2014年1月11日

「ベット・ミドラー(Bette Midler)が歌うザ・ローズ(The Rose)」

>勇気付け、そして心を癒してくれる名曲です。


The Rose - Bette Midler (歌詞字幕)English & Japanese Lyrics
http://www.youtube.com/watch?v=CB4EgdpYlnk

There's no rose without a thorn.
トゲのないバラはない…

Some say love, it is a river
That drowns the tender reed
愛は河だという人がいる
若くて柔らかい芽をのみ込んでしまうしまう河だと

Some say love, it is a razor
That leaves your soul to bleed
愛は鋭い刃物だという人がいる
魂から血を奪い去る刃物だと

Some say love, it is a hunger
An endless aching need
愛は飢えだという人がいる
満たされることのない渇望だと

I say love, it is a flower
And you, its only seed
私は愛は花だと思う
そして、その大切な種があなたなのだ


It's the heart, afraid of breaking
That never learns to dance
傷つくことを恐れている心
そんな心では楽しく踊ることができない

It's the dream, afraid of waking
That never takes the chance
目覚めることを恐れている夢
そんな夢ではチャンスをつかめない

It's the one who won't be taken
Who cannot seem to give
誰も受け入れられない人
それでは与える喜びを知ることはない

And the soul, afraid of dying
That never learns to live
そして、死ぬことを恐れている魂
それでは生きることの意味を学べない


When the night has been too lonely
And the road has been too long
夜がせつなく寂しくなったとき
そして、道があまりにも長すぎると感じたとき

And you think that love is only 
for the lucky and the strong
また、愛は幸運で強い人間にしか
やってこないと思ったとき

Just remember in the winter
Far beneath the bitter snow
思い出してほしい、厳しい冬の
深い雪の下には

Lies the seed
That with the sun's love, in the spring
Becomes the rose
暖かい太陽の愛を浴びるための種があり
春には薔薇の花を咲かせるということを・・・


1stコーラス、2ndコーラス、3rdコーラス前半まで、見事なまでに韻を踏む美しい歌詞…


HOW “THE ROSE” CAME TO BE
http://www.amcbroom.com/rose.html






都はるみ - 愛は花・君はその種子【おもひでぽろぽろ】
http://www.youtube.com/watch?v=qbFhqxZpJ_Q


歌のチカラ、歌はチカラ…


石川さゆりもええよ…



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薔薇に棘あり、どんなに美しいものにも醜さがある

美しいものには必ず人を傷つけたり陥れたりするキケンな側面がある、と言うけれど…


「トゲのない薔薇」(ぐぐる先生)


美辞麗句、巧言令色すくなし仁…

「慇懃無礼」(笑)。


東電「ご被害者のみなさまへ」

ネット界隈で大顰蹙を買っていたらしい…


(2013年12月5日)(追記12/7)

109 件のコメント:

  1. 「愛は花、君はその種子」と「The Rose」
    2010.01.22 極東ブログ by finalvent
    http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/01/the-rose-43a3.html

    >自分の訳を添えてみる。

    Some say love, it is a river
    That drowns the tender reed
    愛について、それは柔和な草を
    水に沈める川だと言う人がいる

    Some say love, it is a razor
    That leaves your soul to bleed
    愛について、それは魂から血を
    滲ませるカミソリの刃だという人もいる

    Some say love, it is a hunger
    An endless aching need
    愛について、それは空腹であり
    終わりなく痛む切望だという人もいる

    I say love, it is a flower
    And you, its only seed
    愛について、私は、それは花だと言おう
    そして、君がその唯一の種

    It's the heart, afraid of breaking
    That never learns to dance
    君は愛は小さく堅い種だと言う
    それは、殻を割ってダンスを学ぼうとしない心

    It's the dream, afraid of waking
    That never takes the chance
    君は愛は小さく堅い種だと言う
    それは、目覚めて好機を掴もうとしない夢

    It's the one who won't be taken
    Who cannot seem to give
    君は愛は小さく堅い種だと言う
    それは、取られたくなくて与えようともしない人

    And the soul, afraid of dying
    That never learns to live
    君は愛は小さく堅い種だと言う
    それは、死ぬことを恐れて生きることを学ばない魂

    When the night has been too lonely
    And the road has been too long
    夜がこれまでずっとさみしいとき
    そして、道がこれまでずっと長いとき

    And you think that love is
    only for the lucky and the strong
    そしてあなたが愛は
    運のいい人や強い人だけものだと思うとき

    Just remember in the winter
    Far beneath the bitter snow
    冬のつらく深い雪の下を
    すこしばかり思い出してみて

    Lies the seed
    That with the sun's love, in the spring
    Becomes the rose
    あなたが愛だとしたその種はそこに居て
    春の太陽の光のなかで
    バラの花になる

     

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  2. >おまけ。

    「バラの花」 終風訳詩

    草花を飲み尽くす
    愛は川なのか
    心に血を流す
    愛はヤイバなのか
    満たされることない
    愛は願いなのか
    愛は花だと私は言う
    君はかけがえの種

    踊ろうとしない心が
    堅い殻に閉じこもる
    チャンスを掴まないまま
    種はまどろみつづける
    与えることが怖くて
    その実を結ばない
    生きようとしない心は
    死ぬことに怯える

    さみしいままの夜
    辿りつかない長い道
    不幸や弱さに
    くじけてしまうとき
    雪の日を思ってみて
    埋れていた種は
    春の光の愛で
    バラの花になる
     

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  3. HOW “THE ROSE” CAME TO BE
    http://www.amcbroom.com/rose.html
     

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  4. 「愛は花、君はその種子」
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E6%84%9B%E3%81%AF%E8%8A%B1%E3%80%81%E5%90%9B%E3%81%AF%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%A8%AE%E5%AD%90
     

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  5. 都はるみ - 愛は花・君はその種子【おもひでぽろぽろ】
    http://www.youtube.com/watch?v=qbFhqxZpJ_Q

    やさしさを 押し流す
    愛 それは川
    魂を 切り裂く
    愛 それはナイフ
    とめどない 渇きが
    愛だと いうけれど
    愛は花 生命の花
    君は その種子

    挫けるのを 恐れて
    躍らない きみのこころ
    醒めるのを 恐れて

    チャンス逃す きみの夢
    奪われるのが 嫌さに
    与えない こころ
    死ぬのを 恐れて
    生きることが 出来ない

    長い夜 ただひとり
    遠い道 ただひとり
    愛なんて 来やしない
    そう おもうときには
    思い出してごらん 冬
    雪に 埋もれていても
    種子は春 おひさまの
    愛で 花ひらく
     

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  6. 訳から離れて、新たな日本語の歌詞をつけてみたらどうなるかな…

    キヨシローみたいに…

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  7. MISIAの森 Forest Covers
    http://www.amazon.co.jp/dp/B005OCSUPQ
    https://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%AD%EF%BC%A9%EF%BC%B3%EF%BC%A9%EF%BC%A1%E3%81%AE%E6%A3%AE

    The Rose|MISIAの森-Forest Covers-
    http://www.misia.jp/official/sp_forest/msp/music/03.html
    https://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%AD%EF%BC%A9%EF%BC%B3%EF%BC%A9%EF%BC%A1%E3%81%AE%E6%A3%AE+the+rose

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  8. >MISIA 本人による曲解説

     この曲も最初から歌いたいと思っていました。ベット・ミドラーが主演する映画『The Rose』の歌ですが、歌詞が素晴らしいのです。

     この歌は、愛をいろんなものに例えて歌っています。そして、つらいことがあっても、なくなってしまったと思ったとしても、愛は花のようにみんなの心の中にあって、あなたがきっかけさえあげれば咲くんだよって歌っています。どんなに深く積もった雪でも、春になると地中の種は暖かな陽射しを浴びて芽を出す。今、あなたがひどい吹雪のようなつらい時期に直面していたとしても、必ず(新しい一歩への)種はあるから…と。

     震災後、情けない話しですが、恐さや不安から音楽なしでは生活できなくなっていて…。 無音でいると、自分の頭の中の考えに飲み込まれそうになるので、ずっと音楽を流し続けていたんですね。この曲もいつも流れていたものの1つでした。

    また、 "バラ"と聞くと多くの人は西洋的なものをイメージすると思うのですが、バラ科という大きなくくりで見ると日本に根ざした"バラ"もたくさんあるんです。たとえば、日本を代表する桜、桃の花、もちろん日本古来の野バラなどもあります。愛の象徴でもある"Rose"。つまり自分の中の愛や、もともと日本にある"Rose"を見つめることで、生物多様性のメッセージに繋がって欲しくてこの曲を選びました。あるべき姿を見失わないこと。生物多様性を守って行く為にもこのことはとても大切なことです。
     

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  9. (アルバム付録歌詞カードの訳から)

    ある人は愛は川だと言う
    柔らかな葦をも溺れさせるような流れだと
    ある人は愛は剃刀だと言う
    魂に斬りつけて流血させるような刃だと

    ある人は愛は飢えだと言う
    永遠に満たされることのない渇望だと
    私は愛は花だと言う
    そしてあなたがその花になる唯一の種だと

    傷つくのを恐れる心は
    決して踊ることを覚えようとはしないのです
    醒める事を恐れる夢は
    決してチャンスをつかもうとはしないのです
    何かを奪われている恐れている心は
    何も与えることはできないのです

    死ぬことを恐れる魂は
    生きることの喜びを知ることはないのです

    あまりにも夜が寂しく
    道のりが果てしなく遠く
    どうせ愛とは強い人や幸運に満ちた人だけのものだと
    思ってしまう時
    どうか忘れないで
    冬の冷たい雪の下奥深くには
    種が眠っているということを
    春になり太陽に愛でられ
    花開くバラになるということを
     

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  10. 同アルバムの「リボン・イン・ザ・スカイ」(スティービー・ワンダー)の日本語バージョンは秀逸。

    5. Ribbon In The Sky by Stevie Wonder
    http://www.misia.jp/official/sp_forest/msp/music/05.html

    《歌う曲が、マイケル・ジャクソン、ダニー・ハサウェイ、マーヴィン・ゲイ…と決まっていく中で、やはりソウルミュージックを愛する1人としてスティーヴ ィー・ワンダーの楽曲は外せないなと思いました。ただ、星の数ほどある名曲から、アルバムにどの曲を選ぶべきか…それを決めるのは簡単ではなくて。そんな とき、ツアーのバンマスでアレンジャーの重実徹さんが提案してくれたのが、『Ribbon In The Sky 』でした。
     改めて歌詞を読むと、同じ空の下で私たちを繋ぐもの=リボンにたとえていたんですね。日本では、そういったものを"ご縁"と言ったりもしますが、遠い空の下であってもいつも繋がっているというメッセージになるし、どこか遠くにいる誰かと繋がりたいという意味にもなるかなと思いました。また、人によってはそのリボンを"赤い糸"のような、ロマンティックなものに感じる人もいるでしょうね。実際に、スティーヴィー・ワンダーのミュージックビデオでは、ピンクのリボンが遠くはなれる2人の男女をロマンティックに結びつけているような感じでしたから。
     そしてレコーディングする段になり、今度はプロデューサーから意外な提案があったんです。「よりメッセージを伝えるために、日本語で歌ってみたらどうだろう」と。驚きましたが、その場で簡単に日本語に訳して歌ってみると、すごくフィットして自然だったんです。実際にこれを聴いた人からは、"すごく新鮮で、しかもよりメッセージが入ってくるね"と言ってもらうことがとても多いですね。
    日本語の歌詞は、私が書かせていただきました。英語に比べ日本語訳にするとどうしても言葉数が多くなってしまいますが、スティーヴィー・ワンダーが伝えたかったことを全部盛り込めるように、決して意訳はしないように心がけました。メロディーにマッチするよう、言葉を最小限にとどめる和訳は難しかったですが、メッセージがと届くと嬉しいです。》

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  11. この間の、熊本からの「のど自慢」で、石川さゆりの「天城越え」を歌った看護師さんの音のはずし方が天才的で笑えた…。あれは誰にもまねできない。ワザとらしさがないもろ天然だけに、個性フル発揮のあの人にしかできない表現パフォーマンスですばらしかった(笑)。あれこそまさにアマのえんたーちなーの本領発揮。

    まさかアレ、演技でやってたわけじゃないよね(笑)。

    2個だか鐘が鳴って終了したあとのコメントもすばらしかった…。

    「ふだんはもっと上手に歌っているのに」。

    緊張して、しかも本人の前で歌って、舞い上がっちゃったのはわかるけど…(笑)。
     
    「のど自慢」は、たまにそういうのがあるから聞き逃せない。
     

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  12. 「天城越え 石川さゆり」
    http://www.youtube.com/watch?v=XD7Z_fUzHB0

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  13. 小椋佳×美空ひばり 愛燦燦2007 12 31 第58回NHK紅白歌合戦)
    http://www.youtube.com/watch?v=pBKfUlXWcwc
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A+%E6%84%9B%E7%87%A6%E7%87%A6
     

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  14. 美空ひばり 愛燦燦 ai san san
    http://www.youtube.com/watch?v=nZLAyrsi8RE
     

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  15. 「STARDUST 美空ひばり」
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A+%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%80%E3%82%B9%E3%83%88
     

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  16. Album: Misia の森 - Forest Covers : Available in iTunes * 大きな愛の木の下で * Ribbon In The Sky (Japanese Version) * What A Wonderful World *
    http://www.youtube.com/watch?v=S1qUpMPtYrY
     

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  17. また今年も「ホワイトクリスマス」の時期になったなあ…

    「white christmas」
    http://www.youtube.com/results?search_query=white+christmas

    WHITE CHRISTMAS - Bing Crosby
    http://www.youtube.com/watch?v=GJSUT8Inl14
     

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  18. 「愛の賛歌」とか「家路」とか、スコットランド民謡「蛍の光」、「埴生の宿」、
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%9F%B4%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%AE%BF

    「賛美歌」の数々…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E8%B3%9B%E7%BE%8E%E6%AD%8C
     
    すばらしい日本語の歌詞によって、それは日本語の歌になる…

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  19. 「きよしこの夜」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%8D%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%93%E3%81%AE%E5%A4%9C
     

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  20. 「きよしこの夜 初音ミク」
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8D%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%93%E3%81%AE%E5%A4%9C+%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%AF
     

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  21. >「ご被害者のみなさまへ」

    「被害に遭われた方へ」「災害を被った方へ」くらいにしておいたほうが無難だったかも…

    被害者は個々の個人。組織から個人にモノをいうことの言語感覚、個人から組織にモノを言う言語感覚は、なかなか機会がないから、言葉を紡ぎ文章にする際、何人寄せても、なかなか言葉の受け取る側の気持ちにまでは配慮がおよばなかったりするもの…

    それともうひとつ…

    お里が……こればっかりは、じつはどうにもならなかったりするのかも…「躾」の問題だったり…
     
    「礼儀作法」ってのは、「付け焼刃」だと、いざというとき実に脆く剥がれ落ちてしまって本性がむき出しになってしまうものなのかもしれない(笑)。
     

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  22. ひまわり娘/伊藤咲子
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%B2%E3%81%BE%E3%82%8F%E3%82%8A%E5%A8%98

    あなただけの花になりたい それが私の願い

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  23. 秋桜(コスモス) /山口百恵
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E7%A7%8B%E6%A1%9C+%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%82%B9

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  24. ダンデライオン /松任谷由実
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3+%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E8%B0%B7%E7%94%B1%E5%AE%9F

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  25. ハナミズキ/一青窈
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%82%AD

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  26. さくら/森山直太朗
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89

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  27. 花/喜納昌吉
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E8%8A%B1+%E5%96%9C%E7%B4%8D%E6%98%8C%E5%90%89

    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

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  28. 6月6日 編集手帳

     おとといの新聞を整理していて、『安倍首相の一日』欄に「ザンビア」の名前を見つけた。アフリカ開発会議に来日したサタ大統領と会談したという。日本とは奇縁で結ばれた国である◆独立したのは1964年10月24日、東京オリンピック閉会式の日である。2週間前の開会式にはイギリス保護領「北ローデシア」として入場行進をしている。五輪の開会式と閉会式で名前が異なるめずらしい例だろう◆乱舞、乱舞の閉会式では、どこかの国の選手がザンビアの旗手を肩車して祝福した。実況のアナウンサーが声をからす。「泣いています…笑っています…」◆<泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ…。>喜納昌吉さんの名曲『花~すべての人の心に花を~』はこの日の感銘が歳月のなかで発酵して生まれたと聞く◆サハラ以南では5~17歳の4人に1人が「児童労働者」である厳しい現実も、今回の会議で報告されている。天然資源の豊富なアフリカ諸国と、技術をもつ日本と、手を携えて成長し合う盟友の関係を一日も早くつくらねばなるまい。すべての人の心に花を、である。

    2013年6月6日3時1分 読売新聞
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20130606-118-OYTPT00068

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  29. 花〜すべての人の心に花を〜
    https://www.google.co.jp/search?q=%E8%8A%B1+%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%81%AB%E8%8A%B1%E3%82%92

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  30. シクラメンのかほり
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%BB%E3%82%8A

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  31. サボテンの花
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B5%E3%83%9C%E3%83%86%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%8A%B1
     

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  32. でももう花はいらない/オフコース
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%A7%E3%82%82%E3%82%82%E3%81%86%E8%8A%B1%E3%81%AF%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84
     

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  33. やまとなでしこ
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%93

    Everything/MISIA
    http://www.youtube.com/watch?v=aHIR33pOUv0
    http://www.youtube.com/results?search_query=misia+everything
     

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  34. 雪の華/中島美嘉
    http://www.youtube.com/watch?v=mF5Qq2YheTg
    http://www.youtube.com/results?search_query=%E9%9B%AA%E3%81%AE%E8%8F%AF
     

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  35. フォスター「夢見る人」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E4%BA%BA+%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

    原詞
    1.
    Beautiful dreamer, wake unto me,
    Starlight and dewdrops are waiting for thee;
    Sounds of the rude world, heard in the day,
    Lull'd by the moonlight have all pass'd away!
    Beautiful dreamer, queen of my song,
    List while I woo thee with soft melody;
    Gone are the cares of life's busy throng,
    Beautiful dreamer, awake unto me!
    Beautiful dreamer, awake unto me!

