tag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post3962747558257877411..comments2024-03-28T22:01:39.787+09:00Comments on つれづれすくらっぷ: 「ウソにもおおいなる腕前が要る。才能のある者ほどこの道を行く。」ニッポニア・ニッポンhttp://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comBlogger126125tag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-9066148378637390052023-10-28T10:49:24.915+09:002023-10-28T10:49:24.915+09:00白楽ロックビル
@haklak
『あなたの知らない研究グレーの世界 』(榎木英介 編著 / 田中智之...白楽ロックビル<br />@haklak<br />『あなたの知らない研究グレーの世界 』(榎木英介 編著 / 田中智之 編著)中外医学社<br />http://chugaiigaku.jp/item/detail.php?id=4362<br /> 白楽が一部執筆しましたので、宣伝しておきます。<br />本日発売。定価3,080円(本体2,800円 + 税)です。<br />視点がユニークですね。<br />https://twitter.com/haklak/status/1717804227228295521ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-25427715333131079082023-10-28T10:47:29.789+09:002023-10-28T10:47:29.789+09:00あなたの知らない研究グレーの世界
榎木英介 編著 / 田中智之 編著
http://chugaiig...あなたの知らない研究グレーの世界<br />榎木英介 編著 / 田中智之 編著<br />http://chugaiigaku.jp/item/detail.php?id=4362<br /><br />>健全な研究活動とQRP、不正は地続きである?!<br />>研究不正の事件が起きるたびに多くの方がこう思うはずです.「とんでもない極悪人がいた」と.はたしてそれは真実でしょうか? 本書では「研究不正ではないけれども好ましくない行為(研究グレー)」に焦点を当てています.「自分が犯罪なんか起こすはずがない」と思っていても,研究グレーの心配がまったくない方はどのくらいいるでしょうか.研究不正につながっている研究グレーを犯す(または巻き込まれる)可能性は誰にでもあります.本書で紹介されている多くの研究グレーの事例を知ることは,その可能性を大きく減らし,適正な研究行為を見つめ直すきっかけになるはずです.<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-44675322661913805432021-04-07T15:15:21.376+09:002021-04-07T15:15:21.376+09:002歳で「南無仏」と唱えた聖徳太子…没後1400年目で初公開
2021/04/07 06:37
世...2歳で「南無仏」と唱えた聖徳太子…没後1400年目で初公開<br />2021/04/07 06:37<br /><br /> 世界遺産・平等院(京都府宇治市)で6日、ミュージアム鳳翔館の開館20周年を記念した特別展が始まった。収蔵品が展示され、没後1400年目となる聖徳太子の幼少期の像なども初公開された。7月7日まで。<br /><br /> 「南無仏太子像」は平等院塔頭たっちゅうの最勝院に安置され、普段は非公開。聖徳太子が2歳の春、東を向いて手を合わせ「南無仏」と唱えた説話上の姿を表している。<br />https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210407-OYT1T50093/<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-71782986078813864552021-04-04T12:03:40.788+09:002021-04-04T12:03:40.788+09:00聖徳太子 没後1400年の「御遠忌」 世界遺産 法隆寺で特別法要
2021年4月4日 10時45分
...聖徳太子 没後1400年の「御遠忌」 世界遺産 法隆寺で特別法要<br />2021年4月4日 10時45分<br /><br />ことしは聖徳太子が亡くなって1400年にあたるとされています。世界遺産の法隆寺では3日から聖徳太子の遺徳をしのぶ特別法要が始まりました。<br /><br />ことしは、聖徳太子の没後1400年の「御遠忌」(ごおんき)とされ、奈良県斑鳩町の世界遺産、法隆寺では聖徳太子の遺徳をしのぶ特別法要が、3日から3日間行われます。<br /><br />初日の3日は、金堂や五重塔がある西院伽藍(さいいんがらん)で法要が営まれ、県内外の寺社の関係者など450人余りが参列しました。<br /><br />法要では鮮やかな衣装をまとった4人の子どもたちが、極楽にいるとされる鳥にふんし、雅楽に合わせて華麗な舞を奉納しました。<br />そのあと、法隆寺の古谷正覚住職が、聖徳太子の事績をたたえる「表白」(ひょうびゃく)を読み上げ、遺徳をしのびました。<br /><br />最後に、僧侶が経を唱えるなか、参列者は会場の中心に設けられた焼香台で次々に焼香を行いました。<br /><br />法要を見学した愛媛県の70代の女性は「勇壮な舞や雅楽が印象に残りました。連綿と続く歴史を感じ記念すべき1日になりました」と話していました。<br /><br />法隆寺の特別法要は5日まで行われます。<br />https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210404/k10012955191000.html<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-75611868579487315242020-12-06T13:24:21.753+09:002020-12-06T13:24:21.753+09:00[あすへの考]【江戸期の偽文書が「史実」に】耳なじみの良い歴史の誘惑…大阪大谷大准教授・馬部隆弘氏4...[あすへの考]【江戸期の偽文書が「史実」に】耳なじみの良い歴史の誘惑…大阪大谷大准教授・馬部隆弘氏44<br />2020/12/06 05:00<br /><br /> 歴史学者の馬部隆弘・大阪大谷大准教授(44)が今年刊行した『椿井文書つばいもんじょ―日本最大級の偽文書ぎもんじょ』(中公新書)は、江戸時代の偽文書が史料として活用され、現代にも影響を与えている実情を世に問うた。「作られた歴史」が「史実」となり、正されない理由は何なのか。フェイクニュースと呼ばれる偽情報がはびこる今、立ち止まって考えたい。(文化部 多可政史)<br /><br /><br />「文章に日本書紀など実在の史書の内容も盛り込み、信憑(しんぴょう)性を高めるのが常套(じょうとう)手段。筆跡や紙のサイズにも特徴があります。椿井文書の研究を進めるうち、椿井の意図や主張が手に取るように分かるようになりました」(大阪府富田林市の大阪大谷大で。写真の椿井文書はいずれも同大図書館所蔵)=鈴木竜三撮影<br /><br />ばべ・たかひろ 1976年生まれ。熊本大卒。大阪大大学院修了。枚方市教育委員会、京都府長岡京市教育委員会などを経て2018年から現職。専門は日本中世史・近世史。主な著書に『戦国期細川権力の研究』、『由緒・偽文書と地域社会』など。<br /><br /><br /> 偽文書とは「ある目的を持って偽作された古文書」を指します。例えば江戸時代の甲斐(山梨県)では、戦国大名・武田信玄関連の偽文書がたくさん作られました。有力農民が信玄とのつながりを強調し、家格を高めようとする目的があったのです。<br /><br /><br /> 庶民がある程度豊かになって生活に余裕ができ、歴史に関心を持つようになった近世後期、これら偽文書の需要はピークに達しました。「椿井文書」もこうした時代の中、生み出された偽文書です。<br /><br /> ◇<br /><br /> 一例を挙げます。江戸時代に、現在の大阪府枚方市にある「津田山」という山の支配権を巡り、津田村と穂谷村の2村が争っていました。津田村はゆかりの武士の津田氏の城が中世にあったため、津田山は自分たちのものだと主張。