばれた。

     満州事変後、朝鮮の戦略的役割が注目され始めるが、宇垣一成総督(31~36年)は、極端な「内鮮一体」化策は取らなかった。つまり南総督は、統治のあり方を大きく見直したのだ。

     南は、腹心の塩原時三郎を学務局長に抜てきした。塩原は東京帝大の学生時代、後に天皇機関説排撃の急先鋒(せんぽう)となった蓑田胸喜らと共に「興国同志会」を結成した国家主義者だった。

     「皇国臣民の誓詞」が制定され、学校で、「我等ハ皇国臣民ナリ 忠誠以テ君国ニ報ゼン」などと生徒たちに唱和させた。神社参拝も頻繁に行われるようになった。

     朝鮮教育令も改正し、「忠良ナル皇国臣民ヲ育成スル」ことを明確に打ち出した。それまでは、主として日本人が通う学校(小中学校、高等女学校)と、朝鮮人が通う学校(普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校)の2系統に区別されていたが、日本式に統一された。

     普通学校で教えられていた朝鮮語は随意科目となり、朝鮮人に対する朝鮮語教育は、やがて廃止される。

    創氏改名と大量動員

     「創氏改名」は、父親を家長とする日本の「家制度」を朝鮮に導入するのが狙いだった。

     40(昭和15)年2月に施行された「改正朝鮮民事令」では、戸主に、6か月以内に、日本式に「氏」を届け出るよう求めた。届け出がない場合、朝鮮式の「姓」が自動的に「氏」として戸籍に登録された。

     朝鮮では従来、朝鮮人が日本風に改名することを、事実上禁止していた。このため、文学界の重鎮だった作家の李光洙は、差別がなくなったのだと歓迎し、創氏改名を呼びかけた。自身も香山光郎と名乗った。だが、創氏改名しても、実際には日本人との戸籍上の区別は残った。

     創氏改名の成績を上げたい地方行政機関は、住民が届け出るよう圧力をかけた。地域代表や巡査が、本人が知らぬ間に改名してしまう例もあったようだ。

     出足は鈍かったが、最終的には全世帯の約80%が届け出をした。ただ、徳川家康、楠木正成などと大書した表札を掲げて、憤りを示した人もいたという。

     韓国の歴史家、池明観は「30年代後半に始まった朝鮮語の抹殺、神社参拝の強要、ひいては『創氏改名』に至る統治政策は、今までの政治的支配、経済的収奪よりも一層耐え難いものであった」と著書に記している。
     

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  20. ◇志願兵から徴兵へ

     38(昭和13)年に国家総動員法を公布した近衛内閣は、労務動員実施計画の策定に着手した。その一つに、朝鮮人労働者の動員計画があった。39年度から終戦までの間に朝鮮から日本本土や樺太、南洋諸島に約70万人の労働者が移住させられた。

     戦時下、日本国内では労働力不足が深刻化し、朝鮮からの動員は重要な意味を持った。当初は、日本政府の許可を得た事業主(鉱山、炭鉱、土木事業など)が朝鮮総督府の許可を得て、割り当てられた人数の「募集」を行って集団渡航させた。

     42(昭和17)年からは「官斡旋(あっせん)」の方式もとられた。事業主から申請を受けた総督府が、動員人数を地域別に割り振り、末端の地方行政機関が、労働者を集めて隊組織に編成した。移送は総督府の外郭団体が行った。「募集」方式では、動員目標の達成が難しく、逃亡者も多かったためだ。

     44(昭和19)年には、39年に制定されていた国民徴用令が朝鮮でも本格的に発動された。

     また、労務動員計画とは別に、陸海軍工場などで働く軍要員(軍属)として約14万人が動員された。

     日本軍は中国や南方などの占領地に兵士の慰安所を設けたが、朝鮮でも民間業者によって、慰安婦の募集が行われた。

     軍部は、朝鮮からの兵力動員も急務と考えていた。しかし、強い民族意識を持つ朝鮮人に武器を持たせることに不安を抱いてもいた。日本の陸軍士官学校を卒業し、任官されるほかは、朝鮮人が軍務に付くことはできない時代が続いていた。

     手始めに38年、陸軍特別志願兵制度が導入された(海軍は43年)。応募者は年々増えて、43年には6300人の募集に対し、50倍近い約30万人が殺到した。背景として、軍の強い働きかけや、貧しい農家が多かったこと、徴兵より待遇がよいと期待されたことなどが指摘されている。

     終戦間際の44(昭和19)年には徴兵制が実施され、約10万人が動員された。

     40(昭和15)年当時の朝鮮の経済状況は、「大正2、3年ごろの内地とほぼ同程度」(松原純一・朝鮮銀行総裁)と言われていた。

     ソウル(漢城)を改称した「京城」の人口は急増し、100万人に近づきつつあった。その約2割は日本人で、日本人が多く居住する地域には、明治町、大和町などの地名が付けられ、三越百貨店京城支店など日本のモダンなデパートがにぎわいを見せていた。

     京城帝国大学の卒業者も既に10期を数えていた。その3分の2が日本人だったが、成績のトップクラスには朝鮮人が多かったという。

     30年代の急速な工業化により、朝鮮の製造業の生産額は、40年には約7億円に達し、10年間で6倍になった。

     30年に操業を始めた日本窒素の系列会社、朝鮮窒素肥料興南工場は、水力発電を利用した最新式の化学工場で、高い実績を上げていた。平壌と鎮南浦を中心とした平南総合工業地区は、京浜、阪神、中京、北九州の4大工業地帯とともに、5大兵站基地と呼ばれた。一方で、京城紡績など、朝鮮資本の企業も、徐々に成長していった。

     しかし、過酷な労働を強いるケースが多く、30年前後をピークに争議が頻発した。

     農村の貧困も続いた。土地を担保に金融機関から融資を受け、借金の返済が出来なくなって土地を手放す農民も多かった。20年代から30年代前半にかけて産米増殖計画が推進されたが、増産以上に対日輸出が増えたために、農村は貧窮化した。

     富裕層やエリート層を中心に、親日派の朝鮮人は徐々に増えていったが、植民地支配への不満や反感は根深くあった。

     36年のベルリン五輪では、日本代表としてマラソンに出場した孫基禎選手が、金メダルを獲得した。朝鮮紙の東亜日報は、孫選手の胸の日の丸を塗りつぶした写真を掲載、無期停刊処分を受けた。

     この時期、朝鮮人の抗日活動は朝鮮の外で続けられた。満州を地盤とした金日成(キムイルソン)の抗日反満運動、中国の重慶政府と連携した金九の韓国光復運動や米国に拠点を置く李承晩の活動は、朝鮮人の間で広く知られていた。
     

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  21. 「南進」で重要度増す

    ◇国防の最前線

     35(昭和10)年10~11月、日本の台湾統治40周年を祝う「台湾博覧会」が、台北で盛大に開かれた。〈興隆日本南進の使命は強く双肩に〉――行進曲「躍進台湾」はレコード化され、広く歌われた。

     この時、各地を巡った中国の視察団は、台湾の成長ぶりに驚嘆している。彼らは、後に報告書に「日本人に(開発が)できて、中国人になぜできなかったのか」と記した。

     30年代半ば、台湾は国防の最前線として重要度を増した。日本は、南洋諸島の委任統治領の扱いや、ワシントン海軍軍縮条約失効に伴う建艦競争の難題を抱えていた。

     36(昭和11)年9月には、総督の中川健蔵が更迭され、17年間の文官総督時代が終わった。新たに就任した海軍予備役大将の小林躋造(せいぞう)は、〈1〉皇民化〈2〉工業化〈3〉南進基地化――を統治の基本政策に掲げた。

     なかでも、皇民化運動は、台湾語による文章表現を禁止し、「国語(日本語)」の常用や、神社への参拝などを台湾人に強いた。40(昭和15)年には、台湾で「日本語を解する者」は、多く見積もれば51%に達したという。

     紀元二六〇〇年の40年、台湾人の姓名を日本式に改めさせる「改姓名」運動も始まった。しかし、朝鮮の「創氏改名」と異なり、国語を常用する家庭などに限って認めるという「許可制」だった。改姓名者は、台湾人総戸数・総人口の約1%にとどまった。

     皇民化は様々な手だてで浸透が図られた。台湾の国民学校の音楽の教科書に載せられた<おばあさん>の歌詞は、日本名「花子」となって日本語が上達した台湾人の孫に、自宅で熱心に日本語を勉強している祖母が「おかへりなさい」と語りかける内容だ。

    ◇勇猛な高砂義勇隊

     戦時下の台湾人の徴用は、37(昭和12)年秋に始まった。42年4月からは「陸軍特別志願兵」の制度が始まり、台湾人が日本兵として戦地に向かった。志願兵が殺到する事態も起きた。43年8月からは、海軍でも特別志願兵が導入された。44年9月、台湾でも徴兵制がしかれた。

     台湾の先住民も兵士となった。フィリピンに従軍した作家の火野葦平(あしへい)は現地で、明瞭な日本語を話す「眉毛や額や顎に刺青をしている者もある」異様な集団に驚く。「高砂(たかさご)義勇隊」として編成された約1800人の部隊は、日本兵の代わりに密林で勇猛果敢に戦った。

     旧厚生省の発表によれば、戦争にかり出された台湾人の軍人は8万433人、軍属・軍夫は12万6750人の計20万7183人。このうち戦死・戦病死は、14・6%にあたる3万304人に上った。

    ◇工業が農業上回る

     36(昭和11)年11月には、半官半民の国策会社「台湾拓殖株式会社」が設立された。台湾の工業化と南洋開発のため、多くの子会社をもち、東南アジアにも進出した。

     米の生産や製糖が基盤だった台湾の産業は、この時期に変貌し、工業生産額は37年の3億6380万円から40年には6億2914万円に倍増し、39年には農業生産額を逆転した。これは38(昭和13)年からの「生産力拡充五カ年計画」によって、化学、金属工業などの軍需部門が飛躍的に伸びた結果だ。

     しかし、これによって台湾人の企業家や労働者が潤ったわけではなかった。製糖業にしても、日本資本が大部分を占め、栽培農家からの買い付け価格も低く抑えられた。

     日本人と台湾人は、同一労働でも報酬は2倍以上の開きが当たり前だった。36(昭和11)年に台湾を訪れたジャーナリストの大宅(おおや)壮一は、「日本人は、土着民よりはるかに高い文化と快適な生活をエンジョイしている」と書いた。
    (天日隆彦、岩城択、上杉洋司)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131108-118-OYTPT01258
     

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  22. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<37>日独伊三国同盟…独軍の勝利 妄信の果て
    2013年11月16日3時1分 読売新聞

     第2次世界大戦でドイツの電撃作戦が奏功し、1940(昭和15)年6月にはパリが陥落した。日本では、「バスに乗り遅れるな」と、ドイツとの提携強化を求める声が強まり、9月、日独伊三国同盟が締結される。しかし、この軍事同盟は日米戦争の要因になる。(文中敬称略)

    ドイツの背信 一度は頓挫

    ◇ナチスへの傾斜

     ヒトラーが率いるドイツへの接近は、1936(昭和11)年11月に締結された日独防共協定に始まる。ナチ党の外交機関長リッベントロップが、陸軍の駐独武官・大島浩=人物抄=に持ちかけ、35(昭和10)年秋から交渉に入った。

     日独両国は、33年に国際連盟を脱退し、ソ連の軍事的圧力とコミンテルンの影響力の排除を必要としていた。大島は、仮想敵・ソ連を日独で挟撃したいと考えていた。

     ドイツの国防省や外務省は、日独提携に反対だった。ドイツでは、第1次大戦で日本が中国・山東省のドイツ権益を奪ったことなどから反日感情が強かった。また、中国侵略を進める日本と連携すれば、英国を敵に回しかねないとの懸念もあった。

     交渉が正式な外交ルートにのせられると、吉田茂・駐英大使(戦後、首相)は、「陸軍はナチスドイツを買いかぶっている」と猛反対した。

     だが、外相の有田八郎は、情勢に応じて修正ができる「薄墨色程度」の協定だとして容認した。実際、協定の内容は、反ソ軍事同盟には遠い「反共産主義」の政治協定にとどまった。

     この間、大島と参謀本部が交わした暗号電報はすべて、ナチの秘密警察に傍受され、ソ連のスパイ網を通じてスターリンに筒抜けになっていた。

    ◇ヒトラーの野望

     ヒトラーは37(昭和12)年11月、国軍首脳らを集めた会議で、東欧侵略の構想を明かした。これに消極的な国防相や外相らを38年2月に解任、ヒトラー自らが最高司令官に就任した。ヒトラーは、同年のオーストリア併合とチェコスロバキアの解体で、野望を具体化していく。

     英仏との衝突を覚悟するヒトラーは、日本が、その海軍力で英国をけん制することを期待し、イタリアも加わった防共協定の強化へと動き出した。

     一方、37(昭和12)年7月から日中戦争が始まると、大島はリッベントロップに、ドイツの対中軍事支援の中止を要請し、さもないと防共協定を離脱せざるを得ない、との考えを伝えた。

     38(昭和13)年2月、外相に起用されたリッベントロップは、独外交の「親中」路線を「親日」へと転換させる。

     ドイツは同年4月以降、中国からの軍事顧問団の引き揚げ、対中武器輸出の中止、満州国承認と、立て続けに対日融和措置を取った。

     38年、日本国内では歌手・東海林(しょうじ)太郎の<日独伊防共トリオ>がヒットしていた。

     <ローマ、ベルリン、東京の防共塁壁、枢軸堅し みよや黎明(れいめい)、三大星座……>。

     長引く日中戦争にあせりを覚えていた陸軍は、「黎明」をみたかのように三国同盟案に飛びついた。外務省でも、駐イタリア大使の白鳥敏夫ら革新派の官僚が同盟締結を強く主張した。

    ◇海軍首脳らが反対

     しかし、英米との関係悪化を心配する外務省主流派や海軍首脳部は、三国同盟に反対だった。海軍の米内(よない)光政海相、山本五十六(いそろく)次官、井上成美(しげよし)軍務局長らが、成立阻止に動いた。

     39年8月の五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相が出席)で、日独伊が英米仏ソを相手に戦争をした場合の勝算を尋ねられた米内は、「勝てる見込みはありません」と答えている。

     五相会議は約1年間、数十回にわたって激論を戦わせたが、結論は出なかった。業をにやしたドイツは、イタリアとの間で軍事同盟を締結した。さらに39年8月23日、突如、ソ連と不可侵条約を結び、この問題はあっけない幕切れを迎える。

     同条約の締結は、防共協定の秘密付属協定違反であり、ドイツの背信行為だった。平沼騏一郎(きいちろう)内閣は直ちに総辞職した。
     

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  23. 三国同盟にプラスソ連

    ◇日本の海軍力に期待

     独軍は39(昭和14)年9月1日、ポーランド領内に侵攻した。2日後、英仏両国が対独宣戦を布告、第2次世界大戦が始まった。ソ連は9月17日、ポーランド東部に侵攻した。ドイツとの密約に基づくものだった。

     日独関係は冷却化し、三国同盟締結交渉は頓挫した。だが、ドイツには日本と同盟を組む利点が依然として存在した。特に日本の海軍力への期待は大きく、日本を仲介役にアジアの物資を獲得する思惑もあった。

     ドイツは、「独ソ日の3か国は、英仏を代表とする『旧体制』を打破し、『新秩序』の構築に尽力する勢力である」との論法を用いて独ソ連携を正当化した。ヒトラーは39年9月20日、ポーランド戦線を視察した寺内寿一・陸軍大将に対し、日独ソ3国による反英統一戦線の結成を呼びかけた。