    2.
    Beautiful dreamer, out on the sea
    Mermaids are chanting the wild lorelie;
    Over the streamlet vapors are borne,
    Waiting to fade at the bright coming morn.
    Beautiful dreamer, beam on my heart,
    E'en as the morn on the streamlet and sea;
    Then will all clouds of sorrow depart,
    Beautiful dreamer, awake unto me!
    Beautiful dreamer, awake unto me!

    訳詞
    1.
    美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
    星の光と露の雫があなたを待っている
    粗暴な俗世の喧騒は
    月の光に優しく照らされ、すべては過ぎ去った
    我が歌の女王、美しき夢見る人よ
    あなたへの愛の調べを聴いておくれ
    わずらわしい浮世の苦悩も消え去るだろう
    美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
    美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ

    2.
    美しき夢見る人よ、海原に出よう
    人魚たちがローレライの歌を口ずさむ
    小川の上にかすみが立ちこめ
    朝の日差しに消え行くのを待つ
    美しき夢見る人よ、私の心の希望の光
    小川や海の朝の中で
    悲しみの雲は消えゆくだろう
    美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
    美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E4%BA%BA
     

    返信削除
  36. 【民謡日本一】あなたに逢いたくて/ 松田聖子【山形弁カバー】
    https://www.youtube.com/watch?v=Jpt7qAhiC_A

    「朝倉さや」
    https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%9D%E5%80%89%E3%81%95%E3%82%84

    歌が抜群にうまいのはよくわかるから、「民謡日本一」の看板はひっこめておいていいんじゃないのかなあ…

    松浦亜弥のようなアイドル風ルックスで売る必要ないから、かえって歌をきかせるウリでいけるから長続きするんじゃないの?

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  37. 【民謡日本一】Let It Go ありのままで【アナと雪の女王】松たか子
    https://www.youtube.com/watch?v=PNF61cqMwNo

    【民謡日本一】ノラ・ジョーンズ/ドント・ノー・ホワイ※歌詞山形弁cover
    https://www.youtube.com/watch?v=dq_Kc671bNU
    朝倉さや  Don't Know Why 山形弁字幕付
    https://www.youtube.com/watch?v=8pDypq5j3PM

    【民謡日本一】残酷な天使のテーゼ 盆踊り【三味線弾いてカバー】
    https://www.youtube.com/watch?v=bAnEFQlNEPc

    【民謡日本一】朝倉さや/最上川舟唄【PV】東北JAPANSONG
    https://www.youtube.com/watch?v=rVzplRmqNIw

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  38. 【民謡日本一】 花 泣きなさい 笑いなさい【名曲カバー】
    https://www.youtube.com/watch?v=w36j4JcTxDQ

    【民謡日本一】さくら(独唱) 森山直太朗【カバーPV】
    https://www.youtube.com/watch?v=08hu8rzg2xA

    紅白出て民謡と山形弁バージョンのカバー曲やったら大ブレイク間違いなし…

    ドンノーホワイがええな…

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  39. 歌心を継承できる若い才能が枯れることなく出てくる世界はすばらしい…

    「この素晴らしき世界」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%93%E3%81%AE%E7%B4%A0%E6%99%B4%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%8D%E4%B8%96%E7%95%8C

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  40. 「アリャセ ヘイヤ~」
    作詞 作曲/朝倉さや 編曲/solaya
    https://www.youtube.com/watch?v=RXncE7Lvubc
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%82%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%A4%EF%BD%9E+%E6%9C%9D%E5%80%89%E3%81%95%E3%82%84

    山形弁の女性版桑田佳祐…

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  41. 朝倉さや すっぴん 出演 11 12
    https://www.youtube.com/watch?v=KKm0-WlIkJQ

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  42. 大作曲家の神髄見えた
    2016年2月9日15時0分

     ◇堀米ゆず子 2年半かけて演奏会

     国際的に活躍するバイオリニストの堀米ゆず子が、音楽作りの中核に据えるバッハとブラームスに真正面から挑んだ演奏会シリーズが最終回(計6回)を迎える。3月17日午後7時、東京・代々木公園のハクジュホールで。約2年半をかけて見えた大作曲家の神髄は、自らも驚くものだった。(岩城択)

     ◇「バッハは歌、ブラームスは構成力」

     「バッハは背骨。ブラームスは心のひだ」。堀米は長く、両者の音楽のたたずまいをこう捉えてきた。

     複数の旋律を組み合わせて進行させる「対位法」を駆使したバッハの伽藍がらんのような様式性と、内面にロマン主義も薫るブラームスの叙情的な音楽性を、それぞれから感じてきたからだ。

     だが、シリーズを通し、意外にもバッハ作品は「究極的に歌」で、ブラームスは「構成力」だと思い知った。厳格な骨組みに乗っかる歌と、確固たる和声の背骨――。正反対の特性にうなった。「バッハはメロディーだよ」。学生時代にはピンと来なかった、恩師の江藤俊哉から教わった言葉が、鮮烈によみがえった。

     公演プログラムの編成も絶妙だったと自負する。

     今回の演目も、ブラームスの「ホルン三重奏曲」から始まり、バッハの「音楽の捧げもの」よりトリオ・ソナタ、最後にバッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタ第3番」。通常の小編成から大編成に至る組み立てとは逆で、堀米には重圧を増しながら研ぎ澄まされた演奏が要求される。「高い山を越えた先に更に高い山がある感じ。気力、体力ともしんどいが、それでつかんだものは大きい」

     このシリーズで重点的に弾いたバッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」(全曲)を、新たにCD録音(エクストン)し、3月18日に発売する。

     一方、今年5月21日~6月5日に行われる「第6回仙台国際音楽コンクール」のバイオリン部門で、初めて審査委員長を務める。バルトークの無伴奏ソナタやシューマンの協奏曲など、コンクールでは比較的珍しい課題曲を盛り込んだ。「弾き映えが難しくテクニックがいる。若い頃にこうした音楽に向き合い、ジューシーでベタベタしていない新鮮な演奏を披露してほしい」と期待を語った。

     公演の問い合わせは、(電)03・5478・8700。

    1980年、エリザベート王妃国際音楽コンクールを制覇。昨年、著書「ヴァイオリニストの領分」(春秋社)を出した=写真・大倉琢夫
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160208-118-OYTPT50381

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    1. >このシリーズで重点的に弾いたバッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」(全曲)を、新たにCD録音(エクストン)し、3月18日に発売する。

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  43. TROUBLE IN MIND Original Motion Picture Soundtrack (Isham/Faithfull)
    https://www.youtube.com/watch?v=K26OiyJ7_sI

    「Trouble In Mind」
    https://www.youtube.com/results?search_query=Trouble+In+Mind

    「Marianne Faithfull」
    https://www.youtube.com/results?search_query=Marianne+Faithfull

    「マリアンヌ・フェイスフル」
    https://www.google.co.jp/search?q=marianne+faithfull

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  44. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子 81<1>ジャズに首ったけ 私の青春
    2017年4月27日5時0分

     エルビス・プレスリー、ザ・ビートルズ、マイケル・ジャクソン……。いち早く日本に紹介したアーティストは数えきれない。変わらぬ好奇心で、音楽と共に歩んだ80年。洋楽の伝道師は時代をどうみてきたか。

     編集委員 永峰好美

     

     「一度お目にかかりたし。連絡乞う」。ジャズ専門の音楽雑誌「スイングジャーナル」編集部から電報を受け取ったのは、1960年、24歳の時でした。東京・目黒の自宅に電話がない頃です。近所で電話を借りて連絡し、新橋の喫茶店で編集者と会うことになりました。

     「あなたの投稿にたくさんファンレターが来ています。本格的に書いてみませんか?」。思いもかけないお誘いに、「そんなことができるのならば、ぜひ書かせてください!」と飛びつきました。この編集者こそ、のちにジャズ評論家になる岩浪洋三さんでした。

     《「スイングジャーナル」(1947~2010年)は、戦後日本のジャズ文化をリードした月刊誌。植草甚一、野口久光ら著名な文筆家を輩出した》

     雑誌には「読者論壇」というページがあって、「湯川れい子」のペンネームで2回投稿、採用されていました。詩を書くのが好きだった中学生の頃、占い師につけてもらった名前です。

     高校卒業後、当時のボーイフレンドに影響されて、黒人兵が集まる有楽町のジャズ喫茶通いをしていました。バップとか、アメリカで発売されたばかりの最新のモダン・ジャズのLPレコードを一生懸命聴いて、もう夢中になりました。

     女優を志したものの、芽が出ず、米軍キャンプ回りに貿易会社の社長秘書、洋裁学校にも通いました。戦時中に夫と息子を亡くした母は、早く私を嫁がせたいとの思いが強かった。一方で、何かを見つけようと必死にもがく私を、そっと見守ってくれてもいました。そんな時、好きなジャズで文章を書いてお金がいただける――こんなステキな話はありません。

     当時の投稿を読み返すと、えらく生意気な文章を書いたものだと冷や汗が出ます。「私たちの歴史にはリズムが存在していなかった。日本のプレーヤーは上滑りのテクニックに走らず、謙虚に自分のものを作り上げてほしい」なんて調子です。反響があったのは、単に女の子が珍しかったからだと思います。文章の勢いから若いと推測できたでしょうから。

     そしてまもなく、外国人ミュージシャンにインタビューをする大きな仕事の機会がやって来ます。

     (この連載は、月~木曜日と土曜日に掲載します)

           ◇

     ゆかわ・れいこ 1936年(昭和11年)、東京都出身。本名・湯野川(ゆのかわ)和子。独立プロの女優を経て音楽評論家の道へ。ラジオ音楽番組のディスクジョッキー、エッセイストとして活躍、アン・ルイス、松本伊代らのヒット曲の作詞も手掛けた。「湯川れい子のロック50年」など著書多数。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170426-118-OYTPT50363

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    1. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<2>心躍る大物インタビュー
      2017年4月29日5時0分

       「スイングジャーナル」編集部から、アート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズ(JM)というグループが来日するのでインタビューしてほしいとの依頼がありました。初めてのビッグインタビューに心が躍りました。

       《JMの初来日公演は1961年1月。当時の読売新聞は「黒人の生命力を感じさせる迫力の演奏」と評し、ファンキージャズ・ブーム到来を伝えている》

       高校時代に洋画の映画館に通って覚えただけの英語です。話したり聴いたりする力は全く自信なかったですね。それでも、好きなジャズのスターに会えるなんて、うれしい、楽しいが先に立ち、怖いものなしで引き受けました。

       母が東京・目黒の自宅で、賄い付きの下宿屋をしていて、その中に一橋大学卒の銀行員さんがいらした。進駐軍の将校クラブでアルバイトの経験があり、英語力がすごくある方で、彼に手伝ってもらって英語の質問を考えました。

       その頃のテープレコーダーは、二つのオープンリールに巻かれた磁気テープに録音するタイプ。大きくて重くて、一人で持てるようなものではありません。でも、その場で話されたことを書き留めることはとても無理。悩みました。

       ローン(当時は月賦といっていました)で電化製品を販売している店で、小型トランクみたいに持ち運べる録音機を見つけた時には、本当にうれしかった。大卒初任給よりずっと高価でしたが、迷わず2年ローンを組んで、手に入れました。家に帰って録音したインタビューを聞いて、彼に書き取ってもらいながら原稿に。「スイングジャーナル」以外にも新聞・雑誌に掲載されました。

       その時のことで覚えているのは一つだけ。テープを起こしていたら、アート・ブレイキーさんが答えている最中、恐らく彼が言葉を探して考えている最中に、私、次の質問をしているんです。つまり、聞き取れていないし、ちゃんと理解できていないの。大変失礼なことをしてしまいました。

       それもこれも、若さだったのでしょうね。周りからも仕方ないなと見ていただいていたし、自分でも、失敗して当たり前みたいなところがありました。戦後の女性解放第一世代ですから、生き方のモデルがなかった。未知の世界であればあるほどわくわくするし、自分がやれるかやれないかと考えるよりも、こんなふうにできたらうれしいなって、想像をふくらませてチャレンジしてきた人生です。

       そんな私に、それから半年の間に、ばたばたっとラジオや雑誌の連載の仕事が舞い込んできました。音楽に関わりがあれば来るもの拒まずで、何でもお引き受けしました。「ドクター牧」の通称でラジオ番組を持っていたジャズ評論家のお医者さまがいらして、彼の「ファミリージョッキー」の台本を書き、選曲もしました。ラジオ局のレコード室に出入りできたので、いい勉強になりました。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170428-118-OYTPT50388

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    2. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<3>防空壕掘る長兄の口笛
      2017年5月1日5時0分

       父は山形県米沢市の出身で、海軍兵学校を卒業、上海や青島など中国で十数年勤務して、内地の軍令部勤務になった翌年に私が生まれました。父53歳、母42歳の時の子供で、母はまさか赤ちゃんができたとは思わず、おできかしらと心配したそうです。長兄とは18歳、次兄とは15歳、すぐ上の姉とも12歳離れているので、家族皆にちやほやされて育ちました。

       大叔父の黒井悌次郎ていじろうは海軍大将、父のいとこが山本五十六さんの元に嫁いでいて、親類縁者は海軍一族。次兄は麻布中学から猛勉強して海軍兵学校に進みました。

       海軍は転勤が多いでしょう。次兄は転勤にくっついて佐世保や呉などの軍港で育ちましたが、長兄は、父の国元で郷土の風習を身に付けながら教育を受けた方がいいとの考えから、米沢の祖父母に預けられ、思春期をのんびり過ごしたみたいです。

       東京の拓殖大学に入り、乗馬に親しみ、音楽や絵が好きで、拓大の寮歌の作詞もしています。兄が残した日記には、戦争が激化する直前まで「舞踏会の手帖」や「スタア誕生」など、外国映画をよく見ていたことが記されています。

       《1939年10月、映画台本の事前検閲などを盛り込んだ映画法が施行、外国映画の上映も制限されたが、完全締め出しではなく、40年に米映画「駅馬車」が公開されている》

       漠然とですけれど、長兄は絵描きのような自由人を目指していたのではないかと思うんです。

       40年に大学を卒業した長兄には、まもなく徴兵の話がきます。延期願を4回も提出していましたが、42年に米沢で入隊します。

       私が小学生になった43年夏の終わり、休暇で東京に戻った長兄が、目黒の実家の庭で汗まみれになって防空壕ごうを掘ってくれた時のことをよく覚えています。スコップを握りながら兄が何気なく吹いた口笛のメロディーが、幼い私にとって、そよ風が吹き抜けるように何とも心地よいメロディーだったからです。

       「その歌は何ていうの?」と聞いたら、「兄ちゃまが作った歌だよ」との答えでした。

       母も私も、それが最後の思い出です。長兄はその翌年出征し、45年4月、フィリピンのルソン島で帰らぬ人になりました。

       戦後になって母に、長兄とは最後にどんな会話をしたのか尋ねたら、こう教えてくれました。「もう最後まで冗談言って出かけて行ったの。『もし僕が髪の毛の縮れた、色黒で目のくりくりっとした子供を連れて帰って来て、その子がばばちゃま!と甘えても、卒倒しないでね』ですって」

       私はそれを聞いて、大泣きをしました。長兄は南方に行くことがわかっていて、土地の人たちと仲良くできるかなど、何とか動機付けを考えていたのでしょう。そして、長兄の口笛の謎は、戦後思いがけず解けることになります。(編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170430-118-OYTPT50125

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    3. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<4>進駐軍のラジオに夢中
      2017年5月2日5時0分

       1944年、軍令部に勤務していた父が急死しました。男性がいなくなった我が家は、母と姉と私の3人で、父の実家の山形に疎開します。

       敗戦の時は小学3年生でした。ラジオの前で正座して天皇陛下のお言葉を聞いた後、母は、父が私に遺のこした螺鈿らでん細工の懐剣を持ち出し、「アメリカが入ってきて何か辱めを受けるようなことがあったら、これで自害するように」と言いました。柄に手ぬぐいを巻き、両膝を腰ひもでしっかり縛って剣をのど元にあてがい、からだの重みを使って突っ伏すというのが作法でした。それがどれほどの重みのあることなのか、子供の私にはさっぱりわかりませんでしたけれど。

       2年後に疎開先から東京に戻り、焼け残った目黒の家での生活が始まりました。そこへ、戦時中に行方不明で戦死したとばかり思っていた次兄が突然帰ってきました。次兄は、特攻兵器「桜花」の神雷部隊の生き残りで、戦後、皇統護持作戦の命を受けて、秘密裏に活動していたようです。帰還して1年くらい、次兄の異常な行動は続きました。夜中に大声で叫んで跳び起きたり、私が嫌がることをわざとやって泣かせたり。精神的にバランスを崩していたのでしょう。しばらくして、元の優しい兄に戻ってくれましたが。

       私は地元の中学に1年通った後、姉が卒業した私立鴎友学園に移ります。校則が厳しくて、学校はあまり面白くありませんでした。腺病質で、へんとう腺をよく腫らし休みました。ハイネやリルケの詩が好きな夢見る少女で、自分でもいつも詩を書いていました。

       床で本ばかり読んでいるのは体によくないからと、母は、枕元に木製ラジオを置いてくれました。ガーガーピーピーと雑音の多いラジオをチューニングして、明るい音楽を探していたら、ある時、聴き覚えのある甘やかな曲が流れてきました。そう、長兄の口笛のメロディーです。それは、進駐軍の放送で、何回か聴いて、「スリーピー・ラグーン」というタイトルであることがわかりました。

       《英国のエリック・コーツが30年、サセックス州の静かな入り江をテーマに作曲。42年、米トランペット奏者、ハリー・ジェイムスの演奏で大ヒットした》

       のちに遺品を整理した時、長兄が描いたレコード・ジャケットのイラストがたくさん出てきました。金髪の女性水兵が楽器を持って踊っているようなデザインもあって、あの時代によく描けたものだと驚きでした。長兄は、ただただアメリカの明るい歌が大好きだったんですね。でも、世の中は急速に戦争ムードが高まり、その好きなことが許されない時代になっていく。たとえ小さな妹にも、「これはアメリカで今ヒットしている歌だよ」なんて言えなくて、自分が作ったとごまかしたのでしょう。