一方、穂谷村は朝廷に氷を供給する「氷室ひむろ」が古代に作られた場所で、より古くから朝廷と結びつきが深い自分たちこそ地域の中心的な存在だと反論したのです。<br /><br /> この穂谷村の主張に沿った古文書が、椿井政隆による偽文書であると判明しています。椿井は、利権が絡んだ村同士の争いの場にしばしば登場し、地元の寺社や有力者の求めに応じて論争を有利に導く偽文書を手がけていました。<br /><br /> 歴史学では、複数の情報源から正しい事実を見抜くことが重要です。古文書から、史実と、間違った情報を取捨選択することを「史料批判」と言います。どのような古文書であっても、史料批判の姿勢が欠かせないはずなのですが、椿井文書の場合は、それがなおざりにされてきました。<br /><br /> 研究を重ねることで特有のパターンもわかってきました。現在の滋賀県や京都府など、近畿一円で見つかっていますが、山間部の農村に多く、都市部にはあまりみられません。偽作の発覚を防ぐため、知識人層の厚い都市部を避ける狙いがあったと推測されます。一方、実際に存在しない年号が書かれたり、家系図で「俊秋」の父を「俊夏」、その父を「俊春」とするなど、ユーモアあふれる人名を創作したり……。<br /><br /> 椿井は、万が一偽文書とばれた際も「戯れで作った」と言い逃れできるよう、あえて完璧に作らなかった節があります。今では文書偽造にあたる行為ですが、椿井にとってはこんな史料があるといいなという需要に合わせ、足りない部分を埋めてあげたという感覚で、悪いことをしている意識はあまりなかったのでしょう。<br /><br />市町村史に掲載。行政のお墨付きがあると、撤回は困難<br /><br /> 人を本気でだまそうとしていたわけではない椿井文書に、現代人がだまされているのです。多くの研究者によって正式な古文書として活用され、自治体が編纂へんさんした市町村史にも掲載されました。<br /><br /> 現在にも影響を与えてきた例として「王仁わに墳廟ふんびょう来朝紀」があります。王仁は4世紀に朝鮮半島の百済から訪れ、「論語」を伝えたとされる知識人。枚方市には王仁のものと伝わる墓がありますが、古墳時代にはありえない自然石を使った簡素な造りで、江戸時代にも本当に王仁の墓か疑う声がありました。そうした中、椿井は「来朝紀」で王仁がこの地に葬られた経緯を解説。同書の記述も根拠の一つとして、大阪府の指定史跡になっている「伝王仁墓」は、韓国の修学旅行生も訪れる、海外交流の象徴となってきました。<br /><br /> ほかにも、神社の由緒書や地域の歴史を伝える説明板に椿井文書が引用されているケースは枚挙に暇いとまがありません。椿井文書の問題点を指摘することは、自治体や郷土史家が構築してきた地域の歴史を否定することにつながり、反感を買う恐れがあります。<br /><br /> こうした軋轢あつれきと労力を避けたい研究者は、偽文書の存在に気づいても黙殺する消極的な対応を取らざるを得なかったのです。このため、椿井文書は多方面で活用されました。近年は史跡や文化財を観光に活用することが奨励され、分かりやすいストーリーも求められています。「信じたい」人の声に押され、間違いを正す人の声が通らず、後戻りができなくなります。特に行政のお墨付きがあると、白紙撤回することは困難となるのです。<br /><br />歴史学に欠かせぬ「史料批判」。フェイク情報は学びになり得ない<br /><br /> 僕自身、元々は戦国時代の武家権力の研究が専門で、偽史に興味はありませんでした。ただ、行政機関が偽文書にお墨付きを与え、まちおこし、さらには子供たちの教育材料として偽史が使われてしまう現状は、健全と言えるでしょうか。ウソだと分かりつつも、子供たちが関心を持ってくれれば良いという声も耳にしましたが、「フェイク」の情報は決して学びの対象になり得ないと思います。<br /><br /> 偽文書に引っかからないための体制作りについて、歴史学全体で考える必要性も痛感しています。<br /><br /> 具体的にどうすれば良いか。まず、各自治体に古文書が読める専門職員を最低1人、置くことが大事です。僕も枚方市に勤めていた時、自治会報に掲載される歴史の記述のチェックなどをしていましたが、市民が疑問に思った際、正しい知識を聞くことのできる存在がいれば、地域史に関心を持つ人も増えるはずです。<br /><br /> 市民の質問に答えるには古代・中世・近世・近現代と幅広い歴史の素養が必要です。研究が細分化され、椿井文書が対象とする古代・中世の研究者と椿井が活動した近世の研究者の交流が乏しかった点も椿井文書の問題が長年放置された背景にありました。歴史学の成果を社会に還元するには専門分野だけでなく、様々な分野に対応できる“遊撃手”的な研究者の育成も求められるでしょう。<br /><br /> 一方、後世に正しい歴史を残すためにも史料を保存する「公文書館」の設置が急務です。公文書館法には国や自治体が公文書を守る責務について明記していますが、実際に公文書館を設置している地域は限られます。歴史を知る上での共有財産である公文書を守る意識が低いと、貴重な史料がインターネットオークションなどで売られてしまうことにもつながります。市民が正しい歴史に触れ、偽の歴史を見抜くリテラシーを高める場としても、公文書館は重要です。<br /><br /> ◇<br /><br /> 「歴史に学ぶ」という言葉がありますが、自分たちにとって耳なじみの良い歴史だけを学ぼうとする姿勢は好ましくありません。椿井文書にしても、なぜ見過ごされてきたかという点を掘り下げることは、歴史学の負の側面と向き合わざるを得ない難しい問題です。一方、「かくあってほしい」という人々の願いに沿って作られた文書は、江戸時代の人々の精神世界を知る格好の材料になり得ます。<br /><br /> 椿井文書の問題は、歴史学にまつわる様々な課題を浮き彫りにしています。いわば、歴史学の問題点を映し出す「鏡」です。そこに映し出された、これまでの問題点を踏まえると、たとえ面倒でも、世間に広まっている誤った歴史を放置するのではなく、逐一正していくことも、歴史学者の重要な役割なのではないかと考えています。<br /><br />メモ…椿井文書は江戸時代の国学者・椿井政隆(1770~1837年)が作成し、近畿一円に流布した偽文書の総称。馬部さんによると、椿井文書には織田信長の印判状や興福寺(奈良県)の末寺リストなどもあり、その数は数百点にも上るとされる。大阪大谷大(大阪府富田林市)では昨年、椿井文書約60点を購入し、今年報告書を刊行した。<br />https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201205-OYT1T50274/<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-25164757706544488652020-10-14T16:17:32.132+09:002020-10-14T16:17:32.132+09:00聖徳太子の一族、焼き打ちされた痕跡…法隆寺の資料倉庫で発見
2020/10/14 14:05
約8...聖徳太子の一族、焼き打ちされた痕跡…法隆寺の資料倉庫で発見<br />2020/10/14 14:05<br /><br />約80年ぶりに見つかった斑鳩宮の壁土の破片(12日、奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで)=前田尚紀撮影<br /><br /> 奈良県斑鳩町で、聖徳太子が造営した斑鳩宮いかるがのみやの壁土の破片が約80年ぶりに見つかった。戦前に発掘されたが、その後所在不明になっていた。破片には、643年に焼き打ちされた際についたとみられる痕跡があり、研究者は「古代史の大事件を裏付ける貴重な資料」としている。<br /><br /> 斑鳩宮は601年から聖徳太子が造営し、暮らした宮殿。聖徳太子の死後の643年、子の山背大兄王やましろのおおえのおうと皇位継承を巡って対立した蘇我入鹿が焼き払い、山背大兄王ら一族は自害したとされる。<br /><br /> 町教委によると、法隆寺の「昭和の大改修」に伴い、1939年に東院伽藍がらんにある伝法堂で発掘調査が行われ、斑鳩宮とみられる柱跡が出土。国が48年にまとめた発掘報告書には、「炭や焼けた壁土片多量を発見」と書かれていたが、戦中の混乱もあって壁土の所在がわからなくなっていた。<br /><br /> 来年が聖徳太子没後1400年目にあたることから、町教委が報告書に書かれた壁土の所在を捜したところ、今年7月、法隆寺の資料倉庫で「伝法堂出土壁土」と書かれた木箱(縦67センチ、横30センチ、深さ15センチ)が見つかった。中には壁土約30片が入っており、最も大きなものは縦30センチ、横16センチ、厚さ10センチ。表面が焼かれて赤褐色などに変色していることから、町教委は焼失した斑鳩宮の壁土の可能性が高いと判断した。<br /><br /> 壁土は、17日から斑鳩文化財センターで開く特別展「聖徳太子の足跡―斑鳩宮と斑鳩寺」で初公開される。<br /><br /> 清水昭博・帝塚山大教授(歴史考古学)の話「日本の宮殿建築の部材として最古のものと考えられ、実物が確認された意義は大きい。今後の調査で壁や建物の構造などの解明が期待される」<br />https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201014-OYT1T50180/<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-36796020677740910892018-05-06T11:37:12.652+09:002018-05-06T11:37:12.652+09:00現実のところ、「ウソ発見器」よりも「ホント発見器」のほうがどんだけ有用か…
