2017年9月5日

2011.3.11 フクシマ FUKUSHIMA 福島事変[震災6年 未完の事業]

( [震災6年]2011.3.11 フクシマ FUKUSHIMA 福島事変 の続き)

[震災6年 未完の事業]<2>原発処理費 膨張続ける
2017年3月3日 読売新聞
http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170303-118-OYTPT50075

>東京電力は1~2月、福島第一原子力発電所で炉心溶融(メルトダウン)を起こした2号機の本格調査を事故後、初めて実施した。
>2051年までに終えることを目指す廃炉作業。世界的に前例のない取り組みは「試行錯誤」の領域から抜け出せていない。

[震災6年]汚染水、デブリ…廃炉険し
2017年3月3日 読売新聞
http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170302-118-OYTPT50416

>東京電力福島第一原子力発電所の事故から、間もなく6年を迎える。増え続ける汚染水の取り扱いのめどが立たず、同原発の敷地内にはタンクが林立している。溶融燃料(デブリ)の調査では、ようやく2号機の炉心直下の様子が一部わかったものの、全容解明にはほど遠い。廃炉や除染、賠償など費用は計21・5兆円と試算され、電気代や税金を通じて国民に負担が重くのしかかりそうだ。


福島避難解除 「町のこし」に何をすべきか
2017年3月3日 読売新聞「社説」

 東日本大震災から間もなく6年になる。

 今なお避難生活を強いられる人たちが、一人でも多く古里に戻れるように、政府と自治体は支援の手を緩めてはならない。

 東京電力福島第一原子力発電所事故による避難指示が今春、福島県の川俣、浪江、富岡の3町と飯舘村で新たに解除される。

 除染が終了した地域の生活基盤を整えて、町を再建する取り組みが本格化する。

 避難指示は、3年前から5市町村で段階的に解除されたが、帰還の動きは鈍い。昨年6月に、ほぼ全域が解除になった葛尾村では、村民の1割しか戻っていない。

 医師が不在のために、村が患者を隣接市の医療機関まで送迎している。小売店は休業のままで、村は生鮮食品や日用品の無料配達まで担っている。

 それにもかかわらず、「環境整備が不十分だ」との声があり、小中学校の再開は先送りされた。

 住民が戻らないために、復興が滞るこの悪循環に陥らない工夫が、各自治体には求められる。

 富岡町では今月末、大型のショッピングモールが本格オープンする。避難指示解除を見据えて、町などが、廃屋同然だった旧施設を1年かけて改修した。政府の補助金や交付金が活用された。

 人の流れを呼び込みたい、との期待が込められている。

 浪江町では、役場周辺に診療所や商店、交流施設などを集める。暮らしの場をコンパクトに集約する手法に、町の将来を託す。

 帰還困難区域を抱える浪江町などを対象に、政府は「特定復興再生拠点区域」制度を新設する。自治体の整備計画を、政府が後押しする仕組みだ。町が少しでも再生するよう機能させたい。

 被災地の多くは元々、過疎化や高齢化に直面していた。

 避難した高齢者は、概して帰還を願う気持ちが強い。若年層にも、古里に戻ろうという思いを持ってもらうことが大切だ。子供の学校の都合などで、避難先を離れるのをためらう人は少なくない。

 生活環境の整備に加え、重要なのは、雇用の確保である。

 復興庁は約8000の被災事業者への訪問を続けてきた。再開の意欲がある事業者の求人などのニーズを的確に把握し、効果的に支援する必要がある。

 住民の帰還が進まねば、将来的には、自治体が成り立たない恐れさえある。「町のこし」のために、政府と自治体が連携して、再生の青写真を描いてもらいたい。
http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170302-118-OYT1T50189


もうダメポ、実質的な「自治体崩壊」をしっかり受け止め、それを認識し、より現実的な対処に向かうしかないと思われ…

とくに原発事故で「放射能汚染」を被った地域の「復興再生」は無理筋ではないのか。

フィールドの「除染」は、詐欺のようなものではなかったか…


【社会】除染費累計、2兆6千億円…福島第1原発事故から6年で
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1488574106/

【原子力】原発処理費 40兆円に拡大 税金・電気代転嫁、国民の負担に
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1488068059/



[震災6年 未完の事業]<1>新校舎 児童は戻らず
2017年3月1日 読売新聞
http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170301-118-OYTPT50082

>大きなランドセルを初めて背負い、登校を始めた被災地の子が、もう中学生だ。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から6年。福島県ではこの春、4町村の避難指示区域が相次いで解除されるなど大きな節目を迎える。地域再生の道筋は見えてきたか。被災地の現場から報告する。


読売新聞「東日本大震災」
http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/list_SOCIETY3

NHKニュース「東日本大震災」
http://www3.nhk.or.jp/news/word/0000019.html

NHKニュース「福島第一」
http://www3.nhk.or.jp/news/word/0000020.html

福島県のニュース(NHK福島放送局)
http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/

福島民報「東日本大震災」
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/
http://www.minpo.jp/news/main




生まれ来る子供たちのために
https://www.youtube.com/watch?v=v93_EVd6Voc


2011.3.11 フクシマ FUKUSHIMA 福島事変[震災6年]★2 へ続く)

(№246 2017年3月4日)

184 件のコメント:

  1. [震災6年]「最後の卒業式」次へ…福島5高校 休校
    2017年3月1日15時0分

     2011年3月の東日本大震災で被災した福島県で1日、県立高校の卒業式が行われた。東京電力福島第一原発事故による避難指示区域内の双葉、富岡、双葉翔陽、浪江、浪江津島校の5校は、生徒減少などのため、避難先での校舎の間借りを今年度で終え、休校する。卒業生計111人は、母校での思い出を胸に新たな目標に向かって歩み出す。

    双葉高 「夢は教師」野球と歩む

    マネジャー 渡辺陽奈さん 渡辺陽奈ひなさん(17)は、夏の甲子園に3回出場した伝統がある双葉高校野球部でマネジャーを務めた。仮校舎のあるいわき明星大(福島県いわき市)での卒業式を同級生11人で終え、原発事故について「『なぜこんなことに』と怒りもあるが、11人でこの日を迎えられ、よかった」と話した。

     第一原発から約20キロ南の広野町出身で、小6のとき、原発事故が起きた。両親と神奈川県に避難し、中3で地元へ戻った後、仮校舎で授業を行う双葉に進学した。

     マネジャーになったのは2年生の1月。同級生の野球部員2人に「手伝って」と誘われた。生徒の募集が停止され、後輩の入部もない中、たった2人で苦労する様子を見て、「自分にも出来ることがあるはずだ」とテニス部から移った。

     野球はルールもわからない素人だったが、選手2人のノックにもトス役として参加。キャッチボールでうまく捕球できず「役に立っているのだろうか」と落ち込むこともあった。だが、「選手の前向きな姿に元気をもらい、部活に行きたくないと思ったことは一度もなかった」。

     昨夏の県大会は他校との連合チームで出場し、記録員としてベンチに入った。初戦で敗れ、最初で最後の夏はあっという間に終わったが、懸命にプレーする選手の姿を見て思った。「これで高校野球が終わるのは嫌だな」。「教師」という将来の目標に「高校野球に関わること」が加わった。

     地元の社会科教師を目指して東京都内の大学に進学する。「休校は悲しいが、終わりではない。学校再開に向けた始まり」と信じ、母校が事故前の日常を取り戻すことを夢見ている。

     【避難指示区域】 放射線量が低い順に、避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域の3種類があり、東京電力福島第一原発周辺の8市町村にまたがって設定されている。帰還困難区域以外の2区域の大半は今春、避難指示が解除される。

    富岡高 熱血寮監11年「悔しい」

     富岡高校の生徒寮「桜風寮」で11年間、寮生活を取り仕切る「寮監」を務めた荒木信彦さん(52)もこの日、大きな節目を迎えた。

     2006年4月、サッカー、ゴルフ、バドミントンの有望選手を受け入れる「国際・スポーツ科」が開設されると同時に寮監になった。「世界に羽ばたく選手を育てたい」と考え、妻の春恵さん(43)とともに親元を離れた生徒の面倒を見てきた。震災時は家族4人で住み込んでいた。

     消灯後も騒ぐ生徒を容赦なく叱りつける熱血漢。だが、悩む生徒には愛情を持って接した。厳しい指導を受け、「サッカーも学校も辞めたい」と泣きながら訴える生徒には「期待の裏返しで厳しくなるんだ」と諭し、立ち直った生徒はJリーガーにまで成長した。

     原発事故後は一家で静岡県へ避難。11年5月、富岡高校が再開したときは、家族が一緒に住めなくなることを心配し、帰還を迷ったが、春恵さんに「子供たちが戻って来るよ」と背中を押され、寮代わりの福島市内の温泉旅館に移った。しかし、入校希望は年々減り、14年10月に休校が決まった。「夢を奪われた」と怒りが収まらなかった。家族そろっての住み込みも実現しなかった。

     卒業生らが集まってくれたのは、温泉旅館での寮監生活も残り1か月余りとなった今年1月。「2人がいてくれたから3年間、楽しく過ごすことができました」「本当のパパ、ママでした」とつづられた色紙を贈られ、少し心が軽くなった。

     4月から福島大に転職し、双葉郡の教育支援を担当する。「休校は悔しいが子供たちを応援し続けたい」

         ◇

     1日には岩手、宮城、福島3県の県立高校計226校で卒業式が開かれた。

    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170301-118-OYTPT50283

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  2. [震災6年]復興拠点作り 長期戦…「人がいる街」具体案カギ
    2017年3月2日5時0分

     2011年3月の東京電力福島第一原発事故による避難指示区域が続々と解除されていく中、住民であっても自由に行き来できないエリアがある。福島県内に広がる総面積337平方キロの帰還困難区域(年間被曝ひばく線量50ミリ・シーベルト超)。名古屋市に相当するこの広大な領域で、かつて2万4000人が生活した。いまだ、元いた場所に戻れた住民は一人もいない。

      原発立地の町

     除染と環境整備を先行して進める「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)に、いま注目が集まる。帰還困難区域を抱える自治体が計画をまとめ、国に認められれば、国負担で除染が実施され、道路整備などの事業も進展する。

     難易度が高いのは、福島第一原発が立地する大熊町と双葉町。いずれも帰還困難区域の住民が、町全体の96%を占める。狭いエリアの先行整備にどれほど効果があるか未知数だからだ。

     大熊町は、JR常磐線大野駅周辺や、常磐道の新インターチェンジ建設予定地を含むエリアを復興拠点として想定する。周辺町村の拠点病院である県立病院や町役場があり、商店街も栄えた場所だ。ここに産業区域を置く構想も温める。「5年先、10年先、30年先。戻る時期の選択肢を用意する。それがいま町にできること」と町幹部は言う。

     6年も人の流れが途絶えた。帰還をためらう住民にまず、かつて栄えた場所の再起を見せる。産業区域の廃炉関連従業員らを「新住民」として受け入れる。「人がいる街」をどう作り出すか。手探りは続く。今秋、帰還困難区域を除く2区域(町域の38%)の避難指示の解除を目指す。

     双葉町の事情はさらに厳しい。「うちの復興が一番遅れていると感じる」。町のある幹部は打ち明ける。

     復興拠点は、双葉駅東西に広がる地域を軸に、計画を練る意向。大動脈の国道6号線沿いに飲食店や宿泊施設を誘致し、にぎわいを取り戻したいとしている。

     しかし、町域の96%は帰還困難区域、残る4%は津波被害を受けたエリアだ。福島の自治体で唯一、役場ごと県外に避難したため、県外に定住した住民も多い。復興のハードルは高い。

     ただ、双葉、大熊両町とも、想定する復興拠点近くには、汚染土などを保管する広大な中間貯蔵施設があり、さらに海側には廃炉作業中の原発がある。住民たちにアピールする具体的なメニューが鍵を握る。

      異なる事情

     自治体ごとに復興拠点の意味は異なる。

     例えば、双葉町北隣の浪江町。今月31日に中心部の避難指示が解除されるため、復興が加速しそうな印象もあるが、そう簡単ではない。残る帰還困難区域は180平方キロあり、同区域を抱える7市町村の中で最も広く、町域の8割に及ぶ。

     区域は1956年に合併した三つの村域と重なる。いずれも独自の結束力を残す地域で、アイドルグループのテレビ番組で有名になった農村、陶磁器「大堀相馬焼」の発祥地もある。町は不公平感にも配慮し、復興拠点を3か所に設ける計画を立てている。

     浪江町と同様、中心部の避難指示がこの春に解除される富岡町はどうか。

     残る帰還困難区域は面積ベースで12%と広くはないが、人口の割合は3割を占める。桜並木で有名な市街地・夜の森地区の大半が入っているためだ。

     この区域の7割程度が年に1回、一時帰宅しているという調査結果はある。ただ、ひとたび災害が起きると、市街地は人が流出しやすい。海側には115ヘクタールの汚染土の仮置き場がある。

     いずれのケースでも、復興拠点設定後の長期戦略が大きなポイントだ。

    「ここで畜産を」固い決意…大熊に通い 牛の世話

     住民の強い意志が帰還困難区域の故郷を支える。

     福島県広野町に避難する池田光秀さん(55)はこの5年半、故郷・大熊町の帰還困難区域に通い、牛の世話を続けてきた。

     30歳代で父親の仕事を引き継いだ。5頭だった黒毛和牛を30頭に増やした直後、原発事故が起きた。牛を残し、妻美喜子さん(59)と避難した。半年後に戻ると、牛たちは自力で逃げ出していた。方々を捜して20頭を見つけ、養ってきた。原発20キロ圏では震災前、約310戸の畜産農家がいたが、いま活動するのは池田さんら十数人しかいない。

     東電からの賠償があるとはいえ、いま世話を続けても牛が売れるわけはない。それでも池田さんは言い切る。「牛飼いとして生きてきた自分の人生を否定するようなことはできない。この土地で畜産を再開できる復興の日を待つ」

     この大熊町の帰還困難区域では、60歳代の男性6人がつくったグループ「じじい部隊」も、防護服姿でパトロールと清掃活動を続けている。一時帰宅した住民の手助けもする。活動を始めてもうすぐ4年。「町民が戻る日まで活動をやめない」。原発事故当時、町総務課長だったリーダーの鈴木久友さん(64)はそう言う。

     伝統も帰還の原動力だろう。浪江町の帰還困難区域・津島地区で行政区長を務め、郡山市に避難する酪農家の紺野宏さん(57)。五穀豊穣ほうじょうなどを願う地元の旧正月行事「津島の田植踊り」で、紺野家は代々「庭元」と呼ばれるまとめ役だった。10人以上のメンバーが集まって練習を重ね、県内外で披露を続けている。

           ◇

     復興庁が2015年8月~16年9月に実施した意向調査によると、故郷に戻らないと回答した住民の割合が、多くの自治体で5割を超えた。大熊町63・5%、双葉町62・3%、富岡町57・6%、浪江町52・6%。1年前の調査と比べて4・6~7・3ポイント増えた。同庁は「避難先で家を建てるなど、本格的に生活再建に入った住民が増えたからでは」と分析する。

     裏付けるデータもある。双葉町が役場ごと2年余り避難していた埼玉県加須市による調査結果だ。昨年12月の調査で、市内に避難する195世帯のうち、101世帯が自宅を所有していると回答。1年前の42・6%から51・8%に増えた。

     政府は、帰還困難区域の復興拠点の避難指示解除を「おおむね5年以内」と見込む。2022年。東日本大震災から11年というその時期まで、待ち続ける住民はどれほどいるか。

     「多くても町民の1割程度だろう」。渡辺利綱・大熊町長の予測は厳しい。ただ、住民を一様には見ていない。「一度帰還をあきらめても、古里への思いを抱える町民はたくさんいる。いつか帰れる環境を作る努力を続ける」
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170301-118-OYTPT50423

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  3. [震災6年]汚染水、デブリ…廃炉険し
    2017年3月3日5時0分

     東京電力福島第一原子力発電所の事故から、間もなく6年を迎える。増え続ける汚染水の取り扱いのめどが立たず、同原発の敷地内にはタンクが林立している。溶融燃料(デブリ)の調査では、ようやく2号機の炉心直下の様子が一部わかったものの、全容解明にはほど遠い。廃炉や除染、賠償など費用は計21・5兆円と試算され、電気代や税金を通じて国民に負担が重くのしかかりそうだ。

    96万トン タンク900基林立

      敷地ぎっしり

     本社ヘリで福島第一原発を眺めると、敷地内に汚染水タンクがぎっしりと並んでいる様子がわかる。タンクの数は現在約900基。震災前は森林だった場所が、タンクの森に変貌した。

     1~3号機で炉心溶融(メルトダウン)が起きたため、現在も冷却水を注入しており、原子炉建屋の地下などに高濃度の汚染水がたまっている。ここに周囲から地下水が流れ込んで混ざるため、汚染水の量が増えてしまう。

     タンクで保管されている1~4号機の汚染水の総量は、2月16日現在で約96万トン。原子炉建屋地下などの高濃度汚染水約7万トンや、5~6号機の汚染水約1万5000トンを合わせると、計約105万トンに達する。

      75%は処理水

     1~4号機の約96万トンのうち75%は、浄化装置「ALPS(アルプス)」で大半の放射性物質の除去処理が終わった水で、アルプスで取り除けない放射性物質トリチウム(三重水素)が残っている。通常の原子力施設では国内外を問わず、トリチウム水は基準値まで薄めて海に流している。

     福島第一原発のトリチウム水について、経済産業省の作業部会は昨年6月、海洋放出が安上がりで、処理にかかる期間も短いとの報告書をまとめた。しかし、漁業などへの風評被害の懸念から、放出のメドはたっていない。

     経産省の小委員会は昨年11月から、風評被害を含めた汚染水の影響の検討を始めた。小委員会では、「タンクの存在自体が、汚染されているとの風評被害を招いている現状がある」(開沼博・立命館大准教授)との指摘も出ている。

     地下水の流入を防ぐため、建屋の周囲約1・5キロ・メートルの土壌を凍らせて「凍土壁」を作る作業が進められている。全体の凍結は今夏以降になる見通しだが、建屋への地下水の推定流入量はおおむね減少傾向にある。

     タンクは1日500トンのペースで増設している。ボルトで締めた継ぎ目から汚染水が漏れやすいタイプのタンクを、漏れにくい溶接タイプに交換する工事も進んでいる。

     原子力規制委員会の更田豊志ふけたとよし・委員長代理は「今後も高濃度汚染水の除去などで、タンクの空き容量が必要になる。最終的にタンクが何基必要かはわからないが、廃炉作業を持続的かつ安定的に続ける上で、タンクが満杯という状況は認められない」と指摘する。

    原発事故処理 21.5兆円

      国民が負担

     事故処理に絡む費用総額が21・5兆円と従来の見積もり(11兆円)から倍増したのは、廃炉・除染作業の難航に加え、被災者の避難生活の長期化などが原因だ。東電ホールディングス(HD)が全体の7割以上を負担、約2割を他の電力会社(沖縄県を除く)、約1割を国が賄う。最終的には電気代や税金を通じて国民が支払うことになる。

     経済産業省の有識者会議「東電改革・福島第一原発問題委員会」の委員長を務める伊藤邦雄・一橋大特任教授は、「国難であり、国民の理解を得て費用を回収していく」と話す。

     ただ、事故処理の総費用が試算通りになるとは限らない。例えば、廃炉費用は専門家が福島第一原発より被害が少ない米スリーマイル島原発事故を参考に算出した「推計」に過ぎない。

      電気代に上乗せ

     21・5兆円の内訳は、廃炉が8兆円、賠償が7・9兆円、除染は4兆円、除染などで生じた汚染物質を保管する中間貯蔵が1・6兆円だ。

     廃炉費用8兆円は東電が全額負担する。約40年の作業が滞らないよう、政府は東電があらかじめ費用を蓄えられるようにする。東電は「年3000億円程度」(経産省)とされる必要額を収益から積み立て、政府の「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」が積立金全体を管理し、廃炉作業に使う時に限って取り崩す。家庭の電気料金の3割程度を占める送電料金は国が規制し、利益が増えると値下げされる。東電だけ特例で値下げせずに増えた利益を積立金に回せるようにする。

     賠償費用7・9兆円は、東電が3・9兆円、他の大手電力が3・7兆円、電力自由化で参入した新電力が2400億円を負担する。

     7・9兆円のうち2・4兆円について政府は、国内で原発が運転を開始した時から、将来に備えて用意しておくべき金額だったと位置づけた。過去に原発からの電気を利用した人が皆で負担する仕組みだ。2020年から40年間、沖縄県を除く全国の送電料金に上乗せして回収する。この結果、標準家庭で電気代が月平均18円増える。原発を電源としない新電力の顧客も賠償費を分担することになる。しかし、新電力には「賠償費は原発を持つ大手電力が支払うのが筋だ」(みんな電力)などと不満も多い。

     除染費用の約4兆円は、政府保有の東電HD株の売却益を充てる。これとは別に一部に国費も使う。中間貯蔵の費用1・6兆円は全額国費で賄う。

     巨費の捻出のため、東電は動けば利幅の大きい柏崎刈羽原発(新潟県)を再稼働したいものの、見通しが全く立っていない。政府は他電力との提携・再編による収益向上を求めている。

    2号機調査 深まる謎

      燃料どこに

     東電は今年1~2月、福島第一原発2号機の原子炉格納容器内で溶融燃料調査を試みた。炉心溶融が起きた1~3号機の中で初めて、炉心直下の床の損傷や堆積物などを撮影することができた。しかし、炉心直下から少し離れた場所で高い放射線量が測定されるなど、かえって謎が深まった部分もある。今後の廃炉作業は困難が予想される。

     パイプの先に取り付けたカメラで、直径約5メートルの金網の作業用の床のうち4分の1程度の範囲を観察できた。この範囲だけで、最大1メートル四方の穴が3か所開いていた。残った金網などには、黒っぽい堆積物がこびりついていた。

     堆積物には溶融燃料が含まれている可能性がある。炉心で2000度以上になった燃料の一部が原子炉圧力容器の底を突き破り、作業用の床に落ち、鋼鉄製の金網の一部が溶けて穴が開いたと考えられている。

      毎時210シーベルト

     映像は水分で白く曇り、放射線の影響で時折、チラチラと乱れる。映像のノイズから推定した放射線量は、最大で毎時650シーベルトだった。その後、調査ロボットの線量計で計測した最大値は毎時210シーベルト。人間が1分間あまり被曝ひばくすると死亡する恐れがある高い線量だ。

     その場所は炉心直下ではなく、少し離れた装置交換用のレールの上。東電は「なぜこんなところで高い線量が確認されたのか分からない」と首をひねる。日本原子力学会の廃炉検討委員長を務める宮野広・法政大客員教授(システム安全)も、「圧力容器の内外につながる配管内を溶融燃料が流れた可能性もあるが、燃料が一体どこにあるのか、全く分からない」と話す。

     調査ロボは、後ろ半分を持ち上げて周囲を撮影できるため「サソリ形」と呼ばれる。詳しい調査が期待されたが、走行用ベルトに堆積物が絡まって前に進めなくなった。結局、炉心直下に到達できないまま、格納容器内に放置された。

     その前には、堆積物を掃除するロボットを投入したが、強い放射線の影響で約2時間でカメラが不調になったため回収した。

     これらの調査は、廃炉の最難関工程である溶融燃料の取り出し方法を決めるのが目的。1、3号機は2号機よりも格納容器内の水位が高い。1号機は3月中旬から、水中を撮影できる子機を親機がつり下げる「ワカサギ釣り形」のロボットの投入が予定されている。3号機では水中ロボットによる調査を計画中だ。

     東電は今年9月末までに取り出し方法を決める方針だが、溶融燃料の詳しい状況がわからないため、遅れる可能性がある。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170302-118-OYTPT50416

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  4. [震災6年]新しい町 見守る
    2017年3月3日15時0分

     岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」は、地震による地盤沈下などで水浸しとなった川原川河口に立つ。震災遺構として保存予定の陸前高田ユースホステルが当時の姿のまま寄り添う=写真、3日午前、許可を得て小型無人機から、飯島啓太撮影=。

     海岸に高さ12・5メートル、幅約50メートルの長大な防潮堤が約2キロにわたって築かれている。壁の向こうでは、津波が奪った高田松原と砂浜をよみがえらせる取り組みが試みられ、陸側では津波復興祈念公園の計画が進む。

     かさ上げされたはるかかなたの高台に建物が見える。ようやく輪郭を見せ始めた「新しい町」を、一本松が見守っている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170303-118-OYTPT50300

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  5. [震災6年 未完の事業]<3>仮設解消せず 不公平感
    2017年3月4日5時0分

     部屋はホームベース付近、玄関を開けると三塁側のベンチが見える。美容院経営山本明美さん(51)が暮らす仮設住宅は、宮城県女川町の小高い丘にある町民野球場のグラウンドに立つ。わずか約100メートル先には、都市部のマンションのような災害公営住宅「運動公園住宅」がある。町内で最も早い3年前に完成し、約200世帯が一足早く入居した。3~4階建て、最も大きな部屋は4LDKだ。

     「なんだか取り残されたような気がして」。山本さんの胸中は複雑だ。仮設住宅の9棟(189戸)には、いまだ163世帯が暮らす。

     この仮設住宅の設計は著名な建築家が手がけた。山本さんは一家3人で2014年春に入居し、通常の仮設住宅よりモダンな外観がお気に入りだった。しかし、一軒家だったかつてと比べて手狭で、荷物が積み上がる。「精神的に疲れがたまってきた」。希望する約1キロ離れた災害公営住宅の建設は遅れ、完成はまだ1年先だ。「早く安住できる家に住みたい」

     女川町の災害公営住宅は当初計画より半年遅れている。町は津波被害に遭った低地の住宅再建をあきらめ、高台移転を選んだ。だが、山間部の硬い岩盤に阻まれ、連日のように発破するなど、工事が難航した。

     「運動公園住宅」に抽選で当選した坂本礼子さん(48)は、家族と野球場の仮設住宅から移った。目立たないように引っ越し、あいさつも、ごく近所のみ。積極的に関わった仮設住宅のイベントにも、今は足を運べない。「まだ残っている人に申し訳ない」

     南正昭・岩手大地域防災研究センター長は、復興事業が大詰めを迎える現在の課題を挙げる。「住まいを再建した人、まだの人という格差が鮮明になっている。被災者の心理的負担が重なっており、十分なケアが必要」と指摘する。

         ◇

     復興のスピードの差は、自治体間にも及んでいる。

     岩手県大槌町は、旧市街地をかさ上げして再建する。宅地や道路など地区ごと再構築する土地区画整理事業を活用し、961戸分の宅地を造成する。しかし、事業は長引き、進捗しんちょくは半分ほどだ。

     同町赤浜地区で自宅を再建する予定の消防士佐藤巧真さん(21)は、今年1月にようやく土地の引き渡しが実現した。当初予定より約3年延びた。「雨の日も雪の日も続く工事を見れば仕方ない。でも、東京オリンピックで資材が高騰したせいか、建設費は1000万円も上がった」。引き渡しが1年以上先の地区もある。

     一方、宮城県南三陸町は宅地は高台へ、商業地などは低地に配置する「職住分離」を進めた。「津波が来ても逃げる必要がない町」を掲げ、高台に住まいを集約させた。同町は昨年、宅地造成を終えた。

     復興事業の選択によって生まれた格差。女川町の担当者は言う。「計画当初は規模感も計れないし、どれが正しい選択か、誰も分かるはずなかったと思う」
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-118-OYTPT50137

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    1. [震災6年]移転か現地か 進捗左右
      2017年3月4日5時0分

       津波の被害に遭った自治体が選択した住宅街や宅地の再建方法は、大きく分けると2パターンだ。内陸や高台への移転と、津波が襲った旧市街地での再建。一から街をつくり直す現地再建は難航し、とりわけ、盛り土をして土地をかさ上げする事業は遅れている。一方、集団移転は順調に進み、再建手法の違いは復興のスピードを左右している。復興が長期化すれば人口の流出が深刻化する。早期に再建できてもコミュニティーづくりに課題が浮上する。進んだ道はそれぞれまだ険しい。

      街を再建 盛り土に時間

      ◇「待つしかない」

       再建でまず立ちはだかったのが地理的な条

      件だ。三陸沿岸は背後に山を抱え、内陸部で思うように住宅用地が確保できない。こうした自治体の多くは、津波が浸水した旧市街地での現地再建に踏み切り、道路や宅地など地区一帯を再構築する土地区画整理事業を用いた。想定される津波の高さ以上に土を盛って安全を確保するためには長い時間がかかる。

       津波で壊滅した街の中心部をかさ上げする岩手県陸前高田市。山を削って東京ドーム9杯分の土を運び、約125ヘクタールを盛り土して宅地を造成する。最も高い地点で海抜16メートル。被災地最大規模のかさ上げ事業だ。昨年末現在の土地区画整理の造成進捗しんちょく率は約9%。「6年も待つとは思わなかった」。仮設住宅で一人暮らす松野昭子さん(81)はこぼす。

       県外にいる娘からは同居を誘われた。だが、かさ上げ地の旧自宅近くに戸建て住宅を再建する。多くの親戚が津波の犠牲になり、県内外からその家族らが法要で訪れた時のよりどころでありたいからだ。しかし、かさ上げが終わるのは早くても1年先。「我慢して待つしかない」

       陸前高田市が現地再建にこだわったのは、地形的な事情のほか、「再び中心部に住民を集め、コンパクトで機能的なまちをつくる」ためだった。ただ、大量の土を積み上げる工法そのものに加えて、元の土地と造成後の土地を交換(換地)する調整にも手間取った。地権者は約2500人。避難してちりぢりになった人を捜し出し、面会を繰り返した。なかには、震災で亡くなった地権者もいる。2018年度までの工期がずれ込む可能性も出てきた。

       陸前高田市の市街地整備課の伊賀浩人主幹は言う。「事業全体の規模感が把握できない中で定めたスケジュールが甘かった。希望的なところもあった」

      ◇復興住宅にも影響

       宮城県気仙沼市のかさ上げ地は川沿い。土が水分を含むため、盛り土は実際より1~2メートル高くして、その重みで水分をしみ出させる計画だった。ところが、しみ出すスピードが想定より遅く、完了は当初の計画より2年遅れて19年度になった。同じように旧市街地をかさ上げする岩手県大槌町は、かさ上げ地の上に災害公営住宅と防災集団移転事業による宅地を造成する計画だったが、かさ上げの長期化で、進捗率はそれぞれ45%、68%にとどまる。

       東北大災害科学国際研究所の松本行真准教授(都市・地域論)は「被災地は、震災前から過疎化が進んでいた地域も多い。復興の長期化で、若者の地元への意識は薄れ、高齢化が一層進む可能性が高い。人口が減れば、町の維持もままならなくなるだろう」と指摘する。

      早さ重視 住宅は高台へ

      ◇開発地を転用

       全壊した家屋が沿岸自治体で最も多い3万戸を超えた仙台市。震災前から進めていた内陸の宅地開発地を移転先に転用できると判断し、内陸部への移転を進めた。これにより災害公営住宅と集団移転の計画の半分ほどをカバーし、早めの再建を遂げた。

       「職住分離」での街づくりを選択した宮城県南三陸町は、「二度と津波で人命と財産を失わない街にする」と、住宅は高台に移転し、低地はかさ上げして主に商業地とした。住宅再建の効率とスピードにも配慮した選択だった。「山を切って家を建て、その土は低地に運んで盛り、店や工場、スーパーをつくる。単純な発想だった」。町企画課の阿部俊光課長は説明する。高台で宅地を造成したほうが、低地のかさ上げより、土地の取得も造成も比較的早いと踏んだ。

       町が高台に造った宅地は827戸分で、昨年末までに造成をすべて終えた。高台や内陸の災害公営住宅も、738戸のうち84%が工事を終えて残りも3月末には完成する。

      ◇車で漁港へ

       このうち造成が終わった志津川東団地には、漁師の千葉勘五郎さん(76)が昨年6月、仮設住宅から引っ越した。子供たちとローンを組んだ一軒家。「震災から5年で家を建てられ、ほっとしている」と喜ぶ。かつての海沿いの自宅と違って車で港に出向かなければならないが、「津波が来ても家が流されることもない」と話す。団地内には病院もオープンし、糖尿病を抱える妻(78)は歩いて通院できる。

       住宅再建を優先し、低地の造成を後回しにした町の選択。低地は対照的に、一部の商店街が完成しただけで、周囲には山を削って運ばれた土が至るところに積まれたままだ。

      「焦らず魅力ある街に」

       住まいの確保だけが復興の指標ではない。再建を急ぐがあまり、コミュニティーづくりが置き去りになる懸念もある。

       宮城県石巻市内で最も遅い18年に完成予定の集団移転地・二子地区は、入居予定者が事前に議論を重ね、震災前に住んでいた地区ごとに入居区画を割り振った。先行した新蛇田地区が抽選で割り振り、見知らぬ人ばかりになったことでコミュニティーづくりに苦労した教訓を踏まえた。二子地区のまちづくり協議会長の阿部良助さん(69)は「隣近所に顔見知りがいる団地にしたかった。再建後の暮らしが大事」と話す。

       岩手や宮城で街づくりの復興を支援している東北大大学院工学研究科の小野田泰明教授(都市・建築学)は、「早さも重要だが、住む魅力がない街になってしまったら、人は街を離れ、結局、後世に負担を残すことになる。震災後に焦らず復興計画を練り上げて、コミュニティーの再生や交流人口の増加を盛り込めた自治体は、今は道半ばでも将来発展し得る」とみる。

      仮設 解消と延長の二極化

       被災地のプレハブ仮設住宅も、解消したり集約したりする自治体がある一方、住民の再建のめどが立たずに使用期間を引き続き延長する自治体があり、二極化している。

       プレハブ仮設住宅の使用期間は本来2年。しかし、仮設住宅を出た後に暮らす災害公営住宅や集団移転先の造成などが長期化し、多くの自治体は1年ごとに期間を延長してきた。復興事業が進むにつれて住民は徐々に減り、岩手、宮城、福島の3県でピーク時には約11万8000人だったのが、今年1月末現在、3万5503人まで減少した。

       3県の6市町は、すでに全てのプレハブ仮設住宅の解体を終えた。14市町村は、今年度中にすでに使用を終えたか、終了する。

       このほか、住民の多くが再建のめどが立ってきたとして、仮設住宅を集約する自治体が目立ち始めた。こうした自治体が用いるのが「特定延長」。再建のめどが立たない住民に公営住宅などを紹介して退去を進め、めどが立っている世帯だけを期間限定で延長。集約を進めて残りを撤去する。

       特定延長は今年4月以降、12市町が実施を決めている。宮城県気仙沼市の担当者は「一人ひとりに寄り添った支援で再建を後押ししたい」と話す。

       一方、住まい再建の進展が遅い自治体は、これまで通り、自治体ぐるみで期間を延ばす「一律延長」を継続する。岩手、宮城の8市町が4月以降も導入。岩手県の釜石市、陸前高田市、宮城県の石巻市、女川町など、被災規模が大きかった自治体で目立っている。

       福島県の場合は、原発事故の影響で避難指示区域となっている自治体、避難指示が解除されても生活再建先の整備が十分でない自治体など計10市町村で一律延長を継続する。

       仮設住宅には、自治体が民間アパートなどの家賃を負担して被災者が入居する「みなし仮設」もある。宮城県では、今年1月末現在で、9808人にのぼる。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170303-118-OYTPT50388

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    2. [震災6年]兄よ弟よ 供養の文具店…「南三陸さんさん商店街」移転
      2017年3月4日5時0分

       東日本大震災の翌年にプレハブの仮設でオープンし、多くの客を集めた宮城県南三陸町の「南三陸さんさん商店街」が3日、海抜約10メートルまでかさ上げされた同町中心部に移転し、常設の商店街として生まれ変わった。兄弟を津波で亡くした文具店の店主も再スタートを切り、明るい声で観光客を出迎えた。

      仮設から常設 再スタート

       「地元や遠方の人、誰にとっても温かい店にしたい」。地元の杉をふんだんに使った店舗で、文具店「フレンズ」の店主、熊谷和平かずよしさん(62)は目を細めた。店内には土産品も並べ、早速訪れた観光客に、南三陸の浜辺の砂で作られた置物を薦めていた。

       兄の吉治よしじさん(当時59歳)が町中心部で営んでいた衣料品店で働いた後、1979年にその隣に文具店を開業した。町役場や学校に事務用品を卸しながら、兄の店も手伝った。吉治さんが商工会副会長で忙しかったからだが、地元のために奔走する兄が誇らしかった。

       6年前、轟音ごうおんを響かせて、津波は町をのみ込んだ。熊谷さんはなんとか高台に逃げたが、吉治さんは亡くなり、町職員だった弟の良雄さん(同54歳)も行方不明になった。半年後、2人の葬儀を行ったが、悔しさは晴れなかった。

       店舗を失い、卸売りだけを続けていたが、「仕事に没頭すれば、悲しみを忘れられる」と、2012年2月にできた仮設商店街に出店した。昔の客が「待ってたよ」と次々訪れ、商品を買ってくれた。涙がこぼれた。

       仮設店舗では、観光客に復興を後押ししてもらおうと、町のご当地キャラクターのペンを置いたり、駄菓子を並べたり、店づくりに知恵を絞った。新店舗の維持費は倍以上となるが、移転に迷いはなかった。

       「自分の店の役割は小さくないと気づいた。ここで元気に商売を続けたい」。それが兄と弟の供養になると信じている。

             ◇

       新しい「南三陸さんさん商店街」は、建築家隈研吾さんの設計で、木造平屋6棟。飲食店や鮮魚店など、仮設からの23店舗と新規の5店舗が入る。事業費約7億円のうち、7割は国の補助金で賄った。年間80万人の来客を目指すという。

       町観光協会によると、昨年末で営業を終えた仮設商店街は、約5年間で県内外から200万人以上を集め、観光名所となっていた。

      仮設営業 なお51か所

       独立行政法人「中小企業基盤整備機構」(東京都)によると、被災3県にできた仮設の商店街は計70か所で、うち51か所(岩手26、宮城12、福島13)が今も仮設のまま営業している。

       仮設商店街の撤去費用は国の負担だが、2019年3月までの完了が条件のため、今後、仮設の閉鎖が相次ぐとみられる。すでに新たな常設商店街の建設が進んでいるところもある。

       ただ、「南三陸さんさん商店街」のように、仮設からほぼまとまって移れるケースは「珍しい事例」(同機構)だという。多くの店主が被災した元の場所での再建を望む一方、その土地の復興後が見通せなかったり、賃料の負担が重かったりという事情で、移転に踏み切れない人も多いからだ。

       4月に閉鎖する宮城県気仙沼市の「南町紫市場」で、とんかつ店を営む小野寺耕さん(49)は、「店があった市街地に思い入れはあるが、賃料が高く、離れた土地への移転も選択肢だ。仮設商店街の近くに環境が整えばいいのだが……」と悩んでいる。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-118-OYTPT50166

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  6. [震災6年]海と暮らした街 沈黙
    2017年3月4日15時0分

     人影のない更地に家屋が点在する。ここに集落があったことをうかがわせる数少ない遺物だ。家の中やがれきに残る家財道具だけが、かつての人々の暮らしぶりを伝えている=写真、4日午前、許可を得て小型無人機から、飯島啓太撮影=。

     福島第一原発から約7キロ離れた福島県浪江町請戸うけど地区は、漁業の町としてにぎわい、海水浴場もあった。しかし、津波と原発事故で住民は避難を余儀なくされた。

     海岸沿いの請戸漁港に先月25日、約6年ぶりに漁船が帰還した。今月31日には町の一部で避難指示が解除される。ただ、請戸地区の沿岸部は住むことはできず、防災林や農地として整備される。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-118-OYTPT50306

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    1. 福島の漁師 負けぬ姿 3年半の記録 映画に
      2017年3月4日15時0分

       東日本大震災後の福島県の漁村を3年半にわたって取材したドキュメンタリー映画「新地町の漁師たち」が11日から、東京都内で上映される。監督の山田徹さん(33)は「災害に負けない、漁師たちの強い生き方を見てほしい」としている。

       山田さんは震災発生時、都内の映像制作会社に勤めていた。自身は被災しなかったが、福島県で暮らす詩人の和合亮一さんが、津波に襲われた同県新地町の駅の様子を「悪魔が列車となって通り過ぎたのか」と詠んだ言葉に触れた。

       「生死の境にいた人たちの体験を記録したい」と思い、震災の1か月半後、カメラと簡単な荷物を手に同町に入った。

       港では岸壁が壊れ、漁師たちの主な仕事は海中のがれき集め。東京電力福島第一原発事故で生活の基盤を奪われ、「夢も希望もねえべよ」と語る悲哀、そして、その後の試験操業開始による喜びまで、月1回のペースで東京から通い続け、カメラに収めた。

       町から約40キロ南にある同県浪江町では、3月末に避難指示が解除される。山田さんは「全町避難でいったんは離散してしまった人たちがどう団結していくのか。もっと深く福島と漁師の姿に迫りたい」と次回作の構想を練っている。

       映画は92分。上映はポレポレ東中野(東京都中野区)で11~24日。大阪市、福島市でも上映される予定。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-118-OYTPT50308

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    2. 弁護士職員 復興に貢献 土地相続や賠償手続き…被災3県 延べ19人採用 
      2017年3月4日15時0分

       東日本大震災や東京電力福島第一原発事故で被災した岩手、宮城、福島県の自治体に任期付き職員として採用された弁護士が、復興の促進に貢献している。被災地では、震災から6年を迎える現在も、補償問題や土地の取得など法的課題が山積のために各自治体からのニーズは高く、これまでに延べ19人が採用されている。

       採用されたのは、岩手県庁1人、宮城県庁2人、福島県庁1人のほか、3県の9市町で15人の計19人。採用の動きは震災2年後の2013年以降に始まり、任期はおおむね2、3年。年齢層は30~40歳代が中心だ。

       被災地では、集団移転での土地取得に伴う権利関係の調整や補償のクレーム対応などの業務が増加。復興に向けて膨大な事務を抱える自治体の職員が、これらの課題に対処しきれずに業務の遅れが深刻化し、採用の動きにつながった。

       土地の相続や登記作業といった権利問題に関する業務のほか、福島県浪江町では、原発事故を受け、東電に土地や建物の賠償などを求めた裁判外紛争解決手続き(ADR)の手伝いのため、町と弁護団の間に入って連絡役を務め、資料作りなどを行ってきた。福島県の担当者は「法的な対応がスムーズになり、復興のスピードアップにつながった」と評価する。

       任期後もそのまま定着する弁護士も出てきている。

       原発事故で全町避難する福島県浪江町で、13年から2年間勤務した井上航わたる弁護士は、同県二本松市に事務所を開設した。京都府出身で、震災当時は長崎県五島市の「法テラス五島」で活動していたが、「避難している町民に寄り添いたい」と、同町の募集に応じた。ADRでは、原告弁護団と町との調整役を務め、資料作成もした。

       井上弁護士は「最初はこなした件数を数えていたが、途中からは忙しすぎて覚えていない。今後は、弁護士の立場で復興の形を模索していきたい」と語っている。

      法テラスへの相談増 15年度5万4000件

       被災地の法的支援を巡っては、2012年4月に特例法が施行されたことを受け、法務省所管の日本司法支援センター(法テラス)での無料法律相談で、依頼者の収入や資産の条件が撤廃された。裁判外の紛争解決手続き(ADR)なども対象業務に加わり、各種係争の終了まで費用の支払いを繰り延べできるよう変更された。

       15年度の相談件数は被災3県を中心に5万4575件あり、14年度より約3000件(約5・9%)増加。12年度比では約1万1600件も増えた。被災3県では、県庁所在地の地方事務所のほか、沿岸部を中心に計7か所の「出張所」を設置しており、この3県での相談が約80%を占める。

       特例法の期限は来年3月まで。延長されなければ出張所も廃止される見通しで、新たな「受け皿」の確保が急務となっている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-118-OYTPT50279

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  7. 住宅すべて流された集落解散へ ふるさとの証しに桜植樹
    3月4日 13時13分

    東日本大震災の津波ですべての住宅が流された福島県南相馬市の集落が今月いっぱいで解散することになり、4日、住民たちが久しぶりに集まってふるさとの証しを後世に残そうと桜を植樹しました。

    福島県南相馬市の沿岸部にある南右田行政区の集落には震災前はおよそ330人が暮らしていましたが、震災の津波ですべての住宅が流され54人が犠牲となりました。

    集落の大部分は災害危険区域に指定され、各地に移って生活を始めている住民たちは元の場所で集落を再建することを諦め、今月いっぱいで行政区を解散することになりました。

    これを前に4日は住民80人が久しぶりに集まり、震災の犠牲となった地域の人たちを悼む慰霊碑の近くで黙とうをしたあと、合わせて30本の桜を植樹しました。
    桜は高さ5メートルほどの若い木で、住民たちはふるさとの証しを後世に残そうとそれぞれの名前を刻んだプレートを添えていました。

    区長を務めていた五賀和雄さんは「ここで暮らしてきたことを次の世代にも伝え、桜の世話をしたり花見をしたりして皆が集える場所にしたいです」と話していました。南右田行政区では地区の歴史や住民の思い出をつづった記念誌も作ることにしています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170304/k10010898611000.html

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  8. [震災6年 未完の事業]<4>子供のため 避難先に定住
    2017年3月5日5時0分

     宮城県富谷とみや市の門沢睦子さん(44)は、住み慣れた土地を一家で離れて間もなく6年になる。高校3年生から小学4年生の4人の子供たちは今、仙台市や富谷市の学校に通っている。次男の将貴君(14)は来年、高校受験だ。

     東日本大震災の前は、夫(49)と子供たちとで同県南三陸町に住んでいたが、津波で新築の自宅は全壊した。夫が経営していた機械販売会社は行き詰まり、門沢さんも学習塾のアルバイトを失った。自宅のローンを残し、育ち盛りの4人を抱えた夫妻は翌月、夫の実家がある富谷市へ避難した。

     移った当初、門沢さんは気疲れや津波のフラッシュバックで体調を崩し、うつ病と診断された。その後、夫妻は働き口を得て一軒家も借りたが、家計は苦しい。それでも門沢さんは「仙台市に近く買い物に便利で、子供の進学先の選択肢も多い。ここを離れることは考えられない」と言い切る。

           ◎

     岩手、宮城、福島3県の沿岸部には震災前の2010年5月、約21万人の小中学生がいたが、16年5月には約18万人に減少した。

     学校の統廃合も進み、3県の小中学校はこの6年間で約70校減った。遠隔地から子供を運ぶスクールバスを運行する自治体も多い。また、3県では1月末現在、24校がプレハブ仮設の校舎を使い、21校は他校などに教室を間借りしている。42校は校庭などに仮設住宅が立ったままだ。

     岩手県大槌町出身の大下広彦さん(51)は震災後、盛岡市の自動車販売会社に転職し、妻(53)、長男(15)、長女(13)と市内のみなし仮設のアパートに移り住んだ。月に1回は残った父母の世話で町へ行くが、子供の姿を見るのはまれで、地元の中学校にも生徒は戻っていないと聞く。

     大下さんは15年秋、盛岡市で中古住宅を購入した。「大槌には仕事もなく、子供の教育も不安。故郷の復興を願っているが、家族を犠牲にはできない」と語る。

           ◎

     避難先で定住しても、落ち着いた生活を取り戻すのに苦労する人も多い。宮城県亘理町で被災し、熊本市に住む柴田祐子さん(44)親子は2度、転居した。

     震災直後、原発事故で出た放射能に対する考え方の違いから夫と別れ、被災者向けに住宅支援を行っていた和歌山市へ長男(15)と移った。アルバイトで食いつないでいたが、長男から「学校で『放射能』と呼ばれている」と明かされ、打ちのめされた。

     さらに西へ行こうと熊本へ。幸い、長男は友達もできて、部活動に熱中した。自身も、熊本で知り合った男性と再婚。昨年4月には熊本地震も経験したが、「熊本で子供が元気になり、夫と出会えた。運が良かったとしか思えない」とホッとした表情を見せる。

     福島県から自主避難した人への住宅支援は、今月いっぱいで打ち切られる。福島で働く夫を残し、小学生と幼稚園児の子供2人と東京都内で暮らす主婦は「一気に生活が苦しくなる」と憤る。「まだ福島に戻ろうとは思わない。でも、物価の高い東京で子育てできるか、不安」とため息をついた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170305-118-OYTPT50058

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    1. [震災6年]被災地の子供 遠距離通学 バスで片道1時間…女川小・中学校
      2017年3月5日5時0分

       東日本大震災の後、岩手、宮城、福島の被災3県の沿岸部では、小中学生が約3万人も減った。統廃合により学校も減り、遠隔地からスクールバスで長時間かけて通学する子供たちも少なくない。プレハブ仮設の校舎や、他校に間借りをする学校も多く残る。震災後6年たっても、依然として子供たちが不便を強いられている実態を追った。

      「故郷で学びたい」 移住先から登校

       震災で800人を超える人が死亡・行方不明となった宮城県女川町。今も約1500人が仮設住宅で暮らす。町の全域で復興工事が進むが、小中学生は震災前から半減し、計5校あった小中学校は女川小、女川中の2校に統合された。

       同町が、「地域の未来と子供たちをつなぐ懸け橋」(村上善司教育長)と位置づけるスクールバスの運行は、震災の翌月から始まった。現在、町内8地点、石巻市内の2地点を発着する10系統を運行しており、計約280人が利用している。

       2月、記者は午前7時過ぎに石巻市総合運動公園を出発するバスに同乗した。この日、バスに乗ったのは計19人の小中学生。約18キロの道のりを、1時間かけて学校へ向かった。

       同市蛇田へびたに住む女川中3年の山田くるみさん(15)は3年間、このバスで通学した。女川町にあった自宅は津波で全壊。山田さんの一家は、町内の仮設住宅で3年間暮らした後、女川を離れることを決めた。石巻市には両親の勤め先があり、仙台市内の進学校に通う兄(18)の通学にも便利だった。

       だが、山田さんは自宅から近い石巻市の蛇田中ではなく、女川中への進学を選んだ。「震災で大変な時を一緒に過ごした友達と離れたくなかった」と語る。

       バスに乗るには自宅から同公園まで、母に車で送ってもらう必要があり、毎朝5時50分には起きなければならない。早起きを苦痛に感じたこともある。他の生徒が休むなどして“乗客”が自分だけだった時、いたたまれない気持ちにもなった。それでも3年間、バスの窓越しに女川町が復興していく様子を見て、自分の故郷は女川なのだと強く思うようになったという。

       山田さんは4月から、石巻市内の高校へ通う。将来は大学へ進み、管理栄養士の資格を取るつもりだ。「将来は女川に住み、町を活気づけられるような仕事に就きたい」と考えている。

      仮設住宅の子も

       被災した子供向けにスクールバスを運行している自治体は、3県で計23市町村ある。そのすべてで震災後、子供が減少した。

       仮設住宅が学校から離れているため、長時間の通学を強いられる子供もいる。

       宮城県南三陸町立戸倉小6年の後藤大地君(12)は、登米市内の同じ仮設住宅に住む児童や生徒9人とともに、スクールバスで片道1時間かけて通っている。下校のバスは授業終了から約40分後に発車するので、放課後、学校に残って遊ぶことも難しい。自宅にある通信ゲームが、友達とコミュニケーションを取れる数少ない手段になっている。

       故郷の学校へ通い続けることは、大地君だけでなく、父・正和さん(41)の希望でもあった。だが、通学にかかる時間が長いため、大地君が体を動かす時間が少なくなり、正和さんは頭を痛めている。