       長兄を思い、私は進駐軍の放送にどんどんのめりこんでいきました。 (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170501-118-OYTPT50393

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    4. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<5>映画1日4回 英語を学ぶ
      2017年5月3日5時0分

       中学生になって、進駐軍のラジオ放送から流れるトニー・ベネットやドリス・デイのステキな歌を覚えたい一心で、英語を勉強していました。

       今のように歌詞カードがない時代です。当時の女子の間では宝塚が人気でしたが、クラスメートに2人ほど同じ志の人がいて、「今日は何行目まで聴き取れた」と言って、ノートを交換していました。こうして最初に覚えたのが、ペリー・コモの1950年の大ヒット曲「イフ」。とにかく声が魅力的でした。

       それと並行して聴いていたのが、NHKラジオの「英語会話」です。

       《46年2月に始まった同番組は、童謡「証城寺しょうじょうじの狸囃子たぬきばやし」の旋律に英語の挨拶を乗せたテーマ曲「カム・カム・エブリボディ」が人気になり、日本に英語ブームを起こした》

       52年、高校1年の時、新聞の3行広告で、映画「ホフマン物語」の宣伝キャンペーンをする「ホフマンガールズ」を募集しているのを見つけて、応募しました。家財を売り、自宅を賄い付きの下宿屋にして生活をつないでいた母を少しでも助けたいと思っていた私には、お金を稼げる初めてのチャンスでした。

       確か「18歳以上」が条件でしたが、姉の赤い口紅を借りてごまかして、何とか合格。お小遣いを稼げたのもうれしかったけれど、その時に知り合った東和映画の宣伝部長さんから、試写会や映画館の招待券をたくさんいただけたのがありがたかった。その部長さんは、アメリカのジャズ歌手、ジョセフィン・ベーカーが来日した時に帝国劇場のコンサートにも連れて行ってくださって、今も舞台の鮮烈な印象が残っています。

       「生きた英語を覚えたいなら、映画を観みなさい。アメリカの都会を舞台にしたコメディーがいい。早口だけれど、アクセントがわかりやすい」――ラジオ番組でそう教えてくれたのは、NHKの「英語会話」の講師、「カムカムおじさん」こと平川唯一ただいちさんでした。

       私は、チャンスがあるたびに、映画館に入り浸っていました。そう、いただいた招待券を大いに活用したんですね。

       朝8時に「学校に行ってきます」と家を出て、9時過ぎから1回目の上映が始まります。これは普通に鑑賞して、昼には持参したお弁当を食べて、午後からの2回目はなるべく字幕を見ないようにする。3回目はわからないところだけ字幕をチェックして、4回目でおさらい。こんな感じで同じ映画を1日4回観ると、だいたい内容が把握できて、ちょうど夕方の下校時刻になるんです。ドリス・デイの「二人でお茶を」やジーン・ケリーの「巴里パリのアメリカ人」……。年間200本くらい観たかしら。

       だんだん英語が聞き取れてくると、本場で英語を使ってみたいとの思いが強くなりました。いつかアメリカに行きたいという夢をぼんやりと持ち始めたのは、確かこの頃だったように思います。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170502-118-OYTPT50354

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    5. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<6>女優デビュー 自立は遠く
      2017年5月4日5時0分

       高校2年の時、新聞広告で見つけた独立プロの女優募集に応募して、新人4人の1人に選ばれました。

       《大資本の映画会社に属さず、監督や俳優らを中心に自主映画を制作する独立プロの動きは、1950年代前半に活発化した》

       洋画に夢中になる前は、母に連れられて自宅近くの映画館で3本立ての日本映画をよく見ていました。「また逢う日まで」(50年)の久我美子さんに憧れ、原節子さんの「女医の診察室」(同年)で医師にも憧れました。小学校の先生も大好きでしたし、亡き長兄の影響で詩人や画家にもなりたかった。姉は既に嫁ぎ、生活を支えていた母を早く楽にしてあげたいという気持ちはありましたが、女性の生き方のモデルもなく、夢を追ってただ右往左往していた時期です。

       そこに突如女優の卵の話が飛び込んできたわけで、堅い海軍一族ですから、親族会議が開かれました。大ヒットした「また逢う日まで」は誰もが知っていて、ガラス越しのキスシーンが評判でした。「主演の久我美子さんは華族の家柄ですって」「お嬢様が映画でキスシーンを演じる時代なんだよ」「あの映画の今井正監督と女優の山田五十鈴さんが関係しているプロダクションというから、いいんじゃないか」……。そんな具合で、親族から許可が出ました。

       それでも母は心配して、山田さんのお宅で開かれた会議などにもついて来て、「午後9時までに帰らせる」との誓約書を交わすようにお願いしました。53年、オーディションに合格、映画「冬の旅」で女優デビューするはずでしたが、製作中止に。新人4人は、青年俳優クラブ(のちの劇団青俳)の研究所に預けられて、演技の勉強をしつつ、デビューを待ちました。

       その年末に日本青年館で公演した「未亡人」が私の初舞台です。山本薩夫監督の「太陽のない街」(54年)、今井正監督の「ここに泉あり」(55年)にも端役で出演しました。独立プロの懐事情は厳しく、高校卒業後も職業として自立するにはほど遠い状況でした。

       独立プロの事務所は銀座にあって、週に2、3回顔を出していました。途中に「金馬車」という、昼はダンスホール、夜はキャバレーになる場所があって、女優の友人に誘われてのぞいてみました。ちょうどマンボ全盛時代。私がテーブルにポツンと座っていたら、「踊らない?」と声をかけてきたのがN君でした。

       見よう見まねで踊りながら、私、「末端神経を消耗させるようなアメリカの占領政策に操られてこんな昼間から踊り狂うなんて、日本はおかしいわ」などと、理屈をこねました。さらにジャズの話になると、N君は、「アメリカ大陸に労働力として連れてこられたアフリカの黒人が血と汗と涙で生み出した最高の芸術なんだ」と熱く語り出し、「よし、本物のジャズを聴かせてあげよう」って。その日のうちに連れて行かれた場所で、私は大きな衝撃を受けることになります。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170503-118-OYTPT50197

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    6. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<7>ジャズ喫茶が学びの場
      2017年5月6日5時0分

       「本物のジャズを聴かせてあげる」と、N君が私を連れて行ったのは、東京・有楽町駅前のバラックの1階でした。入り口に白いペンキで「Hi‐Fi‐SET」と書いてあって一体何かと思いましたが、のちに、LPレコードを高音質の音響機器で聴かせることを売りにしていたのだとわかりました。

       店の名は、「コンボ」。ガラスの引き戸を開けると、8畳あるかないかの狭い空間に、バリバリッと耳をつんざく激しい音が鳴り響いていました。当時日本で人気だったジャズバンド、ジョージ川口さんらのビッグ・フォアなどとは全然違う音楽で、衝撃的でした。

       《日本でジャズ喫茶は1950年代後半から急増する。評論家の相倉久人氏は自著で、「コンボの店内は明るく、ジャズ喫茶特有の暗澹あんたんとした雰囲気とはほど遠かった」と記し、常連客として、大橋巨泉、ハナ肇、渡辺貞夫らを挙げている》

       狭いカウンターの一角にレコードプレーヤーがあって、皆一言もしゃべらないで夢中になって聴いているんです。駐留していた黒人兵や外国人ミュージシャンも多かったですね。

       そして突然、オーナーのショーティさんが立ち上がって、「次のLPでブラインド・フォールド・テストをするよ」とか言うの。レコードや曲名を見ないで、楽器の音を頼りに演奏者を当てるゲームです。たとえば、ある有名ミュージシャングループの演奏が始まって、一人ひとりのソロになると、トランペットは「マイルス・デイビス!」とか、サックスは「ジョン・コルトレーン」「いや、ウェイン・ショーターだ!」とか叫ぶんです。全部当たった人は、コーヒー代がただになりました。

       私はトランペットとサックスの区別もつかないような頃ですから、プレーヤーまで当てるなんて夢のような話。ジャズに詳しいN君が耳元で解説してくれて、私もいつかこの斬新な演奏方法の音楽がわかるようになりたいと憧れました。

       自宅に気軽にプレーヤーが買える時代ではありません。とにかく「コンボ」に通って、聴き込むしか方法はなかったんです。時間が許す限り、レコードジャケットを見たり、プレーヤーの名前をノートに書き留めたりして、一生懸命聴いて勉強しました。外国人が店に置いていったアメリカの音楽雑誌「ダウンビート」に触れる機会があったのも、ありがたいことでした。

       20歳。女優の仕事は鳴かず飛ばずだったので、「コンボ」で過ごす時間は新しい刺激に満ちていて、充実感がありました。そして、遊び人だけれど、おしゃれで物知りのN君に、私は心ひかれていくのです。N君は医者の息子で、普通の大学に通いながら、医学部受験を目指していましたが、あまり勉強している様子は感じられませんでした。

       こうして2年ほどが過ぎたある日、「コンボ」は、店内に大量のレコードを残したまま、突然閉店してしまいます。再び居場所を失った私は、途方に暮れるばかりでした。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170505-118-OYTPT50197

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    7. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<8>秘書・歌手・・・物にならず
      2017年5月9日5時0分

       独立プロの映画の動きが芳しくなくて、1957年、21歳の時、芸能プロダクション「土曜会」に所属しました。初めてテレビのレギュラー番組が決まり、有島一郎さん主演の連続まげものドラマ「ありちゃんのおかっぱ侍」に出演しました。着物でぴょんぴょん跳びはねる元気な芸者の役。日本舞踊や三味線までお稽古して頑張ったけれども、それっきりでした。

       高校を卒業して3年。母の勧めで洋裁学校に通ってスーツまで縫い、そろそろ落ち着いていい頃なのに、結婚もせず、安定した仕事も得られず、女手一つで育ててくれた母を安心させることができずにいる。さすがに焦っていました。

       自宅を賄い付きの下宿にして生活を支えてきた母は、私の結婚を望む一方で、女性も手に職を持ってほしいとの思いも強く、私はその期待にも応えたかったのです。あれもしたい、これもしたいと思って、果敢に挑戦しているのだけれど、評価もされず、自分に才能があるのかどうかもわからない。女性が職業を持って自立するなんて、はたして可能なのかしらと、どうしていいかわからなくなって、夜になると、床の中でしくしく泣いていました。

       そんな中、新聞の三行広告で見つけたのが、独立プロの事務所に近い、銀座の貿易会社の社長秘書募集。安定した仕事を考えていた私は、飛びつきました。タイプライターに触ったこともないのに「はい、打てます。いえ、すぐに打てるようになります!」と答えて、採用に。実際、毎日勤め帰りに学校に通って、1週間でマスターしました。

       その社長は盛毓度せいいくどさんといって、のちに東京・芝公園で中華料理の「留園」を創業した方。私が初めてラジオ番組を持った時、スポンサーにもなって下さいました。

       《清朝末期の大実業家、盛宣懐せいせんかいの孫、盛毓度氏は、33年来日して京大に学んだ。戦時中帰国したが、戦後再来日し、日中関係の著作も残している》

       でも、秘書業も半年たたないうちに辞めてしまいます。テレビの仕事で知り合った方が英語漫談の台本を書き、米軍キャンプを回らないかとお誘いを受けたのです。アメリカの漫画を下敷きにした原始人がモデルのコメディーで、私はセクシーな毛皮の衣装をつけた女主人公。エディ水野と名乗るバイオリンが上手な大学生芸人と組んで、私が歌い、歌の間にコントをはさむ20分のショーでした。

       朝鮮戦争の影を引きずっている時代でした。三沢の米軍基地で公演した時、「マイ・オールド・ケンタッキーホーム」を歌うと、若い兵隊さんがボロボロ涙をこぼして泣くんです。故郷を離れて寂しい思いをしていたのでしょう。

       キャンプではそれなりに人気の出し物だったので、沖縄からも依頼がきました。羽田に向かうタクシーに乗っていた時のこと、突然ものすごいおなかの痛みに襲われました。病院に運び込まれ、すぐに手術。急性腹膜炎でした。

      (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170508-118-OYTPT50287

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    8. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<9>身を切って 形だけの結婚
      2017年5月10日5時0分

       過労から急性腹膜炎で倒れた私ですが、実は、その少し前、21歳の時、形だけですけれど結婚式を挙げています。相手は、一橋大学の学生時代から家に下宿していた銀行員のSさん。そう、私が「スイングジャーナル」編集部に依頼された初の外国人ビッグ・インタビューで英語を手伝ってくれた人です。

       10歳上のSさんのことは中学生の頃から知っていて、優秀で面倒見のいい優しい方で、尊敬していました。Sさんは、どこか危なっかしいところのある女の子を見守るような感じで、ずっと大切に思ってくださっていた。そして、何より母が私たちの結婚を望み、いいなずけに決めていました。母は父が亡くなった時、8歳の私を前に、「この子に白無垢むくの花嫁衣装を着せたら、私もおそばに参ります」と言って父の棺ひつぎの釘くぎを打ったそうです。私の幸せだけをひたすら念じて生きてきたのです。

       《「出生動向基本調査」で初婚同士の夫婦の出会い形式をみると、1950年代は5割強が見合い結婚。見合いと恋愛の比率が逆転するのは60年代後半以降》

       常識的に考えれば、Sさんとの安定した生活を選ぶべきなのでしょうが、私には、高校を卒業した頃から、ジャズ喫茶「コンボ」に連れて行ってくれたN君という意中の人がいて、結婚からは逃げていました。「N君と一緒になれなければ死ぬ!」と、半ば母への面当てで、あまり切れもしない簡易カミソリで手首を切ったこともありました。血がピューッと噴き出したのを見て、私はだらしなく失神してしまいましたけれど。

       そうした中、Sさんに海外勤務の話が持ち上がり、Sさんの周りから「信用問題があるので入籍だけでも」と声が上がり始め、私は追い詰められていきました。結婚式の1週間前、かつら合わせに行った帰り、N君と駆け落ちまがいのことをして大阪へ。家では大騒ぎになりました。でも、ぼんぼん育ちの大学生N君には覚悟などなく、私もすんなり元の生活に戻りました。

       自立の道を模索していた私は、女優業が中途半端なままで家庭に入ることにはどうしても妥協できませんでした。引き続き下宿の我が家で暮らすSさんと、結婚生活はしないという条件で入籍しました。

       それからまもなく、「コンボ」で一緒にジャズを聴いていた先輩方がジャズ評論を書き出すようになり、「このくらいなら私だって書けるわ」と、「スイングジャーナル」に投稿。それがきっかけで、徐々に音楽評論の仕事が舞い込んできたのです。やがてSさんは単身アメリカに旅立ち、7年続いたN君との仲も、私が忙しくなるにつれて自然消滅してしまいました。

       結婚騒動を通して、私は「生涯母にはかなわない」と思い知らされたものです。手首を切って病院に運び込まれ、目を開けた時ベッドの横にいた母は何事もなかったかのように、ひと言、「おいしいイチゴよ。食べる?」と言っただけ。明治の女性の肝の据わり方は、やはり本物でした。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170509-118-OYTPT50350

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    9. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<10>ポップス評論に軌道修正
      2017年5月11日5時0分

       1960年、24歳の時、「スイングジャーナル」に原稿を書き始めてまもなく、レコード会社からライナーノーツ(解説文)の依頼が来ました。日本でも人気が出てきた女性ジャズボーカリスト、サラ・ヴォーンのアルバム「ザ・ディバイン・ワン」。「解説者 湯川れい子」と初めて名前が記されました。亡くなった父と長兄の仏壇に供えて、「ありがとうございます。何とかやっていけそうです」と報告したのを覚えています。

       60年代初め、アメリカからジャズだけでなく様々なジャンルの歌手が来日し始めます。ラジオからは、エルビス・プレスリーやパット・ブーンらのヒット曲が流れていました。ジャズ評論の道を歩み始めた私は、ここで軌道修正の機会を得ることになります。

       「ジャズを書く人はたくさんいる。お前さんは女の子だし、ジャズもポップスも聴いているみたいだから、ポップスに力を入れたらいいんじゃない」。そうアドバイスして下さったのはジャズ喫茶「コンボ」でお知り合いになった音楽評論家の大先輩、福田一郎さんでした。

       当時ポップスは「軽音楽」と呼ばれて、ジャズ評論家の間で軽視されていました。福田先生はポップス評を書く時、自分とわからないように、「せっちゃん」など女性のペンネームを使われていたほどです。

       実はその前に、ちょっとした事件がありました。61年、アメリカのコーラスグループ「フォア・ラッズ」が来日し、コンサートの曲目解説を頼まれました。進駐軍の時代から横浜や横須賀の古本屋で少しずつ買い集めたアメリカの音楽雑誌を頼りに、苦労して書き上げた原稿でした。それなのに、当日のプログラムに私の名前がありません。会場の受付で大泣きをしていると、現場にいらした福田先生は、「ひどいな。かわいそうじゃないか!」と本気で怒って下さったのです。

       しばらくして、「僕が『ミュージック・ライフ』という音楽雑誌に持っている4ページをあげよう」と福田先生から連絡がありました。私はもううれしくて、「やります!」と即答しました。アメリカの雑誌で注目していた芸能ゴシップコラムをヒントに、「スターの花かご」という連載をスタート、1年のうちに人気コラムになりました。

       ポップス評論に踏み出した私には、活字以外からも声がかかります。「コラムの話題をラジオでもしゃべってみませんか?」と、ニッポン放送から、ディスクジョッキー(DJ)のお誘いでした。

       《52年、開局直後のラジオ東京(現TBSラジオ)で志摩夕起夫らが「イングリッシュ・アワー」を、ニッポン放送では59年、糸居五郎が「オールナイトジョッキー」を担当。音楽とDJのおしゃべりで進行する番組の原型をつくった》