現実のところ、「ウソ発見器」よりも「ホント発見器」のほうがどんだけ有用か…<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-70616428388207810902018-05-06T11:35:56.036+09:002018-05-06T11:35:56.036+09:00科学欺術信仰奇行だな。
科学欺術信仰奇行だな。<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-63944388534267754292018-05-06T11:35:04.810+09:002018-05-06T11:35:04.810+09:00「嘘発見器は嘘をつくか - J-Stage - 科学技術振興機構」(笑)
https://www.g...「嘘発見器は嘘をつくか - J-Stage - 科学技術振興機構」(笑)<br />https://www.google.co.jp/search?q=%E5%98%98%E7%99%BA%E8%A6%8B%E5%99%A8+%E4%BF%A1%E6%86%91%E6%80%A7<br /><br />ばかばかしい研究ごっこやってんなあ…<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-47645474768683257812018-05-06T11:32:44.539+09:002018-05-06T11:32:44.539+09:00警官にうそ発見器、手がかりなし…署内現金盗難
2018年5月6日9時18分
広島県警広島中央署(...警官にうそ発見器、手がかりなし…署内現金盗難<br />2018年5月6日9時18分<br /><br /> 広島県警広島中央署(広島市中区)で昨年、金庫に保管していた詐欺事件の証拠品の現金約8500万円が盗まれた事件で、現金を保管中の3か月間、一度も金額を確認していなかったことが県警への取材でわかった。<br /><br /> 事件は発覚から8日で1年。内部犯行とみられるが、ずさんな管理が原因で犯行時期を絞り込めず、警察官をうそ発見器にかける異例の捜査でも有力な手がかりは浮かんでいない。<br /><br /> 県警は昨年2月、詐欺事件の関係先から計約9000万円を押収し、同署1階の会計課にある金庫に、小分けにして保管。同5月8日、会計課長(当時)らが金庫の鍵を入れた机の引き出しにこじ開けたような跡があるのに気づき、金庫を確認したところ、8572万円が盗まれていることが発覚した。<br /><br /> 会計課は、警察官が常時勤務する1階の奥にあり、休日や夜間は施錠されている。会計課長らは同月2日の時点で「引き出しに異常はなかった」と説明しており、県警は当初、内部の人物が同月3~7日の大型連休中に盗んだとみていた。<br /><br /> しかし、証拠品保管の責任者だった署幹部が昨年3月下旬に異動になった際、後任に現金の場所を教えただけで、金額を確認していなかったことが判明。犯行時期が絞り込めなくなった。内部規定は証拠品の点検や引き継ぎを確実に行うと定めるが、金額の確認までは明記していない。幹部は処分されておらず、捜査員は「紛失もありうるので、金額は当然確認するべきだ。ずさんと言わざるを得ない」とする。<br /><br /> 県警は、警察官やOBら数百人から事情聴取。金融機関などに1万件以上の捜査依頼を行い、口座を確認して借金の有無や不審な出入金を調べた。多額の借金がある複数人が浮上し、うそ発見器にかけたが、有力情報は得られていない。<br /><br /> 県警幹部は「警察の威信にかけて早期解決を目指したが、いつ盗まれたのかもわからない。市民から厳しい批判もあり、粘り強く捜査するしかない」と話す。<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180506-118-OYT1T50006<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-59603829503783854542018-04-29T22:29:29.623+09:002018-04-29T22:29:29.623+09:00「雪印」…
「雪印 偽装」
https://www.google.co.jp/search?q=%...「雪印」…<br /><br />「雪印 偽装」<br />https://www.google.co.jp/search?q=%E9%9B%AA%E5%8D%B0+%E5%81%BD%E8%A3%85<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-50335450789531808082018-04-29T22:26:58.052+09:002018-04-29T22:26:58.052+09:00「雪印種苗」長年にわたり種の品種偽装 発覚後の隠蔽も
4月27日 21時54分
雪印メグミルクの子...「雪印種苗」長年にわたり種の品種偽装 発覚後の隠蔽も<br />4月27日 21時54分<br /><br />雪印メグミルクの子会社で、作物の種や飼料などを販売している「雪印種苗」は、長年にわたって牧草などの種の品種偽装を重ね、その事実を隠蔽していたことを明らかにしました。問題の責任を取って赤石社長が辞任し、役員が27日夜、記者会見を開き、謝罪しました。<br /><br />偽装を行っていたのは、雪印メグミルクの子会社で、札幌市に本社がある「雪印種苗」です。<br /><br />雪印種苗と雪印メグミルクは27日夜、札幌市内で記者会見を開き、経緯を説明しました。<br /><br />それによりますと、雪印種苗は牧草用の種子などを販売する際に、不足分を補ったり在庫処理をしたりする目的で別の品種に偽装したり、ほかの品種を混ぜたりして販売していました。<br /><br />こうした偽装は、平成14年に別のグループ会社で牛肉の偽装が発覚するまで、長年にわたって組織的に行われていたということです。<br /><br />さらに平成14年以降も、雪印種苗は偽装を公表せずに隠蔽していたうえ、その後も少なくとも2つの品種で合わせて4件の偽装があり、ほかにも偽装かどうか判断できないケースも多数あったということです。<br /><br />雪印種苗はこうした偽装について、平成26年に内部関係者と見られる人からの告発などを受けて社内調査をしましたが、その際、一部の役員らが証拠隠滅や事実と異なる話をするなど、隠蔽も行われていたということです。<br /><br />笠松宏一副社長は会見で「多大なるご迷惑とご心配をおかけしました。今回のことを真摯(しんし)に受け止め、再発防止に全員で取り組んでまいります」と謝罪したうえで、一連の偽装や隠蔽について「会社の売り上げや利益につながるような誤った判断や、情報を開示しないという風土が根底にあり、『隠蔽偽装』という形になったのではないかと考えている」と述べました。<br /><br />雪印種苗は品種を偽装した以外にも、牧草や飼料、作物の種の品種名を表示しないまま販売するなどの行為も行っていたということです。<br /><br />問題の責任を取って、雪印種苗の赤石真人社長が27日に辞任し、親会社の雪印メグミルクの社長など役員も報酬の減額を予定しているということです。<br />https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180427/k10011421121000.html<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-47916624986918906872017-07-11T14:50:40.963+09:002017-07-11T14:50:40.963+09:00[編集委員が迫る]日中戦争 誤認と不信で拡大…歴史家 秦郁彦氏 84