    ◇米内内閣は退陣

     独軍は翌40(昭和15)年4月9日、デンマーク、ノルウェーに侵攻を開始し、5月10日にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに入り、6月14日、パリを陥落させた。

     快進撃に幻惑された日本は、陸軍を中心に三国軍事同盟締結を求める声が再び高まった。

     陸軍は、同盟締結に消極的な米内首相を引きずり下ろすため、畑俊六陸相を辞任させ、後任を出さないことで内閣総辞職に追い込んだ。

     後継の第2次近衛文麿内閣は、40(昭和15)年7月27日の大本営政府連絡会議で、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ポイントは、独伊との政治的結束強化と、対ソ国交の飛躍的な調整だった。

     今回の三国同盟は、ソ連を仮想敵とした防共協定とは、まったくベクトルが異なっていた。外相の松岡洋右は、独ソ不可侵条約や欧州戦局を踏まえ、三国同盟プラス・ソ連の4国連合(協商)を構想していた。

     松岡が書いたと見られる「事変を迅速且(か)つ有利に終熄(しゅうそく)せしむべき方途」という文書(39年7月19日付)には、ソ連を取り込むことが、日中戦争解決の決め手になるとの見方が示されている。それは蒋介石政権を援助している英米とソ連という「二本の支柱」のうち、一本を奪えたなら、戦争は速やかに収束可能としていた。

    ◇自動参戦規定で応酬

     三国同盟交渉は40(昭和15)年9月初め、独外相リッベントロップの特使、ハインリッヒ・シュターマーが来日し、松岡との間で本格化した。シュターマーは松岡に「日ソ親善についてドイツは『正直な仲買人』になる用意がある」と日ソ提携の仲介を約束した。

     交渉の焦点は、盟約国の一国が、欧州戦争ないし日中戦争に参加していない国から攻撃を受けた場合、他の盟約国が自動的に参戦する義務が生じるか否かの問題だった。日独とも米国の軍事介入を意識していた。

     海軍は、参戦について自主的判断の確保を強く主張、「自動参戦規定」を認めなかった。

     三国同盟反対の吉田善吾海相が40年9月、病気辞任し、後任に及川古志郎が就くと、海軍は同盟そのものに反対する立場を放棄し、条件交渉に転換した。

     ドイツ側の条約原案(第1次リッベントロップ案)は、盟約国に対し攻撃が行われた場合の相互援助義務を規定しており、自動参戦規定に等しかった。

     これに対し、日本側は、〈1〉盟約国が攻撃を受けたか否かは、関係各国政府により決定される〈2〉日本が攻撃を受けた場合、独伊は太平洋であらゆる手段で日本を援助する――などの規定を、秘密議定書の中に盛り込むことを提案した。

     だが、ドイツは、独伊にのみ日本への一方的援助を求める提案は受け入れがたいとして修正を求めた。

    ◇「秘密書簡」で処理

     三国同盟の締結に必要な日本政府内の手続きは、この第1次リッベントロップ案を基にしていた。臨時閣議(9月16日)で松岡は、いつものように冗舌だった。「ドイツは石油が豊富だ。フランスの占領により消費した以上の石油をとった。日本は困っているから、半分くらいよこせと言った。ソ連との国交調整も斡旋(あっせん)するというので、北樺太の石油利権も斡旋してくれ、場合によっては全部買収してよいと言っておいた」

     御前会議(9月19日)では、対米関係の悪化や、参戦の主体性確保を心配する声が出た。松岡は、形式的には日本の自動参戦義務を認めるが、参戦の時期や方法は、日本が自主的に決定できると答えた。

     その後、日本に届いた第2次リッベントロップ案も、自動参戦義務の建前は貫かれた。参戦の自主的判断を確保するため、松岡が提案した秘密議定書の作成は、結局、オット駐日ドイツ大使から松岡宛ての秘密書簡という形式に落ち着いた。

     秘密書簡は、盟約国の一国が攻撃を受けたかどうかは、盟約国間の協議で決定するとしていた。松岡が海軍や条約を審査する枢密院に「自動参戦義務は回避された」と説明できるよう、オットに強要して書かせたものだ。だが、オットもシュターマーも、秘密書簡のことをリッベントロップに伝えなかった。

     三国同盟条約は9月27日、ベルリンで調印された。
     

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  24. 日米開戦の伏線に

    ◇米国首脳ら猛反発

     日独伊三国同盟によって、米国の対日不信は強まった。米国務長官ハルは9月27日、「米国は、対英、対中援助を増やし、日本に対する経済的な圧力を強める」との声明を発表した。

     三国同盟は、「対象国」を明確に規定していたわけではなかったが、米陸軍長官スティムソンは「威嚇」であると受け止めた。駐日大使グルーは、「日本は略奪国家のチームに加盟するようになった」と指摘し、ハルは、「日本はヒトラーの同盟国であり、残忍な侵略者」ととらえた。

     ルーズベルト大統領も12月、「日独伊三国同盟が意図する新秩序とは人類を支配し、隷属化しようとするものである。我々は、これに抵抗しようとする国家に対し、援助しなければならない」と語った。

     三国同盟を契機として米国は、日本をドイツと並ぶ米国の敵として位置づける一方、中国を米国の友人として扱い、英国と並ぶ事実上の同盟国と考えるようになった。

     日独両国とも、米国の参戦や米国との戦争を回避するための牽制(けんせい)の意味を三国同盟に込めたが、米国には通じなかった。

    ◇独ソ関係の悪化

     ドイツが西部戦線に没頭する中、ソ連は、ドイツとの密約の範囲を超えて東欧に進出し、ヒトラーの怒りを買った。また、ソ連も、敵対していたフィンランドをドイツが支えたことに反発し、独ソ関係が悪化した。

     40年11月12~13日、ヒトラーとソ連外相モロトフの会談がベルリンで行われたが、事実上決裂した。この時点で、ソ連を含む4国連合構想は、存在の余地がなくなっていた。

     ヒトラーは12月18日、対ソ戦「バルバロッサ作戦」の準備を指令した。日独伊三国同盟の締結から3か月足らずのことだ。

     こうした中、松岡は41年3月から訪欧し、同年4月、ソ連で日ソ中立条約を締結する。

     三国同盟条約案を可決した40年9月26日夜の枢密院本会議で、石井菊次郎顧問官は、「ドイツは最も悪(あ)しき同盟国であり、ドイツと結んだ国はすべて不慮の災難を被っている」としながらも、利害関係のまったく一致した「3国の結合は自然の勢い」であり、「国策として当をえたもの」と述べた。意味深長な賛成発言は、独ソ開戦や日米戦争を暗示したかのようだった。(笹森春樹、関泰晴、岩城択)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131115-118-OYTPT01079
     

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  25. 今回の「三国同盟」ってのは、「日中韓」それとも「日中露」、どっちかな?(笑)。
     

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  26. 外務省「日中韓三国間協力ビジョン」
    http://koibito2.blogspot.jp/2013/10/blog-post_10.html
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81+%E6%97%A5%E4%B8%AD%E9%9F%93%E4%B8%89%E5%9B%BD%E9%96%93%E5%8D%94%E5%8A%9B
     

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  27. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<38>日米開戦(上)「零戦」「大和」栄光と悲惨
    2013年11月23日3時1分 読売新聞

     日本は、日中戦争によって米国との関係を決定的に悪化させ、圧倒的な国力差を顧みない無謀な戦争に突き進んでいく。開戦の前年、日本は、技術の粋を集めて戦闘機・零戦(ゼロ戦)と戦艦大和を誕生させる。それは戦前昭和の栄光と悲惨の象徴でもあった。(文中敬称略)

     ◆零戦 鮮烈なデビュー

     1940(昭和15)年9月13日午後、中国・重慶の上空は快晴だった。爆撃機護衛の任務を終えた13機の零戦隊が、30機ほどの中国軍戦闘機隊を発見した。「ゼロ」の初陣だ。

     零戦は、かつてない加速と鋭い旋回で、ソ連製敵機を照準器にとらえる。20ミリ機銃が火を噴くと、主翼が吹き飛んだ。引き金を引いた搭乗員は、その破壊力に目をみはった。

     その日夕方、三菱重工業・名古屋航空機製作所で、零戦を設計した主任技師・堀越二郎の前に上司が立った。

     「堀越君、大ニュースだよ」

     上司は、重慶での空戦結果を上機嫌で告げた。27機撃墜、零戦の未帰還なし。完全勝利だった。

     堀越は技術者として「チャンスさえあれば、こうした戦果は毎日でも挙げられる」と思った。彼が生んだ戦闘機は、3000キロ以上の航続距離、500キロ超の最高時速、抜群の運動性能を兼ね備え、強力な20ミリ機銃も装備していた。

     「持たざる国」日本が、持てる技術を結集して作り上げた世界最高の戦闘機の正式名称は「零式艦上戦闘機」である。誕生年がちょうど紀元二六〇〇年にあたることから「零」の名が付いた。

     小出力の国産エンジンで高性能を実現するため、これ以上削る余地がないところまで削った。搭乗員を守る座席後部の防弾板さえない。攻撃精神を過度に強調する軍は、それを求めていなかった。零戦は、物心両面から日本の姿を映していた。

     しかし、無敵の零戦もやがて、レーダー管制下、チームプレーで戦う高速・重武装の米戦闘機群に圧倒されるようになる。その苦闘も、総合国力で劣った日本と重なる。

     計1万機以上生産された零戦は、日米開戦前から終戦まで、空の主力として、大陸で、南洋で、本土で戦い続けた。44年10月、フィリピンでの初の特攻作戦では、250キロ爆弾を抱えた零戦が、米空母を撃沈する戦果を挙げた。その後、多数の零戦が米艦船に体当たりする「十死零生」の特攻に使われる。


    技術の粋集め 最新兵器

     ◆世界最大の巨艦

     零戦のデビュー直前の8月8日午前8時、広島県・呉に防空演習のサイレンが鳴り響いた。

     一般人の外出、軍港での船の航行は禁じられた。この日、海軍工廠こうしょうで、世界最大の巨艦の進水式が密ひそかに行われたのだ。

     呉鎮守府長官の日比野正治が艦名を読み上げた。

     「軍艦大和」

     全長263メートル、三連装の46センチ砲塔3基をもつ戦艦は、日本の別称でもある名がつけられた。

     海軍内では、対外強硬派の艦隊派が、国際協調を唱える条約派を圧倒していた。日本の主力艦保有割合を米、英の6割に制限するワシントン条約(1922年発効)は失効し、建艦競争の時代に入っている。

     建造量において、日本は、どうあがいても米国には勝てない。海軍が持とうとしたのは、「他国の追随を許さぬ卓越した戦闘力を備えた戦艦」だった。

     当時、日本を含む世界の海軍では、巨砲を持つ主力艦を最重視する「大艦巨砲主義」が依然として主流だった。

     戦艦同士の決戦において、射程40キロ以上の46センチ砲を持ち、米戦艦の砲弾が届かない遠距離(アウトレンジ)から攻撃できる不沈艦は、理論上、損害を受けることなく、敵を撃破できる切り札だった。

     大和もまた、持たざる国の象徴だったのである。

     大和にとっての不幸は、進水翌年、41(昭和16)年の12月に竣工しゅんこうした時には、決戦兵器が航空機に移っていたことだ。

     四十数キロ先の標的に46センチ砲を撃つと、着弾まで約1分かかるという。移動する敵艦に命中させるのは神業に近く、「アウトレンジ」戦法など机上の空論に過ぎなかった。しかも、敵の制空権下では、射程内に近づくことさえ難しかった。

     開戦後、大和はほとんど戦果を挙げないまま、終戦前の45(昭和20)年4月7日、沖縄への特攻途上、米艦載機群の攻撃によって沈没する。

     ◆「戦艦は無用の長物」

     40年9月の日独伊三国同盟締結の頃、首相の近衛文麿から日米戦の見通しを問われた連合艦隊司令長官・山本五十六=人物抄=は、こう答えている。

     「ぜひやれと言われれば、初め半年や1年の間は、ずいぶん暴れてご覧にいれる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」

     山本の真意は非戦であり、日米戦争回避の努力も近衛に求めた。ただ一方で、山本は、米国といかに戦うかということを考え続けてきた。

     太平洋を西に進んでくる米艦隊に徐々に損害を与え、主力艦隊の決戦に持ち込むという従来の長期作戦計画では、最終的には米国の国力に圧倒される。

     そこでどうするか。30年代後半、海軍航空本部長だった山本は「将来、飛行機の攻撃力はさらに威力を増し、戦艦は無用の長物になる」とみていた。「大和」建造に向かっていた時期にあって常識外れの発想だった。

     だが、零戦が開発されたように、航空機は日進月歩である。40年3月の洋上演習で、山本の着想の正しさが証明される。航空隊が雷撃で、戦艦、空母を次々に「撃沈」したのだ。戦艦長門の艦橋で演習を見守っていた山本は、こう漏らしたという。

     「飛行機で、ハワイ(米太平洋艦隊基地)をたたけないものかな」

     22(大正11)年、世界初の空母「鳳翔」が建造されたあと、20年近くがたった41年時点の、日本の保有空母数は、9隻に達していた。米国の空母は7隻だったが、太平洋と大西洋に振り分けられるため、太平洋には3隻しかいない勘定だった。

     赤城、加賀、蒼竜、飛竜、翔鶴、瑞鶴……日本の空母機動部隊は強烈な打撃力を備えていた。しかも、その艦上には、日中戦争で経験を積んだ搭乗員が乗る最強の零戦がある。

     山本は、日米戦争で第一になすべきは、「開戦劈頭へきとう、主力艦隊を猛攻、撃破し、米国海軍および米国民の士気を救いようのないほどに阻喪させる」ことと考えていた。

     開戦した瞬間の強烈な一撃で米国の戦意を砕く。機動部隊が真珠湾攻撃を敢行するのは、41年12月8日のことである。

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  28. 日米の国力差 直視せず

     ◆対米石油依存経済

     日米両国の国力の差。誰もが知る厳然たる事実は、開戦論に対する歯止めになっていた。

     だが、零戦が初陣を飾り、大和が進水した40(昭和15)年、海軍は対米開戦に傾斜。この年の12月に設置された第一委員会の石川信吾・軍務局第2課長=写真=らが、同委員会を拠点に開戦論をリードしていく。

     当時の海軍には、「今なら対米比約7割の戦力がある。この機を逃せば、米国と戦えるチャンスは二度と来ない」という認識があった。

     開戦派は、軍事バランスの一時的接近に戦機を見いだし、国家の命運をかけようとした。手には、零戦や大和という切り札を握りしめていた。

     日米の海軍戦力を41年の開戦時でみると、合計トン数は、日本の1に対して米1・46で、対米比率は68・5%だった。

     しかし、冷静に考えれば、日本は石油をはじめ戦争遂行に必要な資源の大半を、米英ブロックからの輸入に頼っていた。

     米国は、世界最大の産油国であり、日本はその大半を米国から輸入していた。39年時点での対米石油輸入量は445万キロ・リットル。全輸入量の9割を占めた。

     さらに日米の経済力を比較すると、米国との差は歴然。41年の日本の国民総生産(GNP)が1660億ドルに対し、米国は約7倍の1兆940億ドルだった。

     工業力を象徴する自動車産業をみると、開戦時の米国の生産台数は、年間約484万台で、日本の105倍に相当した。均一な製品を大量生産する製造ラインが稼働していた。

     開戦後、こうした製造ラインは、軍用機や戦車などの軍需に転用された。日本も兵器増産を進めたが、日米の生産力格差は開く一方だった。

     ◆強まる米の経済制裁

     米政府は、日中戦争拡大を受け、39(昭和14)年7月、日米通商航海条約の破棄を通告し、半年後の40年1月、条約は失効した。米国は条約上の義務を解かれ、対日経済制裁にフリーハンドを得た。米国は同年9月には、「くず鉄」の対日輸出禁止を発表した。日本軍が北部仏印に進駐した際の措置だった。