       63年、東京・西銀座のサテライトスタジオで公開生放送を始めた時には、女性DJが珍しく、押し合いへし合いのすごい人だかりになりました。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170510-118-OYTPT50380

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    10. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<11>初のアメリカ武者修行
      2017年5月13日5時0分

       1964年10月10日、東京五輪開会式の日、28歳の私は待ちに待った初の海外に旅立ちました。

       《64年、海外渡航の自由化で観光旅行解禁。外貨持ち出しは1人500米ドルに制限。大卒初任給2万円の時、ハワイ7泊9日の旅行が約36万円》

       女一人旅ですからビザを取るのも大変で、米国大使館で3回面接を受けました。ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨークなど約1か月の滞在を計画、旅行会社で24か月の月賦を組みました。その頃、テレビ番組の「10人抜きのど自慢」で審査員を務めていたのですが、審査委員長で作曲家の吉田正先生が、餞別せんべつにと20万円をポンと贈ってくださったのには感激しました。

       雑誌に原稿を送る段取りはしていましたが、取材旅行なんていう格好いいものではなく、まさに「武者修行」です。頼みの綱は、日本初のプロモーター(興行主)で、のちにビートルズを日本に呼んだことでも知られる永島達司さんからいただいた3通の英文紹介状。ハワイ在住の日系人プロモーター、ラルフ円福さん、ハリウッドの映画プロデューサー、ロバート・シャピロさん、音楽雑誌「ビルボード」のリー・ジトー編集長の3人宛てのものでした。

       最初に降り立ったのはハワイ。ホテルの部屋の窓を開けると、真っ青な海にミズスマシのように浮かんでいる人影が見えました。ビーチ・ボーイズが歌っているサーフィンって、これなんだ!と納得し、憧れのアメリカの景色にしばし酔いしれました。ルームサービスでパイナップルジュースを頼むと、ボーイが口笛を吹きながら持ってきた。チップを渡して、「英語も通じた。これでいけるわ!」と、勇気が湧きました。

       ラルフ円福さんに連絡すると、「明朝6時半にロビーで」との返事。当日は2時間待たされて、彼はにこりともせず、「この忙しい時に何しに来たの」ときつい一言。車の助手席に座らされた私は恐る恐る、「ナット・キング・コールがハワイに来ていると聞いたのでインタビューしたい」と言うと、急ブレーキをかけて車を止めて、私の顔をまじまじと見たのです。

       私が音楽評論の仕事をしていると説明すると、円福さんは、「アイム・ソーリー。また赤坂のホステスが遊びに来たと思った」と平謝りでした。この頃米ドルを持ってハワイに来る日本女性といったら、高級クラブのホステスさんだけだったのだとか。

       その後は順調で、ロサンゼルスでパット・ブーンに、ニューヨークではサラ・ヴォーンに取材。コニー・フランシスやトニー・ベネットのショーを見ました。「ビルボード」誌のジトー編集長の紹介で、テレビのクイズ番組にゲスト出演することになり、500ドルの賞金を稼いだのも忘れられない思い出です。日系2世の退役軍人だった円福さんは律儀な方で、出会いの時の失礼な対応を恥じられ、生涯を通じて私の大切な友人になりました。 (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170512-118-OYTPT50357

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    11. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<12>ビートルズ旋風 日本上陸
      2017年5月15日5時0分

       音楽雑誌「ミュージック・ライフ」で1961年から毎月連載していたコラム「スターの花かご」を書くために、私は、横浜や横須賀の古本屋を回って、アメリカの「ソング・ヒッツ」「ヒット・パレーダー」「エボニー」などの雑誌を買い集めて、旬の話題を拾っていました。銀座の洋書店「イエナ」に行けば、値段は高いけれど、「ビルボード」や「バラエティ」、イギリスの「メロディ・メーカー」などの最新号を手に取ることができました。

       《50年創業の「イエナ」は、当初進駐軍相手に双眼鏡などを販売、彼らの求めに応じて輸入レコードや雑誌を置くようになり、欧米文化の情報発信基地に。2002年閉店》

       63年の終わり頃、イギリスに、ビートルズというとんでもなくすごい人気のグループが出現して、アメリカでも大騒ぎになっているというニュースをキャッチしました。そして日本でも翌64年2月、「抱きしめたい」がデビューシングルとして発売されます。

       「ビートルズって、何?」「写真が見たい」……。「ミュージック・ライフ」の読者の間で、そんな声が上がってきました。当時、日本の新聞に、ビートルズという名前がようやく登場した頃。ほとんど情報がありませんでした。

       《読売新聞のビートルズ第一報は64年2月27日のニューヨーク特派員電。カーネギー・ホールでのアメリカデビューを取り上げ、「ティーンエージャーの悲鳴と興奮で、音楽の殿堂はかつてみないほどの混乱をみせ警官隊まで出動」と報じている》

       「何でもいいからビートルズについて書いてほしい」と、「ミュージック・ライフ」編集部から依頼があり、私は、入手できるありったけの情報と知識を総動員して、4ページの原稿をまとめました。それが、同誌4月号の特集「ビートルズ ピンからキリまで」。日本で多分最初のビートルズに関するまとまった記事だったと思います。

       内容は、グループの来歴に始まり、ヒット曲の解説、メンバーの性格分析、ファンの声、マネジャーのブライアン・エプスタインの戦略など、収集してきた雑誌はもちろん、米「サタデー・イブニング・ポスト」の最新特集も参考にしました。

       表紙は、レコード発売元の東芝音楽工業から1枚送られてきたモノクロ写真を編集部で切り抜き、人工着色して作ったそうです。書店では、表紙だけ破り取られる事件が相次ぎました。

       4月、ヒット曲ランキングの発表で世界的に権威のあるアメリカの「ビルボード」で、1位から5位までをビートルズが独占するという現象が起きました。

       《1位「キャント・バイ・ミー・ラヴ」、2位「ツイスト・アンド・シャウト」、3位「シー・ラヴズ・ユー」、4位「抱きしめたい」、5位「プリーズ・プリーズ・ミー」の順》

       ビートルズの来日は、約2年後の66年6月。その間に日本でも30曲のシングルが発売され、すべてヒット。ビートルズ旋風が巻き起こります。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170514-118-OYTPT50158

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    12. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<13>帰国前夜 単独取材に成功
      2017年5月16日5時0分

       1966年6月30日、ビートルズの3日間の日本公演がスタートします。世界で最も人気のあるバンドを目の前で見ることができる、まさに、日本ロック界における幕開けでした。

       映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」が日本でも封切られ、女の子たちは立ち上がって「キャー!!」と熱狂して聴くスタイルを学びました。ビートルズは女性が先に騒いだ典型的なグループ。来日の頃までは、優れた音楽家として評価する雰囲気はまったくなく、アイドルだったんですね。

       《1万人収容できる日本武道館が会場に選ばれたが、「風紀を乱す」など反対意見も根強く、来日1か月前までもめた。警備には6000人が動員された》

       私は、主催の読売新聞社の依頼を受け、「週刊読売臨時増刊号 東京のビートルズ」の編集キャップでした。特集号だから、単独会見は必須でしょう。ところが、公式記者会見が1回のみで、それ以外は一切受けないといわれ、頭を抱えました。実は、親しい関係を築いていた「ミュージック・ライフ」だけは特別扱いで、星加ルミ子編集長は来日直後、早々にホテルの部屋に会いに行ってしまうんです。主催者のメンツは丸つぶれ。そのまま引き下がるわけにはいきません。

       「お願い、何とかして」と、興行主の永島達司さんに何度もせっついていたところ、帰国前夜の7時過ぎ、「警備の腕章を持って、ビートルズの部屋に届けて」と連絡がきました。会場警備員が腕に巻いている日本語で書かれた腕章を、メンバーが欲しがっているらしいのです。「あとのことは君次第」と言われました。

       読売のカメラマンの方から借りた大きなカメラを茶封筒に入れ、その上に腕章を4枚重ねて、エレベーターで10階のスイートルームへ。ついたての向こうで4人が食事する音が聞こえたので、ソファで待ちました。少しして、飛び出してきたのがポールでした。目を丸くして、「君は誰? どこから来たの?」と聞かれたので、「さあ、どこからかしら。窓から入って来たのかも。ご所望の腕章を持ってきました」と答えました。

       ポール以外のメンバーも集まり、腕章を見ながら「何て書いてあるの?」と、漢字に興味津々。「お茶を飲む?」と聞いてくれたのはポールで、私が「紅茶がいい」と答えると、ジョージに指示して用意させたり。ちゃめっ気たっぷりに応対してくれた中、ジョンだけは腕組みをしてぷいっと横を向いてしまったのが印象的でした。その時のジョンの心境は、のちに聞くことができるのですが……。

       私は、「あなたたちが日本で窮屈な思いをしていることを申し訳なく感じている」と、ファンの気持ちを伝え、写真を4枚撮影。「単独訪問に成功」というタイトルで誌面を飾ることができました。 (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170515-118-OYTPT50348

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    13. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<14>「引退」エルビス復活で撤回
      2017年5月17日5時0分

       1960年代後半、ラジオのレギュラー番組を10本ほど持つようになり、海外取材に飛び回っていました。アメリカでは「花のサンフランシスコ」が大ヒットして、自然回帰と人間性回復を唱えるヒッピー文化が盛り上がっていました。

       《69年8月、米ニューヨーク州で開かれたロック中心の野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル」は、愛と平和を求めるヒッピー時代の象徴だった》

       ベトナム戦争を巡る反戦運動は日本にも飛び火し、音楽の世界にも変化が表れました。「反体制ロックでなければ音楽にあらず」といった風潮が広がり、音楽評論も理論武装に終始して窮屈な内容になっていきました。ロック集会に呼ばれて、「エルビス・プレスリーという存在があったから、ロックンロールはここまで爆発できた」と発言すると、「エルビスがロックだなんて冗談じゃない!」と、糾弾されました。

       日本のロックはビートルズから始まっていたので、ビートルズがいかにエルビスの影響を受けたかなど、それ以前の歴史を全然知らないんですね。私が心から聴きたい楽曲について語れないのであれば、音楽を伝える喜びも感じられなくなりました。

       21歳の時に形だけの結婚をした相手との離婚が成立し、30歳を過ぎた頃です。結婚願望はなかったけれど、なぜか子供だけは欲しかった。明け方まで原稿を書き、疲れ果ててベッドにもぐり込む生活で一生が終わると思うと、虚しくむななりました。それで69年、ラジオも雑誌連載もすべてやめる決意をします。「さようなら湯川れい子さん」という、聴取者約500人が参加したラジオの公開録音番組で、引退宣言をするんです。

       時間ができたので、思い切って、フィリピンで戦死した長兄の遺骨を捜しに出かけました。いつか詣でようと温めていた旅です。手がかりは、戦時中の情報統制で墨塗りにされた兄からの一枚のハガキ。ルソン島北部のサブランで、当時の日本兵を知る現地の人から話を聞くことができました。遺骨は見つかりませんでしたが、恐らく兄が身を潜めていたであろう洞窟を捜し出し、お線香やタバコを供えました。

       帰国してしばらく、自宅で一人鬱々うつうつとして暮らしていましたが、ある時、状況が一変します。大好きなエルビス・プレスリーが、長期の映画契約の拘束を解かれ、アメリカでコンサート活動を再開したとのニュースが伝わってきたのです。70年、ラスベガスに専用ライブスペースができて、そこでの記録映像は映画「エルビス・オン・ステージ」にまとめられ、71年に日本でも大ヒットしました。

       「湯川さん、エルビスを語れるのは、あなたしかいない」と、各方面から声がかかり、いつの間にかズルズルと引き戻されてしまって……。ビートルズが大暴れした後、30代半ばのエルビスがステージに戻って来るとは思いもかけませんでした。あの時エルビスが復活していなかったら、今の私はなかったと思います。 (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170516-118-OYTPT50332

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    14. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<15>夢の対面 石鹸の匂い
      2017年5月18日5時0分

       ラジオのFEN(極東向け駐留米軍放送網)で初めてエルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて夢中になったのは、1956年、20歳の時。それから15年後の71年、エルビスに会いたいという夢が、ラスベガスでようやくかないました。

       アルバム「エルビス・オン・ステージ」は日本でも爆発的にヒットしました。日本のRCAビクターが、100万ドル売り上げ記念のゴールド・ディスクを贈呈する機会をつくり、音楽評論家の福田一郎さんを団長に、業界関係者約20人のラスベガス・コンサート鑑賞ツアー団が結成されたのです。

       それまで取材でアメリカを訪れるたびに、ハリウッドで映画撮影中のエルビスにインタビューを申し込んできました。父親のバーノン・プレスリーさんから電話で「もう少し待って」という連絡をもらい、無理してビバリー・ウィルシャー・ホテルに宿泊して1週間待機したことも。でも、マネジャーのトム・パーカーさんからOKが出ず、空振りに終わっていたのです。

       ラスベガスのインターナショナル・ホテルでのショーの前、楽屋訪問が4人に許され、私はその1人に選ばれました。楽屋に現れたエルビスは想像していたほどの背の高さを感じさせず、石鹸せっけんの匂いがして、透明感と、牧師さんのような禁欲的な清潔感のある人という印象でした。

       私の質問に、「ステージは楽しい。動いているのが好きなんだ」、「日本にはぜひ行きたい。武術に尊敬の念を持っている。講道館に関心がある」など、優しく笑みを浮かべながら、低い声で答えてくれました。写真撮影では、緊張していたせいかシャッターがなかなか下りなくて、「日本製のカメラもダメだねえ」とジョークを飛ばして和ませてくれました。

       《プレスリーは、終生アメリカ、カナダ以外でコンサートを行っていない》

       ゴールド・ディスクを贈呈すると、エルビスからは、ヒット曲にちなんで製作されたテディベアをプレゼントされ、軽くお別れのキスをしてくれました。

       そして、ステージ。ふわりと不死鳥のように登場すると、1時間半、歌い続け、動き続け、冗談を言って盛り上げて、ファンにキスのサービスをして回る……。久しぶりのステージ復活で、本当に生き生きとエネルギッシュで、どこから見ても美しく、まさに千両役者でした。

       「ああ、本物のエルビスが歌っている!」と思ったとたん、大粒の涙がこぼれ、お化粧がはげ落ちてぐしゃぐしゃになるほど泣いてしまいました。ハンカチでは間に合わず、紙ナプキンで涙をふいたり鼻をかんだりしていたら、同行のシンガー・ソングライターの山本コウタローさんが、「れい子さん、これも使って」と、隣のテーブルから大きなクロスをはずして来て、からかうんです。もう、頭にきちゃいました。思い続けて15年の私の感動を邪魔しないで!という気分でした。今でもあの時を思い返すと、胸が熱くなります。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170517-118-OYTPT50399

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    15. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<16>胎教はロック DJ続行
      2017年5月20日5時0分

       1972年秋、ハワイの日系人プロモーター、ラルフ円福さんから突然電話があって、11月にエルビス・プレスリーがホノルルでコンサートを開くので、必要なら200枚チケットを用意するとのお話でした。夢のようにうれしいことで、すぐに鑑賞ツアーを企画し、ゲスト出演したテレビ番組「11PM」で参加者を募ったところ、テレビ局の電話回線がパンクするほどの反響がありました。

       翌73年1月、エルビスは、がんで亡くなったハワイのシンガー・ソングライター、クイ・リーの遺族が創設した基金を応援、前年と同じホノルルで、チャリティーコンサート「アロハ・フロム・ハワイ」を開催します。

       《史上初のコンサートの衛星生中継が行われ、30か国以上約15億人が視聴、ゴールデンタイムの日本では視聴率38%とも》

       コンサートの1週間後にはライブ盤の発売が予定されていて、私はライナーノーツ(解説文)を頼まれていました。テープレコーダーを傍らに置き、自宅のテレビにかじりついていました。感動の1時間はあっという間で、「嫌だ、嫌だ。もう、終わっちゃう!!」と、ボロボロ泣きながら、メモを取っていました。

       原稿を書き上げた翌日、前年のハワイツアーに同行した男性から、「エルビス、素晴らしかったですね。もう1回見たいですか?」と電話がかかってきました。その意味が理解できずにいると、実は新しくビデオレコーダーというものが発売されて、前の晩の放送を繰り返し見ることができると説明されたのです。エルビス・ファンの友人を誘って出かけると、テレビ画面に、二度と見られないと思っていたエルビスが鮮やかによみがえっていました。値段は高かったのですが、2年の月賦を組んで購入しました。

       そして、ビデオの存在を教えてくれたこの男性と半年ほどお付き合いをして、私は結婚を決意します。エルビスがつなぐ縁で、73年8月にラスベガスで挙式、結婚証明書にエルビスから証人としてサインをもらうことができました。今も書斎に飾ってあります。

       子供が生まれたのは、結婚から3年後の40歳の時。子供がものすごく欲しかったので、卵管を広げる苦しい治療にも耐えて……。ある日、愛船「ロックンロール号」で沼津沖に出て趣味の釣りをしていて気分が悪くなり、妊娠3か月とわかった時は、本当にうれしかったです。

       当時、ラジオ番組「全米トップ40」で毎週DJを務めていましたが、産前産後も休むことなく続けました。胎教で随分ロックを聴かせたことになりましたけれど。子供の生活が第一ではあっても、私自身の人生も犠牲にしたくない。だから、優先順位をきちんと決めて子育てと仕事を両立していこうと、明確な意識を持てたのは、多分高齢出産だったからだと思います。(編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170519-118-OYTPT50333

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    16. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<17>「全米トップ40」旬を直送
      2017年5月22日5時0分

       1971年夏、初来日したピンク・フロイドのコンンサートに出かけた時、知り合いのラジオ関東(現ラジオ日本)のディレクターから相談を受けました。アメリカのラジオ局が制作する「アメリカン・トップ40」という番組を日本に持ってきたいのだけれど、日本側DJとして交渉の段階から手伝ってもらえないかというのです。面白そうなので、お引き受けしました。