2017年7月11日5時0分
...[編集委員が迫る]日中戦争 誤認と不信で拡大…歴史家 秦郁彦氏 84<br />2017年7月11日5時0分<br /><br />はた・いくひこ 日中戦争研究の第一人者。大蔵省勤務を経て、米プリンストン大大学院客員教授、拓殖大、千葉大、日大教授などを歴任。著書に『日中戦争史』『盧溝橋事件の研究』など。山岸直子撮影<br /><br /> 日中戦争の発火点になった盧溝橋ろこうきょう事件(1937年7月7日)から80年。泥沼化した戦況から抜け出せないまま、中国からの撤兵を拒否した日本は、米国との対立を深め、4年後、対米英戦に突入する。そして敗北した。日中戦争とは何だったのか、歴史家の秦郁彦さんに聞いた。(聞き手 笹森春樹)<br /><br />盧溝橋80年 「偶発」前提 中国が史観変更<br /><br /> ――盧溝橋事件をどうとらえていますか。<br /><br /> 「日本側はともあれ、中国側のイメージが変わってきた点に注目したい。50年目にあたる1986年に、盧溝橋の現場で戦った中国軍の大隊長(金振中)の証言が公開されました。それまで中国側は、国民党政権の史観を継承し、日本軍の計画的陰謀と主張してきたのですが、それが否定され、中国軍兵士による偶発的発砲であることが明らかになりました。つまり、局地の小紛争として収拾できたのに、相互の誤認と不信によって、全面戦争へ拡大してしまったのです」<br /><br /> ――盧溝橋事件の実情が知れると、五分五分の責任論になりかねません。それ故に、中国としては、公定史観を見直す政治的必要性が生じたのでは。<br /><br /> 「そう思います。だから私は、80周年に、新しい公定史観を打ち出すかなと注視していました。すると、一昨年の政治局会議で習近平主席が提議し、今年1月発行の国定教科書の記述で、戦争の呼称をそれまでの『8年抗戦』から『14年抗戦』に改めたのです」<br /><br /> 「つまり、抗日戦争の起点を、37年ではなく、教科書ではほとんど無視してきた31年の満州事変(9・18事変)に変えたわけです。中国共産党が国民党(台湾)史観の継承から脱し、自前の国定史観を確立しようとしていることが読み取れます」<br /><br /> ――日本でも、満州事変から終戦までを15年戦争と呼ぶ人が少なくありませんね。<br /><br /> 「もう10年以上前になりますが、15年戦争論者の一人が中国の学会で、中国も同調するよう説いたら、賛成者が多かったと、うれしそうに語っていました。ただし、正確には13年11か月なので、中国の研究者は15年ではなく、14年戦争と言い換えたのでしょう」<br /><br /> 「ともあれ、満州事変は、関東軍による自作自演の鉄道爆破から始まったことがよく知られており、弁護の余地がないだけに、中国が日本を責める新たなカードにするかもしれません」<br /><br /> ――天皇陛下が戦後70年の2015年の年頭に際し、「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学ぶことが大切」と述べられていますね。<br /><br /> 「満州事変への関心が薄れかけていただけに、私も陛下のさりげない感想に接して、はっとしました。関連して想起したのは、昭和天皇の明察です。盧溝橋事件の10日前、一触即発の日中関係を憂慮し、中国国民政府へ思いきった譲歩をするため、前例のない御前会議を開こうとした故事のことです」<br /><br /> 「このときの焦点は、蒋介石を中心とする中国の統一を認め、華北分離工作を停止することにありました。昭和天皇は、衆望を担って首相に就いたばかりの近衛文麿、華北工作の中止を唱えていた外相の広田弘毅、参謀本部作戦部長の石原莞爾かんじらの知略をまとめ上げれば、避戦の見込みがあるかもしれない、と判断したのでしょう」<br /><br /> 「しかし、内大臣の湯浅倉平、元老の西園寺公望まで伝えた段階で、盧溝橋事件が発生し、不発に終わります。日中戦争を回避する最後の機会を逃したのは惜しまれますが、昭和天皇の勘の良さには感銘します」<br /><br /> ――問題は満州事変の成功体験に味をしめ、華北を第二の満州国にともくろんだ対中強硬派の策動ですね。<br /><br /> 「現場の支那駐屯軍は不拡大方針ですが、関東軍や中央の強硬分子は、事あれかしの一撃論に傾きました。参謀本部作戦課長の武藤章は、事件の第一報に『面白いことが始まったね』と反応し、上司で不拡大論の石原を突き上げ、3個師団の派兵を承知させます。近衛首相も広田外相も優柔不断。石原が『南京に飛んで蒋介石と話し合ってくれ』と要望しても、動きませんでした」<br /><br /> 「蒋介石も、日本政府や軍部への不信感を強め、ドイツの和平仲介を断り、徹底抗戦を決意します」<br /><br /> 「日中ともに全面戦争を望まないままに、ずるずると泥沼の長期戦にはまり込みました。宣戦布告もなかった支那事変は、1941年に対米英の大東亜戦争に吸収され、支戦場ながら、終戦まで100万の日本軍がくぎ付けになります」<br /><br /> ――図らずも国民政府は、第2次大戦の戦勝国に列しますが、直後から、国民政府と共産党の内戦が再発。49年に中華人民共和国が成立し、共産党が漁夫の利を得た形になりますね。<br /><br /> 「毛沢東主席は、訪中した日本の政治家や元軍人が、謝罪を口にすると、『日本軍が国民政府軍と戦って撃破してくれたお陰です。むしろ、感謝したい』と答えています。共産党にとっては国民政府打倒が最優先でしたから、毛発言は本音でしょう」<br /><br /> ――これからの日中関係についての展望は。<br /><br /> 「文化大革命後の中国は、混迷と停滞が半永久的に続くのではないかと思わせましたが、その予想は外れました。90年代以降の中国は、高度成長路線をひた走り、今や米国と並ぶ世界のスーパーパワー(超大国)になりました。この奇跡的な現実を、先入観抜きに評価すべきでしょう。体制は違いますが、自己改革による成熟に期待しつつ、つかず離れずのクールな友好関係を維持したいものです」<br /><br /> ◆盧溝橋事件 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に、中国第29軍が射撃を加えたのをきっかけとした武力衝突。11日に現地で停戦が成立したが、近衛内閣は同日、内地3個師団の華北派兵を決定。日本軍は7月末、北京を占領した。翌8月、戦火は上海に飛び火し、日中両軍の全面戦争に拡大した。<br /><br /> ◆華北分離工作 満州事変の成功体験を経た日本陸軍は、次いで河北省など中国の華北・内蒙古の5省を、蒋介石の国民政府から分離し、親日的な地方政権を樹立しようと画策。1935年、冀東きとう(冀は河北省の別称)防共自治政府を誕生させた。<br /><br />拡大中国 旧陸軍を想起<br /><br /> 15年戦争と呼ぶにしろ、14年戦争と呼ぶにしろ、満州事変から昭和の戦争は始まった。満州事変から盧溝橋事件までの間、日本陸軍が進めた華北分離工作は、華北をも奪おうとしている、との中国の警戒心を高めた。盧溝橋事件が偶発的に起きたにせよ、起こるべくして起きたといえよう。<br /><br /> 「弱い支那」は、一撃を加えれば屈服するはずだという一撃論といい、日本は中国をなめていた。それから80年後の中国は、強大な国家に変貌へんぼうし、こわもての相貌すら見せる。強引な海洋進出を見ると、昔の陸軍を見る気がする。(笹森)<br /><br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170710-118-OYTPT50410<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-82067824474388163442017-06-26T06:40:28.449+09:002017-06-26T06:40:28.449+09:00「日本書紀 創作」
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97...「日本書紀 創作」<br />https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80+%E5%89%B5%E4%BD%9C<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-91150058262731327932017-06-26T06:39:19.055+09:002017-06-26T06:39:19.055+09:00『日本書紀』は、ほんとうに「史実」のみで構成編纂されているのかな?