     こうした中、開戦の可否を左右する日本の「物的国力」が問題になる。

     41(昭和16)年3月、陸軍省戦備課が報告した国力判断の結論は、「対米英長期戦の遂行に対し、不安あるを免れない」だった。石油やゴム、ボーキサイトなどを産出する東南アジアの資源地帯への武力行使論は、これでいったん後退する。

     国力判断にあたっての大きなポイントが船舶消耗率だ。南方と日本を結ぶシーレーン確保の問題である。

     敵の攻撃によって、船が沈没したりすれば、石油を獲得しても持ち帰ることができず、戦争の遂行どころか、国民生活の存立さえ危うくなってしまう。

     同年6月、海軍の第一委員会が海軍首脳に出した意見書は、船舶消耗率「約10%」という数字を示し、その程度なら「補充は可能」との大胆な見解を打ち出した。燃料についても「相当の自信を以て対処し得べき結論に達せり」としていた。

     しかし、これらの判断は、米軍の海軍力を過小評価し、あえて損害を小さく見積もった無責任な数字、とみられても仕方がなかった。

     日本軍は41(昭和16)年7月、資源確保を念頭に南部仏印に進駐する。これに米国は、在米日本資産の凍結と、対日石油輸出の全面的禁止で対抗する。

     ◆あやふや船舶消耗率

     国力判断は最後まで揺れ続ける。10月に内閣を発足させた東条英機首相は、開戦の場合の国力の再検討を指示した。

     これを受け、企画院(戦時経済体制の調査・立案機関)総裁の鈴木貞一は、11月5日の御前会議で、常時300万トンの船舶があれば、南方からの物資はだいたい入手できる旨報告した。しかし、この通りに船を確保できるという保証はなかった。

     当時、官僚や民間の若手俊秀を集めた内閣直属の「総力戦研究所」の担当者は、御前会議で確認された船舶消耗量に比べて20~50%も多い数値をはじき出していた(猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』)。

     結局、鈴木報告は、確かな根拠のない数字を羅列して開戦を後押しした。実際、快進撃を続けた戦争初期こそ、日本の輸送船団の損害は開戦前の予想を下回っていたが、42年のガダルカナル島の戦いから一変する。

     開戦2年目から3年目にかけての輸送船損失は、戦前予想の実に3~5倍程度に達したとされる。シーレーンの喪失は、日本の崩壊を意味していた。

     (杉山祐之、隅谷真)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131122-118-OYTPT01058
     

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  29. 【テレ朝メルマガ 報道ブーメラン第708号】「益荒男ぶり」抑えた安定政権 二年目に問われる真価

    ■02■編集後記

      忘れていた。電光掲示板のある辺りからバックスタンドにかけては、
      「西日」がきついことを。風がないから体感温度も上がる。
      マフラーをとり、コートを脱ぎ、さらにセーターを膝の上に置いた。
      まるで「北風と太陽」だ。千駄ヶ谷の駅前で受け取った
      「明大スポーツ」を額にあてて日差しを避け、そういえば、
      「雪の早明戦」も、ここにいたなぁ、と思い出した。

      「国立で最後の早明戦」「試合後にユーミンがノーサイドを歌う」。
      そんな宣伝文句に、居ても立っても居られず、
      国立競技場に馳せ参じた。「国立」でラクビーを見るのは、
      大学卒業以来、実に20数年ぶり。
      早明ともに対抗戦での優勝は「ない」と分かってはいるし、
      今の大学ラクビーは、帝京大学の“天下”だとも理解している。
      でも「早明戦」なのだ。

      この日、詰めかけた観客は、4万6961人。
      この数年ふるわなかった観客動員数はなんとか格好がついた。
      ただ、「一般席」には、自分のようなオジサン、オバサンばかり。
      それこそ20数年前は、「学生席」だけでなく、
      「一般席」まで、学生でいっぱいだったのに。

      試合のほうは…一生懸命の選手らには、大変申し訳ないが、
      あまり見るべきものはなく、ノーサイドを迎えた。
      今日はこれでいい。「国立」へのお別れをしにきたのだし、
      我々の気持ちを、ユーミンが歌い上げてくれるはずだ。

      ユーミン・松任谷由美さんは、両校のエールの交換の後に登場した。
      ザワザワしていた場内が、一気にヒートアップする。
      ところが彼女が選手への「オマージュ」だとして、
      アルバム「NO SIDE」の最後の曲、
      「ノーサイド・夏~空耳のホイッスル」の朗読を始めると、
      場内は水を打ったように静まり返り、みんなが「ノーサイド」の歌を待った。

      甘く、力強く、そして畏敬が込められた歌声が場内に響き渡る。
      グラウンドに交互に立つ早明の選手。
      こらえきれず涙ぐむ早稲田の選手が電光ボードに映し出された。
      試合中から「早くユーミン出せぇ」と騒いでいたオジさんたちは、
      スクラム並みの前傾姿勢で神妙な視線を向ける。
      あちこちから嗚咽が聞こえてきた。隣にいた妻の目も真っ赤だった。

      ユーミンの歌声と「ノーサイド」の歌詞が醸し出す圧倒的な雰囲気に、
      ラクビーをまともにやったことのない自分でさえ、
      学生時代を終えてから今までの人生を重ね合わせてしまう。
      メインスタンドの向こうに陽が隠れ、
      ほのかに夕焼けが広がっているのに気づいたのは、
      歌が終わってからだった。

      東京五輪のメインスタジアムに生まれ変わるべく解体される
      国立競技場。8万人が収容可能なスタジアムを建設するため、
      巨額な工事費が投入されることに疑問が呈されたのは記憶に新しい。

      「世界に誇れるものを」という考え方も間違っていない。
      だが、こうやって久しぶりにこの地を訪れて、
      拙いながらも思い出に浸ってみると、そんな立派なものはいらず、
      とにかく最低限の施設を整えてくれればいいという気にもなってくる。
      あとはグラウンドの中、試合が、競技が、
      充実するようなバックアップの体制を作り上げていただくだけだ。

      正月2日に行われるラクビー大学選手権の準決勝では、
      まだ「国立」が使える。もう一度だけ、「国立の早明戦」を見たくなった。
      今度は試合を楽しむために、
      いや、新しい「国立」に思いを馳せるためにも。

                               (編集長 中村 直樹)
    http://www.tv-asahi.co.jp/mailmagazine/

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  30. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<40>日米開戦(下)…ハル・ノートで万事休す
    2013年12月7日3時1分 読売新聞

     1941(昭和16)年10月、第3次近衛文麿内閣が退陣し、開戦派の東条英機が陸相兼務のまま首相に就任した。東条は、昭和天皇の意向を受け、「対米戦辞せず」とした御前会議の決定を見直そうとしたが果たせず、米国からの「ハル・ノート」によって万事休した。(文中敬称略)

    海軍「開戦反対」言えず

     ◆避戦派と強硬派

     対米開戦、是か非か――その結論を左右しうる立場にあった海軍には、41(昭和16)年夏、和戦について意見を異にする二つの勢力があった。

     一つは、及川古志郎海相や沢本頼雄次官といった避戦派。もう一方は、石川信吾軍務局第2課長ら中堅層と、その代弁者となっていた永野修身(おさみ)軍令部総長らの強硬派だった。

     7月末、南部仏印進駐報告で昭和天皇に拝謁した永野は、開戦となれば、石油は1年半で消費してしまうので「むしろこの際、こちらから打って出るしかない」と述べた。避戦を望んでいた昭和天皇は、その後、「永野は好戦的で困る。海軍の作戦はステバチ的だ」と侍従武官長に漏らしたという。

     日米交渉が難航する中、大本営政府連絡会議は9月3日、「帝国国策遂行要領」を可決した。それには「帝国は自存自衛を全うする為(ため)、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概(おおむ)ね十月下旬を目途とし、戦争準備を完整す」との文言が盛り込まれた。

     この戦争が主、外交が従の内容を案じた天皇は5日、杉山元(はじめ)参謀総長と永野を呼んだ。天皇に戦争の見通しを問われて、立ち往生する杉山をみかねた永野は、「手術(戦争)をすれば非常な危険があるが、助かる望みもないではない」と助け舟を出した。しかし、永野自身、7月末の天皇への報告では「勝てるかどうかもわからない」と無責任な発言をしていた。

     ◆「四方の海……」

     結局、翌9月6日の御前会議は、この方針を正式決定するが、この時、昭和天皇は突然、明治天皇の御製(ぎょせい)「四方(よも)の海」を読み上げる。

     「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」

     天皇は、日米交渉による平和解決を希望していたのだった。

     海軍は、10月6日の首脳会議で、強硬論の陸軍とは一線を画し、日米交渉の継続を求めていくことを決めた。ところが、席上、「陸海なるべく衝突せぬよう努めますが、喧嘩(けんか)となっても構わぬ覚悟にて交渉してもよろしきや」と発言した及川に対し、永野は「それはどうかね」と水をかけた。

     文人肌の及川には、和戦の決定をリードするだけの腕力はなかった。戦争に成算はないものの、かといって「戦争はできない」と明言すれば、対米戦準備の名目で予算を獲得してきた海軍の存在意義が問われる――及川は結局、国家の命運よりも組織防衛を優先させる。

     同月12日、陸軍軍務局長の武藤章は、内閣書記官長の富田健治を通じて、「もし海軍が戦争するのが嫌なら、はっきりそれを海軍の口からいってもらいたい。そうしたら陸軍部内の主戦論を抑える」とのメッセージを海軍側に伝えた。しかし、これにも確かな反応はなかった。

     その日、近衛の私邸、荻外荘(てきがいそう)に陸・海・外相らが集まって開いた会談でも及川は、「和戦の決定は総理に一任する」と述べる。

     これに近衛が「今ここでどちらかに決めるというならば、外交でやる」「戦争には自信がない」と応じるや、東条陸相が強く反発。東条は、米国が要求する中国からの撤兵は譲れないと、主戦論を強く唱えた。

     近衛はこの夏、日米諒解(りょうかい)案に反対した松岡洋右(ようすけ)外相を更迭するため、いったん内閣総辞職をし、7月18日には第3次内閣を発足させていた。後任には、海軍の豊田貞次郎を起用し、日米交渉を急いだ。しかし、交渉は行き詰まり、陸軍を説得できないまま、10月16日、政権を投げ出した。
     

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  31. 東条首相に避戦の任務

     ◆「虎穴に入らずんば」

     41(昭和16)年10月17日。皇居に参内した陸相の東条英機は、天皇との会談を終えた後、口を一文字にしたまま、車に乗り込んだ。そして車を明治神宮、東郷神社、靖国神社に向かわせるよう秘書官に指示した。

     「大命を拝したのだ。予想もせず、恐懼(きょうく)して奉答もできないでいたら、お上から『暫時猶予を与える』と仰せ出され、この上は神霊のご加護によるほかないと信じて、参拝するわけだ」

     車中で東条は、大命降下の驚きを同乗の秘書官に語った。

     東条は14日夜、近衛のもとに使者を立て、9月6日の御前会議決定を練り直すほかないとすれば、後継は東久邇宮(ひがしくにのみや) 稔彦(なるひこ)王(戦後、首相)が最適任だと提案、近衛も同意していた。

     しかし、天皇の側近、木戸幸一内大臣は、「万一予期の結果を得られざるときは、皇室は国民の怨府(えんぷ)となるのおそれあり」として反対した。

     木戸が代わりに推したのが東条だった。木戸は、東条の「忠臣」ぶりに期待し、開戦を回避させようとした。木戸から人事案を聞いた天皇は、「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と理解を示した。

     東条内閣の登場は、各方面に衝撃を与えた。東久邇宮は日記に、東条が開戦論者であることを知りながら「木戸がなぜ、東条を後継内閣の首班に推せんし、(天皇)陛下がなぜ御採用になったか、その理由が私にはわからない」と書きとめた。

     木戸は、東条に9月6日の決定を白紙に戻すよう求める天皇の指示を伝えた。組閣の際、蔵相入閣の打診を受けた賀屋興宣(かやおきのり)と、外相を要請された東郷茂徳は、ともに、「今後の国政指導は極力外交交渉で進むのか」と東条にただした。

     東条は、御前会議決定が白紙になったことを説明し、「極力日米交渉の打開をしていきたい」と答えた。

     東条内閣の海相には、横須賀鎮守府司令長官の嶋田繁太郎(しげたろう)が就任した。嶋田には、それまで海軍省で勤務した経験が皆無で、戦争を押しとどめるには明らかに力不足だった。

     嶋田は10月27日、かねて関係の深かった前軍令部総長で元帥の伏見宮博恭(ひろやす)王と会見した。開戦論者の伏見宮に「速やかに開戦せざれば勝機を失す」と言われた嶋田は30日、沢本次官、岡敬純(たかずみ)軍務局長に開戦の決意を伝える。海軍は、開戦のため必要な物資の割り当てを要望し、事実上戦争を容認する立場に転じたのだ。

    「ニイタカヤマノボレ」

     ◆乙案と暫定協定案

     国策の再検討を始めた東条内閣の下、41(昭和16)年11月5日の御前会議で、甲案と乙案という二つの対米最終提案が決定された。

     甲案は、中国と仏印からの撤兵を掲げながら、条件を付けて、その引き延ばしを意図していた。乙案は、中国からの撤兵問題を棚上げにして暫定協定を結ぼうという案だった。まず甲案で交渉し、まとまらなかったら乙案を提示し、それでも妥結しなかったら開戦するという手順だった。

     野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル=人物抄=米国務長官との交渉は、11月7日から行われた。ハルは、暗号解読で日本側の最終カードが乙案だと知っていたことから、甲案を全く問題にしなかった。

     米国は40(昭和15)年9月頃、日本の外交電報の暗号解読に成功していた。フリードマンという有能な暗号解読者が作った解読器で読まれた情報は「マジック」と呼ばれ、日本の外交の手の内は、米国にすべて筒抜けとなっていた。

     米側は、乙案の対案として、暫定協定案の作成を進めた。南部仏印からの部分的撤退などと引き換えに、石油の対日輸出を一部解禁し、当面の日米衝突を回避しようというものだった。

     米大統領ルーズベルトは、11月10日の野村との会談で、暫定協定を結ぶ用意を伝えている。

     日本側の乙案と米側の暫定協定案の中身は、援蒋(蒋介石援助)政策停止では対立したが、現状以上の日本の武力進出の中止と、南部仏印進駐からの撤退では共通項があった。

     ◆米 突然の方針変更

     米国は暫定協定案を22、24日、英・中・蘭・豪の4か国に内示して相談した。中国は強く反発し、蒋介石は、在米中の宋子文特使(蒋介石の義兄)や胡適駐米大使を介し、「対日経済封鎖が緩和されれば、中国国民と軍隊の抵抗精神は崩れ去ってしまう」と危機感を露(あら)わにした。蒋の働きかけを受けた英首相チャーチルは、中国に同情する電報をルーズベルトに送った。