       4月以降、登米市の仮設住宅からバスに乗るのは大地君と町立志津川中に通う姉・琉月るなさん(14)の2人だけとなる。正和さんは「予算も限られているのに、うちの子供のためだけにバスを走らせてもらうのは心苦しい」とも思っている。

      遊ぶ時間なく

       岩手県大船渡市の赤崎小4年の三浦愛結あゆさん(10)は、同小が津波で校舎が壊れたため、入学から4年間、間借り先の蛸たこノ浦小にスクールバスで通っている。徒歩で蛸ノ浦小へ通う子供と比べ、「遊ぶ時間が少ない」とこぼす。

       赤崎小は今春に再建され、新学期から授業が始まる。通学時間は徒歩で10分になるが、通学路は復興工事の大型車両も多く通り、車道と歩道はほとんど区別されていない。愛結さんを事故から守るため、母の久喜さん(40)は「工事が続く間は、私や愛結の祖父母が登下校に付き添うことになると思う」と話した。(社会部 石橋武治)

      国など経済支援/NPOが受験指導…子供の減少続く

       被災地で子供たちが減るということは、復興しても将来、地域を支える人材がいなくなることを意味する。このため、被災地では今も地道に子供への支援が続けられている。

       震災で就学が難しい世帯の児童や生徒を、国が経済的に支える「被災児童生徒就学支援等事業」には、2016年度に約80億円が充てられ、17年度も約62億円が予算計上された。スクールバスを運行する自治体への補助金もこれに含まれる。このほか、民間でも大手IT企業やメーカーなどがそれぞれ基金をつくり、遺児や孤児への奨学金を始め、幅広い支援を行っている。

       認定NPO法人「カタリバ」(東京)は震災後、宮城県女川町の廃校を活用して、児童や生徒の居場所作りに取り組んでいる。「女川向学館」と名付け、学習支援も行っており、補助金や寄付などで運営。元塾経営者や大学生らが受験に向けた指導も行っている。現在、町内の中学生の約半分、小学生の4割が通っている。

       被災地の教育事情に詳しい東洋大の森田明美教授(児童福祉学)は「震災から時間がたつに連れ、被災地に投じられる資金は減り、支援団体の撤退も相次いでいる。これまでの経済的、学習的な支援の『蓄積』を未来へどのように受け継いでいくかが重要だ。そのための人材育成が欠かせない」と指摘している。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-118-OYTPT50411

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    2. [震災6年]復興住宅「つながり」希薄
      2017年3月5日5時0分

      ◇複数の仮設住宅から移住 高い高齢化率

       東日本大震災の被災地では、家を失った住民らが仮設住宅から災害公営住宅(復興住宅)などへ引っ越す動きが進んでいる。ただ、復興住宅の入居者は高齢者の割合が高い傾向で、住民の見守りやコミュニティーの再生など課題も指摘されている。(小沼聖実)

       宮城県沿岸部の女川町中心部にある鉄筋コンクリート造4階の復興住宅には、約200世帯が暮らしている。ここに一人で暮らす男性(67)は「住まいとしては今が快適。だけど、居心地は前の方が良かった」とこぼす。前とは3年前まで住んでいた近くの仮設住宅だ。

       壁が薄く近くの住民の様子もうかがえた仮設住宅だったが、今ではドアを閉めると物音ひとつ聞こえない。毎朝行われているラジオ体操も、参加者の姿はまばらだ。ベランダで参加する人もいるが、終わるとすぐに室内に戻る人が目立つ。

       男性は今でも、前にいた仮設住宅で行われるラジオ体操や茶飲み話に顔を出す。その仮設住宅も移住が進み、ピーク時の150世帯から今春には30世帯ほどに減る見込みだ。

           ◆

       宮城県では、復興住宅入居者のうち、65歳以上の割合は38・4%と、県全体の高齢化率(25・6%)を約13ポイント上回る。岩手県では復興住宅に入居する世帯のうち、一人暮らしや高齢の夫婦2人など高齢者だけの世帯が4割を占めている。

       自力での住宅再建が難しい入居者が多く、高齢化率が高い傾向だ。複数の仮設住宅から集まることから、住民が孤立しやすく、新たな地域作りもなかなか進まない。

       宮城県石巻市の新立野第二災害公営住宅は約100世帯、214人が暮らすが、半数以上が高齢者だ。

       この団地では昨年8月、一人暮らしの80歳代の女性が、数日間食事を取っていない状態で見つかった。隣人が異変に気づいて訪れ、大事には至らなかったが、部屋のなかは賞味期限切れの食べ物や薬がいっぱいあったという。女性は介護施設に入所した。団地会の増田敬会長(65)は「一歩間違えれば孤独死につながっていたかも」と振り返る。

           ◆

       住民の見守りやコミュニティーづくりなどを支援するため、国は、「生活支援相談員」を配置する自治体に補助を出している。同様の職員を独自に配置する自治体もあるが、相談員が減っている自治体が多い。宮城県が昨年行った県内自治体への調査では、見守りや相談業務にあたる職員の数は計573人。2013年の788人から3割減った。

       石巻市社会福祉協議会では11年に約150人いた地域生活支援員が、16年には約70人と半減。同協議会復興支援課の伊藤勝弘課長は「支援員は、被災で失業した人の緊急雇用的な側面もあった。生活再建が進み、なり手が減っている」と明かす。

       復興住宅や孤独死の問題に詳しい立命館大の塩崎賢明よしみつ教授は、「東北は持ち家だった人が多く、慣れないマンション型の復興住宅では、閉じこもりきりになる人も多いのではないか。高齢者が多いと、住民たちだけでコミュニティーをつくるのは難しい。行政が入り、住民全体を巻き込んだ取り組みを支援することが必要だ」と話している。

      ◇住民主体の見守り活動

       被災した3県では、計画の約8割に当たる約2万2800戸の復興住宅が完成し、住民主体の見守り活動に取り組む復興住宅もある。

       約160世帯が暮らす仙台市太白区の「あすと長町市営住宅」では、住民有志が昨年9月から、高齢者や一人暮らしの住民らに月2回程度の家庭訪問をしている。様子が違えば、民生委員に報告する仕組みだ。不在の場合は玄関にマグネットを貼り、帰宅した際にはがしてもらうなど工夫する。

       見守り活動を呼びかけた飯塚正広さん(55)は、近くの仮設住宅で自治会長を務めていた。復興住宅に移って間もなく、同じ棟の男性が「孤独死」したことを機に、取り組みを思いついた。飯塚さんは「行政の見守り体制は目が粗い。住民自らが取り組み、補完すべきだ」と話す。

       石巻市の新立野第二災害公営住宅では、住民を対象に「認知症サポーター養成講座」を開催。サポーターに認定された住民が毎月集まり、地域の情報交換をしている。緊急時の連絡先などを記すカードを全住民に配布し、隣近所を気遣うきっかけにしたいとしている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-118-OYTPT50339

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    3. 【震災6年】「さみしくなる」…富高休校で卒業生ら =福島
      2017年3月5日5時0分

       富岡高校で4日、休校を前に行われた最後の式典には、同高の1期生から休校前の最後の卒業生まで様々な世代が集まり、休校を惜しんだ。

       1期生で、いわき市四倉町上仁井田の高木八四やよさん(80)は、六十数年ぶりに富岡町の同高を訪れた。「駅から友達とおしゃべりしながら歩いて通ったことを思い出した。さみしくなっちまうな」とつぶやいた。

       高木さんの孫でサッカー部だった日向ひゅうがさん(18)もこの春、同高を卒業する。「最後の卒業生にはなりたくない。いつか学校が再開し、後輩が活躍する姿を見たい」と話していた。

       同高はスポーツのエリート教育を行い、サッカーやバドミントンなどで日本代表クラスの選手を輩出した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170304-119-OYTNT50147

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  9. 「キャバクラ接待」環境省職員汚職騒動でケムにまかれるのは何かな?

    「福島原発」のニュース
    http://www.2nn.jp/word/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%99%BA

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    1. 「環境省」のニュース
      http://www.2nn.jp/word/%E7%92%B0%E5%A2%83%E7%9C%81

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  10. 指定廃棄物の処分場 一部の県で建設の見通し立たず
    3月5日 5時21分

    6年前の原発事故で発生し、東北や関東などに残されている放射性物質を含む「指定廃棄物」について、環境省は比較的量の多い5つの県で、新たに処分場を建設し処理する計画でしたが、地元の反対が強いことなどから、一部の県で建設の見通しが立たない状態が続いています。

    環境省によりますと、東京電力・福島第一原子力発電所の事故で発生した放射性物質を含む「指定廃棄物」の量は、先月下旬の時点で、東北と関東など11の都と県で、合わせて18万8000トン余りに上っています。

    環境省は、このうち「中間貯蔵施設」で処理する福島県を除いて、指定廃棄物の量が比較的多い、栃木と千葉、茨城、宮城、それに群馬の5つの県で、新たに処分場を建設し処理する計画でした。

    しかし、茨城県と群馬県では、国の試算で今後、多くの指定廃棄物の放射性物質の濃度が下がると見られることから、今の場所で保管を続ける方針です。

    このほかの3県には、処分場の候補地を示して協議を続けていますが、宮城県でも国の測定の結果、濃度が下がり、指定廃棄物の量が当初の3分の1程度に減る見通しになったことから、今の場所で保管を続けることも視野に協議が進む見込みです。

    一方、栃木県と千葉県については、平成38年の時点で、栃木でおよそ4200トン、千葉でおよそ1500トンの指定廃棄物が残ると試算されていますが、いずれも候補地がある自治体などの反対が強いことなどから、建設の見通しが立たない状態が続いています。

    環境省は「処分場を建設し処理するという基本的な方針は変わっていないので、理解を得るため地元への説明を続けたい」と話しています。

    指定廃棄物の現状

    指定廃棄物は6年前の東京電力・福島第一原発事故で発生した放射性物質を含む稲わらや汚泥、それに焼却灰などで、放射性物質の濃度が、国の基準の1キログラム当たり8000ベクレルを超えているものが指定されます。

    環境省によりますと、指定廃棄物は先月24日の時点で、東北や関東など11の都と県に、合わせて18万8000トン余りに上っています。

    県別では福島県が最も多く16万517トン、次いで栃木県が1万3533トン、千葉県が3707トン、茨城県が3536トン、宮城県が3412トン、群馬県が1187トン、新潟県が1018トン、東京都が982トン、岩手県が476トン、静岡県が9トン、神奈川県が3トンとなっています。

    指定廃棄物は、時間の経過とともに放射性物質の濃度が下がって国の基準を下回り、環境省が指定を解除すれば、一般の廃棄物として処理できるようになります。

    去年は千葉市などで指定が解除されていて、今後も放射性物質の濃度は徐々に下がり、指定の解除が予想されることなどから、各地で分散して保管される状態が続いています。

    ただ、国の試算では、平成38年1月の時点でも、栃木県で4250トン、千葉県で1510トン、群馬県で269トン、宮城県で194トン、茨城県で0.6トンの指定廃棄物が残ると見られています。

    このため環境省は、この5つの県では新たに処分場を作り、処理を進めることが必要だとする基本方針は変えておらず、今後も地元と協議を続けることにしています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170305/k10010899081000.html

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    1. 復興事業 契約額が途中で増額相次ぐ 5分の1が2倍以上に
      3月4日 18時37分

      東日本大震災のがれき処理や原発事故の除染など国や県が発注した大規模な復興事業でゼネコンとの契約額が途中で増額されるケースが相次ぎ、全体の5分の1の事業は契約額が当初の2倍以上に引き上げられていることがNHKの取材でわかりました。こうした契約変更について環境省や岩手県はホームページで公表しておらず、専門家は「税金のむだづかいや不正につながりかねず情報公開の徹底が必要だ」と指摘しています。

      NHKは震災後に宮城県と岩手県が発注した「がれき処理」や環境省が発注した原発事故の放射性物質を取り除く契約額1億円以上の「除染」、それに除染で出た廃棄物を処分する中間貯蔵施設の関連工事など合わせて73件の大規模な復興事業についてゼネコンとの契約状況を調べました。

      業者の選定は「価格面」や「技術力」を総合的に判断する方法などで行われましたが、「これまで経験がない震災後の事業で緊急性が高く正確な業務量を見極めるのが難しかった」などとして全体の87%にあたる64件の事業でゼネコンとの契約額が途中で増額され、全体の5分の1は契約額が当初の2倍以上に引き上げられていることがわかりました。

      環境省などは公共工事の契約額を30%を超えて増やす場合、増額分については新たに入札を行うなどして契約し直すことを原則としていますが、NHKが調べた復興事業では全体の60%余りで契約額が30%以上増額されていたにもかかわらず新たに契約が行われたケースはありませんでした。

      こうした契約変更について、宮城県は事前に議会の議決を経たうえでその内容をホームページで公表していますが、環境省や岩手県は情報公開のルールに従ったとして契約変更をホームページで公表せず、岩手県は議会にも変更された事業の契約額を報告していなかったということです。さらに震災から6年となることしに入ってからも除染や中間貯蔵施設など4件の事業で契約額の大幅な増額が続いています。

      大幅増額の復興事業

      環境省がおととし10月に一般競争入札で発注した除染で出た廃棄物を処分する「中間貯蔵施設」の関連工事は当初、5億3000万円余りで大手ゼネコンのグループに発注されましたが、去年3月から先月にかけて4回にわたって契約が変更され、契約額は当初の5倍以上となる27億円余りに膨れあがっています。

      また岩手県が平成23年12月に発注した宮古地区のがれき処理事業の契約額は平成24年3月から翌年2月にかけて3回にわたって契約が変更され、当初の36億円から2.2倍となる81億円に、宮城県が平成24年5月に発注した気仙沼地区のがれき処理事業の契約額は当初の484億円から1.5倍の729億円にそれぞれ引き上げられています。

      また環境省がおととし4月に発注した双葉町の除染事業の契約額は去年8月までの半年間に3回にわたって契約が変更され、当初の22億円から3.8倍の84億円余りに、おととし7月に発注した南相馬市の除染事業の契約額は当初の96億円から2.3倍の222億円余りにそれぞれ引き上げられています。

      環境省と岩手県はネット公表せず

      国や自治体などが発注した公共事業の当初の契約額は透明性を確保するためホームページなどで公表されていますが、その後の契約変更の内容を公表するかどうかは自治体によって対応が分かれています。

      宮城県はがれき処理について「多額の支出を伴う事業でありすべてをオープンにする必要がある」としてゼネコンとの当初の契約を変更する際には議会の議決を経たうえでその内容をホームページで公表しています。

      一方、岩手県は今回、NHKの取材に対し契約変更の内容を初めて明らかにしましたが、それまで変更された事業の契約額を議会に報告せずホームページや県報などでも公表していませんでした。

      岩手県は建設関連の事業については契約変更の理由や金額を公表するよう県のルールで定めていますが、「がれき処理事業は価値のない廃棄物を処理する『役務』であり建設関連の事業ではない」などとして公表の対象にしていなかったということです。

      岩手県の担当者は「県のルールに照らしてがれき処理の契約変更は公表する必要がないということだった。公金は1円であっても大切なお金なので適切に使っている」と話しています。

      また環境省は除染や中間貯蔵施設の整備などの契約変更について福島市の事務所の閲覧室にあるファイルに資料を挟む形で公表しています。しかしホームページなどでは見ることができないため、契約変更の情報を知るには福島市の事務所まで足を運ぶ必要があります。

      環境省の担当者は「書面の閲覧による公表は会計上のルールで認められており方法に問題があるという認識はない」としたうえで、ホームページなどで情報公開を進めるかについて「指摘があったので課題として受け止める」と話しています。

      専門家「契約変更の情報公開が必要」

      公共事業の入札や契約の問題に詳しい上智大学法科大学院の楠茂樹教授は復興事業で契約額の増額が相次いでいることについて「誰も経験したことのない震災後の事業なのでどうしても事前の見込みと違うという状況は発生しうるが、契約額の増額がここまで激しく行われるのには違和感を感じるし契約額が2倍3倍になるのは通常ならありえない話だ。最初の入札では予定価格を1円でも上回れば無効になるのに、お金を使えば使うほど契約変更で予算がつくということになれば歯止めがかからなくなり公金の有効利用の観点からも検証し直す必要がある」と指摘しています。

      また契約変更の情報公開については「最初の契約の透明性は確保されているが、その後、契約がどのように変化したのかについては情報公開が不十分だ。契約額が当初の2倍3倍になっているケースがあるのにその情報が積極的に公表されなければ税金が有効利用されたかどうか議論することもできず市民の不信を招くことになる。不透明な部分は不正や癒着、甘えが生じやすく情報公開を徹底する必要がある」と話しています。

      そして、震災から6年となった今も復興事業で契約額の増額が続いていることについて「これだけ長い期間、事業を行っているのだから、改善が進むはずなのに今も繰り返されているのは不信感を招く。復興事業には現在進行形で税金が投入されており有権者はもっと厳しくこの問題を見ていく必要がある」と話しています。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170304/k10010898821000.html

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  11. 誤解とデマ(3月5日)

     大手検索エンジンに「福島 農家」と打ち込む。関連キーワードに「死ね」「食べない」など、書きつづるのをためらう言葉が並ぶ。偏見によって固定された情報や認識が更新されないもどかしさが募る。
     今月中旬に予定されていた韓国・済州[チェジュ]航空のチャーター便が出発地を、福島空港から仙台空港に一方的に変えた。原発事故の放射性物質による健康被害を心配してのことだという。同国のネットには「福島に飛んだ機体に乗りかねないので済州航空は今後利用しない」などと書き込まれた。まったく解せない。
     NHK・Eテレで月末の月曜日深夜、放送される「福島をずっと見ているTV」。容易に消し去ることができない福島に対する負のイメージは、どうしたら払拭[ふっしょく]できるのか。先日はそんな特集だった。震災から6年が経過するのに誤解や悪質なデマは後を絶たない。
     明らかに間違っている情報の伝達を多様性という言葉で済ませてはいけない-。同番組で出演者が示した見識だ。韓国の人にも伝わらないだろうか。事故当時に比べ、福島は刻々と表情を変えていますよ。実際に来て見て触れたら分かるはずです。どうか福島を上書き保存してください。

    ( 2017/03/05 08:40 カテゴリー:あぶくま抄 福島民報 )
    http://www.minpo.jp/news/detail/2017030539527

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  12. 震災伝える記念館、野ざらし状態…存廃の岐路に
    2017年3月5日9時16分

     発生から7日で90年となる北丹後地震を伝える丹後震災記念館(京都府京丹後市峰山町、府指定文化財)が、老朽化で4年以上も閉鎖され、存廃の岐路に立たされている。

     所有する京丹後市は「貴重な施設だ」と認めるが、数億円かかる保全費用の捻出が困難なためだ。4日は地元で震災の記憶を伝える催しも行われたが、館は使用されず、野ざらし状態が続く。

     記念館は地震から2年後の1929年、府などが義援金の残金を基に建設した。当時は珍しい鉄筋コンクリート2階建てで、壁には洋画家・伊藤快彦やすひこ氏(故人)が被災直後の様子を描いた3枚の「震災実況模写油絵」が掲げられている。

     54年に旧峰山町に無償譲渡後、図書館などとして活用。発生時刻で止まった時計や火災で溶けた硬貨など地震の資料を展示する「丹後震災記念展」の会場としても使われてきた。

     しかし老朽化は著しく、市は耐震上の観点から2012年4月、同館を立ち入り禁止とした。

     意匠を凝らしたデザインは近代建築としての評価も高いが、市町村が所有する文化財には、国や府から修復などの補助金は出ない。このため、市教委は「貴重な施設だが費用捻出は難しい。現状では雨漏りを防ぐ覆いを作るくらいしかできない」と説明する。

     3枚の油絵も、絵の具が剥落するなど傷みが激しくなっている。同地震で祖父の兄弟が犠牲になった同市峰山町の杜氏、高田茂吉さん(56)は「子供の頃に見た油絵の印象は強烈だった。地震の恐ろしさを伝えるためにも、絵を含めて保全してほしい」と願う。

     明治~昭和初期に起きた地震に関する記念館は、関東大震災(1923年)の東京都復興記念館(墨田区)など、わずかしか現存していない。

     名古屋大減災連携研究センターの武村雅之教授(地震学)は「『慰霊の場』との性質を持たない限り、長く保存されない。自治体任せにするのではなく、住民たちも知恵を出し合う必要がある」と指摘する。

     ◆北丹後地震=1927年3月7日、京都府の旧網野町(現在の京丹後市網野町郷)を震源に発生。阪神大震災と同規模のマグニチュード7・3を記録し、丹後全域で約2900人が死亡、約2万棟が全半壊した。気象庁によると、過去100年の地震の死者・行方不明者数では6番目の規模。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170305-118-OYT1T50008

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    1. あまり余計なものを残さないことも、後世の人たちに迷惑をかけないための、今生きている人の知恵と賢明さ…

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    2. 石碑一個、記念樹一本ぐらいにしておけばよいかも…

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    3. 大震災の教訓伝える祈念公園の起工式 岩手 陸前高田
      3月5日 17時32分

      東日本大震災の犠牲者を追悼し、教訓を後世に伝えようと岩手県陸前高田市に復興祈念公園が整備されることになり、5日、起工式が行われました。

      「高田松原津波復興祈念公園」は震災の犠牲者を追悼し教訓を後世に伝えようと、国と岩手県、それに陸前高田市が、津波に耐えて残った「奇跡の一本松」などを含むおよそ130ヘクタールに整備します。

      起工式には岩手県の達増知事などおよそ90人が出席し、全員で黙とうをささげました。そして、達増知事が「犠牲者への追悼と復興への強い意志を国内外に発信していくため公園の整備を進めます」とあいさつしたあと、くわ入れが行われて工事の安全を祈願しました。

      公園の整備費はおよそ100億円で、奇跡の一本松や震災の遺構となっている道の駅などを生かして防災の教訓を伝えるほか、自然災害では全国初となる国営の追悼・祈念施設も整備される計画です。

      式のあと、田中良生国土交通副大臣は「県や市と連携して地域の声を聞きながら、施設の整備を進めていきたい」と話しました。

      この公園は、平成32年度末までに完成する予定です。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170305/k10010899571000.html

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    4. >公園の整備費はおよそ100億円で、奇跡の一本松や震災の遺構となっている道の駅などを生かして防災の教訓を伝えるほか、自然災害では全国初となる国営の追悼・祈念施設も整備される計画

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  13. 中間貯蔵施設用地確保は2割未満

    県内の除染で出た大量の廃棄物を保管するため、国が整備する中間貯蔵施設は、去年11月にようやく着工しました。
    しかし、用地が確保できたのは計画の2割に満たず、廃棄物は、いまも県内の14万か所以上の住宅の庭先などに置かれたままになっていて、施設の整備や搬入の加速化が課題となっています。
    政府は、福島第一原発が立地する双葉町と大熊町にまたがる、およそ16平方キロメートルの土地に除染で出た土などを保管する中間貯蔵施設を建設する計画で、原発事故から5年半あまり経った去年11月にようやく着工しました。
    しかし、これまでに用地が確保できたのは2.8平方キロメートルあまりと計画全体のおよそ18%にとどまっています。
    また、用地の一角に設けられた保管場に搬入されたのは、全体で1600万立方メートルから2200万立方メートルに達するとされる廃棄物全体のうち、およそ1%に当たる、19万5000立方メートルにとどまっています。
    一方で、県内各地の仮置き場は、いまも1100か所あまりにのぼるほか、住宅の庭先や学校などに保管されているか所も去年9月末時点でおよそ14万6000箇所に達しています。
    住民の生活圏での除染廃棄物の保管が続くなか、施設の整備や搬入の加速化が課題となっています。
    03月05日 12時42分 NHK福島放送局
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054424351.html

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  14. ずれる対話 福島巡り続くデマ
    3/5(日) 21:52 掲載
    http://news.yahoo.co.jp/pickup/6232120

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    1. なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと
      BuzzFeed Japan 3/5(日) 10:46配信

      「福島県産の食品は実は危ない」「放射能がうつる」。原発事故から6年が経とうというのに、根拠のないデマはあとをたたない。なぜ起きるのか。専門家と住民のコミュニケーションのズレにその一因がある。【石戸諭 / BuzzFeed Japan】

      「放射能のはなし、難しくておぼえてない」
      リスクの伝え方を研究し、食品企業のコンサルティングなどを手がけてきた西澤真理子さん(48歳)はズレを経験した専門家のひとりだ。

      2011年9月、福島県飯舘村から「放射線リスクをどう村民に伝えたらいいか」のアドバイザーを務めてほしいと依頼された。

      西澤さんが主催し、放射線の専門家と住民の少人数の対話集会を開いた。

      福島市内にできた仮設住宅の一角。専門家は、飯舘村が直面している放射性物質のリスクについて、住民を素人扱いせず熱心に、かつわかりやすく話した。

      放射性物質は事故前に日常的に食べていたもの、例えばバナナやポテトチップスなどにも含まれていること。食品で気になることがあるなら、それらと比較して判断すればよいこと。

      水道水をつかってもいいし、この時点で過剰に健康リスクを心配する必要がないことも伝えていた。

      子供がいる世帯には関心が高いだろうと考え、広島や長崎の被爆者を対象にした研究成果も取り上げた。遺伝を心配するような被ばくはしていない、と強調するためだ。

      対話は活発だったし、なにより、参加者は熱心にメモをとっていた。
      集会が終わった後、西澤さんと専門家は「これは成功だ。他の仮設住宅でもやるべきだ」と話していた。

      ところが2012年1月末、集会に参加した住民の感想を聞いて、西澤さんは愕然とする。

      「先生、この前の話、全然おぼえてない」と子育て世代の女性は話しはじめた。
      「バナナにも(放射性物質が)あるって言っていたから、娘にバナナ食べさせるのやめたんだ」

      比較のために、バナナの事例を出したが、バナナを食べないようにという話はしていない。西澤さんはもう一度、女性に尋ねる。

      「えー。あれだけメモとってたじゃないですか」
      「うん、でもあとはラドン温泉の話くらいしか覚えていない」
      「そうですか……。わからなかったこと、次に聞きたいことあります?」
      「先生、放射能の話は難しいんだよね。なにを質問していいのか、わからないんですよ」

      専門家としては、住民の関心にあわせてわかりやすく説明したつもりだったが、住民は覚えていない。
      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170305-00010004-bfj-soci

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    2. 問題は住民の理解力?

      問題はどこにあるのか?
      専門家が懇切丁寧に説明したのに、それを理解できない住民の理解力が足りないということか。

      逆に、住民の理解力にあわせられない専門家がダメということか。

      そのいずれでもない、と西澤さんは考える。自分たちが説明したいことと、彼女たちが知りたいこと、受け止めてほしい感情にズレがある。

      専門家は、科学的なリスクの考え方に基づいて住民に説明した。それは好ましくないことが起きる可能性を論じたものだった。

      しかし、彼女たちにとっての「可能性」の受け止め方は、専門家のそれとは大きく異なっている。

      例えば、専門家が他のリスクと比較して「かなり低い」と話しても、それは安心の材料にはならない。「どんなに低くても確率が残っている以上、嫌なものは嫌だ……」となる。

      ただ、そこに住んでいたというだけで、避難をしろといわれ、生活を変えないといけない。

      「科学的な結論はわかったけど、どうせ科学者はここで生活するわけじゃない。理不尽な被害を受けるのは、住んでいる自分たちだ」という気持ちが彼女たちに残っている。

      専門家と行政への不信感
      西澤さん自身の言葉で、ズレが生じた理由を分析してもらおう。

      -------------------------------------------
      いま思えば、当然のことですよね。

      リスクは、科学的な観点からだけでなく、社会的な観点や、個々人の受け取り方という観点からも論じないといけない。

      科学的な説明で納得できる人はいいけど、人の納得の仕方はそれぞれの状況でまったく異なる。

      対話に参加してくれた人たちのなかでも、住民対象の説明会に参加して、専門家の説明を聞いた人は多かった。

      そこでも散々、科学的な説明はあるんです。彼らは「専門家はどうせ、また村は安全っていうんでしょ」と思っているんです。

      事故が起きてから、飯舘村が計画的避難区域に指定されるまでだいたい1カ月。人によっては、避難するまで、村に住み続けたことを強く後悔しています。

      私がやった対面のインタビュー調査で、あがってきたのはこんな声です。

      「あのとき、孫を遊ばせた雪のなかにたくさん放射能がついていたんじゃないか」
      「避難前に外で遊ばせていた。もし将来なにかあったら、それは私の責任だ」
      「小さな子供たちは、自分は結婚できない、結婚しても子供ができないと考えている」

      この不安に対して、専門家は「科学的には、この程度の放射性物質で影響はありません」「広島、長崎の研究を踏まえれば~」と説明する。

      これは科学的には正しい。でも、コミュニケーションとしては失敗しています。

      彼女たちが求めていたのは、知識ではなく、まず自分がしてしまったことを受け止めてほしいということ。

      自分が悩んでいることであり、知識を聞いてもどうしても消えない不安がある、と知ってほしかったんですね。

      ここからズレているんです。
      ------------------------------------------
      西澤さんは、原発事故後の対応では、行政だけでなく専門家も不信感を持たれた、と考えている。

      インタビュー調査にある住民の声が「不信感」を象徴している。

      「子供がいる世帯は避難したほうがいい、ともっと早く言ってほしかったのに、(2011年4月上旬に)質問しても『年間被ばく量がどうだこうだ』とか難しいことばかり言われて、答えてもらえなかった」

      「大丈夫、大丈夫という科学者の声を信じてきたけど、結局、避難することになった。それなら、逆に事態が深刻です、という人のほうが信用できる。(講演会にいっても)どうせ安全というに決まっている」
      いちど失った信頼は、容易には取り戻せない。

      --------------------------------
      専門家は難しいことを言って「大丈夫」だという答えを押しつけようとしている、と感じている住民もいました。
      いまなら、このときに必要だったのは、もう少し親身になって考えることだったと言えます。
      自分が子供と一緒に住んでいたら、どんな情報をもとに、どうリスクを判断するかという話をする。
      でも、それは正解ではなく、いろんな選択肢どれもが個々人にとって正解なのだ、という姿勢も大事だと言うこともできる。
      私たちは十分にできなかったけど、うまくコミュニケーションがとれた科学者もいました。しかし、その数は足りなかった。
      ----------------------------------
      福島に関してもっともコミュニケーションに成功した専門家は、おそらく東京大の物理学者、早野龍五さんだろう。

      早野さんは私の取材にこう語っていた。

      「科学的に正しいから、でみんなが納得するとは限らないんですよね」

      早野さんは頻繁に福島に足を運び、住民とのコミュニケーションの意義を体感的に知っていた。
      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170305-00010004-bfj-soci&p=2

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    3. ずれるコミュニケーションはデマにつながる

      「住民が聞きたいことを引き出し、専門家が伝えたいこととすり合わせること。聞きたいことと、専門家が伝えたいことのミスマッチを可能な限り減らす場をつくること」

      これが西澤さんの教訓だ。そして、ミスマッチを放置してはいけないのは、いまだ福島を巡って繰り返されるニセ科学やデマの素地になっているからだ、と指摘する。

      人はどうしても、自分の仮説や信念に都合のいい情報ばかり集めてしまうバイアスがかかってしまう。

      前述したように、いちど専門家に不信感を持ってしまったら、人はどんな情報を集めるようになるか。

      「事態が深刻だという人」の声を集め続けることになるだろう。

      不安につけ込むように、インターネット上に大量に、危険を訴えるデマや誤情報も入ってくる。例えば「福島県産食品は実は危ない。子供たちに食べさせてはいけないのだ」。

      福島県産食品のデータを調べれば簡単に否定できる情報だが、よかれと思って善意から忠告する人もいる。

      「科学的には正しいけど、結論を押しつけられて終わる。それなら『優しくて、温かいコミュニケーション』がとれるニセ科学、デマのほうが自分にマッチしているという人は残り続けます」

      誤った言説を批判し、事実を示し続けることは必要。しかし、そこから先にも考えるべき問題は残っている。

      「人の判断基準って、言っている内容以前の問題で、どうしても論理よりも感情が優先する。それは仕方ないんです。だから、コミュニケーションというフレームが必要になるんです」

      災害が頻発し、原発事故まで起きたのに、科学的事実を踏まえてコミュニケーションを担える人材も、専門家と住民をつなぐ人材も、決定的に不足している。

      原発事故から6年目の現実だ。西澤さんはこう話す。

      「説明したいだけ説明して、科学的結論に納得してもらう。これをリスクコミュニケーションだと思っている人もいる。これでは、単に結論を受け入れろと言っているだけです」

      「普通の生活する人たちの『不安だ』という言葉の裏に何が隠れているか。現場で起きていたことから、学ばないといけないのです」
      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170305-00010004-bfj-soci&p=3

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  15. なぜ、被災地に「幽霊」がでるのか あいまいな死に寄り添い生きる
    そして、大切な人の死と、どう向き合うのか。
    posted on 2016/02/11 11:17
    石戸諭 BuzzFeed News Reporter, Japan

    被災地の幽霊

    ある学生が書いた卒業論文が話題になっている。「呼び覚まされる霊性の震災学」(新曜社)に収録された「死者たちが通う街—タクシードライバーの幽霊現象」だ。
    東北学院大の工藤優花さんが宮城県石巻市のタクシー運転手が実際にあった幽霊について聞き取り、まとめたものだ。
    津波被災地で幽霊をのせたタクシー運転手がいる。そこだけが切り取られ、「幽霊はいる」「非科学的なもので、論文とはいえない」といった声がネットにあふれた。

    現場から問う死生観 『死者』『喪失感』と向き合う

    卒論を指導した社会学者の金菱清教授は、苦笑混じりに語る。
    「幽霊をみることもよりも、幽霊現象を通して死生観、『死者』との向き合い方を考察することがこの論文の主題なのに」
    金菱さんはフィールドワークを専門とする社会学者だ。

    大学進学を決めた1995年に、阪神淡路大震災を経験している。その時、疑問を抱いたのは目線の位置だった。崩れ落ちる高速道路、被害があった神戸市内。強調されたのは上からの映像だ。
    「伝えられる映像の多くは、上空からみる鳥瞰図目線になっていて、そこにいる人の目線が抜けている」
    復興も同じだ。常に地図上の科学的なシミュレーションがベースになり、鳥瞰図から一見、合理的な計画が打ち出される。

    割り切れない思い

    「大事な人を亡くす、行方不明になる。それだけでなく、街そのものが変わったという喪失感がある。復興を考えるなら、現場に住む人が持っている人間観、死生観、感情から考えないといけない」
    死者や喪失と人はどう向き合うのか。学生たちと東日本大震災の被災地を歩き、インタビューを重ね、調査を続けている。
    幽霊現象はまさに、被災地域の死生観が象徴的に現れている事例だと考えている。
    「生きている人と死者の中間に、行方不明に象徴される『あいまいな死』があります」
    「当事者のあいだでも、生と死はきれいにわかれていない。遺体が見つからないため、死への実感がわかず、わりきれない思いを持っている人の気持ちとどう向き合うのか。幽霊現象から問われているのは慰霊の問題であり、置き去りにされた人々の感情の問題なのです」

    夏場、コートを着込んだ女性は「南浜まで」と告げた

    工藤さんがタクシー運転手の体験を聞き取った石巻市では、津波などによる死者は3277人、行方不明者は428人に達している。
    論文から、証言を抜粋してみる。
    震災で娘を亡くしたタクシー運転手(56歳)は石巻駅周辺で客を待っていた。震災があった3月11日から数ヶ月たった初夏、ある日の深夜だった。ファー付きのコートを着た30代くらいの女性が乗車してきた。目的を尋ねると、女性はこう言った。
    「南浜まで」
    「あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか。コートは暑くないですか?」
    「私は死んだのですか?」
    女性は震えた声で応えた。運転手がミラーから後部座席を見たところ、誰もいなかった。
    「『東日本大震災でたくさんの人が亡くなったじゃない? この世に未練がある人だっていて当然だもの。(中略)今はもう恐怖心なんてものはないね。また同じように季節外れの冬服を着た人がタクシーを待っていることがあっても乗せるし、普通のお客さんと同じ扱いをするよ』。ドライバーは微笑んで言った」

    「おじちゃん、ありがとう」。少女はすっと姿を消した

    別の運転手(49歳)は小学生くらいの女の子を乗せた、と証言している。2013年の夏、時間は深夜だった。コート、マフラー、ブーツを着た少女がひとりで立っていた。不審に思いながらも「ひとりぼっちなの」と話す少女。家の場所を答えたので、そこまで連れて行き、手をとって少女を降ろした。
    「おじちゃん、ありがとう」
    そう話した少女は、すっと姿を消した。
    運転手は「『お父さんとお母さんに会いにきたんだろうな〜って思っている。私だけの秘密だよ』。その表情はどこか悲しげで、でもそれでいて、確かに嬉しそうだった」。

    幽霊現象に遭遇した各タクシー会社の記録では、無賃乗車があった扱いになるという。客を確かに乗せたが、代金は支払われなかったという扱いだ。

    「(亡くなった人が)会いにくるの」

    被災地で幽霊の話を聞くのは決して、珍しいことではない。取材をするなか、私も思い返したことがある。石巻市内の居酒屋で聞いたこんな話だ。もうすぐ、震災1年を迎えようという時期だった。
    この店を切り盛りする50代女性は、震災後、店を休み、炊き出しなどボランティア活動をしていた。見慣れた街の様子は一変していた。遺体を前に泣き崩れる遺族、そして行方が分からない家族を連日探す人々を何度も見たという。
    「ご遺体が見つからないんだよ。あんなに悲しいことはないよ」
    「だからなのかね…」。私1人になった店内で、女性は私のコップにビールを注ぎながら、こう口を開いた。
    「言いにくいことだけどね、会いにくるのよ。見つけてほしって」
    「誰がです?」
    「亡くなった人が」
    これも震災の年、ある夏の日だったという。車で津波被害が甚大だった地区を走っていたところ、コート姿の女性が立っていた。
    「なんで、この季節にコート?」
    驚いて通り過ぎたあと、すぐにサイドミラーで確認したが、誰も立っていなかった。
    この女性も、楽しい思い出話を語るように微笑みながら話していた。

    「『幽霊』なんて言うな」 運転手が持つ畏敬の念

    工藤さんの調査と共通しているのは、恐怖感がないことだ。単なる怪奇現象ではなく、自分たちが出会った相手への敬意がある。
    工藤さんは、タクシー運転手への聞き取りを重ねる中で、こんな経験をした。
    「私が『幽霊』というと、そんな風に言うなと怒る方がいました。きっと、『幽霊』という言葉に興味本位だと思われる響きがあったからでしょう。怪奇現象とか、心霊写真とか恐怖を楽しむような言葉だと思われてしまった。『亡くなられた方』とか『(亡くなった方の)魂』というと、お話してもらえました」
    運転手から、こう問われたこともある。
    「きみは大事な人を亡くしたことがあるかい? 人は亡くなると、眠っているように見えるんだ。あのとき、こうすれば良かったと後悔する。亡くなっても、会いに来てくれたら嬉しいんじゃないかな」
    彼らは「幽霊」の存在に理解を示し、温かい気持ちで受け入れている。そこにあるのは死者に対する畏敬の念だ、と工藤さんはそう考えている。

    生と死の中間にある「あいまいな死」

    金菱さんは、東日本大震災を特徴づけているのは「『あいまいな死』が多いこと」であり、「地震から津波到達まで時間があったため、『もっと自分がこうしていれば、助かったのではないか』という後悔の念が強く起きること」だと指摘する。
    「あいまいな死」は、生きている人にとっては、本人が死んだのかどうか明確にはわからない。「本当に私の大切な人は死んでしまったのか」と問い続け、死を受け入れられない。
    そして、「あのとき、電話をしておけば…」「もっと声をかければよかった」と自分を責め続けることになる。仮に葬儀をしたとしても、その気持ちはおさまえることはない。

    無念に寄り添う

    運転手らの言葉には「あいまいな死」とどう向き合うか、そのヒントが詰まっている。彼らは「あいまいな死者」の存在を肯定し、人々の無念さにすっと寄り添っている。
    「大事なのは、幽霊現象があるかないかという問題ではない。体験した人が『死を受けいれられない』という声に寄り添い、その存在を肯定していること。中間領域を消さずに、丸ごと肯定し、死者に対して敬意を払っていることが大事だ」と金菱さんは話す。
    死者への敬意は別の調査からもうかがえる。

    死者への敬意

    ゼミ生の小田島武道さんは同じ石巻市内で、仮埋葬という形で土葬した遺体を、遺族の要望で掘り返し、さらに火葬した葬儀会社の取り組みを調査した。
    土葬された672人もの遺体を、葬儀会社のスタッフたちは作業服姿で掘り起こしにあたった。作業服姿は敬意を欠いているように思えるが、そうではない。
    土葬され、梅雨、夏場が近くなり腐敗も進む、遺体の泥を丁寧に拭い、棺に納めるには作業服しか選択肢がなかったのだ。一人一人の遺体に合掌し、効率を優先せずトラックを使わなかった。遺族感情を重んじ、霊柩車を模した10台の車で遺体を運んだ。
    被災者は投げかける「人は死んだら終わりですか?」
    ニュースや記録を通じ、私たちは死者や行方不明者を数字としてまとめてみてしまうことが多い。しかし、そこには一人一人の死があり、それぞれの家族や地域の感情がある。死も一様ではない。
    自分たちの死生観にもとづいて、生と死をきっぱりわけることは、中間領域の存在を否定することであり、あらゆる死と向き合ってきた当事者の感情を否定することにつながってくるのではないか、と金菱さんは問う。

    金菱さんは新刊「震災学入門」(ちくま新書)の中で、中学生の子供を亡くした被災者が、生前に通っていた中学校で使われていた机に刻んだ言葉を紹介している。
    「街の復興はとても大切なことです。でも沢山の人達の命がここにある事を忘れないでほしい。死んだら終わりですか?」
    金菱さんは言う。
    「この問いにどう応えるでしょうか?被災地の人々が多様な死者へ払っている敬意から私たちはもっと学ばないといけない。死者の思いを受け止めない慰霊は、誰の感情に寄り添っているのか。もっと被災者の視点から問われないといけないのです」
    https://www.buzzfeed.com/satoruishido/higashinihon-earthquake-yurei

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  16. 奥野修司『魂でもいいから、そばにいて―3・11後の霊体験を聞く―』
    橘 玲/死者と生者の間に生み出された物語

    新潮社「波」2017年3月号
    http://www.shinchosha.co.jp/nami/backnumber/20170228/

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    1. 奥野修司 『魂でもいいから、そばにいて ―3・11後の霊体験を聞く―』
      http://www.shinchosha.co.jp/book/404902/

      >「亡き妻があらわれて語った〈待っている〉という言葉が唯一の生きる希望です」「兄の死亡届を書いているとき〈ありがとう〉と兄のメールが届いて」「夫が霊になっても抱いてほしかった」――未曾有(みぞう)の大震災で愛する者が逝(い)き、絶望の淵(ふち)にあった人びとの心を救ったのは、不思議でかけがえのない体験の数々だった。“奇跡”と“再生”をたどる、感涙必至のノンフィクション。

      https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A5%A5%E9%87%8E%E4%BF%AE%E5%8F%B8+%E9%AD%82%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%B0%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%A6

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  17. 全種解除 いつなのか 量少なく検査できず 漁業再生(上)

     「全ての魚介類の出荷制限が解除される日はいつになるのか」。いわき市の漁師の男性は水揚げした魚を見ながらつぶやいた。本県沖での1日も早い本格操業開始を願い試験操業を続けているが、胸の内のもやもやとした疑念を消せずにいる。
     東京電力福島第一原発事故後、政府は放射性物質検査でセシウム濃度が食品衛生法の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超えた本県沖の魚介類延べ44種の出荷を制限した。解除となる場合、県が制限対象種の検査結果を水産庁に送り、政府の原子力災害対策本部が県に解除を指示する。
     これまでにヒラメやババガレイなど32種の出荷制限が解除されたが、残る12種の解除時期は不透明だ。漁獲量が少なく検体の確保が難しい上、政府の解除要件があいまいだからだと指摘する声が出ている。


     平成24年以降のセシウム濃度検査で、基準値を1度超えただけだが出荷制限が続いている魚にサクラマスがある。24年4月2日に1キロ当たり127ベクレルを記録し、制限対象となった。同4月11日以降に検査した17回は全て基準値以下で、このうち16回は検出下限値未満だが、現在も制限されている。
     一方、12種のうち、サクラマスとビノスガイは28年に1検体も検査できなかった。カサゴやヌマガレイ、イカナゴ、ウミタナゴなども10検体未満にとどまる。漁師は検査をしたくともできない現実に苦しむ。


     出荷制限解除の基準となる政府のガイドラインによると、沿岸性の種は過去に基準値を超えた場所を含む複数の地点で獲り、検査するよう県に求めている。解除に必要な検査地点数や検体数に関する明確な記載はないが、32種については「一定の漁獲量」があったとして政府は解除要件に該当したと判断した。一方、残る12種は見通しが立っていない。ガイドラインには「検査結果が安定して基準値を下回っていること」との条件も記されているが、「安定」の根拠には触れていない。
     管理が難しい野生のキノコや山菜は野菜や果実などと比べて多くの検体が必要となる。水産物は移動する観点から、要件がより厳しくなっている。
     水産庁は検査地点数や検体数があいまいと指摘される点について「広域に生息する魚介類の特性を考慮すると、解除基準を明確に定めるのは難しい」(研究指導課)と説明し、打開策を探る。
     いつまで待てばいいのか。いわき市の漁師の男性は「消費者の安心のために厳しい要件があるのは分かる。ただ、水揚げが少ない実態を考慮した現実的な対応を考えてほしい」と訴える。

    【出荷制限が続く12種の魚介類】
    イカナゴ(稚魚除く)
    ウスメバル
    ウミタナゴ
    キツネメバル
    クロダイ
    サクラマス
    シロメバル
    スズキ
    ヌマガレイ
    ムラソイ
    ビノスガイ
    カサゴ

    (福島民報 2017/03/04 12:53カテゴリー:復興を問う-震災6年の現実)
    http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2017/03/post_14802.html

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    1. 水産庁「要件見直しも」 厚労省「安心損なう」 漁業再生(中)

       水揚げの少ない本県沖魚介類12種の出荷制限解除の見通しが立たず漁業者から不満の声が上がる中、水産庁は解除要件の見直しが可能かどうか検討に入った。担当者は「漁獲量が少ない現状を踏まえれば柔軟な対応も考えなければならない」と話す。あくまで現行の要件での解除が基本だが、放射性物質検査に必要な検体が十分に集まらない種に限って「『例外』もあり得る」との見解だ。

       具体的には、制限対象種と同じ「属」に分類される魚種の検査結果を制限対象種に当てはめ、解除の判断材料とする案が浮上している。例えば、ムラソイはメバル属に分類されるため、メバル属の他種のセシウム濃度が食品衛生法の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を下回っているかどうかを調べ、結果を基にムラソイの解除の可否を判断する流れを想定している。
       水産庁などによると、同じ属であれば体の構造や好む餌、生息環境が似ていることが多い。魚介類がセシウムを体内に取り込んだり排出したりする機能も似ており、両種に含まれるセシウム濃度を同程度とみなせる可能性があるという。
       一方、同じ属の種でも回帰時期が異なる場合は餌や生態が異なるとされる。両種のセシウム濃度を同程度とみなすためにはさらなる根拠が必要となり、今後の検討課題になるとみている。
       水産庁は今後、出荷制限解除の可否を判断している厚生労働省と要件の見直しについて協議する考えを示す。

       ただ、厚労省は見直しに慎重な姿勢を示しており、解除の先行きは見通せない。一部種の要件を緩和することで、既に解除した他種を含む県産魚介類全体に対する消費者の信頼度が低下し、安全・安心感を損なうリスクを指摘する。担当者はまだ水産庁から話はないとした上で「見直し案の内容次第だが、現時点では何ともいえない」と明言を避ける。
       厚労省が出荷制限解除の可否を判断しているのは食の安全性の担保を管轄しているためだが、県に制限や解除の指示を出すのは農林水産、厚労両大臣など関係閣僚らで構成している政府の原子力災害対策本部だ。対策本部事務局の担当者は「出荷制限の解除に関する内容は厚労省の管轄のため回答できない」との立場を取る。どういう判断で制限が解除になるのかは県にも知らされておらず、解除を決める流れはブラックボックス状態とも言える。
       県内の漁業者の一人は「解除要件が見直され制限対象種が減っても、消費者の信頼を失えばこれまでの努力が水の泡になる。しかし、現状のままでは完全に解除となるのはいつになるか分からない」と本格操業に向けて揺れる心境を明かした。

      (2017/03/05 16:19カテゴリー:復興を問う-震災6年の現実)
      http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2017/03/post_14811.html

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  18. 東北3県被災者の約6割「心身の影響続く」
    3月6日 4時25分

    東日本大震災の発生から6年になるのを前に、NHKが岩手・宮城・福島の被災者などを対象に行ったアンケートで、およそ6割の人が「心身への影響が続いている」と答えました。家族を失った喪失感や将来への不安によるストレスがあると記述した人もいて、専門家は、一人一人の見守りなど被災者支援のさらなる強化が必要だと指摘しています。

    このアンケートは、NHKが、岩手・宮城・福島の3県の被災者や原発事故の避難者合わせて5000人を対象に、去年11月から先月にかけて行ったもので、全体の3割近くに当たる1437人から回答を得ました。

    アンケートでは、「震災による心身への影響が続いているか」尋ねたところ、「そう思う」が29%、「ややそう思う」が32%と合わせて61%に達しました。どのような症状があるか複数回答で尋ねたところ、「気分が沈みがち」がもっとも多く32%、次いで、「よく眠れない」が31%、「薬が必要になった」が30%などとなりました。

    さらに自由記述には、福島県浪江町の69歳の男性が「妻が避難生活の疲れから持病が悪化し、入院中に亡くなった。それ以降すべてに対してやる気がなくなった」と書いたほか、宮城県気仙沼市の71歳の女性は「夫を亡くしてひとり暮らしになり、金銭的、精神的、肉体的に不安を感じることが増えた」と回答しました。

    今回の結果について、防災社会学が専門で兵庫県立大学の木村玲欧准教授は「自宅や生活の再建ができず取り残された人たちは、焦りや孤立感から心身への影響が続いてしまう。行政やボランティアによる一人一人の見守りが非常に重要になってくる」と述べ、被災者や避難者支援のさらなる強化が必要だと指摘しています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170306/k10010899711000.html

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  19. どういった形であれ、大事な人が死んで亡くなり失うのは世の常…

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  20. 水揚げ量 原発事故前の1割弱

    原発事故からの福島県沖の漁業の復興は、この1年で大きく前進し、県が事故のあと続けている魚介類の放射性物質検査では、去年初めてすべての検体が国の基準値を下回ったほか、水揚げ量は前の年より30%以上増えました。
    しかし、その水揚げ量は、事故前の1割に満たず、ほど遠い状況です。
    福島県は、原発事故のあと、県沖の魚介類について、月におよそ700検体にのぼる放射性物質検査を続けています。
    去年1月からの1年間では、8502検体を検査し、食品1キロ当たり100ベクレルという国の基準値を初めて年間を通じてすべて下回りました。
    こうしたデータをもとに安全性が確認され、試験的な漁の対象は97種類まで拡大する一方、国の出荷制限が出された魚介類は12種類まで減りました。
    その結果、沿岸での試験的な漁の去年の水揚げ量は、2000トンあまりと、前の年よりおよそ500トン、率にして30%あまり増えました。しかし、事故前の2万5000トンのわずか8%にとどまっています。
    福島県沖の漁業を巡っては、こうした環境の改善が進むにつれて、事故で中断された漁港の魚市場での競りの再開など元の形に戻していこうという動きがみられますが、原発事故に伴う風評の払拭や、福島第一原発の敷地内に保管されたままの大量の汚染水の処理など課題も残されています。
    03月06日 10時59分 NHK福島放送局
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054378351.html