『日本書紀』は、ほんとうに「史実」のみで構成編纂されているのかな?<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-20793704507470474062017-06-26T06:37:26.070+09:002017-06-26T06:37:26.070+09:00聖徳太子 外来文化の受容者
2017年6月21日5時0分
◇仏教を政策利用、没後に神格化
◇東野...聖徳太子 外来文化の受容者<br />2017年6月21日5時0分<br /><br />◇仏教を政策利用、没後に神格化<br /><br />◇東野治之・奈良大名誉教授 「聖徳」の呼称残すべきだ<br /><br /> 聖徳太子(574~622年)ほど、高い知名度の一方で人物像の変遷が激しい人物は珍しい。近年の研究から見える実像を、古代史家の東野治之とうのはるゆき・奈良大名誉教授に聞いた。<br /><br /> 文部科学省は今春、中学校の学習指導要領改定案で「聖徳太子」の呼称を「厩戸王うまやどのおう(聖徳太子)」に改めようとして不評を買い、撤回した。東野さんによると、「聖徳太子」の呼称は、奈良時代半ばの漢詩集「懐風藻かいふうそう」に初めて現れるが、「聖徳」という呼び方は、没後ほどない頃からされていたという。<br /><br /> 「亡くなって間もなく崇拝が起きていた。だからこそ、『日本書紀』(720年完成)で既に神格化されている」。一度に10人の話を聞いた、という記述もその表れだ。「推古天皇から政治をすべて任されていた」というイメージも大げさで、太子が単独で行ったと考えられる施策は、十七条憲法の立案と仏典の講義・注釈に限られるという。推古天皇や蘇我そがの馬子うまこに政策を進言する「ブレーンのような役割だった」と東野さんは話す。<br /><br /> 「聖徳」と称されるほど優れていたのは、「中国からの先端文化への理解力」だという。「それを生かして仏典に注釈を施し、高度な漢籍の能力が必要な外交文書も作った」。仏教については、必ずしも出家を必要としない形で受け入れ、「社会をまとめる手段として政策的にうまく利用した」とみる。<br /><br /> 日本書紀は「皇太子」になったと記すが、制度として「皇太子」ができるのは、689年の飛鳥あすか浄御原令きよみはらりょうによってとされ、推古朝にはまだない。史料には「王命」「皇子命」と記され、「ミコノミコト」と呼ばれていたようだ。同様に「ミコノミコト」と呼ばれた人物は、後に天智天皇となる中大兄なかのおおえ皇子や天武天皇の後継とされながら早世した草壁くさかべ皇子がいる。「次の天皇になりうる人物という意味の称号だったのだろう」という。<br /><br /> 太子像は時代と共に変わり続けた。平安時代以降、太子を観音の化身として神秘化する太子信仰が盛んになる。江戸時代には、仏教を重視したことから儒学者や国学者に批判され、明治に再評価される。1930年に紙幣のデザインに採用されたのは「皇太子の時に摂政になった昭和天皇とイメージを重ねる狙いだったのだろう」とみる。<br /><br /> 東野さんは4月に刊行した『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書)で、太子の人物像を〈行動的ではないが頭は冴さえ、自分のポリシーをもって外来文化を取り入れる、ある意味過激な知識人〉と総括した。「古代から『聖徳』と呼ばれてきたのには、それなりの理由がある。『聖徳太子』の呼称は残すべきだ」と強調する。(文化部 清岡央)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170620-118-OYTPT50355<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-14509179315869745592017-04-26T17:29:11.213+09:002017-04-26T17:29:11.213+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<31> 最終回 歴史家に冬の時代が来る
2017年4月26日...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<31> 最終回 歴史家に冬の時代が来る<br />2017年4月26日5時0分<br /><br /> かつては危険な職業とされてきた歴史家たちは、日本では太平洋戦争における多大の犠牲と引き換えに、安全で居心地の良い境遇を手に入れたかに見えます。<br /><br /> 私もその恩恵に浴した一人に違いありません。しかし、歴史と向き合う姿勢は、各人の自律に委ねられるから、責任も生じます。<br /><br /> 私が自身に課した信条が幾つかあります。特定のイデオロギー活動にコミットしない▽フィクションが無意識のうちに刷り込まれないよう、歴史小説やテレビの歴史ドラマはなるべく見ない▽偽フェイクニュースや詐話師に振り回されない知恵と技法を身につける▽陰謀史観や文明(史)論へ逃げ込まない、などです。そこで、謎解きと並んでトリック破りの眼力も必要になります。<br /><br /> 例えば、松本清張の『日本の黒い霧』。轢死れきしした下山国鉄総裁の着衣から採取された暗緑色の粉末から、作者は米軍戦車の色を連想します。次々に連想を重ね、犯人は米軍の謀略機関と結論するのですが、暗緑色から米軍戦車への不自然な飛躍に読者は気がつきません。ちなみに現在では、正攻法で挑んだ佐藤一『下山事件全研究』の自殺説がほぼ定着しています。<br /><br /> トリックで連想するのは、トランプ米大統領の言動です。それに触発されたのか、「ポスト真実」の現象に関心が高まっています。客観的事実が軽視され、思いつきや思いこみで形成されたイメージで、国際世論が動く状況を指します。<br /><br /> 和と律義を身上とするわが国が、この「外患」をはね返せる見込みは薄そうです。<br /><br /> 日本の歴史家は、より深刻な「内憂」にも直面しています。それは個人情報保護の名目で、必要な公的情報が利用できない状況が進行していることです。<br /><br /> 大きな事故や事件でも、当事者の氏名、学歴、職業、家庭などの基本情報が伏せられています。映像にはほぼ全員にボカシが入り、捜査員よりもブルーシートを掲げて現場周辺を隠す警察官のほうが多いくらいです。私は現代の日本を「黒塗りとブルーシートの時代」と呼ぶことにしています。<br /><br /> 法的根拠は、情報公開法第5条の「氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別」できる情報は不開示という規定です。<br /><br /> しかも、この規定は歴史的公文書にも適用されるので、伊藤博文や北条政子の名前も黒塗りされてしまいます。数年前に国立公文書館が公開したBC級戦犯(約5000人)の裁判記録は、被告の氏名が黒塗りされています。苦情を言うと、「米国へ見に行きなさい」と突き放されました。<br /><br /> そのうち、人名辞典は作りにくくなり、私は「生没年不詳。昭和から平成にかけ活動した歴史学者」で片づけられるかもしれません。<br /><br /> 往年のCMになぞらえれば、歴史家は「わたし調べる人(作る人)、あなた解釈する人(食べる人)」に二分されます。どうやら私の歴史家人生は冬の時代を迎え、「調べられない人」で終わる予感がします。<br /><br /> ◇<br /><br /> この連載は、編集委員の笹森春樹が担当しました。コピーサービス(有料)は読者センター((電)03・3246・2323)へ。27日から「音楽は愛 湯川れい子」が始まります。<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170425-118-OYTPT50361<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-84094302449313472017-04-25T22:15:47.689+09:002017-04-25T22:15:47.689+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<30>慰安婦問題の春夏秋冬
2017年4月25日5時0分
...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<30>慰安婦問題の春夏秋冬<br />2017年4月25日5時0分<br /><br /> 図らずも慰安婦問題に私が巻き込まれてから、二十数年の歳月が流れました。<br /><br /> 《1993年8月4日、政府は、慰安婦問題についての河野洋平官房長官談話を発表した。この中で、朝鮮人の慰安婦の「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と認定した》<br /><br /> 河野談話は、韓国と事前調整で譲歩した産物なんですね。日本軍が強制連行したとは書いてないが、そう読めなくもない玉虫色の表現です。実際に河野氏は記者会見で、強制連行を認めるのかと聞かれ、そうですと答えている。<br /><br /> 談話発表の前夜、慰安婦問題を担当していた内閣外政審議室の谷野作太郎室長から、私の自宅にファクスが届きました。談話の文案について感想を、とのことでした。一読した後、実害が少しでも減るように、「総じて」を「時として」などに修正されたい、と要望しましたが、採用されませんでした。<br /><br /> 95年7月、元慰安婦たちに「償い金」を給付する半官半民の「アジア女性基金」が設立され、私は事実の究明に当たる資料委員会の委員を引き受けます。<br /><br /> ところが、慰安婦の総数は約2万人、最多は日本人で、朝鮮人は2割という私の結論は、和田春樹委員(東大教授)ら左派のお気に召さず、「東大には研究の自由はあるが、基金にはない」と宣告され、私の論文はボツにされてしまいます。<br /><br /> その頃、国連人権委員会の委託を受けたクマラスワミ女史が来日します。