     ハルは、妥協的な暫定協定案とは別に、包括解決案(一般協定案)を準備していた。後にハル・ノートと呼ばれるものだ。仏印および中国からの全面撤兵、蒋介石政権(重慶政府)以外の中国政府の否認、三国同盟の形骸化などを求めていた。暫定協定案とハル・ノートをセットで提示しようというのが米側の方針で、暫定協定案は包括解決に向けた基礎の位置づけだった。

     ハル・ノートの原型となったモーゲンソー(米財務長官)案には、満州からの撤兵も含まれていたが、ハル・ノートからは落ちていた。それまでの日米交渉でも、米側の要求は、華北を含む中国本部からの撤兵であって、満州は含まれていない。

     だが、当時の日本陸軍は、満州はもちろん、華北から撤兵する考えもほとんどなかった。共産主義の浸透を防ぐ「防共駐兵」を名目に、長期間にわたり、華北や蒙疆(もうきょう)(内蒙)などに駐兵を継続する意向だった。

     そうした中、ハルは26日、暫定協定案を放棄して、ハル・ノートだけを日本側に手交することを決める。

     ハルは回顧録に、「対日石油供給にたいしてアメリカの世論の広範な反対が起こることは明らかであった。中国は大反対であり、他の国も好感をもたないか微温的であった。日本が暫定協定に同意する微少な見込みは、それを進めることに伴う危険をおかすことを正当づけはしなかった」と記している。

     だが、ハルは前日25日まで、暫定協定案とりまとめに動いていた。なぜ方針を変えたのか。

     スティムソン陸軍長官の下には25日昼、上海に日本の大軍が集結し輸送船30~50隻が出航したとの情報が届いた。翌26日、日本軍の南下情報を聞いたルーズベルトは「日本が休戦撤兵交渉をしながら、遠征軍を仏印に送っているのは背信の証拠だ」と激怒した。ハル・ノートが野村と特派大使の来栖(くるす)三郎に手交されるのは、この日夕方だ。

     米側の暫定協定案放棄の背景には、中国の反対に加えて、交渉の陰で戦争へ駒を進める日本への不信感があったようだ。

     ハル・ノートに東条は興奮し、「残された道は、御前会議で決まった戦争以外にないだろう」と口走った。近年の研究では、日本も米英中各国の暗号を解読しており、暫定協定案を事前に知っていた可能性が指摘されている。とすれば、日本側のショックはそれだけ大きかったことになる。東条らはハル・ノートを「最後通牒(つうちょう)」と受け止めた。

     ◆米英蘭と開戦決定

     27日、大本営政府連絡会議は、対米交渉の不成立を確認した。

     この日、陸軍戦争指導班の機密戦争日誌には、「これにて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり。めでたし、めでたし。これ天佑(てんゆう)ともいうべき」と記された。陸軍の中堅幕僚層は、開戦に向け東条を突き上げていた。

     米側も、ハル・ノートが開戦の引き金になることを自覚していた。ハルは、日本側に手交した翌27日朝、スティムソン陸軍長官からの電話に、「私は問題から手を引いた。問題は、今やあなたとノックス(海軍長官)の手中にある」と伝えている。

     12月1日、日本は御前会議で米英蘭との開戦を決定する。

     連合艦隊の山本五十六司令長官は翌2日、真珠湾攻撃のため11月26日に択捉島・単冠(ひとかっぷ) 湾(わん)を出航していた機動部隊に対し、「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」の暗号電文を発した。12月8日を期して戦闘行動を開始せよという指示だった。

     (笹森春樹、時田英之、遠藤剛、諏訪部敦)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131206-118-OYTPT01096
     

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  32. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<41>太平洋戦争(上)…緒戦勝利に沸く日本
    2013年12月14日3時4分 読売新聞

     1941(昭和16)年12月8日は、日本にとって運命の日となった。空母6隻からなる日本機動部隊がハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲、南方では陸軍がマレー半島で突進を始めた。日本の支配地域は一気に広がり、国民は連戦連勝にすっかり酔うのだが……。(文中敬称略)

    真珠湾攻撃と南方作戦

    ◆ワレ奇襲ニ成功セリ

     朝焼けの空を飛ぶ指揮官機上で淵田美津雄ふちだみつおが、ラジオ方向探知機のスイッチを入れると、軽快なジャズ音楽が聞こえてきた。ハワイ・ホノルルの放送だ。

     現地時間で1941(昭和16)年12月7日の朝7時過ぎ。日本は8日未明になっている。

     ハワイに向かう淵田は、計183機の戦闘機、爆撃機、雷撃機を率いていた。南雲忠一なぐもちゅういちが指揮する機動部隊の空母6隻から発進した第1次攻撃隊だ。

     日曜日の朝。真珠湾には、米戦艦隊が2列で停泊し、甲板に軍楽隊が整列している戦艦もあった。

     午前7時49分、淵田機が全機に突撃を指示した。各編隊が翼を翻し、計画通りに急降下爆撃、水平爆撃、雷撃(魚雷による攻撃)へと移る。主目標は、太平洋艦隊と飛行場だ。

     7時52分、淵田は後部座席の電信員にこう伝えた。「発信せよ。『ワレ奇襲ニ成功セリ』」。電信員が無電機のキーで奇襲成功の略語をたたく。「トラトラトラ……」

     狭く浅い湾で、雷撃機は限界まで降下して魚雷を投下する。魚雷命中の巨大な水柱が上がる。空からは800キロ徹甲爆弾だ。戦艦が次々に炎に包まれ、「アリゾナ」は大爆発し、沈没した。飛行場も燃え、米軍機の大半は地上で撃破された。

     7時58分、ハワイ近海の全米国船舶あてに緊急無電が発信された。「真珠湾が空襲された。これは演習ではない」。

     攻撃が始まって約1時間後、第2次攻撃隊171機が到着し、港の艦隊、飛行場への攻撃を続けた。

     米戦艦8隻を撃沈、撃破し、米太平洋艦隊の主力は一日にして失われた。航空隊は200機以上を失った。戦死者は2400人を上回る。

     日本軍の未帰還は29機。このほか、特殊潜航艇5隻が未帰還となった。

    ◆西太平洋を制圧

     真珠湾攻撃から数時間後の日本時間午前7時、ラジオが臨時ニュースを伝えた。

     「大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

     その朝、台湾・台南の航空基地では、霧が晴れるや、待機していた陸上攻撃機に出撃命令が下った。高雄の陸攻隊も加わり、計50機以上となった。目標は、900キロ以上離れたフィリピンの米空軍基地だ。

     爆撃隊は、地上にある米軍のB17爆撃機、P40戦闘機などを多数破壊し、護衛の零戦隊は迎撃にきた戦闘機を空中戦で撃墜した。米空軍の主力100機余りが撃破され、南方進出への大きな脅威が消えた。

     2日後の12月10日、サイゴン(現ベトナム・ホーチミン)に進出した航空隊が、シンガポール防衛のため派遣された英戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを雷撃で撃沈した。マレー沖海戦だ。

     停泊中の戦艦を沈めた真珠湾と違い、航行し対空砲火を撃ち出す「生きた戦艦」を飛行機が撃沈したのは、史上初めてだ。

     「戦争の全期間を通じてこれ以上の衝撃はなかった」

     英首相チャーチルは、回想録でこう振り返った。

     日本は、西太平洋の空と海をたちまちのうちに制圧した。

    ◆シンガポール攻略

     真珠湾攻撃に先立つこと約2時間、英領マレー半島コタバルに、中将・山下奉文ともゆきを司令官とする陸軍第25軍の部隊が上陸した。現地時間は7日午後11時30分。深夜の奇襲上陸である。午前2時過ぎには、タイ領シンゴラにも上陸した。攻略目標は約1100キロ先のシンガポールだ。

     陸軍にとって、最初の関門は、マレー半島と、英国の一大拠点シンガポールの攻略だった。蘭印(今のインドネシア)の石油資源などを獲得するには、ここの英軍を排除するしかない。

     日本軍は、タイとマレーの国境沿いの英軍防衛線「ジットラライン」をわずか2日間で突破。戦車隊が突撃して英軍陣地を蹂躙じゅうりんする。自転車で快進撃する歩兵部隊は「銀輪部隊」と呼ばれた。

     開戦前、陸軍がシンガポール攻略に要すると見ていた期間は、約100日間。ところが、わずか55日でマレー半島を踏破し、シンガポールの対岸ジョホールバルに到達した。

     要塞にこもる英軍は激しく抵抗したが、ジョホールバルにある水源を押さえられ、食料も尽きかけた英軍が停戦を打診。2月15日に山下とシンガポールの英軍司令官のパーシバルが、直接会見し、降伏が決まった。

    ◆「空の神兵」

     蘭印での最重要攻略目標の一つが、日本の石油年間需要に匹敵する年間400万キロ・リットルの産出量を誇るスマトラ島南部の油田地帯パレンバンだった。

     オランダは、パレンバンが日本の手に落ちる危険がある場合には、施設を爆破する計画も立てていた。どうやって無傷のままパレンバンを占領するか。

     42(昭和17)年2月14日午前11時30分頃、パレンバン上空に多数の落下傘が開いた。「陸軍挺進ていしん団」と呼ばれる空挺部隊の99人が製油所確保、240人が飛行場制圧の作戦を開始したのだ。拳銃と手榴弾しゅりゅうだんだけで奇襲をかけた部隊もあった。激戦の末、翌日までに各目標地点を制圧した。

     この空挺部隊は、2年前に創設されたばかりだ。陸軍航空主任参謀の井戸田勇はその手記に、「挺進団はパレンバン攻略のために作られた」と綴つづっている。現在の用語を使えば、油田確保のための特殊部隊だった。

     相次ぐ勝報に、日本は沸き立った。2月16日付の読売新聞朝刊では、1面に「万歳・シンガポール陥落」という大きな横見出しが躍り、その下に「大東亜に歓呼あがる! 驕おごりし英崩壊の第一歩」と伝えた。次のページは、落下傘部隊の「初陣の殊勲」を大きく報じている。

     空挺部隊は「空の神兵」と呼ばれた。軍歌や映画も作られ、戦意高揚のプロパガンダに使われることになる。
     

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  33. 日本支配地域最大に

     政府は41(昭和16)年12月12日の閣議で、対米英戦は「支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決めた。情報局は同日、大東亜戦争は「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味する」と発表した。

     しかし、この戦争は南方の資源獲得が主な目的で、12月8日の宣戦詔書では、「自存自衛のため」の戦争発動を宣言していた。それが情報局の発表では、大東亜新秩序建設が前面に押し出されていた。

     「自存自衛」の考えが強かった海軍に対して、陸軍は「大東亜新秩序」も強調していた。結局、指導者の間でも、肝心の戦争目的に対する認識や解釈が一致していなかった。

     翌42年2月、首相の東条英機は議会演説で、戦争目標として、欧米の植民地からの東亜各民族の解放を挙げた。

     日本は、南方作戦により、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、英領マレー、蘭印、フィリピンなど東南アジア地域を支配下に置いた。さらに、アリューシャン列島のアッツ島を占領し、中部太平洋からニューギニアまでを押さえた。陸軍の主力は中国大陸で要所を確保している。

     同年夏に、日本の支配地域は、歴史上、最大に広がった。しかし、日本の国力からみて、占領地に物資を補給することは極めて困難であり、占領した諸島の防衛も手薄のままだった。

    通告遅れ、米の結束促す

    ◆外務省の大失態

     外務省は在ワシントン日本大使館に対し、14部からなる対米通告と、真珠湾攻撃予定時刻30分前(ワシントン時間7日午後1時)に米側に手交するよう指示する暗号電報を送っていた。

     しかし、野村吉三郎と来栖くるす三郎の両大使が米国務長官ハルに通告を手交したのは、午後2時20分だった。その時、真珠湾は燃えていた。

     「これほど恥知らずなうそとこじつけに満ちた文書は見たことがない」――ハルは、2人の大使に激しい言葉を浴びせた。

     この大失態に関し、東郷茂徳外相は後に、現地大使館の暗号解読と清書作業などに「怠慢と過失」があったと述べている。

     『真珠湾〈奇襲〉論争』(須藤眞志著)によれば、大使館と本省との意思疎通が不十分で、本省側がこれを最後通告と考えていたのに対して、現地大使館はそれだけの危機意識はなかった。つまり、通告遅延の背景には、重大なコミュニケーション・ギャップがあった。

     皮肉なことに、大使館が通告準備に追われている時、大統領ルーズベルトや国務長官ハルは既に暗号解読により、通告内容も、手交時間が午後1時に指定されていることも知っていた。

     ただ、大使館の混乱の原因については諸説あり、本省側が通告を故意に遅らせたとの説も出ている。

    ◆宣戦布告だったのか

     通告には、別の問題もあった。日米交渉の打ち切りを告げてはいるものの、最後通牒つうちょう、宣戦布告を明示する内容が記されていなかった。

     最も重要な通告文の最後は、このように記されている。

     「合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立しようとする帝国政府の希望はついに失われた。……交渉を継続しても妥結できないと認めるほかにない旨を合衆国政府に通告する」

     真珠湾奇襲を狙う海軍は、開戦通告をあいまいにしたかった。外務省は開戦の意思を明確にしたほうがいいという立場だった。結局、最後通牒の形式をもつ文書も作成されながら使われず、ぼやけた表現の通告文になった。

     一方、ルーズベルトは、仏印からの撤退を求める旨の天皇宛ての親電を6日に発し、その後、通告文の解読部分をみて「これは戦争ということだね」とつぶやいている。軍部の妨害により、親電が天皇の手元に届いたのは、攻撃開始の直前だった。

     ルーズベルトは、真珠湾攻撃を予知しながら、ハワイに伝えなかったという「陰謀説」がある。しかし、真珠湾攻撃を知っていたことを裏付ける歴史的資料はなく、説得力は乏しい。

     真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルトは、上下両院合同会議で演説し、「昨日、1941年12月7日は、屈辱の日として生き続けるだろう」と表明。通告は攻撃開始から1時間後であり、日本は米国を欺いたと強調した。

     演説の後、上院が満場一致、下院は賛成388票、反対1票で対日宣戦布告案を可決した。

    ◆アイ・シャル・リターン

     「火をたかれると、限りない力を作り出す巨大なボイラー」。チャーチルがこう形容した米国は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)!」のスローガンの下、結束して対日戦に立ち上がる。

     真珠湾で日本の機動部隊は反撃を警戒し、米空母や、海軍基地機能を維持する生命線であるドック、燃料貯蔵庫などへの第2撃は見送った。反攻の足場を残した米国は、圧倒的な国力を背景に反撃に転じる。

     真珠湾攻撃のころ、ドイツ軍は真冬のモスクワ目前で、ソ連軍の強烈な反撃に遭った。崩壊だけは免れたものの、勝利は遠のいた。

     42(昭和17)年3月、陥落間際のフィリピンから脱出した米軍司令官マッカーサーは、豪州に到着後、記者団に感想を聞かれた時に、こう答えた。「アイ・シャル・リターン(私は戻ってくる)」。米軍の反攻は、すぐそこまで迫っていた。

     (杉山祐之、遠藤弦、宮崎健雄、上杉洋司)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131213-118-OYTPT01093

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  34. 今年の漢字は「輪」
    12月12日 15時15分