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  21. [震災6年 未完の事業]<5>高台移転 高齢者に負担
    2017年3月6日5時0分

     岩手県大槌町の沢舘さわだて三枝子さん(75)は、買い物かごのカボチャや豚肉、仏壇用の花などをリュックサックと手提げバッグに詰めると、重そうに持ち上げた。東日本大震災前は、沿岸の安渡あんど地区で隣にスーパーがある家に住んでいた。今は同じ沿岸のショッピングセンターで買い物をして、約1・5キロ離れた、海抜6・5メートルの寺野臼沢地区の自宅に帰る。「こんな不便なことになるなんて」

     同地区には、防災集団移転促進事業で移住する98戸分の宅地と災害公営住宅40戸が造られ、現在約90世帯が暮らす。沢舘さんの夫健介さん(81)は肺気腫を患い、酸素ボンベが手放せない。夫のためにも早く仮設住宅を出たいと考え、玄関前にスロープがある災害公営住宅に入居した。

     ただ、町営バスは1、2時間に1本。週2回、往復400円かけてショッピングセンターに通う。5キロ入りのコメやサラダ油など重いものを運ぶと、高齢の身にこたえた。今年に入り、車を持つ近所の知人が週1回、一緒に買い物に連れていってくれるようになった。でも、気兼ねする。「小さくてもいいから近くにスーパーがある地域になってほしい」

     同じ悩みを抱える高齢者は多い。内陸部や高台は、車を持たない高齢者には不便だからだ。大船渡市のNPO法人「さんりくWELLNESS」は、仮設住宅の高齢者をスーパーまで送迎する活動をしてきたが、集団移転先の集落や災害公営住宅でも活動を始めた。理事長の熊谷侑希さん(32)は「仮設住宅を出た高齢者の需要も多い」と話す。

            ◎

     読売新聞のまとめでは、岩手、宮城、福島3県の沿岸部では計308地区で防災集団移転が行われている。小さな集落が移転でさらに小規模化するケースも多く、移転世帯が10戸未満の地区が全体の約3割、98地区に上る。

     宮城県石巻市桃浦地区では、海岸近くの海抜約40メートル地点に宅地が造成され、5世帯が集団移転した。住民6人のうち5人が65歳以上。高齢者が過半数を占めて社会的共同生活の維持が困難になる、いわゆる「限界集落」だ。区長の甲谷こうや強さん(88)は「このままでは10年後に集落が崩壊してしまう」と危機感を募らせる。

     湾奥部にある桃浦地区は震災前、65世帯170人が暮らしていた。かつてカキ養殖で栄えた集落も後継者不足で高齢化が進んだ。津波で6人が亡くなり、住民は子供などを頼って次々と市街地に移住。地区に残ったのは、集団移転した5世帯を含む12世帯21人だ。

     集団移転を選んだ一人、今野さだ子さん(86)は「住み慣れた海の近くなのは良いのだけれど」とこぼす。

     両膝に痛みがあり、外出時は手押し車やつえが欠かせない。心臓の持病で、バスとタクシーを乗り継いで市内の病院に通う。自宅からバス停まで、急な坂を下って約1キロ歩く。薬を多めに処方してもらい、通院を2か月に1回に減らした。「帰りは5、6回休みながら何とか家にたどり着く。つらいが、自ら望んだ場所なので仕方ない」と自分に言い聞かせる。

     集団移転した住民のために、乗り合いタクシーを運行する自治体もあるが、すべての集落をカバーするのは難しい。神戸大の室崎益輝名誉教授(防災計画)は「集団移転は津波からの安全性を優先した計画なので、行政には住民の生活を守る責務がある。買い物や交通の不便さを解消しなければ、人口はさらに流出してしまう」と警鐘を鳴らす。

     【防災集団移転促進事業】 被災住民を安全な高台や内陸部に集団移転させる事業。市町村は津波浸水地域を災害危険区域に指定して住宅建築を制限し、自宅を再建する住民のために移転先の宅地を整備する。自宅跡地は住民から買い取る。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170306-118-OYTPT50058

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    1. [震災6年]移転しても地域の輪 交流拠点「集いの場に」
      2017年3月6日5時0分

       東日本大震災の津波被害を受けた岩手、宮城、福島3県の沿岸部では、26市町村の計308地区で防災集団移転促進事業が進む。住民が故郷を離れるなど移転先の集落は小規模になり、内陸部や高台での慣れない暮らしは苦労も多い。かつての結びつきを取り戻す試みが始まっている。

        戻りたくなる街

       リアス式海岸のあちこちに新しい小規模集落ができた岩手県大船渡市。越喜来おきらい湾奥の港に面した泊地区では2014年1月、海から約800メートルの山あいの休耕田に宅地が完成し、13世帯が移った。新集落は、人と人を結ぶ場所を意味する「結ゆいの丘」と名付けられた。

       震災前は64世帯203人が居住。魚や野菜を近所で分け合い、新年会や総会で住民が集まるなど、結びつきが強かった。地元の商店は憩いの場で、売り場横の小上がりに高齢者が集まり、持ち寄った漬物を食べながら談笑した。

       津波で1人が亡くなり、25戸が被害を受けた。東海大やNPO法人「アーバンデザイン研究体」などのグループが支援活動を行ったこともあり、集団移転を希望した13世帯は一人も欠けずに高台に移った。

       「結の丘」完成から約1年3か月後の15年4月、東海大などのグループは、津波被災地を見渡す高台に住民の交流拠点「結っ小屋」を建てた。約30平方メートルの木造で、ウッドデッキやピザを焼く窯がある。グループのメンバーと住民らが、地元食材を使った料理イベントや街づくり会議などを行っている。住民が散歩の途中に休むこともできる。

       結の丘に住む会社員佐川静香さん(55)は「地域のつながりを強める場所になっている。みんなで活用方法を話し合い、昔の商店のように高齢者も集える場所になれば」と期待を込める。アーバンデザイン研究体の金子哲也事務局長(63)は「住宅完成後もソフト面の支援は必要。コミュニティーを再生して、若い世代が戻りたくなる街にすることが必要だ」と話した。

        出店に二の足

       13世帯が暮らす結の丘に商店はない。集団移転で新たに生まれた集落は、住民が少なく高齢化も進んでいることが多いため、採算性の問題などから商業施設が出店しにくいのが実情だ。震災前のにぎわいを再生するのは難しい。

       約200メートル離れた福祉事業所では、周辺住民の要望で併設店舗に日用品や菓子などを置くようになったが、利用は多くない。車でスーパーに行って必要な買い物をしている家庭が多いためだ。住民の黄川本子さん(76)は「近所の人が集まり、わいわいできる場になれば、もっと行きたくなるのに」と話す。

       店の再開を検討する商店主の悩みも深い。津波被害などにより、15年の国勢調査で人口減少率が岩手県最大の23%になった大槌町。町内の仮設商店街「福幸きらり商店街」で長男夫婦と菓子店を営む大坂十萬里とまりさん(67)は、町中心部の西方にある寺野臼沢団地への出店を考えているが、「震災直後のように先が見えない」という。

       旧町役場近くの店は津波で流され、店主だった夫が亡くなった。11年12月に仮設店舗で再開し、被災地支援として全国から注文を受けたが、売り上げは徐々に減少。仮設店舗の期限は来年9月に迫る。

       地域にどれだけの町民が戻るのか分からない。なんとか仮設店舗で営業してきたが、再び一から始めるのは不安だ。「もうそんなに頑張れる年齢ではない。そこまでして店をやるのか、悩んでいる」

       
      中心市街地 空洞化の恐れ

       市街地の再建では、復興と同時に人口減少にも対応するため、各自治体は定住人口を増やして街を活性化させる施策を進めている。利便性を高めるため中心市街地に都市機能を集約したり、新駅近くに造成した街への移住を促したりするが、住民のニーズは多様で、行政の思惑通りに進んでいない面もある。

       津波で大きな被害が出た宮城県石巻市の中心部を含む石巻地区。市は公共交通網の中心となるJR石巻駅前に行政機関や商業施設、その周辺に住宅を整備する「コンパクトシティー化」を進めている。2016年9月には中心施設の一つとなる市立病院が駅の西側に開院した。

       しかし、住民は駅から車で約15分の蛇田へびた地区に次々と移っている。近くにショッピングセンターや三陸自動車道のインターチェンジがあるなど利便性が高い。石巻地区は震災前より約1万3000人減ったが、蛇田地区は約5000人増加。中心市街地の空洞化も懸念される。

       海沿いに住んでいた鈴木重人さん(43)は、津波を見て怖がるようになった子供が内陸部を望んだため、一家で蛇田地区に移った。「飲食店や薬局も近くて便利。駅周辺では有料駐車場を使うので、足が遠のく」という。同地区で不動産業を営む比佐野ひさの皓司さん(35)は「郊外移転の動きは前からあったが、震災後に加速した」と話す。

       同じくコンパクトシティー構想を進める宮城県山元町は、津波で被災して約1キロ内陸に移ったJR常磐線の新駅周辺など3か所に住宅地を造った。山下駅周辺の「つばめの杜もり」には、旧駅周辺の花釜地区などから484世帯約1100人が移り、昨秋、「まちびらき」が行われた。同地区は約1000世帯が住む町内最大の街だったが、津波で全域が浸水。町は、宅地購入と住宅建設時の補助額を他地域より増やして移住を促した。

       ただ、自宅を修復して同地区に住み続ける住民の中には、復興から取り残されたと感じる人もいる。区長の岩佐年明さん(71)は「町が新市街地に注ぐ力を、もっとこちらにも向けてほしい」と訴える。

        人口減 急速に

       人口減少が急速に進む被災地では、厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が2013年3月に発表した、10~20年後の推計人口をすでに下回っている自治体もある。

       15年国勢調査で宮城県女川町の人口は6334人と、35年の推計人口6400人を下回った。同県山元町は1万2315人で、25年の推計より820人少ない。

       人口減少に歯止めをかけようと、山元町は新年度から、若者などが農業を体験しながら町内で暮らす「お試し移住」を始める。南三陸町も農業や漁業の体験ツアーを行い、首都圏からの移住を促す。今年度は2回行い、10~60歳代の計12人が参加。町は「移住を前向きに考えている人もいる」と手応えを感じている。

       女川町は子育て世代を呼び込もうと、子どもの学力向上対策を打ち出し、小中一貫校を開設する予定だ。

       東北大の吉田浩教授(公共政策)は「働き盛りの世代が地元での暮らしに展望を見いだせず、都市部に流出している。自治体はそれぞれの強みを明確に打ち出すべきだ」と指摘する。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170305-118-OYTPT50220

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    2. [震災6年 文化でつなぐ]<上>無人の町 3次元データに残す
      2017年3月6日5時0分

      目抜き通り、壁画 今を記録

       東日本大震災から間もなく6年。記憶をつなぎ、人と人をつなごうと、新たな動きが芽生えている。復興に文化の力を生かす可能性について、被災地から3回にわたって探る。

       無人の目抜き通りには、無事な家屋がほとんど見えなかった。商店の柱は傾き、1階はつぶれている。歩道には、落ちた看板や割れたガラスが飛び散り、寺院の門は前のめりに倒れたままだった。

       福島第一原発事故で今も大部分が帰還困難区域になっている福島県双葉町を2月上旬、許可を得て歩いた。まるで昨日、地震が襲ったかのようで、6年前、住民が取るものも取りあえず避難したまま、時間が止まっていた。「本当に何にも、手つかずで……」。案内してくれた同町の橋本靖治・秘書広報係長が、ぽつりと言った。

       町は今年度、町の現在の風景を3次元(3D)のデータで残す取り組みを始めた。町の中心部を含む約8平方キロの範囲を小型無人機(ドローン)で上空から撮影するとともに、小中学校や避難所となった福祉施設などは、地上でレーザー計測した。得られたデータを使えば、町の姿がコンピューター上で再現できる。より精密な再現ができるように、計測装置を積んだ自動車を走らせてデータを得ることも検討している。

       記録するのは、痛々しいままの町の姿。橋本係長は、「町民からは、荒廃していても、自分の家や町がどうなっているか知りたい、その姿を歴史に残してほしいという声が多い」と話す。避難が続く中、どこで、どう3Dの記録を公開するか、今後の課題でもある。

               ◇

       被災地での3D記録保存には、東北大も取り組んでいる。2013年に始めた当初は、宮城県気仙沼市街に打ち上げられた大型漁船や同県南三陸町の防災対策庁舎など、「震災遺構」の記録が中心だった。だが、14年から福島県での活動に本腰を入れるようになると、原発災害で避難が続くまま年月を経た町の姿を記録することが増えた。東北大総合学術博物館の藤沢敦教授(考古学)は、「避難が続く中、故郷の災害を一つの歴史として残したいという要望を、福島では強く感じる」と話す。

               ◇

       原発の北西約3・5キロ。双葉南小学校の玄関に、6年前に避難した子供たちのランドセルが、そのまま残っていた。裏山には、国史跡の清戸迫きよとさく横穴がある。ここで、藤沢教授らのチームが行った3D計測の作業に、同行した。

       同横穴は、7世紀の豪族の墓とされ、奥壁に壁画が赤色顔料で描かれている。1967年、小学校新築に伴うブルドーザーによる造成中、偶然発見された。保護のため、墓室の手前に軽量鉄骨造りの観察室が設けられ、壁画はガラス板で外部と隔てられている。だが、原発事故後、十分な管理が難しく、木の根が墓室内に入り込み、壁画を傷める恐れも指摘されている。

       計測は、壁画の大敵であるカビなどを防ぐため、室内の温湿度に終始注意を払い、防護服で全身を覆った作業員が慎重に行った。3Dスキャナーの白い光が当たると、壁画が鮮やかに浮かび上がる。直径74センチの渦巻文を中心に、騎馬の人物、狩猟の風景が描かれ、古代の暮らしが目に浮かぶようだ。

       得られた凹凸や色彩の高精度なデータによって、壁画をコンピューター上で再現したり、3Dプリンターで立体のレプリカを作ったりできるようになる。東北大はデータを町に無償提供するという。藤沢教授は「現地に行けない状況が続く中、地元の人たちが地域の誇りを再確認するのに役立てば」と話す。

       被災の記憶をつないでいく取り組みに終わりはない。(文化部 清岡央)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170305-118-OYTPT50139

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    3. [震災6年]ため池耐震化に新制度 法改正案 農家の同意・負担不要
      2017年3月6日5時0分

       政府は全国のため池の耐震化を加速させる新たな制度を作る。東日本大震災で福島県のため池が決壊して8人が死亡する惨事が発生したことを教訓に、国や都道府県が必要と判断すれば、農家の同意や農家の費用負担なしに対策工事を行えるよう改める。関連規定を盛り込んだ土地改良法改正案の今国会中の成立を目指す。

       ため池は農業用水を確保するために人工的に造られたもので、全国に約20万か所ある。農林水産省によると、決壊した場合、下流の住宅などに大きな被害をもたらす恐れのある「防災重点ため池」のうち、昨年3月末時点で把握している分だけでも全国の1837か所で耐震構造上、問題があった。

       しかし、現在の制度では、ため池の水を使う農家の3分の2の同意と申請がなければ耐震化工事に着手できない。昨年4月の熊本地震でひび割れなどの被害を受けたため池を抱える熊本県も補修を進めているが、担当者は「同意を取り付けるのに時間がかかる」と話す。

       自治体によっては農家が工事費の一部負担を求められる場合もあり、農家による申請の足かせとなっている。

       土地改良法改正案には、耐震性が不足していると判断されたため池について、農家の同意なしに耐震化工事を進めやすくする規定を盛り込んだ。農家に費用負担を求める場合に限り、農家の同意を条件とする。

       工事では、ため池の水を抜くため、季節によって農業生産への影響が避けられない。農家の同意を不要としても、丁寧な説明は欠かせない。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170305-118-OYTPT50262

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  22. 役場の主要部署 6年ぶりに元の庁舎に 福島 富岡町
    3月6日 14時11分

    東京電力福島第一原発の事故による避難指示が来月1日に大部分で解除される福島県富岡町で、避難先に移っていた町の主要な部署が、6日に6年ぶりに元の庁舎に戻りました。

    福島県富岡町は原発事故による避難指示が全域に出されていますが、来月1日に、比較的放射線量が高い帰還困難区域を除く大部分で、避難指示が解除されることになっています。

    町は、仮の役場をおよそ100キロ離れた郡山市に置いていますが、避難指示の解除に備え、総務課や産業振興課など主な9つの部署が、6日、6年ぶりに元の役場の庁舎で仕事を再開しました。

    庁舎では、宮本皓一町長が「町が新たなステージに前進できるよう引き続き励んでほしい」と職員に訓示しました。富岡町では今月27日に、ほかの部署も元の役場に戻ることになっていて、避難を続ける住民が多い郡山市といわき市には役場の支所を置いて証明書の発行などに対応するということです。

    企画課の30代の男性は「ようやくここまで来たという気持ちです。町民が戻りたいと思えるような町を目指して仕事をしていきたい」と話していました。

    宮本町長は「避難指示の解除後も帰還困難区域は残るので、もろ手を挙げて喜べないが、町民とともに新たなスタートを切っていきたい」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170306/k10010900411000.html

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  23. 民進党 福島第二原発を事実上廃炉とする法案提出目指す
    3月6日 4時33分

    東日本大震災以降運転を停止している東京電力福島第二原子力発電所について、民進党は、再稼働の条件を厳しくすることなどで、事実上廃炉とする法案をまとめ、与野党各党に協力を呼びかけ、今の国会への法案の提出を目指すことにしています。

    東京電力福島第二原子力発電所は、東日本大震災以降運転を停止していますが、福島県などは「風評払拭(ふっしょく)や住民の帰還などの取り組みに水をさしている」として、早期に廃炉とすることを決めるよう政府と東京電力に求めています。

    震災からまもなく6年となる中、民進党は、地元の要望に応えるためにも廃炉の決定を急ぐ必要があるとして、福島第二原発を事実上廃炉にするための法案を取りまとめました。

    法案では、福島第二原発のように原子力緊急事態宣言が一時発令された原発について、再稼働には周辺自治体の同意を義務づけるとともに、法律の施行後2年以内に原子力規制委員会の新しい規制基準への適合性審査を申請しなければ、事業者の意向にかかわらず、原発の許可を取り消すとしています。

    民進党は、与野党各党に協力を呼びかけ、今の国会への法案の提出を目指すことにしています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170306/k10010899801000.html

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    1. いざというときの「備え」も必要だろに…

      いつまでも「石油」が手に入ると思っていてもダメだろうに…

      それが、第二次世界大戦の教訓。

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    2. なにごとも「中庸」が大事。

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  24. 復興「遅れている」「実感持てない」が6割に
    3月6日 17時00分

    東日本大震災の発生から6年になるのを前に、NHKが、岩手・宮城・福島の被災者などに行ったアンケートで、地域の復興について尋ねたところ、「想定よりも遅れている」や「進んでいる実感が持てない」と答えた人が6割に達しました。一方「進んでいる」と答えた人も4割近くに達しましたが、地域経済や生活環境の回復にはつながっていないと考えている人が多く、復興の在り方が課題になっています。

    NHKは、岩手・宮城・福島の3県の被災者や原発事故の避難者合わせて5000人を対象に、去年11月から先月にかけてアンケートを行い、全体の3割近くに当たる1437人から回答を得ました。

    この中で、震災前に暮らしていた地域の復興状況について、どう感じるか尋ねたところ、「進んでいる実感が持てない」が26%、「想定よりも遅れている」が36%と、合わせて6割に達しました。

    これに対し、「それなりに進んでいる」が34%、「想定よりも早く進んでいる」が2%と、「復興が進んでいる」と回答した人は合わせて4割近くとなりました。

    しかし、この「それなりに進んでいる」「想定よりも早く進んでいる」と答えた人たちに、地域の今の姿を震災前と比べてどう感じるか尋ねたところ、「地域経済がよくなった」と答えた人は4%、「地域に活気が出た」は8%、「交通の便がよくなった」は13%、「買い物が便利になった」は15%にとどまり、地域経済や生活環境の回復にはつながっていないと考えている人が多いことがわかりました。

    今回の結果について、防災社会学が専門で兵庫県立大学の木村玲欧准教授は、「復興が進んだとしても、日常生活を不便なく行えるような支援が必要になるし、より新しい魅力のある地域にするにはどうしたらいいのかを考えることが課題になると思う」と述べ、復興の在り方を検討する必要があると指摘しています。

    復興についての実感 どう変わってきたか

    NHKでは、地域の復興について、東日本大震災の半年後から継続的にアンケートで尋ねています。

    このうち、「進んでいる実感がもてない」と答えた人の割合は、今回は26%で、去年、「震災から5年」で行ったアンケートの32%に比べて6ポイント減りました。
    また、「想定よりも遅れている」と答えた人の割合は今回は36%と、去年の53%より17ポイント減っていて、復興が「進んでいない」とか「遅れている」と感じる人の割合は、徐々に少なくなっています。

    しかし、「想定よりも進んでいる」と答えた人の割合は、今回は2.4%と去年と同じだったほか、おととしの「震災4年」のアンケートでは2.5%、その前の年の「震災3年」でも1.8%と、あまり変わっておらず、「復興が進んでいる」と感じる人の割合は、依然として低い状態が続いています。

    自宅再建するも「戻って後悔」

    アンケートに答えた宮城県石巻市雄勝町の佐藤悦子さん(65)は、津波で自宅が全壊したため、市内の別の地域に建てられた仮設住宅で暮らしたあと、おととし10月、もともと自宅があった場所のすぐ近くに造成された高台に住宅を再建しました。

    震災の前、地区には32世帯が暮らしていましたが、新たに造成された住宅地に戻ってきたのは8世帯にとどまり、その多くが高齢者だということです。
    また、雄勝町は、ほぼ全域でまだ復興工事が終わっていないため、商店や診療所が少ないということで、地区に戻ってきた人の多くが、買い物や通院のために車で50分ほどかかる市の中心部まで行っているということです。
    また、公園など子どもが遊べる場所もないということで、佐藤さんは、若い人たちが地区に戻ってこないのではないかと不安を募らせています。

    アンケートには、「生活してみると商店、病院、公園もないにひとしく今後、充実するとも思えない。交通機関も不便で帰ってきたことが浅はかだった」とつづっています。

    佐藤さんは「6年たてばある程度、町並みは完成すると思っていたが、一部ができているだけでとても寂しいです。買い物や交通も不便で、今後、年をとって車を運転できなくなったときのことを考えると不安で、帰ってこなければよかったと思います。過疎と高齢化が進むばかりでいずれ町はなくなってしまうのではないかと思う」と話しています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170306/k10010900551000.html

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  25. [震災6年 未完の事業]<6>水産加工場 外国人頼み
    2017年3月7日5時0分

     冷凍の鯖さばをしめ鯖用にさばく作業台で、たどたどしい日本語が飛び交う。岩手県大槌町にある水産加工会社「平庄」の食品工場。作業員の約2割がベトナムなどの外国人だ。「求人を出しても日本人の応募はほとんどない」。平野隆司社長(41)は人手不足を嘆いた。

     同県釜石市にある本社工場は津波にのまれ、冷凍施設も全壊。国の補助金と借り入れで本社をわずか4か月で再建し、なんとか震災前の売り上げを保った。その後、補助金で大槌町の工場を新設し、震災の翌年からは右肩上がりに推移した。借入金の返済は2014年に始まった。工場をフル稼働させたいが、稼働率は7~8割にとどまる。

     平野社長は「外国人は、貴重な戦力になっている。もっと人手があれば売り上げを伸ばすことができるのに。返済は15年続く。今後が心配だ」と頭を抱える。現在の作業員は約60人。うち13人は外国人技能実習生で、震災前より4人増えた。繁忙期を見据えると100人の作業員を確保したいが、技能実習生の場合、日本人従業員を増やさないと採用枠を拡大できない。外国人を除けば20~30歳代はおらず、高齢化も進んでいる。

     岩手労働局によると、10年に0・43倍だった年間有効求人倍率は、16年には1・28倍に跳ね上がった。宮城と福島も0・4倍台だったのが1・46倍と1・42倍。震災による人口減が一因で、内陸部への人口流出が顕著な沿岸部では、労働力不足はなおさら深刻だ。

           ◎

     販路の確保も課題として立ちはだかる。経済産業省が補助金の交付先の被災事業者(青森、岩手、宮城、福島県)に昨年7月に行った調査では、55%が震災前の水準まで売り上げが回復していないと答え、理由で最も多かったのは販路の喪失(35%)だった。

     本社や工場が被災した釜石市の水産加工会社「リアス海藻店」は、三陸産ワカメを扱う。震災1年後に営業を再開し、取引先だったスーパーに出荷の再開を打診すると、「北海道などに仕入れ先を変えた。一度変えてしまったら、元には戻せない」と断られた。

     人不足の解消や販路回復が課題の被災地で、岩手県宮古市の水産加工会社の若手経営者4人が結成した「チーム漁火いさりび」は、4社で作業員や販路を共有する。16年の合計売り上げは震災前の3倍の30億円。同業者からも注目を集める。他社の人手が足りなければ従業員を派遣し、それぞれが得意とする魚種が異なるのを生かし、取引先を紹介するなどした。チームの代表を務める共和水産の鈴木良太専務(35)は、「1社で考えることには限界がある。タッグを組んで被災地だからこそ生まれるアイデアを形にした企業が生き残れると思う」と話す。

           ◎

     復興特需にわいた建設業界でも変化が起きている。

     岩手県大船渡市の「コンノ建設」は震災後、ホテルなどの大型受注が増え、民間の住宅建設を断ったほどだった。従業員を6人から17人に増やし、売り上げもピーク時の15年は震災前の10倍ほどの10億円だった。だが、16年は大型受注がゼロとなり、売り上げは半減。金野文夫社長(68)は「ジェットコースターのようだ。従業員を増やした分の仕事をこれから確保できるか心配」と不安がる。

     東日本建設業保証(東京)によると、東北地方の公共工事は減少傾向で、15年度の請負金額は14年度比10%減。16年度も増加の兆しはない。「どうやって生き残りをかけて戦うか、一から戦略を立て直す必要がある」と金野社長。被災地の企業のそれぞれの模索は続く。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYTPT50081

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    1. [震災6年 文化でつなぐ]<中>霊的な存在 未整理の心で
      2017年3月7日5時0分

      ◇絶たれた命の受け止め方

       大学生とは、こんなによく笑うものか。東北学院大の金菱かねびし清教授(41)と3年生のゼミ生に、宮城県中部にある七ヶ浜町の海岸を歩いてもらった。就職活動が不安などと言いながら、集まれば自然と楽しい雰囲気になる。

       東日本大震災と地域の関わりを学ぶ彼らは、多くが1995~96年の生まれだ。同町に住む赤間由佳さん(21)は、中学の卒業式後に被災した。小高い場所にある自宅の窓から、津波でほかの家が流されるのを見た。祖父を亡くし、母は時々、口数が少なくなる。

       「おじいちゃんには、生きているときと同じように、母に大丈夫だよと声をかけてほしい」

       笑顔の奥で、願っている。



       社会学を専攻する金菱教授は震災直後から学生と各地の調査を続けている。被災地の霊的な現象にも着目し、昨年の『霊性の震災学』は硬い内容にもかかわらず、1万8000部刊行された。被災地では、不思議な現象がよく見聞きされ、うわさ話やネットなどを通じて広がっているという。金菱ゼミの学生は実際に、県内のタクシー運転手に聞き取り調査を行った。

       コートを着た女性を乗せたら、「私は死んだのですか」と言われた。夏に真冬の格好をした一人ぼっちの女の子を乗せた――など、様々な証言が出た。「誰かに話してうそだと言われると、悪気のない彼ら(霊魂)を傷つけるかもしれない」と秘密にする例もあった。

       赤間さんも先輩の調査を引き継ぎ、地域による目撃談の頻度の差などを研究している。「高校のとき『あそこ出るらしいよ』とうわさ話をされ、嫌な気がした。でも聞き取りを続けるうち、霊にも思いがあるはずだし、否定的に捉えたくないと感じ始めた」と話す。

       金菱教授は、「多くの人が突然亡くなった出来事は、簡単に心の中で整理できない。命を失った人が『この世』から『あの世』へ行ったと思うより、霊的な存在を感じ、未整理にした方が良いこともある」と語る。「社会学は避難所の住民など一定の集団からデータを取り、調査するのは得意。でも、心の問題など押さえきれていない分野がある」

       『魂でもいいから、そばにいて』。ベテランのノンフィクション作家、奥野修司さん(68)は、2月末にこんな題名の著作を出した。「兄の死亡届を書いていたら、『ありがとう』とメールが届いた」「妻と娘の火葬を終え、夜中に目が覚めると2人がいた」――。

       被災者らの不思議な体験を3年半かけて訪ね歩き、拾った。奥野さんは「10歳の子どもには、生まれて10年分の物語がある。津波などによる死は、その物語を突然に断ち切ってしまう。大切な人の霊に、大半の人は会うことを望んでいた。魂を感じることで、物語がつながるように感じるのではないか」と話す。

           ◇

       生者たちよ

       語ろうとする前に

       亡き者たちの声を聴きけ

       祈りのとき

       彼方かなたから訪れる

       無音の響きを聴くように

       批評家の若松英輔さん(48)は来月、初めての詩集を出す。震災後、人々の心の問題などについて執筆する中で、書き切れない思いが詩の言葉になった。

       「地震の後で亡くなった人のために、何かをしなくてはいけないと思った人は多いでしょう。でも、『死者』がこちらを慰めてくれることがある。その声に耳を傾けたらよいと思う」。さらに、「自分の悲しみはただ一つの固有のものだから、他人には理解できない。だけど、そこに耐え難い苦しみを抱えている人がいることを感じてはあげられる。互いに無言のまま、響き合うことはできる」と話す。

       突然に絶たれた多くの命や無念の思いをいかに受け止め、未来につないでゆくか。東日本大震災から6年を迎え、人々の心をめぐる問題が重く、迫ってきている。

      (文化部 待田晋哉)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170306-118-OYTPT50312

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    2. [震災6年]復興見通し 42首長アンケート
      2017年3月7日5時0分

      「復興に遅れ」依然6割

       読売新聞が岩手、宮城、福島3県の沿岸と東京電力福島第一原発周辺の計42市町村長に、復旧・復興の進捗しんちょく状況を尋ねたところ、6割に当たる27人が「予定より遅れている」と答えた。昨年と比べて改善の傾向はなく、用地買収の難しさを理由に挙げる首長が多かった。人員不足もなお深刻で、復興を加速させられない実情が浮かび上がった。

       「遅れている」と回答したのは、岩手8人、宮城10人、福島9人。遅れの程度は19人が「1~2年」だったものの、「それ以上」とする首長も8人おり、特に、岩手県大槌町と福島県双葉町が「4年以上」と答えた。「予定通り」は14人だった。

       遅れている分野は、護岸や道路などの土木事業で目立っている。17人と回答が最多だった「防潮堤」は、主に各県が建設を進めている事業だが、安全に直結するだけに、市町村長の認識も強く出たとみられる。

       大槌町のある地区では防潮堤の完成が当初の2015年度末から3年ずれ込んだ。県によると、事業の対象地域に民間の用地があり、所有者との調整が難航したことなどが理由という。

       同じく17人で最多の「農林水産業」は、風評被害に苦しむ福島県が11人だった。いわき市の清水敏男市長は「福島で加工したというだけで、敬遠する人がいる」としている。

       「住まい」に関する事業については、昨年の調査では最多の14人が「遅れている」と答えていたが、今回は8人だった。災害公営住宅の整備などが進んだ結果とみられる。

       

        原因「職員不足」18人

       復興が遅れる原因(複数回答)を聞いたところ、18人が「自治体職員の不足」を挙げた。「用地取得の難航」(13人)や「資材高騰や作業員不足」(11人)などを上回り、最も多かった。内訳は、福島8人、宮城7人、岩手3人。避難指示区域の解除に向け、復興事業が拡大する福島県の自治体では、人手不足が深刻化していた。

       3月末に避難指示が解除される飯舘村の2月時点の応援職員は、要望より3人少ない22人。新年度は農業関連の施設整備などのために、さらなる増員が必要だが、村の担当者は「震災から6年で、職員を引き揚げる派遣元も出ている」と嘆く。

       

        完了「見通せず」7人

       復興が完了する時期については、7人が「見通せない」と回答した。すべて福島県内の首長。昨年の調査では5人だった。原発事故による避難指示区域の解除が進む一方で、長期化は避けられないとの認識が広がっている。国は20年度までを復興期間と位置付けているが、期間内に当たる「完了」~「4年以内」を選択したのは24人。「5年以内」が7人で、「5~10年以内」が4人だった。

       

        「人口減る」8割

       復興が完了した時点の人口について、全体の8割に当たる35人(岩手12人、宮城12人、福島11人)が、震災前の水準より「減る」と予想している。理由(複数回答)は、「(全国的な傾向の)少子高齢化」25人、「震災の影響による転出」24人、「震災の犠牲による減」16人と続いた。宮城県南三陸町は、15年の国勢調査で、人口が震災前から約3割減少していた。佐藤仁町長は、「産業の担い手が不足し、地域の共助機能が低下する」との懸念を示している。「増える」と回答したのが5市町あった。宮城県の仙台市とその周辺の利府町、名取市、福島県沿岸北部の新地町、相馬市だった。

      東京五輪 評価割れる

       「復興五輪」と位置づけられている東京五輪・パラリンピックの開催について、「プラスの影響が大きい」と肯定的に受け止めた首長は11人にとどまった。マイナス評価は10人で、「どちらともいえない」との回答が21人に上った。

       肯定は、岩手3人、宮城と福島各4人。五輪では一部競技の被災地開催や事前合宿も検討されており、福島県川内村の遠藤雄幸村長は「復興の現状を世界に発信でき、被災地に関心が集まる」と答えた。ほかに「郷土愛や復興への意欲が高まる」との意見もあった。

       岩手と福島各4人と宮城2人が、「マイナスの影響が大きい」とした。五輪のサッカー会場となる予定の宮城県利府町の鈴木勝雄町長は「資材や人手の不足に拍車がかかる」と指摘する。同様に復興事業の停滞を懸念する声が多く、「東京一極集中が加速する」という指摘も出ていた。

       こうした両面を踏まえて、「どちらともいえない」を選択する首長も相次いだ。

       

      調査方法

       津波被害の被災地と、原発事故後に避難指示区域が設定された市町村長が対象で、岩手12人、宮城15人、福島15人。1月にアンケートを配布し、回答を得た。町長選が2月26日にあった福島県川俣町からは選挙後に回収した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170306-118-OYTPT50430

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  26. 「復興再生」なんてあまりにも軽薄すぎる…

    長い期間をかけてできあがったものは、一度失ったらとりもどすことはできない。

    その言葉は、その事実に対して、あまりにも思慮がない。

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  27. 帰還しない職員は昇格・昇給させない…楢葉町長
    2017年3月7日12時36分

     東京電力福島第一原発事故による避難指示が2015年9月に解除された福島県楢葉町の松本幸英ゆきえい町長が、昨年11月の庁議や今年2月の新年会で、「避難先から帰還しない職員は昇格・昇給させないようにする」との趣旨の発言をしていたことがわかった。

     松本町長は7日、読売新聞の取材に「(発言は)町職員が町民に対し、率先して帰還する姿勢を示すべきだという思いからだった。今後については改めて協議したい」と話した。

     町によると、昨年11月に福島県沖地震が起きた際、約100人の職員のうち、町内に居住していたのは13人で、多くの職員が登庁するのに1時間以上かかった。そのため、町は同12月から交代で職員を町内に宿泊させている。帰還した職員は35人(6日現在)に増えた。町民は原発事故前の1割にあたる818人(3日現在)が戻っている。

     ただ、職員からは「帰還を進めたいという思いはわかるが、子育てや介護など家庭の事情で帰れない職員もいる」(いわき市から通う男性)などの声も上がっている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYT1T50051

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    1. どうにもならんことをわざわざ言う町長。

      その町長だって、ほどんど帰還していない町民の票であがっているはず。

      みんなそれぞれいろんな事情をかかえている現実をふまえ、地に足のついた思考をすべきなのだが…

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  28. 自主避難 支援打ち切り機に 帰郷 心に春 震災以来の南相馬 「古里って、いい」
    2017年3月7日15時0分

     東日本大震災から6年の今春、東京電力福島第一原発の周辺自治体に出ていた避難指示が相次いで解除される。避難指示区域外から避難した自主避難者も、住宅支援が年度内で打ち切られることが決まり、被災者たちは転機の春を迎える。

     「先日、ようやく帰ってきました。また、よろしくお願いします」

     松永時子さん(76)は2月下旬、東京都江東区の国家公務員宿舎「東雲住宅」から、古里の南相馬市原町地区に戻った。

     地元で久しぶりにハンドルを握ると、行く先々で顔なじみから声がかかる。「やっぱり空気が違う。どうして、もっと早く帰ってこなかったのだろう」

     松永さんの自宅は、福島第一原発から約23キロの距離にある。事故直後に避難指示が出た半径20キロ圏内からは外れていたが、不安を感じ、親族宅を転々とした。都が借り上げた東雲住宅に落ち着いたのは、約2か月後。東京スカイツリーが見通せる34階のワンルームに入居した。一緒に東雲住宅に避難した知り合いの赤ちゃんは今年、6歳になる。

     「避難生活がこんなに長引くなんて、誰も想像しなかった」

     夫とは30年以上前に死別した。3人の子供は震災前から、実家を離れ、首都圏などで暮らす。福島県にとどまった母親は、震災の2年後に亡くなった。

     「元気なうちに戻り、やっぱり最後は地元で迎えたい」。新しい友達もでき、居心地は悪くなかったが、県が今年3月末で、自主避難者向けの住宅の無償提供を打ち切ることが、帰郷の決め手となった。

     東雲住宅には、福島から避難した約800人が暮らしている。このうち約300人が自主避難者だ。子供の進学先を考えて都内に定住することを決めた知人もいれば、まだ避難指示が解除されない人もいる。「どんなに帰りたくても、まだ帰れない人がいる」。そう考えると、心が痛む。

     震災後、ずっと放置されていた南相馬市の自宅の庭には、多年草で寒さに強いニホンスイセンが、松永さんを待っていたかのように白い花を咲かせていた。

     「外から見れば何もないかもしれない。でも、何もなくても古里って、いいの」

     南相馬で迎える春を心待ちにしている。

    3万2千人 帰還可能に

     福島県では8市町村が「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」に指定され、約5万7000人(昨年7月時点)に避難指示が継続している。

     今月31日に浪江、川俣両町と飯舘村、4月1日に富岡町が、居住制限区域と避難指示解除準備区域から外れ、約3万2000人が帰還可能となる。

     一方、避難指示区域外からの自主避難者数は昨年10月現在、約2万6600人。福島県や、避難先の都道府県や市区町村が住宅支援を続けてきたが、今春に多くの自治体が支援を打ち切る。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYTPT50285

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    1. [震災6年]床下10メートルの避難塔
      2017年3月7日15時0分

       地上から床下まで10.8メートル。避難者を守る屋内施設を鉄骨が支える。見るからに堅固な施設は、宮城県石巻市魚町の水産加工団地に建てられた避難タワーだ。=写真、許可を得て小型無人機から=。

       6年前、辺りは5.4メートルの津波に襲われ、避難した人は吹きさらしで凍えた。タワーは、214人が逃げ込め、鉄脚の隙間が津波とがれきをやり過ごし、屋内施設が雨風を防ぐ。食料などと太陽光発電や蓄電池も備える。市内に4か所ある避難タワーのうち、岸から約200メートルともっとも海に近い。近くの石巻市魚市場も再建され、周囲は水産加工会社の建設が続く。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYTPT50283

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  29. 社説
    福島原発廃炉 ようやく「登山口」にまで来た
    2017年3月7日6時1分

     東京電力福島第一原子力発電所からの放射能放出のリスクは、大幅に低減している。

     東日本大震災から6年を迎え、事故の初期対応は、ほぼ終了したと言えよう。

     難関はこれからだ。政府・東電は、30~40年間に及ぶ廃炉作業を着実に進めねばならない。

     事故の直後、核燃料が溶けて、原子炉内の温度は300度を超えた。現在は、外気温とほぼ同レベルにまで下がっている。再び核反応が起こる事態は考えにくい。

     作業員も、一時の7000人超から約6000人に減った。敷地の9割では、通常の作業服で行動できるようになった。

     危機的状況は解消されたが、溶けた核燃料を取り出す作業が控える。東電は、廃炉作業の「登山口」に来た、との認識を示す。

     まずは、原子炉内部の状況把握が不可欠だ。炉はどの程度壊れているのか。溶けた核燃料は塊の状態なのか、飛散したのか。

     調査は壁にぶつかっている。建屋内で極めて高い放射線量が測定され、容易に近づけない。原子炉内にロボットを投入しても、障害物に行く手を阻まれる。

     2号機では今年に入って、炉内の破損状況が辛うじて捉えられた。原子炉の圧力容器直下の床には、大きな穴が開いていた。核燃料が落下した痕跡とみられる。

     破損が深刻な1、3号機では、ロボットの投入さえ難しい。

     政府・東電は、2021年に核燃料取り出しに着手する計画だ。その手法を9月にも決める方針だが、データ不足は否めない。

     遠隔操作技術などのさらなる進歩が必要である。

     原子炉建屋への地下水の流入などで発生する汚染水の問題も、抜本的な解決には至っていない。

     汚染前の地下水を井戸からくみ上げる手法が奏功し、発生量は当初の1日400トンから100トン余に減った。地下水流入を止めるための凍土壁も、完成が近い。

     問題は、敷地内のタンクに保管されている大量の水の扱いだ。

     全体の約8割は浄化されている。浄化後の水には、海洋放出できる物質しか含まれていない。内外の原子力施設では、政府の基準に従って放出されている。地元の理解を得るため、政府・東電には丁寧な説明が求められる。

     福島第一原発の廃炉には、約8兆円を要すると試算されている。国を挙げて立ち向かわねばならない難事業である。政府が陣頭に立って、内外の知見や技術を結集することが肝要だ。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170306-118-OYT1T50113

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  30. 避難指示区域の住民意向調査 「帰還しない」が増加
    3月8日 4時11分

    復興庁などが、原発事故で避難指示が出ている福島県内の地域の住民を対象に行った意向調査の結果、富岡町、双葉町など5つの自治体では、帰還しないと答えた人の割合が2年前の調査より増えました。帰還しないと答えた人は、若い世代ほど割合が高い傾向にあり、復興庁は、生活環境の整備や雇用の創出などに取り組んでいきたいとしています。

    復興庁などは、福島県内の避難指示が出ている地域の住民を対象に年度ごとに意向調査を行っていて、このほど今年度調査を行った富岡町、双葉町、浪江町、飯舘村、川俣町の5つの自治体の結果がまとまりました。

    それによりますと、元の居住地に帰還しないと答えた人は、5つの自治体でいずれも2年前、平成26年度より増えていて、双葉町は62.3%で6.6ポイント、富岡町は57.6%で8.2ポイント増加しました。また.浪江町は52.6%で4.2ポイント、川俣町は31.1%で8.5ポイント、飯舘村は30.8%で4.3ポイント増えました。

    帰還しないと答えた人を年代別に見てみますと、40代以下の世代はいずれも50%を超えていて、若い世代ほど割合が高い傾向となっています。

    戻らない理由について複数回答で尋ねたところ、医療環境への不安、生活利便性、すでに避難先で生活基盤ができていることなどを挙げる人が多くなりました。

    原発事故からまもなく6年となる中、若い世代を中心に帰還を望まない人が増えており、復興庁は、生活環境の整備や雇用の創出などに取り組んでいきたいとしています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170308/k10010902271000.html

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    1. >帰還しないと答えた人を年代別に見てみますと、40代以下の世代はいずれも50%を超えていて、若い世代ほど割合が高い傾向となっています

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    2. ハイパー過疎高齢限界集落化の社会実験のようなもの。

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  31. 社説
    被災地の産業 風評被害越えて販路広げたい
    2017年3月8日6時2分

     東日本大震災から6年を迎え、被災地の産業は壊滅的な打撃から脱したものの、本格的な復興はなお道半ばだ。

     売上高が震災前の水準に戻った企業数は、全体の45%にとどまる。中でも被災地の基幹産業である水産加工業は3割に満たず、回復の遅れが目立つ。

     水揚げ量や水産加工施設の生産能力は9割程度まで回復した。問題は、震災を機に取引先が他地域の水産品に乗り換えたため、重要な販売ルートを失ったことだ。

     販路開拓は、地域の水産業者の努力だけでは限界がある。大企業などとの連携を通じ、国内外に販路を広げていく必要があろう。

     大企業と地元業者の協業体制は既に実を結びつつある。宮城県の牡蠣かき生産者らは、仙台工場が被災したキリンと協力し、新たな顧客の獲得や水産品のブランド化に乗り出している。こうした取り組みをさらに加速したい。

     気になるのは、福島第一原発の事故による風評被害が販路の開拓に影を落としていることだ。

     福島県は2012年から、全ての県内産米で放射性物質の検査を行っている。15年産以降で国の基準値を超えたコメは見つかっていない。にもかかわらず、販売量や取引価格は低迷したままだ。

     県としては、風評被害対策のために、全量検査を継続せざるを得ないのだろうが、負担を強いられる農家の間に検査の簡素化を求める声があるのも、無理はない。

     同じ福島県産でも、日本酒の生産量は堅調だ。首都圏などで、品質に問題はないことを地道にPRしてきた販促活動の成果が出ていると言えよう。

     被災地の農水産品の輸入を、いまだに禁止・制限している国も多い。政府は、安全性には何ら問題がないことを国内外に強くアピールせねばならない。

     工場などが被災した大企業の部品供給や販売網は、ほぼ回復した。注目されるのは、地元の中小企業を取引先に育てる宮城県のトヨタ自動車東日本の取り組みだ。

     宮城県は自動車生産の裾野を広げるため、11年度から10年間で、県内企業による自動車部品の受注数を300件増やす目標を掲げている。トヨタの支援などの結果、15年度末で既に200件を超える実績を上げたという。

     観光業をどう成長させるかも課題だ。東北は、温泉や史跡など豊富な観光資源に恵まれながら、海外の認知度が低い。仙台空港の国際線増便などを追い風にして、訪日客の増加につなげたい。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYT1T50123

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  32. [震災6年 未完の事業]<7>中間貯蔵 用地まだ21%
    2017年3月8日5時0分

     東京電力福島第一原発の事故後、福島県大熊町の自宅が帰還困難区域に指定された大工鈴木清孝さん(65)は今、約40キロ離れた同県小野町で暮らしている。

     祖父が100年近く前に大熊町へ入植して以来、土地を守ってきた。自宅とジャガイモや大根の畑が計約3ヘクタール。木造2階建ての自宅は、駆け出し時代の約40年前、父と一緒に建てた。事故から3年たった2014年、除染で出た汚染土などを保管する「中間貯蔵施設」の建設予定地にこの土地も含まれることが決まった。

     土地を国に売るか、所有権を残す地上権契約を国と結ぶか。帰還が見通せない中、迷う日々が続く。

     施設に保管した汚染土は、30年以内に福島県外で最終処分されることが決まっている。だが、30年後に震災前の暮らしを取り戻せるのかは分からない。

     2月に一時帰宅した際、自宅は荒れ果てていた。隣接する畑は重機で造成され、施設の建設が始まっていた。鈴木さんは「外堀を埋められ、売却を迫られている感じだ」と嘆く。

     施設の建設に抵抗する人もいる。いわき市に避難中の男性(65)は、国との契約に応じる気になれない。反対を続けても、以前の生活に戻れないかもしれないが、「今があるのは先祖のおかげ。家がなくなれば、その歴史もなくなる。諦めきれない」と涙を見せた。

             ◎

     中間貯蔵施設は大熊、双葉両町にまたがり、予定地は東京ドーム340個分の1600ヘクタールに上る。国は計1・6兆円を投じ、土のうを仮置きする保管場や、土のうから出した汚染土を濃度で分別する施設、焼却炉などを多数、建設する。保管する汚染土は、最大で約2200万立方メートルと見込まれている。

     用地の取得が進まず、事業は遅れがちだ。環境省によると、今年2月末までに719人から336ヘクタールを取得するなどしたが、全体の21%にとどまる。それも虫食い状態で、同省の担当者は「まとまった土地がないと、保管できる汚染土の量は限られる」と話す。

     同省が11年に公表した工程表では、14年夏頃に本体工事を始める予定だったが、実際は2年以上遅れて昨年11月、ようやく着工した。予定地に地権者は約2300人いるが、約640人とは連絡が取れていない。

     3月1日現在、施設に搬入できた汚染土は、約20万立方メートルに過ぎない。このため、福島県内の各地には今も、1300万立方メートル以上の汚染土が置かれたままになっている。

             ◎

     汚染土の輸送にも課題がある。10トンダンプ1台が運べるのは、土のう6袋(6立方メートル)。現在、1日平均200台のダンプが施設に汚染土を運んでおり、近くを通る片側1車線の道路は慢性的に混雑している。

     昨年11月には、大熊町の県道でダンプが中央線からはみ出し、対向のダンプと衝突する事故が発生。安全面の不安が指摘され始めた。近くに輸送ルートがある、同県楢葉町の農業松本公一さん(61)は「昨夏から何台ものダンプが列をなして通るようになった。事故が心配」と眉をひそめる。

     環境省は17年度に1日平均350台、ピークの20年度には同3600台を通す計画だ。渡辺利綱・大熊町長は「今後、計画通りに汚染土の搬入が進むのか不安だ」と懸念を示し、関係自治体とともに輸送専用の道路建設を求めている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYTPT50110

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    1. 母、妻、娘…帰って来い
      2017年3月8日5時0分

      大槌で被災…自宅跡タイル 骨つぼに

       岩手県大槌町の白銀しろがね照男さん(67)は、東日本大震災の津波で母と妻、長女が行方不明になり、見つかっていない。骨つぼには遺骨の代わりに、5センチ四方のピンクのタイルを1枚ずつ入れた。流された自宅跡の玄関部分にあった。「3人が家に帰れるように」と願いを込めた。震災から6年。行方不明者は岩手、宮城、福島の3県で、今も2583人(各県まとめ、1月末現在)に上る。

       

        ■いつもの朝が

       行方がわからなくなっているのは、白銀さんの母キノヱさん(当時83歳)、妻はち子さん(同54歳)、長女美由紀さん(同34歳)。

       建設作業員だった白銀さんはあの日の朝、いつものように妻に見送られ、現場に向かった。「気をつけてね」。玄関で背中越しに聞いた声が耳に残る。海に近い自宅から約3キロ離れた現場で、強烈な揺れに襲われ、津波を心配して家族の元に向かった。自宅は流され、がれきの山になっていた。

       3人の名を叫び、がれきをかきわけ続けた。「どこかで寒い思いをしていないか」。自衛隊の仮設風呂にも入る気になれず、ストーブに手をかざすことさえ罪悪感を覚えた。捜すのを諦めきれず、会社を退職し、がれきの分別を請け負っていた建設会社に再就職した。