私は彼女に会い、戦時中にソウル(京城)の新聞に載った慰安婦募集の広告と、北ビルマで捕らえられた20人の朝鮮人慰安婦に対する米軍の尋問調書を渡しました。<br /><br /> 前者は強制連行を必要としない証拠で、後者は、慰安婦に外出、廃業、社交の自由があり、軍司令官級の高収入を故郷に送金するなど「性奴隷」とはほど遠い境遇だったことを示しています。<br /><br /> しかし、人権委員会へのクマラスワミ報告(96年2月)には反映されませんでした。吉田清治氏の強制連行体験、「慰安婦をセックス・スレイブ(性奴隷)と呼びかえよう」と説いていた戸塚悦朗弁護士の言い分の方が採用されたからです。<br /><br /> 日本政府の事なかれ主義もあって、強制連行と性奴隷のイメージは、国際社会に広く定着した感があります。韓国ばかりか、世界各地に乱立した慰安婦像は60体を超えるありさまです。<br /><br /> 無力感を味わっていた私は、せめて慰安婦と周辺事情の史的経過を実証的にまとめておきたいと考え、99年に『慰安婦と戦場の性』(新潮社)を刊行します。<br /><br /> 2013年には、内閣官房で対外発信を強化する一環として、拙著の英訳プロジェクトが内定しました。<br /><br /> ところが、新任の内閣広報官から、もし、日本政府の後押しが露見したらまずいとの理由で、ドイツ、英連邦、米国、韓国など諸外国の例を記述した第5章などを訳出の対象から外したいと言われます。私は削除を拒否し、英訳プロジェクトは流れました。何度目かの筆禍体験でした。(編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170424-118-OYTPT50313<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-60376766142651651092017-04-24T22:28:37.189+09:002017-04-24T22:28:37.189+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<29>「吉田証言」の詐話を追う
2017年4月24日5時0分...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<29>「吉田証言」の詐話を追う<br />2017年4月24日5時0分<br /><br /> 1991年12月から92年1月にかけて、私が「ビッグバン(大爆発)」と呼ぶ、慰安婦問題の騒動が発生します。12月、旧日本軍に徴用された韓国人と遺族が、日本に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。この中に元慰安婦3人も加わりました。1月11日には朝日新聞が、朝刊1面トップで、慰安婦の募集に日本軍が関与していたと報じます。<br /><br /> 《記事は、旧日本軍が慰安所の設置や従軍慰安婦の募集に関与していたことを示す文書が明らかになったという内容だった。従軍慰安婦について「主として朝鮮人女性を挺身ていしん隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」との記述もあった》<br /><br /> 記事の根拠となった文書は、吉見義明中央大教授が防衛庁の防衛研究所図書館で発見した、とのこと。私は12月下旬、吉見氏と防衛研究所で偶然会い、近く朝日新聞に出ると聞き、なぜニュースになるのか疑問に思いました。<br /><br /> 1938年に陸軍省が流したこの通達文書は、すでに20年前から公開されていたもので、慰安婦を募集する際、誘拐まがいのことをやっている悪質な業者がいるから、取り締まれという内容です。日本軍の関与には違いないが、良い関与だったからです。<br /><br /> それを、宮沢首相の訪韓(1月16日)という絶妙のタイミングに合わせて掲載したのでしょう。<br /><br /> ほかのマスコミも追随し、強制連行の証拠が見つかったかのような大騒ぎになりました。宮沢首相はソウルでデモ隊に迎えられ、何度も陳謝します。<br /><br /> 強制連行説の根拠になったのが、吉田清治著『私の戦争犯罪』(83年)です。戦時中、労務報国会(労報)下関支部の動員部長だったと称する吉田氏は、済州島で慰安婦を調達せよとの西部軍命令を受け、女性を狩り出したと書いています。<br /><br /> 私は一読して怪しいと感じました。済州島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄。本に載っている命令書も、正規の体裁から外れている。<br /><br /> 私は吉田氏に電話しましたが、話に矛盾が多く、作り話と確信しました。出版社にも電話すると、担当者は「あれは小説ですよ」と言うのです。<br /><br /> 私は彼を典型的な詐話師だと直感し、92年3月、証拠を見つけるため済州島を訪れました。最初に城山浦の貝ボタン工場を訪ねました。本には女子工員を木剣で打ちすえ、かり集めたと書かれています。近くの老人たちに話を聞くと、「そんな話はない。小さな村落だから、何十人も連れて行かれたら大事件だよ」と一様に否定しました。<br /><br /> さらに公立図書館で、地元の済州新聞が吉田本の韓国語版の紹介記事(89年8月14日)を掲載していたことを知りました。慰安婦狩りを裏付ける証言はなく、島民は「デタラメだ」と否定しているとの内容です。<br /><br /> 書いた女性記者を訪ねると、「日本人はなぜこんな作り話を書くのでしょうか」と責められました。<br /><br /> 帰国後、私の済州島での調査を取材した4月30日の産経新聞は、吉田証言を虚偽と断定しました。<br /><br /> (編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170423-118-OYTPT50145<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-33327296532873390182017-04-23T02:23:41.133+09:002017-04-23T02:23:41.133+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<28>資料集作り 楽しい重労働
2017年4月22日5時0分...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<28>資料集作り 楽しい重労働<br />2017年4月22日5時0分<br /><br /> 1980年から拓殖大学、千葉大学、日本大学の三つの大学で教職を歴任しました。授業科目は日本政治外交史と国際政治史です。コマ数は少なく、役職には就きたくない、というのが私の希望でした。調査研究や執筆に時間を取りたかったからです。<br /><br /> 私は資料集をいくつか作りましたが、楽しくはあっても、ひどく時間と手間を取る肉体労働でしたね。『日本陸海軍総合事典』『日本官僚制総合事典』『世界諸国の制度・組織・人事』『日本近現代人物履歴事典』(いずれも東京大学出版会刊)の系列です。<br /><br /> 『日本陸海軍総合事典』は税込み3万6720円と高価ですが、71年の初版以来ペースが落ちずに売れ続けています。顧客になりそうな旧軍人は減っていくばかりなのに、なぜだろうといぶかしく思っています。<br /><br /> この本は、主要陸海軍人1891人の軍歴を中心とする年譜形式の略歴と、主要職務(参謀総長など1800)の歴任者表、主要学校の卒業生一覧、諸名簿、用語の解説などで構成しています。<br /><br /> 情報源は、海軍の場合だと、厚労省が保管する全士官の履歴原本に、本人や遺族への問い合わせで補充しました。陸軍の場合は終戦時に焼いてしまったので、各県庁が保管する兵籍や、恩給局所蔵の履歴資料などから合成しています。<br /><br /> 人名簿の中で関心が高いのは、エリートコースだった陸軍大学校、海軍大学校(甲種)の卒業生全員のリストでしょう。優等生である恩賜の軍刀(陸大)や長剣(海大)の拝受者名も記しています。<br /><br /> これに匹敵するのが高等文官試験(高文)合格者です。『日本官僚制総合事典』に、1894年の第1期から終戦直後の1948年まで約1万人の名簿を収録しています。登載者の感想は、「希少価値を実感した」と喜ぶ人と「そんなに多いのか」とがっかりする人に分かれました。<br /><br /> 意外に苦労させられたのは、死没の日付探し。有名人だと新聞の訃報ふほう欄に載りますが、現役引退後すっかり忘れられ、漏れてしまう例も少なくありません。<br /><br /> 『日本近現代人物履歴事典』は、軍人をのぞく各界の著名人約3000人を収録しましたが、没年月日が不明に終わった人が2人います。阿部定さだ(1905年生まれ)と、KDD事件の板野学(1910年生まれ)です。<br /><br /> 阿部には『阿部定正伝』という分厚い伝記もあるのですが、百方手を尽くしても80年以降の消息はつかめなかった、とのことです。私は学生時代に、浅草の居酒屋で仲居をしていた彼女に会った因縁があります。<br /><br /> この種の資料集を作るには、公的情報の利用が不可欠です。ところが、個人情報保護法(2003年施行)が猛威を振るい、かつて私が利用した公的情報は、ほとんど使えなくなっています。<br /><br /> どうやら私の仕事は、後続が断たれたことによって存在価値が高まるという、皮肉な結果になりそうです。ただし、改版に備え、新聞の死亡記事に目を光らせる日々は、生きている限り続くでしょう。(編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170421-118-OYTPT50372<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-14221294749044823642017-04-20T15:18:39.548+09:002017-04-20T15:18:39.548+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<27>南京事件 犠牲者4万人か