    ことし1年の世相を漢字ひと文字で表す「今年の漢字」が京都の清水寺で発表され、東京オリンピックの開催決定などを理由に「輪」という字が選ばれました。

    「今年の漢字」は、京都に本部がある日本漢字能力検定協会が、その年の世相を表す漢字ひと文字を一般から募集し、最も多かった字を選んでいます。
    ことしは、17万通余りの応募から最も多い9518通を集めた「輪」という漢字が選ばれました。
    京都市東山区の清水寺では、発表場所の「清水の舞台」と呼ばれる本堂で、森清範貫主が立てかけられた和紙に「輪」という文字を一気に書き上げました。
    協会によりますと「輪」という字を選んだ人たちは、東京オリンピックの開催が決定したことや、東北楽天イーグルスが日本シリーズで初優勝し日本中にチームワークの大切さや応援の輪を印象づけたことなどを理由に挙げているということです。
    また、応募があったうち「輪」という文字に続いて、2番目に多かったのは「楽」で8562通、3番目に多かったのは「倍」で7623通でした。

    清水寺貫主「五輪東京誘致が大きい」

    今年の漢字に「輪」が選ばれたことについて、清水寺の森清範貫主は、「オリンピックが東京に誘致されたことがいちばん大きいと思います。『輪(りん)』には、大勢の人が1つになって円滑に回転していくという意味もあります。みんなが譲り合い支えあって、来年も震災からの復興など力を合わせて輪(わ)のつながりを大切にしていきたいです」と話していました。

    安倍首相は「夢」

    安倍総理大臣は総理大臣官邸で、記者団から「ことし1年を振り返って、漢字ひと文字で表すと何になるか」と質問されたのに対し、「『夢』ですね。ことし9月、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの招致が決まり、みんなで頑張れば夢はかなうことをみんなで実感できたのかなと思う」と述べました。
    また、安倍総理大臣は「私たちが進めている3本の矢の経済政策によって、ことしは去年と大きく空気が変わった。株価は上昇し、頑張れば来年はもっとよくなるのではないかという夢をみんなが未来に見ることができるようになった1年ではなかったかと思う」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131212/k10013780211000.html
     

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  35. 「夢見る人」
    http://www.youtube.com/watch?v=bCuVZPhqBcE
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E4%BA%BA+%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

    《1864年に作曲された歌曲だが、晩年のフォスターはニューヨークのアパートに一人で住み、貧困を極めた。妻のジェーンと別居し、アルコール依存症で酒に溺れる荒んだ生活だったという。1864年の正月のある朝、アパートでめまいを起こし、酔ったはずみで転倒し、身体を拭くための水を入れたガラス容器に頭をぶつけて大怪我をした。病院に担ぎ込まれたが、3日後にそのまま37歳の若さで死去した。
    この歌曲は1864年にボンド社から出版された楽譜には、「最後の歌曲で、死の数日前に作曲された」と書かれており、「白鳥の歌」ともいうべき美しいセレナードで、フォスター晩年の傑作とされている。》
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E4%BA%BA
     
    豆腐の角に頭をぶつけて生死の淵を彷徨い、闇の深淵から覗かれておいでおいでをされている、いまの日本の姿にまことに相応しい楽曲かも…(笑)。
     

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  36. カーリング女子 ソチ五輪出場決定
    12月16日 7時9分

    ドイツで行われたカーリングのソチオリンピック最終予選で、女子の日本代表はプレーオフでノルウェーに10対4で勝ち、5大会連続のオリンピック出場を決めました。

    カーリングの最終予選は、15日、女子の最後のオリンピック代表を決めるプレーオフが行われ、世界ランキング10位の日本は13位のノルウェーと対戦しました。
    ノルウェーは、日本が予選で9対5で勝った相手ですが、2006年のトリノオリンピックで4位の実績を持つ選手2人が率いる経験豊富なチームです。
    日本は、序盤、ノルウェーにリードされますが、第5エンドで3人目の船山弓枝選手が円の中心にピタリと止める見事なショットを見せると、このストーンを守って1点を取り3対3の同点に追いつきました。
    そして1点をリードされて迎えた第8エンド、日本は3人の選手がショットをつないで円の中にストーンをため、最後に司令塔の小笠原歩選手が相手のストーンをはじき出すと一気に6点を奪って逆転しました。
    日本は、10対4で勝ち、1998年の長野オリンピック以来、5大会連続のオリンピック出場を決めました。

    五輪出場決定に喜びの声

    チームで1人目に投げるリードの苫米地美智子選手は「きょうの試合はチャンスは必ず来ると思って我慢して戦いました。内面は冷静ではなかったのですが練習を思い出して、もうやるしかないと思っていました。地元の岩手にもよい報告ができます」と話していました。
    チーム最年少の22歳で2人目のセカンドを務めた小野寺佳歩選手は「夢のようです。本当にまだ現実味がなくてただただうれしいだけです。およそ2か月後にオリンピックがあるので恥じないプレーをしたいです」と意気込みを話しました。
    3人目のサードとしてチームを引っ張ったベテランの船山弓枝選手は「連続してオリンピックに出ているので、それを絶やしたくないと思っていました。やっとオリンピックの舞台に立てるので、これまで出場した2大会のオリンピックでやり残したことを成し遂げたいです」と話していました。
    また、結婚と出産を経てチームを新たに結成し、3年目でオリンピックの出場権を獲得するまでに成長させた司令塔の小笠原歩選手は、「毎日毎日、きょうここで勝つと言うことを考えない日はないくらい自分を追い込んできました。本当は、辛かったです。やっと今、うれし涙を流せるので本当に私の人生は恵まれているなと思います。オリンピックではチームのみんなによい経験をさせてあげたいです」と話しました。
    そして、控えのリザーブとしてチームを支えた吉田知那美選手は「チームを結成した当時は半信半疑でやってきましたが、小さいことの積み重ねで夢はかなうんだと思いました。ここまで来たら出場するだけのオリンピックではだめなのでしっかりと勝ちたいです」と話していました。

    同僚が総立ちで声援 札幌

    札幌市中央区にある北海道銀行の本店では、日本時間の15日夕方に行われた中国戦に続いて会議室に応援会場が設けられ、未明からの試合にもかかわらず、選手の同僚などおよそ40人が集まりました。
    会場には、大型のテレビが2台設置され、集まった人たちは栄養ドリンクを飲みながら試合の様子を固唾を飲んで見守りました。
    そして、日本代表チームが試合終盤に一挙6点を奪って逆転すると、全員が総立ちになり、試合に勝ってオリンピック出場が決まったときには万歳をして勝利を祝いました。
    同僚の男性は「勝ってくれると信じていました。選手たちに力をもらったので仕事も頑張れそうです」と話していました。
    また、別の男性は「カーリングの本場・北海道から代表を送り出せることを誇りに思います。選手たちは本当に頑張ってくれました」と涙を浮かべて話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131216/k10013853311000.html
     

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  37. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<41>太平洋戦争(下)…開戦から1年 勝機失う
    2013年12月21日3時2分 読売新聞

     ◇ミッドウェーで暗転 「餓島」ガダルカナル

     米太平洋艦隊の主力を撃破し、南方資源を確保するという第1段作戦の目的を、日本軍は首尾よく達成した。しかし、勝利は慢心を生み、ミッドウェー海戦での敗北に続いて、ガダルカナル島でも、撤退を余儀なくされる。戦局は暗転し、日本は勝機を失っていく。(文中敬称略)

     ◆真珠湾の成功で慢心

     第1段作戦の勝利を受け、陸海軍とも次の作戦構想を練った。真珠湾の奇襲に成功した連合艦隊司令部は、ミッドウェー島攻撃を主張した。同島は、ハワイの米太平洋艦隊が日本本土を攻略する際の重要拠点。司令部は、同島を攻略すると共に、真珠湾で取り逃した米空母を誘い出し、一挙に撃滅することを考えていた。

     これに対し、大本営は、南方資源の輸送を重視し、米豪連携を遮断するためフィジー、サモアを先に攻略するよう唱えたが、結局、連合艦隊司令長官の山本五十六の発言力が勝った。

     軍令部総長の永野修身おさみは1942(昭和17)年5月5日、「ミッドウェー島を攻略し、敵国艦隊の機動を封止し、我が作戦基地を推進する」との作戦を発令。4月18日には米空母から発進した十数機の爆撃機が東京や名古屋などを奇襲攻撃した。これも攻略作戦を後押しした。

     だが、真珠湾作戦が秘密保持を徹底し、用意周到に準備されたのに比べ、ミッドウェー作戦は、出撃前から噂うわさが広がり、準備期間も極めて短かった。

     しかも、作戦発令直前に実施された旗艦「大和」での図上演習では、ミッドウェー島攻略の最中に米空母が出現し、米艦載機による攻撃で空母「赤城」が沈没、作戦続行が困難となった。ところが、連合艦隊参謀長の宇垣纏まとめは、独断で命中弾を減らすなど損害を過小に見積もった。

     真珠湾作戦に勝利した慢心の表れだった。連合艦隊参謀・三和義勇よしたけの日誌には、「今は唯ただよき敵に逢あはしめ給へと神に祈るのみ」などと記されている。

     一方、真珠湾の責任を問われて更迭されたキンメルに代わって、米太平洋艦隊司令長官に就任したニミッツは、連合艦隊によるミッドウェー島攻略の可能性が高いとみていた。米側は、日本海軍の暗号解読にも成功し、「赤城」「加賀」など4隻の空母機動部隊が、6月3日から5日の間にミッドウェー島を攻撃すると確信するに至る。

     ◆大敗を隠した海軍

     南雲忠一を司令官とする空母機動部隊は5月27日、広島・柱島から出撃した。司令長官の山本が座乗する旗艦「大和」など主力部隊は、その後方500キロに続いた。緊急時の対応を想定していない間延びした艦隊は、日米の形勢を逆転させる6月5日を迎える。

     戦闘では、米空母の位置を探る索敵が粗雑で、偵察機の発進は遅れ、潜水艦による水中偵察も間に合わないなどのミスが相次いだ。ミッドウェー島攻略と、空母部隊撃滅のどちらを優先するのか、の意思統一も不十分で、戦闘は後手後手に回った。午前4時28分、機動部隊に「敵空母発見」の一報が届く。が、米軍は1時間以上も前に連合艦隊を発見し、米艦載機は急降下爆撃の奇襲に成功した。同7時23分、「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻の空母は大火災を起こして航行不能となった。

     残った空母「飛龍」が孤軍奮闘、米空母1隻を撃沈したが、午後2時過ぎ、米軍機の猛爆撃で炎上し、座乗していた山口多聞たもん・第2航空戦隊司令官=人物抄=は、艦とともに最期を遂げた。連合艦隊は戦闘開始から半日で、保有する大型正規空母6隻のうち4隻を失った。

     しかし、大本営が6月10日に発表した内容は、「米航空母艦エンタープライズ型1隻及びホーネット型1隻撃沈、(中略)我方損害、空母1隻喪失、同1隻大破、巡洋艦1隻大破、未帰還飛行機35機」というものだった。海軍は、こうして虚偽の報告をしただけでなく、生き残った将兵には口止めをし、遺族にも真相を明かさなかった。

     ◆兵力の逐次投入

     日本のはるか南方に浮かぶソロモン諸島のガダルカナル島(ガ島)とその西方のニューギニア島。開戦当初、日本軍はこんな遠方で戦うことなど夢想だにしていなかった。

     だが、42(昭和17)年1月、海軍が、対日反抗を強める豪州軍の基地ラバウルを攻略、航空基地として占領したことでこれが現実となる。

     ラバウルは、占領直後からニューギニア島東南端のポートモレスビーから飛来する豪州軍機の攻撃にさらされた。海軍は、ガ島をポートモレスビー攻略の前線基地とするため、42年7月、海軍設営隊約2600人と海軍陸戦隊約250人を上陸させ、飛行場建設に従事させた。

     ところが、8月7日早朝、艦砲射撃と激しい空爆を伴って1万人を超す米軍第1海兵師団が押し寄せてきた。日本軍の大半は軍属の労働者で、米軍はたやすく上陸に成功した。

     「米軍上陸」の一報を受け、海軍のラバウル航空隊は、直ちに零戦と一式陸上攻撃機による反撃を試みたが、成果は上がらなかった。ガ島奪回という半年に及ぶ攻防戦はここに始まった。

     大本営は当時、米軍の本格的な反攻は、43年中期以降と考えていた。『南東方面作戦記録』(第1復員局作成)によると、「ガ島に対する敵の来攻は偵察上陸の程度と思われる。(中略)我が陸海軍部隊をもってガ島を奪回することは、さして難事ではない」と、米軍を過小評価していた。

     ガ島奪回を託されたのはミッドウェー島上陸のために編成されていた精鋭の一木支隊(歩兵28連隊を基幹とする部隊)だった。8月18日、連隊長の一木清直率いる先遣隊約900人は、駆逐艦に分乗してガ島に上陸。本隊の到着を待たずに20日夜、日本陸軍の伝統的戦法である夜襲による銃剣突撃を敢行した。

     だが、日米の戦力の差はいかんともし難く、米軍の戦車、機関銃、迫撃砲など圧倒的な火力の前に、翌21日早朝までにほぼ全滅した。

     一木支隊に続き、川口清健率いる歩兵35旅団(川口支隊)約6000人がガ島に投入された。9月12日、部隊はジャングルを迂回うかいして米軍の背後から夜襲突撃したが、失敗した。さらに、陸軍は10月24日、約1万人の兵力の第2師団で3度目の攻撃に臨んだが、米軍の重砲火力の前にはね返された。

     第2師団長の副官は戦闘日誌の中で、失敗の原因として「攻撃準備極めて不十分」「敵の膨大なる火力の軽視」「制空権なき無茶なる戦闘」「唯々銃剣のみによる夜襲。教育の悪習」を挙げ、最後に「敵情軽視せる大本営の責任大ならん」と結んでいる。

     「兵力の逐次投入」は、惨憺さんたんたる結果をもたらした。ミッドウェー海戦に敗北した海軍に、制海・制空権を取り戻す力はなく、兵員や武器弾薬、食料などを積んだ日本の輸送船団は、米空母機動部隊やガ島から発進する航空機の餌食となった。

     ◆過酷な飢餓との戦い

     ジャングルに残された日本兵を待っていたのは、ガ島が「餓」島と呼ばれるに至る過酷な飢えとの闘いだった。第2師団の兵長だった金泉潤子郎(大正8年生まれ)が、今語る体験談は、以下のようだ。

     <駆逐艦に乗せられ、10月にガダルカナルに上陸した。急いで資材を陸揚げしたが、その間に1週間分の食料を入れた背嚢はいのうを、敗走中の日本兵に奪われた。軍隊は階級が全て。死んでいる他の部隊の上官の階級章を自分の制服に縫いつけ、階級を偽って食料を奪う兵隊もいた>

     <食べられる物は何でも食べた。マラリアにも赤痢にもなった。デング熱にもかかったが、焼いた枝で作った炭を食べて持ちこたえた>

     <クリスマスの時、米軍は、白い天幕の中で音楽をかけ、ダンスをしていた。6人で忍び寄り、外にあった米軍の背嚢を奪って逃げた。飛行場周囲の鉄条網は電気が通り、触れると集中砲火を受ける。何人かがやられた。腹を撃たれた仲間は、『水をくれ』と叫ぶ。だが、水を飲むと途端に出血が多くなる。もう助からないという人だけに水筒を投げてやった>

     <上陸から4か月後、「2時間で撤退を終えろ」と命令された。だが、全員が栄養失調で、浜辺に着いて船に乗る前に力尽きた兵士もいた。『迷惑かけるから行ってくれ』と言い残して銃口をノドに当て、足で小銃の引き金を引いて命を絶った兵士も目の当たりにした>

     ◆撤退を「転進」と偽る

     大本営は43(昭和18)年2月9日、ガ島作戦部隊について、「目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」と発表。ガ島奪回という目的を果たすことなく、ここでも「撤退」を「転進」と言い換えて国民を欺いた。