       震災から4か月後の2011年7月。3人の死亡届を町に出した。身内だけで写真に手を合わせる葬儀も行ったが、「死を認めることになる」と墓碑に3人の名は刻んでいない。墓は静けさを取り戻した大槌湾を見下ろす斜面にある。「今どこにいる。早く見つかってくれや」。6年間ずっと同じ言葉をかけてきた。

       現在、自宅から約7キロ離れた山あいの地区にある仮設住宅で暮らす。窓が風でカタカタ鳴るたびに、「帰ってきたのかも」と外をのぞくくせがついた。仏壇に飾った妻の写真は毎日違った表情に見える。40年近く連れ添った。「しんどい日は『大丈夫だよ』ってほほ笑んでいるようだし、なんだか生きてるみてぇだ」

       長女の美由紀さんのサングラスも仏壇にある。自宅近くで見つかった車に残された唯一の思い出の品だ。長女は高校卒業後に地元を出ていたが、震災の1年ほど前、母のキノヱさんの介護を手伝ってほしいと呼び寄せた。恋人に会わせる約束もしてくれた。「呼ばなければ今頃、子供もいたのかな」。何度も考えてしまう。

       

        ■全うしなきゃ

       自宅のあった地区は、津波被害を防ぐかさ上げ工事がほぼ終わり、復興が進む。

       だが、白銀さんは、まだ心の整理がつかない。震災後、酒を一滴も口にしていない。一度飲んだら現実から逃げてしまいそうだからだ。「何年過ぎても諦めがつかず、苦しいよ。でも、あの日を経験した人間として、命は全うしなきゃ。そうやって折り合いをつけて生きている」

       被災3県の震災による行方不明者のうち44人は今も死亡届が出されていない。

       白銀さんは、月命日を中心とした行方不明者の捜索にできる限り足を運ぶ。ただ、岩手県警が昨年1年間に行った50回の捜索で人骨は見つかっていない。「陸上はもうだめだ。海底を徹底捜索してほしい」。感謝の気持ちと同時に、歯がゆい思いを抑えきれない。

       今年も、3・11には墓だけでなく、海にも花を手向ける。そこに3人がいる気がしている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYTPT50116

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    2. [震災6年 文化でつなぐ]<下>アートが築く語らいの場
      2017年3月8日5時0分

      ◇CD制作、たき火囲むイベント

       よく晴れた2月の昼下がり、福島県いわき市の下神白しもかじろ復興公営住宅では、住民たちの会話が弾んでいた。男性が「ベンチャーズが楽曲提供した『京都の恋』を歌ったのは誰だっけ?」と問えば、「渚ゆう子!」と女性が返す。

       アサダワタルさん(38)が企画したアートプロジェクト「ラジヲ下神白!」の収録風景だ。住民たちに思い出の曲を聞いてラジオ番組風のCDを作り、各戸に配布する。「たわいない話や音楽を、住民が打ち解けるきっかけにできるのではないか」と話す。

       復興公営住宅には、同県富岡、大熊、浪江、双葉の4町から避難した約200世帯が暮らす。福島第一原発が立地する町と隣町では、原発事故や東日本大震災の被災状況も、補償内容も違う。同じ町の出身でも、避難指示が解除されたら戻るのか、ここを終ついの棲すみ処かにするのかで意識は異なる。高齢者を見守るためにもコミュニティーの構築が必要だが、簡単には進まない。

       アートプロジェクトが糸口になるのではないか。解決には直結しないが、制度ですくい取れない課題に光を当てられるのではと、地元のNPO法人「ワンダーグラウンド」や県、アーツカウンシル東京は、美術家を触媒にしたイベントや制作活動に取り組む。コーディネーターの会田勝康さん(34)は「言葉で伝えると強すぎるメッセージも、アートというフィルターを通せば緩やかに共有できる」と話す。

           ◇

       宮城県女川町にも、住民が語らう場がある。海を見下ろす高台に立つプレハブのコミュニティースペース「おちゃっこクラブ」だ。建築家や美術家、地元住民らでつくる社団法人「対話工房」が、震災後間もなく開設した。

       もう一つの活動の柱は、毎年8月に行う「女川常夜灯」。たき火を囲んで犠牲者を悼み、離ればなれになった近隣住民と近況を報告し合う。津波にのみ込まれた町に点々と灯がともると、この地で失われたかに見えた人々の営みが浮かび上がる。灯をともし、語り合うことそれ自体が、そこに広がる情景とともにアートになる仕掛けだ。仮設住宅に住む岡裕彦さん(58)は「日常を取り戻すには時間がかかり、気力が要る。何かを作り上げる活動の中に希望を感じる住民は少なくない」と語る。

       復旧工事が進み、幸か不幸か、たき火ができる場所は減り、昨年はJR女川駅前で開催した。今年はどうするか検討中だという。代表理事の海子揮一さん(47)は「最終目標は私たちの手を離れていくこと。その日までは息長く応援したい」。求められた時に、求められた分だけ、そっと寄り添っていくアートがある。傷ついている誰かのために。(文化部 淵上えり子)

      ◇被災の日々博物館で展示

       福島県立博物館(会津若松市)では、アートプロジェクトをまとめた「アートで伝える 考える 福島の今、未来展」が開かれている。

       赤間政昭さんの映像作品「ふるさとなみえ科8人の二学期」は、浪江町の小学生が避難先で過ごした昨秋の様子を捉えた。子供たちは物心つく前に同町を離れ、古里を実感できずにいる。郷土芸能を調べる健気けなげな姿と、原発事故がなければ通っていたはずの無人の校舎が交互に映し出され、場所も時間も郷里と引き裂かれたままだと訴えかける。

       片桐功敦あつのぶさんの「Sacrifice」は津波被害に遭った建物や車に、野に咲く花を生けた写真作品。車の部品などの「震災遺物」と併せて展示され、6年前の記憶を呼び起こす。

       同館主任学芸員の小林めぐみさんは「博物館には地域の歴史や風土を調べた蓄積があり、復興に役立てるはず。同時に、被災からの日々を記録する役目もある」と力を込めた。4月11日まで。入場無料。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYTPT50339

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    3. [震災6年 防災力を高める]<1>住民関心つなぎとめる努力
      2017年3月8日5時0分

       東日本大震災から時が過ぎ、あの日の恐怖や緊張感も薄れがちだ。人々の関心をつなぎとめ、防災力を高めるため、様々な仕掛けに取り組む現場を紹介する。

       「これなら目立つでしょう」

       仙台市から電車で約45分。宮城県美里町の梅ノ木行政区自治会長、内海政雄さん(72)が、縦横40センチの真っ赤な旗を広げた。全265戸に配られた旗で、震度5弱以上の地震が発生した時、無事を知らせるために玄関先に掲げる。

       2011年3月11日。美里町は津波被害こそなかったが、多くの家屋が損傷し、内海さん宅も全壊した。当時は住民が自主防災組織を作ろうとしていたものの、まだできていなかった。甚大な被害を前に、誰が何をすれば……。隣の自治会の支援がなければ、避難所も満足に運営できなかった。「あの悔しさは絶対に忘れられない」と内海さん。

       以来、他の自治会から学び、その年の夏には防災組織をスタートさせた。マニュアルの作成や自治会だよりの発行にとどまらず、住民にビールケースを使った簡易トイレの作り方を教えたり、地区内の事業所に緊急時の避難場所を提供してもらったりと、独自の活動をする。

       「何も知らないところから走り続けた6年でした」と内海さんは振り返る。

      ◇地域のイベントが助け合いに

       震災では庁舎が被災したり、職員が命を落としたりし、行政機関も機能がマヒした。「公助」の限界が明らかになり、重視され始めたのが住民が助け合う「共助」。住民同士が作った組織で、どんな活動をするかが肝心だ。

       兵庫県加古川市のマンション「加古川グリーンシティ」(584戸)では、阪神大震災を機に、防災会会長の大西賞典しょうすけさん(54)らが、特に住民のつながりを重視してきた。「東日本大震災で人々が助け合うテレビ映像を見て、活動の大切さを痛感した」

       餅つき、スポーツ観戦、夜回り……。関係がなさそうなイベントが防災に役立つ。「『防災、減災』と言っても関心を持ってもらえない。住民の参加を呼ぶには、仕掛けが必要」と大西さん。

       例えば、防災会で購入したイカ焼き機は、非常時の炊き出しだけでなく、平時も夏祭りなどに活躍する。小麦粉の生地に刻んだイカなどが入った関西おなじみの味は、住民に大人気だ。断水に備え、敷地内に設けた井戸は、夏場は子どもたちの水遊びの場となり、ママたちが語らう。

       「どんな防災訓練も、交流がなければ絵に描いた餅。普段からの顔の見える付き合いこそ、命を助ける力になる」と大西さんは訴える。

             ◆

       親睦を深めるだけが取り組みではない。神奈川県横須賀市のマンション「よこすか海辺ニュータウンソフィアステイシア」(309戸)では、中高生らによる「ジュニアレスキュー隊」を結成した。

       きっかけは多くの大人が帰宅困難者となったあの日の教訓。高層階に水を運ぶなど、即戦力になったのは子どもたちだった。現在もメンバー約30人が非常時に備える。活動を率いる住民の安部俊一さん(68)は「20リットル入りポリタンクを運ぶのに、大人たちは非常階段1往復で音を上げたが、高校生たちは何往復もしてくれた」と振り返る。

       防災態勢を整えるには、住民への丁寧な説明と同意が必要だ。「大変だが、みんなで協力し合えるコミュニティーを」と安部さんは意気込む。

       ◇近所とのあいさつ大切 日常生活で我々にできる防災は、食料や水の備蓄にとどまらない。大阪大教授の渥美公秀ともひでさん(共生行動論)は「堅苦しく考える必要はない。日頃何げなく行っていることが災害時に役立つ」と話す。

       例えば、あいさつ。がれきの下にいた人が近所の人に助けられる例は多い。「近所付き合いをし、お互いの顔を覚えておく。あいさつそのものが防災です」

       渥美さんはこのように、日常生活や活動に防災や減災の意味合いを加えるという、簡単なやり方から始めることを勧めている=表=。

       また、自主防災組織といってもゼロから作るのは難しい。「祭りの実行委員会や青年団など、既存の組織を利用するのも手です」と助言する。

       *日常生活でできる防災の例

      ・水、食料の備蓄

      ・あいさつをする

      ・地域の運動会、盆踊りなどに参加する

      ・犬の散歩でペット仲間を見つける

      ・人に任せず、進んでゴミ出しをする

      ・祭りの出し物に、消火器を使ったゲームなどを盛り込む
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYTPT50322

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    4. [震災6年]「復興に関心」89% 本社世論調査
      2017年3月8日5時0分

       読売新聞社は、東日本大震災から6年を迎えるのを前に、全国世論調査(郵送方式)を実施した。震災復興への関心が「ある」との回答は89%に上り、昨年調査の88%と同様の高い割合を示した。ただ、1年前と比べて関心の度合いが「弱まっている」人は42%。「強まっている」は11%で、「変わっていない」が46%だった。

       東日本大震災の被災地復興が「進んでいる」との回答は62%(昨年51%)に上昇したが、復興へのチャリティーイベントや物産展など復興支援の呼びかけを今後も続けていくべきだと思う人は92%に達した。支援の継続については、多くの人が理解を示している。

       復興支援のために、これまでしたことを複数回答で聞くと、「寄付した(ふるさと納税を含む)」が54%で最も多く、「被災地の産品を買った」46%、「被災地に旅行した」13%などが続いた。何らかの支援をした人は全体の8割を占めた。

       東京電力福島第一原子力発電所事故の賠償費用をまかなうために、電気料金を値上げする政府の方針については、「賛成」26%、「反対」73%だった。

       一方、昨年4月に発生した熊本地震の被災地の復興については、「進んでいる」52%、「進んでいない」47%と見方が分かれた。

       調査は1月下旬~2月末に実施した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYTPT50161

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    5. [震災6年]世論調査 支援継続の大切さ 浸透
      2017年3月8日5時0分

       読売新聞社が実施した東日本大震災に関する全国世論調査(郵送方式)では、被災地復興に関心があるとした人が大多数を占めたが、関心が「弱まっている」との回答も4割に上った。その一方、支援の継続が必要と考える人が多いことも浮かび上がった。昨年も熊本や鳥取など各地で強い地震が相次ぎ、国民の多くが将来の地震災害に不安を抱く中で、これまでの経験・教訓を風化させず、どう生かしていくかも問われている。

      復興「進んでいる」6割を超える

       復興への関心が1年前と比べて「弱まっている」と答えた人は42%。「変わっていない」の46%をやや下回ったものの、年代別にみると、40歳代以下の各年代では「弱まっている」が47~48%となり、「変わっていない」をわずかに上回った。また、復興が「進んでいる」との見方は6割を超えている。

       こうした現状に、被災地では懸念が表れている。復興に関して気になることを複数回答で尋ねた質問で、「国民の関心が薄れること」を挙げた人は全体で37%だったが、震災で大きな被害を受けた北海道・東北では49%に上り、昨年の34%から大きく上昇した。

       他方、復興支援を継続することの重要性は、地域を問わず広く認識されている。復興への関心が「弱まっている」と答えた人でも、92%が支援の呼びかけを今後も続けていくべきだと「思う」と答えた。

      「被災地に寄付」54%

       これまで復興を支援するためにしたことを、7項目から複数回答で挙げてもらうと、「寄付した(ふるさと納税を含む)」54%、「被災地の産品を買った」46%、「被災地を旅行した」13%などが多かった。震災から2年後の2013年調査(面接方式)で、復興を支援するために継続的に取り組みたいこと(複数回答)を聞いた際は、「寄付をする」44%、「被災地の産品を購入する」43%、「生活物資を送る」13%、「被災地を訪問する」8%などの順だった。調査方式や選択肢の表現が異なるが、支援の意識が実際の行動に表れているようだ。

       東日本大震災などの災害を通じ、人間や社会などに対する認識を改めたり、再認識したりしたことを複数回答で聞くと、「普通の生活のありがたさ」79%がトップだった。

      熊本復興 見方割れる

       昨年4月の熊本地震による被災地の復興は、「進んでいる」52%、「進んでいない」47%と見方が分かれた。熊本県を含む九州では、59%が「進んでいる」と答えた。復興の現状について見聞きなどする機会が多いためとみられる。

      震度7経験者 情報源「ラジオ」1位

       これまで経験した地震の中で、最も大きい震度を聞くと、震度順に「震度7」5%、「震度6弱、6強」17%、「震度5強、5弱」が39%、「震度4」25%、「震度3以下」12%だった。耐震性の低い建物が壊れる目安となる震度6弱以上を経験した割合を地域別にみると、東日本大震災の被害が大きかった北海道・東北が46%で最も高く、関東が25%。阪神・淡路大震災で被災した近畿も25%で並び、熊本地震が起きた九州が19%などの順だった。

       大地震などの災害に見舞われた場合、発生直後に災害情報を集める手段を三つまで挙げてもらうと、全体では「テレビ」61%、「ラジオ」58%、「家族らとの電話やメール」46%などの順で多かった。しかし、震度7を経験した人に限ると、「ラジオ」が7割で最も多かった。

       東日本大震災の発生直後、青森、岩手、秋田、宮城、山形の5県では、ほぼ全域が停電し、多数の被災者が電気を使えない避難生活を体験した。大地震を経験した人は、手軽に持ち出せるラジオが、貴重な情報源となることを実感している人が多いようだ。

       今住んでいる地域で大地震が起きる不安は、「大いにある」が30%、「ある程度ある」が50%。「大いにある」と回答した割合は、震度7を経験した人では4割に上り、強い揺れを経験した人ほど不安の度合いが高くなる傾向が表れた。

      電気値上げ「反対」7割 原発事故賠償

       政府は、東京電力福島第一原発事故の賠償費用の一部について、東京電力だけでなく、沖縄を除く全国の大手電力や新電力にも負担を求め、各社が今後、電気料金に上乗せする方針だ。

       こうした賠償費用をまかなうための電気料金値上げの賛否を尋ねると、「反対」と答えた人は73%に上り、自民支持層に限っても65%を占めた。広く国民に負担を求める政府の方針への理解は進んでいない。

       原発事故による放射性物質が健康に与える影響を「心配している」は73%。2015年調査の77%からやや下がったが、依然として多数を占めている。その一方、原発の停止が日本の経済に与える影響を「心配している」も63%(15年66%)に上り、「心配していない」36%(同33%)を上回った。

       今後の原子力発電の割合については、「震災前より減らす」50%、「すべてなくす」26%、「震災前と同じくらいにする」19%などで、いずれも15年調査からほとんど変化がなかった。

      避難場所の確認 九州で上昇51%

       自宅で自然災害に遭ったとき、どこに避難するかを家族で「確認し合っている」は51%、「確認し合っていない」は48%だった。昨年は「確認し合っている」46%が「確認し合っていない」53%を下回っていたが、今回はわずかに逆転した。

       熊本地震の被災地を含む九州の回答者に限ると、昨年は「確認し合っている」が36%で、他の地域より低かったが、今回は51%に上昇した。身近で大地震が発生したことをきっかけに、家庭での防災意識が高まったことがうかがえる。

       自然災害に備えて、家庭で蓄えている食料が家族の何日分あるかを尋ねると、「1~2日分」と「3~4日分」が各31%で、「1週間分」8%、「5~6日分」5%などの順だった。「全くない」人は21%。3日分以上の蓄えがある人は、地震の経験が震度6弱以上の人では57%に上ったが、震度4以下の人では41%となり、経験した最大震度が大きいほど、蓄えが多い人の割合も高かった。

       国や自治体が優先して取り組むべき防災対策(複数回答)は、「学校や公共施設の耐震強化」が67%で最も多かった。

      災害対応 国の司令塔強化を…熊本県立大理事長 五百旗頭真さん 73

       1995年に阪神・淡路大震災を兵庫県西宮市の自宅で経験して以来、地震災害と深く関わるようになり、東日本大震災と熊本地震では復興構想に携わった。

       今回調査では、復興が「進んでいる」という見方が増えた。津波により壊滅した岩手県陸前高田市などの被災地でも、新しい町の土台作りが進み、被災者自身も手応えを感じている。

       ただ、より安全な新しい町ができても、そこに産業が興り、良きコミュニティーが築かれ、にぎわいを取り戻さなければ、意味がない。その点で、復興支援の継続が必要と多くの国民が認識しているのは心強い。

       次なる大災害への備えも重要だ。国と社会は、震災のたびに経験を蓄積し、対応力を高めてきた。自衛隊はもとより、警察や消防も、阪神・淡路大震災の後、全国から人を集めて大災害に対応する制度を作った。DMAT(災害医療支援チーム)もできた。ただ、全体をコントロールする中央の司令塔機能がまだ弱い。防災・危機管理の専門スタッフがいる「防災庁」のような組織が必要ではないか。

       熊本地震では当初、東日本大震災の時と比べて、政府の復興対応が冷たいと感じたこともあった。その後、かなり改善されたが、どこであれ、政府が被災地・被災者を支える共通の基準作りを進めるべきだ。

       三つの大地震を通じ、被災して助けられた人が、次の地震で被災地を助ける側に回り、支援が連鎖するのをこの目で見てきた。熊本にも東日本から多くの人が駆けつけた。熊本の人も、次の大災害では、きっと頑張って助けに行くだろう。政府・公共機関だけでなく、経験を積んだNGO(民間活動団体)や専門化したボランティアの力は貴重だ。こうした社会の蓄積、支援の連鎖に期待している。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYTPT50388

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    6. [震災6年 スポーツと福島]<上>故郷の子供たち 元気に
      2017年3月8日5時0分
       東日本大震災からまもなく6年を迎える。東京電力福島第一原発事故の影響による避難区域が少しずつ解除されている福島だが、傷痕は今も深く残る。県ゆかりのスポーツ関係者は、原発事故に翻弄されながら復興に向けた自らの役割を果たそうとしている。

      元巨人・鈴木尚広さん「復興加速手伝う」

       今年1月4日、福島県相馬市の実家に帰省していた元巨人の鈴木尚広さん(38)は、自らが野球を始めた少年野球チーム「愛宕あたごビクトリーズ」の練習に足を運んだ。5、6人の児童を相手にノックし、捕球の基本動作などをアドバイスした。「子供たちが喜んでくれるから」。現役を引退したばかりの鈴木さんはバットを振り続けた。

       震災発生時は、広島でのオープン戦の試合中だった。出番に備えていた鈴木さんは、テレビの緊急放送に目を疑った。「津波情報に『相馬市』の地名があり、10メートル近い予想だった。どうしていいか分からなかった」。家族ともなかなか連絡がつかず、無事を確認できたのは日が暮れた頃だった。

       約2週間後、球団の許可を得て故郷に戻った。多くの家屋が津波に流され、慣れ親しんだ風景の変貌に言葉が出なかった。被災者に声をかけると逆に励まされもしたが、心に突き刺さったのは、「鈴木さんが来て何になるんですか」という言葉。無力感で埋め尽くされた。

       そんな鈴木さんを動かしたのは、野球少年たちの思いだった。愛宕ビクトリーズはグラウンドに仮設住宅が建てられたため活動を休止した。東京電力福島第一原発事故の影響で屋外での活動を不安視する児童の親もいた。それでも多くの子供たちが活動再開を望み、約2か月後に新しいグラウンドで練習が始まった。

       鈴木さんは「できることをやろう」と心に決め、時間を見つけては被災地に足を運び、児童とふれあった。東京ドームでの公式戦にも招待した。ここ数年は正月に愛宕ビクトリーズの練習に顔を出す。今年も指導を受けた飯塚諒君(10)は、「テレビで見て、あこがれていた方に教えてもらってうれしい」と目を輝かせる。

       「現役時代は時間が限られ、携われる時間が短かった」と、苦しい胸の内を打ち明けた鈴木さんは、「引退した今だからできることもある。被災地を見て感じて、発信していきたい。復興支援を加速させる役割を担いたい」と語る。ユニホームを脱いだ足のスペシャリストの顔は、新たな使命感に満ちあふれている。(西村海)

            ◇

        すずき・たかひろ  1978年4月27日、福島県相馬市生まれ。97年にドラフト4位で巨人入団。プロ20年間で228盗塁を記録し、盗塁成功率(200盗塁以上)の8割2分9厘0毛は歴代1位。昨季限りで現役を引退した。

      少年野球人口 減少続く

       福島県では、東日本大震災が今も少年野球に大きな影響を与えている。

       県体育協会によると、2010年度のスポーツ少年団軟式野球の登録者数は3450人。震災後の11年度から3年間は特別措置で数字は据え置かれたが、一部地域を除いて集計を再開した14年度に2736人になるなど減り続けている。

       原発事故で屋外での運動が制限されたことも要因という。

       来年度からは特別措置がなくなるためさらなる減少も予想される。県体協の担当者は「屋外スポーツは一度離れるとなかなか戻らない。東京五輪では県内で野球が行われる予定なので、もう一度関心を持ってもらえれば」と話している。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYTPT50431

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  33. [震災6年]稲穂の記憶 メガソーラー
    2017年3月8日15時0分

     福島県相馬市の潟湖せきこ・松川浦沿岸に、見渡す限りの太陽光パネルが並ぶ。津波後の塩害に苦しむ磯部地区で農地をあきらめ、建設されたメガソーラーだ=写真、許可を得て小型無人機から、飯島啓太撮影=。福岡市の電設会社九電工などが手がけ、6月に稼働する。70万平方メートルの敷地に、約20万枚のパネルが置かれ、一般家庭1万6660世帯分の年6000万キロ・ワット時の電力を供給する計画だ。

     同地区は漁港と水田があり、約600世帯約2100人が暮らしていたが、震災で市の死者の半分以上の251人の犠牲者が出た。稲穂で満ちた地は、電源地帯へと姿を変えつつある。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYTPT50355

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  34. 福島県産の食品購入ためらう人15% 消費者庁の調査
    3月8日 21時04分

    東京電力福島第一原子力発電所の事故から、まもなく6年になりますが、消費者庁が半年に1度行っている消費者の意識に関する先月の調査で、福島県産の食品の購入を「ためらう」と答えた人は15%と、平成25年の調査開始以来では最も少ない割合となりました。

    この調査は消費者庁が平成25年から半年おきに行い、先月、9回目の調査が、被災地と3大都市圏の5100人余りを対象に行われました。

    この中で、「福島県産の食品の購入をためらう」と答えた人は、去年行った調査より0.7ポイント減少して15%と、これまででは最も少ない割合になりました。

    一方、福島県などが原発事故のあと行っている食品の放射性物質の検査については、行われていることを「知らない」と答えた人が35.2%と、3人に1人に上りました。

    検査の実施を知らない人は、調査が始まってから20%台が続いていましたが、1年半前の調査で30%台に上がってからは横ばいとなっており、正確な情報を消費者にどう届けるかが課題となっています。

    消費者庁の岡村和美長官は「食品の検査はしっかり行われており、消費者庁としても正確な情報を隠さず発信し、正しい理解につなげたい」と話しています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170308/k10010903561000.html

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  35. 東日本大震災 復興補助金の不正受給疑い37億円
    3月8日 22時58分

    東日本大震災からの復旧・復興を進めるため、国や自治体が支出した補助金や助成金のうち、不正受給などの疑いがある支出の総額は少なくとも37億円に上り、このうち返還が確認されたのはおよそ7億円にとどまっていることがNHKの取材でわかりました。

    NHKが震災の復興事業などを管轄する省庁や被災した自治体などを取材したところ、これまでに支出された補助金や助成金のうち、不正受給や不適正な受給の疑いがあるとされたのは、少なくとも10の都道府県の30の企業や団体で、総額は37億円余りに上ることがわかりました。

    このうち、宮城県は雇用創出の助成金、合わせて9200万円を不適正に受給した疑いがあるとして4つの企業に返還を命じました。

    また、被災した中小企業のグループが施設の復旧費用のうち最大で4分の3まで補助を受けられる「グループ補助金」では、岩手、宮城、福島の5つの企業が合わせて7億2000万円を不正に受給したとされています。

    こうしたケースでは、支出した国や自治体が返還命令などを出しますが、これまでに返還されたのは全体の20%にあたるおよそ7億円にとどまっています。

    岩手県山田町で活動していた北海道旭川市のNPO法人「大雪りばぁねっと」は、補助金をマンションやスーツなど不適切な使いみちに使ったとして町がおよそ6億7000万円の損害賠償を求めて裁判が行われていますが、NPO法人は破産し、回収のめどはたっていません。

    増税を財源に巨額の補助金

    東日本大震災では、復興支援のために行われた増税などを財源に巨額の補助金や助成金が支出されています。

    このうち、被災した中小企業がグループを作り、壊れた施設や機械の費用の支援を受ける「グループ補助金」がおよそ5000億円。被災した人を採用した企業などに助成金を出す「緊急雇用創出事業」におよそ2900億円。設備投資を行う全国の企業を補助する「国内企業立地推進事業費補助金」に1500億円余り。福島県の経済への貢献が期待される企業への「立地補助金」が2000億円余りなど、過去の災害では例がない大規模な支出になっています。

    福島県と郡山市すべて告訴・告発

    福島県内で発覚した不正受給は去年の夏以降で5件、総額はおよそ7億3000万円に上っています。

    このうち東京・世田谷区のプリンター関連会社「ルキオ」に支出された1件、6億2700万円余りは返還されましたが、残る4件は不正受給をした会社が破産手続きに入るなどして、回収のめどはたっていません。

    こうした状況のなか、福島県と福島県郡山市は返還をしたかどうかにかかわらず、すべてのケースについて警察に告訴・告発を行っています。復興事業の補助金や助成金を不正に受給する行為は悪質であり、警察の捜査によって再発防止につながると判断しているからです。さらに、福島県は今後4年ほどかけて補助金を受け取った企業3000社以上を対象に現地調査を行ったり取引先に調査の協力を求めたりして、不正受給を防ぐ取り組みを始めたということです。

    福島県企業立地課の白石孝之課長は「復興のための事業は、国民の皆さんに通常の税以上の負担をいただいているので、二度と起こらないように対応するとともに把握した場合はきぜんとして対応していく」と話しています。

    不正受給会社の元従業員は

    6億2700万円を超える多額の補助金を不正に受給したとされる東京・世田谷区のプリンター関連会社「ルキオ」は、平成26年に福島県南相馬市に工場を新設しました。これに伴って地元の人たち20人余りを雇用しましたが、不正が発覚したあと、工場は生産停止となり、ことし1月以降、すべての従業員に退職するよう求めました。

    こうした従業員の多くは、震災と原発事故の影響でいったん避難したあと、地元に戻って再就職した人たちで、なかには仮設住宅から通勤する人もいました。さらに、この春から就職する予定だった高校生の内定も取り消されたということです。

    原発事故の影響で家族とともに一時、宮城県に避難したあと地元に戻ってきた50代の元従業員の男性は、「サラリーマン人生の最後をささげるつもりで入社した。受注もないのに在庫をつくりどうするのかと感じていた。震災で受けた傷に塩をすり込むような行為であり、期待を裏切られた気持ちだ」と話していました。

    また、40代の元男性従業員は「当初は製造や設計の設備が整っておらず、この会社をどういう目的で運営しているのかという違和感があった。なぜこの場所に会社をつくったのか、どういう思いで不正受給をしたのか知りたい。県や市にはお金が戻っただろうが自分たちにはつらいことしか残っていない。県や市も責任を感じてほしい」と話しています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170308/k10010903761000.html

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  36. 69人の遺体、依然身元不明…東日本大震災
    2017年3月8日20時34分

     警察庁は8日、東日本大震災の被害状況を発表した。

     3月1日現在の死者は1年前から1人減り、1万5893人、行方不明者は同8人減の2554人。

     死者数が減ったのは、宮城県石巻市の川で発見された遺体が、震災後に行方不明になった女性で、震災死でないと判明したため。69人の遺体が、依然として身元不明のままになっている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYT1T50136

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  37. 福島県の出生数、過去最低に - 2017/3/9
    http://news.yahoo.co.jp/pickup/6232528

    東日本大震災6年 福島の出生数、過去最低 昨年推計
    産経新聞 3/9(木) 7:55配信

     福島県の平成28年の推計年間出生数は1万3753人で、東日本大震災翌年の確定出生数を17人下回り、過去最低となっていたことが8日、分かった。福島県の出生数は25年に大きく回復し、27年まで1万4千人台を維持してきたが、回復傾向は続かず、少子化の加速が浮き彫りとなった。

     福島県が毎月公表している推計人口から産経新聞が28年の推計出生数を集計した。福島県の出生数は震災前年の22年が1万6126人。震災のあった23年は1万5072人で、翌24年は1万3770人と大幅に減少した。県こども・青少年政策課は「震災直後の混乱や避難所生活、福島第1原発事故による放射線の影響から、この時期に妊娠を控える県民が多かったのではないか」と話す。

     県は震災後、除染の徹底や18歳までの医療費無償化など子育て支援を充実させ、25年は前年比776人増の1万4546人に回復。26、27年も1万4千人台を維持し、26年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に出産する子供の推計値)は1・58と全国平均(1・42)を上回り全国9位、東日本で1位だった。

     28年の推計数が震災翌年を下回ったことに、同課は「出産可能な年齢の女性が減っており、少子化の流れの中での数字と受け止めている。雇用や結婚など出産前から切れ目のない支援を充実させたい」とした。

     岩手、宮城両県の28年出生数も公表された推計人口から集計し、ともに過去最低となった。確定数は厚生労働省が9月に発表する人口動態統計で公表される。

     人口問題に詳しい国立社会保障・人口問題研究所、小池司朗氏の話「背景には震災による県外避難があり、母子避難が多かったことも要因の一つと考えられる。福島県の出生数の回復には、県外避難者が戻ってこられるような環境整備も大切ではないか」
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170309-00000068-san-soci

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  38. 中間貯蔵施設用地取得 計画の20%にとどまる
    3月9日 4時45分

    原発事故に伴い福島県内の除染で出た廃棄物を保管する中間貯蔵施設の建設用地について、環境省はこれまでに300ヘクタール余りを確保しましたが、まだ計画全体の20%にとどまっています。事故から6年になる今も住民に身近な場所に廃棄物が置かれたままになっていることから、用地取得を一層加速し施設を早期に建設することが求められています。

    環境省は、福島県双葉町と大熊町にまたがる東京電力福島第一原子力発電所周辺のおよそ1600ヘクタールの土地に除染で出た廃棄物を保管する中間貯蔵施設を建設する計画で、去年11月から廃棄物の分類や保管を行う施設の工事を始めていて、ことし秋ごろには保管を始める目標です。

    この施設の建設用地について、去年3月末の時点で環境省が確保できていたのは、わずか22ヘクタールでしたが、地権者との交渉を進めた結果、先月末までに336ヘクタールを確保しました。

    しかし、まだ計画全体の21%にとどまり、施設の建設が進んでいないことから、原発事故から6年になる今も福島県内にはおよそ1100か所の仮置き場に廃棄物が残されているほか、住宅の庭先などおよそ14万6000か所にも廃棄物が保管されたままになっています。

    住民に身近な場所に廃棄物が置かれた状態が長期化していることから、環境省には用地取得を一層加速し、施設を早期に建設することが求められています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170309/k10010903851000.html

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  39. 震災被災者、新潟で自殺か
    「津波で一家不明」のメモ
    2017/3/9 13:07

     新潟県糸魚川市で2月、東日本大震災で被害に遭った岩手県陸前高田市の高齢男性とみられる遺体が見つかったことが9日分かった。自殺の可能性があり、遺書らしきメモには「津波で一家が行方不明」などと記されていた。糸魚川市福祉事務所が身元特定のため情報提供を呼び掛けている。

     同事務所によると、メモはズボンのポケットに入っており「陸前高田の者ですが津波により1家が行方不明となり今だに見つかりません 私も生きる気力がなく」(原文のまま)などと記され、所々破れて読めなくなっていた。名前は書かれていなかった。

     問い合わせは同市福祉事務所、代表電話025(552)1511。
    https://this.kiji.is/212421716383073780

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    1. 震災被災の男性自殺か…家族津波で失ったとメモ
      2017年3月10日8時22分

       新潟県糸魚川市歌の北陸道高架橋の下の草むらで2月上旬、白骨化した遺体が見つかり、所持品の中に岩手県陸前高田市で東日本大震災に被災し、家族を津波で失ったという遺書めいたメモが残されていたことが9日、分かった。

       糸魚川署によると、死後2年以上は経過しているとみられ、付近には黒色の作業ズボン、24・5センチの黒色スニーカー、黒い小銭入れの入った迷彩柄のリュックサックなどがあった。

       メモの内容などから、震災で家族を失った後に自殺した高齢の男性の遺体とみられる。身元を特定できる所持品はなかった。遺体は身元不明のまま火葬され、遺骨は市内の斎場で、遺品は市福祉事務所で保管している。市福祉事務所では「親族を見つけ、遺骨を故郷に帰してあげたい」としている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170309-118-OYT1T50103

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  40. 社説
    福島の除染 復興促進へ効率的に進めたい
    2017年3月9日6時0分

     福島の復興を着実に進めるためには、効率的な除染を続けていくことが欠かせない。

     東京電力福島第一原子力発電所の事故で放出された放射性物質の除染は、ヤマ場を越えたと言える。帰還困難区域を除く地域での政府直轄の除染作業が、今月末でほぼ終了する。

     家屋や道路を洗浄したり、庭や農地の表土を削り取ったりする。1月末時点で、南相馬市、浪江町の計300ヘクタールほどが残るだけだ。除染を終えたほとんどの地域で、避難指示解除の目安である年間被曝ひばく量20ミリ・シーベルトを十分に下回る。

     今後も、泥がたまる側溝などで放射線量が高くなることもあろう。柔軟な対応が求められる。

     森林の除染範囲は原則として、縁から20メートル奥までだ。政府は昨年、森林内の遊歩道やシイタケ栽培地など10か所を除染モデル地区に選定した。住民や林業関係者が除染範囲の拡大を要求したためだ。

     山の表土を広くはぎ取ると、土壌流出の危険性が高まる。費用対効果を見極めて、最良の方法を探ってもらいたい。

     帰還困難区域の除染は、課題として残る。対象地域の一部について、政府は、東電に費用を求めずに、国費で除染とインフラ整備を並行して進める方針だ。地域の再生を少しでも前進させるためには、現実的な手法だろう。

     除染に関して、大切なのは、正確な情報を伝えて、住民が抱く放射線への不安を軽減することだ。避難指示が解除されても、「安全だと分かっているが、心配だ」といった理由で、避難先にとどまったままの住民は少なくない。

     環境省や福島県は、市町村や学校、自治会などで、説明会を繰り返し開いている。専門家が分かりやすく説明するなど、不安軽減に向けた一層の工夫が必要だ。

     第一原発周辺の中間貯蔵施設では、県内各地から搬入された汚染土の中の草木などを除去する施設の建設が進む。秋から本格稼働し、汚染土の埋め立ても始まる。

     用地取得が難航し、中間貯蔵施設全体の整備は遅れている。保管量は最大で2200万立方メートルだが、これまでに運び込まれたのは、その1%にも満たない。

     県内では、いまだに軒先や農地に置かれたままの汚染土が多い。政府は、中間貯蔵施設の必要性を粘り強く訴えねばならない。

     保管量を減らす努力も重要になる。環境省は、低線量の汚染土を道路や堤防の建設に活用する実験を行う。安全な再利用法を確立し、理解を求めていくべきだ。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYT1T50165

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  41. 1億円以上の除染事業 70%超が1者応札
    3月9日 18時46分

    福島第一原発事故の除染事業で、国が発注した契約額1億円以上の入札のうち、価格面の競争が行われないまま1つのゼネコンや共同企業体だけが参加して落札する「1者応札」が全体の70%以上に上っていることがNHKの取材でわかりました。環境省はおととし、この問題を解消するための改善計画を定めましたが、それ以降のすべての入札で「1者」のみの参加が続いていて、専門家は「ゼネコン各社が競争せずにすみ分ける構図になっている。除染には巨額の費用がつぎ込まれており、コストを安くするために競争入札を機能させる取り組みが必要だ」と指摘しています。

    NHKは原発事故のあと、平成24年度から今年度にかけて環境省が発注した、契約額1億円以上の除染事業合わせて49件について入札の状況を詳しく調べました。

    業者の選定は価格面などを競い合う競争入札で行われましたが、全体の73%にあたる36件が、1つのゼネコンや共同企業体だけが入札に参加して落札する「1者応札」だったことがわかりました。

    入札は、原発周辺にある11の自治体ごとに別々に行われましたが、このうち8の自治体では、複数回にわたって行われた事業を同じゼネコンやその共同企業体が、ほぼ独占的に受注していました。
    また、7の自治体では先行して行われたモデル事業を請け負ったゼネコンが、本格的な除染事業もそのまま受注していました。
    予定価格に対する落札率は、全体の8割以上で95%を超えていて、このうち21件は落札率が99%を超えていました。

    この問題を解消するため、環境省はおととし4月、「予算を適正に使うため競争性の確保に取り組む」などとした「改善計画」を定めましたが、それ以降に行われた12件の入札すべてで「1者」のみの参加が続いていました。

    NHKの取材に対し、除染事業を受注したゼネコン各社は「入札には適切に対応している」などとコメントしています。

    自治体ごとにすみ分けの構図

    環境省が発注した除染事業は、ゼネコンどうしの競争がほとんど行われず自治体別にすみ分ける構図になっています。

    内訳を見ますと、楢葉町では5回入札が行われた事業をいずれも前田建設工業などのJVが受注しています。

    南相馬市では5回入札が行われた事業を、いずれも大成建設などのJVが受注しています。

    大熊町では4回入札が行われた事業を、いずれも清水建設やそのJVが受注しています。

    浪江町では4回入札が行われた事業を、いずれも安藤・間などのJVが受注しています。

    川俣町では3回入札が行われた事業を、いずれも大成建設などのJVが受注しています。

    葛尾村では3回入札が行われた事業を、いずれも奥村組やそのJVが受注しています。

    双葉町では3回入札が行われた事業を、いずれも前田建設工業やそのJVが受注しています。

    また飯舘村では7回入札が行われた事業のうち6回を、大成建設などのJVが受注しています。

    専門家「すみ分けの構図 あまりにもおかしい」

    公共事業の入札制度に詳しい、法政大学大学院の武藤博己教授は「ゼネコン各社が自治体別に、これだけうまくすみ分けている構図は偶然にしてはあまりにもおかしい。除染は国民の負担で進められている巨額の事業であり、入札で業者を競争させてコストを安くさせる必要があるが、原発事故のあと何年も同じ状況が続いており、環境省に改善への姿勢が見られない」と指摘しています。

    そのうえで「除染は住宅の屋根を水で洗い流したり、山林の土をはいだりする作業で、それほど難しい技術は必要ない。大手ゼネコンだけではなく、地元の中小の業者が受注することも可能なはずで、複数の業者が入札に参加できるようにして、競争性を確保する取り組みが必要だ」と話しています。

    モデル事業は地域ごとに随意契約で

    除染の効果的な方法を確かめるモデル事業は、本格的な除染を前に内閣府が日本原子力研究開発機構に委託し、平成23年度に行われました。
    対象となったのは、放射線量が高い警戒区域や計画的避難区域だった福島県内の12の自治体です。

    日本原子力研究開発機構は、ゼネコンから提案された除染の方法をもとに業者を選定し、▽南相馬市、川俣町、浪江町、飯舘村の事業を、大成建設などのグループに、▽田村市、双葉町、富岡町、葛尾村の事業を鹿島建設などのグループに、▽広野町、大熊町、楢葉町、川内村の事業を、大林組などのグループに、それぞれ随意契約で発注していました。
    「地元業者なかなか入れない仕組み」
    除染事業を受注した大手ゼネコンの下請け業者は「除染事業は発注額が数十億円以上のものが多いので、大手ゼネコンしか受注できず、地元の業者はなかなか入れない仕組みになっている。受注の際には過去の実績が重視されるため、先行して行われたモデル除染などを請け負った業者が、次の入札でも有利になる。このため、別の業者が新たに参入するには障壁があり、同じ自治体の事業を1者が独占する構図が続いたのだと思う」と話しています。

    また高い落札率については「除染事業は予定価格の積算基準などがある程度公表されているので、積算ソフトを使えば、予定価格に近い価格を算出できる。ライバルがいれば、そこから値引きをするが、1者しか入札に参加しないので、100%近い高い落札率で受注できる」と話しています。

    環境省の対策後も改善されず

    除染事業で「1者応札」や高い落札率が続いている状況について、外部の大学教授や弁護士などで作る、環境省の入札監視委員会は3年前、「競争を確保できる取り組みを検討すべき」などと意見しました。

    このため環境省はおととし4月、予算を適正に使うため「1者応札」の解消に向けて取り組むなどとした「改善計画」を定め、入札に参加しなかった業者にアンケート調査を行って原因の把握に努めたり、入札の際に過去に受注実績がある特定の業者だけが有利にならないような評価基準を定めるなどの対策を取ったということです。

    しかし、それ以降に行われた入札でも12件すべてで「1者」のみの参加が続いていて、状況は改善されていません。

    これについて環境省の担当者は「除染は事業規模が大きく数千人単位の作業員を確保する必要があるため、入札に参加できる業者はおのずと限られる事情があった。また初めに落札した業者は地元との信頼関係を築いているので、同じ自治体の事業を続けて受注しやすい状況もあったのではないか」と説明しています。
    そのうえで「今後は、事業の規模を小分けにするなどして、多数の企業が入札に参加できるよう改善していきたい」としています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170309/k10010904851000.html

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    1. 除染費累計、2兆6千億円
      福島第1原発事故から6年
      2017/3/3 21:47

       環境省は3日、東京電力福島第1原発事故による除染費が2016年度までの累計で約2兆6千億円になる見通しになったと発表した。事故から6年を迎えるのを前に、環境省が計上した11~15年度の支出済みの費用と16年度の予算額を足し合わせて集計した。

       17年度からは放射線量が特に高い帰還困難区域の一部の除染に取り掛かる方針で、生活空間の放射線を減らす除染事業の費用はさらに膨らむ。

       このうち、国が直轄で実施する第1原発周辺の避難区域に指定された福島県内の11市町村の費用は、約1兆3400億円だった。
      https://this.kiji.is/210378116803051525

      http://koibito2.blogspot.jp/2017/02/blog-post_6.html?showComment=1488637531310#c6249401734333242932

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  42. 東日本大震災、11日で6年
    避難生活、なお12万人超
    2017/3/9 16:01

     東北地方を中心に甚大な被害を出した東日本大震災は11日、発生から6年を迎える。沿岸部を襲った津波や東京電力福島第1原発事故に伴い岩手、宮城、福島3県の内外で避難生活を送っている人は、ピーク時の4分の1程度まで減ったものの、12万3千人に上る。

     プレハブ仮設住宅での暮らしを余儀なくされている被災者は、1月末時点で3県に3万5千人いる。ただ自宅を失った人向けの災害公営住宅の完成が早かった岩手県田野畑村や仙台市などは、すでに全員が退去。生活再建の進み具合には、地域間格差が目立ち始めている。
    https://this.kiji.is/212465500085274100

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  43. [震災6年 未完の事業]<8>福島観光 風評との闘い
    2017年3月9日5時0分

     会津の名峰・磐梯山ばんだいさんを眼前に望む福島県北塩原村の「裏磐梯ライジングサンホテル(旧・ホテル白雲はくうん荘)」。

     戦後しばらくして開業し、「白虎隊」に代表される会津若松市の歴史に触れたり、冬場はスキーをしたりする旅行者を年間約2万4000人受け入れてきた。そのうち6~7割は修学旅行やスキー教室など宿泊を伴う教育旅行客だった。

     だが、震災後、福島第一原子力発電所の事故もあり、2011年4月以降に宿泊予定だった県外の学生約1万3000人分がキャンセルとなった。当時の運営会社は事業の継続は困難と判断し、震災の2か月半後には廃業。支配人以下の従業員11人が全員解雇された。

     廃業時に支配人だった山口公一さん(65)は「福島という県名だけで危険視された。突然の通告でなすすべがなかった」と振り返る。当時は福島県大熊町の避難者約60人を受け入れていたが、従業員の田中みゆきさん(52)は「寮を出て行かねばならなくなり、それまで支援する立場だった私たち自身が『被災者』になった」と話す。

     ホテルは別の企業が引き継いで同年末に再開したが、現在も年間宿泊客数は震災前の7割程度にとどまる。

           ◎

     福島県は現在、教育旅行の誘致に力を入れている。

     15年に福島県を訪れた観光客は約5031万人と10年比約88%にまで回復した一方で、15年度に県外から教育旅行で来た学生は約27万7800人(2936校)と10年度比約55%にとどまるからだ。

     同県は1000を超える学校や旅行業者を巡る「誘致キャラバン」を実施しており、15年度からは震災後に初めて教育旅行で訪れた学校にバス1台当たり上限5万円の助成を開始。2度目以降も、一定の条件のもと、バス1台当たり3万円を助成している。

     それでも、関東地方のある中学校の校長は「保護者から『放射能は怖い』と言われれば、行き先を変えざるを得ない」と打ち明ける。

           ◎

     「高さ10メートル近い津波で集落が全滅したんです」

     福島県いわき市の土産物店「山六観光」では先月1日、代表の鈴木一好かずよしさん(65)が、修学旅行に訪れた熊本学園大付高(熊本市)の1年生85人に熱弁を振るった。

     美空ひばりさんのヒット曲「みだれ髪」の舞台となった塩屋埼しおやさき灯台は店とは目と鼻の先。かつては年間約9万人が訪れていたこの地も、観光客は半分となった。

     家族連れや団体客の笑い声が響いていた店舗2階の食堂は閉鎖された。今は押し寄せた津波が岸壁にぶつかる瞬間や、がれきにまみれた市街地の様子などの写真約70枚が、木製のボードいっぱいに貼られている。

     津波で親族20人を失った。悲しんでいるばかりではなく、この体験を後世に伝えようと12年4月から語り部を始め、その相手は優に3万人を超えた。

     「観光業の復活なくして福島の復興はない。『福島は安全』『被災地を助けたい』と感じた子供たちが大人になれば、風評被害は自然に消える」と信じている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170309-118-OYTPT50112

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    1. [震災6年]福島産 「安全」に万全
      2017年3月9日5時0分

       福島県産の農水産物は、放射性物質の濃度を調べる検査を経て、安全なものだけが市場に流通しているが、東日本大震災から6年近くがたっても、需要や取引価格は低迷している。「安全の証明」のため、震災前より手間が増えた福島の第1次産業の現場では、風評被害との闘いが続いている。

      コメ 流通前に全袋検査 規制超ゼロなのに……価格低迷

        二段構え

       2016年産の新米の出荷がピークを迎えた昨年秋、ベルトコンベヤーに載った30キロ・グラム入りの米袋が、3台の検査機に次々と流れ込んでいった。ここは、福島市郊外にある運輸業「帝北ロジスティックス」の倉庫。セシウムの濃度を約10秒かけて測定し、1キロ・グラム当たり60ベクレル未満であれば、青ランプが点灯。モニター画面に「PASS」の表示が出る。

       こうした全量全袋検査は各地で行われ、県内では約200台の検査機が稼働する。震災翌年の12年以降、毎年約1000万袋が対象となってきた。同社では、収穫がピークとなる毎年10月から11月までの間は20人態勢を取り、多い時で1日に約3900袋を調べる。同社の東城昌勝さん(57)は「地元の農家が丹精込めたコメを検査するのは、本当はつらい。こんなことは早く終わってくれればいいのに」と話す。

       国の基準で、出荷が規制される数値は100ベクレルだが、検査機器の精度により50~80ベクレル以上でも県農業総合センターで詳しく調べる「二段構え」。15、16年産米の検査では、基準値以上だったものはゼロ。水田の除染や、放射性物質の吸収を抑制するカリウム肥料の散布などが奏功した結果だ。

       県水田畑作課の松浦幹一郎副課長は「福島産米は安全」と胸を張る。

       

        手間暇かけ

       しかし、現実は厳しい。主力米の「コシヒカリ」の相対取引価格は、震災から6年がたとうとしても全国平均を依然として下回る。特に、東京電力福島第一原子力発電所が立地する浜通り地方の落ち込みは大きく、16年産米60キロの価格(速報値)は全国平均より1177円安い。県産米の収穫量は、10年の全国4位から7位に後退した。

       一方で、農家の手間は確実に増えている。「コシヒカリ」や「天のつぶ」を作る相馬市の佐藤保彦さん(65)はカリウム肥料を田植え前の水田にまく。震災前にはなかった作業で、その量は所有する4・5ヘクタールの水田に約400キロにもなる。

       全量全袋検査にかける負担も大きい。自分で食べたり、農協を通さず得意先に直接販売したりする分も検査を受けなければならず、生産者情報などが組み込まれたバーコードを1袋ずつ手作業で貼り付けなければならない。

       収穫が終わった毎年11月下旬になると、近所の農家たちと、東京都内のスーパーで売り込みをかける。無料配布には集まってくるが、実際に買っていく人はほとんどいない。「震災前より手間暇をかけ、もう6年がたつのに……。再び福島県産米で勝負できる日が来るのだろうか」

       

        飼料用に転換

       大玉村の佐原洋一郎さん(49)は昨年、自身が持つ12・6ヘクタールの水田の2・6ヘクタールで、飼料用米を生産した。

       佐原さんは両親と妻の4人暮らしで、2人の息子を県外の大学に通わせている。価格が低迷する主食用のコシヒカリを作り続けても収入増が見込めないことに、危機感を募らせた末の結論だった。