2017年4月20日5時0分...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<27>南京事件 犠牲者4万人か<br />2017年4月20日5時0分<br /><br /> 南京事件は、東京裁判で最も世論にアピールした戦争犯罪でしょう。中支那なかしな方面軍司令官だった松井石根いわね・元大将は、その責任を問われて死刑。南京軍事法廷でも、師団長らが死刑になっています。<br /><br /> 《盧溝橋事件から5か月後の1937年12月、日本軍は、中国国民政府の首都・南京を占領した。その際、多数の敗残兵や捕虜、住民を虐殺したとされる。犠牲者数などで諸説が乱立し、日中間の歴史認識をめぐる争点となっている》<br /><br /> 犠牲者数は、東京裁判でも判断がつきかねたんですね。判決は「20万人以上」とする一方、松井への判定では「10万人以上が殺害された」と、数が割れました。<br /><br /> 日本では、十数万人以上の虐殺があったとする「大虐殺派」、虐殺はなかったと主張する「まぼろし派」、そして中間派に分かれ、今も論争が続いています。<br /><br /> 私は中間派で、犠牲者は最大4万人と見ています。算定の根拠は、日本軍の戦闘詳報。これは功績判定の基準にもなる公式文書です。日本軍は終戦時に大量の文書を焼きましたが、防衛庁が戦史室を設け、『戦史叢書そうしょ』を編さんしたとき、散在していた文書を精力的に集めました。参戦した部隊の半分近くで戦闘詳報が残っています。<br /><br /> 例えば、南京陥落の3日後、難民区で掃討作戦をやったのですが、歩兵第7連隊の戦闘詳報に6670名という数字がある。それは虐殺という受け止め方じゃないんです。「敗残兵の刺射殺」。つまり「戦果」なんですね。<br /><br /> 旧陸軍将校OBでつくる偕行かいこう社も南京事件の解明に取り組みました。私とほぼ同じ資料を使ったんです。でも、数字をやや誇張する習慣があったという理由で、犠牲者数を私の半分に査定したという。<br /><br /> 私は査定はしていません。中国側と議論した時に通用しませんから。それが4万人なんです。<br /><br /> まぼろし派は当初、中国側が言うような大量虐殺はなかったという趣旨で、具体的な数に言及するのを避けていました。虐殺規模に対する観念が当時と今では違うからでしょう。<br /><br /> ところが、その後、世代交代が起き、今はゼロとか、1人とか言う人が多い。<br /><br /> 南京事件について書かれた本や論文、エッセーの数は一千以上と言われ、「南京産業」と呼ぶ人もいるくらいです。しかし、外国人には読まれない。もっぱら国内消費用です。<br /><br /> 中国の南京大虐殺記念館に、30万人という数字が大きく掲げられています。30万人説は、中国政府が公認した数ですから、切り下げる可能性はまずありません。日本の大虐殺派は、中国側との連帯を崩したくないから、10万または20万以上と含みのある算定をしています。<br /><br /> 興味深いのは、「抗敵報」という中国共産軍の機関紙が、1938年4月に4・2万人という数字を報じていたこと。南京事件の直後です。<br /><br /> 北京郊外・盧溝橋の抗日戦争記念館に行ったとき、「抗敵報」のファイルが並んでいて、それを覗のぞいていて偶然見つけました。拙著『南京事件』(中公新書)の増補版(2007年)に紹介しましたが、説得性のある数字かもしれません。<br /><br /> (編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170419-118-OYTPT50326<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-89286066020253943252017-04-19T17:15:07.647+09:002017-04-19T17:15:07.647+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<26>盧溝橋第一発の犯人は
2017年4月19日5時0分
...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<26>盧溝橋第一発の犯人は<br />2017年4月19日5時0分<br /><br /> 1982年5月、北朝鮮訪問の途中、私は1人だけ抜けて、列車で鴨緑江おうりょくこうを渡り、旧満州の中国東北部・瀋陽へ向かいました。近郊の柳条湖、皇姑屯こうことん(張作霖爆死の地)の現場に立ちたいという宿願からです。<br /><br /> ついで北京に飛び、永定河えいていが河畔の盧溝橋を訪ねました。10日間のうちに、昭和史の「三大現場」に立った感激は忘れません。<br /><br /> いわゆる盧溝橋第一発の犯人は誰か? それは学生時代のヒアリング以来、解けぬ謎であり続けました。<br /><br /> 《37年7月7日、盧溝橋で夜間演習中の日本軍・清水中隊に銃弾が飛来した事件が発生。それは45年8月の日本敗戦まで続く日中戦争の発火点となった》<br /><br /> 拙著『日中戦争史』(61年)では、日本軍の私的陰謀説、現場を守っていた中国・第29軍の発砲説、中国共産党の陰謀説など諸説あるものの、いずれも決め手に欠けると書きました。<br /><br /> 事件から半世紀。86年、中国の全国政治協商会議が編さんした『七七事変』に、第29軍の大隊長だった金振中(04~85年)のヒアリング手記が発表されます。そして日本側記録と照合することで、事件の全体像が明らかになってきました。<br /><br /> 事件当日夕方、夜間演習にやってきた清水中隊は、永定河の堤防に約200人の第29軍兵士が壕ごうを掘っている姿を目撃しています。<br /><br /> 演習は、堤防を背にして匍匐ほふく前進する兵に対し、仮想敵が空砲の軽機関銃で応戦する想定でした。その最中、数発の実弾が堤防方向から飛来したので、中隊長が演習を中止し集合ラッパを吹かせると、さらに十数発の射弾しゃだんが飛来しました。<br /><br /> その際、兵1人が一時行方不明になったこともあり、第29軍司令部と日本軍特務機関との交渉に移ります。しかし、中国側は堤防には配兵していないと主張し、逆に日本軍の陰謀だと宣伝しました。こじれた末に全面戦争へ拡大してしまいます。<br /><br /> ところが、金振中は、指揮下の中隊を堤防陣地に配兵し、日本軍が100メートル以内に近づいたら射撃してよいと命じていたと回想していたことが明らかになったのです。ヒアリングしたのは、おそらく若い人で、それが中国側に不利な証言だとの認識がなかったのでしょう。金振中も、つい本音をしゃべった……。<br /><br /> 私は、第一発の犯人は第29軍兵士だったのはほぼ確実と見ますが、乱射乱撃に至らなかった点から、故意性は薄く、偶発に近いと判断しています。<br /><br /> 戦後の日本では中国共産党陰謀説に人気があります。私は96年に『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会)を刊行するにあたり、中国共産党関係の文献を当たり直しました。<br /><br /> その結果、党北方局の劉少奇書記(のち国家主席)ら幹部は、延安の重要会議に呼ばれて不在。事件直後、北京周辺の党員は、エドガー・スノー宅などを中継し安全地帯へ脱出するのに忙しかった事情が分かりました。<br /><br /> どうやら第一発の“犯人”は、堤防に布陣した耿錫訓こうしゃくくん中隊長らしいと私は推定しました。しかし、彼の消息はつかめませんでした。<br /><br /> (編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170418-118-OYTPT50382<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-63963737888335786672017-04-18T16:06:45.515+09:002017-04-18T16:06:45.515+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<25>金日成全盛期の北朝鮮へ
2017年4月18日5時0分
...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<25>金日成全盛期の北朝鮮へ<br />2017年4月18日5時0分<br /><br /> 1982年4月末、日本国際政治学会の北朝鮮訪問団(関寛治団長)の一員として、2週間の予定で訪朝します。<br /><br /> 先方から「後継者問題だけは口にしないでもらいたい」と注文されましてね。当時は金日成キムイルソン主席の全盛期。経済発展は韓国をしのぐと言われていました。息子の金正日キムジョンイルの名前はちらほら出ていましたが、後継者として公表されていたわけではありませんでした。<br /><br /> 《82年、金日成生誕70年を記念し、平壌に主体チュチェ思想塔、凱旋がいせん門、人民大学習堂(図書館)の三つの大建築物が完成。金正日は、80年10月の労働党第6次大会で後継者に内定していた》<br /><br /> 平壌には世界一と称する建造物があちこちにありました。図書館も、蔵書数が世界一だと。<br /><br /> たしかに建物は立派でしたが、膨大な数の金日成全集が並べられ、これも蔵書数に数えているのかなと思いましたね。<br /><br /> 軍事博物館にも行きました。他の団員は興味がないので私1人。これも豪華な建物で、大佐の館長と女性の中尉が案内してくれました。日本語のできる中尉が、盛んに「アメリカのやつ」と言うのが印象的でした。<br /><br /> 館長は、朝鮮戦争に参加したというので、当時の状況を質問しました。北朝鮮軍は開戦当初、釜山近くまで南下しますが、国連軍の仁川インチョン上陸作戦によって補給ルートを断たれ、主力は姿を消し、北へ戻ります。