       《70年に始まった「アメリカン・トップ40」は、米国のその週のヒット曲を40位から1位まで紹介するカウントダウン番組。米国の音楽業界誌「ビルボード」を世界的に有名にした》

       半年ほどやりとりして、契約が成立。日本での番組名を「全米トップ40」として、72年10月14日、スタートしました。土曜日午後10時からたっぷり3時間の放送でした。

       毎週木曜にロサンゼルスのスタジオで収録される「アメリカン・トップ40」は、アセテート盤に録音され、米軍輸送機でFEN(極東向け駐留米軍放送網)の基地局へ。日本時間の金曜の夜中、埼玉の朝霞キャンプ(当時)に到着します。コンテナボックスには、3枚組みの大きな黒いアセテート盤が入っていて、一つはFEN用、もう一セットがラジオ関東用に用意されていました。

       FENでは土曜の朝、オリジナルのまま放送するのですが、日本の「全米トップ40」は、当日朝から内容を細かく分解し、私の解説と日本語アナウンスを入れて、番組を構成し直します。放送時間ぎりぎりまで楽曲やアーティストについて調べていたので、基本的には生放送でした。記念すべき1回目の放送の1位は、マイケル・ジャクソンが歌った映画「ベン」の主題歌。14歳のマイケルが初めてソロで獲得したシングルチャート1位で、ピュアな歌声は忘れられません。

       日本で発売されていない曲、初めて聴く楽曲もたくさんありました。75年11月、突然チャートに登場した「コンボイ」というカントリー調の男臭い曲がものすごい勢いで上昇して、ついに1位に躍り出ました。情報がなく、アメリカの友人に電話で尋ねると、大型トラック運転手の隠語を含む無線でのやりとりが題材で、深夜便の「トラック野郎」の間で爆発的な人気だと教えられました。もちろん当日の放送で、「アメリカの友人から今朝聞いたばかりのホットな情報では……」と、紹介するわけです。

       《「全米トップ40」は人気番組になり、途中で名前は変わるが、89年4月まで約16年半続いた》

       DJの私自身、毎週ワクワクしながらやっていました。今この瞬間に、アメリカでヒットしている音楽を、空間を超えて共有できる楽しさに、聴き手も夢中になってくれたのでしょう。中心は、ビートルズなどで洋楽が好きになって、自分でも楽器をいじり始めた世代。「アメリカをいち早く運んで来てくれた」「海外に飛び出す夢に火を付けてくれた」など、今でも番組の思い出を語ってくれるのは、うれしいことです。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170521-118-OYTPT50176

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    17. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<18>ジョンとヨーコ 深い絆
      2017年5月23日5時0分

       オノ・ヨーコさんと親しく交流するようになったのは1974年8月のプラスティック・オノ・バンドの東京公演がきっかけでした。ジョン・レノンと出会う前に映像作家との間に生まれた娘をテーマにした歌があり、ヨーコさんは長い髪を振り乱し、金切り声で叫ぶように歌っていました。深く傷つきながらも必死に闘う女性の姿を見た思いで、雑誌にコンサート評を書き、それを見たヨーコさんから連絡をもらいました。

       《プラスティック・オノ・バンドは、ビートルズ解散直前の69年、ジョンと妻のヨーコを中心に結成。ジョン亡き後は2009年、息子のショーンらが加わって活動を再開》

       最初に東京でお会いしたのは、ヨーコさんとジョンが別居していた時期。しばらくして75年2月14日のバレンタインデーに、ヨーコさんから、「ジョンが帰って来た!!」という喜びの電報を受け取りました。ジョンは、用意されていた花柄のパジャマを着て、子供のようにはしゃいだといいます。その年の10月、ショーンちゃんがジョンと同じ誕生日に生まれ、半年後に私も息子を出産。「ジョンは離乳食に玄米をすり潰して入れている」など、子育ての情報を教えてもらったり、個人的な悩みを相談したりするようになりました。

       77年夏、ご家族3人で東京に滞在中、私は初めてジョンと話をしました。初来日したビートルズを突撃訪問した66年、ジョンだけが口をきいてくれなかったのですが、「あの時はごめんね。権力を使って近づいて来る人ばかりで、うんざりだったんだ」と、打ち明けてくれました。

       エルビス・プレスリーの話もしました。77年8月、エルビスが亡くなり、私は米メンフィスの葬儀に駆けつけました。お土産に当日の現地紙を渡すと、ジョンは、「唯一プロデュースしたかったのはエルビスだった」と。「素晴らしい才能を持った人間とすごい力のあるマネジャーが出会って、食うか食われるかのぶつかり合いを経て、初めてスーパー・スターが生まれる。ヨーコがいてくれたから、僕はこうして生き残っている」と、含蓄のある言葉が印象的でした。

       《80年、ショーンが5歳になったのを契機に、子育てに専念していたジョンは音楽活動を再開する》

       12月、ヨーコさんから、新しいアルバムのPRをしたいと申し出があり、ニューヨークのスタジオと回線をつないでラジオ収録。ジョンから、「また日本に行くね。メリー・クリスマス」とメッセージをもらいました。彼が凶弾に倒れたのは、その4日後でした。

       ジョンの死後、私が21世紀のカギを握る楽曲と考える「イマジン」についてヨーコさんに聞く機会がありました。2人は時にせめぎ合い、また深く愛し合って、西洋と東洋、男と女、生まれた環境の違いを乗り越え、固く結ばれて……「イマジン」はまさにその創造活動の象徴的な産物だったのです。「あの歌、2人でどうやって作ったの?」と水を向けると、「それは企業秘密」と笑われました。 (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170522-118-OYTPT50397

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    18. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<19>作詞家でギラギラ脚光
      2017年5月24日5時0分

       初めて作詞を手掛けたのは1965年、29歳の時。私がDJを務めていたラジオ番組のアシスタントに、英国系の深津エミさんという歌の上手な女性がいて、レコーディングの話が持ち上がりました。

       ある日、沖縄出身の作曲家の家に呼び出されて、ピアノのメロディーにその場で英語の詞を書いてほしいと頼まれました。知っている範囲のごくシンプルな英語で書きました。その時は理解していなかったのですが、日本コロムビアの洋楽部門「CBS」レーベルから、エミー・ジャクソンという名でデビューする段取りができていたんです。私のペンネームも英語にと言われて、漢字の「湯川」をHot Riverに置き換え、れい子のRを頭に付けて、R.H.Riversにしました。すると、いきなり70万枚のヒットに。

       これを青山ミチが日本語で歌うことになり、偉い作詞家の先生に印税が発生しない訳詞は頼めないからと、巡り巡って、私に話が来ました。中学生の頃から詩を書くのが好きだったので気軽に引き受けたら、日本語版もヒットしました。

       《「涙の太陽」はその後も安西マリア、田中美奈子らがカバー、和製ポップスのスタンダードに》

       それから若手アイドルの詞を頼まれましたが、大ヒットは出ませんでした。

       本格的に作詞の仕事を始めたのは80年、40代半ばからです。新製品の大型ラジカセの30秒CM用に書いた「ランナウェイ」が始まりでした。金髪の少年が、アメリカの縦断鉄道アムトラックの駅で、ラジカセを肩に担いで列車を待っている映像と、井上大輔(当時は忠夫)さんが作ったメロディーが届けられました。「ランナウェイ」は商品名で、歌の頭と最後に入れるため、その間の言葉を考えるのが私の仕事。歌い手は、ドゥーワップで人気上昇中だった顔を黒塗りにした男性コーラスグループ。それが、シャネルズ(後のラッツ&スター)でした。

       「ランナウェイ」といえば、61年にアメリカのシンガー・ソングライター、デル・シャノンがヒットさせた「悲しき街角」の原題。駆け落ちのイメージが湧いたのですが、CM画像の少年には生々しい場面は似合わない。それで、ラジカセで「遠い世界へ連れて行ってあげる」という夢のある表現に落ち着かせました。

       CMの放送が決まると、30秒からいきなり3分ほどに延びた曲になって再び届けられ、シャネルズのデビュー曲にするので歌詞を付けてと頼まれました。それで、あの歌「ランナウェイ」が誕生、幸運にも100万枚を売り上げる大ヒットになり、作詞の仕事が次々に来るようになりました。

       リーダーの鈴木雅之さんには、ソロになってからも詞を書かせてもらっています。いつかオーティス・レディングの「ドック・オブ・ベイ」をロマンチックにしたような歌が書けたらいいなと思っています。 (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170523-118-OYTPT50365

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    19. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<20>伊代ちゃんは「16だもの」
      2017年5月25日5時0分

       稲垣潤一、中森明菜、加山雄三、小泉今日子、小林明子、西田敏行、堺正章、TUBE……1980年代、いろんな方の作詞の依頼が来るようになりました。

       たとえば、松本伊代のデビュー曲、「センチメンタル・ジャーニー」。作曲家の筒美京平さんが声に惚ほれ込んでデビューさせることになり、ピンク・レディーを育てたプロデューサーの飯田久彦さんから、声のテープと写真が持ち込まれ、歌の世界観をスケッチするように求められました。

       アンゴラのふわふわしたセーターを着たかわいらしい伊代ちゃんの写真を前に置き、自分がその16歳の少女になった気持ちでペンを走らせました。「読み捨てられる」とか「放り出される」とか、ちょっと危うさを匂わせる言葉をちりばめたのは、鼻にかかった色っぽい声だったので、清潔なかわいらしさだけの詞ではダメと思ったからです。

       スケッチの段階で、「まだ16だもの、この娘こ」と思いながら書いて渡したところ、本当に珍しいことなのですが、筒美さんは一言一句直すことなくメロディーを付けて下さったのです。まさかスケッチの詞がそのまま歌のサビになるとは、予想もしませんでした。

       《作曲より先に作詞を行う手法を「詞先」というが、和製ポップスは「曲先」が一般的だった》

       アン・ルイスの「六本木心中」も、思い出深い1曲です。2人組のNOBODYさんのロック調の曲ができていて、アルバムに入れる曲だから自由に書いてほしいという依頼でした。「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」の大ヒットで、シンディ・ローパーがグラミー賞の最優秀新人賞候補になりそうという時で、ニューヨークでインタビューすることになり、私は飛行機で深夜、アラスカの上空にいました。アンちゃんの歌は、急いで詞を付けなければならない状況だったので、小型テープレコーダーで繰り返し曲を聴いて考えていたのです。

       当時シンディは30歳を超え、アンちゃんも20代後半。2人とも決して若くはない年齢で派手な衣装に身を包み、男性から見るとちょっと近寄りがたい遊び人風な雰囲気があった。でも、同性の私から見ると、いじらしいほど一生懸命に頑張って生きている女性に思えました。できる限り男性に尽くしてそれで裏切られた時は、「もうわかったわ!」と次のステップを考える女性――演歌によくある「私が悪うございました」と、よよと泣き伏す女性像とは異なるものを書きたかったというのが本音です。

       詞の中に、六本木という地名は出てきませんが、当時の流行の先端地、六本木から東京タワーのある飯倉に向かうあたりをイメージしていました。

       テレビドラマの主題歌で大ヒットした小林明子の「恋におちて」は、注文がころころ変わって、都合8回書き直しました。でも、「六本木心中」はまったく制約がなく、私らしくのびのびと書けた歌でした。(編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170524-118-OYTPT50443

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    20. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<21>マイケルとエルビス論争
      2017年5月27日5時0分

       DJをしていたラジオ番組「全米トップ40」で、映画「ベン」の主題歌を歌う14歳のマイケル・ジャクソンのピュアな歌声に惚ほれ込んだのが、1972年。翌73年、東京音楽祭に特別ゲストとして「ジャクソン・ファイブ」が初来日、マイケルにインタビューする機会がありました。

       茶色のコーデュロイの三つぞろいを着て、かわいらしいハンチング帽をかぶって、マネジャーの父親と一緒にホテルの部屋に現れたマイケルは、とても礼儀正しく、くりくりした目を輝かせながら、質問にはきはきと答えてくれました。

       好きなアーティストを尋ねると、ジェームス・ブラウンやジャッキー・ウィルソン、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズなどを次々に挙げてくれました。歌が好きで好きで、彼らの音楽を聴いて熱心に勉強している様子が伝わってきました。ただ、1問答えるたびに、壁際で腕組みをしている父親の反応をうかがっているのが気になりました。

       次にインタビューしたのは、82年3月、マイケルが23歳の時でした。グループ名が「ジャクソンズ」に変わり、81年にスタジオ・アルバム「トライアンフ」で全米を回るツアーを成功させた後でした。

       マネジャーとして仕切ってきた父親と決別し、ビジネスパートナーを自ら選び、音楽活動のやり方を根本的に変えつつあった時です。全身からやる気がみなぎっていて、言葉には力強さが感じられました。

       忘れられない会話があります。アルバム「トライアンフ」の中にある「ハートブレイク・ホテル」について、「エルビス・プレスリーのファンにとって、彼の代表曲のタイトルは神聖な存在なのに、なぜ同じ題名の曲を作ったの?」と、うっかり聞いてしまったのです。マイケルはキッとした目で私をにらみ、「神聖でも何でもない。エルビスは、僕たち黒人の音楽を盗んで有名になったんだ」と言い切ったのです。

       私は食い下がりました。エルビスが社会からバッシングを受けながらも、黒人の音楽を自分の中に取り入れてロックンロールとして爆発させた土台があったからこそ、白人社会でも黒人音楽への理解が進んだのではないか、と。それに対してマイケルは、私の目をじっと見据えながら、こう問いかけてきました。「僕たちは何も変わっていません。黒人のスーパーマンはいますか? 黒い肌のピーター・パンはいますか?」

       《82年12月発表の「スリラー」は、全世界で売り上げ1億5000万枚を超え、ギネスブックは「史上最高のセールスを記録したアルバム」に認定している》

       差別に対する強い怒りが、その後もずっと彼を奮い立たせ、数々のヒットを生んできたのではないかと思います。でも、仕事で成功すればするほど、次々に広がるスキャンダルに苦しめられ、これ以降は、ジャーナリストのインタビューに答えることは一切と言っていいほどなくなりました。(編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170526-118-OYTPT50347

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    21. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<22>環境問題 声を大にして
      2017年5月29日5時0分

       環境の問題に強く関心をもつようになったのは、1978年、息子が2歳半の頃からでした。息子は小児ぜんそく気味だったので、医者の勧めで水泳教室に通わせていました。

       着替えの場所に加熱調理された食品を売る自動販売機があって、子供の間でミニバーガーが人気でした。包みには、いつ調理されたのかなど、表示が何もされていない時代で、「どんな添加物が入っているのかしら」と、母親たちの会話で疑問が出始めました。それと、今では当たり前のゴーグルを付ける習慣が徹底されていなくて、「プールで30分泳ぐと、子供の目が真っ赤に充血しているのが気になる」と、心配の声が上がってきました。母親グループでプールの運営側に質問をぶつけてみてもらちが明かず、牛乳瓶にプールの水を入れて、知り合いの大学の研究室に持ち込んだこともありました。

       それで、80年代は子供の健康問題を中心に動きました。「10円玉キャンペーン」というのを始めて、消費者の立場からメーカーに電話をかけて食品の添加物などを問い合わせる活動に力を入れました。消費者向け窓口を設置している企業は少なく、なかなか相手にしてもらえず苦労しました。

       《消費者相談窓口を設置する企業が増えるのは、80年代半ばから》

       子供の健康問題は、環境汚染やゴミ問題など、地球規模での環境問題と深くかかわっています。多くの人に関心を持ってもらうには、日本に1000人、アメリカに1000人、フランスに1000人という具合に、まずはグローバルに女性がつながって情報交換をしながら行動を起こすのが理想的――そう考えて、90年、女性団体「WOMEN1000」を結成しました。登山家の今井通子さんや歌手のイルカさん、フランソワーズ・モレシャンさん、アメリカからは、オノ・ヨーコさんや女優のシャーリー・マクレーンさんらが賛同してくれました。

       団体では、チャリティーパーティーで集めた資金で、地球温暖化への警鐘を鳴らすビデオ「未来への約束」を制作し、全国の小中学校約3500校に無料配布しました。とても評判がよくて、英語のほかにフランス語、スペイン語の字幕を入れて海外でも重宝されました。「WOMEN1000」は、リオの地球サミット(92年)の前に「地球環境・女性連絡会」と合流、私は、中央環境審議会の委員にもなり、発言の場が広がっていきました。

       89年から約10年間、毎夏続けた「消しゴムコンサート」は、世の中からいじめや戦争、核兵器などを自らの意志で消していこうとの願いを込めて開催しました。消費者運動も環境保護運動も反戦運動も、決して政治的な活動としてやっている意識はありません。生きていくうえで、どうしても言わずにはいられないことを言っているだけ。音楽を語るのと同じなんです。サヨクとかウヨクとかレッテルを貼る人がいるけれど、私は、皆「ナカヨク」だと思っています。 (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170528-118-OYTPT50172

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    22. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<23>シンディと女の友情
      2017年5月30日5時0分

       長年仕事をしてきて、女同士というのはわかり合えていいなあ、と実感することがあります。それを感じさせてくれたのが、シンディ・ローパーです。

       シンディとの最初の出会いは、1984年、30歳にしてブレイクし、ヒット・チャートを急上昇していた「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」をひっさげて初来日した時。髪をオレンジ色に染めて、カラフルなドレスでくるくる踊りながら歌っていた鮮烈な印象があります。それから、ニューヨークでインタビューしたり、来日するたびに食事をしたり、30年以上親しくしてきました。

       《シンディは無名時代にニューヨークの日本料理店の女性店主に世話になって以来、大の親日家。オノ・ヨーコの著書「グレープフルーツ」を愛読し、「私にとってアートを通して人生を眺める窓になっていた」とも自伝に記している》

       2011年3月11日、東日本大震災の当日、奇くしくもコンサートツアーで来日。多くの海外アーティストが緊急帰国を選ぶ中、15日から予定通り名古屋、東京、大阪でコンサートを行い、彼女の希望で公演会場で募金を開始、約500万円集めました。ニューヨークにいた俳優の夫と当時13歳の息子も、「今やるべきだと思うならやればいい」と、応援してくれたそうです。最終日の大阪公演はニコニコ生放送で配信、「みんな、元気になって!!」とメッセージを送って激励し、12万人以上が視聴したといわれています。