       「人間の食うコシヒカリを牛のエサにすることに罪悪感もあったが、地域を守るためには、飼料用であってもコメ作りを続けなければいけない」。今では、そう割り切っている。

       東北農政局福島県拠点(福島市)によると、飼料用米を生産する農家数は14年から増加。農林水産省によると、10年に3456トンだった生産量が、15年には2万404トンにまで増えた。その一方、主食用米の生産量は、10年の43万8729トンから16年の33万3600トンに減った。

       もともと主食用米の需要が全国的に減少していることから、国が飼料用米や麦、大豆への転換を進めてきた経緯がある。1キロ20~30円で取引される飼料用米でも、転換で得られる交付金を加えれば、主食用米と同程度の収入になるというわけだ。

       楢葉町の猪狩富夫さん(61)は今年、主食用米約60アール分の作付けも再開する。

       「田を維持するのは帰還した人の責務。いまは飼料用米を選ばざるを得ないが、食用のコメを作りたい気持ちは持ち続けたい」。それが「農家の気概」だと思っている。

      果樹、野菜 品質こだわり

       福島市の古山浩司さん(41)は十数年勤務した県内の電機メーカーを辞め、両親が営む果樹園を継いで8か月後、震災に見舞われた。

       2011年産のモモからは放射性物質は検出されなかったが、卸売価格は半値に。贈答用の注文も前年の4割にまで落ち込んだ。「福島産」というだけで避けられ、「安全なのに、どうして」と涙が出そうになった。

       転機となったのは、震災直後に取り組んだ土壌改良。全体の1割の約10本の木の周囲に改良材をまいたところ、地中の栄養素が効率的に実に移るようになり、いまでは、十分な甘みがあるとされる糖度12を大きく上回る、糖度20超の「あかつき」などが作れるようになった。

       年々、栽培面積を拡大し、16年の出荷量は約9トンと、震災前の2倍。古山さんは「風評は簡単に消えないが、品質で認められれば乗り越えられる。培ったノウハウを他の生産者にも伝えたい」と表情は明るい。

       強い甘みが特徴の「御前人参ごぜんにんじん」や、栄養価の高いインゲン「ささげっ子」などのブランド野菜を震災前から出荷してきた郡山市の農業者団体「郡山ブランド野菜協議会」に参加する農家は、風評被害の影響をほとんど受けていない。協議会副会長の鈴木光一さん(54)は「震災後も、『あなたの野菜に代わるものはない』と励まされてきた。福島でも、選ばれる野菜は作れる」と話している。

       

      水産業は「試験操業」

       震災前、福島は全国でも上位の水揚げを誇る水産県でもあったが、震災後の漁は福島第一原発の半径20キロ圏外での「試験操業」に限られてきた。

       県が週に1回、水揚げされた魚の種類を調べており、国の基準値(1キロ・グラム当たり100ベクレル)を安定的に下回れば、出荷が認められる。震災前の約200種に対し、試験操業で漁獲が認められた魚種は、今年2月現在、イシガレイやクロマグロなど計97種。

       さらに地元漁協は、試験操業の対象魚種になっても、風評被害への懸念と資源管理のため、漁獲量を自主的に抑制している。

      33か国・地域が「日本産」規制

       農林水産省によると、2月末現在、日本の農林水産物に対して、何らかの輸入規制を行っているのは33か国・地域に上る。韓国、中国、台湾、香港など10か国・地域は、一部の都県を対象に輸入停止を続けており、欧州連合(EU)やブラジル、サウジアラビアなど18か国・地域は、放射性物質の検査証明書の提出を義務付けた上で、輸入を認めている。一方、カナダ、豪州、ニュージーランド、メキシコなど21か国は、震災後の輸入規制を完全に撤廃した。

       農水省海外輸入規制対策室は「規制緩和の動きは広がっているが、中国など緩和の動きが見られない国もあり、二極化が進んでいる」と分析。食品の安全性については、「今後も粘り強く各国にアピールしていく」としている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYTPT50483

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    2. 震災関連倒産 6年1785件…販路縮小や風評被害影響
      2017年3月9日5時0分

       東京商工リサーチ(TSR)は8日、東日本大震災の影響で倒産した企業件数(負債1000万円以上)が6年間で計1785件に上ったと発表した。負債総額は約1兆6000億円。件数は年々減少しているが、取引先の被災による販路の縮小や風評被害などで影響は長期化している。

       震災6年目の2016年3月~17年2月の倒産件数は前年比38%減の82件で、負債総額は44%減の273億円だった。1年目(11年3月~12年2月)は638件、9221億円だった。

       業種別では、6年間の累計でホテルや飲食店などの「サービス業他」が最多の473件。このうち「宿泊業」が107件で最も多かった。都道府県別では、島根県を除く全ての都道府県で倒産が発生している。

       1995年の阪神大震災では、関連倒産はおおむね3年で収束し、計314件だった。

      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYTPT50545

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    3. [震災6年 スポーツと福島]<中>「富岡高出身」 私の誇り
      2017年3月9日5時0分

      バド大堀、仁平 逆境で成長

       2月中旬に行われたバドミントンの実業団チーム「トナミ運輸」の練習。富山県高岡市の体育館で部員の大堀彩さん(20)と、高校3年の仁平菜月さん(18)がシャトルを追っていた。2人の母校は東日本大震災や東京電力福島第一原発事故の影響で3月末に休校する福島県立富岡高校(富岡町)。日本代表を輩出するバドミントンの強豪だ。

       震災時、大堀さんは町内の中学2年。高校と同じくバドミントンが強い学校で、体育館での練習中に照明器具が落ちるほどの強い揺れに襲われた。翌日には町の指示で避難先まで約20キロの道のりを渋滞に巻き込まれながら約5時間かけて逃げた。

       仁平さんは水戸市出身だが、五輪出場という目標があり、大堀さんと同じ中学に進む直前だった。被災地での生活を心配し、反対する家族を「ここにいては夢が見つからない。行かせてくれなければ不良になる」と押し切った。

       中学のバドミントン部は猪苗代町に場所を移し5月に再開したが、現実は厳しかった。練習場所を求め町内外の体育館を転々とする日々。ラケットを振る時間も限られた。不安な気持ちは、高校に進んでも変わらなかった。

       それでも大堀さんは「周りが支えてくれて立ち直れた」といい、震災前より高まった集中力で腕を磨いた。高校2年の13年には世界ジュニア選手権で準優勝した。「覚悟を決めて進学した」という仁平さんもホームシックやけがなどの逆境に負けず成長。昨年の全国高校総体ではシングルスと団体を制した。

       この4月、仁平さんがトナミ運輸に入り、2人は再びチームメートとなる。大堀さんは、「自分を育ててくれた富岡を誇りに頑張りたい」と決意を新たにし、仁平さんは「中高6年間を過ごした福島は第二の故郷。応援してくれる人の存在が一番の支えになった」と恩返しを誓う。

       コーチとして、大堀さんの父で富岡高バドミントン部監督だった均さん(48)も加わる。目標は20年東京五輪出場。富岡を巣立ち、引き継ぐ2人は、同じ夢に向かってスタートを切る。(佐藤雄一)

       

      生徒減少で 5校が休校

       原発事故後、全域が警戒区域に指定された富岡町。スポーツを強化するため2006年度から普通科を国際・スポーツ科に変えた富岡高も、猪苗代町や静岡県三島市などに設けたサテライト校で授業を続けてきた。

       富岡町によると、今月1日現在約1万5000人が避難しているが、4月には原発に近い区域を除いた広範囲で避難指示が解除される。町が役場機能の一部を郡山市から町内の本庁舎に戻すなど復興の動きも見えてきた。

       しかし、生徒数の減少もあって富岡高や、野球部が夏の甲子園に3度出場した双葉高校(双葉町)など五つの県立高は今年度で休校し、ふたば未来学園高(広野町)に集約される。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170309-118-OYTPT50000

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    4. [震災6年 防災力を高める]<2>避難訓練にゲームの要素
      2017年3月9日5時0分

       ◇映像で疑似体験

       「震度7の地震が発生。どこに避難しますか?」

       暗くした教室に声が響き、親子らが一斉に動き出した。机の上には「立て膝で待機」「机の下で三角座り」「柱の陰で小さくかがむ」などの指示カード。最も安全な行動を選ぶ。制限時間2分。「早く」「わからへん」

       2月19日、兵庫県明石市の市立人丸小学校で行われた防災演習ゲーム「生存確率」の一場面だ。安全度の低い行動を選ぶと、「骨折」「捻挫」などのシールを貼られ、腕や脚が動かせなくなる。ちなみに先ほどの問いで、主催者側が正解としたのは「柱の陰で小さくかがむ」。震度7では机の下も安全ではない。こうして最後は各自の選択に基づき、生存確率が算出される。

       この日は近所の住民ら約600人が挑戦した。小学3年の前田朱里あかりさん(9)の生存確率は34%。「もっとできると思っていたのに。でも、ドキドキしながら楽しめた」



       巨大津波が襲った岩手県釜石市で約3000人の小中学生のほとんどが助かった「釜石の奇跡」。これは、大きな揺れの後は津波が来るから、各自で逃げろと、津波の怖さを教えこみ、避難訓練を重ねた成果だった。

       だが、訓練への参加は低迷している。内閣府が昨年5月に行った調査では、6割超が大災害が発生する可能性があると考えながら、具体的な日頃の取り組みに「防災訓練への参加」を挙げたのは、わずか6%だった。

       生存確率のゲームを考案したNPO法人ひょうご県防災教育振興協会理事長、青木真二さんは「興味を引く仕掛けを盛り込みながら、参加を促す工夫が必要だ」と訴える。

       災害の怖さをリアルな映像で実感してもらうという新スタイルの訓練が広がっている。現実の風景にコンピューターグラフィックス(CG)を重ねるAR(拡張現実)や、コンピューターで作り出した架空の世界を現実のように見せるVR(仮想現実)など最新技術を使ったものだ。

       埼玉県鴻巣市は2月の防災訓練にVRを導入した。システム会社「理経」(東京)が開発した「避難体験VR」を使い、市民約100人が黒煙渦巻く火災現場からの避難を疑似体験した。同市危機管理課では「経験しないとわからない恐怖や行動の難しさに気づける」と意義を強調する。

        ◆

       廊下に立ちこめる煙。水はみるみるうちに首まで――。

       2月28日、東京都三鷹市立第七小学校で行われたARアプリを使った防災訓練。双眼鏡ほどの大きさの紙箱にスマートフォンをセットすると、カメラ画面に映る実際の風景に、水や煙のCGが重なる。子どもたちは、煙を避けて中腰で廊下を進み、水面を流れる段ボール箱に驚きながら、逃げ場になる高台を探した。

       校長の吉村達之さんは「マンネリ化した訓練に危機感や緊張感が加わった」と話す。

       アプリは、愛知工科大学准教授で、防災科学技術研究所客員研究員の板宮朋基ともきさんが2年前に開発した。「現実感のある災害現場が体験できる」と板宮さん。ただし、従来の訓練にも意味はあるという。「様々な形の訓練があっていい。色々な体験を積み重ねることが、一人一人の命を守ることにつながるはずだ」
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170308-118-OYTPT50428

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  44. [震災6年]2500人の街へ 整然
    2017年3月9日15時0分

     マス目状に道路が延び、新しい住宅の建設が進む。新興住宅地に生まれ変わった宮城県気仙沼市鹿折ししおり地区=写真、許可を得て小型無人機から、飯島啓太撮影=。かつて大型漁船「第18共徳丸」が打ち上げられ、津波の恐ろしさを伝える地として、多くの人が祈りに訪れた。

     2500人の居住を目指し、市内最大の土地区画整理事業が展開中だ。8棟の集合住宅を軸に、海側に水産加工団地、内陸に商店街と住宅がつくられる。仮設住宅から昨年末、帰ってきた夫婦は「まださみしい景色だけれど、前よりいっそうにぎやかな街になれば」と、期待を寄せる。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170309-118-OYTPT50335

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  45. よみうり寸評 3月9日
    2017年3月9日15時0分

     若い医師、または医大生が免許の有無にかかわる事件を起こしたとき、俗に言われる。医師一人を養成するために1億円かかるのに、と◆国、親がかけた費用をため息交じりに嘆く。が、それ以上言葉が継げないのは、無駄になるものが金に過ぎないからだろう◆教員にならないことを決めた宮城教育大3年佐々木奏太さん(21)の記事を朝刊(東京版)で読んだ。東日本大震災の津波で教員の父(当時55歳)を失って以来、悩み、考え続けた。自分は大川小(宮城県石巻市)の遺族と言えるかどうか…◆児童74人が逃げ遅れて犠牲になった小学校である。教員の過失を認めた裁判の傍聴席で奏太さんは決意した。「父に守れなかった命を僕が守れるのか。先生にはなれない」と。事実は重い。重すぎるけれど、間違っていると思った読者は大勢だろう◆守れる。守れないはずはない、とまで言おう。苦しんだ6年の歳月は、どんな宝にも代え難い何かを心に育てていよう。こんなにも命と向き合った先生の卵がどこにいるだろう。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170309-118-OYTPT50271

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  46. 原発避難の子どもにいじめ 法務省が速やかな対応指示
    3月10日 4時25分

    法務省は、原発事故で避難している子どもへのいじめが相次いで明らかになったことを受けて、全国の法務局に対し、いじめが疑われるケースがあれば速やかに対応するよう指示しています。

    東京電力福島第一原発の事故を受けて福島県から避難している子どもが、転校先でいじめを受けていたことが相次いで明らかになったことから、法務省は全国の法務局に対し、いじめが疑われる事案を把握した場合、速やかに対応するよう通知しています。

    通知は、震災と原発事故から6年近くたった現在でも、いじめという人権問題が起き続けていることを忘れてはならないとしたうえで、学校や警察と連携する必要があるかを的確に判断し、必要に応じて速やかに人権救済の手続きに入るよう求めています。

    法務省は、避難生活を続ける子どもは弱い立場に置かれがちで、特に配慮が必要だとしていて、いじめで悩んでいるのなら、法務局のほか、法務省のホームページなどを通じて相談してほしいと呼びかけています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170310/k10010905171000.html

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  47. [震災6年 未完の事業]<9>点在する漁村 存続へ懸命
    2017年3月10日5時0分

     漁船が一隻もない浜辺に波の音だけが響く。近くの道沿いの枯れ草に埋もれた浮き具や漁網が、ここがかつて漁港だった名残をとどめている。宮城県気仙沼市の土台磯どだいそ漁港は東日本大震災の津波被害を受け、岩手、宮城両県で唯一、廃港になった。漁をやめた菅原誠一さん(63)は「港がなくなると、土台磯の名も消えてしまいそう」とつぶやいた。

     かつてはウニやアワビの漁が盛んで、小型船が30~40隻利用していた。その後、防波堤があって船を管理しやすい隣の大沢漁港に移る漁師が増え、震災前は16隻、20人に減少した。震災の津波で船はほとんど流され、消波ブロックも損壊。新たに購入された8隻が約200メートル離れた大沢漁港に移って漁を再開し、2014年10月、廃港が決まった。

     土台磯漁港の近くにある小さなほこらでは震災前、漁師や住民が大みそかに訪れて海の安全や大漁を願った。菅原さんは「ほこらは津波で壊れたまま。最近は訪れる人も少なく、寂しくなった」と嘆いた。

            ◎

     三陸沿岸に甚大な被害をもたらした海は、恵みの海でもある。漁師は各地に点在する港を拠点にアワビやウニ、ワカメなどを取って生活し、集落を維持してきた。港の数は、宮城県が本州最多の142、岩手県は次に多い111。大半は小規模港だ。

     岩手県では、被災を免れた3港を除く108港の復旧が進む。ただ、小さな集落では漁業継続への不安もある。

     約70世帯の大半が津波で流された釜石市の室浜地区は、国道から海に向かう道路に入り、狭い道を1・5キロほど進んだ場所にある。次に災害が起きたら孤立する懸念があるとして、市は集団移転を提案したが、住民は「地元の浜で漁を続けたい」と訴えた。海抜14・5メートルの防潮堤を造り、土地をかさ上げして集落を再生させる道を選んだ。

     漁師の佐々猛夫さん(64)は妻(55)、漁具販売会社で働く長男(31)と仮設住宅で5年ほど暮らし、半年前、室浜に戻った。再建した自宅から海が見える。

     しかし、避難先から戻ったのは、震災前の3分の1以下の約20世帯。若者は少ない。大半の住民は、漁師をやめて市中心部に移り住んだ。佐々さんは「やっぱり海さ近い所がいい。太陽を浴び、海に出ているのが一番の健康法だ」と話しつつ、表情を曇らせる。「でも、漁業を受け継ぐ次の代がいないと、室浜はどんどん衰退していく」

            ◎

     全港が被災した宮城県では当初、漁師の減少や高齢化を踏まえ、漁港を3分の1~5分の1に集約する方針だった。しかし、漁師の反発もあり、11年10月に公表された計画では漁港数の集約に関する記述は消えた。

     漁業集落が集約されたケースはある。南三陸町の志津川湾に面し、八つの港が点在する戸倉地区では昨年4月、別々の港を利用する漁村が同じ高台に移った。津波被害を受けた14地域から64世帯が集まり、漁師たちは各港に通う。平地が少なく移転用地を確保できなかったためだが、住民の養殖漁師、須藤大介さん(35)は「もともと狭い地域なので、みんな顔見知り」と新しい街になじむ。来月には自治会ができる予定だ。

     戸倉地区まちづくり協議会長の阿部一郎さん(70)は「漁業を守るには、漁師が暮らす集落を維持しなければならない。まとまって暮らす方が結束力も増すので、よかった」と話す。

     過去、幾度も津波被害に遭い、そのたびに復活してきた三陸地方。小さな港と漁村が再生の力になる。(おわり)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYTPT50061

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    1. [震災6年]宝の海 取り戻す 磯焼け、がれき…地道に解消
      2017年3月10日5時0分

       三陸沖は漁業資源に恵まれた世界有数の海で、漁業は被災地の基幹産業、復興の要だ。東日本大震災の巨大津波は沿岸の街をのみこんだだけでなく、海の中も一変させた。「宝の海」を取り戻そうと、海と生きる漁業者らが粘り強い努力を続けている。

      消えた海藻

       海にせり出す山々に囲まれた宮城県南三陸町の志津川湾。湾を一望できる高台で民宿を営む漁師、菅原由輝ゆうきさん(37)は、湾内に浮かぶ船から海底をのぞき込む。「海藻がなくなって白っぽい岩肌が見えるでしょ。これじゃアワビも育たないよ」

       湾内では、アラメなどの海藻類が生い茂る藻場が津波で流されたり、流れ込んだがれきで海藻の茎や葉が切れたりした。藻場は多様な生き物のすみかで「海のゆりかご」とも呼ばれる。しかし、ウニが回復途中の海藻を食い荒らして起きる「磯焼け」が、2013年頃から湾内のあちこちで深刻化している。カニなどの天敵や同じ海藻を食す巻き貝などが姿を消した影響で、ウニが急増した。

       磯焼けの海底は海藻が少ないため、生息するウニも海藻を十分食べられず、痩せて身入りが悪くなる。漁師は商品価値が低いウニを取らないため海に残る、という悪循環だ。宮城県のウニの漁獲量は、10年の744トンから11年は102トンに減り、15年も407トンにとどまっている。

       町は同湾の藻場をラムサール条約に登録したい考えで、磯焼けを調査している東北大などとウニを除去して藻場を再生する活動を進めている。ただ、同大の吾妻行雄教授(水圏植物生態学)は「ウニは他の場所から移動してくるため、いたちごっこになっている」と指摘する。活動に協力する菅原さんは「磯焼けの解消に特効薬はない。俺たちが海を守る」と誓う。

      海底に330万トン

       津波の引き波で海に流れ込んだ大量のがれきは、漁の障害にもなっている。環境省の推計では、約330万トンが海底に沈んでいる。

       かつてホッキ貝の水揚げ量が宮城県一だった山元町沖。水深5~15メートルの砂の中から専用の機械を使って貝をかき出す漁は13年に再開した。しかし、砕けた消波ブロックなどをよけながらの操業になるため、漁獲量は少ない。震災前は35トン程度だったが、15年は1・5トンにとどまっており、地元漁師は「何の心配もなく漁をできる日が早く来てほしい」と訴える。県は、大型クレーンを使ってがれきを撤去する作業を18年度末まで続ける予定だ。

       一方、がれきは魚介類のすみかにもなっている。海洋研究開発機構などが岩手県釜石市沖などで行っている調査では、水深500メートル超の海底に沈んだ車のバンパーなどの周辺に、ヒトデやタコ、キンキが生息しているのが確認された。

      自立へ決意

       三陸沖では貝類の養殖も盛んで、岩手県の大船渡湾でホタテ養殖を50年近く続ける「鎌田水産」会長、鎌田和昭さん(70)は「ここは世界一の漁場。最高のホタテが育つ」と胸を張る。

       養殖漁業で悩みの種は、二枚貝が海中の有毒プランクトンを食べて生じる貝毒だ。国の基準値を超えると出荷できなくなる。大船渡湾では震災後も12年を除いて毎年一定期間、出荷が規制されている。ただ、貝毒が発生する仕組みは分からないことも多い。

       鎌田さんの会社も13、14年度、漁獲量が最盛期の半分に落ちた。それでも「自然のことだから、うまくやっていくしかない。大船渡で育った大ぶりのホタテをたくさんの人に届けたい」と前を向く。

       被災した養殖漁業者には、再開時の設備購入費や餌代などへの国の補助金が原則3年間支給される。岩手県では今月、対象者の77%、379人の支給が終了予定。大船渡市でカキを養殖する船本秀幸さん(36)は「いよいよ自立の時。不安はあるが、自分たちの力でやっていく」と語った。

      岩手、宮城の漁獲量 戻る傾向 施設復旧進む
       水産業が盛んな岩手、宮城両県では、漁業施設の復旧が進んでいる。漁獲量は回復傾向にあるものの、震災前の水準には達していない。

       サケの漁獲量は、2015年は岩手が本州1位、宮城が同2位だ。春に放流した稚魚は4~5年で川に戻るが、孵化ふか場が被災して13年度まで放流数が少なかった影響で震災前の4割程度にとどまった。

       川に遡上そじょうするサケが少ないため、両県では、海で捕獲したサケから稚魚放流用の卵を採る、異例の「海産親魚」が行われている。水揚げした後、生きたまま孵化場まで運んで採卵する。稚魚の放流時期を迎えた岩手県大槌町のサケ孵化場長、三野宮直輝さん(37)は「サケは三陸を代表する海の幸。『大槌に戻ってこいよ』と心の中で語りかけながら放流している」と話す。

       2~4月が旬のワカメは、震災前、岩手県が漁獲量日本一だった。養殖施設や漁船が大きな被害を受け、11年は震災前の60分の1に減った。生育に時間がかからないため回復が早く、13年には、震災前の水準には戻っていないものの、首位を奪還した。

       アワビの漁期は11~12月頃。稚貝の放流から水揚げできる大きさになるまで4~5年かかる。稚貝の生産施設の被災で放流数が激減したが、施設が復旧し、15年の両県の漁獲量は震災前の8割に回復した。全国1位の岩手県は15年度、震災前より100万個以上多い890万個の稚貝を放流し、水揚げ回復に期待を込める。

       5~8月頃がシーズンのウニ。岩手県は震災前、北海道に次ぐ漁獲量で1500トン近くあったが、11年は122トンに激減。15年も震災前の7割ほどだが2位に戻り、水揚げ額も震災前の水準になった。

       三陸沖では古くからカキの養殖も盛んだ。広島県に次ぐ産地だった宮城では、養殖施設や漁船が津波被害を受け、12年の漁獲量は震災前の1割ほどに落ち込んだ。14年には2位に返り咲いたが、生産者が半減した影響もあり、漁獲量は15年も4割ほどだ。

       両県とも全国有数の産地となっているホタテも、11年は漁獲量が震災前の1割以下になり、15年も岩手が5割、宮城が6割にとどまっている。

      漁師の高齢化不安 新規就業は増

       岩手、宮城、福島3県では、漁師の高齢化や後継者不足に震災が追い打ちをかけた形で、漁業者数は減り続けている。2015年度の漁業協同組合の正組合員数は計1万3460人で、09年度の1万7994人から約4500人減っている。

       ただ、新たに漁師になる人は増加傾向だ。岩手では13年度から3年連続で増え、15年度は震災前5年間の平均を上回る59人。宮城も毎年、平均を上回っており、11~15年度に計212人が就業した。

       被災地の漁業の担い手を確保するため、国は最長2年間の研修中も賃金が支給される制度を作り、資金面で支援する。岩手県大船渡市は、漁師が入居する宿舎3棟の整備費を補助。宮城県石巻市は空き家を改修し、就業希望者が共同生活できるシェアハウスを整備。延べ15人が入居した。

       東京都出身の元総合格闘家、赤井太志朗さん(36)は、15年に大船渡市出身の女性と結婚したのを機に同市に移住し、ワカメ養殖を始めた。冬の船上での作業は、軍手にゴム手袋を重ねても水の冷たさで指が動かなくなる。最近、ようやく船酔いしなくなった。6月頃にはホタテに挑戦する予定で、「岩手に移り住んで成功した漁師のモデルになりたい」。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170309-118-OYTPT50436

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    2. [震災6年 スポーツと福島]<下>Jの街再生 食で支え
      2017年3月10日5時0分

      日本代表シェフ 広野でレストラン

       サッカー日本代表の帯同シェフとして知られる西芳照さん(55)が、福島県広野町にレストラン「アルパインローズ」を開いて、5年余りになる。総料理長を務めていたスポーツ施設「Jヴィレッジ」内でも震災後、別店舗「ハーフタイム」を営んでいたが、施設の再整備工事のため、昨年11月に閉店した。震災までサッカーに囲まれ、安穏の日々を過ごした地までは車で5分足らずだが、足を運ぶことは、めっきり減った。

       あの日も、Jヴィレッジにいた。東京電力福島第一原発の状況も、家族の安否も分からないまま、避難者への炊き出しに追われた。いったん東京都内で暮らしたが、2011年夏、Jヴィレッジに戻った。原発事故対応現場の過酷さを聞き、「温かい料理を提供したい」との思いに駆られたからだ。

       その年にオープンさせたのが二つの店。「サッカーの街の再生につなげたい」と願い、Jヴィレッジにあった店の名を引き継いだ。

       作業員に食べ放題のランチを提供し、にぎわった時期もある。しかし、次第に前線基地としての機能が第一原発に移ると、客の入りは激減。復興の歩みが、経営を苦しめるジレンマに陥った。弁当を請け負っても、「人手が足りず、全部断るしかなかった」。作業車両などで渋滞が頻発し、安い時給で働くスタッフは、遠くから通いきれず、やめていった。

       「最初は本当に人が少なくて、店の片付けを手伝ってくれたのは、お年寄りだった」。夏祭りなどに屋台を出し、店では町産の米を使う。住民との絆は震災後、強まった。「ずっと頑張ってきた人たちと一緒にいられること」を、幸せに思う。

       広野町は今春、いわき市の仮設住宅などから町民が帰還し、震災前の居住人口の約8割まで戻る見込みだ。「街が明るくなれば」と胸が膨らむ。

       実は、来年夏に再始動するJヴィレッジで「また働かないか」と誘われている。「何かの形で携わらなければ」という使命感の一方で、迷いがある。

       「戻ったら、支えてくれた広野町の人たちやスタッフの思いを踏みにじることになるんじゃないか」

       何が正解か、まだわからない。(青柳庸介)

            ◇

        にし・よしてる  福島県南相馬市出身。東京都内の日本料理屋での下積みを経て、Jヴィレッジが開設された1997年から、施設内で調理を担当した。サッカー日本代表の海外遠征にもジーコ監督時代の2004年から同行。ワールドカップではドイツ、南アフリカ、ブラジルの3大会で日本代表の食を支えた。

      来年夏再開へ 人手確保課題

       広野町と楢葉町にまたがるJヴィレッジは、東京電力福島第一原発の南約20キロに位置する。震災後は事故対応拠点になったが、2018年夏、新築する宿泊棟を含む主要部分で営業を再開し、19年4月に全面的に稼働する予定だ。

       ただ、心配事もある。「フロント業務や清掃、芝の手入れなど全体で約150人の従業員の確保が、今後の課題」と運営会社幹部。西さんも、広野町の高齢者に配る「2段重ねのおせちの数で、住民が戻ってきたと実感できた」時期もあったが、この2年は、慢性的に人手不足のスタッフの負担を減らすため、受注を断念している。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170309-118-OYTPT50466

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  48. 福島の道路、森林…除染遅れ 住民に負担
    2017年3月10日5時0分

    園児の活動、今も制限

     東京電力福島第一原発事故に伴う福島県の除染事業で、道路や森林での作業遅れが明らかになった。国が目標とする3月末までに完了しない地域では、子供への影響を懸念する声が残る。反面、除染で出る汚染土の保管施設の設置に対する住民感情もあって、作業は自治体の計画通りに進まない。

     今月上旬、福島市内の保育園の園庭に、子供たちの元気な声が響いた。三輪車にまたがったり駆け回ったりする姿は、日常を取り戻したようにも見える。ただ、原発事故前に実施していた「はだし保育」は、6年がたつ今も再開していない。

     福島市によると、この地区での道路除染は手つかずのまま。国の除染基準となる年間被曝ひばく線量1ミリ・シーベルト超の道路が点在する。

     原発事故後、園児の散歩の機会を大幅に減らし、屋内での運動を続けているが、園長は「除染が終わらないと保護者も心配するし、子供たちはのびのび生活できない」と話す。

            ■

     川内村の兼業農家、遠藤章さん(61)は、自宅の裏山を恨めしそうに眺めた。原発事故前は毎月のように、いわき市から訪れていた長男家族が、遊びに来なくなったからだ。

     村は全体の8割が森林で、一部は福島第一原発から20キロ圏にかかる。住宅から半径20メートルの生活圏にある森林のうち、除染を終えたのは6割。遠藤さん宅の裏山の除染もまだだ。

     原発事故前のように、採った山菜やキノコを人に分けることもなくなった。長男家族は放射線量を気にして、実家に顔を出すのはお盆と正月程度で、線香を上げ、すぐに日帰りする。遠藤さんは「元に戻るかどうか分からないが、せめて早く除染してほしい」と訴えた。

            ■

     除染作業が計画通りに進まないのは、地権者の理解を得られず、汚染土を保管する中間貯蔵施設の建設が遅れ、仮置き場の増設も進まないためだ。その結果、家庭の敷地にも汚染土が積まれている。

     福島大の大瀬健嗣特任准教授(環境放射能)は「住民が中間貯蔵施設や仮置き場に持つ拒絶感はもっともだ」と話す。その上で「今の保管方法なら、仮置き場周辺の線量が極端に高くなることはない。自治体は専門家を交え、住民との対話を増やし、安全と安心との隔たりを埋める努力を続けるべきだ」と指摘している。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYTPT50049

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    1. 道路除染 10自治体遅れ 福島 汚染土仮置き場不足
      2017年3月10日5時0分

       東京電力福島第一原発事故の後、福島県と県内36市町村が実施している除染事業のうち、道路除染は9市町村と県で、国の目標の今月末までに完了しない見通しであることがわかった。住宅から20メートル圏内の森林除染も7市町村にのぼる。汚染土の中間貯蔵施設の建設が遅れているために、県内の仮置き場が汚染土で満杯になり、除染の実施ペースを上げられないためだ。

       読売新聞が汚染状況重点調査地域に指定されている福島県内36市町村と県に、国直轄分を除く除染の実施状況を取材した。各自治体とも住宅除染は完了かほぼ完了する見通しだが、一方で道路や森林の除染が後回しになっている。

       特に遅れが目立つ道路除染は、県管轄と9市町村で未完了となる見通しだ。進捗しんちょく率は今年1月末で、福島市49・2%、郡山市74・5%、いわき市84・1%など。福島市では7地区で通学路や公園周辺などの市道の除染が終わらず、うち5地区は未着手だ。本宮、二本松市、天栄村も3月末の完了は難しい。

       森林除染も7市町村が終わらない見込み。進捗率は2月末で最も低い本宮市が9・1%にとどまる。

       福島市は国の目標より1年遅れ、来年3月の完了を見込むが、「仮置き場確保のめどが立たず、除染の発注さえできない」と説明。一方、環境省は「早期完了するよう支援を続ける」としている。

       ◆ 汚染状況重点調査地域 =放射性物質汚染対処特措法に基づき、年間被曝(ひばく)線量が1ミリ・シーベルトを超える可能性がある地域を対象に国が市町村を指定し、県と市町村が国の費用負担で除染する地域。避難指示区域など、さらに線量の高い「除染特別地域」は国が直轄で除染する。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYTPT50158

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  49. 守られた命 6歳
    2017年3月10日15時0分

     2011年3月11日の東日本大震災のさなか、被災地で生まれた赤ちゃんたちは間もなく6歳となる。津波、停電、断水――。当時の混乱を乗り越えて力強く成長した幼い命は、この春、小学校に入学する。

    津波 おなか抱え母は逃げた…塩釜・真弥君 3月11日生

     「津波のとき守ってくれてありがとう。大好きだからずっといっしょにいようね」。震災の日に生まれた宮城県塩釜市の大久保真弥まひろ君(5)は昨年2月、突然母の真貴まきさん(35)に手紙を渡した。1時間近く悩みながら長男の颯太ふうた君(12)に代筆してもらったという。「知らない間に震災のことを理解し始めているんだな」。真貴さんの涙腺が緩んだ。

     病院の帰り道だった午後2時46分、真貴さんは強い揺れに襲われた。大きなおなかを抱え、保育園にいる長男と次男を迎えに行こうと海の方に向かった。友人に「赤ちゃんがいるんだから」と叱られ、我に返って高台へ逃げて振り返ると、さっきまでの道は水没していた。「まーちゃん(真弥君)がおなかの中から必死に訴えていたのかも」

     午後5時過ぎ、子供らと会えないまま避難先の体育館で陣痛が来た。病院に運ばれ、午後11時44分、3422グラムの元気な男の子が生まれた。「大変な時に生まれてくれてありがとう。まっすぐ育ってね」と語りかけた。兄2人は無事だったが、退院後も断水が続き、真弥君が産湯に入れたのは震災1週間後だった。

     あれから6年。弟・柊弥とうや君(3)も生まれ、真弥君は面倒見のよいお兄ちゃんになった。颯太君とのキャッチボールに夢中で、スポーツ少年団の野球チームに入りたいという。

     「いつか生まれた日の意味を自分で考え、夢を持てる人になってほしい」。真貴さんはそう願っている。

    避難先で産声 「強くなる」…石巻・飛翔君 3月12日生

     震災翌日の3月12日午前1時10分、馬場飛翔ひゅうが君(5)が宮城県石巻市のマンションの一室で産声を上げた。そこは父親の実家。母綾菜さん(27)は、家具が倒れて足の踏み場もない自宅から逃げ、身を寄せた先を出産の場所に選んだ。

     陣痛が来たのは震災当日の午後8時過ぎ。車に乗って病院を探したが、津波に阻まれた。近所の人が避難所などを回り、保健師と看護師を見つけてくれた。

     部屋の明かりは懐中電灯とろうそくだけ。布団に新聞紙と犬用のシートを敷き、へその緒は家庭用のハサミで切った。

     飛翔君は寒さのため体温が34度に下がったが、義父と義母が近所を回って医院を見つけ、ストーブがある従業員控室で暖を取らせてもらった。

     飛翔君は今、「強くなりたい」と週2回の空手教室通いをしている。兄(8)から「ママ痛いけど、頑張ったんだよ」と言われても、あの日のことは分からない。綾菜さんは将来、言って聞かせたいと思う。「たくさんの人の優しさのお陰で、あなたが生まれたんだよ」と。

    産湯くれた見知らぬ恩人…宮古・さくらちゃん 3月11日生

     岩手県宮古市の下沢さくらちゃん(5)も震災の日に生まれた。料理や皿洗いを手伝い、妹と弟の世話も買って出る。母の悦子さん(38)は「すっかりお姉ちゃん」と目を細める。

     悦子さんが宮古市内の産婦人科医院で出産したのは震災発生の27分前。強い揺れで分娩ぶんべん室から看護師休憩室に避難した悦子さんは、冷え込む中、毛布と湯たんぽの暖を頼りに一晩を過ごした。看護師の「いつでも呼んで。飛んでくるから」という言葉が心強かった。

     翌日退院して戻った自宅は停電と断水。ミルクもまともに作れず途方にくれたが、配給所で出会った見ず知らずの家族が助けてくれた。まきストーブで産湯を沸かし、おむつ替えまで手伝ってくれた。食料を分けてくれる人もいた。

     だから悦子さんはこう伝えている。「さくらが生まれた時はみんなが助けてくれたんだよ。困っている人がいたら、知らないふりをしないで助けてあげてね」

    [震災6年]「いざ」の時 頼れる丘

     名取川河口近くの仙台市若林区藤塚に高さ15メートルの「避難の丘」がある=写真、許可を得て小型無人機から、飯島啓太撮影=。「周りは平地なので、いざという時に頼りになる」と、犬を散歩させる男性(64)は言う。

     階段と緩やかなスロープが併設され、最上部の広さは140平方メートル。津波発生時に70人が一時避難できる。あずま屋と太陽光発電による照明も設けられている。

     6年前、海岸公園の展望台が5人の命を救った。この教訓から市内沿岸部に造られ、4か所目となる。丘から周囲が見渡せ、防災や復興の様子を学ぶ場にもなっている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYTPT50274

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  50. 全国から若手の僧侶集まり 震災犠牲者を供養 福島
    3月10日 21時17分

    東日本大震災の発生から11日で6年になるのを前に、福島県いわき市に全国から若手の僧侶が集まり、犠牲者の供養や被災地の復興を祈って、海に向けて行脚しました。

    この行脚は、東日本大震災の犠牲者を供養しようと、全国日蓮宗青年会が毎年、この時期に被災地を訪れて、行っています。

    犠牲者の七回忌に当たる、ことしは、津波で大きな被害を受けた、いわき市の小名浜地区にある安立寺に東北をはじめ、全国各地から若手の僧侶、およそ60人が集まりました。

    僧侶たちは列を組んで、海に向けて行脚し、うちわの形をした太鼓をたたきながら、寺から小名浜港まで、およそ3キロの道のりを歩きました。港に着いた一行は、地震が発生した時刻の午後2時46分に、海に向かって手を合わせて黙とうをささげ、犠牲者の供養と被災地の復興を祈っていました。

    福島県日蓮宗青年会の大和田晃生会長は「お題目を唱えながら、犠牲者の魂と、残された人の気持ちが安らかになるよう祈りました。震災から6年がたちますが、風化させてはいけないと思います」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170310/k10010906411000.html

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  51. 原発事故の避難指示 帰還困難区域など除き解除へ
    3月10日 5時03分

    原発事故に伴い、政府が福島県内に出していた避難指示は、10日、新たに2つの自治体で解除が決まることになっており、これにより、原則立ち入りが禁止されている帰還困難区域などを除いて解除されることになります。一方で、避難指示が解除されても帰還しないと答える人が増えていて、地域の再生をいかに進めていくのかが課題となっています。

    政府は、東日本大震災の発生から11日で6年となるのを前に、10日、総理大臣官邸で、復興推進会議と原子力災害対策本部の合同会議を開くことにしています。

    この中で政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故に伴い、福島県内の11の市町村に出していた避難指示について、新たに、浪江町の一部は今月31日に、富岡町の一部は来月1日に解除することを決めることにしています。

    福島県内に出されていた避難指示はこれまで順次解除されてきましたが、これにより、放射線量が比較的高く、原則として立ち入りが禁止されている帰還困難区域と、福島第一原発が立地する双葉町と大熊町の一部を除いて、解除されることになります。

    また、政府の避難指示の対象地域は、当初およそ1150平方キロメートルにわたりましたが、事故から6年を経て、およそ369平方キロメートルに縮小することになります。

    一方、政府は、帰還困難区域について、国費を投入して一部の地域で除染やインフラ整備を進め、平成33年度末をめどに、住民や廃炉に当たる関係者が居住する「特定復興再生拠点区域」を整備したいとしています。

    ただ、避難指示が解除されても、帰還しないという人が若い世代を中心に増加しており、地域の再生をいかに進めていくのかが課題となっています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170310/k10010905191000.html

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    1. 仮設住宅長期化 7人に1人が住宅再建意欲失う
      3月10日 13時49分

      東日本大震災の発生から6年になるのに合わせてNHKが岩手・宮城・福島の被災者などを対象に行ったアンケートで、今も仮設住宅で生活している人の7人に1人が「住宅を再建するつもりがない」と回答しました。理由について、年齢や資金面のほか「気力がなくなった」と答えた人も多く、仮設での生活が長期化する中、被災者が再建意欲を失いつつある実態が明らかになりました。

      このアンケートは、NHKが岩手・宮城・福島の3県の被災者や原発事故の避難者、合わせて5000人を対象に去年11月から先月にかけて行ったもので、全体の3割近くに当たる1437人から回答を得ました。

      このうちプレハブの仮設住宅や、賃貸住宅を利用したいわゆる「みなし仮設」で今も生活している512人に住宅の再建について尋ねたところ、7人に1人に当たる77人が「再建するつもりがない」と回答しました。

      また、「再建できないかもしれない」や、「おそらく再建できない」と答えた人も8人に1人に当たる61人に上りました。「再建するつもりがない」や、「再建できないかもしれない」、それに「おそらく再建できない」と答えた人にその理由を尋ねたところ、「高齢になった」が最も多く52%で、次いで、「再建するお金がない」が47%、「新しい生活を始める体力・気力がなくなった」が26%などとなっています。

      自由記述では、福島県富岡町の58歳の女性が「夫が無職となり、収入の見通しが不安なことから住宅再建をあきらめた」と書いたほか、宮城県気仙沼市の85歳の女性は、「復興が早く行われれば自宅の建設も考えましたが、今となっては夢となりそうです。気力も体力ももうなくなりました」と回答し、復興工事の遅れや原発事故の影響で仮設住宅での生活が長期化する中、被災者が再建意欲を失いつつある実態が明らかになりました。

      専門家「時間の経過が諦めに」

      今回のアンケートの結果について防災社会学が専門で兵庫県立大学の木村玲欧准教授は、「高台移転や災害公営住宅の整備が遅れて時間だけが過ぎてしまい、周りの人が仮設住宅からどんどんいなくなる中、自分だけが仮設に取り残されたような気持ちになるという状況が、住宅再建を諦める決断につながっていると思う」と話していました。そのうえで、「住宅の再建というのは必ず成し遂げなければいけないので、被災者が仮設住宅の次の段階に移れるよう、一人一人の状況に合った地道な取り組みが必要になってくる」と述べ、復興工事を早く進めるとともに、復興の枠組みから取り残される人がないよう、行政の支援が重要だと指摘しています。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170310/k10010905841000.html

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    2. 震災6年 今も仮設住宅に3万3854人
      3月10日 13時55分

      東日本大震災の発生からまもなく6年になりますが、岩手・宮城・福島の3県のまとめによりますと、先月末の時点で3万3854人がプレハブなどの仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。このうち、岩手県では、1万383人、宮城県では、1万1616人、福島県では、1万1855人となっています。

      被災地では震災のあと、最大で11万人以上がプレハブの仮設住宅で暮らしていましたが、住宅を再建するなどして退去する人が増加しています。

      その一方で、災害公営住宅の建設やかさ上げ工事などによる宅地の整備の遅れによって、今も多くの人が仮住まいの不自由な暮らしから抜け出せていません。

      22年前の阪神・淡路大震災では発生から5年ですべての人が仮設住宅から出ており、かつてないほど長期にわたる仮設住宅での暮らしや生活の再建に向けたサポートが大きな課題となっています。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170310/k10010905891000.html

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  52. 時が過ぎるほどに気力を失っていく…

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  53. 経団連 原発事故の風評被害払拭へ 共同アピール採択
    3月10日 17時34分

    東日本大震災から11日で6年になるのを前に、経団連がシンポジウムを開き、東京電力福島第一原発の事故による風評被害の払拭(ふっしょく)に向けて、官民一体で取り組むとする共同アピールを採択しました。

    東京で開かれたシンポジウムでは、福島県の野地誠風評・風化対策監が講演を行い、「福島は農業県だが、多くの農産物は全国のほかの地域と市場価格で差が出ており、『低値安定』の状況が固定化している」と説明しました。

    続いて行われたパネルディスカッションでは、福島市や南相馬市、飯舘村などを管轄するJAふくしま未来の菅野孝志組合長が、「消費者からの問い合わせにきちんと対応できないなどの理由で、福島県産のコメや牛肉などを取り扱いたがらない量販店が残っている。人々の脳裏に焼き付いてしまった原発事故の状況を払拭するため具体的な福島の生産の現場や人の営みを日々、発信していきたい」と訴えました。

    シンポジウムでは、最後に「風評を払拭し、東北への観光や企業立地の呼びかけなどに官民一体となって取り組む」とする共同アピールが採択され、復興庁とともに、経団連としても被災地の産業復興に貢献することを確認しました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170310/k10010906241000.html

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  54. 雪の夜、迎える「あの日」…避難者12万人超
    2017年3月11日0時2分

     東日本大震災から11日で6年となる。

     被災地では高台や内陸での住まい再建が進み、災害公営住宅も計画の約8割が完成した。一方、津波にのまれた市街地での再建はかさ上げ工事などが長引き遅れている。避難者は依然として12万人超。8万人弱は福島県の避難者だ。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYT1T50124

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    1. かさ上げ長期化、住宅再建あきらめる事態深刻に
      2017年3月11日0時3分

       東日本大震災の津波で浸水した旧市街地では、宅地などをかさ上げして再建する土地区画整理事業が長期化し、待ちきれない住民が住宅再建をあきらめる事態が深刻化している。

       岩手、宮城、福島3県の8市町村が地権者の意向を聞いた調査では、完成後の土地の利用の見通しがないとの回答が約3割に上った。再建される街は将来、大幅に縮小する恐れが出ている。

       土地区画整理は宅地や商業地、道路などを地区ごとに作り直す事業で、3県の16市町村が計43地区の約1300ヘクタールで現地再建を図る。総事業費は約4700億円で、ほぼ全額を国が負担する。しかし、国土交通省などによると、すべてが完了したのは7地区の約50ヘクタールにとどまる。

       うち8市町村は地権者に対し、住宅などを再建するかの調査(2015~16年)を実施した。市町村によって地権者の人数や区画数など集計の単位は異なるが、宮城県名取市は「予定なし」「未定」が合わせて49%(回答率100%)だった。岩手県釜石市は30%(同66%)が利用の見通しが立っていない。ほかの自治体でも22~53%に上った。

       地権者らは見通しが立たない理由として、「工事がいつ終わるか見通せず、別の場所で自宅を再建した」「土地の引き渡しの時期がはっきりしないから」などを挙げ、事業の長期化が影響している。地権者が利用しない場合は売却が選択肢の一つだが、津波に襲われた土地の需要が低く、空き地になる可能性が高い。

       もともと、震災後に事業が計画された段階で、全体で3割強の地権者が土地を自治体などに売却している。具体的には、集計していない1自治体を除く15市町村で計約1万2700人だった地権者は、約8700人まで減った。これにより、自治体は元の人口規模より計画を縮小せざるを得なかった。さらに造成後に戻らない地権者が相次げば、街は震災前より大幅にサイズダウンすることになる。

       約半数の地権者が造成後の利用見込みがないと回答した福島県いわき市の担当者は、「このままでは地域コミュニティーの再生は難しい」と懸念する。東北大学の島田明夫教授(都市政策)は、「時間の経過に伴う地権者の意向の変化はやむを得ないが、今後街づくりをしていく上で、利用予定がない土地を集約して、事業者などが利用しやすい環境を作る取り組みが必要だろう」と指摘する。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYT1T50125

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    2. 住宅再建意欲失いつつある実態

      東日本大震災の発生から6年になるのにあわせて、NHKが福島県で被災した人や原発事故の避難者を対象に行ったアンケートで、今も仮設住宅で生活している人の8人に1人が「住宅を再建するつもりがない」と回答しました。
      理由について、年齢や資金面のほか「気力がなくなった」と答えた人も多く、被災者が再建意欲を失いつつある実態が明らかになりました。

      このアンケートは、NHKが福島県で被災した人や原発事故の避難者、1500人を対象に去年11月から先月にかけて行ったもので、およそ3割にあたる518人から回答を得ました。
      このうちプレハブの仮設住宅や賃貸住宅を利用したいわゆる「みなし仮設」で今も生活している106人に住宅の再建について尋ねたところ、8人に1人にあたる14人、率にして13%の人が「再建するつもりがない」と回答しました。
      また、「再建できないかもしれない」や「おそらく再建できない」と答えた人も7人に1人にあたる16人いました。
      「再建するつもりがない」や「再建できないかもしれない」、それに「おそらく再建できない」と答えた人にその理由を尋ねたところ、「高齢になった」がもっとも多く63%で、次いで、「再建するお金がない」が53%、「新しい生活をはじめる体力・気力がなくなった」と「津波や放射線量などの影響で元の場所に戻りたくても戻れない」がいずれも40%などとなっています。
      自由記述では、原発事故の影響で避難生活を続けている富岡町の58歳の女性が、「夫が無職となり、収入の見通しが不安なことから住宅再建をあきらめた」と回答するなど、被災者が再建意欲を失いつつある実態が明らかになりました。
      03月10日 18時29分 NHK福島放送局
      http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054562531.html

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  55. いつまでも人を地面に縛り付けるようなことをやめなきゃいけなかった…

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  56. 震災6年 被災地の新聞社が都内で号外配布
    3月11日 12時23分

    震災から6年の11日、被害を受けた東北3県の新聞社が、被災者の思いや被災地の様子を掲載した号外を東京都内で配りました。

    この号外は、被災した岩手、宮城、福島の3県の地元紙が毎年3月11日に合同で発行しているもので、渋谷駅前では、午前10時から新聞社の社員やボランティアの大学生ら10人が配りました。

    ことしの表紙には、「あの震災から6年。東北の人の暮らしは少しずつ変化し、1人1人が、生きるため、それぞれの道を進んでいます」と被災者の現状を伝えた文章をつづっています。
    そのうえで「悲しいこともおきています。子どもへの差別的発言、風評被害、被災したすべての人が当たり前に幸せに暮らせる社会でなくてはならないと思います」と6年たった今の被災者の切実な思いが記されています。

    号外を受け取った人たちは、紙面を見て、被災地に思いをはせていました。東京都内に住む30代の女性は、「紙面を見ることで、改めて、震災から6年たって出てくる問題もあることを再認識しました。6年という月日を実感しました」と話していました。
    号外は、11日と12日の2日間、東京タワーの近くで配られることになっています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20170311/k10010907151000.html

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  57. 福島の8町村 原発事故受け初の合併協議か
    3月11日 14時35分

    東京電力福島第一原発の事故の影響で大幅な人口減少が予想される福島県双葉郡の8つの町と村が、将来の存続のために広域的な連携を協議する初めての会議を年内にも始めることで合意したことがわかりました。会議を呼びかけた広野町の町長は「延長線上には町村合併の議論が生まれる」としていて、原発事故で被災した自治体の間で初めて合併が協議されるか注目されます。

    福島第一原発周辺の双葉郡の8つの町と村は原発事故で事故前の人口の86%に当たるおよそ6万4000人が今も避難を続けていて、NHKが各自治体の人口推計などを基にまとめたところ、2025年には人口が4分の1程度にまで大幅に減る可能性があります。