<br /><br /> ただ、どうやって退散したのか分かっていなかった。館長に「あなたは、東海岸の山脈を縫って北まで戻ったのですか」と聞くと、「そうだ」と。これは貴重な証言だったと思います。<br /><br /> 朝鮮戦争を再現した展示は、北朝鮮の捕虜になった米軍のディーン師団長が、少年兵に襟髪をつかまれ、竹やぶから引きずり出されるシーンなどがありました。実物の戦車が転がっていて、向こう側の空が燃えている場面も。随分お金をかけて作ったんでしょう。<br /><br /> なかでも私の関心をひいたのは、北朝鮮空軍の活躍を紹介した案内板。米軍機を撃墜したエースが何人もいたというのです。空戦で相打ちになり、双方のパイロットが落下傘で降下したが、着地後に北朝鮮軍のパイロットが飛びかかり、相手をねじ伏せて捕虜にした、などのエピソードが紹介されていました。<br /><br /> それまで北朝鮮空軍は紹介されたことがないし、エースがいたという話も聞いたことがない。こんなチャンスは二度とないと思った私は、ハングルの説明文を片っ端から訳させ、メモしていきました。写真も撮りました。館内に9時間もいましたよ。<br /><br /> ちょうどその頃、飛行機マニアの仲間と、『第2次大戦―世界の戦闘機隊』という本を作っていましてね。帰国後、さっそく北朝鮮空軍の写真と文章を加えました。マニアの世界では、世界的なスクープになったんです。<br /><br /> この本を2冊、北朝鮮に送りましてね。それを見た金日成主席は、他のメンバーは役立たずだったけれど、ただ一人、秦という男が良いことをしてくれた、と語ったそうです。<br /><br /> (編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170417-118-OYTPT50364<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-84885290746681642142017-04-17T13:05:39.358+09:002017-04-17T13:05:39.358+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<24>家永教授と「変節」論争
2017年4月17日5時0分
...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<24>家永教授と「変節」論争<br />2017年4月17日5時0分<br /><br /> プリンストン大に行く前の1977年、私は、新宿の朝日カルチャーセンターで講師をしたことがあります。占領史をテーマにした講座で、竹前栄治さんを代表に、4人で持ち回りの講義でした。<br /><br /> 講義内容は、同年秋、朝日新聞社から『日本占領秘史』のタイトルで出版されます。ところが、私の講義内容に、歴史家の家永三郎さん(元東京教育大教授)から抗議が来たのです。<br /><br /> それは受講者との質疑応答の部分でした。日本の知識人の態度について質問された私は、「進歩的文化人には2種類ある」と話したんです。<br /><br /> 一つは、戦争中、自由主義者として沈黙を強いられ、大学を追放されたりして、戦後、大学に復帰した矢内原忠雄氏や大内兵衛氏のような人々。もう一つは、戦時中は軍部に迎合していたが、戦後は米国民主主義の礼賛者や平和主義者に早変わりした変節組で、例として、とっさに清水幾太郎さんと家永さんの名前をあげたのです。<br /><br /> 《家永三郎(1913~2002年)は、戦後、小学生向け国定歴史教科書『くにのあゆみ』を分担執筆。その後、自らが執筆した高校用日本史教科書の検定結果を不服として、計3次32年にわたる教科書裁判を起こした》<br /><br /> 朝日新聞出版局は、手打ちに持ち込みたかったのでしょう。その年の暮れ、私は築地の旅館で家永さんと会談しました。<br /><br /> 私は「表現の緩和や修正には応じるので具体案を出してほしい」と提案しましたが、家永さんは拒否。問題部分の全面削除、再版時に陳謝の意味で断り書きを入れることなどを求め、応じなければ名誉毀損きそんで告訴するというのです。<br /><br /> 私は家永氏の著作を引いて反論しました。例えば、「学界の一兵卒として学問報国の戦列に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者」など、戦時中の迎合的表現をいくつも取り上げました。<br /><br /> しかし、家永さんは、「検閲に対する避雷針だ」と釈明します。「我々がどんな苦しい思いで当局に協力せざるを得なかったか若い人には分かるまい」とか「私の知的水準が低かったのであって、節操が変わったのではない」などとも弁明しました。結局、話し合いは物別れに終わりました。<br /><br /> ところが「自分は我慢してもいいが、教科書裁判の支援勢力が黙っていないだろう」という脅し文句に、朝日新聞は震え上がったらしい。1週間後、私の講義部分が載った『日本占領秘史』下巻を絶版にすると、一方的に連絡してきました。<br /><br /> 10年後の87年、私は家永さんと再び対決します。家永さんの教科書裁判で、国側の証人として出廷したのです。私は、家永氏の天皇観が、右から極端な左へ変遷したことを指摘し、「こういう振幅の大きい方は、教科書の執筆者には不適当」と陳述しました。<br /><br /> 当時の家永さんは、進歩派陣営の大スターでした。私は学界から、まるで右翼反動並みの扱いを受けましたよ。<br /><br /> (編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170416-118-OYTPT50120<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8307787643542600503.post-36754095438881889792017-04-15T23:30:24.296+09:002017-04-15T23:30:24.296+09:00[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<23>「天皇退位せず」の特ダネ
2017年4月15日5時0分...[時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<23>「天皇退位せず」の特ダネ<br />2017年4月15日5時0分<br /><br /> 退職の辞令をもらって大蔵省の玄関を出ると、読売新聞の松崎昭一記者とばったり会いましてね。彼は「外務省が外交文書を公開することになったので、相談役をやってくれませんか」と言うのです。<br /><br /> 「それはいいけど、私は今、大蔵省を辞めてきたところなんですよ」と答えると、「それなら、我が社の専属になってくださいよ」と持ちかけられました。<br /><br /> 読売連載「昭和史の天皇」を担当していた松崎さんとは前からの知り合いでした。<br /><br /> こうして偶然ながら、私は1976年から5年間、読売新聞社の嘱託となり、生活のメドもつきました。外交文書の公開の時は別ですが、それ以外は気の向いた時だけの出勤という好条件。何かお返しをしたいと思っていたところへ、スクープをものにしたんです。<br /><br /> 《78年8月15日の読売新聞朝刊は「“天皇親書”30年ぶり発見」との1面トップ記事を掲載した。昭和天皇が、東京裁判の判決当日の48年11月12日、マッカーサー元帥へ、退位を否定する親書を出していた、という内容だった》<br /><br /> それは78年晩春、米バージニア州ノーフォーク市にあるマッカーサー記念館へ資料調べに行ったときのこと。たまたまマッカーサー元帥のジーン夫人が来館したので、館長が「元帥を研究している人です」と私を紹介しました。夫人は「ゼネラル(将軍)が聞いたら喜ぶでしょう」と言いましたよ。亡夫をゼネラルと呼ぶという話は、本当だったんだなと実感しました。<br /><br /> その直後、マッカーサー宛ての昭和天皇の親書を見つけたんです。<br /><br /> 差出人は田島道治宮内府長官。「陛下のメッセージをお伝えする光栄を有します」との書き出しで始まります。そして、天皇が、吉田首相を通じてマッカーサーから寄せられた厚情に感謝し、「日本の国家再建を速やかならしめるため、国民と力を合わせ、最善を尽くす所存であります」と結んでいました。<br /><br /> 注目すべきは、日付が東京裁判の判決当日だったこと。その日、昭和天皇は終日引きこもり、沈黙の時間を過ごしたそうです。<br /><br /> 当時、判決を控え、天皇の戦争責任とのからみで退位論が活発化し、天皇も退位の意向を持っていると噂うわさされていました。しかし、マッカーサーは、占領政策の観点から、退位に反対です。親書は、天皇が退位しない意向をマッカーサーに伝えたと読み取れました。<br /><br /> ただ、裏取りが必要です。私はフロリダで隠退生活を送っていた元GHQ外交局長のシーボルトを訪ねました。彼は親書の件を記憶しており、日記帳を見ながら確認してくれました。<br /><br /> 私はこの年1月から、プリンストン大の客員教授をしていました。プリンストン大行きは、日本研究の長老、マリウス・ジャンセン教授の招請でした。ウッドロー・ウィルソン・スクールの大学院生がお相手です。「米国の日本占領」をテーマに、岡義武先生流のセミナーを試みました。<br /><br /> その後も、イスラエルのヘブライ大、中国の南開大で大学院生向けのセミナーを引き受けます。<br /><br /> (編集委員 笹森春樹)<br />http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170414-118-OYTPT50387<br />ニッポニア・ニッポンhttps://www.blogger.com/profile/00969235767842180336noreply@blogger.com