       「私が日本にとどまることを受け入れて、一緒に盛り上げてくれて、本当にありがとう。光栄でした」と、帰国の際に彼女が残した言葉は忘れられません。思いやりがあって芯が強くて、肝っ玉のすわったすごい女性だと、私は改めて感動したものです。

       そんなシンディも、人生順風満帆だったわけではありません。80年代後半に2枚目のアルバムを出した後、スランプに陥った時期がありました。それまで仕事も私生活も二人三脚で支えてくれていたマネジャーで恋人の男性が他の女性に走り、しかもシンディの財産を持ち逃げしたと聞いています。大粒の涙をぽろぽろとこぼして正直に語ってくれる彼女に、「わかる、わかる。肌の色は違っても流す涙は同じよ!」と、私は心の中で何度もつぶやきました。

       信頼していた人に裏切られて傷ついたという話は、やはり30年来の友人、ジャニス・イアンも同じでした。日本では、テレビドラマ「岸辺のアルバム」(77年)の主題歌に採用されて人気になったアメリカのシンガー・ソングライターです。新宿駅ビルのカレー屋さんの隅っこで、泣いたり笑ったりして2時間過ごしたことを懐かしく思い出します。

       シンディ63歳、ジャニス66歳。つらい経験を乗り越えてどん底の状態からはい上がり、想像以上に男社会の芸能界で生き残っている。「音楽がある限り、絶対にあきらめない」というシンディに、私はしみじみ同感したのでした。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170529-118-OYTPT50393

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    23. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<24>大スター 孤独な晩年
      2017年5月31日5時0分

       アーティストは皆、生涯をかけて何か大切なメッセージを伝えようとしているのではないか、と私は思っています。そのメッセージは、ステージを通して本人のちょっとした仕草しぐさや声のトーンなどに表れて、ふっと懐に飛び込んでくる瞬間があります。

       エルビス・プレスリーとマイケル・ジャクソンに、その瞬間を感じました。好きだから、実際に見ているから、どういう思いを託して歌っているのか、痛いほどわかるのです。

       晩年のエルビスは、多くのファンに囲まれながらも、孤独でした。1972年冬のラスベガスのコンサート千秋楽の日、妻が一人娘を連れて、エルビスの空手教師と駆け落ちしてしまいます。ストレスで食べられなくなって食欲増進剤を飲み、睡眠薬を多用する日々。どんなに有名になっても、自分が愛する人がいて、自分を必要としてくれる人がいて、家に帰れば笑顔で迎えてくれるごく当たり前の日常の幸せが欲しい――エルビスの歌には悲痛な願いが込められているようで、深く胸を打たれました。

       マイケルには、73年に初めてインタビューしてから11回ほど会っています。92年の来日公演の時には、私が名誉校長を務める東京スクールオブミュージック専門学校に来校、ゴスペル隊の学生が彼の「ヒール・ザ・ワールド」を日本語で歌うのを聴いてものすごく感動し、写真撮影にも笑顔で応じてくれました。その10年前のインタビューの時のようにもう本音で語ってくれる機会はありませんでしたが、私が受け取ったメッセージは明確でした。

       自分の子供時代にはかなわなかったけれど、世界中の子供たちにファンタジーの世界をもっと見せてあげたい、子供たちは憧れや夢があるからこそ成長できるのだ、と。映画「E.T.」(82年公開)に感銘を受けて、自分でも、アルバム「スリラー」を発表する際に、幻想的なショートフィルムを制作しました。

       《マイケルが朗読を担当した「E.T.ストーリーブック」は、84年の最優秀子供向け作品アルバムでグラミー賞受賞。「E.T.と自分の人生は重なる。見知らぬところにいて、自分が受け入れられることを願っている」と語った》

       マイケルは、エルビスの娘、リサ・マリー・プレスリーと2年間弱の結婚生活を送っていました。2009年に亡くなった彼の死に寄せて、リサはブログに、「マイケルが落ち着いた様子で、『僕は、君のお父さんのような最期を迎えるかもしれない』と言ったことがある」と、書いています。彼は、自分の死を予期していたというのです。

       常人を超えるパワーの持ち主だったエルビスもマイケルも、過密なコンサートスケジュールを組まれ、孤独地獄の中で薬に頼り、倒れるまで歌い続けたアーティストでした。スターであることの光と影……。私たちが夢をもらい熱狂してきた2人には、皮肉なことに、あまりに悲しい共通点が多かったのです。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170530-118-OYTPT50422

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    24. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<25>借金、裏切り、そして離婚
      2017年6月1日5時0分

       1990年代初め、バブル景気がはじけた頃でした。「株に絶対触ってはダメ」という母の遺言を守って、私は株には手を出さずにいたので、世間で騒いでいるバブル崩壊は自分とは無縁のものと思っていました。ところが、夫が投資に失敗して多額の借金をつくり、自宅にも仕事場にも三重の抵当権が設定されていることがわかったのです。

       《日経平均株価は、89年12月29日の3万8915円をピークに、9か月で半値近い水準に暴落した》

       「今の家を失っても何とかなるわよ。子供の教育費は私が働いて出すから。中古のマンションに移って、2人で出直せばいいじゃない」と励ましたのですが、彼は「その程度で済むならいいけれど、かなり経済的に迷惑をかけると思うよ」と言葉を濁しました。

       ところがある晩、まったく予想だにしていなかったことが起こりました。大好きなバリトン歌手の素晴らしいオペラを鑑賞して気分よく帰宅すると、いつも午後6時半には帰っている夫の姿がなく、カウンターテーブルの上に一通の置き手紙がありました。

       「助けてください。実は子供ができました」――衝撃的な内容でした。相手の女性は結婚など一切望んでないけれど、神様が授けて下さった子供だけは元気に育てたい、そのためにはどうしても私の助けが必要なのだと、便箋5枚にしたためられていました。

       私たちは毎晩2人で散歩して、その日にあったことを話すのが日課でした。前の晩も肩を並べて散歩して、私は世界一仲のよい夫婦と信じていたので、青天の霹靂へきれきだったのです。

       後から気づいたのですが、買い置きしていた睡眠薬3箱が空になっていました。その頃私は作詞の仕事が忙しく、次々にヒットを飛ばし、ひっきりなしの電話では楽しそうにケラケラ笑っていた……。「君には何も言えなくて、眠れない毎日だった」と打ち明けられたのは、ずっと後になってからでした。

       それから2年ぐらいが地獄でした。赤ちゃんは産まないことにしたので忘れてほしいと言われて、半ば解決したと思っていたところに、知人から「ご主人にお子さんがいること、知ってる?」と電話がきました。知らぬ間に双子の赤ちゃんが生まれていたのです。アメリカ留学中の息子は10代後半の多感な時期。それを知ると、かんかんに怒り、深く傷つきました。結婚20年、盤石と思っていた家庭がいきなり崩壊し、住む家を失い、何よりも信頼していたパートナーに裏切られた喪失感は言葉にし難いものでした。「まさかの坂」を転げ落ちるとはこういうことなのかと、ぼうぜんとするばかりでした。

       正式に離婚したのは93年。それから24年を経た今、別れた夫とは親友と呼べる間柄です。離婚後彼なりに苦労してきたことは認めてあげたいし、息子(41)にとっては大切な父親で、小学生の孫には優しいおじいちゃまですから。彼の双子の娘も成人し、昨年開いた私の生誕80年パーティーに出席してくれました。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170531-118-OYTPT50392

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    25. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<26>病を通じて知った幸せ
      2017年6月3日5時0分

       もともとからだが丈夫でなかったのですが、特に、作詞家の仕事が忙しくなった40代後半、睡眠時間が大幅に削られたこともあって、風邪をこじらせては高熱と激しい悪寒に襲われ、緊急入院することがたびたびありました。慢性肝炎と診断を受けました。

       そこで私が実践したのは、お酒を飲まないこと、玄米を主食として旬の野菜中心の食事を取ること、地方での講演や取材がある時には、前の晩から現地に入って十分に眠ること。呼吸法や瞑想めいそう、気功なども勉強し、免疫力を高めようと、様々な健康法や民間療法に挑戦しました。音楽療法を実践したのもこの頃です。

       《湯川は自らの体験を書いた「幸福へのパラダイム」(1989年)で第10回日本文芸大賞受賞。「幸福への共時性」(93年)「幸福への旅立ち」(99年)の幸福論3部作を完結させた》

       95年、ロサンゼルスに向かう飛行機の中で、突然背中に激痛が走りました。離婚を巡る騒動から2年、頼りにしていた主治医の死、アメリカの高校留学中の息子の退学問題などが一気に押し寄せて、からだが悲鳴を上げたのでした。

       一晩寝た後も痛みは消えず、病院で検査を受けたところ、膵臓すいぞうがんを疑われました。その1か月後にインドで音楽祭の仕事があったので、検査はいったん保留してインドに向かいました。体力が弱っていたのでしょう、現地で赤痢にかかって40度を超える熱が1週間続き、毎日ペニシリンのお世話になりました。帰国して懸案のがんの精密検査をしたところ、腫瘍は退縮していました。

       慢性肝炎が実はC型肝炎とわかったのは、60歳を過ぎた98年でした。米軍キャンプを回って仕事をしていた21歳の頃、急性腹膜炎で緊急手術をした時の輸血が原因かもしれないと言われました。担当医から、「C型肝炎はまだ完全な治療薬はありません。滝つぼに向かって流れていく川のようなものだから、オールを上手に操って病気と付き合ってください。十分睡眠をとってからだを休め、よどみにとどまろうと努力すること」と言われました。週1回のインターフェロン治療を約10か月続けて、「ウイルス検出なし」と告げられたのは、2007年でした。

       一連の病気体験から学んだことはたくさんありました。病気を持っていたおかげで、倒れるところまで無理をせず、自己管理しながら日々生活する術すべを身につけました。今はお酒がいただけるようになり、ワイングラスを傾けながら、「ああ、ありがたい。これが甘露というものか」と、心から幸せに感じるようになり、すべての出来事に感謝しています。

       精神世界の迷路にも迷い込み、病は罪とネガティブに考えた時期もありました。でも、それは違いました。何事も心の受け止め方で変えられる、周囲ではなく自分が変わって、今という瞬間を精いっぱい生きることが大切なのだと、70歳を超えてようやくわかったように思います。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170602-118-OYTPT50358

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    26. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<27>自ら実践 音楽の力で回復
      2017年6月5日5時0分

       1966年にビートルズが来日した時、「ビートルズを聴くと不良になる」とまことしやかに言われたことがありました。反論したかったのですが、当時相手を説得できる材料を持ち合わせていませんでした。

       72年、サンフランシスコに滞在中、音楽療法のワークショップがあると聞いて出かけてみました。ADHD(注意欠陥・多動性障害)の子供の集まりで、奇声を発して走り回っていたかと思うと、時々ドラムをたたき、それに答えるようにセラピストはピアノを弾く……。そうやってコミュニケーションをとるうちに、子供が徐々に落ち着いていくのがわかりました。日本で音楽療法の本が出版されてまもない頃。帰国後次々に出る翻訳書を買い、夢中になって勉強しました。

       《音楽療法は音楽を心身の健康回復に役立てようという取り組み。英国でセラピー理論を確立したJ・アルビン女史が60年代後半に来日、日本でも専門家育成が本格的に始まった》

       「同質の原理」といって、当事者のその時の気分に寄り添った音楽を聴くのが最もよいとされています。うつ病の人を励まそうと陽気な音楽を選ぶのは逆効果。陰々滅々とした音楽を聴いてぼろぼろ泣いているうちに、少しずつ元気を取り戻していくのです。

       重要なのは、どんな音楽にもリズムがあるということです。そんな音楽の力を、私は身をもって実感したことがありました。93年前後の離婚騒動でしばらく立ち直れずにいた時です。足元から力が抜けて、どうすれば元気が出るのか、まったくわかりませんでした。このまま死んでしまった方が楽かもしれないと考えたこともありました。

       ともかく歩くことにしました。リズムがわかりやすく刻まれた器楽曲をヘッドホンで聴きながら、自宅近くの公園を夜ウォーキングしました。最初は、アシスタントの男性に付き添ってもらい、ステッキをつきながらオイッチニ、オイッチニと掛け声をかけて、足をひきずりながら歩いていました。ある時ふと気がつくと、それまでのネガティブな考えはいつの間にか消えて、満天に輝く星のきらめきや沈丁花じんちょうげの強い匂いに心ひかれ、立ち止まっている私がいたのです。ようやく「あー」と声を出せるようになり、「いーうーえーおー」と、無理してメロディーをつけて歌っていると次第に元気が戻り、1か月もしないうちにステッキは必要なくなっていました。

       私たちの心臓は、外からのリズムと共鳴し共振して動いています。子守唄の復興運動に力を入れたのも、リラックスしたお母さんの心臓の鼓動を赤ちゃんに聴かせたり、400ヘルツ前後のアルトの落ち着いた女性の声で歌いかけたりすることで、赤ちゃんの情緒発達によい影響を与えることがわかっているからです。

       いま日本音楽療法学会(日野原重明名誉理事長)の理事をしていて、お年寄りがいきいきと輝いて寿命をまっとうするために音楽療法をどう活用すればいいかなど、社会に情報発信しているところです。(編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170604-118-OYTPT50168

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    27. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<28>希望と喜びのゴスペル
      2017年6月6日5時0分

       音楽が好きで、数多くのアーティストにインタビューしてきましたが、私自身歌いたいという欲求は常にありました。あくまでも、道楽としてですけれども。

       「スワン・シスターズ」という4人組の女性コーラスグループを作ったのは2004年。友人から「歌を始めたいのだけれど、歌唱指導の先生を紹介して」と頼まれたのがきっかけでした。メンバーが何回か入れ替わり、7年前に、最初のメンバーであるジャーナリストの下村満子さんと私、そこに細川佳代子さんと鳩山幸さんが加わりました。4人のうち2人がファーストレディー経験者なんて、ちょっと豪華でしょう。

       なぜ「スワン(白鳥)」かといえば、一見優雅に見えるけれども、実は水中ではいつも懸命にバタバタと足で水をかいていて、へたに近寄ると結構どう猛……私たちにどこか似ているからです。ブルー・コメッツでキーボードを担当している作曲家の小田啓義ひろよしさんらが先生で、月2回のレッスンを続けているので、1時間半のチャリティーショーができる態勢です。

       同じ頃、「東京女声合唱団」というゴスペル・グループを結成しました。

       《ゴスペルとは、英語で福音の意味。米国南部の黒人の礼拝集会などで演奏され、発展した。いまやキリスト教の枠を超えた癒やしの音楽として日本でも受け入れられている》

       独立プロで売れない女優をしていた1950年代後半、劇団仲間に連れられて、新宿の「どん底」などの歌声喫茶に行きました。「若者よ」とか、労働歌とか、手を振りながら歌っても全然楽しくなくって。私がその頃夢中になっていたジャズと何が違うのか考えてみると、からだの揺れ方なんです。横に揺れるとからだが弾んで、心も開放されていく。それで、日本人がもともと持ち合わせていない横揺れのリズム感を取り入れて、もっと元気に歌おうと企画したのが、ゴスペル・グループでした。

       2006年、宮川彬良あきらさんの曲に詞をつけて、命の大切さをテーマにした「きずな」という日本製ゴスペル・ソングを作りました。日本のゴスペルの母、亀渕友香さんのソロに、私はバック・コーラスの一員として参加。08年、スペシャルオリンピックスの日本応援歌にもなり、今では「きずな」を通して各地で交流が広がっています。

       ゴスペルの存在は、私が敬愛するエルビス・プレスリーのルーツであり、ロックンロールそのもの。アメリカ音楽のルーツを訪ねると、ほとんどがゴスペルに行き当たります。

       ゴスペルを歌うことで、自分の中で昇華しきれていない悲しみなどを全部吐き出すことができるし、歌い終わると、とてもすっきりした気分になって、誰とでも打ち解けて話が弾みます。歌うことによってほとばしる感情というのは、憎しみでも悲しみでもない、希望と喜びであることを、ゴスペルが教えてくれたような気がします。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170605-118-OYTPT50421

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    28. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<29>若人よ「タ行」を大切に
      2017年6月7日5時0分

       滋慶学園グループ(本部・大阪市)で、音楽とアート分野の専門学校の名誉学校長をお引き受けして、かれこれ30年になります。1992年、マイケル・ジャクソンが東京公演の時にお忍びで訪問し、ゴスペル隊の学生の歌にいたく感銘してくれた学校です。初めて「大阪スクールオブミュージック」を開校する時に相談を受けて以来のご縁。若い人と接点を持つことは、私が欠かさず発信しているツイッターにもいえることですが、音楽の仕事を続ける上で貴重な情報収集の機会です。

       学校は、東京、大阪、名古屋、福岡などにあって、毎年3月と4月は卒業式と入学式で各地を回り、スピーチをしなければならないので大変でした。私から見ると孫のような子供たちが相手ですから、彼らが興味をもって熱心に話を聞いてくれるかどうかは、私自身の時代感覚を測る試金石にもなっています。

       スピーチの内容は、式当日ぎりぎりまで考えます。今年の入学式では、「T」をデザインしたペンダントを掲げながら、「T」の付く「タ行」に託された意味、すなわち、「トモダチ」をたくさんつくり、人生を「タノシム」ために「トコトン」物事に食い下がって「トゥマロー(明日)」を切り開きましょう、とお話ししました。私にできることはたかがしれていますが、才能のある人を見つけて世の中に紹介したり、挫折しそうな時に励ましたり……そんなお手伝いならできるのではないでしょうか。

       戦後の女性解放第1世代の私が、生き方のモデルがない中、競争の厳しい音楽業界で生き残ってこられたのは、第一に、仕事の依頼がきた時に絶対に「できない」と言わなかったからだと思うのです。与えられた機会を逃したら次はないと常に危機感があったし、挑戦するからには相手を120パーセント満足させる結果を出さなければと必死でした。