    こうしたことから双葉郡の町と村は、将来の存続のために広域的な連携の在り方を協議する初めての会議を年内にも開くことで合意したことがわかりました。
    会議では、医療などの公共サービスを維持するための連携の方法について議論することが検討されていて、開催を呼びかけた広野町の遠藤智町長は「協議の延長線上には町村合併の議論が生まれる」と話しています。

    原発事故で被災した自治体の間で町村合併が協議されれば、初めてとなり、来年中の取りまとめに向けて、将来の合併につながる議論になるのか、注目されます。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20170311/k10010907311000.html

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  58. 「東日本大震災 あの日から6年」
    https://www3.nhk.or.jp/news/special/shinsai6portal/

    3・11ドキュメント
    震災遺構 岩手県
    震災遺構 宮城県
    被災地の声
    メルトダウン
    「次」への備え

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    1. 「メルトダウン」
      https://www3.nhk.or.jp/news/special/shinsai6genpatsu/

      原発事故を検証するNHKスペシャル「メルトダウンFile.6」(3月12日放送)との連動企画。

      大津波をきっかけに、4基の原発で次々と危機が連鎖した福島第一原発事故。
      NHKでは、東京電力が当時、本店や福島第一原発などの各拠点を結んで対応を検討したテレビ会議の録画映像から20日間にわたる会話を文字に起こし、データベース化。約3万4千回にのぼる膨大な発言について、人の会話などの文章を解析する人工知能のテクノロジー(IBM Watson Explorer)も活用して独自に分析し、危機の深層に迫りました。

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  59. なんにも中身のない、あっというまに過ぎ去った、実の希薄な6年だった…

    ものごとは何も進んでいない、何も変わらない、何も良くなっていない、むしろ悪化の一途…

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  60. 震災6年 人口減少見据え新段階

    東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故からきょうで6年です。
    福島県ではこの春、帰還困難区域を除いて避難指示の大部分が解除となりますが、今も8万人近くが避難を続けていて、福島の復興は人口減少が進む将来も見据えた新たな段階に入ります。
    6年前の東日本大震災で、福島県内では1614人が死亡、196人が今も行方不明になっていて、避難生活による体調の悪化などで亡くなったいわゆる「震災関連死」は、今月6日現在で、2131人に上っています。
    原発事故で当初11の市町村に出されていた避難指示は、今月31日に浪江町と飯舘村の一部、川俣町山木屋地区で、来月1日には富岡町の一部でそれぞれ解除され、これにより帰還困難区域を除く大部分で解除されることになります。
    福島県の避難者数は県や復興庁のまとめで7万9206人にのぼり今後も避難生活を続ける人は多いとみられますが、1年前に比べると1万8千人余り減少していて、避難先での定住や災害公営住宅への入居も進んでいるとみられます。
    避難指示解除のあとも避難が続き住民の移住も進む中、県内の自治体は住民サービスをどう維持するか地域の存続を左右する難しい舵取りを求められ、震災から6年となった福島の復興は将来の人口減少も見据えた新たな段階に入ります。
    03月11日 07時04分 NHK福島放送局
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054559371.html

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  61. 東日本大震災6年 午後2時46分の祈り
    3月11日 15時41分

    東日本大震災の発生から6年の11日、各地では地震が起きた午後2時46分に合わせて多くの人が黙とうし祈りをささげました。

    宮城 石巻市の日和山

    津波で大きな被害を受けた町を見渡すことができる宮城県石巻市の日和山では、地震が起きた午後2時46分に合わせて、多くの人が犠牲者を悼み、祈りをささげていました。

    石巻市の日和山には午後2時を過ぎたころから次々に地元の人などが訪れ始めました。地震が起きた2時46分になると、サイレンが鳴る中、海の方に向かって手を合わせ、祈りをささげていました。
    津波で自宅が全壊した石巻市の31歳の女性は「地元にいても薄れそうになりますが、忘れてはいけないことだと改めて感じました。幼稚園に勤めていたので、自分の家族よりも園児たちを守る日々でした。子どもたちには、震災が起きたことや自分の命を守る大切さを教えていきたいです」と話していました。
    東松島市の34歳の男性は「当時は北海道にいましたが、東北に住む友人から話を聞いたり、報道で被災地の状況を見たりして、心がとても痛くなりました。同じ苦しみを味わうことがないように受け継がれていってほしいです」と話していました。

    宮城 南三陸町の防災庁舎

    6年前の津波で43人が犠牲になったとされる宮城県南三陸町の防災対策庁舎では、遺族や地元の住民たちが集まり地震が発生した午後2時46分に合わせて静かに祈りをささげました。

    南三陸町の防災対策庁舎は当時、町の災害対策本部が置かれた施設で、大津波に襲われ屋上に避難した職員など43人が犠牲になったとされています。庁舎は保存するかどうか時間をかけて議論するため、震災の発生から20年後まで県が管理することになっていて先月補修工事が終わったばかりです。
    しかし周辺で復興工事が行われているため、道路を挟んだ場所に献花台が設けられていますが庁舎のそばには立ち入ることができません。

    11日は午前中から遺族や地元の住民たちが庁舎を訪れていて、地震が発生した午後2時46分にはサイレンが鳴り響く中、大勢の人が手を合わせ亡くなった人たちに祈りをささげていました。

    庁舎を訪れた三浦すゑ子さん(81)は町の職員だった息子の毅さんが庁舎から防災無線で避難を呼びかけ続けたあと行方不明になっています。
    三浦さんは「この6年、息子のことを忘れたことはありません。どうして帰ってきてくれないのか悲しくてなりません。『家族そろって会いに来たよ、早く帰ってきてほしい』と庁舎に向かって声をかけました」と話していました。

    避難指示解除予定の福島 浪江町

    福島県浪江町では、放射線量が比較的高い帰還困難区域を除いて今月31日に避難指示が解除されることが決まり、住民たちが自宅に戻る準備のための宿泊をしていることから、浪江消防署が住民の安全を守るために火事などの異常がないかパトロールを続けています。
    このうち町内の沿岸部にあり津波の被害を受けた請戸地区では、午後から3人の署員が消防車両に乗って見回りました。署員たちは、地区内にある仮設の防火水槽の水位が十分保たれているか確認したり、墓参りで訪れた人たちに火の扱いに注意するよう呼びかけるチラシを配ったりしていました。

    そして、地震のあった午後2時46分になると消防車から降り、海に向かって帽子を取って頭を下げ、静かに黙とうしました。6年前、津波で浸水した建物から住民の救助にあたった浪江消防署の笹田丞警防係長は「当時のことを思い出し、もっと救助できたのではないかという思いがよみがえりました。これからも町を守るために頑張りたい」と話していました。

    今月オープンの商店街でも 宮城 南三陸町

    宮城県南三陸町に今月オープンした「南三陸さんさん商店街」でも、地震発生の午後2時46分にあわせて店主や訪れた客が祈りを捧げました。
    午後2時46分の前後には商店街の一角に地元の人たちが集まり、花を手にしながら「ふるさと」や「花は咲く」などの歌を合唱しました。商店街でかまぼこ店を営む及川善祐さんは、「復興はまだまだ途中ですがみんなで精いっぱい前を向いて歩み続けることが犠牲になった人たちへの最大の鎮魂だと思います」と話していました。
    また姉などを亡くした70代の女性は「みんなの魂が安らかに眠れるようにと手をあわせました。仮設住宅でみんなと仲良くしながら暮らしていきます」と話していました。

    ソーシャルメディアでも黙とう

    ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアでも地震が起きた午後2時46分のあと、「黙とうしました」といったメッセージの投稿が相次ぎました。

    ツイッターには、「職場で黙とうをささげました。あの瞬間のことは忘れられないなぁ・・」とか「スポーツセンターのプールで黙とうのアナウンスが入ったので1分間黙とう」、「黙とうのアナウンスとともに、空港内がサッと静かになったのが印象的でした」、「息子はまだ生まれる前で、よく分かってないけど一緒に目をつむって祈ってくれました」など、家庭や職場、外出先などさまざまな場所で黙とうしたことを報告する投稿が相次ぎました。

    そのほか、6年前を思い出して、「あの日のこの時間は売り場にいて、不安そうなお客さんの対応と危険がないか確認作業に追われてたんだ。休憩に上がって、見たテレビに映ってた惨状も忘れてない」、「当時、小学生だったなー。卒業式練習してたっけ。先生の焦った顔や皆んなの顔忘れられない。それ以上に怖い恐ろしい思いをしてる人の事を思うと黙とうの時涙がこみ上げてきました」、「地震発生から約10日後に計画停電がありライフラインの重要さを痛感したことを忘れてません」、「あの日、TVの中で津波に飲み込まれていった沢山の未来。きっと私はあの光景を死ぬまで忘れられないと思います」など当時の体験を投稿する人も多くいました。

    また、「次は15時20分、津波到達の時にも黙とうします。被災した方々、一刻も早い現地の復興を祈っています」など多くの人が被災地の復興を願うメッセージを寄せていました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20170311/k10010907351000.html

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    1. 東日本大震災6年 政府主催の追悼式
      3月11日 15時42分

      東日本大震災の発生から6年となる11日、秋篠宮ご夫妻が出席されて、政府主催の追悼式が東京で開かれ、地震の発生時刻に合わせて、安倍総理大臣や遺族の代表ら出席者全員が黙とうをささげ、震災で亡くなった人たちに哀悼の意を表しました。

      政府主催の「東日本大震災六周年追悼式」は11日午後、東京の国立劇場で開かれ、秋篠宮ご夫妻や安倍総理大臣、それに遺族の代表らが出席し、地震が発生した午後2時46分に出席者全員が黙とうをささげ、哀悼の意を表しました。
      追悼式には、これまで毎年、天皇皇后両陛下が出席されてきましたが、6周年となるのに合わせて検討が行われた結果、ことしは秋篠宮ご夫妻が出席されることになりました。

      この中で安倍総理大臣が、「被災地に足を運ぶたび、震災から6年を経て復興は着実に進展していることを実感します。インフラの復旧がほぼ終了し、住まいの再建や産業・生業の再生も一歩ずつ進展するとともに、福島においても順次避難指示の解除が行われるなど、復興は新たな段階に入りつつあることを感じます。復興の進展に応じた切れ目のない支援に力を注ぎ、さらに復興を加速してまいります」と式辞を述べました。

      また秋篠宮さまは「避難生活が長期化する中で、年々高齢化していく被災者の健康や、放射線量が高いことによって、いまだ帰還の見通しが立っていない地域の人々の気持ちを思うと深く心が痛みます。困難な状況にある人々誰もが取り残されることなく、平穏な暮らしを取り戻すことができる日が来ることは私たち皆の願いです」とおことばを述べられました。

      この後、追悼式では、岩手、宮城、福島の3県の遺族の代表があいさつしました。
      岩手県の遺族代表の千葉陽さんは、「去年、今住む町で、台風による甚大な被害がありました。私にとって、津波を思い起こす出来事でした。災害から何とか生き残った者として、精いっぱいに生きることを全うすること、そして、さまざまなことで起きる『つらさ』を『幸せ』に変えられるように、今の自分が持てる力が役立つのならば、少しでもできることをしていきたいと思います」と述べました。

      宮城県の遺族代表の佐藤昌良さんは、「過酷な経験を後世に色あせることなく語り続けるため、あの悲しみを忘れません。あのつらさを忘れません。あの無力さを忘れません。あの寒さを忘れません。両親の無念の思いに応えるため、火葬を済ませてすぐに東京の職を辞し、父の背中を追い、現在は地域建設業の経営者として復興の最前線に立っております。全国から頂いた善意の力を借りながら、ふるさとの復興を必ず成し遂げて参ります」と述べました。

      福島県の遺族代表の石井芳信さんは、「川内村は、比較的放射線量が低く、一部の地域を残し1年で戻ることができました。今では全村の避難も解除され復興も着々と進んでおりますが、若い人たちが子どもの教育問題などから村に戻らないという課題なども多く、以前のような村の姿には程遠い現況にあります。みんなで力を合わせ復興と再生を進めていくことが私たちの責務であると考えます」と述べました。

      この後、追悼式では、各国の代表ら参列者が献花を行い犠牲者を悼みました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20170311/k10010907381000.html

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    2. 東日本大震災6年 能や灯籠で犠牲者悼む
      3月11日 19時21分

      東日本大震災の発生から6年の11日、被災地では「能」を上演したり、灯籠に火をともしたりして犠牲者を悼む催しが行われました。

      追悼の「能」を上演 仙台

      東日本大震災の津波で大きな被害を受けた、仙台市若林区の荒浜地区では、砂浜を舞台にして、犠牲になった人への追悼と復興への祈りを込めた「能」が上演されました。

      これは地元の市民団体が、震災の発生から6年になるのに合わせて、地域の人たちに復興への思いを新たにしてもらおうと企画しました。会場となった仙台市若林区の荒浜地区の海岸には、地元の人などおよそ300人が集まり、地震が発生した午後2時46分に黙とうし、犠牲になった人を悼みました。

      このあと、仮設住宅などで無料の公演を続けている能楽師3人が、砂浜を舞台にして「羽衣」という演目の一場面を披露しました。能には、犠牲になった人への追悼と復興への祈りが込められているということで、集まった人たちは、能の幽玄の世界を静かに鑑賞していました。

      仙台市の40代の女性は、「無念の思いで亡くなった人たちに、能に込められた鎮魂の思いが届いてほしい。震災の記憶を途絶えさせてはならないと思う」と話していました。
      能楽師の八田達弥さんは、「被災地の人々が早く元の生活や文化を取り戻し、笑顔になってほしい」と話していました。

      1万個の灯籠で追悼 盛岡

      盛岡市では、およそ1万個の手作りの灯籠に火をともして犠牲になった人たちを悼む催しが開かれました。

      この催しは、東日本大震災の被災地で支援を続けるNPOやボランティアの団体が、盛岡市の岩手公園で震災の翌年から毎年開いています。

      会場には、全国から集められた、牛乳パックや竹を使ったおよそ1万個の手作りの灯籠が並べられました。灯籠にともされる火は、岩手県遠野市の僧侶、江本英卓さん(34)が犠牲者への追悼と復興への思いを込めて沿岸部の釜石市から会場まで、およそ120キロをみずから走って運びました。

      午後5時前に会場に到着した江本さんから盛岡市の谷藤裕明市長が火を受け取ると、広場の中央に置かれた灯籠にともしました。そして、会場に集まった市民やボランティアが次々と灯籠に火をともし、静かに手を合わせて犠牲になった人たちを悼みました。

      両親が沿岸部の宮古市出身だという盛岡市の中学2年の女子生徒は「震災のニュースを見ると、今でもつらい気持ちになりますが、生きていることに感謝して、周りに元気を与えられるような人になりたいです」と話していました。

      また、120キロの距離を走り抜いた江本さんは「震災が起きたことは消すことはできない。震災で得た教訓を忘れずこれからも頑張っていきたい」と話していました。

      追悼と復興の明かり 岩手 陸前高田

      津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市では、被災者が暮らす住宅にイルミネーションなどが飾られ、参加した人たちが犠牲者を追悼しました。

      この催しは、津波から避難する人たちを誘導している最中に亡くなった陸前高田市の消防団員、菊池勇輝さん(当時25)の中学や高校時代の同級生たちが3年前から毎年開いています。陸前高田市高田町の災害公営住宅の敷地に設けられた会場には、およそ500個のろうそくやイルミネーションを使って、「3.11輝の花」という文字が浮かび上がりました。
      参加した同級生や家族などは明かりのほうに手を合わせるなどして追悼するとともに、復興への祈りをささげました。

      菊池さんの妹の沙也加さんは、「どんなに時間がたっても亡くなった人のことを忘れず、安心で明るく元気な街にしていきたい」と話していました。

      また、会場には、去年4月の熊本地震で同級生を亡くしたという山戸将大(19)さんが共通の知り合いの紹介で訪れ、「津波の被災地を見て復興には時間がかかることを実感しました。同じ被災者として、自分も熊本で頑張っていきたいと改めて思いました」と話していました。

      仮設住宅で追悼の花絵作り 福島 いわき

      福島県いわき市にある仮設住宅では、原発事故の影響で双葉町から避難している人たちが震災の犠牲者を追悼するため花びらを敷き詰めて大きな絵を描きました。

      福島県双葉町は原発事故の影響で町の全域に避難指示が出され、今も、すべての住民が町の外で避難生活を余儀なくされています。
      このうち、双葉町から避難したおよそ170人が暮らす、いわき市の「南台仮設住宅」では、震災から6年となった11日、犠牲者を追悼する催しが開かれました。

      催しでは、およそ20人が花びらを敷き詰めた大きな絵の制作に挑戦し、講師から手ほどきを受けながら、色とりどりのカーネーションの花びらで縦4メートル、横5メートルの絵を完成させました。
      使われた花の数はおよそ4800本で、町の伝統の双葉ダルマなどが描かれました。
      そして、地震が起きた午後2時46分に合わせて参加者全員で黙とうをささげ、犠牲者の追悼とふるさとの復興を祈りました。

      双葉町から避難している50代の女性は「知人など多くの人が震災で亡くなったので、その分、私たちは力強く生きていきたいです」と話していました。

      キャンドルナイトでメッセージ 福島

      震災で亡くなった人の追悼と復興への願いを込めたメッセージをキャンドルで作り、明かりをともす催しが11日夕方、福島市で行われました。

      この催しは福島市中心部の広場で行われ、午後5時ごろ、「ふくしま3.11」という文字の形に並べられたおよそ800本のキャンドルに明かりがともされました。
      訪れた人たちは大きく浮かび上がった光の文字を静かに見つめながら、この6年間を振り返っている様子でした。

      また、震災から6年がたった今の思いをキャンドルの筒に書くことができ、通りかかった人などが「復興目指してみんなで頑張りましょう」とか「早く復興が進みますように」と書き込んで、明かりをともしていました。

      震災の年に生まれた息子を連れて家族4人で訪れた30代の男性は、「震災の時は、この先どうなるのか分からなかったですが、こうやって家族みんなで平和に生活できることに幸せを感じています」と話していました。
      また、福島市の60代の女性は、「震災から6年たってもまだ大変な思いを抱えている人がいると思うので、復興を早く進めてほしいです」と話していました。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170311/k10010907631000.html

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    3. 東日本大震災6年 教訓語り継ぐ誓い新たに
      3月11日 19時59分

      東日本大震災の発生から6年の11日、被災地では犠牲者に祈りをささげるとともに震災の教訓を語り継ぐことへの誓いを新たにしていました。

      大川小学校の校舎を未来に

      津波で児童と教職員、合わせて84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校では、11日慰霊のため遺族や卒業生が、被災した校舎に集まりました。そして地震の発生時刻の午後2時46分に合わせて静かに黙とうし、今は亡きわが子や友人に思いをはせました。

      大川小学校の校舎をめぐっては保存か解体か議論が分かれていましたが、去年3月に石巻市が保存を決め、一部の遺族が校舎で語り部の活動を行っています。6年生だった次女を亡くし去年、語り部を始めた鈴木典行さんは「将来の夢だった保育士になるために天国で勉強を頑張っていると思います。校舎を未来のために生かすため語り部を続けたい」と話していました。
      3年生だった妹を亡くし、津波に飲まれながらも助かった只野哲也さんは、久しぶりに再会した友人と教室で思い出を語り合いました。

      現在、高校2年生の只野さんは「津波の恐ろしさを後世に伝えたい」といち早く校舎の保存を訴えてきました。
      只野さんは「教室に入ると亡くなったみんなの笑顔を思い出しました。ここを見るのがつらい人も多いですが、いつかまた笑顔があふれる場所にしていきたい」と話していました。

      保育園歌で語り継ぐ 岩手 大船渡

      岩手県大船渡市の保育園では、園児たちが津波からの避難の大切さを語り継ぐ歌を歌いました。

      岩手県大船渡市の大船渡保育園は海からおよそ200メートル離れた高台にあり、震災のとき津波が近くまで押し寄せましたが、園児は全員避難して無事でした。

      震災のよくとし、子どもたちを元気づけながら避難の大切さを語り継いでもらおうと、作曲家の千住明さんと作詞家の覚和歌子さんが支援して「さかみちをのぼって」と名付けた保育園の歌が完成しました。

      11日は、地震が起きた午後2時46分に2歳から6歳までの園児およそ30人が黙とうをしたあと、全員で保育園の歌を元気に歌っていました。
      曲は「さかみちをのぼって」というフレーズが繰り返され、ふるさとの大切さを伝える歌詞もちりばめられています。

      大船渡保育園の富澤基子理事長(73)は「保育園の歌として繰り返し歌い続けることで次の世代にも震災の出来事を伝えていきたい」と話していました。

      冊子「生きた証」 岩手 大槌町

      震災で1200人余りが犠牲になった岩手県大槌町で11日追悼式が開かれ、犠牲者が歩んだ人生を家族の話をもとにまとめた冊子が祭壇に手向けられました。

      大槌町役場で開かれた追悼式には町の職員や住民およそ500人が出席し、はじめに1分間の黙とうをささげました。
      そして、平野公三町長が、町が犠牲者の家族から聞き取って今月まとめた冊子を祭壇に手向けました。平野町長は「供養の節目に改めて震災を見つめ直し、語り継がねばならないと強く思っています」と述べ、記録を残していく必要があることを強調しました。

      冊子は「生きた証」というタイトルで、家族から掲載の許可が得られた544人の犠牲者の経歴や人柄、それに、思い出に残るエピソードなどが写真とともに紹介されています。
      大槌町は、協力を得られた家族に11日から冊子を配るほか、今後も聞き取りを行って、「生きた証」を作り続けたいとしています。

      震災で夫を亡くし、町の聞き取りに応じた小川せつ子さん(58)は「夫の人生を数枚の紙にはまとめられないという思いもありますが、冊子には親しかった人の記録がたくさん載っているので、じっくり読んでみます。6年たっても私の気持ちはあの時のままですが、前を向いて生きている方が夫も安心すると思うので、頑張りたいです」と話していました。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170311/k10010907651000.html

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  62. 汚れつちまつた悲しみに
    今日も小雪の降りかかる
    汚れつちまつた悲しみに
    今日も風さへ吹きすぎる

    汚れつちまつた悲しみは
    たとへば狐の革裘
    汚れつちまつた悲しみは
    小雪のかかつてちぢこまる

    汚れつちまつた悲しみは
    なにのぞむなくねがふなく
    汚れつちまつた悲しみは
    倦怠のうちに死を夢む

    汚れつちまつた悲しみに
    いたいたしくも怖気づき
    汚れつちまつた悲しみに
    なすところもなく日は暮れる……

    詩集『山羊の歌』より、「汚れつちまった悲しみに……」
    https://ja.wikiquote.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E4%B9%9F

    https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%9A%E3%82%8C%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%9F%E6%82%B2%E3%81%97%E3%81%BF

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  63. 「福島県の避難区域はいかに解除されてきたのか」
    Yahoo!ニュース 3/11(土) 10:31配信

    東日本大震災から6年。福島第一原発事故では、16万人以上の人々が故郷からの避難を余儀なくされました。避難区域の解除は進んでいる一方、時間の経過とともに人々の帰還は難しくなっているといわれます。その避難解除の変遷と避難者の意向のデータを可視化しました。
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170311-00010000-yjnewsv-soci

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  64. 「地震予知」者たちの敗北を、しっかりと記憶にとどめておくがよい…

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  65. 社説
    大震災6年 きめ細かな復興支援が大切だ 
    2017年3月11日6時0分

     ◆街の再生計画に工夫凝らしたい◆

     1万8000人を超える死者・行方不明者を出した東日本大震災から6年を迎えた。

     壊滅的打撃を受けた被災地が完全に再生を果たすまで、国を挙げて支援を継続する。その誓いを新たにしたい。

     5年間の「集中復興期間」が昨年度で終了した。政府は今年度から2020年度までを「復興・創生期間」と位置付ける。その1年目が過ぎようとしている。

     被災地の自立につながり、地方創生のモデルとなる復興を実現する――。政府は、新たな5年間の目標をこう説明する。

     ◆解消が進む仮設住宅

     復興予算の全額を国が賄った集中期間には、計画が過大になりがちだった。今後は、予算規模も縮小される。真に役立つ事業を吟味し、予算を重点投入する。メリハリをつけた支援が必要になる。

     岩手、宮城、福島県などを襲った大津波は、沿岸部の人々から住居を奪った。安定した生活拠点の回復のために計画された復興住宅の完成率は、今月末で83%に達する。高台などの集団移転地の造成も、70%近く完了する。

     暮らしの基盤再生は、ようやくヤマ場を越したと言えよう。

     復興・創生への道筋を具体的に示し、被災地のこれからの歩みを後押しする。復興庁を始めとする政府の責務である。

     JR仙台駅から南に約4キロの街中に、2万4000平方メートルの更地が広がる。仙台市内最大の仮設団地だったが、昨年10月に解体作業が始まり、今年2月には地権者に土地が返還された。

     3県の各地でプレハブ仮設の解消が進む。ピーク時には12万人近くに上った入居者数は、約3万5000人にまで減った。手狭な仮設団地がなくなった光景は、復興の証しの一つだろう。

     ただ、移転先の復興住宅などでは、コミュニティーの構築が、必ずしも順調には進んでいない。

     仮設住宅では、行政とNPOなどの民間団体が手を組み、住民同士の交流を促す活動を展開してきた。高齢者らの買い物をサポートする団体もあった。仮設から移り、こうした取り組みが減った、と岩手県内の被災者の一人は語る。

     NPOなどとの連携は、復興庁が重点的に手がけてきた手法だ。引き続き積極的に活用して、住民の孤立を防いでもらいたい。

     ◆にぎわいを創出しよう

     無論、住宅再建がスムーズに進んでいる地域ばかりではない。岩手県大槌町では、今も人口の2割近くが不自由な仮設住まいを余儀なくされている。

     従来に増して、復興の進捗しんちょく度に応じたきめ細かな支援を実践すべき段階に入ったと言える。

     各自治体が直面する問題が、住民の流出だ。それをどう克服するかは「創生」の核心でもある。

     宮城県山元町は、移設されたJR常磐線の新駅周辺など3か所に住宅地を造成し、昨年10月に「まちびらき」の式典を催した。12月には、常磐線の運行再開で仙台への通勤路線も復活した。

     町は子育てのしやすさをPRする。転入した新婚夫婦らに対して、最大300万円を補助する定住促進事業も打ち出している。

     約740戸分の宅地と復興住宅は、ほとんど埋まった。

     順調のように見える山元町でも、住宅地の1か所では、宅地の分譲数を計画の5分の1に縮小している。被災地全体でも、集団移転などの計画戸数は、希望者の減少に応じて縮小されてきた。

     規模が小さくなった街で、いかに魅力を高めるか。自治体は工夫を凝らした青写真を描きたい。

     宮城県南三陸町の仮設商店街「南三陸さんさん商店街」が今月、常設の商店街に生まれ変わったのは、明るい話題だ。

     こうした例はまだ少ない。住宅再建が優先される中で、市街地再生が遅れ、テナント施設が不足していることが一因だという。

     にぎわいの創出は、街を魅力的にする重要な要素だ。

     ◆子供の心に目配りを

     復興への息の長い取り組みには若い力が欠かせまい。その意味でも、福島県で小中学生の不登校が増えているのは気にかかる。

     昨年度は1862人の不登校が報告され、4年連続の増加となった。幼少時に経験した震災の明確な記憶がなくても、不安定な避難生活や家族の混乱を感じ取っているケースがある。

     専門家による継続的な心のケアが求められよう。

     原発事故に伴う避難指示の大幅な解除で、福島は復興の正念場を迎えた。子供たちのためにも、支援を強化せねばならない。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYT1T50142

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    1. 3月11日 編集手帳
      2017年3月11日5時0分

       盃さかずきを重ねつつ、友人の失敗談を聞いた。東日本大震災の話題になり、「そういえば…」と語りはじめた話である。起きてまもない頃という◆仕事で外回りに出た午後、東京・代々木の往来で青年に声をかけられた。どこかで財布をなくした。旅行で来た東京に知り合いはおらず、神戸まで帰る交通費がない。友人は乞われるままに1万円を用立て、「返済は名刺の住所に書留で」と告げた◆絵に描いたような寸借詐欺である。成功に味をしめて、青年が悪事を重ねたらどうする。名刺が悪用されたらどうする。いまなら愚かな行為と分かる。「でもね」と、友人は首をかしげた◆「あの頃は、なんだか人を疑う自分が許せなくて、むしょうに困ってる誰かの役に立ちたい。そういう心境だったんだな」。言われてみれば、思いあたるところがないでもない。テレビに映る被災地の惨状に胸をふさがれ、やり場のない怒りならぬ“やり場のない善意”に身もだえした人は多かったはずである◆心ない避難者いじめのニュースがつづく。6年という時間のどこかに、人は大切な忘れ物をしてこなかったか。胸に聞いてみる。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50195

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    2. よみうり寸評 3月11日
      2017年3月11日15時0分

       小学生が使うランドセルは、けっこう重い。教科書を詰めると何キロにもなる◆よっちよっちと歩く姿を見かけ、詩人は笑みを向けたのかもしれない。石垣りんさんの「ランドセル」から一節を引く。<あなたはちいさい肩に/はじめて/何か、を背負う(中略)手を貸すことの出来ない/その重み/かわいい一年生よ。>(童話屋『レモンとねずみ』所収)◆どんな小学校生活だったろう。東日本大震災から、きょうで6年になる。混乱のなか、避難所から入学式に出かけた子供たちがまもなく卒業式を迎える◆幼稚園で保育所で、ともに過ごしながら、あと少しで小学生になれなかった友だちの分まで<何か>を背負った歳月ではなかったか。親を亡くし、きょうだいを亡くし、手をつないでくれたはずの人の顔を浮かべて校門をくぐる毎日ではなかったか◆もうランドセルはいらなくなる。背中から下ろすとき、元気に生きてきた自分をほめてあげよう。体や心の成長につれてツヤを落とした革地も、立派な卒業証書だろう。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50316

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  66. [震災6年]再建後の街 縮小懸念…かさ上げ長期化 住宅断念次々
    2017年3月11日5時0分

    需要低い土地 空き地化も

     東日本大震災の津波で浸水した旧市街地では、宅地などをかさ上げして再建する土地区画整理事業が長期化し、待ちきれない住民が住宅再建をあきらめる事態が深刻化している。岩手、宮城、福島3県の8市町村が地権者の意向を聞いた調査では、完成後の土地の利用の見通しがないとの回答が約3割に上った。再建される街は将来、大幅に縮小する恐れが出ている。

     土地区画整理は宅地や商業地、道路などを地区ごとに作り直す事業で、3県の16市町村が計43地区の約1300ヘクタールで現地再建を図る。総事業費は約4700億円で、ほぼ全額を国が負担する。しかし、国土交通省などによると、すべてが完了したのは7地区の約50ヘクタールにとどまる。

     うち8市町村は地権者に対し、住宅などを再建するかの調査(2015~16年)を実施した。市町村によって地権者の人数や区画数など集計の単位は異なるが、宮城県名取市は「予定なし」「未定」が合わせて49%(回答率100%)だった。岩手県釜石市は30%(同66%)が利用の見通しが立っていない。ほかの自治体でも22~53%に上った。

     地権者らは見通しが立たない理由として、「工事がいつ終わるか見通せず、別の場所で自宅を再建した」「土地の引き渡しの時期がはっきりしないから」などを挙げ、事業の長期化が影響している。地権者が利用しない場合は売却が選択肢の一つだが、津波に襲われた土地の需要が低く、空き地になる可能性が高い。

     もともと、震災後に事業が計画された段階で、全体で3割強の地権者が土地を自治体などに売却している。具体的には、集計していない1自治体を除く15市町村で計約1万2700人だった地権者は、約8700人まで減った。これにより、自治体は元の人口規模より計画を縮小せざるを得なかった。さらに造成後に戻らない地権者が相次げば、街は震災前より大幅にサイズダウンすることになる。

     約半数の地権者が造成後の利用見込みがないと回答した福島県いわき市の担当者は、「このままでは地域コミュニティーの再生は難しい」と懸念する。

     東北大学の島田明夫教授(都市政策)は、「時間の経過に伴う地権者の意向の変化はやむを得ないが、今後街づくりをしていく上で、利用予定がない土地を集約して、事業者などが利用しやすい環境を作る取り組みが必要だろう」と指摘する。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50178

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    1. [震災6年]霞が関から故郷支援 農水省入省 牛とともに飯舘再生
      2017年3月11日5時0分

       村自慢の「飯舘いいたて牛」を復活させたい――。福島市出身の佐藤聡太さん(24)は4月から農林水産省に入り、豊かな農村だった福島県飯舘村の再生を国の役人の立場から手がける。

       「牛が村に戻れば堆肥たいひができる。その堆肥をまいた肥沃ひよくな水田から稲わらができ、それを牛が食べる。牛が戻れば、このサイクルが生み出される」

       今月3日、飯舘村から千葉県山武市に避難した小林将男さん(60)方の牧場で、飯舘牛の血を引く牛たちに稲わらを与えながら、佐藤さんは「夢」を語った。

       福島市で生まれ、小学3年の時、父親が故郷の飯舘に自宅を新築し、一家で村に移った。村の8割近くを山林が占め、自然の中で遊ぶ毎日は楽しかった。だが、進学や就職で村から若者がどんどん出て行くのを見て、子供心に「この村を守れるような仕事をしたい」と考えた。村の主要産業でもある農畜産業からの街づくりを学ぼうと宇都宮大農学部への進学を決めた。その直後、震災が起きた。

       家族は無事だったが、東京電力福島第一原発事故で、約6200人の村民のほぼすべてが村を離れた。墓参りなどで故郷を訪れる度に、人の営みが消えたと感じた。「農業で村を復興させたい」との思いは強まり、東大大学院に進んだ。

       人づてに、飯舘から牛を連れて避難した小林さんと知り合い、牧場産の牛肉をステーキでごちそうになった。格別の味に、飯舘牛の復活が、村再生につながると確信した。昨年5月、東大の学園祭で、小林さんの牧場産の肉を「までい牛」として販売すると、1000食が売り切れた。「までい」は、「心を込めて、丁寧に」という意味の古里の言葉だ。

       大学院では、原発事故後の畜産経営者が抱える課題について研究し、飯舘から避難して、畜産を続ける人たちの話を聞いた。村の大部分は今月末、避難指示が解かれ、住民の帰村が始まるが、そこで畜産を再開するには、獣医師を見つけてきたり、働き手を探したりといった課題が残る。

       「飯舘村を農村復活の成功事例にして、日本の農村全体を良くしたい」。学んできたことを生かすには農水省が一番だと考え、猛勉強した。この春からは、農業全体に目配りする必要があり、飯舘だけに注力できるわけではない。だが、忙しい合間を縫って東京・霞が関から飯舘に戻り、「までい」の気持ちで復興を後押ししていこうと思っている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50074

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    2. [震災6年]命守る記者になる テレビ局入社 「逃げて」今度こそ伝えたい
      2017年3月11日5時0分

       津波で母を失った少女は、教訓を伝えるために記者を目指し、原発事故で営みが消えた古里の再生のために、青年は新しい一歩を踏み出す。東日本大震災は11日で、発生から6年。多くの人たちが心に絡んだ糸を少しずつ解きほぐし、この春を迎える。

       宮城県女川町で津波に流され、一緒にいた母を亡くした阿部真奈さん(22)は今春、大学を卒業し、福島県内のテレビ局に入社する。6年前、「お母さん、逃げよう」と言えなかった。自分を責め、ふさぎ込んだが、生活情報を届けるラジオ放送を手伝ったことをきっかけに、「震災を伝え続ける」という夢を見つけた。

      ■あの日 避難せず

       幼い頃に父を亡くし、母由貴さん(当時40歳)と祖父母の4人で暮らしていた。自宅は海から約3キロ。1960年のチリ地震では津波被害を免れた。6年前のあの日も避難はしなかった。「ここまで津波が来たら、女川がなくなる」と話す母に、何も言えなかった。

       だが、暖を取るために乗り込んでいた車に、真っ黒な津波が押し寄せ、あっという間にのまれた。車からは脱出したが、首まで水につかり、何度も波をかぶった。母は苦しそうにもがいていたが、手を伸ばしても届かない。自分は隣の家と自宅の屋根の間に押しつぶされ、声も出ない。引き波をかぶった次の瞬間、母の姿が消えた。一緒にいた生後5か月のめい、自宅にいた祖父も流された。

       町内の死者・行方不明者は800人以上。「本当に女川がなくなった」と思った。

      ■語りに反響

       母は友達のようで、よく一緒に買い物に出かけた。その時に買ってもらった緑色のスニーカーを履き、毎日朝5時から日暮れまで母を捜した。めいと祖父の遺体はまもなく発見されたが、母の行方はわからない。スニーカーを履きつぶし、気力も失い、避難所に引きこもった。

       その避難所で4月、「災害FM局のパーソナリティーにならないか」と声を掛けられた。はじめは緊張したが、風呂や炊き出しなどの情報、同年代の友人たちと一緒に高校生の思いを伝えると、ツイッターやファクスですぐに反響が届く。「自分だけ生き残っちゃった」という思いが、「一人じゃない」に変わった。高校生らのラジオ放送はテレビドラマにもなり、全国的に知られた。

       2012年2月に母の遺体が見つかった後も、ラジオは続けた。高校を卒業して慶応大学に進学してからも、長期の休み中は古里に戻り、マイクに向かった。いつの間にか、地元で語りかけ、声を聞くことが心の支えになっていた。

      ■「お母さん、応援して」

       社会人になるまで残り1か月余りとなった先月25日、買ったばかりの車で神奈川県から女川に帰省した。仕事や新しい環境への期待とともに不安も大きくなっていた。海沿いを走りながら、助手席に置いた遺影に向かって、「お母さん、応援してくれる?」と話しかけた。

       就職するテレビ局の地元には、今も原発事故で苦しむ人がいる。配属先はわからないが、「自分が伝える情報で、大切な命を守れるような報道記者になりたい」と考えている。「もし災害があったら、必ず『逃げて』と伝える」。そう心に決めている。

      浪江、富岡避難指示 31、1日に解除決定

       政府は10日、復興推進会議と原子力災害対策本部会議の合同会合を開き、東京電力福島第一原発事故による福島県内の避難指示区域について、浪江町は今月31日、富岡町は4月1日に、いずれも帰還困難区域を除き、避難指示を解除することを正式決定した。

       内閣府によると、現在の避難指示区域の区分けが決まった2013年は11市町村1150平方キロ・メートルが避難指示の対象だったが、4月1日には、7市町村の369平方キロ・メートルまで縮小する。避難対象者も13年8月の約8.1万人から約2.4万人に減るという。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50092

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    3. [震災6年]「いつか戻る」も選択肢…福島支局長 小山孝
      2017年3月11日5時0分

       ふるさとに戻るのか、戻らないのか。

       あの日から6年。被災者は迷い、重い決断を迫られてきた。中でも原発事故に見舞われた福島では、放射線量が下がった地域の避難指示が解除されるたびに住民の心は揺れた。選択肢は二つだけなのだろうか。

       確かに現実は厳しい。全町民約2万人が避難した浪江町は今月末、住民の8割が暮らしていた地域で避難が解除される。しかし、役場近くの飲食店街は地震で壁が崩れ、建物がゆがんだ店が何軒も残る。解体申請は2000件を超え、作業が追いつかない。街中では見なかったイノシシが出没し、空き家で米などを食い荒らす。町は今年度だけで600頭を捕獲した。

       避難解除された地域では自治体が生活基盤の整備を急いできたが、一度は人が消えた街。急病時の対応や買い物、子供の教育、放射線など住民の不安は尽きない。浪江町で帰還の意向を示す人は今のところ2割以下だ。

       それでも帰還準備のため同町の自宅を訪れた佐藤秀三さん(72)は「故郷はいい。山の色も空気のにおいも」と目を細める。震災前に同居していた長女夫婦と孫娘は仕事の関係から千葉で暮らしている。老夫婦だけのさみしい再出発になるが、「住むことが復興だ」と語り、ふるさと再生への思いは熱い。避難先で家を建てた人の中にも望郷の念を捨てられない人は多い。

       今は無理でも、いつかは戻りたい。そう思う心をつなぎ留めることが被災地の未来を左右するのではないか。生活不安の解消に加えて地域の魅力を高める長期的な取り組みが必要だ。土地のかさ上げなどによる新たな街の完成を待つ岩手や宮城も同様で、それが新たな住民も呼び込む。

       最長40年かかるとされる廃炉作業だが、福島県の沿岸部には研究機関が集結し、技術開発や人材育成が進む。国や県はロボット産業を集積させる未来図を描く。風評被害に苦しむ農業も全ての県産米の放射性物質を検査するなど安全管理は全国トップレベルを誇る。

       岩手、宮城県では農水産物のブランド化を目指す動きが広がり、同県女川町は短期移住者に無料で部屋を提供して暮らしぶりをブログで発信してもらう「お試し移住」に官民で取り組んでいる。

       今も全国で12万人以上が避難生活を送る。故郷の再生が実感できれば、つながりを取り戻そうとする人は増えるだろう。7年目に入る復興は、そんな長い目で見た支援も不可欠だ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50072

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    4. ひとの命には限りがある。いつか必ず死ぬ。

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    5. [震災6年 防災力を高める]<4>語り部たち 風化との戦い
      2017年3月11日5時0分

       ◇「今は次に備える震災前」

       「あれだけの犠牲を出したというのに……」

       住民201人が津波で命を落とした宮城県石巻市上釜かみかま地区。町内会自主防災会で事務局長を務める井上達彦さん(65)が顔を曇らせた。

       自主防災会ができたのは2年前。避難路マップを作り、震災前はなかった避難訓練も始めた。しかし、訓練の参加率は2年連続で2割に満たない。「『あんな地震、もうないよね』って思われているとしたら怖い」と井上さん。

       被災地で4年ぶりの津波警報が発令された昨年11月も、支援が必要な15人のうち、2人しか連れ出せなかった。井上さんは根気よく住民に訴えていくつもりだ。「今は震災後じゃない。次に備えなきゃいけない震災前なんです」

           ◆

       6年前の惨状を目にした人間にも風化の波は迫る。あの緊張感を覚えておくことこそ、本来は防災力強化に最も効果があるのだが、思うようには運ばない。時にその努力は住民感情とぶつかる。

       千葉県浦安市では市域の86%が液状化に見舞われた。地表から1メートルほど飛び出したマンホールが、今も公園の一角に保存されている。住民からは「つらい記憶を思い出す」「地域のイメージが悪化する」という声もあったという。

       市はこのモニュメントの周りに植樹するなど、目立ちすぎないようにした。記憶をモノで残すには、被災者への十分な配慮が必要だ。

       一方、被災体験の語り部たちも、住民の思わぬ言葉にショックを受けるようになった。

       「いつまでやっているの」

       宮城県南三陸町の語り部、伊藤俊しゅんさん(41)は、最近こう聞かれたという。「過去の津波の教訓を生かしていたら、6年前も救えた命はもっとたくさんあったはずなのに」

       「語り部バス」ツアーは、伊藤さんが普段働く「南三陸ホテル観洋」の宿泊客を対象に、毎朝約1時間行われる。伊藤さんらホテルスタッフ8人が交代で語り部を務め、これまで10万人以上を案内した。

       破壊された庁舎や学校、病院の跡地を巡るバスの中で、最大20メートルの津波が襲った時の様子を披露すると、涙ぐむ参加者も。「語り続けなければ……。津波で消えた街並みが初めからなかったことになってしまう」。伊藤さんは力を込める。

           ◆

       2月末、兵庫県淡路市で「全国被災地語り部シンポジウム」が開かれた。阪神大震災の語り部や、昨年4月に起きた熊本地震の被災地関係者も登壇。教訓を伝え続けるため、各地の語り部が連携していくことが確認された。

       コーディネーターを務めた神戸大名誉教授の室崎益輝よしてるさん(防災計画)は語り部の裾野をさらに広げるべきだと訴える。「教訓を伝える主人公になるべきは人間だ。みんなが語らなければいけない」

       日本は首都直下地震、南海トラフ巨大地震など様々なリスクを抱える。行政任せにせず、我々一人一人が防災力を高めるには、過去の震災犠牲を無駄にしないという姿勢が出発点といえそうだ。(おわり)

       (竹之内知宣、斎藤圭史、古岡三枝子、及川昭夫が担当しました)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170310-118-OYTPT50348

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    6. [震災6年]雪の夜 迎える「あの日」
      2017年3月11日5時0分

       東日本大震災から11日で6年となる。被災地では高台や内陸で住まい再建が進み、災害公営住宅も計画の約8割が完成した。一方、津波にのまれた市街地での再建はかさ上げ工事などが長引き遅れている。避難者は依然として12万人超。8万人弱は福島県の避難者だ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50199

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  67. 祈りと決意…東日本大震災6年
    2017年3月11日15時0分

     1万8446人の死者・行方不明者を出した東日本大震災は11日、発生から6年を迎えた。大津波に襲われた岩手、宮城、福島の3県では、多くの人が犠牲となった家族や友人らの冥福を祈った。午後からは、東京都千代田区の国立劇場で政府主催の追悼式が行われる。各地でも式典が開かれ、午後2時46分の発生時刻に合わせて黙とうがささげられる。

     教職員と児童計84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の市立大川小旧校舎では、小雪が舞う中、早朝から献花台に花を手向ける人たちが訪れた。当時9歳だった佐藤健太君を亡くした父美広みつひろさん(55)は「生きる希望だった。6年たった今なら、背丈は俺を抜いていただろうな。悲しみは増すばかり」と目を潤ませて校舎を見つめた。

     180人が犠牲になった仙台市若林区の荒浜地区でも、明け方から遺族らが海岸沿いにある「慰霊の塔」を訪れ、鎮魂の祈りをささげた。

     当時の町長と職員約40人が死亡・行方不明となった岩手県大槌町の旧役場庁舎前では、午前8時から職員らが黙とう。平野公三町長は「震災から6年が経過しました。復興は着実に進み、新しい大槌のまちづくりが目の前に広がっています」と語りかけた。

     福島県飯舘村では3月末、東京電力福島第一原発事故による避難指示の大半が解除される。解除に先駆け長期宿泊で昨年8月に村に戻った畳職人の坂井欽一さん(77)は、自宅で朝を迎えた。震災前は長男夫婦や孫ら8人暮らしだったが、長男らは避難先に生活拠点をもうけ、今は妻正子さん(75)と2人きり。坂井さんは「震災や原発事故を忘れてはいけない」と話した。

    亡き父へ「家族できたよ」…岩手の41歳 結婚を報告

     唯一の家族だった父を失った岩手県田野畑村出身の介護施設職員千葉陽ようさん(41)は震災後、伴侶を得て新居を構えた。「もう一人じゃない。ちゃんと家族もできたから」

     11日午後の政府主催の追悼式で、遺族代表として追悼の辞を述べ、亡き父に語りかける。

     あの日の出勤前、父の後藤寿ひさしさん(当時74歳)が「病院に連れていってくれ」と言い出した。翌日に、と返すと、珍しく不満げだ。心に何かが引っかかった。

     激震の際、約50キロ離れた同県久慈市にいた。津波が自宅周辺を襲ったと知り、祈った。遺体は自宅から約1キロの漁港付近で見つかった。「一緒にいたら、逃げろと言えたのに」。朝の不満げな顔が思い出された。

     父とは不仲だった。漁師から建設会社員に。60歳代半ばの退職まで年数回しか帰らなかった。震災前に母と姉を病気で亡くし2人暮らしに。会話は少なかった。

     別の一面を知ったのは震災の後だ。「真面目に働いていたぞ」「幼少で母を亡くし苦労して育った」と聞かされた。「生きていた時に教えてほしかった」。父を理解し、優しくできなかったことを悔やんだ。

     その思いが介護の仕事ぶりを少し変えた。父親に乱暴な言葉を投げかける息子を諭すようになった。かつての自分が重なるのだ。家族に、いつも悔いのないようにと思う。

     震災の年の11月、職場で初美さん(30)と出会い、8か月で結婚、婿に入った。出会う直前、夢で父が枕元に立った。「一人ぼっちになった自分を心配してくれたのかも……」

     2014年4月、隣の岩泉町に新居を構えた。だが昨夏、町は台風に襲われ、21人が死亡・行方不明となった。「災害を生き残った者として、生きることを精いっぱい全うしよう」。追悼式で決意を述べる。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50323

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    1. [震災6年]思い 受け継ぐ…私を見守って
      2017年3月11日15時0分

       東日本大震災は11日、発生から6年となった。多くの命が奪われたあの日が、忘れられることはない。各地の追悼行事で、犠牲者がしのばれた。かけがえのない人の思いを継いで被災地で奮闘する若者たちも、それぞれの「3・11」を迎えた。

       

      料理上手の母 目標…故郷で管理栄養士に

       「たくさんの人のお世話になって、社会人として気仙沼に帰ってきたよ。毎日、頑張っています」

       11日朝。三浦美咲さん(23)は、宮城県気仙沼市の階上はしかみ地区にある慰霊碑に手を合わせ、あの震災で亡くなった母の美江子さん(当時41歳)ら7人の家族に、心の中で報告した。

       慰霊碑の周りは、土を盛った上に立つ真新しい住宅と、津波に耐えた古い家が点在する。海に面したこの地区では、200人以上が亡くなった。美咲さんが高校2年だった6年前まで住んでいた場所は、今は更地に。曽祖母、祖父母、両親、そして2人の妹の大家族で暮らしていたが、みんな、津波に巻き込まれた。

       ただ一人残された美咲さんは、昨年から市内の保育園で管理栄養士として働く。家族のための料理に、いつも一生懸命だった母のようになりたくて選んだ仕事だ。毎日作る子供たちの昼食は約50人分。「慌ただしいけど、残さず食べてくれると、仕事の疲れも吹き飛ぶんです」。あの日から6年。ようやく「自然に笑えているな」と自分でも思えるようになった。

               ◇

       あの時、美咲さんは市内のショッピングセンターにいた。激しい揺れが収まった後、美江子さんの携帯電話に「大丈夫?」とメールを送った。「どこにいた?」という返信がすぐにあったが、その1本きりだった。

       家族7人が津波にのまれたらしい――。避難所で、近所の人から聞かされた。最初に見つかったのは、中学3年だった上の妹の美穂さん(当時15歳)の亡きがら。美咲さんは卒業式に出席して、代わりに卒業証書を受け取った。

       震災後は、市内の親戚宅に身を寄せた。時々、台所に立った。美江子さんが得意だったうどんやシチューは、親戚の家族に特に喜ばれた。将来は管理栄養士になろうと大学進学を決め、2012年春、仙台に出た。

       初めての独り暮らし。家に帰っても、「おかえり」の声が聞こえない。家族のぬくもりが恋しかった。「亡くなった7人の分も頑張って」。励ましの言葉が重荷にも感じ、一時、ふさぎこんだ。

       でも、再び前を向かせてくれたのは、やっぱり家族だった。資格取得の試験勉強で疲れたときも、みんなが応援してくれていると思うと、頑張れた。昨年3月、大学を卒業し、気仙沼に戻った。その後、無事に資格を手にした。

       街を歩けば学生時代の友人が声をかけてきてくれる。みんな、家族7人が犠牲になったことを知っているから、気負うことなく話すことができる。

       「震災の直後は『ひとりぼっちになっちゃった』と思ったけれど、『おかえり』と温かく受け入れてくれるのは気仙沼の人たちでした」

               ◇

       昨年の今頃は、試験勉強に忙しかった。だから、古里で過ごす「3・11」は2年ぶりだ。慰霊碑に、まず語りかけたのは「ただいま」の言葉だった。

       「おかえり」。海のかなたから、みんなの声が聞こえた気がした。

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    2. 兄に代わり 畳職人に

       震災で約1800人の死者・行方不明者が出た岩手県陸前高田市の菊池沙也加さん(28)は、亡くなった兄に代わり実家の畳店を継ぐ。約20キロの畳を担ぎ、機械でへりを丁寧に縫っていく。「できることを少しずつやっていくよ」。震災から6年、改めて兄の墓前でそう誓う。