     ガ島に上陸した総兵力約3万1000人のうち、撤退できたのは1万人余り。死者・行方不明者は約2万1000人。このうち戦闘で亡くなったのは5000~6000人と推定され、残りの1万5000人は飢えと病気に倒れた。

     海軍の戦力消耗も激しかった。ラバウルからガ島までは1000キロも離れ、いくら航続距離の長い零戦でも、ガ島上空で戦闘に割けるのは15分程度だった。敵機の攻撃に備えた長時間の緊張のために、兵士の戦闘能力は低下し、約2300人を超す熟練搭乗員が愛機と運命を共にした。
     

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  38.  ◇生きて帰れぬニューギニア

     ◆兵力15万、犠牲13万余

     ミッドウェーとガダルカナル――。日米が激突した二つの戦闘で、米軍は制海権と制空権を完全に掌握し、日本軍は戦争を続けるために最も重要な補給(兵員や武器弾薬、食料の輸送)を確保する道を絶たれた。

     だが、この時、「生きて帰れぬニューギニア」とも言われた、東部ニューギニアでの戦いが始まっていた。

     42(昭和17)年4月に入り、米豪軍機のラバウル基地への来襲が激化し、連合艦隊は海上からポートモレスビーを攻略するMO作戦を策定した。

     翌5月、空母2隻の機動部隊が、ソロモン諸島の珊瑚海で米空母機動部隊と激突した。世界初の空母対空母の海戦で、連合艦隊は米空母1隻を撃沈したものの、空母1隻を喪失、1隻が大破した。この被害で、大本営は7月、陸軍南海支隊と海軍陸戦隊などを上陸させ、陸路からポートモレスビーを攻略する作戦を発令した。

     翌8月、陸海軍計約1万1400人の部隊は、標高3000メートル級の山々が連なるオーエンスタンレー山脈を、武器弾薬、食料などを担いで踏破、9月中旬にはポートモレスビーを眼下に望む高地まで到達した。

     だが、ミッドウェー作戦に勝利した米海軍は、ソロモン海で日本の輸送船団を次々と撃沈。補給を絶たれた陸海軍部隊は、食料の欠乏と難行軍の末に撤退せざるを得なかった。ガ島奪回を放棄した大本営は42年末、ポートモレスビー攻略をあきらめ、東部ニューギニアに兵力をつぎ込み、マッカーサー連合軍の反撃を阻止する作戦に変更した。

     東部ニューギニアでの作戦は45(昭和20)年8月の終戦まで続けられ、投入された総兵力は約15万に上る。だが、猛烈な米軍の攻撃にさらされ、しかも一切の補給は途絶え、部隊は次第に孤立していった。

     終戦時の生存者は約1万3000人。13万人余りが犠牲となったが、戦闘で死亡した兵士は約35%で、残りは病気と餓死だった。芥川賞作家の野呂邦暢くにのぶは、『失われた兵士たち』の中で、東部ニューギニア作戦について「戦争の惨苦を圧縮して見せてくれる戦場」と記している。

     42年のミッドウェー海戦とガ島、そして、東部ニューギニアでの敗北は、太平洋戦争の大きな“転機”となった。(勝股秀通、前田遼太郎)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131220-118-OYTPT01341

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  39. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<43>銃後(上)…「欲しがりません勝つまでは」
    2014年1月11日3時1分 読売新聞

     日米開戦後、戦場後方の「銃後」では、生活必需品に事欠くようになる。戦況の悪化とともに、物不足は深刻化し、国民生活は破綻寸前に追い込まれていく。「欲しがりません勝つまでは」「産めよ殖ふやせよ」――こんなスローガンが叫ばれていた。
    (文中敬称略)

    ◆配給維持も難しく

     多くの国民が日米開戦に不安を抱いたが、ことの重大性に気づく人は少なかった。物資窮乏とインフレに苦しみながらも、市民はよく働き、「欲しがりません勝つまでは」のかけ声に従順にこたえていた。

     当時、女学校に通っていた作家の田辺聖子は、著書で「ひとことで、その頃の印象をいうと『欲しがりません勝つまでは』につきる」とし、このスローガンは、「おなかを空すかせた子供たち」への「むなしい叱咤しった激励のことば」だったと書いている。

     敗色が濃くなり始めた43(昭和18)年、政府は、繊維産業や中小企業など平和的な産業を整理し、軍需工場に転用したり、設備をくず鉄にして鉄鋼生産に使ったりした。また、国家総動員法に基づく徴用も強化され、強制的に転業させられる労働者が相次いだ。

     この結果、軍需の中心だった金属機械工業の就業者数は、40年の280万人から44年には510万人に急増した。

     逆に、紡績業は160万人から80万人に、商業は360万人から160万人に激減したと推計されている。

     こうした中で、生活必需品の生産力は低下し、国が物を割り当てて販売する配給制が維持できなくなる。市民は、配給不足を補うために、行列買いや闇売り、都市近郊農村への買い出しに走る。物価上昇も顕著で、闇価格を考慮した小売物価指数は、1930年代半ばから45年までに7倍に上昇した。

     皮肉なことに、食糧不足は都市と農村との格差を縮めたが、買い出し先や疎開先で意地悪をされ、人間不信に陥る人も少なくなかった。

     ただ、買い出しに行くにしても、43(昭和18)年10月から、列車は貨物優先となり、一般人の乗車は大幅に制限された。特急列車、寝台車などは次々と廃止され、45年3月からは、東海道線に急行列車を残すなどしたほかは、ほぼ全廃された。

     その一方で、軍や統制団体の関係者の中には、不正を行っている者もあり、「世の中は、星(陸軍)に錨いかり(海軍)に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」と皮肉られた。

    ◆すいとんや雑炊

     43年、衣生活の簡素化が閣議決定され、決戦下での男女の服装として、国民服やもんぺなどを着用する人が増えた。婦人雑誌では既製服を国民服やもんぺに「リフォーム」する特集が相次いだ。

     料理記事は、太平洋戦争開始後の42(昭和17)年ごろから、「配給食料の使い方工夫」などの特集が組まれている。配給肉を煮込んでスープをとったり、ひき肉にして野菜と混ぜてかさを増やしたり。やがて粉を水でこねて団子状にし、汁で煮る「すいとん」を紹介。実際に試されたかどうかは不明だが、「小便から塩をとる」方法を紹介した新聞もあった。

     コメの収穫量は、42年の990万トンから45年は580万トンに激減した。

     軍隊や軍需工場への動員などによる農業労働力の減少や、農機具や肥料の不足など、生産条件の悪化が原因だった。

     一人(11歳から60歳まで)一日2合3勺しゃくだったコメの配給基準は、1945(昭和20)年7月には2合1勺に減った。七分搗づきに制限されていた精米も、42年秋から五分搗き、その後、二分搗きになった。代わりに、押し麦、コウリャン、トウモロコシなどの雑穀が混入され、馬鈴薯ばれいしょ、うどん、乾パンなどを含めた「総合配給」になる。

     44(昭和19)年3月の東京では、1人当たり5日に魚1切れで、野菜も筋だけの大根など粗悪な品ばかりになった。4月からは、東京など大都市で「雑炊食堂」がオープンした。玄米の粥かゆに野菜や魚肉などが申し訳程度に浮かんだ雑炊だったが、外食券がなくても食べられ、たくさんの客が押しかけた。人々の栄養摂取量の大幅ダウンは免れなかった。

     家庭菜園が流行し、東京都は「何がなんでもカボチャを作れ」などと、野菜の栽培を奨励した。ジャーナリストの清沢洌きよしは、友人からもらった馬鈴薯の種と堆肥を大八車に積んで帰路、途中に落ちていた「馬糞ばふんを一々拾う」と書き残している。

    ◆金属供出と灯火管制

     41(昭和16)年、政府は兵器増産のために金属類回収令を施行、全国各地で寺の鐘、街灯、看板、鉄製ポストなどが回収された。「自発的に」が建前だったが、協力しなければ「非国民」扱いされた。

     43年には、貨幣も金属類回収令の対象となり、貴金属やダイヤモンドも供出させ、安い公定価格で買い上げた。ダイヤモンドは研磨や切削加工に使用されるため、工業製品に不可欠な物資だった。またプラチナ(白金)は、電気式爆管ばっかん(薬きょうの点火装置)や航空機器の部品に使われた。終戦後に残されたダイヤモンドだけでも16万1000カラット、約150万個にのぼった。

     B29による本格的な本土空襲が始まった44(昭和19)年から、東京など都市部が破壊され始め、窓からもれるあかりが敵機への目印になるとして「灯火管制」が敷かれた。夜は電灯に黒い布や笠かさをかぶせなければならなかった。

     警防団や婦人会、隣組など銃後を守る組織によって「防空演習」も盛んに実施された。消火訓練、退避訓練、非常用炊き出し訓練なども徹底して行われるようになった。しかし、焼夷しょうい弾の空襲に対してはほとんど無力だった。
     

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  40. 「産めよ殖やせよ」

    ◆出生数は平均5児に

     政府は41(昭和16)年、「人口政策確立要綱」を閣議決定し、国を挙げての人口増強政策に乗り出した。

     内容は、〈1〉今後10年間に結婚年齢をおよそ3年早めて出生数を平均5児にする〈2〉積極的に結婚を紹介、斡旋あっせんする〈3〉貸付制度を創設して結婚費用の軽減を図る〈4〉多子家族に物資を優先配給し、表彰する――。「産めよ殖やせよ」という強いメッセージだった。

     要綱は「『東亜共栄圏』を建設して悠久にして健全なる発展を図ることは皇国の使命なり」としたうえで、「高度国防国家における兵力、労力」や「東亜諸民族に対する指導力の確保」などを目標に掲げていた。

     人類学者で「人口問題研究所」(厚生省の付属機関)の元所長・篠崎信男は、東京帝大助手だった43年、機関誌に「民族混血の研究」と題する論文を発表した。南洋諸島で行った欧米白人と現地島民の「混血」150人の調査を下敷きに「民族を強くするには、異民族との結婚が有効と思われる」と結論づけた。

     篠崎は後年、読売新聞のインタビュー(98年)で、この論文について「グローバルな発想で百年単位で、混合民族論を唱えていたのだが、朝鮮・台湾支配など植民地拡張政策を正当化したという印象だけに終わってしまった」と語った。

     健康な子どもを産むためにと、優生学に基づく断種法(民族衛生法)制定の動きが強まり、40年、「国民優生法」が公布された。また、産児制限が禁止され、結核や妊娠中毒症などで母胎が危険な場合でさえ、人工妊娠中絶はできなかったという。

    ◆結婚「十訓」で奨励

     41(昭和16)年7月1日付読売新聞には、厚生省優生結婚相談所がまとめたといわれる「結婚十訓」が掲載されている。

     〈1〉一生の伴侶として信頼できる人を選べ

     〈2〉心身共に健康な人を選べ

     〈3〉お互いに健康証明書を交換せよ

     〈4〉悪い遺伝のない人を選べ

     〈5〉近親結婚はなるべく避けよ

     〈6〉なるべく早く結婚せよ

     〈7〉迷信や因習にとらわれるな

     〈8〉父母長上の意見を尊重せよ

     〈9〉式は簡素に届けは当日

     〈10〉生めよ育てよ国のため

     結婚奨励会など民間団体の動きも活発化した。40年、満6歳以上の健康な子女10人以上を育て、かつ夫婦が品行方正である家庭を「優良多子家庭」として表彰する制度ができ、同年11月、1万622件が選ばれた。

     ただ、厚生省の資料によると、要綱が制定された41年の出生数は約227万人、42年223万人、43年225万人とほぼ横ばい(44年から46年までの3年分は資料がない)で、人口増に貢献したとはいえないようだ。

     厚生省は、会長に首相、副会長に厚相と企画院総裁をあてる「人口対策審議会」の設置を検討したが、たなざらしになった。元日本人口学会会長の山口喜一は、「政府の政策に同調する言論や運動も展開されたが、政府内の十分な予算措置も得られず、鳴り物入りの人口増強政策は貧相なものになり、そして終わったといえる」と語る。
     

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  41. 米、日系人を強制収容

    ◆砂漠の中に収容所

     日本の真珠湾攻撃から約2か月後の42(昭和17)年2月19日、ルーズベルト米大統領は、大統領令9066号に署名した。

     特定地域から住民を立ち退かせることのできる、この法令に基づき、米国本土の西海岸に住む日系人約12万人が、10か所の収容所に強制的に収容された。持ち出しが許されたのはスーツケース一つだけ。家財や土地は二束三文で買いたたかれるか、放棄せざるを得なかった。

     枢軸国のドイツ系、イタリア系米人も、一部で強制収容されたが、本国との結びつきが強い者以外は短期で釈放された。その裏に人種的偏見があったのは明らかだった。

     米国以外でも、ブラジル、メキシコ、カナダなどで、日系人の強制収容が行われた。ペルーなどからは計2000人以上が米国に強制連行され、米国内の収容所に入れられた。

     ハワイ州では、収容されたのは日系人組織のリーダー的存在に限られ、大部分は免れた。人数が多すぎたため、ハワイの経済、社会が混乱しかねなかったためだ。

     収容所は、カリフォルニア州、アリゾナ州などの内陸部の砂漠地帯に作られた。逃亡者を防ぐため、有刺鉄線のフェンスで囲まれ、銃を持った米軍兵が監視所で警備に当たった。夏は気温40度以上、冬は零下20度にもなる厳しい気候の所もあり、建物は急ごしらえで造られた粗末な木造だった。トイレには仕切り板すらなかった。

     この強制収容の根拠とされた大統領令は、76(昭和51)年にようやく廃止されるが、元収容者に対する賠償の決定と謝罪は、88年まで待たなければならなかった。

    ◆日系人部隊を編成

     収容者たちは、米国への忠誠を誓うかどうかを答えさせられた。イエスと答えた「親米派」とノーの「親日派」が激しく対立。死者が出る事件も起きた。『442 日系部隊』など日系アメリカ人に関するドキュメンタリー映画を撮った、すずきじゅんいち監督は、「日系人が二つに分かれたことは、大きなしこりを残し、今もそれは払拭されていない」と語る。

     ハワイでは、日米開戦当初、米軍兵だった日系人たちは武器を取り上げられて雑務をさせられた。その後米本土に送られ、日系兵だけで構成する「100大隊」が結成された。彼らの軍事訓練での優秀さに驚いた米軍は、日系志願兵による部隊「442連隊」を結成し、100大隊はその中核部隊となる。

     米国で生まれた2世、3世の中からは、米国への忠誠心を示すことで不当な差別をはね返そうという動きも出て、特にハワイから多数の志願兵が集まった。その中には後に日系人初の上院議員となるダニエル・イノウエもいた。

     442連隊はヨーロッパ戦線に投入された。決して退かない激しさで知られ、米軍内でも飛び抜けて高い死傷率を記録。その勇猛ぶりは米国でも大きく報道され、日系人に対する見方を変えるきっかけになった。

     一方、米陸軍は、日系人を集めた秘密情報機関(MIS、ミリタリー・インテリジェンス・サービス)を極秘に設立して日本軍の情報収集にあたらせた。

     第2次大戦終結直前に急死したルーズベルト大統領の後を継いだトルーマン大統領は、彼らを「人間秘密兵器」と呼び、戦後、連合国軍参謀第2部部長を務めたウィロビー少将は、「MISの日系兵士のおかげで戦争を2年早く終結できた」と述べている。