       ところが今、「これ、やってみない?」と投げかけても、「私には無理」と、あっさり断られるケースが多い。そんなにしがみつかなくても、待っていれば楽しそうな仕事がきて、そこそこ生きていけると考えてしまうのでしょうか。

       日本はまだまだ男性社会です。私はあまり意識してはこなかったけれど、やはりそれなりに闘ってきて、だからこそ生き残ることを許されたのかなと思います。女性であるがゆえに大切にされ、自由な振る舞いが許された反面、いざこざが生じると理不尽に仕事の場を追われたり、つぶされそうになったり。若い頃、まだセクハラの概念などありませんでしたから、大切な仕事を泣く泣く手放すといった経験もしました。

       長年働いてきた女性の先輩としてあえて言わせてもらえば、玉の輿こしに乗ろうといった幻想を持つよりも、一生続けたいと思う好きな仕事を見つけて、とことん楽しんでやってみること。そのうちに自信がついて、きっと道は開ける――私はそう信じています。

       (編集委員 永峰好美)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170606-118-OYTPT50408

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    29. [時代の証言者]音楽は愛 湯川れい子<30>最終回 音楽への共感 生きる喜び
      2017年6月8日5時0分

       今年4月30日のポール・マッカートニーの来日公演が終わった後、しばらく「ポールロス」に陥りました。2年前の来日時より深い喪失感がありました。

       《「○○ロス」が一般的に広まったのは、2013年のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の終了を惜しむファンがネット上などで「あまロス(症候群)」を訴え始めてから》

       私自身が年を重ね、ポールも白髪が増えているのだけれど、コンサートの内容はますます濃密に、温かくなっていました。いつ会えなくなるかわからないという思いが強くなっているからこそ、一瞬一瞬が貴重で愛いとおしくなるのです。

       ポールの歌を聴いていると思い出が蘇りよみがえます。たとえば、ジョン・レノン。ビートルズ解散を巡って2人は仲たがいしたことがあったけれど、今回の武道館のステージでも、「ジョン亡き後、僕がジョンに捧ささげた歌」と言って「ヒア・トゥデイ」を歌いました。本当にかけがえのない友達だったことが熱く伝わってきました。

       ポールがソロコンサートで初めて来日した1990年はまだビートルズのナンバーを演奏する姿勢を見せませんでした。2013年以降変わってきて、亡くなったジョンやジョージとも対話しながら歌っている。様々なわだかまりを超え、自分がビートルズの歴史を背負って音楽を体現する存在であると自覚して、一曲一曲に心を込めて歌っている。そう思うと、武道館でまた、何度もぼろ泣きしてしまいました。

       80歳を迎えた昨年、「音楽評論家55年 作詞家50年」を、音楽業界の皆様に分不相応なくらい盛大にお祝いしていただきました。

       エルビス・プレスリーが黒人と白人の文化を融合してロックンロールという大爆発を起こし、それがイギリスに飛び火してビートルズが誕生し、さらに、肌の色などを超越してマイケル・ジャクソンが活躍の場を広げていった……。ポップスには、歴史を作った何人かのスーパースターがいました。私はたまたま同じ時代を生き、彼らに出会えたというのは本当にラッキーでした。そして、彼らの最初の一曲を聴いた瞬間に「何これ? スゴイ!!」と思えたこと、その直感を信じられたことが、とてもありがたかったと思います。

       理屈でなくて、体感でした。胸がキュンとして肉体が反応する「毛穴感覚」で、私はそれを大切にしてきました。

       からだや心を熱くしてくれる音楽やアーティストに共感し、共鳴するエネルギーは、生きて存在することの自由と喜びに満ちあふれています。音楽がそこにある時は平和で、誰もが笑顔になれる――基本的に音楽は「愛」なのです。だからこれからも、あらゆる争いのタネになるものを注意深く除きつつ、共に音楽を聴いて、元気に楽しく生きていきましょう!

      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170607-118-OYTPT50366

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  45. >慢性肝炎が実はC型肝炎とわかったのは、60歳を過ぎた98年でした。米軍キャンプを回って仕事をしていた21歳の頃、急性腹膜炎で緊急手術をした時の輸血が原因かもしれないと言われました。担当医から、「C型肝炎はまだ完全な治療薬はありません。滝つぼに向かって流れていく川のようなものだから、オールを上手に操って病気と付き合ってください。十分睡眠をとってからだを休め、よどみにとどまろうと努力すること」と言われました。週1回のインターフェロン治療を約10か月続けて、「ウイルス検出なし」と告げられたのは、2007年でした

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    1. >週1回のインターフェロン治療を約10か月続けて、「ウイルス検出なし」と告げられた

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    2. 「インターフェロン治療」で「ウイルスが消える」ってねぇ…

      それって一種のまやかしだろ(笑)。

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    3. 「C型肝炎ウイルス」研究と、「ミンクにブタや鳥のインフルエンザを感染させる実験」と…(笑)。
      https://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%A3%E5%9E%8B%E8%82%9D%E7%82%8E%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9+%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AB%E3%83%96%E3%82%BF%E3%82%84%E9%B3%A5%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%92%E6%84%9F%E6%9F%93%E3%81%95%E3%81%9B%E3%82%8B%E5%AE%9F%E9%A8%93

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    4. >現在大阪大学微生物病研究所教授としてC型肝炎ウイルスの研究に従事している松浦氏は、北大時代 インフルエンザ研究グループの一員として、ミンクにブタや鳥のインフルエンザを感染させる実験に明け暮れていたのである。

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    5. 「ミンクにブタや鳥のインフルエンザを感染させる実験」(笑)。

      れっきとした人獣共通感染インフルエンザウイルスの医科様研究…

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    6. そして「レセプター」研究(笑)。

      > ブタの呼吸器上皮細胞には、人と鳥のウイルス両方のレセプターが存在する
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%96%E3%82%BF+%E4%BA%BA+%E9%B3%A5+%E6%96%B0%E5%9E%8B+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9+%E3%83%AC%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BC+%E5%96%9C%E7%94%B0+%E4%BC%8A%E8%97%A4

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  46. 洋楽カバーも好調 島津亜矢…自分の全てを見てほしい
    2017年10月19日15時0分

     島津亜矢=写真=の好調が続く。実力派演歌歌手として知られるが、洋楽カバーなども注目を集め、活躍の場を広げている。

     9月にはカバーアルバム「SINGER4」(テイチク)を発表。吉田拓郎の「落陽」や平原綾香の「Jupiter」などとともに、米国のビリー・ジョエルの名曲「オネスティ」を歌っている。持ち味の豊かな声量、細やかな感情表現が存分に生かされている。「私の全てを見ていただきたいという思いから、リサイタルでは、いろいろな歌に挑戦させていただいた。それが洋楽を歌ったきっかけです。英語の歌はオリジナルを聴いて、カタカナで歌詞を書き留め、また聴いて、発音を直すんです」

     レパートリーで人気なのがホイットニー・ヒューストンの曲。伸びやかな高音が評判を呼び、テレビ番組をはじめ様々な所から声がかかるように。「ずっと演歌の世界で生きてきたので、私で大丈夫なのかなという不安はありますが、幸せなことです」。今年は人気アニメ「機動戦士ガンダム」シリーズの映画主題歌も、AYA名義で歌った。

     もちろん、演歌・歌謡曲も忘れていない。1月に「いのちのバトン」、6月に「心」と2枚のシングルを出した。「いのちのバトン」は、両親への感謝を切々と歌うバラード調の曲。一方、「心」は、「人として歩むべき道を教えてくれるような、スケールの大きな奥の深い歌。歌っていて気持ちのいい歌です」という本格演歌だ。

     1986年に15歳でデビュー。昨年は、2年連続、通算3回目のNHK紅白歌合戦出場を果たした。今月末には名古屋での座長公演も始まる。充実した日々が続く。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171019-118-OYTPT50245

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  47. 島津亜矢 ★The Rose
    https://www.youtube.com/watch?v=ibnItkP6_Vc

    https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%BA%9C%E7%9F%A2

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  48. 世界的人気グループ ABBA 35年ぶりに新曲収録を発表
    4月28日 5時37分

    「ダンシング・クイーン」などの世界的なヒット曲で知られるポップグループ、ABBAが、35年ぶりに新曲を収録したことを発表し、ファンの間で大きな注目を集めています。

    スウェーデンの男女4人組のポップグループのABBAは、1972年から10年間の活動期間中に、「ダンシング・クイーン」や「マンマ・ミーア」などのヒット曲を相次いで発表し、3億7000万枚以上のレコードを売り上げ、今も世界で根強い人気を保っています。

    ABBAは27日、グループの公式ウェブページで、35年ぶりに新曲2曲を収録したと発表しました。

    新曲の発売日などは明らかにされていませんが、このうちの1曲は、ことし12月にアメリカのNBCとイギリスのBBCの特別番組で披露される予定だということです。

    新曲の収録について、メンバーは声明で、「35年の時を経て、また一緒にレコーディングスタジオに入れば、楽しいに違いないと感じた。まるで時間が止まったままで、短い休暇をとっただけのようだった。最高に楽しかった」と述べています。

    発表を受けて、グループの公式ウェブサイトには、ファンから「夢がかなった」とか、「世界は明るいニュースを待っていた」といった1万3000件以上の書き込みが寄せられ、大きな注目を集めています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180428/k10011421441000.html

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    1. ABBA 35年ぶり新曲
      2018年4月28日15時0分

       【ロンドン=緒方賢一】「ダンシング・クイーン」「チキチータ」などのヒット曲で世界的な人気を集め、1980年代前半に活動を休止したスウェーデンのポップスグループABBA(アバ)が27日、約35年ぶりに新たに2曲を録音し、音楽活動を再開したと明らかにした。このうち1曲は米NBCと英BBCが制作する特別番組で12月に放映される。

       4人のメンバーは現在60~70歳代。インスタグラムに連名で発表した声明で、「まるで短い休暇で離れていただけのようだった」と活動休止を振り返った。ABBAの往年のヒット曲で構成するミュージカル「マンマ・ミーア」は、ロンドンなどでロングラン公演が続いている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180428-118-OYTPT50292

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    2. ABBAが活動再開、35年ぶりに2曲録音
      2018年4月28日10時43分

       【ロンドン=緒方賢一】「ダンシング・クイーン」「チキチータ」などのヒット曲で世界的な人気を集め、1980年代前半に活動を休止したスウェーデンのポップスグループABBA(アバ)が27日、約35年ぶりに新たに2曲を録音し、音楽活動を再開したと明らかにした。

       このうち1曲は米NBCと英BBCが制作する特別番組で12月に放映される。

       4人のメンバーは現在60~70歳代。画像共有サービスのインスタグラムに連名で発表した声明で、「まるで短い休暇で離れていただけのようだった」と活動休止を振り返った。

       ABBAの往年のヒット曲で構成するミュージカル「マンマ・ミーア」は、ロンドンなどでロングラン公演が続いている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180428-118-OYT1T50037

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  49. [音故知新]キース・ジャレット「ザ・ケルン・コンサート」…完全即興 豊かな詩情あふれ
    2018年7月12日15時0分

     この米国出身のピアニストは、1960年代後半から、巨匠、アート・ブレイキーらと共演する一方、ソロとしても頭角を現していた。70年代に入ると、独奏で完全即興の公演を開くようになり、その模様を収めた73年の実況盤「ソロ・コンサート」は大きな反響を呼んだ。

     本作は75年1月のドイツ・ケルンでの完全即興による公演の模様を収めた。同工異曲だっただけに、発売当時は先行した「ソロ・コンサート」の方が高評価だったが、現在では本作の人気が勝ると言えよう。

     おおまかに、25分ほどと40分ほどの二つのパートに分かれるが、いずれも叙情的で均整の取れたフレーズが泉のごとくわき出している。逸脱や前衛的な崩しはほとんどなく、まるで作曲された作品のよう。清浄で豊かな詩情に心洗われる。ユニバーサルから発売されている。(浩)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180712-118-OYTPT50184

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    1. 「ブレゲンツコンサート」からのめりこんだ身としては、トリオのライブ版「星影のステラ」(原題:Standards Live)がベストかなと思うのだが、たぶん歴史的な1枚となると「ケルン・コンサート」がその名前とともに残ることになるのだろう…

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  50. 島津亜矢 ジャズに初挑戦…50回目「サマージャズ」 ビッグバンドに乗って
    2018年8月16日15時0分

     今年で50回目を迎えるジャズの祭典「サマージャズ」が25日、東京・後楽園の文京シビックホールで開かれる。節目のこの年、演歌歌手の島津亜矢=写真=がジャズに初挑戦する。

     サマージャズは1969年にスタート。これまでに渡辺貞夫、日野皓正らが出演するなど、夏のジャズフェスティバルとして定着している。

     島津はこれまで演歌のみならず、ホイットニー・ヒューストンや中島みゆきなどのポップスをカバーしてきた。しかしジャズについては「好きなんですが、難しいイメージがあり、聴くだけでした」と明かす。

     「演歌は間違ったら間違ったとはっきり分かる」と語る通り、決まった節回しで「心のひだを歌う」のに対し、時にフレーズも進行も変えてしまうのがジャズ。リズムもハードルが高いと感じていたが、今回、主催者から打診を受け「新しいことにチャレンジしたい」と引き受けた。

     当日は、歴史あるビッグバンド「森寿男とブルーコーツ」が奏でる迫力のサウンドとともに、スタンダード曲を着物姿で歌う。演歌の名曲「望郷じょんから」も披露する予定で、初挑戦のジャズはもちろん、島津の力強いこぶしと大人数のビッグバンドのスイングがどのように絡み合うのかも聴きどころだ。

     初めて尽くしのジャズコンサートに「私も楽しみ。どうなるのか、想像もつかない」。現在、洋邦楽のポップス、ロックをカバーするアルバム「SINGER5」(10月発売予定)もレコーディング中。「演歌の良さを知るためにも、色々な歌に挑戦したい」と話している。

     サマージャズには島津のほか、ジャズバイオリニストの寺井尚子やクラリネット奏者の北村英治、津軽三味線奏者の上妻宏光とシングライクトーキングのボーカル、佐藤竹善によるデュオなどが出演する。午後3時開演。問い合わせは日本ポピュラー音楽協会((電)03・3585・3903)。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180816-118-OYTPT50187

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    1. 「リンダ・ロンシュタット ジャズ」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88+%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BA

      Linda Ronstadt - What's New - Nelson Riddle Orchestra
      https://www.youtube.com/watch?v=Hx5ENGRPEsg

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    2. 「伊藤君子 美空ひばり」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%90%9B%E5%AD%90+%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A

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    3. 「八代亜紀 夜のアルバム 夜のつづき」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E5%85%AB%E4%BB%A3%E4%BA%9C%E7%B4%80+%E5%A4%9C%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0+%E5%A4%9C%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%81%A5%E3%81%8D

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    4. 「ノラ・ジョーンズ ジャズ」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA+%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BA

      Norah Jones - Day Breaks
      https://www.youtube.com/results?search_query=norah+jones+day+breaks

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    5. 「ニーナ・シモン」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3

      「ジャニス・ジョプリン」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3

      https://www.youtube.com/results?search_query=janis+joplin

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    6. >ローズ - ジョプリンをモデルとした1979年の映画。ベット・ミドラー主演。
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

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    7. ヘレン・メリル
      サラ・ヴォーン
      ダイナ・ワシントン

      ウィズ・クリフォード・ブラウン
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3

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    8. キャスリーン・バトル

      ウィズ・ウィントン・マルサリス
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%AB+%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%B9

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    9. ノラ・ジョーンズ
      ウィズ・ウィントン・マルサリス
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA+%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%B9

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  51. ビッグバンド・ジャズといえば、カウントベーシーと、グレンミラーと、デュークエリントンと、ベニーグッドマン。

    「スイング ビッグバンド」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0+%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89

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  52. [音故知新]胸くすぐる豊潤なハーモニー…サイモン&ガーファンクル「サウンド・オブ・サイレンス」
    2018年9月13日15時0分

     この米国のデュオが1964年に出した初アルバムはさほど話題にもならず、デュオは活動休止状態に。そんな中、プロデューサーのトム・ウィルソンが、同作の収録曲「サウンド・オブ・サイレンス」に着目した。アコースティックギターだけの伴奏だった原曲にベースやドラムス、エレキギターを重ね、シングル曲として発売した。これが全米1位に輝いた。

     この大成功に歩調を合わせ、制作されたのが、66年発売の本アルバムだ。フォーク的な繊細さを基調に、ロック的な躍動を加えたサウンドは、実によく練られている。何より2人の豊潤なハーモニーが胸をくすぐる。ソニーから発売中。

     一躍スターとなった2人だが、70年にアルバム「明日に架ける橋」を出した後、コンビを解消し別々の活動に踏み出すことになった。(浩)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180913-118-OYTPT50219

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  53. ビートルズの秋
    2018年11月10日5時0分

     ホワイト・アルバムの通称で知られるビートルズのアルバム「ザ・ビートルズ」が発売50年を迎え、音を現代的に再構成したリミックス版が9日発売された。10月末にはポール・マッカートニーが来日。東京や名古屋で公演を行うなど、ファンにとってはこたえられない秋となった。(鶴田裕介)

    「ホワイト・アルバム」50周年リミックス版

     真っ白いジャケットが印象的なホワイト・アルバムは1968年11月、初の2枚組み、全30曲というボリュームで発売。装飾をできるだけ排した、生々しいサウンドが特徴だ。

     陽気な「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」、ジョージ・ハリスンが歌い、友人のエリック・クラプトンがむせび泣くようなギターソロを聴かせる「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などを収録。メンバーの音楽的な個性が花開いた一方、「ソロ曲の寄せ集め」など様々な評価を受けた。

     50周年記念版(ユニバーサル)は、リミックス版と、ジョージ宅で録音されたデモテープ、曲が完成に至る過程が分かるスタジオ音源などを、CDやレコードといった様々な形態で発売する。ガイド本「50年目に聴き直す『ホワイト・アルバム』深掘り鑑賞ガイド」(シンコーミュージック)も出たばかりだ。