       1960年に祖父が始めた「菊池畳店」。父の純一さん(59)の後は3歳上の兄・勇輝さんが後継ぎとされ、「私が継ごうなんて全く思わなかった」。

       勇輝さんは職業訓練校などで4年間修業し、震災の2年前に実家に戻った。夜遅くまで黙々と働く姿に、父は安心し、沙也加さんは「口数が少ない職人肌。格好良い」と憧れた。

       震災は、そんな自慢の兄を奪った。沙也加さんらは高台に逃げて無事だったが、店舗と自宅は津波で全壊。消防団員として避難誘導にあたった勇輝さんは約1か月後に見つかった。当時25歳。消防団の半纏はんてん姿だった。

       店は2012年に再開した。沙也加さんは「いつ何が起こるか分からない。好きなことをやってみたい」と飲食店で働き始めた。一方で祖父が亡くなり、祖母も体調を崩しがちに。「もし父が倒れたら……」。不安が膨らんだ。

       「店をどうしたいの」。ある夜、父に切り出した。はっきり言わないが、継いでほしいのがすぐに分かった。「私が継ぐよ」。15年4月、決意を伝えた。

       だが、店の手伝いすらしたことはない。できることは少なく、力仕事にも困惑したが、父は何度でも丁寧に教えてくれる。住宅の再建が続く中、新しい畳を届けるなど仕事は忙しい。

       畳の張り替え中、かつて祖父が作った畳に出会った時は「祖父や父、兄の歴史を継いでいるんだ」と、うれしくなった。

       今年2月には職業訓練校を訪れ、兄が作った畳をもらった。細部まで丁寧な作りに、「すごい技術。まだまだ遠い存在だ」と兄を思った。それでも「自分にできることをやっていきたい」と、余った畳の素材を使ったコースターやブックカバーなど女性の感性で商品開発に取り組む。

       父は「まだ仕事を任せられないし、震災後の忙しさもいつまで続くか……。継いでくれて、うれしさと不安が半々」と言いつつ、表情は明るい。沙也加さんは「兄は『お前にできるのかよ』って笑いながら見守っていると思う」と、兄の背中を追う覚悟を決めている。

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    3. あの日、私は

        6年前に東日本を襲った地震と津波、そして原発事故。「あの日」は、被災者の心に今も鮮明に残る

       

      家全壊 友と別れ…三浦七海ななみさん(17)(宮城県名取市)

       津波に流される人や車を見て、校舎の屋上に逃げました。自宅は全壊、友人と別々の中学校に通うことになり、「何もかも奪われた」と思いました。中学3年の夏、初めて人前で自分の体験を話しました。涙とともに、ため込んだ思いをはき出せました。以来、県外から来た人に語り続けています。災害はいつかまた来る。その時に私の話が役に立てばと思います。

       

      娘と必死で避難…藤原武寛さん(51)(宮城県気仙沼市)

       経験したことのない揺れに襲われ、すぐに家を飛び出して、中学1年だった長女を車に乗せて高台に急ぎました。道路は大渋滞。ミラー越しに真っ黒な津波が迫るのが見え、娘は顔を引きつらせていました。対向車線を夢中で突っ走りました。娘は県外に進学し、私は災害公営住宅に一人で住んでいます。高齢者の孤独死に直面することもあります。

       

      家族4人 車中泊…坂本文ふみさん(45)(福島県郡山市)

       東京電力福島第一原発から約8キロ離れた富岡町で接骨院を営んでいました。震災直後は道路が分断されて遠くに避難できず、余震におびえながら家族4人で車中に寝泊まりしました。心強かったのは地域のつながり。「ママ友」や患者さんらが支えでした。避難指示が解除されても富岡には戻らないつもりです。住む人が少なければ暮らしていけません。

       

      原発情報届かず…林富男さん(69)(福島県いわき市)

       福島第一原発で水素爆発があった3月12日、浪江町の自宅からすぐには避難しませんでした。情報が届かず、長年「原発は安全」と言われていたこともあり、行動を起こす気持ちになれませんでした。翌日に避難しましたが、そのまま住めなくなるとは。自宅は取り壊しましたが、田畑は手放さず、手入れをしています。帰るだけでほっとするんです。

       

      店内 がれきの山…在家ざいけ清吾さん(77)(青森県八戸市)

       八戸港の近くで経営している南部煎餅の店から高台へ逃げました。津波が流れ込んでがれきの山となった店内を見て、店を諦めかけた時、仲間が撤去を手伝ってくれました。高齢のせいか体調を崩すこともありますが、「八戸せんべい汁」用の発注が他県からも来て、張り合いになっています。郷土料理を通して人々の温かさを感じてもらえたらと思います。

       

        激しい揺れ、迫る津波。必死に身を守り、逃げた。6年の月日が流れても、あの日を忘れず、今を生きる

       

      電線を伝い生還…上野稔さん(81)(岩手県釜石市)

       地震の後、海に近い自宅へ戻ってしまい、津波にのまれました。流されながらも水中にあった電線をつたい、がれきの上へ出ることができました。今思うと、長く遠洋漁船にいて津波の怖さをわかっていませんでした。助かったのは、震災前に亡くなった「女房の分も生きる」との強い思いと、運のおかげ。自宅も船もなくしましたが、昨夏、災害公営住宅に入ってやっと落ち着きました。

       

      チリ津波教訓に…佐藤叶かなえさん(61)(岩手県大船渡市)

       夫と自宅を兼ねた写真スタジオにいる時に揺れがきました。津波が来ても2階にいれば大丈夫だと思いましたが、1960年のチリ地震津波を覚えていた夫が「逃げよう」と言い、自宅を出ました。結局、津波は自宅の2階まで到達。「空振り」をおそれずに逃げる大切さを身をもって知りました。今は移転先で写真スタジオを再開し、お客さんとのつきあいを大事に頑張っています。

       

      バスで園児避難…石井美都さん(28)(茨城県大洗町)

       勤め先の保育園で5歳児以外の園児はお昼寝中。机の下などに避難させた後、園庭で全員を確認し、避難先の町立磯浜小学校(現・町立大洗小)に向かいました。偶然通りかかった町の福祉バスに乗せてもらい、全員無事でした。おんぶやだっこも限界でした。震災後、毎月の避難訓練では、避難車に飲料水のペットボトルを積み、園児の名簿や救急箱を持ち出すことを意識しています。

       

      まさか長野でも…中沢謙吾さん(64)(長野県栄村)

       「東北は大変なことになった」と思いながら床に就いて数時間、3月12日午前4時前に長野県北部地震に襲われました。長野が揺れるとは思ってもいませんでした。肉牛200頭を飼っていた5棟の牛舎は壊滅状態で、再建は断念。自宅近くに2年前、古民家を改修した交流施設を作り、県外の人とのつながりもできました。村の暮らしはほぼ復興しました。東北も復興すると信じています。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50338

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  68. いっぺんに家族7人を失う…

    ひとはかならず順番こに亡くなるということを頭ではわかったつもりになっているが…

    一所懸命増えるしかない…

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  69. 大震災6年
    「時間は止まったまま」名古屋避難の男性
    毎日新聞2017年3月11日 22時00分(最終更新 3月11日 22時00分)

     東日本大震災の犠牲者追悼式が11日、名古屋市中区の久屋大通公園で開かれた。愛知県内に避難する被災者やボランティア、市民らが献花して黙とうし、ろうそくをともした。

     震災が発生した午後2時46分と午後6時46分に黙とう。実行委員会の浜田ゆう委員長が「これからも被災地と被災者に心を寄せていきます」と宣言した。ろうそくの火は「追悼 東日本」などの文字を浮かび上がらせた。

     福島県南相馬市から名古屋市南区に避難した伊藤広昭さん(63)は「震災当時から時間は止まったまま」と話した。昨年11月に南相馬市の家を解体した。解体には立ち会わなかった。「家がなくなった実感はまだない。これからは自分の居場所を見つけなければ」と静かに語った。南相馬市から名古屋市内に避難してきた男性(41)は、震災当時生後1カ月だった長女(6)を見つめて「6年はあっという間。あの日から何も変わらないように思うが、子どもはどんどん大きくなる」と話し、抱きついてきた長女に笑顔を見せた。

     会場近くでは、岩手県の地元紙・岩手日報が「特別号外」を約1000部配った。被災地の現状や支援への感謝を伝えようと震災翌年から続けていて、今年で6回目。谷藤典男・編集局次長は「語り継ぎ、受け継いでいくことが大切。災害への備えの重要性も訴えたい」と話した。

     号外を受け取った愛知県刈谷市の40代男性は「宮城県出身で、発生5日後に沿岸部を訪れた。親戚の家が流され、たくさんの遺体を見たことを思い出す。前に進むしかない」と語り、号外に見入っていた。【野村阿悠子】
    http://mainichi.jp/articles/20170312/k00/00m/040/109000c

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  70. 除染作業おおむね終了へ 効果の検証を
    3月12日 4時55分

    6年前の原発事故で発生した放射性物質を取り除く除染は、福島県の帰還困難区域を除いて、今月末までにおおむね作業が終わる予定です。一方、環境省が計上した費用は2兆6000億円に上るほか、除染で出た廃棄物の処分の道筋も不透明なことから、専門家は、節目を迎えた除染が復興につながっているのか効果を検証する必要があると指摘しています。

    原発事故のあと、関東から東北にかけての8つの県の合わせて100の市町村で行われてきた除染は、福島県の長期間、住民の帰還が難しい帰還困難区域を除いて、今月末までにおおむね作業が終わる予定で、震災発生の翌年から5年余り続いた事業が節目を迎えます。

    これを受けて、環境省がまとめた結果、これまでの除染に延べ3000万人以上の作業員が携わったほか、今年度までに環境省が計上した予算はおよそ2兆6000億円に上ることがわかりました。

    一方、避難区域の中には、放射線量が下がるなどして避難指示が解除されても学校や病院などのインフラの整備が遅れ、多くの住民が帰還しない意向を示すケースもあるほか、これまでの除染で出た東京ドーム13杯分にあたる1600万立方メートルの廃棄物は処分の道筋がついておらず、今も仮置き場や住宅の庭先など住民に身近な場所に置かれたままになっています。

    このため、専門家は、除染が地域の復興につながっているのか、効果を検証する必要があると指摘しています。

    専門家「総合的に検証すべき」

    避難区域の復興に詳しい大阪市立大学大学院の除本理史教授は「避難区域で避難指示が解除されたあと、住民が戻るか戻らないかを判断する条件の1つが放射線量なのは間違いない。ただ、医療機関や学校などのインフラの復旧や近隣のコミュニティがまだ回復していないことも戻れない理由にあがっていると思う」と述べ、除染には放射線量を下げる一定の効果はあったものの、必ずしも地域の復興に直結していない現状があると指摘しています。

    そのうえで、「除染は今まで経験のなかった事態で、震災後、国がかなり主導する形で枠組みが作り上げられたため、どこを除染すると効率的なのかなどの進め方をめぐって、地元のニーズとのずれが生じるといった課題も出てきている。地元の情報や課題を吸い上げて、除染の在り方を柔軟に見直すとともに、これまでの除染の効果を費用面の数字を含めて、総合的に検証すべき時期に来ている」と述べ、節目を迎えた除染の効果をきちんと検証したうえで、来年度(平成29年度)から始まる福島県の帰還困難区域での進め方を考える必要があると指摘しています。

    環境相「除染には一定の効果」

    一方、山本環境大臣は、これまで行われてきた除染について、今月7日の会見で、「除染の地道な作業が環境の改善にかなり貢献してきていることを被災者の方々にまずはわかっていただきたい」と述べ、除染には一定の効果があったことが確認されたという考えを強調しました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170312/k10010907921000.html

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  71. 帰還困難区域 復興相“帰還しやすい環境整備を急ぐ”
    3月12日 11時56分

    NHKの日曜討論で、今村復興大臣は、原則として立ち入りが禁止されている帰還困難区域で、住民が居住する拠点を整備する事業について、「ふるさとを取り戻してもらいたいという施策の一環だ」と述べ、住民が帰還しやすい環境の整備を急ぐ考えを示しました。

    この中で今村復興大臣は、放射線量が比較的高く、原則として立ち入りが禁止されている帰還困難区域の一部で、国費を投じてインフラ整備や除染を行い、住民などが居住する「特定復興再生拠点区域」を整備する事業について、「時間との勝負でもある。避難先で生活ができ、家を建てる人もいる。子どもの学校のこともある」と述べました。
    そのうえで、今村大臣は「ふるさとを取り戻してもらいたいという施策の一環だ。ふるさとを捨てるというのは簡単だが、戻ってとにかく頑張っていくんだという気持ちをしっかり持ってもらいたい」と述べ、住民が帰還しやすい環境の整備を急ぐ考えを示しました。

    これに対し、福島県の内堀知事は「比較的放射線量の低いところに復興拠点を設け、帰れるエリアがあり得るということを住民の皆さんに示し、希望を見せることで、ひとつのスタートにしていきたい。すぐに戻れない方に対しては、復興公営住宅の整備を進めており、平成29年度にはほぼ出来上がる。長い時間の中で、住民の皆さんが帰還を判断できるよう対応すべきだ」と述べました。

    また、被災地の産業の再生について、岩手県の達増知事は「操業を休んでいた時期に販路がなくなってしまったのを元に戻すのは難しく、オールジャパンの力を借りて、販路の新しい開拓や新しいビジネスの人材育成などを政府にはお願いしたい」と述べました。

    宮城県の村井知事は「グループ補助金で建物はできて機械も入り、人手も確保できるようになったが、売り先が見つからずに水産業がまだ苦しんでいる。国内市場だけではなく、海外に打って出なければならない。ベトナムや中国に販路を広げようと思って懸命に努力している」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170312/k10010908151000.html

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  72. 福島 県発表の避難者に2万4000人余含まれず
    3月12日 14時34分

    福島県は震災と原発事故の影響で避難している住民の数をおよそ8万人と発表していますが、原発周辺の町村が避難者としているおよそ2万4000人が含まれていないことがわかりました。県は災害公営住宅などに入居した場合、避難者から除外するためで、専門家は住民に必要な支援の縮小につながりかねないと指摘しています。

    福島県は今月、震災と原発事故の影響で避難している住民はおよそ8万人で、このうち、原発周辺の5つの町と村から県内に避難している人は合わせて1万7781人と発表しました。

    しかし、NHKがこれらの町と村に個別に取材したところ県内への避難者だけで合わせて4万2030人に上り、その差の2万4249人が、県の発表に含まれていないことがわかりました。

    この理由について町と村は避難指示を受けて避難している住民すべてを避難者と捉えているのに対し、福島県は仮設住宅などから災害公営住宅に入居したり避難先で住宅を再建したりした住民は「安定した住まいがある」として避難者から除外するためだとしています。

    原発事故による避難に詳しい福島大学の天野和彦特任准教授は、「住まいが安定しても地域とのつながりを失い帰還を望む住民は少なくない。避難者かどうかは、住居の種類ではなく暮らしを取り戻せているかをきちんと把握して判断すべきだ」と述べ、県の発表は支援を必要としている住民の数を過小に評価し、生活支援の縮小につながりかねないと指摘しています。

    帰郷望む“避難者”

    福島県浪江町から避難している鈴木竹子さん(88)は、ことし1月に福島市の仮設住宅を出て南相馬市に整備された災害公営住宅に入居したため、県がまとめている避難者の数に含まれなくなりました。

    鈴木さんは原発事故以降、浪江町の自宅に戻りたいと願い続けていますが、避難指示が出ていて戻れないため、災害公営住宅での暮らしも避難生活だと考えています。
    鈴木さんは先月、浪江町をおよそ1年ぶりに訪ね、津波で犠牲になった長男の謙太郎さん(当時64)の墓参りをして好きだった日本酒を供えました。このあと津波で流された自宅の跡を訪ね、家族写真を取り出して、息子夫婦や孫、ひ孫など4世代8人でにぎやかに暮らしていた当時を懐かしんでいました。

    鈴木さん一家はそれぞれが避難先で仕事を見つけたり学校に通ったりしたため、離れ離れになり、鈴木さんはいま1人で暮らしています。
    5年9か月暮らしてきた仮設住宅では親しい友人もできましたが、入居したばかりの災害公営住宅には知り合いもおらず、新しく広い住まいを手に入れても孤独や寂しさを感じているといいます。

    鈴木さんは、避難生活で思い続けていることを句に詠んで部屋に飾っています。そこには「故郷 戀(こい)し 仮の宿」、「日々思う 変り行く里 老いの身よ」とふるさとへの強い思いがつづられています。

    災害公営住宅に入居したため県が避難者と見なさなくなったことについては、「住まいは安定はしているが心は安定していません。ここはあくまで仮の住まいです。ここで一生を暮らさなければならないと思うと不安でいっぱいです」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170312/k10010908331000.html

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  73. 3月12日 編集手帳
    2017年3月12日5時0分

     井伏鱒二の『さざなみ軍記』は、滅びゆく平家一門の姿を一人の若者の日記形式で描いた小説である。ある日、若者は正確な月日を失念するが、仲間に尋ねはしない◆そのわけが綴つづられる。〈日附というのは、希望を抱いている人にとってだけ必要であろう〉。希望があれば、きょうの日付を起点に、あと何日と指折り数えることもできる。けれど…といった意味合いだろうか◆東日本大震災の被災地で、真新しいマンション型の復興住宅に移り住んだ人々から、「仮設はよかった」という声がもれる。ここは話し相手がいなくて寂しい、と◆狭い長屋の並びに人がひしめき、部屋を仕切る壁は薄い。仮設住宅に会話があったのは、そのためだけではたぶんない。岩手県沿岸部の73歳の男性は語った。「これからどうしたいという希望があった。あと何年頑張って、復興住宅に入るとか、家を建てるとか、そういう話をいつもしていた」◆希望のある人にも、ないという人にも、昨日の日付は強く意識されただろう。特別な日が過ぎて、きょう3月12日はどうか。13日は、14日は…。指を折れる何かが生まれるといい。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170311-118-OYTPT50566

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  74. 進む あの日胸に…東日本大震災6年
    2017年3月12日5時0分

     1万8000人を超える死者・行方不明者を出した東日本大震災は、11日で発生から6年となった。被災地は復興に向けて着実に歩んできたが、なお被害の爪痕は残り、12万人以上が避難生活を強いられている。地震発生時刻の午後2時46分、人々は失った大切な命を思い、故郷再生への誓いを新たにした。

    復興へ 各地で祈り

     東京都千代田区の国立劇場で行われた政府主催の追悼式には、秋篠宮ご夫妻が出席された。地震発生時刻に合わせ、安倍首相ら三権の長、各国の駐日大使、遺族代表ら計約900人が黙とうをささげた。震災5年の節目まで毎年、式典に出席し、お言葉を述べてきた天皇、皇后両陛下はこの日、お住まいの皇居・御所で黙とうされた。

     秋篠宮さまはお言葉で、東京電力福島第一原発事故などの影響で多数の被災者が長期の避難生活を余儀なくされていることを「深く心が痛みます」と気遣われた。震災の教訓にも触れ、「一人ひとりが防災の意識を高め、次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られることを強く希望します」と述べられた。

     安倍首相は、「被災者に寄り添いながら、心と身体のケアや新たな地域社会の形成などに力を注ぎます」とした上で、さらなる復興の進展を誓った。

     遺族による追悼の言葉では、父を失った岩手県代表の千葉陽ようさん(41)は「生き残った者として、自分の力が役立つならば、少しでもできることをしていきたい」と決意を述べた。宮城県代表の佐藤昌良さん(57)は津波で犠牲になった両親に向け、「全国から善意の力を借りながら、ふるさとの復興を成し遂げていく。天から見守ってほしい」と語りかけた。

     福島県代表の石井芳信さん(72)は、母を亡くした。原発事故などの影響で、住んでいる村には住民が戻らないという課題はあるとしながらも、「温かいご支援や励ましの言葉を糧に、力を合わせ、復興と再生を進めていくことが私たちの責務」と誓った。

     午後2時46分、被災地は祈りに包まれた。

     181人の死者・行方不明者が出た岩手県宮古市田老地区では、住民ら約500人が防潮堤の上から、海に向かって手を合わせた。同地区では「万里の長城」と呼ばれた全長2・4キロ、高さ10メートルの二重の防潮堤を津波が乗り越え、市街地を襲った。弟とその孫を亡くした小林静江さん(79)は「あの日のことを忘れたことはない。思い出すたびに涙が出る」と声を詰まらせた。

     津波で住民の3割にあたる93人が死亡・行方不明になった宮城県気仙沼市杉ノ下地区では、遺族らが93個の白い風船を空に放った。福島県いわき市の平薄磯たいらうすいそ地区の寺院「修徳院」では黙とうの後、僧侶たちが犠牲者名などを記した「紙塔婆とうば」を海に流した。

     阪神大震災の被災地・神戸市中央区の東遊園地でも、復興への願いを込め、市民らが「3・11」の形に並べたろうそく約600本に灯をともした。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170312-118-OYTPT50097

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  75. 首相 長い年月かかっても避難指示の解除目指す考え
    3月12日 17時05分

    安倍総理大臣は、岩手県宮古市の東日本大震災の被災地などを視察したあと、記者団に対し、原則として立ち入りが禁止されている福島県の帰還困難区域について、長い年月がかかっても避難指示を解除することを目指す考えを示しました。

    安倍総理大臣は、東日本大震災から6年が経過する中、12日、岩手県宮古市を訪れ、「震災遺構」として公開されている「たろう観光ホテル」を視察したあと、高台に移転した住民らと意見を交わしました。

    また、安倍総理大臣は、去年8月の台風10号で被害を受けた岩手県岩泉町を訪れ復旧工事が終わり、来週公開される、町の観光名所の鍾乳洞「龍泉洞」を視察しました。

    このあと、安倍総理大臣は、記者団に対し「改めて震災遺構を訪れ、震災と津波のすさまじさ、恐ろしさを再認識した。『東北の復興なくして日本の再生なし』。これが安倍政権の基本方針であり、できることはすべて行うとの考え方のもとに復興をさらに加速させていきたい」と述べました。

    また、安倍総理大臣は、福島県で放射線量が比較的高く原則として立ち入りが禁止されている帰還困難区域を除くほぼすべての地域で来月1日までに避難指示が解除されることに関連して、「本格復興への第一歩であると考えている。帰還困難区域についてはたとえ長い年月がかかっても完全に解除するという方針で取り組んでいきたい」と述べました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170312/k10010908451000.html

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  76. 東日本大震災の翌日に震度6強 復興祈る催し 長野 栄村
    3月13日 5時05分

    東日本大震災が発生した翌日、長野県栄村で震度6強の地震が起きてから12日で6年です。村では12日夜、雪山に火をともしたろうそくを並べ、復興を祈る催しが開かれました。

    6年前の3月12日に起きた長野県北部を震源とする地震で、震度6強の揺れを観測した栄村では、700棟近い住宅に被害が出たほか、避難生活によるストレスなどで3人が死亡しました。地震から6年となる12日は午後5時ごろから、JR飯山線の森宮野原駅前に地元の住民やボランティアなど、およそ200人が集まり、復興を祈る催しが開かれました。

    はじめに集まった人たちが全員で、亡くなった人たちに黙とうをささげました。会場には高さ8メートル、幅30メートルほどの雪山が作られ、地元の子どもたちが、火をともしたろうそくを並べると「3・12栄村」の文字が浮かび上がり、集まった人たちは復興への祈りをささげていました。村は住宅や農地などの復旧事業はほぼ終えましたが、人口減少に加え、高齢化が進んでいて、村をどのように活性化させていくかが課題となっています。

    会場を訪れた78歳の女性は「当時のことを思い出すといまでも涙が出ますが、元気に頑張ってきて、よかったと思います。力を合わせて明るい栄村を作っていきたいです」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170313/k10010908871000.html

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  77. 真偽判断する手間惜しむ いまだ残る原発デマ拡散…早野龍五・東大教授に聞く
    2017年3月13日5時0分

     昨年の米大統領選の前後から、「フェイク(偽)ニュース」「ポスト真実」という言葉が多く聞かれる。いずれも事実・真実が軽んじられる風潮を表すが、日本でも東日本大震災の直後から、不確かな情報が大量に発信された。そんな状況に対抗すべく、科学的で冷静なツイートを行うなどの活動を続けてきた物理学者の早野龍五・東大教授は、正しく知ることの重要性を指摘している。(小林佑基)

     早野教授は、東京電力福島第一原発の事故に関連し、「福島には子供を連れて行かない方がいい」などのデマが、今もしぶとく流されている現状を憂える。避難地域の外側に住むことも、市場に出ている福島産の作物を食べることも、出産することも安全だと言えるのに、「デマを流す側は考えを変えるつもりもなく、一種のシンパを形成している」と指摘。全体の報道量が減る中で、後年、正しい情報よりデマが残りかねないとの懸念から、ツイートを続けている。

     デマが拡散しやすい理由について、「知る」ことの基本が危うくなっているからだと説明。インターネットの発達で、原資料に遡って真偽を自分で判断するような手間を惜しむ風潮があるとする。「何をもって『ものを知った』ことになるのかが分からず、多くの人が悪気なくデマの拡散の片棒をかついでいる」とし、立ち止まって調べてみる重要性を訴える。

     教育の重要性にも言及。放射線学習は、2012年度から本格実施された学習指導要領で復活するまで、約30年間、義務教育(中学校理科)では原則として行われてこなかった。そのため「普通の生活でも自然界の放射線を浴びているという基本的知識がなく、『ゼロでなければ危険』といった考え方がまかり通ってしまった」と悔やむ。

     こうした「原理主義」が、避難指示解除の際にも出たと振り返る。11年8月、原子力安全委員会(当時)が政府に避難指示解除の条件を助言した際、住民の合意形成を入れた。このため反対する人がいれば避難指示解除はできなくなり、政府は早い段階で「リスクはゼロではないが少ないので、帰りたい人は帰っていい」と言えなくなったというのだ。そのため生活や家族が壊れた人が多く生まれ、社会も分断されたと残念がる。

     もともと放射線は専門外だったという早野教授は今月末、東大を退職する。事故後に「博士号をもう一つ取れるほど」勉強し、「事故前までの60年間と同じぐらい」多くの人と出会った。この間、学校給食の放射性物質検査を提言したり、乳幼児専用の内部被曝ひばく計測装置を開発したりもして、ツイッターのフォロワー(閲覧者)は約15万人になった。多くの共感の一方で、激しい罵ののしりも受けたが、冷静でいられたのは、距離感をもって物事を見ていたからだと振り返る。「自分が正しいと思っても立ち止まって、自分で自分の間違い探しをすることが必要では」

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    「新しいことを発言したり行ったりする時、具体的に誰かの顔を思い浮かべ、その人が迷惑しないかを考えるよう心がけていた」と振り返る早野龍五教授

    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170312-118-OYTPT50256

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    1. 「具体的に誰かの顔を思い浮かべ、その人が迷惑しないかを考える」(笑)。

      なあるほど…

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  78. 側溝の汚染土砂撤去作業始まる
    03月13日 16時27分 NHK福島

    原発事故の影響で放射性物質に汚染されたまま道路の側溝にたまり続けている土砂を取り除く作業が、13日からいわき市で始まりました。
    原発事故で汚染された側溝の土砂は、ほとんどの放射線量が、国の基準となっている毎時0.23マイクロシーベルトを下回っていることから、これまで国による除染の対象から外れていました。
    このためいわき市は、当初、独自に撤去することを決めていましたが、その後、国が方針を変えて、全額、国費で撤去することになったため、改めて計画を見直して13日から作業を始めました。
    13日は、小名浜住吉の砂田地区にある市道など2か所で作業が行われ、側溝におよそ20センチの高さまでたまった土砂や水を作業員がバキュームカーで吸い上げたり、固まっているところに高圧洗浄車から水を噴射したりしていました。
    いわき市は、今月中に小名浜地区でより効率的な方法を探りながら撤去作業を行うほか、新年度に入ってからも市内の11地区、総延長およそ358キロの市道の側溝で作業を進めることにしています。
    いわき市道路管理課の下山田広志課長は「側溝の土砂については、一時は毎日のように市民から苦情や相談が寄せられてきた。これからが本番なので気持ちを新たにして頑張りたい」と話しています。
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054533031.html

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    1. 操業区域拡大後初のコウナゴ漁
      03月13日 13時03分 NHK福島

      福島県沖の東京電力福島第一原発周辺の試験的な漁の海域が、安全性などを確認したうえで今月から拡大され、初めてとなる春が旬のコウナゴの漁が行われました。
      原発事故のあと、東京電力福島第一原発から半径20キロの海域では漁の自粛が続いていましたが、魚介類の安全性を確認し、海底のがれきの撤去も終わったことから、今月1日から自粛海域が10キロ圏まで縮小され、漁が出来る海域が広がりました。
      これを受けて福島県北部の相双漁協は、初めてとなる旬を迎えたコウナゴの漁を13日から始め、このうち、漁港の復旧が進んで港の利用が先月から6年ぶりに再開した浪江町の請戸漁港からは、早朝から9隻の漁船が漁に参加しました。
      漁を終えた漁船は午前10時頃から港に戻り、体長4センチほどに育ったコウナゴを次々と水揚げしました。
      各港で13日水揚げされたコウナゴは、相馬市の松川浦漁港に集められて地元の業者がゆでて加工したうえで県内外に出荷されるということです。
      漁業者の今井亨夫さんは、「試験操業の海域が広がり、請戸漁港で水揚げもできたので前進出来たと思います」と話していました。
      http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054650971.html

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    2. 【震災6年】原発20キロ圏内で初操業…相馬双葉漁協 =福島
      2017年3月14日5時0分

      ◆復興へ「大きな一歩」

       東京電力福島第一原発事故後に県沖で続く試験操業で、相馬双葉漁協(相馬市)は13日、これまで漁を自粛していた原発10~20キロ圏の海域でコウナゴ漁を行った。浪江町の請戸うけど漁港では復旧工事がほぼ完了し、2月25日には東日本大震災と原発事故で避難していた漁船が約6年ぶりに帰還したばかり。震災から6年が過ぎ、復興へ向けた歩みが一歩ずつ進んでいる。

       この日は午前5時頃から、請戸漁港を漁船9隻が出港。午前9時半過ぎ、港に漁船が次々と戻ってくると、水揚げされたコウナゴが相馬市の市場にトラックで運ばれていった。

       コウナゴは主に3~4月が漁期。県では原発事故前、多い時に4000トンを超える漁獲量があった。初日の漁を終えた今井亨夫さん(56)は「まだ魚の姿は少なかったが、これまでのことを思えば復興に向けた大きな一歩だ」と話した。

       県沖では、放射性セシウム濃度検査で国の規制値(1キロ・グラムあたり100ベクレル)を大幅に下回る状況が続いた魚種を対象に、2012年6月から試験操業が行われている。しかし、これまで原発から半径20キロ圏内では漁を自粛してきた。

       16年に規制値を上回る検体が初めてゼロになり、今回は20キロ圏内の海底がれきの撤去が終了したことから、県漁連が試験操業の海域拡大を決めた。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170313-119-OYTNT50121

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  79. 4町村野菜出荷制限一部除き解除
    03月14日 21時06分 NHK福島 NEWS WEB

    原発事故の影響で出された避難指示が今月末に解除される浪江町など福島第一原発周辺の4つの町村で、実証栽培で安全性が確認されたとして葉ものなどの野菜の出荷制限が一部を除いて14日付けで解除されました。
    出荷制限が解除されたのは、原発事故で全域に避難指示が出されている、浪江町や富岡町、飯舘村、それに大熊町の帰還困難区域を除いた地域で、葉ものなどの野菜が対象です。
    具体的には、ブロッコリーやホウレンソウ、キャベツや白菜、カブなどです。
    これらの4つの町村では、放射性物質の影響を調べる試験栽培に続いて去年秋ごろから行われた実証栽培で、野菜に含まれる放射性物質が安定して国の基準値を下回り、安全性が確認されたとして14日付けで出荷制限が解除されました。
    震災前の野菜の作付け面積は、浪江町のブロッコリーが14.3ヘクタール、飯舘村のホウレンソウが14.5ヘクタールなどとなっていて、今回の出荷制限の解除でことし春以降、避難指示が解除される地域での農業の再開や地域の復興につながることが期待されます。
    これで、葉ものなどの野菜に対する出荷制限は、福島第一原発周辺の6市町村の帰還困難区域と、双葉町の全域を残すのみとなりました。
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054726101.html

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  80. [震災6年 災害と日本]死見つめ 生まれる強さ…宗教学者 山折哲雄氏 85
    2017年3月14日5時0分

     日本は世界有数の地震・火山国であり、自然災害は宿命ともいえる。東日本大震災から6年。この間も熊本地震など各地で犠牲者が出た。私たちはこれまで災害とどう向き合い、これからどう向き合うのか。識者や関係者に聞いた。初回は宗教学者の山折哲雄氏。(聞き手・編集委員 結城和香子)

    自然と歩む国 育んだ無常/被災地の若者に託す希望

     震災の1か月半後、三陸海岸などを訪れた。ご遺体を埋め木の札を立てた無数の墓標を前に、呆然ぼうぜんと立ちすくむ遺族の方々。彼方かなたには晴れた美しい海。死者を悼む鎮魂の、万葉の挽歌ばんかが浮かんだ。万葉人は、死者の魂が屍かばねから出て、海や山の彼方に静まると信じていたから鎮魂の歌が作れた。現代人は、魂の行方を信じていない。その悲劇を思った。

     あれから6年。死者たちの無念から、生き残った者たちの問題に、重点が移り始めている。今や社会が、生き残った者のこころを慰め励まそうと、一種の挽歌を歌っている。

     《母方の実家が岩手県で、京都で阪神大震災も経験した山折氏は、様々な活動を通じ東北に足を運ぶ》

     被災地へのモノ、カネ、人の流れが、次第に縮小されていこうとしている。残されるのは被災者たちのこころの問題だ。その恐れと不安は、解決に向かっていない。

     科学技術と人知を尽くし、防災減災の備えが進む。それでも「想定外」のリスクはゼロにはならず、安心安全の境地は得られない。まだらな復興も、生きることへの不安を生む。結局心の平静を得るには、何が起きても「想定内」だと、受け止める覚悟を持つほかはない。それが、自然災害と歩む日本人が培ってきた、無常観であり死生観だった。生と等しく死をも見すえる心構え、と言ってもいい。

     自然に抱かれる、土に返る。日本人が持つ死生観は、仏教やキリスト教が極楽だ神だと言い出す前に世界各地に存在した、天地万物に命ありという普遍的な考え方に通じる。

     ところが今の日本社会では生きることばかり強調され、死をタブー視する風潮がある。教育界では米国で意識が高まる死の教育が緒に就かない。医療界では安楽死等の問題が禁句のままだ。宗教界は「最後は死が待つ」と引導を渡す本来の役目に後ろ向きだ。死の問題は法と人知を超えるのに、死を定義しようとする。被災地の問題の根底にも、死を見つめようとしない、こうした社会のあり方がある。

     ◇3層構造

     日本は、災害にあって人々を守る知恵として、風土的な3層構造を作り上げてきた。縄文的森林社会、弥生的農耕文化、そして近代。新しいものが古いものを根こそぎにするのではなく、これらが相互的な関係を保ち、知識や生活スタイルを、危機に対し選択的に繰り出し対応した。それが日本人の意識や文化芸術の特色にもなった。白黒の二元論ではなく中庸の考え方が生まれ、自然を征服する気は起こさずに、その「厳父と慈母の顔(脅威と恵み)」と、謙虚に付き合って来た。

     日本の歴史で、危機に対しどう人はあるべきかという死の問題を最も深く考えたのは13世紀の法然、親鸞らだ。関東大震災後の10年間は、寺田寅彦らを輩出した。

     《関東大震災の調査を行った物理学者の寺田(1878~1935年)は、災害に対する日本人の精神性を「天然の無常」と評した》

     今の日本人は、震災後何を学んだか。法と行政、経済の観点からしか問題を議論しない、知的世界の貧しさを思う。

     ◇神探し

     死生観も変化している。新幹線で、若い女性がコートかけに、荷物のように骨箱をかけていた。葬式も告別式もしない「直葬」が増えた。代わりに多くの人が写真を大事にする。霊魂は信じないが死んだ人には身近にいてほしい、そんな願望の表れだ。無神論にもなれず信仰を持つこともできない、現代の日本人の姿だ。

     社会のネット化、人のつながりのネット化が拍車をかける。土居健郎のベストセラー「『甘え』の構造」(1971年、「甘え」を通じ日本人心理と人間関係を論評)が今世紀に入り売れなくなった。甘えが生まれる二者の関係が崩れ、相手という言葉が廃れて他者になってしまったからだ。対人関係が希薄になった。

     AI(人工知能)が今、将棋や囲碁の名人を負かし、急速に人間化している。無神論の時代に、万能の超人間という、新しい神探しが始まったのかもしれない。ネット等に依存する人間には、管理してくれる神が必要になるからだ。

     ◇決断力

     人間を含め万物には、必ず終末、つまり死がやってくる。そのことを冷静に見つめられれば、その中から強さと希望が現れる。それが日本人の死生観の根本だったはずだ。

     先日被災地の学校で語った。準備も訓練も大事。しかし最後はどんな規模と形の災害が来るか分からない。大切なのは子どもたち一人ひとりが、災害と死が迫った時、どんな決断力と覚悟を持てるかだと。

     団塊までの世代は、欧州コンプレックスや模倣から始める習性が抜けない。私が期待するのは、そこから解放された20代、30代までの世代の可能性だ。特に被災地では、震災を体験した子どもたちが高校生、大学生になる。生と死の問題に非常に敏感なこの若い世代が、この6年間にどういう成長をし、死生観を身に付けたのかに希望を見たい。

    こころへのエール

     自分の心を救えるのは自分だけ。死という終しゅう焉えんを含む、現実から目をそらさないでと山折氏は言う。厳しいようで、それは根源的な人間へのエール、日本人が魂の底に培ってきた強さへの信念だ。

     死とは全ての過去と未来の喪失の重みだ。情は観念では割り切れない。でもひとり踏み出す時、限りある今を生かされているという思いがきっと力になる。

     私たちは死と向き合う勇気を次世代に、伝える役目も負うのだと気付かされる。(結)

     やまおり・てつお 1931年生まれ。東北大卒、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター所長など歴任。宗教学、思想史を専門とし、近著「『ひとり』の哲学」など著書多数(平博之撮影)

    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170313-118-OYTPT50480

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    1. 「宗教学者」ねぇ…

      うさんくさい稼業だ。

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  81. 記事中の談話を捏造…取材せず執筆 本紙記者を処分
    2017年3月15日5時0分

    おわび  7日夕刊と8日の朝刊一部地域で掲載された「帰還しない職員 昇格・昇給なし 楢葉町長」の記事は、福島県・いわき支局の男性記者(25)が、確認せずに他紙の記事の内容を後追いし、町長の談話を捏造ねつぞうしていたことがわかりました。本社は重大な記者倫理違反と認識しており、関係者、読者のみなさまにおわび致します。談話部分を削除し、記者の懲戒処分などを行います。

     記事は、東京電力福島第一原発事故による避難指示が2015年9月に解除された福島県楢葉町の松本幸英町長が、昨年11月の庁議などで、「避難先から帰還しない職員は昇格・昇給させないようにする」との趣旨の発言をしていたという内容です。記者は7日朝、この内容を報じていた複数の他紙の情報を参考に記事を書き、町などに内容を確認しないまま出稿しました。また、松本町長の談話は、本人に取材することなく作成していました。記者は「締め切りが迫る中、取材しないまま安易に書いてしまった」と話しています。

     本社は記者の経験に応じた研修などを実施していますが、さらに記者教育を徹底して再発防止に取り組み、信頼回復に努めます。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170315-118-OYTPT50068

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    1. 帰還しない職員は昇格・昇給させない…楢葉町長
      2017年3月7日12時36分

       東京電力福島第一原発事故による避難指示が2015年9月に解除された福島県楢葉町の松本幸英ゆきえい町長が、昨年11月の庁議や今年2月の新年会で、「避難先から帰還しない職員は昇格・昇給させないようにする」との趣旨の発言をしていたことがわかった。

       松本町長は7日、読売新聞の取材に「(発言は)町職員が町民に対し、率先して帰還する姿勢を示すべきだという思いからだった。今後については改めて協議したい」と話した。

       町によると、昨年11月に福島県沖地震が起きた際、約100人の職員のうち、町内に居住していたのは13人で、多くの職員が登庁するのに1時間以上かかった。そのため、町は同12月から交代で職員を町内に宿泊させている。帰還した職員は35人(6日現在)に増えた。町民は原発事故前の1割にあたる818人(3日現在)が戻っている。

       ただ、職員からは「帰還を進めたいという思いはわかるが、子育てや介護など家庭の事情で帰れない職員もいる」(いわき市から通う男性)などの声も上がっている。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170307-118-OYT1T50051

      https://koibito2.blogspot.jp/2017/03/2011311-fukushima.html?showComment=1488866800641#c2578310877242577622

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    2. さんざん「DeNAデマまとめサイト」問題がまだ渦中のさなかにあるときに…
      http://www.2nn.jp/search/?q=DeNA+%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88&e=

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    3. DeNAサイト問題 情報発信の責任欠如…第三者委報告 利益優先 批判
      2017年3月14日5時0分

       「正確性よりも利益を優先させた」。IT大手ディー・エヌ・エー(DeNA)のまとめサイト問題を厳しく批判した第三者委員会の調査報告書は、ネット上の情報を集めているだけという会社側の意識を非難し、「メディアとしての責任」も強く求めた。玉石混交の情報が短期間で拡散されるインターネット時代において、情報を扱うIT企業のあり方が改めて問われている。

        ■理念あいまい

       「社内外から『もうけ主義だから問題が起きた』と批判され、反省した」。報告書の公表を受けて13日夕、東京都内で開かれた記者会見で、同社の守安功社長(43)は神妙な面持ちで語った。

       報告書では、守安社長ら経営陣が、検索サイトで上位に表示されやすい記事を作成することや、記事の質がある程度低くても量産することを重視する方針を決めたことが、チェック体制の不備や、法令違反を含む内容の記事が氾濫した一因となったとした。

       また、同社のまとめサイト事業参入について、「もっぱらその収益性のみに着目し、事業の理解や理念はあいまいなままだった」と批判。同日会見した第三者委員会の委員長を務めた名取勝也弁護士は、「数値偏重から、公正な稼ぎ方に変えるべきだ」と戒めた。

       創業者の南場智子会長(54)は「過去にも色々な課題に直面したが、今回はとりわけ重く受け止めている。法令順守が機能していなかった」と悔やんだ。

        ■「メディア」と指摘

       報告書は、DeNAが運営していた「WELQ(ウェルク)」など10サイトについて、利用者が自由に記事を投稿できる「プラットフォーム」ではなく、記事の内容について法的責任や社会的責任を持つ「メディア」だったと指摘した。

       同社の法務部などは、クレームなどが来た際に、サイト側は記事内容に責任を持てないプラットフォームだと説明していた。第三者委の聞き取りにも、「自分たちに責任は発生しないと理解していた」などと答える担当者がいたという。

       まとめサイトは、自ら取材して事実関係の厳格なチェックも行う報道機関とは異なるが、第三者委は、ウェルクなどが外部のライターらに記事を作成させていたことも踏まえ、広い意味のメディアに含まれるという考え方を示した。その上で、今後、まとめサイトの事業を再開するなら、「情報発信における責任を誰が持つのかということを正しく理解すべきだ」と求めた。

       守安社長は「我々が提供してきたサービスは実質的に『メディア』だった。定義や理解があいまいなままで、当然配慮すべき部分が適切に運営されなかった」と唇をかんだ。

       同社によると、昨年12月以降、著作権侵害に関する84件の相談があった。侵害が確認できた場合には補償する方針という。

        ◆ディー・エヌ・エー(DeNA) =南場智子会長が1999年に創業した。主力事業は「モバゲー」など携帯電話向けのゲームだったが、2013年頃からゲーム事業は低迷している。11年には「横浜ベイスターズ」を買収した。16年3月期の売上高は1437億円。

      誤った情報 拡散サイトにも責任

       インターネット上には、まとめサイト以外にも、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)や動画サイト、検索サイトなど、誤った情報の拡散や著作権侵害に加担しかねないサービスが多数存在している。

       米国では、フェイスブックなどのSNSによって「フェイク(偽)ニュース」が拡散され、昨年の大統領選の結果にも影響したとされる。ユーチューブなどの動画サイトには、著作権侵害にあたるとみられる動画が多数投稿されている。

       検索サイトについても、最高裁が今年1月、「忘れられる権利」の有無が問われた裁判で、検索結果で表示される犯罪歴の削除請求を退けた一方で、検索結果の提供には「表現行為の側面がある」と判断。サイト側に情報拡散の責任が生じる場合があるとした。

       インターネット上のトラブルに詳しい森亮二弁護士は「まとめサイトを含む広い意味の『メディア』が、発信する情報に責任を持つことはもちろんだが、意図的な編集をしないそれ以外のサイトも、著作権侵害やプライバシー侵害など違法な情報を拡散しているのであれば、責任を問われることもある」と話している。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170314-118-OYTPT50082

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    4. まとめサイト 画像75万点 著作権侵害か…第三者委調査報告 DeNA社長謝罪
      2017年3月14日5時0分

       IT大手ディー・エヌ・エー(DeNA)の情報まとめサイトを巡る問題で、13日公表された第三者委員会の報告書を受け、同社の守安功社長らが記者会見した。報告書は最大で全体の5・6%の記事に著作権侵害の疑いがあると推計し、画像約75万点についても侵害の可能性を指摘しており、守安社長は「提供してきたサービスへの理解が不十分で、法令順守が徹底できていなかった」と謝罪した。

       報告書によると、医療系サイト「WELQ(ウェルク)」など10サイトに掲載された37万6671件の記事から400件のサンプルを抽出し調べ、1・9~5・6%の記事に著作権侵害の可能性があると推定した。最大2万件超の記事で侵害の恐れがある計算になる。記事に付けられた画像では、10サイトの472万4571点のうち74万7643点に侵害の可能性があった。

       また、外部から誤情報などの問題が指摘されたウェルクの記事19本の調査では、10本に医薬品医療機器法や医療法、健康増進法に違反する可能性がある内容が含まれていた。

       4人の弁護士からなる第三者委員会の委員長を務めた名取勝也弁護士は、問題の原因や背景について「事業拡大を優先して、リスクへの慎重な配慮がなかった。反省すべきだ」と同社を批判した。

       報告書を受け、同社は守安社長の役員報酬を昨年12月から半年間50%減額するなど、関係者30人の処分を決定。創業者の南場智子・取締役会長兼執行役員を13日付で代表取締役に復帰させた。会見で守安社長は、今後の経営について「問題の根本的な解決のため、私も含めた経営陣、全従業員の意識改革が不可欠だ」と話し、南場会長は「社会から存在を許され、信頼される会社になるよう努める」と語った。

      <DeNAまとめサイト問題 第三者委報告書の要旨>

       IT大手ディー・エヌ・エー(DeNA)の情報まとめサイトを巡る問題で、同社の第三者委員会が13日に公表した報告書の要旨は次の通り。

       【サイトの運営実態】

       DeNAが新興企業を買収したり、自ら設立したりして運営していたサイトには、一般利用者が自由に記事を投稿できる「プラットフォーム」の面があることは間違いない。しかし、全体に占める投稿記事の割合は、2サイトを除いておおむね5%以下であり、その他の記事は、運営主体であるDeNAが記事作成に様々な形で関わっていた。自らが情報発信者となる「メディア」であったと評価される。

       【不適切なマニュアル】

       一部のサイトのマニュアルでは、著作権侵害との指摘を免れるために、他のサイトの記事を無断利用するための方法を指南し、コピー・アンド・ペーストを推奨していると受け取られかねないような記載があった。これが外部のライターらの誤解を招き、法令に対する理解が不十分なままでの記事の作成を誘発した可能性は否定できない。

       【チェック体制の不備】

       DeNAが運営する10サイトでは、問題発覚前の2016年10月に1サイトあたり平均2009本、11月には同1875本の記事が公開された。編集担当者は各サイトとも10名以下しかおらず、記事内容を適切に確認することは物理的に困難だったが、コスト面から担当者を増員せず、外部ディレクターにチェックを委ねるなどしていた。確認体制は極めて脆弱(ぜいじゃく)かつ不十分だった。

       【原因、背景】

       まとめサイト事業は、コンプライアンス意識を持ち合わせたDeNA社員によるものではなく、外部の新興企業の買収で始まった。事業の性質上、他人の権利を侵害しかねない潜在的リスクを抱えているが、事前の予防策が十分に講じられず、各サイトには記事数や利用者数といった指標が、事業全体には営業利益などの目標が設定されていた。

       ウェルクのチームでは、記事内容の正確性などを担保するために医師などの監修を付けることが必須だと認識されていたが、「記事の大量生産」という方針にそぐわないことやコスト面から見送られた。多くの利用者数を見込めるという理由を優先させ、情報の正確性や適切性は後回しだった。

       【再発防止策の提言】

       仮にまとめサイト事業を再開するのであれば、〈1〉同事業により、読者や社会にどのような価値を提供するか明確にする〈2〉情報発信の責任者が誰か正しく理解する〈3〉オリジナルコンテンツの作成者の権利を侵害したり、不信感や不快感を与えたりすることを防止する〈4〉外部の執筆者に委託する際は、執筆者に求めることと求めるべきではないことを明確に定める――といった点を十分に検討し、適切に遂行すべきだ。DeNAが自らの利益獲得のみに走るのでなく、絶えず謙虚に事業を遂行していく気持ちを全員が持ち続けることが必要だと考える。
      https://koibito2.blogspot.jp/2017/01/24.html

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  82. 震災復興の重点政策「原発事故対応」31%「住宅の再建」20%
    3月14日 5時24分

    東日本大震災から11日で6年が経過した中、震災からの復興に向けて、今後、政府はどのような政策に最も力を入れるべきかについてNHKの世論調査で聞いたところ、「原発事故対応」が31%、「住宅の再建」が20%でした。

    NHKは今月10日から3日間、全国の18歳以上の男女を対象に、コンピューターで無作為に発生させた番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行いました。
    調査の対象は1436人で、66%の952人から回答を得ました。

    それによりますと、東日本大震災から11日で6年が経過した中、震災からの復興に向けて、今後、政府はどのような政策に最も力を入れるべきか聞いたところ、「住宅の再建」が20%、「インフラ整備」が9%、「産業の振興」が15%、「被災者の心のケア」が16%、「原発事故対応」が31%でした。

    また、現在、運転を停止している原子力発電所の運転を再開することについては、「賛成」が13%、「反対」が48%、「どちらとも言えない」が32%でした。

    さらに、今の憲法を改正する必要があると思うか聞いたところ、「改正する必要がある」が27%、「改正する必要はない」が28%、「どちらとも言えない」が35%でした。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170314/k10010909991000.html

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  83. 福島県 7小中学校を放射線を学ぶモデル校に指定へ
    3月16日 16時37分

    原発事故で避難している子どもへのいじめが相次いで明らかになる中、福島に対する偏見に左右されない児童や生徒を育てようと、福島県は新年度から県内の7つの小中学校をモデル校に指定し、総合的な学習の時間などを活用して放射線について詳しく学ぶ機会を作ることになりました。