     終戦後も日本の復興に大きな役割を果たした彼らの存在は長く秘密にされていたが、72年、機密扱いが解除されて明らかになった。

     (永峰好美、福永聖二、鳥越恭、大津和夫)
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  42. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<44>銃後(中)…教育の場も戦争一色
    2014年1月18日3時1分 読売新聞

     戦況の悪化に伴い、学校も戦時体制に組み込まれていった。学業半ばの若者を軍需工場で働かせる一方、徴兵猶予を停止して学徒動員を開始した。都市部では、空襲被害を避けようと学童疎開が進められるなど、教育の場も、戦争一色になる。(文中敬称略)

    学徒出陣「生還を期せず」

    ◆徴兵猶予を停止

     1927(昭和2)年に制定された兵役法は、満20歳の男子に、陸軍なら2年、海軍なら3年の兵役を義務付けていた。一方で、中学校以上の学生・生徒には、27歳になるまで徴兵猶予の特典があった。

     しかし、日米開戦が迫った41(昭和16)年10月、勅令によって兵役法が改正され、猶予は大学生で24歳(医学部のみ25歳)に短縮された。卒業時期も、41年度には12月、42年度以降は9月に繰り上げとなった。

     43(昭和18)年10月からは兵力の補強策として、学生・生徒の徴兵猶予が停止された。いわゆる「学徒出陣」である。停止の閣議決定は9月21日。翌日には首相の東条英機がラジオで発表し、12月には入営するという慌ただしさだった。

     10月21日には文部省主催の出陣学徒壮行会が、東京の明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で開かれた。学生らは、雨でぬれたグラウンドを、銃を持って行進。東条は、「敵米英においても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っている。諸君は彼等らと戦場に相対し、気迫においても戦闘力においても、必ずや彼等を圧倒すべきことを深く信じて疑わぬ」と鼓舞した。

     学生を代表して東京大文学部2年の江橋慎四郎が、「生せい等(学生である我々)もとより生還を期せず。在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍しかばねを乗り越え……」と、勇ましくも悲壮な答辞を述べた。観客席では女子生徒らが見送り、競技場には「海ゆかば」の合唱がこだました。

     この日、NHKラジオは、「征ゆく学徒、東京帝国大学以下77校○○(まるまる)名、これを送る学徒96校、実に5万名」と実況放送した。○○名としたのは、出陣学徒の数も軍事機密だったからだが、行進したのは約2万5000人(推定)だった。

     ただ、その勇ましさとは裏腹に、徴兵検査で帰郷している学生もいて参加人数が足りず、徴兵検査を受けるだけで入営を延期する措置が取られた理工系の学生たちが、隊列に加わっていたと言われる。

    ◆運命の分かれ道

     また、壮行会に出なかった学生も少なからずおり、それぞれ複雑な思いでこの一日を過ごしていた。

     海軍の特攻隊員として沖縄近海で戦死することになる早稲田大生の市島保男は、「(壮行会には)行きたい気持ちだった。感激に浸り、涙を流したかった。(中略)然しかし僕は行かなかった。何故学生のみがこれほど騒がれるのだ」(早大所蔵の「市島保男遺稿集」)と、友人に手紙で疑問を投げかけた。

     陸軍に入隊するも、内地で終戦を迎えることになる慶応大生の神代こうしろ忠男は、「ゲートルを巻き、学校から借りた銃を持って出ようと思ったら仲のいい友人が2人訪ねてきた。『兵隊に行くのに、雨でびしょ濡ぬれになって風邪をひいたらまずいし、東条の偉そうな演説を聴きたくない』というので、『それもそうだ』と銀座の日劇に出かけた」と振り返る。神代の同期生約1400人のうち約200人が帰らぬ人となった。

     各大学などでも相次いで壮行会が開かれ、10月16日には、早慶両校野球部による壮行試合も行われた。当時、圧倒的な人気を誇った両校の試合は、最後の早慶戦として知られている。

     学徒兵の多くが特攻隊員として戦死するなど悲劇は数多い。その一方で、海軍兵学校の国史の教官や主計科士官、陸軍の経理部将校というコースもあるなど入隊後の運命は大きく分かれ、それが生死の分かれ目にもなった。

     43(昭和18)年12月に入隊した学徒は、全国で9万人~13万人と言われている。翌年は、徴兵年齢が19歳に引き下げられて入隊者は2倍になった。結局、学徒動員の総数については、繰り上げ卒業などもあって明確になっていない。

     また、戦没者数についても、卒業生を含めるかなど大学ごとに数え方がまちまちだが、白井厚・慶大名誉教授の調査では、早大が4561人、慶大が2225人、東大が1652人などとなっている。

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  43. 空襲を避け学童疎開

    ◆小学校は国民学校に

     41(昭和16)年4月からは、明治以来、約70年間続いた「小学校」の名称が、初等科6年、高等科2年の「国民学校」に改められた。最大の狙いは皇国民教育の徹底だった。

     教科は、国民(修身、国語、国史、地理)、理数(算数、理科)、体錬(体操、武道)、芸能(音楽、習字、図画、工作など)の4科と、実業科(高等科のみ)に再編された。

     特に国民科では、天皇への忠誠や日本精神などが徹底的に教えられた。改定された教科書も、初等科国語4年で「マストに仰ぐ 天皇旗、ああ、天皇旗」という詩が新たに掲載されるなど、軍国調と忠君愛国主義が一層強まった。

     紀元節などの「四大節しだいせつ」の式の前には、必ず予行演習があり、登校後の朝礼では、国旗掲揚と、皇居の方向に向かって最敬礼する「宮城遥拝ようはい」が日課になった。こうした国民学校での生活を通じて、軍国主義などが刷り込まれた「少国民」が育っていった。

    ◆始まりは縁故疎開

     都市部では米軍機による空襲の影が忍び寄っていた。

     子供たちを集団疎開させるか、否か。当初、政府の判断は揺れた。日米開戦直前、防衛総司令部などは、「全国民が国土防衛の戦士」として、子供も空襲から町を守る戦力の一員と見なしていた。

     終戦後に極東軍事裁判の検察側証人となった田中隆吉の手記によると、首相の東条も、学童疎開に否定的だった。陸軍省兵務局長だった田中は42(昭和17)年、東条に「都市に働く男子の足手まといにならぬよう、学童らの疎開を」と進言したが、「わが日本は家族制度の国である。疎開は家族制度の美風を破壊する」と一蹴されたという。

     だが、戦況が悪化してきた44(昭和19)年3月、京浜地域の学童について、地方の親戚や知人宅に行く「縁故疎開」を行うことを決定。同年6月には、縁故疎開を原則とするが、それが困難な初等科3~6年の学童に対しては、集団疎開を勧奨することを決めた。

     集団疎開では、保護者が疎開費用の4分の1程度(1人月10円)を出し、残りを国や疎開を行う自治体が負担した。

    ◆長期化でストレス

     「集団疎開雄々しき出陣」「車中に歡聲かんせいはわく」――読売報知新聞(44年8月5日付)=写真=は、集団疎開に出発した東京からの第1陣の様子を大きく報じている。

     大勢の人に見送られ、汽車から身を乗り出して手を振っていた子供たちは、上野駅を出発すると、目的地の群馬県へ。翌日朝刊では、疎開先での元気な生活ぶりを伝え、少年の「南方にゐるお父さんに、私の喜びを早く知らせてください。家にゐるときより勉強もできます」という声も載せた。

     集団疎開する児童数はその後拡大し、2か月後の44年9月末には、大阪、名古屋、神戸市など約10都市からの40万人に。子供たちは、旅館や寺院で寝泊まりし、勉強や清掃、食事をする集団生活を送った。

     だが、疎開生活が長くなるにつれて、食料事情は悪化。子供たちは空腹に耐えながら自ら農作業をし、先生や保護者らも食料確保に奔走した。長期間にわたる集団生活によるストレスからいじめが起き、疎開生活に耐えられず、逃げ出す子供もいた。

     同年8月には、沖縄を出発した「対馬丸」が米軍潜水艦に撃沈され、疎開中だった学童780人が死亡。45(昭和20)年3月には、卒業を控えて、東京に戻ってきた多くの6年生が東京大空襲の犠牲となる悲劇もあった。終戦前には、米軍の日本本土上陸作戦に備え、千葉、静岡などの沿岸部から再疎開する例もあった。

     政府は45年1月、集団疎開の期限を1年間延長し、翌年3月までとすることを決定したが、45年8月、子供たちは疎開先で「終戦の日」を迎え、多くは、期限を待たずにふるさとへ戻ることになった。
     

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  44. 風船爆弾に女学生動員

    ◆学校に「報国隊」

     43(昭和18)年に入ると、銃後の生産活動を支える労働力は一段と不足した。政府に残された唯一の選択肢は、学生や生徒を積極的に動員することだった。

     東条内閣は6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、〈1〉食糧増産〈2〉国防施設建設〈3〉緊要物資増産〈4〉輸送力増強――の4事業に重点を置いて、中学校以上の学生や生徒の勤労動員を行うことを決めた。

     人的・物的資源を統制する国家総動員法は、38(昭和13)年に公布済みで、若年層の勤労奉仕も行われていたが、43年以降は勤労作業が授業として扱われ、戦争遂行のための若年労働力の提供が一気に進むことになった。

     全国の学校で「報国隊」が結成され、農作業や軍需工場での兵器製造などにあたった。当初は1人あたり年間30日以内と規定されていた。ところが、44(昭和19)年3月には通年になり、学徒らは授業そっちのけで働かされた。

     動員対象も、やがて国民学校高等科まで広がり、中学校以上は、男女を問わず深夜業を課すなど、労働も強化された。45(昭和20)年3月末の文部省の集計によると、対象となった生徒の約7割にあたる約310万人が動員されていたと言われる。

     こうした中で、動員学徒のうち約9000人が広島、長崎への原爆の犠牲になったほか、約2000人が空襲などに巻き込まれて命を落としたという。

    ◆女子挺身隊も組織

     学徒動員の象徴的な例として、米国に向けて飛ばした「風船爆弾」の製造があった。陸軍登戸研究所で開発され、約1万発が製造された。

     女性の方が手先が器用だという理由で、44(昭和19)年7月、全国の女学校に通知が出された。女学生らは、各地の工場や学校などで、全国の産地から提供された和紙を、こんにゃくのりで貼り合わせて気球を作る作業を続けた。

     東京の私立東洋高等女学校3年生だった小岩昌子は、同年の後半、東京・王子にあった第2造兵廠しょうでの作業をこう振り返る。

     「2人から4人で1班となり、作業時間は午前7時から午後7時までびっしり。班ごとの達成度合いを示す棒グラフを作って競い合った。こんにゃくのりには薬品が入っていて手が荒れ、着ているモンペもすぐに傷んだため、繕う母親からよく小言を言われた」

     小岩は、「自分たちの作っているものが、風船爆弾の一部であることはおおむね気づいていたが、作業の内容は家族にも秘密と言われ、母にも何をしているのかは言えなかった」と語る。

     また、現役の学生や生徒以外でも、女学校などを卒業した未婚女性が労働力としてかり出され、「女子挺身ていしん隊」として勤労奉仕にあたった。

     埼玉県立小川高等女学校を44年3月に卒業した宮沢千枝子は、挺身隊に入り、大宮の片倉工業大宮航機製作所の寮に住み込みで働いた。担当したのは戦闘機「隼はやぶさ」の胴体部分のリベット打ちだった。危険な作業ではなかったが、胴体の中と外で向かい合って作業をするため、呼吸が合わないとうまくゆかず、検査でやり直しを命ぜられることもあったという。

     家を守るはずの女子の徴用は、旧家族制度の下では好ましくないと先延ばしにされてきた。だが、政府は43(昭和18)年5月、女子の勤労動員促進を閣議決定。44年に入ると、女子挺身隊が地域、職域、学校別に組織された。8月の女子挺身勤労令で、12歳以上、40歳未満の女子の参加が義務付けられたが、家庭の中心にあるものは除かれた。終戦時の隊員数は47万人とされる。

     (中西茂、中村宏之、諏訪部敦)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140117-118-OYTPT01056
     

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  45. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<45>銃後(下)…大本営発表 国民を欺く
    2014年1月25日3時1分 読売新聞

     新聞、出版、放送などのメディアは、「総力戦」の下、政府と軍部によって厳しい情報統制を強いられた。各メディアとも、これに抗えず、国民に届くのは、「大本営発表」に代表される“作られた”情報のみになる。戦争の真実の姿は、人々にまったく伝わらなかった。(文中敬称略)

    日米戦争中に846回

     1941(昭和16)年12月8日朝、日米開戦を告げるニュースが、東京・内幸町の東京放送会館から全国に向けてラジオ放送された。アナウンサーは、日本放送協会(NHK)の館野守男。それが、日米戦争中、846回にわたって行われた大本営発表のはじまりだった。

     大本営発表の業務は、大本営陸軍報道部と大本営海軍報道部が担った。まず、各地の戦闘情報から国民に伝えるべき情報を大本営定例部長会がセレクトする。これを受けて、報道部員が大本営作戦部と発表文を練り、参謀総長と軍令部総長の了解を得たうえで、陸海軍省の記者クラブで発表。新聞やラジオを通じて国民に伝達される仕組みになっていた。

     開戦時、国内の情報統制を担当していた内閣直属の情報局は、戦況報道に関して、「大本営の許可したるもの以外は一切掲載禁止」という示達を出した。このため、一般国民は、大本営発表以外に公式の戦況情報を得られなくなった。

     大本営発表の滑り出しは順調だった。41年から翌年にかけて日本軍が快進撃していた時期には、ほぼ正確な発表がなされた。真珠湾攻撃では、戦艦に関しては4隻沈没、3隻大破、1隻中破の戦果を挙げたが、12月8日の夜には「戦艦二隻轟ごう沈、戦艦四隻大破、大型巡洋艦約四隻大破、以上確実」と発表。確認の取れた情報を伝えようという姿勢がみられた。

     しかし、戦況が悪化するにつれて事実が歪曲わいきょくされ、国民を欺くようになる。

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  46. 新聞「唯々諾々」と従う 

    事実の歪曲重ねる

     42(昭和17)年6月のミッドウェー海戦は、「加賀」「赤城」など虎の子の空母4隻が失われる大敗北となったが、報道部の当初の発表案「空母2隻喪失、1隻大破、1隻小破」に対し、作戦部は「国民の士気に顧慮する」として強硬に反対。最終的に損失は「空母1隻喪失・1隻大破」と過小に発表された。

     42~43年にかけてのガダルカナル攻防戦でも、日本軍は最終的に撤退を余儀なくされたが、43年2月9日の発表では、目的を達成したとして同島から「転進」と文飾した。

     最悪のケースは、44(昭和19)年10月の台湾沖航空戦だった。発表では、航空機部隊により米空母の轟撃沈11隻、撃破8隻という戦果を上げたものとしたが、現実には撃沈、撃破、大破ともゼロ。実際は大失敗だったにもかかわらず、昭和天皇にも真相を伝えなかったことから「お褒め」の勅語が出てしまう。

     さらに真相は大本営陸軍部にも伝達されなかったため、「米機動部隊の脅威は去った」と判断した陸軍は、レイテ島での決戦に進み、大敗を喫する悲劇も生まれた。

     大本営発表のラジオ放送では、陸軍関連であれば「抜刀隊の歌(分列行進曲)」、海軍関連なら「軍艦マーチ」で気勢を上げ、玉砕などの場合は「海ゆかば」を流した。

     もちろん戦時下では敵を利する情報は公にできないから、事実すべてを開示する必要はなかった。また、台湾沖航空戦のように夜間攻撃で、かつ経験の浅い者が最前線に出ていた場合は戦果確認が難しく、結果的に希望的観測が入り込んだケースもある。しかし、大本営には、事実検証軽視の姿勢が否めなかった。
    日常の紙面検閲