    引き出したテープの音…ジャイルズ・マーティン

     リミックスとは、重ねて録音されたギターやドラムといった楽器の演奏、歌などの音をいったんバラして並べ直す作業。50年ぶりに組み直された歴史的名盤は何が変わり、何が変わらなかったのか。

     オリジナル版のプロデューサー、ジョージ・マーティン(2016年死去)の息子で、今回のリミックスを手がけたジャイルズ・マーティンは「かなりの数の曲があったため(制作当時)ミックスは割と手早くされてしまった。進化した技術により、このアルバムが目指す感覚を作りたかった」と語る。

     カギとなるのは「直感的な音」であり、同時に「美しくないといけない」ということ。父からは「音楽は音だけでなく、聴いた時にどういう気持ちにさせられるかが重要だ」と教わり、ポール・マッカートニーからは「極限までやれ。やり過ぎたら伝えるから」と背中を押された。

     リミックス版は、まるでビートルズが今、目の前で演奏しているかのような鮮やかさ。それこそが「テープに残っているそのままのサウンドだ」という。「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」や「ヘルター・スケルター」といったロックの曲がより重くなっているようにも感じられるが、「ベース(低音)は足していない」。つまり、テープに記録されながら、当時のレコード技術では出し切れなかった音を最大限引きだした形だ。

     4人の個性が際立つが故、「仲の悪さが表れている」と評されたこともあるが、今回、ジャイルズは、膨大なテープの中に共同作業を楽しむバンドの姿を見いだした。「彼らにとっては充実した時間だった。少なくとも解散寸前の状態ではない」

     来年は「アビイ・ロード」、再来年は「レット・イット・ビー」が発売50年となる。これらもリミックスするのだろうか? 「今は別の映画の仕事で手いっぱい」とはぐらかしつつも、「聴き応えのあるものができるという確信の下で発表したい」と含みも持たせた。

    マッカートニー来日公演…老いすら楽しむように

     今年もポール・マッカートニーがやってきた。10月29日、羽田空港に降り立ったポールは、東京ドーム、両国国技館、そしてナゴヤドームと3か所4公演を行った。

     このうち11月5日の両国国技館公演は、相撲を生で見る場所だけあって後ろからでもステージがよく見える。予定より約1時間遅れで登場したポールとの距離も近く、1曲目の「ア・ハード・デイズ・ナイト」からノリのいい歌声を楽しめた。曲の合間には「ゴッツァンデス」「ドスコイ」と、この場所ならではの日本語も飛び出した。

     曲目は「オール・マイ・ラヴィング」や「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」といったビートルズナンバーが多くを占め、ウイングスや、9月に出した「エジプト・ステーション」の曲も織り交ぜた。ファン目線の選曲だ。

     気になったのは、76歳という年齢による声の変化。率直に言って、声量は以前ほどではない。出にくくなった音域を、シャウトや歌い回しで補完しているようにきこえるところもあった。それでも世界をツアーで回るのは「この年になっても歌えるぞ」と誇示するためでなく、今の自分を聴かせたいのだろう。新作「エジプト・ステーション」は自らと向き合った枯れた味わいが感じられたし、ライブでは老いすら楽しんでいるかのようなビートルズも聴けた。

     ギター1本で歌う「ブラックバード」は美しかったし、「レット・イット・ビー」のような不朽の名曲に身を浸す幸福といったら。来年もお待ちしています。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20181109-118-OYTPT50341

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  54. 紅白で魅せたユーミン。もう生歌がきつい現実と、名曲を誰が歌い継げるか問題
    1/1(火) 16:00配信 週刊SPA!

     サザンオールスターズや米津玄師(27)の出場で、例年以上に盛り上がった平成最後の紅白歌合戦(元旦~1月14日までNHKオンデマンドで見逃し配信中)。

     そんな中、NHKホールをシックで暖かい空気に包み込んだ松任谷由実(64)の存在感が際立った。別撮りと思わせておいてからの、ひょっこりとやって来る登場シーンも粋だったし、何よりも楽曲が群を抜いて素晴らしい。

    ◆ユーミンが歌えなくなると、名曲たちを誰が歌いつぐのか?

     披露した「ひこうき雲」と「やさしさに包まれたなら」、いずれも品の良さと親しみやすさが絶妙なバランスで両立している。言ってみれば、音楽としてのたたずまいが清々しいのである。

     作曲的に高度な試みをするとか、凝った歌詞を書くとかではなく、普段の生活から気を張っていなければ出せない気高さや、普遍的な美徳がある。改めて、得難い資質の持ち主だと感じた。

     だからこそ、いまユーミンを取り巻く困難に触れないわけにはいかない。率直に言って、ユーミンはもう自作曲を歌える状態にないからだ。しかも、プロの歌手としてどうこうという問題でもない。

     たとえば、風邪をひいて喋るのも辛そうにしている人がカラオケにやってきたとき、どう思うだろうか。きっと、“無理して歌わなくていいよ”と言いたくなるはずだ。いまのユーミンを観て心配になる気持ちは、それに近い。

     念のため、これは批判したり価値を下げたりする目的で言っているのではない。むしろ、ユーミンの楽曲が健全に保護、伝承されるために、今からふさわしい歌い手を探したほうがいいのではないか、と思うのである。

     そう言うと、“若くて歌の上手い人はいくらでもいるだろう”と思われるかもしれないが、ユーミンの楽曲は、そのような体力自慢の手にかかると一気に魅力が失われてしまうから難しい。音程が正確だとか、声が元気だとか以上に、書の“かすれ”のような美しい欠損を嗅ぎ取る感性が求められるからである。

    ◆キャロル・キングをカバーしたレディ・ガガの場合

     そこで考えたいのが、2014年にグラミー賞のイベントでキャロル・キング(76)の「君の友だち」をカバーしたレディ・ガガ(32)のケースだ。ボーカリストとしてのガガは、体力的にキャロル・キングを上回っているために、正攻法では原曲のたどたどしさが再現できなくなる。

     だから、ガガは歌のフレージングによって自ら破損を作り出したのだ。みずみずしい声や豊かな音域にフタをするように、歌詞を投げつける。歌い上げたくなる気持ちや、オリジナリティを加えたくなる下心を自制して、語りに重心を置いたことで、キャロル・キング特有の親密さが保たれたというわけだ。

     この種の大局的な判断を下す力は、音楽のことばかり考えていて身につくものではない。やはり、普遍的な美徳を信じるかどうかの問題なのである。現状、日本の音楽シーンを見渡して、そこまで懐の深いシンガーはいるだろうか?

     そういうわけで、ユーミンを歌い継ぐ人物は簡単には見つからないのだ。今回の紅白出場歌手なら、aiko(43)や島津亜矢(47)はどうだろうとか考えてもみるが、それでもすくい取れない何かがユーミンの楽曲にはある。

     改めてその価値を知ると同時に、大きな宿題を与えられたパフォーマンスだった。

    <文/音楽批評・石黒隆之> 
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190101-01540471-sspa-soci

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  55. [耳の渚]池辺晋一郎 童謡100年 「この道」を想う
    2019年1月19日15時0分

     今年は、日本で初めて童謡が作曲されてちょうど100年というアニヴァーサリーである。少し詳しく話そう。

     もちろん、子どもの歌は昔からあったにちがいない。世界中のどんな地域でも、どんな時代でも、子どもは歌う。日本でも「わらべ唄」は自然発生的に流布していた。

     意図的に子どもの歌が作られるようになったのは、明治以降だ。最初の教材は1881~84年刊で、大半が欧米の民謡、一部にわらべ唄などを転用したものだったが、1911年から14年にかけて、文部省による「尋常小学唱歌」が作られる。作詞と作曲者名は伏せられ、本人も口外を禁じられたという。個人の創作ではなく、詞も曲も合議のうえで編纂へんさんされ、国が作った歌という形をとったのである。その中で「故郷ふるさと」「朧おぼろ月夜」「春の小川」などについて、高野辰之(1876~1947年)の作詞、岡野貞一(1878~1941年)の作曲であることが公表されたのは、1970年前後になってからであった。

         ◎

     今も親しまれる前記のような例外はあったにせよ、多くは歌詞が硬く教訓的で、子どもの自然な感情にそぐわないと考えた鈴木三重吉(1882~1936年)が童話童謡誌「赤い鳥」を創刊したのは1918年。芥川龍之介、有島武郎、小山内薫、久保田万太郎らそうそうたる文学者がこの雑誌に寄稿した。創刊の年の11月号に発表された西條八十やその詩に、翌19年5月号で成田為三作曲による歌が付いて掲載されたのが「かなりや」。これはさらに翌年レコード化されて広く歌われた。「唄を忘れた金糸雀かなりやは~」という童謡である。これが、日本の童謡の嚆矢こうしとされる。すなわち今年で100年というわけだ。

     「子ども向けだからそれなりに」から「子ども向けだからこそ質の高いものを」という理念に添った詩人は西條八十のほか野口雨情、北原白秋ら。それらに成田為三、本居長世、弘田龍太郎、山田耕筰こうさくらが作曲して、すばらしい童謡が次々に生まれた。

         ◎

     それら名コンビの中の白眉――北原白秋(1885~1942年)と山田耕筰(1886~1965年)の創作の葛藤と軌跡を描く映画「この道」(監督・佐々部清、主演・大森南朋、AKIRA)が公開されている。鈴木三重吉はもちろんのこと与謝野鉄幹・晶子、萩原朔太郎、室生犀星、石川啄木、高村光太郎らも登場することが興味深い。日本人なら誰でも知っているであろう「この道」という歌は、映画のタイトルのみならずキイワードだ。白秋の詩に描かれた風景にとどまることなく、どんな人の心の中にもある、それぞれの「この道」について想おもいを馳はせることになるだろう。

     「北原白秋 言葉の魔術師」(今野真二著、岩波新書)という本が2年前に出た。僕はかねて「邪宗門」「思ひ出」など白秋の詩集が大好きで、そのふるさと、福岡県柳川を何度も訪れている。この書も当然読み、この映画にも駆けつけた。いっぽう山田耕筰は、日本のオーケストラあるいはオペラの黎明れいめい期の立役者として、たびたび触れる機会がある。しかし白秋も耕筰も、もっぱら童謡という視座で語られることは、そう多いとはいえないだろう。そもそも童謡という言葉が、もはや死語かもしれないのだ。

         ◎

     僕の子ども時代には「童謡歌手」がいた。童謡はすべての子どもに共通の歌で、子ども雑誌の表紙はたいてい彼女らだった。だが童謡は消え、数十人もの集団アイドルが歌う「どれも似たような歌」が、かつての童謡にとって代わっている。

     これはこれでいいのかもしれない。ポップソングの専門家でない僕に、そのあたりの判断はできないが、もし現代に鈴木三重吉がいたら、何を、どう主張するかな、と考えてしまうのである。(いけべ・しんいちろう 作曲家)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20190119-118-OYTPT50255

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  56. 「意味わからない」と評判、吉幾三さん津軽弁ラップ再生225万回
    2019/10/09 14:43

    「TSUGARU」のミュージックビデオの1コマの歌手、吉幾三さん(徳間ジャパンコミュニケーションズ提供)

     「しゃべればしゃべたってしゃべられる しゃべねばしゃべねってしゃべられる」――。青森県五所川原市出身の歌手、吉幾三さんが津軽弁で歌うラップ調の新曲「TSUGARU」が、インターネット上で「意味がよくわからない」とかえって評判を呼んでいる。

     新曲は吉さんが作詞・作曲し、先月12日からインターネット上でミュージックビデオとして公開。帽子にサングラス姿で田舎者のラッパーにふんした吉さんが、田んぼのあぜ道を歩きながら、「Hey Hey Hey」「よ!」などと合いの手を入れて軽快に3番まで歌っている。

     「おめだの爺じコ婆々ばば どしてらば?」(おたくのじいさん、ばあさんはどうしてる?)。歌詞には、地元のありふれた日常を通して青森県の魅力や、古里を離れた若者への苦言などを盛り込み、最後は「青森全部をなめんじゃねえ」と叫んでいる。

     動画投稿サイト「ユーチューブ」での再生回数は、公開1週間後に100万回を突破し、今月9日時点で約225万回に上った。SNSでも「地元に帰りたくなった」などのコメントに加え、「1・25倍速で再生するとかっこいい」と新たな楽しみ方も提案されるなど話題となっている。現在公開されている曲とは別の「オリジナルバージョン」が30日にCDとして発売されることも決まった。

     吉さんは「好きな津軽に昔からある言葉を残したいと思って作った。子どもたちに少しでも津軽弁を恥ずかしがらずに使ってほしい」と話している。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20191009-OYT1T50191/

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    1. 吉幾三は、高木恭三を遥かに超えた偉大な詩人であると同時に偉大な作曲家であると思う。

      太宰治や寺山修司と同列の広義の「文学者」であるといっても過言はない。

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  57. 孤高のギター職人 ~アーティストをとりこにする“音色”
    2019年11月22日 16時20分
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012185611000.html

    >スガシカオ、スキマスイッチ、斉藤和義、これらの人に共通することは何かご存じですか?実は、佐賀の職人が手作りしているアコースティックギターを愛用しているアーティストたちなんです。大物アーティストたちをとりこにしている音色。それを生み出す孤高の職人のこだわりに密着しました。(佐賀放送局記者 本田光)

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  58. 「サマータイム」などガーシュウィンの337曲 著作権管理再開へ
    2021年9月10日 6時25分

    日本国内では自由に利用できる「パブリックドメイン」となっていたアメリカの作曲家、ジョージ・ガーシュウィンの作品のうち「サマータイム」など337曲が兄との共同著作物だと確認されたとして、JASRAC=日本音楽著作権協会は来年1月から著作権の管理を再開すると発表しました。

    アメリカの作曲家、ジョージ・ガーシュウィンは、オペラやミュージカル、それにクラシックで活躍したアメリカの作曲家で、その楽曲は多くのアーティストにカバーされ、世界中で親しまれています。

    ガーシュウィンは、38歳の若さで1937年に亡くなり、日本国内では1998年5月に著作権の保護期間が終了してすべての楽曲は、「パブリックドメイン」となっていました。

    ところが、JASRACによりますとこのうち337曲については、アメリカの著作権管理団体から提出された資料によって兄で作詞家のアイラ・ガーシュウィンとの共同著作物だと確認され、これにより、国内での著作権の保護期間は兄が亡くなった1983年が起点になったということです。

    337曲の中には、ジャズのスタンダード・ナンバーとして親しまれている「サマータイム」や「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」などが含まれています。

    JASRACは、「これほど有名な作曲家で一度はパブリックドメインとなっていた楽曲の著作権管理を再開するケースは極めて珍しい」としています。

    著作権の管理は来年1月1日から再開され、少なくとも2053年まで続き、コンサートでの演奏やCD化などの際には使用料の支払いが必要になるということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210910/k10013252191000.html

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  59. 津軽三味線の上妻宏光とチェロの宮田大、アルバム配信と全国ツアーで共演…「世界にもなかなかない」
    2024/04/05 15:39

     津軽三味線奏者の 上妻あがつま 宏光が、日本を代表するチェロ奏者宮田 大だい との共演2曲を含むミニアルバム「 和響わきょう ~Encuentro~」(コロムビア)を10日に配信リリースする。2人の全国ツアーも5月24日の東京公演から展開。「世界的にもなかなかない『チェロと三味線の響き』を聴いてほしい」と語る。(北川洋平)

    チェロの宮田大(右)と共演する上妻は、「いろんな角度からアプローチして三味線の表現を広げたい」と語る

     6歳で始めた津軽三味線が純邦楽界で高い評価を受ける一方、ハービー・ハンコック、矢野顕子ら国内外の著名アーティストと共演を重ね、ジャズ、ロックなどジャンルを横断する活動でも注目を集めてきた。

     「伝統と革新」を追求してきた上妻だが、2009年のロストロポービッチ国際チェロコンクールで日本人として初優勝し、国際的に活躍する宮田との共演はクラシックと邦楽、それぞれのファンにとってもうれしい驚きだろう。

     22年の演奏会での共演をきっかけに宮田との深い交流が生まれた。上妻は「絶えず今までにないものを追い求めてきたが、それでも単音を基調とした弦楽器同士で音楽を創り上げていくことには、不安と楽しみが半々でしたね」とほほえむ。

    「いろんな角度からアプローチして三味線の表現を広げたい」と語る上妻宏光さん=田中秀敏撮影
     5曲を収録したミニアルバムは、NHK大河ドラマ「風林火山」の紀行テーマ、上妻の人気曲「紙の舞」の新録などがあるが、やはり注目は宮田と共演した2曲だ。「NIKATA」は民謡「秋田荷方節」を基に歯切れのいい津軽三味線の高音とチェロの深い低音の交わりが耳に鮮烈な印象を残す。「和の旋律やニュアンスをチェロで表現してもらい、即興で演奏の掛け合いも取り入れた。ゆくゆくはライブで即興も増やせたら」と上妻が語るように、時にすれ違い、時にぶつかり合いながらも終盤、見事な調和につながっていく流れが刺激的だ。

     もう1曲の「La Noche de Segovia~セゴビアの夜」は上妻のオリジナルで、これまでは村治佳織、沖仁といったギタリストと奏でてきた。異国情緒を感じさせる音階だけに、宮田のチェロが一層、豊かな響きを聴き手に届ける。「リズムが変化していく曲で、2人でうねりを合わせることに全集中しています。『NIKATA』と比べると欧州の薫りがするので、東洋と西洋という曲ごとの雰囲気の違いも感じていただけると思います」

     上妻は「異なる文化同士で生む音楽から、生身の人間の良さのようなものも感じてもらえたらうれしい」と語り、宮田も「上妻さんの磨き上げられた音を隣で感じ、刺激を受けながら、音で会話することができる機会。こんな幸せなことはありません」とコメントしている。ミニアルバムは5月24日から、CDとしても演奏会場などで発売される。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20240405-OYT1T50079/

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