    東京電力福島第一原発の事故で避難している子どもへのいじめが各地で明らかになる中、福島県では、周囲からの偏見に左右されないよう、児童・生徒が福島の現状を正確に理解し、説明できる力を身につける必要性が指摘されています。

    こうした中、福島県は、新年度から県内の7つの小中学校をモデル校に指定し、総合的な学習の時間や社会、理科などの授業時間を活用して、放射線や原発事故の影響について詳しく学ぶ機会を作ることになりました。

    授業では、専門家の派遣や学校外にある放射線に関する展示施設の活用、それに住民と一緒に地域の放射線量を測るといった機会を設けることも検討されています。また、防災についても幅広く学べるようにしたいとしています。

    福島県は、この取り組みの一環として、ことし11月に三春町にある県の環境創造センターで、初めて「放射線・防災教育フォーラム」を開催する予定で、福島の児童・生徒が前向きに努力する姿をアピールする機会にしたい考えです。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170316/k10010913541000.html

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  84. 原発賠償金計8400万円詐取か
    03月17日 20時13分 NHK福島 NEWS WEB

    東京電力から原発事故の賠償金をだまし取ったとして逮捕・起訴された郡山市の女が、さらに3400万円にのぼる賠償金をだまし取っていた疑いが強まったとして、17日、警察から追送検され、被害額はあわせて8400万円あまりにのぼることがわかりました。
    追送検されたのは、郡山市の飲食店経営、池田幸子被告(65)です。
    池田被告は、平成25年10月から12月にかけて、知人が経営する飲食店や別の知人が勤務する建設会社が、原発事故の影響で売り上げが減るなどの損害を受けたとするうその書類を東京電力に提出し、あわせて4900万円にのぼる賠償金をだまし取ったとして、逮捕、起訴されています。
    警察によりますと池田被告は、指南役として知人などと共謀し、賠償金を請求する際に、経営状態を証明する添付資料を改ざんする手口で、うその損害を請求していたということです。
    警察は、余罪があるとみて捜査を進め、ほかにも知人が経営する別の飲食店について、同様の手口でおよそ3400万円の賠償金をだまし取った疑いが強まったとして、17日、池田被告を追送検したことがわかりました。
    これで、池田被告が、だまし取ったとされる賠償金の額はあわせて8400万円あまりにのぼります。
    池田被告は、だまし取った賠償金を、沖縄県やハワイのマンションや別荘、それに無免許で運転していた高級外車の購入などに充てていたということです。
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054740381.html

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  85. 原発避難”国と東電に責任”判決
    03月17日 20時13分 NHK福島 NEWS WEB

    東京電力福島第一原子力発電所の事故で群馬県に避難した人など130人あまりが起こした裁判で前橋地方裁判所は、「津波を事前に予測して事故を防ぐことはできた」として、国と東京電力の責任を初めて認め3800万円あまりの賠償を命じる判決を言い渡しました。
    原発事故の避難をめぐる全国の集団訴訟では今回が初めての判決で、今後の裁判に影響を与える可能性もあります。

    この裁判は、原発事故の避難区域や福島県のそのほかの地域から群馬県に避難した人ら137人が生活の基盤を失うなど精神的な苦痛を受けたとして、国と東京電力に1人あたり1100万円、総額およそ15億円の慰謝料などを求めたものです。
    17日の判決で前橋地方裁判所の原道子裁判長は、平成14年7月に政府の地震調査研究推進本部が発表した巨大地震の想定に基づいて、国と東京電力はその数か月後には巨大な津波が来ることを予測できたと指摘しました。
    その上で、「東京電力が非常用の発電機を建屋の上の階に設けるなどの対策を行うことは容易で、国もこうした対策を講じるように命令する権限があり、事故を防ぐことは可能だった」として、国と東京電力の責任を初めて認め、3800万円あまりの賠償を命じました。
    原発事故をめぐり、全国の18の都道府県で1万2000人あまりが起こしている集団訴訟では今回が初めての判決で、今後の裁判に影響を与える可能性もあります。
    福島地方裁判所では、原発事故で平穏な暮らしを奪われたとして、福島県などの住民およそ4200人が国と東京電力に放射線量を元に戻すことや損害賠償などを求める裁判を起こしていて、弁護団によりますと、年内にも判決が言い渡される見通しです。
    この裁判の原告団長で相馬市に住む中島孝さん(61)は17日、前橋地方裁判所で裁判を傍聴しました。
    判決について中島さんは「安全対策を怠った国の責任が認められた意義は非常に大きい。自分たちの裁判は今月、結審するが、私たち原告団も含めて福島県民はきょうの前橋の判決で勇気づけられていると思う。2度と原発事故を起こさせないよう、被害者として何が出来るか今後も考えていきたい」と話していました。
    17日の前橋地方裁判所の判決について、東京電力福島第一原発の事故で出されていた避難指示の大部分が去年7月に解除され、復興の取り組みを進めている南相馬市の桜井勝延市長は、「今回の判決で福島第一原発の事故が安全対策を怠った人災であることが明らかになったことは評価する。国と東京電力は、判決を踏まえ、今後とも避難者の1人ひとりに寄り添って、責任を持って被害の回復が図られるよう対応すべきだ」というコメントを出しました。
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054746761.html

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    1. 原発避難訴訟 国に初めて賠償命じる判決 前橋地裁
      3月17日 19時43分

      東京電力福島第一原子力発電所の事故で、群馬県に避難した人など、130人余りが起こした裁判で、前橋地方裁判所は「津波を事前に予測して事故を防ぐことはできた」として、国と東京電力の責任を初めて認め、3800万円余りの賠償を命じる判決を言い渡しました。原発事故の避難をめぐる全国の集団訴訟では、今回が初めての判決で、今後の裁判に影響を与える可能性もあります。

      この裁判は、原発事故の避難区域や、福島県のそのほかの地域から群馬県に避難した人ら137人が、生活の基盤を失うなど精神的な苦痛を受けたとして、国と東京電力に総額、およそ15億円の慰謝料などを求めたものです。

      17日の判決で、前橋地方裁判所の原道子裁判長は、平成14年7月に政府の地震調査研究推進本部が発表した巨大地震の想定に基づき、国と東京電力は、その数か月後には巨大な津波が来ることを予測できたと指摘しました。

      また、平成20年5月には東京電力が予想される津波の高さを試算した結果、原発の地盤を越える高さになったことを挙げ、「東京電力は実際に巨大な津波の到来を予測していた」としました。

      そのうえで、東京電力の責任について、「事故の原因の1つとなった配電盤の浸水による機能の喪失を防ぐため、非常用の発電機を建屋の上の階に設けるなどの対策を行うことは容易だったのに行わなかった。原発の津波対策は、常に安全側に立った対策を取らなければならないのに、経済的な合理性を優先させたと言われてもやむをえない対応で、今回の事故の発生に関して特に非難するに値する」と指摘しました。

      また、国の責任についても、「東京電力に津波の対策を講じるよう命令する権限があり、事故を防ぐことは可能だった。事故の前から、東京電力の自発的な対応を期待することは難しいことも分かっていたと言え、国の対応は著しく合理性を欠く」として、国と東京電力にはいずれも責任があったと初めて認めました。

      そのうえで原告が受けた損害について、「放射線量の高まりや、避難の経緯などから、事故と関係があったかどうか個別に検討することが適切だ」として、自主的に避難した人たちを含む62人について、国と東京電力に3800万円余りの賠償を命じました。

      原発事故をめぐり、全国の18の都道府県で1万2000人余りが起こしている集団訴訟では、今回が初めての判決で、今後の裁判に影響を与える可能性もあります。

      菅官房長官「エネルギー政策に影響ない」

      菅官房長官は午後の記者会見で、「本日出された前橋地裁の判決について、詳細は十分に承知していないが、国の主張が一部認められなかったと聞いている。今後、関係省庁において判決内容を十分に精査し、対処方針を検討していく」と述べました。そのうえで、菅官房長官は、原発を含めた政府のエネルギー政策に与える影響について、「そこは無いと思う」と述べました。

      原子力規制庁「対処方針検討したい」

      今回の判決について、原子力規制庁は「国の主張の一部が認められなかったことは聞いているが、今の時点で詳細は十分承知していない。今後の対応については関係省庁とともに判決内容を確認のうえ、対処方針を検討したい」と話しています。

      廣瀬社長「判決文を精査したい」

      判決について、東京電力の廣瀬直己社長は17日の記者会見で、「判決文を読んでいないので詳しいことは言えないが、今後、どう対応していくか、判決文を精査してしっかり対応したい」と述べました。そのうえで、今後、福島第一原子力発電所の事故の賠償費用が膨らんでいく可能性については、「われわれは、損害があるかぎり、賠償はしないといけない。きょうの判決も重要だが、裁判はいくつも抱えている。今の金額以上はないとは考えていない」と述べました。

      同様の訴訟の原告「ふるさと喪失の評価十分ではない」

      福島県や神奈川県で同様の集団訴訟を起こしている原告らでつくる「原発被害者訴訟原告団全国連絡会」は、今回の判決を受けて、前橋市内で記者会見を開き、声明を発表しました。

      この中では、「国や東電の責任を認めたことは高く評価されるが、慰謝料の額は低いものでふるさと喪失に対する評価は十分なものとは考えにくい」としています。連絡会の事務局長で、福島県いわき市の佐藤三男さんは「避難している人への差別や偏見などの問題が起きているが、避難の大変さをわかってほしい。原発事故は、二度と起こしてはならない」と訴えていました。

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    2. 争点(1)東電の過失の有無

      今回の裁判では、津波の予測をめぐって、東京電力に民法上の過失があったかどうかが争点の一つとなりました。

      原告側は、津波は予測できたにもかかわらず、東京電力は原発事故を防ぐ必要な対策をとらなかった過失があると主張しています。その根拠として、平成14年に政府の地震調査研究推進本部が発表した「長期評価」では、三陸沖から房総沖にかけてマグニチュード8クラスの巨大地震が、30年以内に20%の確率で発生することが示されていたとしています。さらに平成18年に当時の原子力安全・保安院や電力会社が参加した勉強会で、福島第一原発については、14メートルを超える津波が来た場合、すべての電源を喪失する危険性があると示されていたとしています。こうしたことなどから、津波は予測できたにもかかわらず、東京電力は原発事故を防ぐ必要な対策をとらなかった過失があると主張しています。

      一方、東京電力は、国の専門機関が地震のあとに、「想定された規模を大きく上回る地震と津波だった」と評価していることから、津波を予測し、対策を行うことは不可能であり、過失はなかったと主張しています。

      争点(2)国の責任の有無

      もう一つの争点が、国に責任があったかどうかをめぐるものでした。

      原告側は、国も、東京電力と同様に平成14年に政府が発表した「長期評価」や、平成18年に国の原子力安全・保安院や電力会社が参加した勉強会の内容などをもとに津波を予測することはできたとしています。そのうえで、国は東京電力に対して、防潮堤を高くしたり、電源盤を高台に移したりするなど対策を指示する義務があり、原発事故の発生について責任を負わなければならないと主張しています。

      一方、国は、平成14年の「長期評価」は、あくまで阪神・淡路大震災を受けた防災目的のもので、原子力施設を想定したものではなく、原告側が「津波は予測できた」とする主張については、原発事故の発生について具体的な想定や試算をしたものではないとしています。さらに、「具体的な安全対策を指示するべきだった」とする原告側の主張については、原子力発電所の具体的な設計の変更を指示することは、そもそも国の権限としては認められていなかったとしています。

      争点(3)賠償額の妥当性

      さらに、今回の裁判では、避難者に支払われている賠償額が妥当かどうかも争点となりました。

      これまで東京電力は、国の審査会で示された指針に基づいて、避難指示区域の住民に1人当たり最大で1450万円を支払っているほか、自主避難した人には最大で大人に12万円、子どもと妊婦に72万円を賠償として支払っています。

      原告側は、これらの賠償には、住み慣れた家や仕事を失ったり、転校を余儀なくされたりしたことによる精神的な苦痛は含まれていないとして、現在の賠償の枠組みでは十分ではないと主張しています。さらに、避難指示区域の住民も、自主避難した人も、同様に精神的な苦痛を受けており、区別はできないとしています。

      一方、国と東京電力は、現在の賠償の枠組みで十分補償されていると主張しています。

      争点(4)自主避難の妥当性

      また今回の裁判では、避難指示区域外の住民の自主避難の妥当性も争点となりました。

      原告側は、放射線の被ばくに安全な線量は存在しないという、平成19年の国際機関の勧告を引用して、当時、福島県に住んでいた人が健康被害を予防するために避難することは合理的だったと主張しています。そのうえで自主避難をした人がそれまでの人間関係を断ち切られるなどして受けた精神的な損害については、現在の賠償の枠組みでは補償されておらず、不十分だとしています。

      それに対し、国と東京電力は、事故直後の混乱などから被ばくをおそれて避難することに一定の合理性は認められるとしていますが、避難指示区域内の住民と比べて精神的苦痛は少なく高額の賠償は認められないとしています。

      判断のポイント

      判決では、事前に巨大な津波が到来することが予測できていたのに、国と東京電力が津波に対する安全対策を取らなかったと、厳しく指摘しました。

      判決の中で、裁判所は三陸沖から房総沖にかけて、マグニチュード8クラスの地震が30年以内に20%の確率で発生することを示していた、平成14年7月の政府の「長期評価」を、原発の津波対策で考慮しなければならない合理的なものだとしています。

      そのうえで、東京電力については、長期評価が公表された数か月後には、地震によって非常用の電源設備が浸水するほどの津波が到来することは予測でき、平成20年5月には、予想される津波の高さを試算した結果、高さ15.7メートルの巨大な津波が到来することを実際に予測していたと指摘しています。

      さらに、こうした予測に基づいて、配電盤や非常用の発電機を高台に移すなどの津波対策をしていれば、原発事故は発生しておらず、こうした対策は期間や費用の点からも容易だったとしています。

      また、国については、平成14年の長期評価のあと、5年が経過した平成19年8月に東京電力から提出された原発の安全に関わる報告書に津波に関する記載がなかったことから、国は東京電力の自発的な対応を期待することは難しいと認識していたと指摘しました。

      そのうえで、裁判所は、国が東京電力に対して規制を行う権限に基づいて津波対策を行わせるべきだったのに、行わなかったことは著しく合理性を欠くと、国の対応についても厳しく指摘しています。

      賠償求める訴えは各地で

      原発事故で被害を受けた人たちは、各地で賠償を求める訴えを起こしています。

      6年前の福島第一原発の事故のあと、東京電力は、国の指針に基づいて福島県に住む人たちや県外に避難した人たちに賠償を行っていますが、裁判を通じて事故の責任を問う動きが広がっています。今回のように福島県から避難した人たちが、国や東京電力には対策を怠った責任があるとして賠償を求めている裁判のほか、福島県では、賠償に加え、放射線量を事故の前の状態に戻すよう求める裁判も起きています。

      件数は次第に増え、国や弁護団などによりますと、全国の少なくとも18の都道府県で29件の裁判が起こされ、原告は1万2000人余りに上っています。去年2月には全国の集団訴訟の原告たちが全国規模の連絡会を結成し、それぞれの裁判の情報を共有するなど連携して被害の救済を求めています。

      一方、国や東京電力は、事故を予測することはできなかったなどとして、各地の裁判で争っています。審理の進み方は異なっていますが、17日の判決以降、千葉地方裁判所や福島地方裁判所などでもことし中に判決が言い渡される見通しで、裁判所が今回のように原発事故の責任を認めるかどうか注目されます。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170317/k10010915341000.html

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  86. 「水俣病訴訟」あるいは「らい予防法廃止」のような長期戦になりそうだ…

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    1. 一生のうちに1回あるかないかのような地震や津波は、だれにも予想予測はもちろんのこと予知予見も不可能だろ。

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  87. 社説
    福島避難者判決 争いの長期化が憂慮される
    2017年3月20日6時2分

     東京電力福島第一原発事故について、国と東電の過失責任を認めた初の司法判断である。

     福島県から群馬県に避難した住民ら137人が慰謝料などを求めた裁判で、前橋地裁は国と東電に計約3800万円の賠償を命じた。

     未曽有の事故の重大性を改めて認識させる判決だと言えよう。

     事故の原因となった巨大津波は予見し得たのか。最大の争点について、判決は、予見可能性を明確に認め、事前の対策で事故は防げた、との見方を示した。

     東電は、2002年に国が公表した地震活動の長期評価を踏まえて、15メートル超の津波到来の可能性を推計した。判決が、事故を予見できたと認定した理由の一つだ。

     予見可能性については、専門家の間でも見解が分かれている。

     東電経営陣らに対する刑事告訴・告発を巡り、検察がいったん不起訴と判断した際には、地震学者への聴取結果などを基に、巨大津波の予見可能性を否定した。

     前橋地裁は、過失要件を緩やかに捉えて結論を導いた。予見可能性の認定で、民事と刑事のハードルの高さの差が如実に表れた。

     原子力災害の特徴について、判決は「侵害される法益が極めて重要で、被害者が広範に及ぶ」と指摘した。国に対しては、「規制権限の適切な行使による発生防止が期待されていた」にもかかわらず、行使を怠ったと批判した。

     原発事故の特殊性を重視した判断だと言える。

     憂慮されるのは、争いの長期化である。避難者らに対しては、国の原子力損害賠償紛争審査会の中間指針に基づいて、東電から賠償金が支払われている。損害の賠償を円滑に進めるための目安として機能してきた。

     東電との交渉や裁判外紛争解決手続き(ADR)を経て、既に賠償を受けている住民は多い。

     前橋地裁は、原告の62人について、賠償金の上積みを命じた。避難指示区域に住んでいた住民以外に、区域外から自主避難した人たちも含まれている。

     全国で提起された同種の集団訴訟は、前橋地裁を含めて28件に上る。今回の判決を機に、ADRなどで和解したケースでも、訴訟が提起される可能性は否定できまい。司法判断が新たな争いにつながる事態は避けたい。

     重大事故が起きた以上、国と東電には、被害者の生活を支える責任があるのは言うまでもない。慰謝料とは別に、就業など個々の事情に応じた対応が求められる。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170319-118-OYT1T50123

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  88. 自主避難者約8割 戻らない意向
    03月21日 20時28分 NHK福島 NEWS WEB

    原発事故による避難指示区域以外から避難しているいわゆる「自主避難者」に、住宅の無償提供が無くなる来月以降の住まいについて福島県が調査したところ、県外に避難している人のうちおよそ80%が、県内には戻らず避難先に住む意向であることがわかりました。
    福島県は、いわゆる「自主避難者」に対する借り上げ住宅などの無償提供の支援を今月で終了することにしていて、これを前に、避難している人たちに意向調査を行いました。
    それによりますと、県外に避難している4673世帯のうち、79.6%は避難先に、17%は元の自治体に住まいを確保するとしています。
    一方、県内に避難している4010世帯では、23.7%が避難先に、66.7%が元の自治体に住まいを確保するとしていて、県外避難者と県内避難者で傾向が逆になっています。
    この結果について、福島県生活拠点課は「遠くに避難した人は、放射線への不安が払拭できないことや、福島から離れた地での生活が定着したのだと思う。福島に戻らなくても、情報提供などの支援を継続していきたい」と話しています。
    また、まだ227世帯が来月以降の住宅が決まっていないと回答したということで、県では、「住む場所が無くなることがないよう住宅情報の提供などを続けていく」としています。
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054809261.html

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    1. 試験的な漁「すべての魚介類」に
      03月21日 20時28分 NHK福島 NEWS WEB

      福島の漁業の復興について関係者などが意見を交わす協議会がいわき市で開かれ、福島県沖で行われている試験的な漁の対象となっている魚介類について、これまでの表示方法を改め、出荷制限が続いているものを除く「すべての魚介類」とすることが承認されました。
      いわき市で開かれた協議会には漁業関係者や行政の担当者など20人あまりが出席しました。
      このなかで県漁連の担当者が、試験的な漁の対象が97種類に増える一方で、出荷制限が続いているものは12種類に減っていることや、放射性物質の検査で1キロあたり100ベクレルという国の食品の基準を超える魚介類がおととし4月以降、出ていないことを踏まえ、試験的な漁の対象の魚介類の表示方法の変更を提案しました。
      具体的には、これまで「安全性が確認された魚種」としてきたものを、消費者の理解が進むよう、「すべての魚介類」とした上で「出荷制限魚種を除く」と併記するとしています。
      出席者からは、「これを機会に福島の魚の安全性をよりいっそうアピールすべきだ」といった意見が出され、全会一致で承認されました。
      このほか21日の会議では、いわき地区での魚の卸売について、これまでの小名浜魚市場に沼ノ内と勿来の魚市場も加えてあわせて3か所とし、震災前に行っていた競りや入札を再開することも承認されました。
      これらの変更は今月29日に開かれる漁協の組合長会議で正式に決まります。
      県漁連の野崎哲会長は「これまでのように列挙するより消費者も理解しやすいし、安全性をより強調できるのではないか。魚市場の拡大も含めて被災前の状況を少しずつ取り戻すことで、本格的な漁の再開に向けた課題の解決につなげたい」と話しています。
      http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054748971.html

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  89. 福島 葛尾村 避難の牛が約6年ぶりに戻る
    3月22日 12時41分

    去年6月、一部の地域を除いて、原発事故の避難指示が解除された福島県葛尾村で、隣の市に避難させていた牛たちがおよそ6年ぶりに村に戻りました。

    震災前、100軒ほどが畜産業を営んでいた福島県葛尾村では、原発事故のあと、全村避難となりました。これに合わせて、村は、隣の田村市に130頭近い牛を避難させていましたが、22日、およそ6年ぶりに、6頭がトラックに乗せられて村に戻りました。

    下枝初恵さんは、去年6月に避難指示が解除されたあと、3か月かけて畜舎の清掃や修繕をして、牛を迎える準備を進めてきました。22日は、戻ってきた牛を早速、畜舎に入れて、世話をしていました。

    避難したとき子どもだった牛は、今月末に出産を控えているということです。

    下枝さんは、「この牛を避難させたときのことを思い出すと、今でも涙が出ますが、これから牛たちと一緒に震災前の落ち着いた暮らしをしていきたい」と話していました。

    葛尾村には、今月中に50頭余りの牛が戻ってくる予定で、4軒の農家が、畜産を再開するということです。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170322/k10010920151000.html

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  90. 原発事故のために避難せざるをえなかった場所が、はたしてほんとうに事故前の放射線規制基準でいられる場所に復帰できたといえるのだろうか…

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  91. 英原子力事故 廃炉に163年
    2017年3月23日15時0分

     事故を起こした原子力施設の廃止作業は、世界共通の課題だ。英国北西部のセラフィールドにある複合原子力施設は、約70年の歴史の中で数多くの事故やトラブルを経験してきた。英国原子力廃止措置機関(NDA)主催の日本の廃炉関連企業を対象とした視察に同行し、作業の様子などを取材した。(江村泰山)

     

     施設を一望できる高台に立つと、直径14メートル、高さ125メートルの巨大な煙突が見えた。1957年に、国際原子力事故評価尺度(INES)でレベル5の火災事故が起きたウィンズケール原子炉だ。発電所ではなく、核兵器に使うプルトニウムを製造する軍事用原子炉で、現在は汚染した煙突の解体に向けた準備作業が進められている。

     事故発生から既に60年だが、同施設を運営するセラフィールド社のロジャー・カウトン渉外本部長は「原子炉建屋には核燃料が残っていて、解体の方法はまだ決まっていない」と語る。廃炉作業終了の目標は、今から約100年後の2120年。事故から廃炉まで、163年かかる計算だ。

     2011年に事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所は、1~3号機の3基で炉心溶融(メルトダウン)が起き、INESの評価は最悪のレベル7。それでも、事故から40年後の51年までに廃炉作業を終えることを目標にしている。ウィンズケールと福島では、時間の感覚がだいぶ違うように感じた。

     セラフィールドの約6平方キロ・メートルの敷地には、原発や核燃料の再処理工場、ウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料の製造工場など、200を超える原子力関連施設があり、英国全体の年間廃炉費用約30億ポンド(約4200億円)のうち、約7割がセラフィールドに投入されている。

     再処理工場の使用済み核燃料プールのうち最も古いものは1950年代に造られ、屋根が付いていない。放射性物質を含んだ汚泥約1500立方メートルが底にたまっており、原子力黎明れいめい期の負の産物として「レガシーポンド(遺産の池)」と呼ばれている。

     見学はできなかったが、このプールに無人潜水ロボットを入れ、汚泥の一部を回収することに成功しているという。福島第一原発も、原子炉建屋の地下などに、大量の放射性物質を含む汚泥がたまっている。東電はセラフィールド社の知識や経験を活用しようと、2014年に同社と情報共有についての協定を結んだ。

     NDAのプログラム統括本部のナイジェル・ロー本部長は、「英国は試行錯誤を繰り返しながら経験を積んできた。私たちの技術は、他国でも役に立つはずだ」と述べた。

     

    セラフィールド 事故や問題度々

     セラフィールドの施設ではこれまで、様々な事故やトラブルが起きている。

     1957年のウィンズケールの事故は、原子炉の空気冷却がうまくいかず天然ウランと黒鉛が炎上、放射性ヨウ素が大気中に放出された。INES評価のレベル5は、79年の米スリーマイル島原発事故と同じ。

     再処理工場は80年代までの30年間にわたり、大量の放射性物質を海にたれ流していた。

     MOX燃料工場では99年、当時の英国核燃料会社(BNFL)の職員が、関西電力高浜原発(福井県)向けの燃料の品質データを改ざんしていたことが発覚。日本が予定していたMOX燃料を使うプルサーマル計画に、大幅な遅れが出た。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170323-118-OYTPT50213

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  92. 土かぶせて盛って放置するのが一番カネのかからない賢明な方法に思えてならない。

    まともにやると、いつまでも「完了しないミッション」になること必至…

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  93. 雄勝地区唯一の青果店が閉店
    03月26日 19時31分 NHK東北 NEWS WEB

    東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた石巻市雄勝地区で、震災のあとに営業を続けてきた唯一の青果店が、復興の遅れなどを理由に店を閉め、地元の人たちが閉店を惜しみました。
    閉店したのは、石巻市雄勝地区の仮設商店街にある青果店、「八百清」で、26日は、店主の佐藤美千代さん(67)が小学生の孫たちと店を閉める作業を行いました。
    佐藤さんは、6年前の震災の津波で自宅を兼ねる店舗が流され、海に近い仮設商店街で、地区で唯一の青果店として営業を続けながら、集団移転先の高台での再建を目指してきました。
    しかし、雄勝地区の人口は震災の前の4分の1に減り、売り上げは、1日数千円にとどまることも少なくない中で、おととし、店を一緒に切り盛りしてきた夫を病気で亡くしました。
    さらに、集団移転先の高台の整備は復興の遅れでメドが立っていないことから、佐藤さんは店を閉める決断をしました。
    佐藤さんは、最後にみずから店の看板を外して、青果店の46年の歴史に幕を下ろしました。
    佐藤さんは、「地元の皆さんに支えられ営業を続けられましたが、人口が戻らず厳しかったです。『震災さえなければ』とか、『もっと復興が早ければ』と思いますがもう限界でした」と話していました。
    26日は地元の常連客の人たちが佐藤さんをねぎらおうと訪れ、閉店を惜しみ、高台で年内に住宅を再建する68歳の女性は、「地元の人たちがようやく地元に戻り生活を始める中、青果店がないのは困りますが、一生懸命頑張ってきたのでお疲れ様でしたと伝えたい」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/tohoku-news/20170326/5017011.html

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  94. 知事「帰還者のため環境整備を」
    03月27日 16時07分 NHK福島 NEWS WEB

    原発事故の影響で出されていた避難指示が、今週県内の4つの自治体で一部を除いて解除されることに関連し、内堀知事は、帰還する人たちのため、生活環境の整備に力を入れていく考えを重ねて示しました。
    東京電力福島第一原発の事故で、浪江町と飯舘村、それに川俣町に出されている避難指示は一部を除いて、今月31日に解除されるほか、翌日の来月1日には、富岡町でも避難指示の大部分が解除されます。
    これに関連し、内堀知事は27日の定例の記者会見で、「比較的早い段階でふるさとに戻られる方がいる一方で、どのタイミングで戻ろうかと迷ったり、戻らないと決めたりするなど、悩んでいる方が多いと思う」と述べました。
    その上で、内堀知事は、「避難指示の解除は、あくまでも復興のスタートラインであり、それをもって『帰りなさい』ということではない。より安心して、ふるさとに戻ってもよいと思える環境を作っていくことが重要だ」と述べ、帰還する人たちのために、医療機関や商業施設など生活環境の整備に力を入れていく考えを重ねて示しました。
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6054136231.html

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  95. 【原発事故】福島の4歳の子供が甲状腺ガンと検診されていたのになぜか報告されず 隠蔽していた疑いも
    http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1490877391/

    【原発事故】福島で甲状腺がん多発!行政の「がん多発は原発被曝と関係ない」という主張のデタラメ
    http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1489289286/

    「甲状腺」のニュース
    http://www.2nn.jp/word/%E7%94%B2%E7%8A%B6%E8%85%BA

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  96. 福島県内の3町村 一部地域除き避難指示解除
    3月31日 0時04分

    東京電力福島第一原子力発電所の事故で、福島県の浪江町と飯舘村、それに川俣町の山木屋地区に出されていた避難指示が、31日に一部の地域を除いて一斉に解除されました。来月1日に解除される富岡町を合わせると、避難指示が出ている区域の面積は、最大時の3分の1まで縮小することになります。

    政府は、宅地などの除染が終わり生活環境が整ったとして、31日午前0時、福島県の浪江町と飯舘村の、放射線量が比較的高い帰還困難区域を除く地域、それに川俣町山木屋地区に出していた避難指示を解除しました。

    対象となる住民は、3つの町と村を合わせて2万2000人余りで、このうち浪江町は1万5000人余りと、これまでに解除された自治体で最も多くなっています。

    内閣府によりますと、この3つの町と村で、帰還に向けた生活再建のための準備宿泊を登録している人は1300人余りで、避難指示の解除が進んでも放射線や生活環境への不安から多くの住民のすぐの帰還は見通せていません。

    原発事故に伴う避難指示は、多いときで福島県内の11の市町村に出されましたが、これまでに、田村市、川内村、楢葉町、それに帰還困難区域を除く葛尾村と南相馬市で解除され、今回で8つの自治体で解除されたことになります。

    来月1日は、富岡町の大部分でも避難指示が解除され、福島県内に残る避難指示区域は、大熊町と双葉町をはじめ7つの市町村の帰還困難区域など、合わせて369平方キロメートルとなり最大時の3分の1まで縮小します。

    福島県内の避難の状況は

    福島第一原発の事故で、福島県内では、多いときで11の自治体に避難指示が出されていましたが、3年前の4月に田村市都路地区で、10月には川内村の一部の地区で解除されました。さらに、おととし9月には、楢葉町で、役場とすべての住民が避難していた自治体としては初めて解除され、去年は6月に葛尾村の大部分と川内村の残りの地域、7月には南相馬市の小高区など大部分の地域の避難指示が解除されました。
    今回、浪江町と飯舘村の帰還困難区域を除く地域、それに、川俣町山木屋地区が加わり、8つの自治体で避難指示が解除されたことになります。

    政府は原発事故による福島県内の避難指示について、帰還困難区域を除いて、今月までの解除を目指してきましたが、来月1日の富岡町の解除も合わせると、ほぼ実現されることになります。

    一方、避難指示の解除が進んでも、放射線や生活環境への不安などから多くの住民のすぐの帰還は見通せず、戻った住民の割合は今月初め時点で、楢葉町で11.1%、葛尾村で8.8%などとなっています。

    県や復興庁のまとめでは、避難を続けている人は今月27日時点で、7万7000人余りに上っていますが、1年前に比べるとおよそ2万人減っていて、避難先での定住や災害公営住宅への入居も進んでいると見られます。

    戻って来る住民が限られ、十分な税収なども見込めない中、避難指示が解除された自治体は、今後も生活基盤の整備や住民サービスの維持、それに高齢化や人口減少への対応など、多くの課題で難しいかじ取りを迫られることになります。

    浪江町の課題

    浪江町は福島県沿岸部の双葉郡にあり、役場を含めた町の広い範囲が福島第一原発から20キロの範囲に入っています。

    震災前は漁業や商業が盛んで、当時の人口は2万1000人余りと、双葉郡の8つの町と村の中で最も多く、200以上の店があった中心部の商店街は多くの人でにぎわっていました。

    浪江町は6年前、地震と津波、原発事故という複合災害の被害を受け、182人の死者と行方不明者が出たうえ、国や東京電力から原発の情報が十分届かない中で、すべての住民が全国各地に避難しました。

    その後、町は避難指示の解除を目指して、除染やインフラの復旧を進め、飲食店や生鮮食品の販売店が入る仮設の商店街、それに、新しい町立の診療所を役場の近くに設けるなど、帰還する住民の生活基盤の整備に力を入れてきました。

    また、地元の請戸漁港では、町の外に避難させていた20隻余りの漁船が、2月に6年ぶりに戻り、コウナゴの試験的な漁も始まっています。

    しかし、去年9月に行われた意向調査で「町に戻りたい」と答えた住民は17%にとどまり、52%が「戻らない」と答えていて、町は3月、多くの住民が避難する二本松市にも新たに仮設の診療所を整備し、町内と避難先の2つの診療所を運営せざるをえない状況に置かれています。

    さらに今回、避難指示が解除されたあとも、浪江町は、およそ180平方キロメートルと、県内の自治体で最も広い帰還困難区域を抱えていて、町の中心部の復興や避難を続ける住民のケアとともに、残された山間部の除染や復旧をどう進めるかも課題になっています。

    飯舘村の課題

    飯舘村は人口6000人余りの自然豊かな村で、福島第一原発からは北西におよそ40キロ離れていますが、6年前の原発事故で飛散した放射性物質によって、比較的高い放射線量が計測され、およそ1か月後に全域が計画的避難区域になりました。

    当時、村は近くの自治体で避難先の確保を図ったこともあり、近隣の福島市、伊達市、川俣町の3つの自治体に、村の住民のおよそ8割が避難しています。

    今回の避難指示の解除で、帰還困難区域の住民を除くおよそ5800人が、希望すれば村に戻れるようになりますが、住民の帰還に向けては多くの課題があります。

    1つは放射線への不安の解消で、住宅や農地などの生活圏の除染はほぼ完了したものの、村の面積のおよそ75%を占め村民の生活の一部だった森林については除染が行われておらず、不安の声が上がっています。

    また、医療や介護の環境整備も課題で、村では去年9月に診療所が再開されましたが、戻る住民の多くは高齢者とみられ、自宅から診療所に通う交通手段の確保も求められます。
    村の唯一の介護施設は人手不足のため入所者のケア以外のデイサービスや訪問介護を休止している状態で、村は近隣の自治体の事業所に参入してもらえないか調整を進めています。

    さらに、住民の帰還に向けては、基幹産業だった農業の再生も欠かせませんが、現段階で営農の再開を予定しているのは震災前の4%に当たる50件余りで、再開に向けた支援策や使われない農地の保全も課題になっています。

    来年4月には、村内で小学校や中学校などが再開される予定で、若者や子育て世代がどれだけ戻るかも村の将来に影響します。

    ことし1月に復興庁などが行った住民の意向調査では、将来的な希望を含め34%が村に戻りたいと答えていて、帰還を望む住民が早期に戻れるよう、村は引き続き生活環境の整備を進めることにしています。

    川俣町山木屋地区の課題

    川俣町は原発事故のおよそ1か月後、浪江町や飯舘村に接する南部の山木屋地区が計画的避難区域になりました。

    先月末時点で548世帯1156人が避難していて、このうち200人余りは町内の仮設住宅で暮らしています。

    避難している住民を対象に、国などが行った意向調査では、44%が「戻りたい」と回答していて、帰還に向けた準備のための宿泊には55世帯150人が登録しています。

    ただ、帰還に向けた環境は十分には整っておらず、町が復興の拠点と位置づける商業施設は、ことし6月のオープンに向け、まだ建設が続いています。

    また、帰還する住民は当面、高齢者が中心になると見られ、現在、週2回の開所にとどまっている診療所の拡充など、医療や介護の整備が大きな課題になっています。

    基幹産業の農業も、除染で出た廃棄物の仮置き場が農地に点在していることもあって、本格的な再開の見通しが立っておらず、町は住民に農地の管理などを担ってもらい、将来的に地域で営農再開を進めるリーダーになってもらえるよう支援することにしています。

    さらに、山木屋地区と県沿岸部の浜通りを結ぶ国道114号線が、東隣の浪江町にある帰還困難区域で通行止めになっていることから、通行再開を国に働きかけて、人の行き来を増やし活性化を図りたいとしています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170331/k10010931641000.html

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  97. [震災6年]帰還 待ちわびた…避難解除
    2017年3月31日5時0分

     東京電力福島第一原発事故から6年。31日、4月1日に避難指示が解除される福島県の4町村へ、待ちわびた人たちがそれぞれの思いを胸に帰還する。生活環境の整備もまだ十分ではない古里で、住民たちは復興に向けて動き出す。

    逆境覚悟 老舗守る…飯舘

     飯舘村の住宅街・飯樋いいとい地区で、うどん店「ゑびす庵」を再開させる高橋義治さん(70)、ちよ子さん(68)夫婦は30日、1週間かかった引っ越し作業をほぼ終えた。4月下旬の営業再開を目指している。

     原発事故当時、村で一番の老舗といわれた飲食店。義治さんの両親が60年前に創業し、コシの強い麺と濃いめのつゆが評判を呼んだ。郵便局員だった義治さんの退職後は夫婦で自慢の味を受け継ぎ、守ってきた。

     原発事故の後、夫婦は福島市に避難。店は諦めていたが、なじみの客たちが「あの味をもう一度食べたい」と言ってくれた。2011年7月、市内で開いた店は、掲げた「飯舘村いこいの家」の看板の通り、古里を離れた村民らでにぎわった。

     店は軌道に乗ったものの、義治さんは古里への思いを抱え続けてきた。避難指示解除の政府決定が出て、事前宿泊が始まった昨年7月以降も、帰還の動きは鈍い。村民は事故前に6500人いたが、現在の事前宿泊登録者は400人ほどだ。診療所は診療日数を減らし、薬局も閉まったまま。田んぼには、除染で出た汚染土が積み上がる。

     福島市に中古住宅も買っていたし、村ではもうけも見込めない。それでも、義治さんは戻ろうと思った。「避難指示が解除されても、飯が食えて酒が飲める場が一つもないなんてさみしいだろ」。15年の秋。夫の言葉に、ちよ子さんは優しくうなずいた。

     逆境覚悟で踏み出せたのは、「うれしい誤算」があったからかもしれない。大学進学以降、東京で暮らしていた次男の均さん(43)が11年9月、心配して戻ってきてくれた。均さんはうどんづくりも学んだ。父子が打った麺を母が調理する。そんな毎日に変わった。

     福島市での生活も長くなり、均さんはひとまず同市に残るが、村で再スタートする店に通い、後を継いでくれそうだ。高橋さん夫婦は30日、店内でおわんを並べて顔を見合わせた。「いよいよって感じだな」「年齢に負けず頑張らなきゃね」

    あの桜と暮らしたい…富岡

     福島県いわき市に避難していた宗像アキ子さん(77)は数日前、夫誠政のぶまささん(76)と富岡町の自宅に戻った。自宅は、町の名所・夜の森地区の桜並木のすぐ近く。子供の頃から大好きな場所だった。10年前からは、花見客を迎える「さくら案内人」も務めてきた。

     原発事故後、誠政さんと長女家族の計5人で栃木県栃木市に身を寄せた。中古の家を買ったものの、桜を見るたびに胸が痛んだ。やっぱり、あの桜並木のそばで暮らしたい――。長女家族と離れ、誠政さんと2人で13年秋、いわき市の仮設住宅に移住。富岡まで通えるようになったが、一人では桜の世話も十分にはできなかった。率先して町に戻り、仲間に帰還を呼び掛けようと思っている。4月1日、桜並木は7年ぶりにライトアップされる。「今年もきれいに咲けるよね」。アキ子さんは、つぼみをつけた古木に語りかけている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170331-118-OYTPT50145

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    1. [震災6年]ただいま、故郷…浪江・飯舘・川俣 避難解除
      2017年3月31日15時0分

       東京電力福島第一原発事故に伴う避難指示が31日午前0時、福島県浪江町と飯舘村の帰還困難区域を除く地域、川俣町山木屋地区で一斉に解除された。当初11市町村に設けられた避難指示区域は約3割を残すのみとなり、原発事故からの復旧復興は新たな段階へ入った。この日、3町村では記念式典や役場の訓示などが行われ、住民たちが復興に向けて一歩を踏み出した。

      各地で式典「ゴールでなくスタート」

       浪江町では、震災の犠牲者に避難指示解除を報告するとともに、日の出に町の新しい出発を誓うイベントが催された。

       場所は、津波で流失した共同墓地を海岸から約1・5キロ移転した高台の大平山霊園。夜明け前に集まった町民約30人は、午前5時半頃に光が差し込み太陽が姿を現すと、津波と地震の犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑に向かって黙とうした。

       町内の知人宅に泊まって解除の朝を迎えた電器店経営の阿久津雅信さん(46)も復興を願った。阿久津さんは事務所を町内に構えたが、自宅は解体した。妻と小学生の子供2人は宮城県岩沼市に避難中。自身も福島県南相馬市で一人で避難生活を続けるが、仮設商店街やイベントで、なみえ焼そばを作り、町の復興をアピールしてきた。阿久津さんは「新しい浪江の第一歩を感じる。帰還困難区域もあり、町の復興はこれから」と話した。

       「浪江の家が見たい」と願う子供を連れて、避難先のいわき市から訪れた人もいた。浪江町出身の会社員男性(39)は、小学5年生の次男(11)と共に自宅を訪れ、農地や山が広がる2階からの景色を久しぶりに眺めて、「来られてよかった」と声を弾ませた。

       次男は避難中ずっと「浪江に帰りたい」と話していた。「解除されたら見に行こう」と約束し、男性も会社を休んで朝から連れてきた。だが、自宅は傷み、解体することが決まっている。男性は「周りの人も戻らず、子供の帰還への思いは複雑だ」と唇をかみしめた。

       飯舘村では、村交流センターで帰還した村民を歓迎する式典が午前10時から始まった。村民約300人が集まり、菅野典雄村長が「これはゴールではなく、復興のスタート」と笑顔で話した。

       山木屋地区だけが避難指示区域として残されていた川俣町の役場では、佐藤金正かねまさ町長が職員約100人を前に訓示。山木屋出張所長に就任する総務課の新関明にいぜきあきらさん(49)は「商業施設の再開も予定している。住民が集まりやすい環境を整えていきたい」と話した。

       この日の3町村の解除で、川俣町は全ての避難指示が解除されたが、浪江町と飯舘村では面積の約4割が帰還困難区域として残っている。富岡町は4月1日午前0時に解除される。

      避難区域の除染終了…国直轄 費用1・3兆円、1300万人作業

       東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の除染について、環境省は31日、福島県の帰還困難区域を除く避難指示区域で、同日までに作業を終えたと発表した。2017年度からは、帰還困難区域の除染にとりかかる。

       政府は事故後、同県内で放射線量が高く、避難指示が出された11市町村で「除染特別地域」を指定。同省が12年1月以降、年間被曝ひばく線量が50ミリ・シーベルトを超える帰還困難区域以外の住宅、道路や農地などで、放射性物質が付着した土や草などを取り除いてきた。16年3月には、17年3月末までの作業終了を目指す方針を閣議決定した。

       同省によると、11市町村では、住宅2万2000件、農地8200ヘクタール、道路1400ヘクタール、住宅に近い森林について5800ヘクタールで作業を終えた。国直轄の除染費用は累計1・3兆円にのぼり、延べ約1300万人が作業に関わった。

       除染で放射線量が低減したとして、川俣町と浪江町、飯舘村で31日午前0時に避難指示が解除され、4月1日午前0時には富岡町で解除される。今後、線量が下がらなかった箇所では追加除染を実施。帰還困難区域では17年度から、道路などのインフラ整備と並行して除染を進める。

       一方、国が直轄で除染する避難指示区域以外で、同県内の自治体が国の費用負担で実施する除染では、道路や森林での作業が遅れている。同省によると、福島、郡山市など12市町村で、終了が4月以降にずれ込むという。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170331-118-OYTPT50394

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  98. まず認識しておかねばいけないことは、一度壊れてしまったものは元通りにはならないということ…

    そこから逃げてはならない、思考停止思考放棄してはいけない。

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  99. 避難指示区域の除染終了…累計費用1・3兆円
    2017年3月31日17時46分

     東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の除染について、環境省は31日、福島県の帰還困難区域を除く避難指示区域で、同日までに作業を終えたと発表した。

     2017年度からは、帰還困難区域の除染にとりかかる。

     政府は事故後、同県内で放射線量が高く、避難指示が出された11市町村で「除染特別地域」を指定。同省が12年1月以降、年間被曝ひばく線量が50ミリ・シーベルトを超える帰還困難区域以外の住宅、道路や農地などで、放射性物質が付着した土や草などを取り除いてきた。16年3月には、17年3月末までの作業終了を目指す方針を閣議決定した。

     同省によると、11市町村では、住宅2万2000件、農地8200ヘクタール、道路1400ヘクタール、住宅に近い森林について5800ヘクタールで作業を終えた。国直轄の除染費用は累計1・3兆円にのぼり、延べ約1300万人が作業に関わった。

     除染で放射線量が低減したとして、川俣町と浪江町、飯舘村で31日午前0時に避難指示が解除され、4月1日午前0時には富岡町で解除される。今後、線量が下がらなかった箇所では追加除染を実施。帰還困難区域では17年度から、道路などのインフラ整備と並行して除染を進める。

     一方、国が直轄で除染する避難指示区域以外で、同県内の自治体が国の費用負担で実施する除染では、道路や森林での作業が遅れている。同省によると、福島、郡山市など12市町村で、終了が4月以降にずれ込むという。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170331-118-OYT1T50120

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  100. 佐藤竹善 - 生まれ来る子供たちのために
    https://www.youtube.com/watch?v=v1LPXgDPbwA

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  101. 4歳児のがん報告されず 報告対象広げるか議論へ
    3月31日 5時28分

    原発事故のあと福島県が行っている甲状腺検査で、事故当時4歳の子どもががんと診断されたのに専門家の委員会に報告されていなかった問題で、現在の仕組みでは、委員会への報告の対象になっていなかったことから、今後、報告すべき対象を広げるか議論が行われる見通しです。

    この問題は、原発事故のあと、福島県が福島県立医科大学に委託して、事故当時18歳以下の子ども38万人を対象に行っている、甲状腺検査のあと、これまでの最年少となる当時4歳の子どもががんと診断され、県立医科大学で甲状腺を摘出していたのに、健康への影響を検証する専門家の委員会に報告されていなかったものです。

    現在の仕組みでは、県の検査のあと、継続して推移を見守る経過観察で、がんと診断されたり、別の医療機関に移ってがんが見つかったりしたケースは報告の対象になっていませんでした。

    これについて、委員会の複数の委員がNHKの取材に対して、個人情報などに配慮したうえで、こうしたケースも報告し、検証の対象として公表されるべきだという考えを示しています。

    また、福島県も委員会の議論を踏まえて報告の対象を検討する意向を示していて、今後、現在の仕組みを見直して報告すべき対象を広げるか議論が行われる見通しです。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170331/k10010931591000.html

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  102. 福島県、住宅の無償提供打ち切り
    自主避難者は反発
    2017/3/31 17:54

     福島県は、東日本大震災や東京電力福島第1原発事故に伴い全国に自主避難した人らへの住宅の無償提供を31日で打ち切った。古里への帰還を促す狙いだが、4月以降の新たな住まいが決まっていないケースもあり、避難者は反発している。

     県によると、打ち切りの対象は、原発事故の避難指示区域外からの自主避難者や、地震や津波に被災して仮設住宅で暮らす計1万524世帯、2万6601人(昨年10月末時点)。避難先は45都道府県に及ぶ。

     福島県は打ち切り後の支援策として、民間賃貸住宅に避難を続ける場合、所得が一定以下なら2019年3月まで家賃を一部補助する。
    https://this.kiji.is/220465962887153144

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  103. 福島 富岡町 避難指示の大部分が解除
    4月1日 0時08分

    東京電力福島第一原子力発電所の事故で、福島県富岡町の全域に出されていた避難指示の大部分が4月1日、解除されました。

    福島県富岡町の全域に出されていた避難指示について、政府は、宅地などの除染が終わり生活環境が整ったとして、放射線量が比較的高い帰還困難区域を除いて1日午前0時に解除しました。

    原発事故に伴う避難指示がこれまでに解除された自治体は、田村市、川内村、楢葉町、葛尾村、南相馬市、それに31日に解除になった浪江町、飯舘村、川俣町に続いて9つ目となります。

    これによって、多い時で福島県内の11の市町村に広がっていた避難指示区域は、大熊町や双葉町をはじめとする7つの市町村の帰還困難区域など、合わせて369平方キロメートルとなり、最大時の3分の1まで縮小しました。

    富岡町で解除の対象となった住民は9500人余りですが、帰還に向けた生活再建のための「準備宿泊」を登録している人はおよそ350人で、復興庁などが去年行った意向調査でも、町に「戻りたい」と回答した住民は16%にとどまっています。

    町は、避難指示の解除に先立って商業施設や診療所をオープンさせるなど生活環境の整備を進めてきましたが、今後も住民の帰還に向けた産業の復興や帰還困難区域の除染、それに避難を続ける住民への支援の継続などが課題となります。

    富岡町の課題

    富岡町は福島県の沿岸部、浜通り地方のほぼ中心にある人口1万3000人余りの町で、東京電力福島第二原発が立地しています。

    東日本大震災と津波、それに原発事故による複合災害に見舞われ、死者と行方不明者は合わせて24人に上ったうえ、第一原発からほぼ10キロの圏内にある町の全域に避難指示が出されました。

    原発事故直後に十分な情報が得られない中、すべての住民が各地に避難を強いられ、避難先は、県内を含む全国47都道府県のほか、海外にまで分散しています。

    復興庁や町などが去年8月に行った意向調査では、避難指示の解除後に、町に「戻りたい」と答えた住民は16%にとどまりました。

    避難指示解除の対象となる住民は9500人余りで、希望すれば町に戻れるようになりますが、多くの帰還が望めない中、産業の復興や税収の確保などが課題になっています。

    こうした中、町は住民の帰還を促そうと、生鮮食品を扱うスーパーやドラッグストアなどが入る大型の複合商業施設を避難指示の解除前にオープンさせました。

    また、当面の間、第一原発の廃炉や避難区域の除染に携わる企業を誘致し、作業員の宿舎に町内の空きアパートを活用してもらい、にぎわいや税収の確保などにつなげようとしています。

    さらに、県内有数の桜の名所で、震災前は毎年春に10万人以上の人出があった夜の森地区の花見のイベントを、4月に7年ぶりに再開しますが、桜並木全体のおよそ8割は今も、原則立ち入りができない帰還困難区域にあるため、速やかに除染を行うよう国に求めています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170401/k10010933171000.html

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    1. 心理的にも身体的にも、安心して子供を産んで育てられる場所なのか?

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  104. 「原発事故」でいっきに「限界集落」化…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E9%99%90%E7%95%8C%E9%9B%86%E8%90%BD

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