     一方、報道する立場にあった新聞記者は、大本営発表の欺瞞ぎまんを追及できなかった。

     中外商業新報(現在の日本経済新聞)の記者として海軍省記者クラブに所属していた岡田聡の回想によれば、「戦局が悪化すると、都合のいいことだけを発表して、不利なことは知らせないようにし、こちらが外電などで戦況悪化のニュースを知り、報道部に問いあわせると、そういう事実はない、と否定してそのニュースの掲載を禁止」したという。

     「一面で扱え」「見出しはこうしろ」といった注文が出ることもたびたび。その仕事は「極端にいえば、ただ報道部の大本営発表を機械的に右から左へ国民に知らせるだけ」。43(昭和18)年後半からは「私たちも憂うつな気分にひたりがち」だったと、岡田は振り返っている。

     報道部では、日常の紙面に対する検閲も行った。それは本来、新兵器など軍事機密に属するものに限られていたが、次第にそれ以外の言論統制に類したところにまで広がっていく。報道の自由を失っていた新聞は唯々諾々と報道部に従った。

     そればかりか、理不尽な軍部に反論するのではなく、ご機嫌をとって懐柔しようという空気さえあった。

     43年3月、大本営海軍報道部に着任したばかりの高戸顕隆は、記者たちから接待攻勢を受ける同僚の姿をこのように記録している。

     「ある部員は、夕方になると、ソワソワして、あるいは新聞社の、あるいは雑誌社の誘いに乗って料亭に繰り込み、ときにはこちらから誘いをかけているようにも見えた」

         ◇

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  47. 二重三重の法令で縛る 

    差抑えや発売禁止

     メディア規制は、戦争の拡大とともに強まった。政府・軍部は、総力戦の中でメディアを国策「宣伝」に使うとともに、「国益」との衝突もある「報道や表現の自由」の制限に乗り出す。ちょうど時代は、大衆社会の発展期で、出版は読者層を拡大し、新聞も部数を伸ばし、ラジオも人気を博していた=表=。

     37(昭和12)年7月の日中戦争勃発は、情報統制の大きな節目になった。開戦直後、政府は、在京の新聞通信社の幹部約40人を集めて戦争への協力を要請。軍機保護法(軍事秘密の探知・収集・漏洩ろうえいを取り締まる法律)の規制を強化する一方、新聞紙法27条(陸、海、外相による軍事・外交に関する記事掲載の差し止め権)も発動した。

     38年4月公布の国家総動員法にも、「新聞紙その他出版物の掲載制限・禁止」を可能とする条項が盛り込まれた。

     戦時中、毎日新聞の編集幹部だった高田元三郎は、後年、「整理部長になって第一に驚いたのは、言論取締りの法令が余りにも多いこと」と書いている。治安維持法や軍用資源秘密保護法、新聞紙等掲載制限令などもあり、結局、十指にあまる法令によって紙面制作は縛られていたのだ。

     中でも41(昭和16)年3月に公布された国防保安法は、国家機密の保護を目的とし、それを外国や他人に漏洩した者は、死刑または無期もしくは3年以上の懲役に処すと規定。重要な国家機密として、御前会議や閣議の議事などを挙げていた。

     高田によれば、新聞記事は「各版毎に納本と称して」関係部局の検閲を受ける必要があり、「法規、命令に違反した記事を出した場合は、差抑えといって駅や販売店で抑えられるか、発売頒布禁止処分を受け、場合によっては新聞の発行停止というような重い処分も」あったという。

    「1県1紙」体制に

     しかし、これらの言論取締法規に対する新聞側の抵抗は弱かった。結局、43年度では、約9万件の新聞検閲が行われ、1万2000件の記事が不許可処分になっていたという。

     当局が新聞社の企業統制の武器としたのが、用紙・資材の供給制限だ。戦時下、各種物資の供給困難は、紙も例外ではなかった。まず38(昭和13)年9月、大手新聞社51社に対し、一律12%の使用制限が課せられた。

     このため、各新聞社は減ページを余儀なくされ、用紙の確保が死活問題になった。日中戦争発生時に朝夕刊で20ページだった読売新聞も、41年11月には朝夕刊で6ページ、終戦時には朝刊のみ2ページになる。

     新聞用紙を掌握した政府は、新聞界を一元化する機関を求め、自主的な統制協力組織として日本新聞連盟が設立された。中央紙、地方紙の統合がはかられ、38年には700以上あった日刊紙を、42年10月までに「1県1紙」を目標に整理。10以上あった中央紙も、「朝日」「毎日」「読売」「日経」「産経」「東京」の6紙になり、最終的には全国紙、ブロック紙、府県紙の55紙に整理統合された。

     用紙・資材の制限は、出版界にも及び、39(昭和14)年には、「不急」の定期刊行物の創刊は許されなくなった。40年12月に当局肝いりで作られた日本出版文化協会は紙の配給を握り、ここで行われる事前の審査に通った企画だけが出版を許された。

     その後、印刷から配給まで、すべてが統制下に置かれた結果、3664社あった出版社は203社にまで減った。

    出版、放送も統制

     統制は、自由主義思想や娯楽作品にも及んだ。40(昭和15)年2月には津田左右吉の『神代史の研究』など4著作が「国体の観念を破壊する」という理由で発禁になっている。

     「中央公論社は、たゞいまからでもぶっつぶしてみせる!」

     出版の言論統制を担当していた情報局第2部第2課の鈴木庫三少佐は41年2月、軍部の意向に反論しようとした中央公論社幹部に、こんなせりふを投げつけたという。

     軍部の強硬姿勢は、口先だけのことではなかった。42~43年の「横浜事件」では、「改造」「中央公論」の両雑誌が廃刊に追い込まれる。

     開局当時から、無線通信法、放送用私設無線電話規則に基づく逓信省の指導監督下で、事実上国営放送化していたNHKは、開戦後、東京からの放送のみに一元化され、報道だけでなく娯楽、音楽番組まで早々と統制下に入った。〈放送には独自の論評どころか、判断も許されなかった〉(竹山昭子『太平洋戦争下 その時ラジオは』)。

     「1県1紙」と「6大紙」の体制は戦後も引き継がれ、統制時に生まれた「記者クラブ」制度とともに、現在の新聞界のシステムの原型となった。メディア界の“再編成”は、各社の経営改善に寄与した。

     戦争末期の44(昭和19)年7月、小磯国昭内閣で、東京朝日新聞の主筆だった緒方竹虎が情報局総裁に就任。「言論暢達ちょうたつ」をモットーにするなど、厳しい統制を揺り戻す動きもみられたが、陸軍省の反発にあい、実効は上がらなかった。

         ◇

    言論の責務果たさず

     こうしてメディアは、大本営発表や情報局発表を強いられ、報道・言論の責務を果たさぬまま、結果的に国民を長期の戦争に駆り立てることになった。

     もっとも、大本営発表が繰り返されるうち、国民の間には、次第にその内容に対する懐疑の念が広がり始めていた。当時医学生で、のちに作家となる山田風太郎の日記からは、指導者を信頼したいと願いつつも一抹の不安をぬぐいきることのできない、複雑な心境がうかがえる。

     <五時のニュースで、サイパンの戦況に関する大本営発表。敵軍次第にわが陣地に侵入し来り、わが軍は白兵を以てこれと戦い、目下紛戦状態なりと。(中略)もしや――連合艦隊は――もはや太平洋から永遠に消えているのではあるまいか? そんなはずはない>(44年7月5日)

     <すでに狂瀾きょうらんを既倒に反かえす(注・悪くなった形勢を立て直す、の意)の道まったくふさがれし土壇場に到りて、初めて真相を打明けたればとて、時遅し、国民の憤激は敵に向わずして指導者に向うの虞おそれなしとせざるを知るや否や>(45年2月4日)

     広島に原爆が落とされたあとの45(昭和20)年8月8日、作家の大佛次郎は、日記にこう書いている。

     <広島爆撃に関する大本営発表が朝刊に出ている。例の如く簡略のもので『損害若干』である。(中略)革命的新兵器の出現だということは国民は不明のまま置かれるのである>

     戦時中に陸軍報道部員だった平櫛孝は戦後、著書に反省の弁を記している。「事実にもとづいた多少の増幅なら、国内放送にも用いてよいのではないか、という甚だ身勝手な屁理屈へりくつ」が、結局は、「報道や宣伝に対する国民の信頼を失わせ、やがて自分たちの首をしめることになるのに気づかなかった」。
    (時田英之、田中聡)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140124-118-OYTPT01060
     

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  48. 「悪の凡庸さ」「アイヒマン」・・・
    http://koibito2.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
     

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  49. 【社説】東京五輪組織委 オールジャパンで祭典準備を

     2020年東京五輪・パラリンピックの運営母体となる大会組織委員会が発足した。

     今後、国際オリンピック委員会(IOC)と調整を図りながら、開催準備を進めていくことになる。

     政府、東京都、日本オリンピック委員会(JOC)、経済界が一体となったオールジャパンの準備体制を築き、大会を成功に導かねばならない。

     組織委の会長には、森元首相が就任した。森氏は、日本体育協会、日本ラグビー協会の会長を務めるなど、スポーツ界全般にも幅広い人脈を持つ。それをフルに生かし、組織委内の意思疎通を図ってもらいたい。

     組織委は来年2月までに開催基本計画をまとめ、計画遂行の指揮を執る。PR活動も展開する。

     6年後の大会終了までに必要な運営費3000億円を確保するため、多くの企業からスポンサー料や寄付金を募る必要がある。副会長に内定した豊田章男トヨタ自動車社長の手腕に期待がかかる。

     実務を取り仕切る事務総長には、元財務次官の武藤敏郎氏が就いた。限られた財源の有効活用に留意することが肝要だ。

     国費を投入する新国立競技場の建設費は当初、1300億円とされたが、デザイン通りに建設すると3000億円にまで膨らむことが分かった。巨大過ぎるとの批判も高まり、延べ床面積の縮小などで1700億円に圧縮した。

     こうした甘い見積もりを繰り返せば、開催計画全体への不信感が広がるだろう。

     大会組織委については、2月初めまでに発足させることが、IOCとの契約で決まっていた。

     ぎりぎりのスタートとなったのは、猪瀬直樹・前都知事の不祥事が影響したためだ。都知事は組織委会長の人選を協議する役割を担っていたが、不在のまま会長が決まる想定外の事態となった。

     組織委においても、都知事の責任は重い。2月9日投票の都知事選で選ばれる新知事は、森会長、下村五輪相、竹田恒和・JOC会長らとともに、「調整会議」のメンバーとして、大会運営に関わる重要事項の調整にあたる。

     競技場建設のために都が保有している4000億円の基金の使途にも、責任を持つ必要がある。パラリンピックに備え、都心のバリアフリー化の推進も課題だ。

     大会の円滑な運営のためには、開催都市のトップとして、安価な電力の安定的な確保に努めることも、重要な責務である。

    2014年1月25日1時45分 読売新聞
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140124-118-OYT1T01422/list_EDITORIAL%255fEDITORIAL
     

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  50. [昭和時代]第3部 戦前・戦中期<46>東条英機…議会を軽視 一国一党に
    2014年2月1日3時1分 読売新聞

     日米開戦直前から2年9か月、首相の座にあったのは、陸軍の東条英機だった。緒戦大勝利で政権の座を固めた東条は、露骨な選挙干渉によって「翼賛議会」を確立するが、まもなく戦局は悪化。それに伴い、憲兵を使って反対勢力を弾圧する「憲兵政治」に陥るなど、戦争指導で失敗を重ねていく。(文中敬称略)

    東条首相の絶頂期

     東条首相は、1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃に始まる日本軍の快進撃で、圧倒的賛辞を受け、人生の絶頂期を迎えた。

     東条はもとより、陸大卒のエリート軍人だが、同期と比べ、陸軍中枢の出世コースを歩んできたわけではなかった。統制派のリーダー・永田鉄山に傾倒していた東条は、皇道派の中心人物、真崎甚三郎まさきじんざぶろうから疎まれ、34(昭和9)年8月、福岡・久留米の歩兵第24旅団長に左遷された。

     予備役入りを免れた東条は、満州に渡り、関東憲兵隊司令官に就任。36(昭和11)年に「2・26事件」が起きると、陸軍中央に反乱部隊の鎮圧を求めた。同時に、満州への影響を未然に防ぐため、「不純分子をすべて逮捕せよ」と命じ、皇道派将校を兵営に軟禁し、民間人を監房に拘束した。その数は数百人に上った。

     この初動対応が、反乱部隊の「断固鎮圧」を主張した昭和天皇などの意向にも沿い、その後の粛軍人事により、東条の陸軍での序列が一気に上昇する。

     37(昭和12)年には関東軍参謀長に、38年には陸軍次官に起用され、40年7月の第2次近衛文麿内閣で陸相の座にのぼりつめる。41年には「生きて虜囚の辱はずかしめを受けず」の<戦陣訓>を全軍に下した。

     こうした東条の憲兵隊司令官としての経験や、2・26事件のような内乱への強い警戒感は、首相・東条の政治に濃い影を落としていった。

    翼賛体制確立狙う

     41(昭和16)年暮れ、東条は、衆院選実施を決断した。

     前首相・近衛文麿は、日米関係悪化に伴い、法改正により議員任期を1年延長していた。このため、衆院議員は5年近く選挙の洗礼を受けていなかった。

     東条の狙いは、政府・軍部に全面協力する「翼賛議会」の確立にあった。東条は、上司の命令に絶対服従する軍人と違い、何かと政府に注文を付ける国会議員を疎んじていた。

     東条は、首相秘書官の赤松貞雄らに「自分は『政治家』と言われることが大嫌いだ」「政治家というのは利害でしか動かん」などと漏らしていた。

     政府は42(昭和17)年2月18日、「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定し、併せて発表した首相談話で、「大東亜戦争完遂のため、有為の人材が一人でも多く選出されることを熱望する」と呼びかけた。

     東条に批判的な会派「同交会」に所属する鳩山一郎は、翌日の日記に「陸軍一部の陰謀には、ただあきれる他なし」と記した。

     2月23日、衆院選候補を選別して「推薦」するための翼賛政治体制協議会(翼協)が誕生した。東条に近い元首相・阿部信行が会長に就任するなど、東条支持の親軍派議員らが事実上、推薦可否の実権を握った。内務省も全面協力し、現職議員の中で誰が政府に従順か、のリストを作って翼協に示した。

     リストは、甲=率先して国策に協力、乙=積極的ではないが国策を支持、丙=反政府的、反国家的不適格者の3段階に色分けされた。

     推薦候補は、大物弁士の派遣や宣伝物配布など物心両面で手厚い支援を受け、陸軍から1人5000円の選挙資金が与えられた。

    非推薦候補に圧力

     一方、「丙」の議員は推薦から漏れ、選挙区には対立候補として著名な新人らが送り込まれた。選挙期間中は憲兵や警察が目を光らせ、演説会が中止に追い込まれることも少なくなかったという。

     当時、83歳で21度目の当選を目指した同交会の尾崎行雄=人物抄=は、東条に公開質問状を突きつけ、選挙の不公正さを世に問うた。東条は質問状を無視し、尾崎への弾圧を強めた。尾崎は直後、友人の田川大吉郎を応援した選挙演説が、天皇を侮辱する「不敬罪」にあたるとして起訴される。

     問題視されたのは、家を売るのは往々にして道楽好きの三代目だ